B型男、記す


 血液型占いAtoZ
2004.12.02

 
 最近、どういうわけか血液型占いに関する話題をあちこちで見聞きします。他愛の無い世間話の中でだったり、テレビ番組だったり、あるいは都市伝説がらみの話題の延長だったり。「血液型占い」だとか「血液型別性格判断」だとかいうものは、今のところは疑似科学の範疇に属するものであり、言って見れば都市伝説のお仲間のようなものです。そんなこんなで、過去に掲示板で軽く話題になった事もありましたし、サイト内でネタとして扱おうとした事もありました。血液型占いのノウハウについて記した本(以下肯定派)と批判本(以下否定派)のネタ本をそれぞれ1冊ずつ用意したのですが、それをある程度読み進め、自分なりにまとめたところでその企てを断念してしまいました。何と言うのか、ネタ本(特に否定派の本)の毒気に当てられたのです。血液型によって人の性格を判断しようと言う試みを肯定的に捉える事はできませんが、バリバリの否定派にもちょっとついていけないかもしれません。否定派には、「科学万能の時代に淫祠邪教が蔓延るのは、血液型占いのような疑似科学が大手を振っているからだ」とでも言わんばかりの本すらあります。

 「血液型占い」と言うと、一昔前、70年代から80年代にブームの頂点を迎えたものというイメージがありますが、その起源はそこからさらに50年ほど前にまで遡る事ができます。これは、元々は極めてアカデミックな議論でした。もちろん最初期は占いなどと言う能天気なものではありませんでしたが、アカデミズムに端を発する論争であるためか、その系譜につらなる「占い」に関する議論も、極めて熾烈にして複雑怪奇な様相を呈しているようなのです。どうやらこの論争に参加する論客たちは、目には見えねど確かに血を流して戦っている様子。この種のドロドロとした争いの雰囲気が苦手なため、書きかけの草稿はほったらかしになり、そしてそれから半年あまりが経ちました。時間をおいて腹が据わって来たこともあるのか、今回は一度はお蔵入りしかかったネタに決着を付けてみようかと思った次第です。文中、「血液型占い」「血液型と性格」などと表現が揺れていますが、双方の領域に跨る辺りに今回の主題があるとご理解ください。

 とりあえず近場の図書館で「血液型」に関する本を検索してみると、名古屋市図書館では144タイトルがヒットしてきました。一通り目を通し、それらのタイトルから判断して、144の本を血液型占い・血液型別性格判断に対するスタンスごとに分類すると、そもそもそれらと別次元で血液型のことを扱ったと思しき本が13、批判・検証本らしきものが4、それ以外は全て肯定的に血液型占いを扱ったもののように見えます。数の上でも否定派の旗色が悪いのは明白ですが、批判本のたぐいの多くが中央図書館の書庫に収蔵されているらしいのが、否定派不利をさらに駄目押ししています。愛知県図書館の蔵書でも同じことをしてみると、総ヒット数は39。こちらはタイトルを見る限り、肯定派・否定派・それ以外がバランスよく配分?されているようです。前回の経験からすると、占い本に関してはどれも大同小異の内容のようなので、今回は批判的立場から血液型に関する論争を俯瞰したらしい『「血液型と性格」の社会史』を参考にしてみました。

 そもそも、「人間の血液に『型』があるらしい」ということは、1900年にオーストリアのラントシュタイナーが発見しています。この時発見されたのは現在で言うところのA・B・Oの3つの型だけで、AB型の発見はそれよりしばらくしてからの事となります。その後、違う血液型同士を混ぜ合わせると凝固してしまうなど、現在では常識となった事実が次々と発見されました。今回の主題である「血液型と性格」に関する事柄に注目するのであれば、その萌芽は、1910年には既に見られます。それはドイツのデュンゲルンによって立てられた仮説でした。ちなみにこのデュンゲルンは、血液型の遺伝がメンデルの法則に従うという、現在の高校生物では定番となった事実を発見した人でもあります。

 デュンゲルンはもともと血液型について熱心に研究していた人で、研究の過程でさまざまな動物の血液を採取し、その血液型を調べる事をしていました。そして、ある事実を発見します。ほとんどの脊髄動物の血液型はB型であり、チンパンジーだけがA型だったのです。この発見が今でも通用するものなのかどうかまではわかりませんが、それはさておき、当時はヨーロッパ列強がアジアへと進出し、その植民地支配を押し進めている時期でした。そのためデュンゲルンの発見は、現代の常識で考えれば噴飯物と断じるより他に無い荒唐無稽な推測に結びついていきます。すなわち、「アジア人にはB型が多いのではないか」というものです。

 まず、ヨーロッパではA型が多く、B型が少ないという事実がありました。そして、サンプルとなった多くの動物の血液型がB型だった中で、かなり人間に近い動物であるチンパンジーだけからA型の血液が見つかったことから、ダーウィンの進化論に従って、「A型はB型より進化した血液型」という推論が導き出されます。そこに「文化やその他の面でヨーロッパに劣るアジアは、その支配を西欧世界に委ねるべき」という当時のヨーロッパ社会の空気が結びつき、これを「科学的」に裏付けるため、「アジア人には進化に関して低い次元にあるB型の人間が多い」という仮説が設定されたのです。都合の悪い事に、アジア人のB型比率はヨーロッパのそれに比べればハッキリと高いレベルにありました。

 もっとも、ABOの血液型がどのような順序で発生したかについて、1920年代にはO→A→Bという順番が想定されてもいました。これだとA型はB型に比べると進化の前段階にあることになり、ヨーロッパ人にとっては都合が悪い事になるため、「アジア人のB型は類人猿に由来するもの、ヨーロッパ人のB型はA型人類からの進化によって発生したもの」というトンデモなダブルスタンダードまで設定される始末だったようです。かなり胡乱な学説がヨーロッパで数多く提唱された時期でした。日本は、血液型の研究そのもので立ち遅れていました。

 ただデュンゲルンの説が日本での血液型占いの直系祖先になったわけではありません。血液型の違いと人間の資質的な部分を結び付けて考える発想の土壌を作ったものだった、といったところでしょうか。日本に血液型の概念を持ち込んだのは、デュンゲルンに師事した原来復(きまた)という人物でしたが、原は小林栄という人とのやりとりの中で「血液型と人の性格の関連について一考してみるべき」という旨のことを言っています。これも後の血液型ブームの直接の契機ではありませんでしたが、こういう発想が、日本で血液型というものが知られるようになった頃にはさほど珍しいものではなくなっていた事の現われと見られそうです。1920年代に入ると、職業別の血液型構成比をはじめ、犯罪者に多い血液型なども調べられるようになり、果ては軍までもが強兵を養成するため血液型と人間の素養に関する調査研究に血道をあげるようになっていました。

 こうした中の1927年に登場したのが、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)教授・古川竹二の発表した論文、「血液型による気質の研究」でした。この段階で既に、「O型・B型は積極的かつ進取的」、「A型は消極的かつ保守的」、「AB型はAとB両方に通じる資質を持つ」という現在にまでつながる性格区分が提唱されています。時代背景について簡単に説明しておくと、クレッチマーによって彼の『性格と体格』が著わされ、心理学の分野でセンセーションを起こしていた頃の話です。現在ではすでに古典の領域に入り、実証的なものではないと考えられているこの研究ですが、当時は「痩せ型は分裂病質」、「肥満型は躁鬱気質」式の客観的な指標による性格・性質の類型化を行おうとする試みが、心理学分野で盛んに行われていました。

 当初から古川説に対する疑問の声も少なからずあがっていました。現実問題として古川の「研究」の進め方にはかなり粗が目立ちます。現在でもまだ未知の領域が多い人間心理に関する研究、さらに古い時代の話ですので、その辺りの事情は差っ引いて批判すべきですが、同時代の人から既に批判されていた事は、留意しておくべきでしょう。

 しかし、その頃になると血液型と気質の関連を考えようとする土壌も出来上がっていたのも事実で(ちなみに「気質」という言葉もこのタイミングで生み出されたもののようです)、古川説には医学の分野からも支持者が現れます。古畑種基・浅田一らです。それまで「血液型」は、専ら医学分野のものでした。そこへいきなり心理学者が飛び込んできた訳ですから、虚をつかれた面もあったのでしょう。ちょっとした紆余曲折を経て、当時の文部省までも古川説に肯定的になっていました。そして、支持者がマスコミへの影響力を持っていたため、マスコミを通じて今で言うところの血液型占い・性格判断の類が一般化しました。30年代に入ると血液型ブームが起こり、巷には血液型占い師も現れるようになったそうです。その実態は、「○型はこういう性格だから、このような職についたほうが大成する」というような講釈をたれるもので、理論面はいくぶんシンプルながら、現在の血液型占いとほぼ同じ物でした。

 同じ頃、履歴書の中に血液型を記入する欄を設け、それを採用時に役立てようとする企業も出始めているという記事が1930年11月26日付けの大阪毎日新聞に掲載されています。「血液型による適性判断によって、こんなにも新しい可能性が開けてくる」とでも言わんばかりの肯定的な記事でしたが、これに噛み付いたのが大阪朝日新聞で、こちらは血液型による性格判断に関しては徹底して批判的でした。今でも血液型占いを批判する内容の本が朝日新聞社から刊行されていたりして、もしかするとかなり根の深い確執なのかもしれません。

 1930年代のこうした動きは、ハッキリと血液型ブームと言い得るものでした。実質的仕掛け人となった古川竹二は、自身の理論をさらに押し進め、『血液型と気質』を刊行しました。1932年のことです。素人目にも穴の多い研究手法は相変わらずだったようです。この後しばらくの間は、この『血液型と気質』が血液型別性格判断の金科玉条になっていましたが、1970年代に入って「中興の祖」である能見正比古・俊賢親子が登場するに至って、『血液型と気質』は次第に顧みられる事が少なくなっていきました。

 時代が現代に近づくにつれ、なにやらきな臭さの度合いが増してきたような錯覚に陥ってしまいます。血液型占い全般に関わる内容を俯瞰的に眺めようと言う場合、ここにある程度の情報量ではとても「AtoZ」などと言えたものではありません。どうにかABO式の4種の血液型を表現できるO辺りまで話が進んだといったところでしょうが、今回はここまで。またしても心を折られるような事がなければ、以下次回