中村遊郭探訪

注:若干アダルトな話題を含みます


 きっかけはカーネル・サンダースだった。
 都市伝説の方で『カーネル・サンダースの呪い』を取り上げた時に参考にした本、『人形の誘惑』の中に、招き猫に関する章があった。その中で引用されていたのが『聞書 遊廓成駒屋』(神崎宣武、1989、講談社。以下『成駒屋』)である。具体的にどのような文脈で引用されていたかは、さすがに少々淫猥なのでここでは割愛するが、その時に、今まさに取り壊されようとしている遊郭に残されていた古道具から遊郭の往時の姿を探ろうとするこの本のアプローチに興味を持ったのである。残念ながら、『成駒屋』は現在絶版になっているようである。
 話が前後するが、中村遊郭は名古屋駅西一帯に存在していた遊郭のことだ。さすがに地元に関する出版物だけのことはあり、愛知県図書館の郷土資料書架でこの本『成駒屋』を見つけることができた。ただし、館外持出不可。そこで、簡単にこの本の内容に目を通したところ、非常に興味深い内容だった。購入は少々骨になりそうだったが、私にとっては、何とかしてこの本を手に入れようと思わせるほど魅力的な本だった。後、現居住地を遠く離れた古書店のネット通販でこの本の在庫を確認。すぐに発注して『成駒屋』を手に入れた次第である。
 その後、数日をかけて『成駒屋』を読破。読み終えてみて、名古屋市内の遊郭、分けても中村遊郭について、自分でもちと調べてみたくなった。ただし、遊郭のことを調べたその先に、具体的に何を求めるのかについてはまだ全く固まっていない。従って、当面は『調査』の過程で知った断片的情報をここに羅列していく形になると思われる。と言うより、最終的に何がしかの形にまとめることも無くフェードアウトしていく公算が高いが、そこはご愛嬌。
 もともと個人的な覚書程度の内容を、厚顔無恥にも公衆の面前に晒そうとしたものであることを、ここに宣言する。


第1章 旭遊郭展望
第2章 中村遊郭の昔から
第3章 中村遊郭を歩く
番 外 遊郭見てある記

索引的な




中村遊郭関連情報
【中村遊郭】
 現在のJR名古屋駅の西側一帯に存在していた遊郭。前身は、名古屋市内大須の北あたりにあった旭遊郭。大正期に現在の名古屋市中村区に移った。中村遊郭は全国でも屈指の大遊里だったようで、時代劇などでよく知られる吉原に勝るとも劣らない規模だったようである。特に、大正時代に発生した関東大震災で吉原が壊滅的な打撃を受けた時期には、吉原で働いていた娼妓をはじめとする遊郭関係者が中村に流入したこともあって、実質的に日本最大の色町であった時期もある。
 昭和33年に消滅。ただし、これは中村遊郭に限ったことではない。この年、売春防止法が施行されて日本国内から『遊郭』と呼ばれる施設は姿を消した。

【大門ソープ】
 かつての中村遊郭の現在の姿。さすがに周辺一帯が軒並み遊郭であった往時とは異なり、普通の民家などが立ち並ぶ下町的風情の中にぽつぽつと特殊浴場が点在するという、雑然とした町並みになっている。大型スーパーの出入り口正面に、幅5mほどの道路をはさんでソープランドが相対している光景が、この界隈の成り立ちを如実に物語っているような気がする。
 売防法以降、かつての遊郭は「トルコ」をはじめ、旅館や料亭に商売換えをした。現在ではどうしても、外装の派手なソープが目に付くが、遊郭時代そのままの屋号、外装で旅館を経営しているところもある。また、人が住まなくなったまま放置されている遊郭時代の建物も一部に残っている。
 名古屋市は人口規模に比して明らかに風俗店が多いといわれるが、中村周辺のソープランドは条例の縛りや全国的にも有名な岐阜市の金津園などの影響で振るっていないそうである。

【名古屋の抱きっきり】
 吉原の遊郭には「回し」というシステムがあった。これは、一人の娼妓が、客が代金を払った時間内であってもまた別の客のところに向かい、複数の客の間をローテーションするシステムだった。名古屋の遊郭には、この「回し」のシステムが存在せず、「名古屋の抱きっきり」と呼ばれた。もっともこれは、西日本の遊郭に関して言えば、別に珍しい事ではなかったようである。

遊郭情報一般
【遊郭の基本システム】
 遊郭にやってくる女性は多くの場合、借金を背負っている。遊郭は女性の借金を立て替える代わりに、女性の身元を引き取り、娼妓として店で働かせていた。娼妓が働いて得た金のうちのかなりの部分は店の収入になった。また、娼妓はそれとは別に、自分の手元に入った金から店に立て替えてもらった借金を返済していかなければならなかった。ただし、遊郭の主人は様々な形で娼妓から金を巻き上げるシステムを作り上げていたため、普通に働いていても借金は雪ダルマ式に増えていき、店にやってきた時よりも、数年働いた後のほうが借金額が大きくなっていることも珍しくなかった。このことはすなはち、遊郭で汗水して働いても、並みの方法ではこの苦界からは脱出できないことを意味している。『大須物語』(大野 一英、1979年)には、大正期に娼妓となった「井上つる」の借金について、次のような記述がある。
 『四月の稼ぎは花代四十八円で四円八十銭。そこから賦金五十銭が引かれて四円三十銭。その半額の二円五十銭が彼女の収入として残るはずだが、元金の利息が三円三十七銭。この段階ですでに一円に十二銭の不足なのに、衣類、化粧品、髪結その他の生活雑費で二円四十一銭の追借をしなければならなかった。したがって四月一ヶ月で三円六十三銭の不足が生まれた。これでは元金を返すどころか、働けば働くほど借金は増える道理だ。
 五月もまた彼女は借金を増やす結果に終っている。すなわち、花代は顧客がついたか先月の四倍にふくらんで百八十七本、十八円七十銭。賦金五十銭が引かれて、十八円二十銭。その半額九円十銭が彼女のものになったが、元金利息が三円四十六銭、追借を六円九十銭、その他によって一円二十六戦の不足になった。
 六月も二円五十六銭の不足である。花代二百十四本、二十一円四十銭と調子はよいが、追借が九円五十銭と増えてくる。七月も同じく花代は百三十七本稼いだが、前借が十一円六十九銭。これで八円五十五銭の不足となり、負債総額は二百八十六円二銭四厘になっていた。』
 娼妓が遊郭から脱出するための数少ない希望の一つが身受けだった。これはなじみの客に店が立て替えた借金を肩代わりしてもらい、自分はその客に引き取られていくというもの。しかし、身受け料はよほどの緒大尽でも無ければ到底払える金額ではなかった。

【娼妓】
 遊郭やそれに類する施設で働く女性の呼称は様々。遊女、湯女(ゆな)、売笑(ばいた)、飯盛女などなど。本稿では『成駒屋』で用いられていた娼妓という呼称を流用。なお、遊郭で働く女性というとどうしても売春婦のイメージが強いが、実態は色々だったようだ。同じ娼妓でも、最も格上になると歌舞音曲に通じ、書画もたしなむという、木っ端侍などでは到底及びもつかないような才媛も珍しくなかった。彼女らほどになってくると、いわゆる売春婦とは一線を画す存在であったと言える。

【線香】
 かつての遊郭では、線香が燃え尽きた本数によって客の滞在時間を計っていた。ただし、この方法はまさしくどんぶり勘定で、儀礼的なものだったようだ。なお、ある資料によると線香一本の代金は十二銭五厘(明治期)だったとある。そのあたりが相場なのだろう。

【性病検査】
 遊郭で働く娼妓は、性病検査を受けなければならなかった。しかし、検査で陽性が出ると病気が治るまでの間は働けなくなる。そこで、性病に罹患していても検査をパスする『外法』が用いられた。すなわち、様々の薬品を使って娼妓を発熱させ、その発熱期間の内に性病検査を受けさせるというものである。発熱時には、淋病などの症状が(少なくとも表面上は)抑えられるそうである。そして、検査が終わると解熱剤を使用する。検査をする側の医師もそのあたりのからくりは見通していたようだが、そのあたりは両者の間で思い合いになっていたらしい。

【堕胎】
 遊郭ではほとんど避妊が行われていなかったようである。コンドームは貴重品で、あっても品質は良くなかった。従って娼妓の妊娠は珍しいことではなかった。といって妊娠してしまうと商売にならないので、堕胎はごく日常的に行われていた。娼妓は、平均で5回ほどの堕胎を経験したという。また、堕胎をするにしても正規の医者にかかっていては、1週間ほどは仕事を休まなければならなくなるため、遊郭内で堕胎を行うのが普通だった。方法はいくつかある。
 水の入った壷で腹を冷やして堕胎する方法や、酸漿(ほおずき)を使う方法などが用いられたようだ。酸漿を使う場合、陰干しした酸漿をお湯でふやかし、それを膣内に入れておくとアルカロイド(猛毒で知られるトリカブトの毒と同じ)が溶け出し、やがて胎児が腐るのだと言う。母体の安全はあまり考慮されていなかったようだ。性病検査といい、遊郭の『医療』は目的を簡単に達するためであれば、非常にリスキーな方法でも用いられたようである。
 なお、『成駒屋』中の『偽医者』の証言によると、掻爬(そうは)は行われなかったという。掻爬という言葉がすでに古めかしいものになっているが、どのような術式かは字面が語っている。現在、もっとも一般的であろう堕胎術である。

【赤線・青線】
 性風俗の乱れが一般社会に波及するのを避けるため、時の政府は昭和21年に遊郭の営業を特定地域に限って認める方針を打ち出した。なお、この以前の段階で形式上には『遊郭』の営業は禁止されていたが、この禁止の根拠となった法令がザル法であったため、遊郭そのものはなおも存在していた。むしろ遊郭の存続を危うくしていたのは、「ぜいたくは敵」の戦時体制のほうだったようである。話を戻し、昭和21年の施策は一見すると遊郭に対する締め付けのようだが、実際にはそれまで息を潜めて細々と営業していた遊郭に、条件付で営業許可を与えたようなものだった。赤線青線の呼称は、このとき地図上に線を引いて営業許可区域を設定したことに由来する。赤い線で囲まれた地域が営業許可区域、青い線で仕切られた地域では遊郭の営業が認められなかった。赤線は公認売春宿、青線はモグリということになる。

【トルコ】
 「トルコ風呂」のこと。昭和33(1958)年の売防法以降、遊郭は遊郭として存続することができなくなり、一部は「特殊浴場」として旧態に近い営業を続けた。トルコ風呂とは、初期の特殊浴場に対して用いられた呼称。
 なぜ「トルコ」なのか。どうやら、風俗としての「トルコ風呂」が誕生する以前から、トルコ風呂と呼ばれる大衆浴場が存在していたようだ。本場トルコで言うところの「ハマム」のことで、昭和26(1951)年、東京銀座にあった「東京温泉」の中で開業した。ただし、トルコのハマムでは同性が接客を行うのに対し、日本版トルコ風呂は当初から利用客は男性限定、接客は女性が行うものだった。やがて売防法施行となり、公認の売春宿がなくなったことから、密室で女性と二人きりになるトルコ風呂の、性的なサービスがエスカレートしていったものらしい。
 後、一人のトルコ人青年が、自分の国の名前がいかがわしい商売の店の通称として用いられていることに対して抗議したため、現在まで使われている「ソープランド」の呼び名に改称された。本来なら極力使用するべきではない言葉なのだろうが、売防法施行によって遊郭がいきなりソープに衣替えした、というのは個人的にはどうも直感的ではないため、本稿では便宜上、昭和後期までの特殊浴場を『トルコ』と呼ぶこともあるかも知れない。

【遊郭の建物】
 かつての遊郭地帯を歩いてみると、普通の民家にしては明らかに意匠の凝った外装の施された古い木造建築があるので割りあい探しやすい。二階窓部分のあたりに、御座敷の『欄間』のような装飾(正式名称不明)がしつらえてあったりするので、「犬も歩けば」式に遊郭の建物を見つけることが可能。


名古屋市内のその他の遊郭

【尾頭橋と金魚】
 尾頭橋は名古屋の南のターミナル・金山駅から程近くにある町で、下町の風情が残る。JRAのウインズがあったりして結構にぎわっているが、路地裏に入れば住宅地の感じ。この地区では毎年8月の第一土日(?)に『金魚まつり』という祭りが催される。ネット検索で調べた限りの情報では、地元商工会主導の祭りのようである。ちなみに、尾頭橋は金魚の飼育が盛んな町ではない。祭り主催者側が積極的に公表している風は無いが、しばしば小耳にはさむ話によると、『金魚』とは遊郭時代の娼妓のことをさす、などと言われる。ただ、この説の信憑性は怪しい。
 張り店から鮮やかな赤い着物の袖をひらひらさせながら腕を伸ばして客を引く娼妓の姿を、金魚になぞらえたのだという。現在、金魚まつりのメイン会場の一つとしてJR東海道本線尾頭橋駅近くの尾頭橋公園が使用されている。尾頭橋公園には金魚の壁画があり、公園周辺にはかつて遊郭だったであろうことをうかがわせる建物が点在している。尾頭橋地区にとって遊郭がどのような意味合いをもつものなのかは興味深い点である。この辺はもう少し突っ込みたい。

【八幡園】
 尾頭橋付近に存在していた遊郭は八幡園と呼ばれた。当時、このあたりが八幡町と呼ばれていたためだ。なお、尾頭橋界隈に遊郭があったのは大正6年から昭和20年代にかけての時期のことである。
 もともとは芸妓主体の花街だったようだが、戦後に赤線となる。

【城東園】
 現在はナゴヤドームで知られる大曽根の町。かつては大曽根にも遊郭があり、赤線時代には城東園と呼ばれた。現在は新しい家々が立ち並び、表通りには大型のショッピングモールもあって、遊郭時代をしのばせる痕跡は未確認。遊郭と直接的な関係があるかどうかは定かではないが、数軒の風俗店も営業している。

【港陽園】
 港区にあった赤線地帯。もともとは少し離れた別の場所で営業していた稲永遊郭が引っ越してきたもの。

【旭遊郭】
 中村遊郭の前身。大須観音の北あたりにあった。『成駒屋』によると、大須観音と旭遊郭の関係は、東京で言う浅草と吉原の関係とほぼ同じであったらしい。
 現在の大須界隈には、かつての遊郭時代の雰囲気をとどめているものは無い。表現は良くないかもしれないが、楚々とした今風の繁華街とは違った猥雑な活気のある街で、ある意味ではこの雑駁さが遊郭時代から受け継いだこの地区の気風なのかもしれない。


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