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八幡園は、現在も下町的風情の残る名古屋市中川区尾頭橋近辺にあった。 大正6年に設置された色街で、10軒の料理屋兼芸妓置場が置かれ、昭和16年には料理業者77名、芸妓置業者30軒、芸妓153名という規模に成長したという(中川区史)。 もともと娼妓ではなく芸妓の場所だったようだが、後に中村や稲永からやって来た者もいた。こちらはいわゆる妓楼だったが、それらも含め、戦時下の空襲で壊滅的な打撃を受けた。 戦後、旧八幡園系と旧共立園系の業者が共同して八幡園を復活させ、赤線に転じる。昭和20年代末に衰微した。 |
旧遊郭は現在の公園付近を中心にしていた。 |
中村と違い、大きな建物は見当たらない。 |
タイルばりの洋風建築も目立つ。 |
妓楼から転業したかもめアパート。 |
錦町付近。稲永新田の中でも独立した町? |
現在の港陽町はマンションが多い。 |
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名古屋市北区に、少し前まで「城東園北」という名前の交差点があった。環状線の若葉通2交差点から市立工芸高に向かう途中の交差点だ。城はもちろん名古屋城のこと。地図で見て分かるとおり、この交差点は名古屋城の東北東に位置し、交差点名から逆説的に言えばこの交差点の南あたり、文字通り名古屋城の真東あたりが「城東園」という事になる。 城東園の話には良く分からないことが多い。北区史にも大した話は載ってない。郷土史系の書籍でも、なかなか城東園の話は見られない。むしろ当地の現況の方が遊郭時代の記憶をとどめており、城東園北交差点の近く(旧城東園近傍)に一軒だけソープランドが残っているので辛うじて遊郭とか赤線とかいったものの名残を感じることが出来る。それ以外はとにかく古色蒼然とした家屋の残る街並みという印象しかない。 |
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東田遊郭は、愛知県豊橋市にあった遊郭だ。東海道吉田宿はもともと、遊女屋が多いことで有名だった。東田遊郭は、明治以降になってそれらの店が郊外に移転して成立したものらしい。 個人的には、子供時代にこの辺りで過ごした時期がある。普通の住宅街になぜ旅館があるのか、子供心に不思議だった記憶がある。今となってみれば、妓楼から転業した旅館だった、というわけ。 建物のほかで東田界隈に残る遊郭時代の名残と言えば、明らかに人工的な造形であることを思わせる特徴的な街割りがある。現地を歩いてみるとさほどには感じないが、地図であらためて確認してみるとよくわかる。 |
公園をとりまいて半月を描くような待割り。 |
この辺りで凝った造りをした建物の多くが旅館。 |
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参考文献 木村 聡、2002年、『赤線跡を歩く2』、自由国民社 1988年、『中川区史』、 |
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