第一章(仮)  旭遊郭展望

 「中村遊郭探訪」などといいながら、開設以来3ヶ月近くの間、一向に探訪の気配がないまま過ぎている当コンテンツである。現実には、ちょくちょく探訪しつつも、それが更新に反映されていないというのが実情だ。今回も探訪ではなく、名古屋遊郭の沿革・歴史についての話である。しかも、基本的には中村遊郭の話題を扱うコンテンツであるにもかかわらず、今回の話題の中心は、中村遊郭の前身・旭遊郭。中村遊郭までの道のりはまだまだ遠い。


 厳密には「遊郭」と呼ぶべき施設ではないのかもしれないが、名古屋の町に遊郭的なものが姿をあらわしたのは、慶長十五(1610)年のことである。この頃はちょうど、名古屋築城の真っ最中であった。名古屋城の造営は、幕府が全国の諸大名に命じた天下普請であり、工事に関係する武士、大工、商人、その他諸々の人々が日本各地から集まってきたのだが、彼らの慰めのために、徳川家康が「飛田町廓」の設置を許可したのが、どうやら名古屋の遊郭の最初らしい。この「飛田町廓」、今回参考資料とした「中村区史」には、「今の中区蒲焼町筋」にあったという記述が見られる。ところが、現在(2004年)の名古屋市内には、中区はあれども蒲焼町という地名が見当たらない。なにしろこの「中村区史」、刊行年は昭和28(1953)年であり、本文も名文調のお堅い筆致で書かれていて、下手をすれば史料とも言い得る本で、資料とするには少々癖がある。しかし、その古さが幸いしてというのか、売防法施行以前、まだ遊郭が辛うじて遊郭であった頃(赤線時代)の情報を浚う事もできるし(今回の話には関係ないが)、もうそろそろ著作権法による保護も切れるのではないかとも思う。だいぶ話が脱線したが、「中区蒲焼町」は現在の中区錦三丁目付近にあたる。飛田町廓から400年近く経った今でも、相変わらず(?)同じような事をしている名古屋の夜の繁華街である。もっとも蒲焼町近傍は名古屋が尾張の首府に返り咲くよりも前からの遊里だったようで、「飛騨屋町」とか「ぞめき町」とか呼ばれていたらしい。

 さて、この「飛田町廓」は前述の内容からも薄々わかるとおり、暫定的に設置されたものだった。名古屋城の築城が終ると、風紀が乱れることを嫌った初代尾張藩主・徳川義直によって、すぐにまた廃止されたようである。これを復活させたのが、地元では「尾張宗春」の名で呼ばれる、七代藩主・徳川宗春だった。宗春は、八代将軍・吉宗と同時代の人で、御三家の中では一番下に位置する家格の紀伊家の出でありながら、御三家筆頭の当主である宗治を差し置いて将軍になった吉宗に対して対抗心でも持っていたのか、質素倹約を旨とする吉宗政治に対する当てこすりのごとく、領内政治を万事において派手に行った。言うなれば、現在の名古屋カラーの方向性を決定付けた人物で、彼の治世において名古屋に遊郭が復活したのも、おそらくは必然だったのだと思う。「中村区史」によると「「歓楽名古屋」の生みの親」なのだそうだ。これは享保17(1732)年三月のことで、今の山王橋附近(松原・正木の両町に跨る辺り)に「西小路廓」が置かれ、それから相ついで富士見原(中区「飴屋町」―蒲焼町と同じく現在は消滅した町名)と、葛町(中区「不二見町」=富士見町?)にも不二見原遊郭ができた。ただ、幕府に対する反抗的な態度を吉宗に睨まれでもしたのか、3年ほどで再び遊郭に対する締め付けがきつくなったらしく、各地の遊郭は西小路遊郭に統合された。、元文3(1753)年には再び遊郭の営業が禁止され、周辺地域の荒廃が進んでいったようだ。もっとも、無くなったのは建物だけで、遊郭跡の荒れ野原には、私娼が現れるようになったらしい。

 時を経て、名古屋の遊郭が再び復活を遂げたのは、安政五年(1858)のことである。玉屋町の宿屋渡世笹野屋庄兵衛、あるいは本町商人笹屋荘兵衛なる人物が、お上に願い出て、北野新地に役者や芸人を集めていたらしい。北野新地―現在も残る大須観音の北、清安墓地の南、大光院墓地の西の区画である。これが、後の旭遊郭の直接の起源だ。もっとも、すでに激動の幕末動乱期にさしかかった時期のことだったために、しばらくの間、その動向はおとなしいものだったらしい。この地が大々的に発展を開始するのは、明治7年に県令(現在で言う県知事)鷲尾隆聚が、「日出町近傍を遊所の区劃と定め」、同年の12月15日以降に飯盛女の娼妓稼業が正式に認められるようになって以降である。「正式に認められて」、だから、それ以前も非合法の娼妓は当然存在していたのだろう。ただ、翌8年には、昔ながらの遊郭は、大須観音の堂裏、堀川以東の五ヶ所に移転させられたようで、正しくはこの時点をもって、大須界隈の遊郭を旭遊郭と呼ぶようになったらしい。

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 話は前後するが、明治5年には、名古屋のみならず日本全国の遊郭全体にとっての重大事件が起きていた。政府からの芸娼妓開放令、そして、「娼妓芸妓は人身の権利を失うものにて牛馬に異ならず」という司法省からの布達、世に言う「牛馬切りほどき」のお触れである。これらのきっかけとなったのは、当時日本に入港していたペルー船マリヤ・ルーズ号から、この船に乗っていた中国人奴隷230人が逃げ出し、日本政府が彼らを保護したという出来事だ。最終的には国際裁判にまで発展し、日本側の勝利という形で決着した事件だったが、ペルー側は「日本の娼妓こそ奴隷と同様のものである」と主張した。このため、時の政府は半ば行きがかり上、「娼妓たちは間もなく開放する」という旨の返答をしている。この時の発言が実現の運びとなったものこそ、芸娼妓開放令というわけである。この年の10月の事だった。

 もっとも、名古屋においてもかつて遊郭の緊縮によってかえって私娼が横行したように、芸娼妓開放令によって私娼が増えて風紀が乱れるのを懸念する声もあったし、「元」娼妓の中にも、「仕事にありつけないから」という理由で遊郭への復帰を望む者がいた。実際に、明治6年にはすでに名古屋に遊郭(公認ではないと思われる)が復活しているようだし、結局、世論に押されるような形で遊郭の存続が決まったようだ。公的に遊郭設置が認められたのが明治7年の事。前述の県令決定である。

 この時期の北野新地には、40軒ほどの妓楼があった。明治10年には倍以上に値する105軒が立ち並ぶようになる。そこで働く娼妓の人数は318人、芸妓は112人。同時期の吉原は、楼数85に娼妓数1400人ほど。どうやら当時の旭郭には、吉原に比べれば圧倒的に零細な雰囲気の店が多く建ち並んでいたようである。「大須物語」には、当時の遊郭の料金設定が詳細に記されているので、それを引用すると、「娼妓=上等一昼夜一円五十銭、一仕切り(時間)三十七銭五厘、線香一本十五銭(ショートタイム)▽中等一円、二十五銭、十二銭五厘▽下等七十五銭、十八銭七厘五毛、十銭――。芸妓は上等二円五十銭(一昼夜)十二銭五厘(線香一本)▽中等二円、十銭▽下等一円六十銭、八銭――」とのこと。

 さらに同書には、当時の娼妓の出身地について、以下のような記述もある。「明治二十一年に名古屋へ来た女郎の例があるのですが、東京から五十一人、山形三十七人、秋田三十五人、福島三十二人、宮城二十二人、青森十八人、千葉十九人、愛知三十一人、三重二十人、静岡二十人です。東京からも比較的多いのは”人買い”が多いからだと思います。東北から東京へ集め、また東京の女を各地へ売り飛ばしたのに違いありません」

 もっとも、県側にしてみればただ単に遊郭設置を認めたわけではなかったらしい。当然といえば当然だが、公的な立場からのフォローも行われたようである。あるいは、遊郭設置のための交換条件だったのかもしれない。その「条件」とは、廓内への女紅場の設置。女紅場とは、有態に言えば女子向けの職業訓練校ということになるだろう。もちろん、旭遊郭に関して言えば、娼妓たちを対象にした職業訓練校である。女紅場設置の資金は、県からも貸し付けられていたようだ。


 紆余曲折を経て公認の遊郭となった旭遊郭であるが、その後も実に色々な事件を経験している。

 明治30年代初頭には、廃娼運動が起こっていた。以下も「大須物語」からの引用(明治23年6月26日付「扶桑新聞」の記事の孫写しとなる)。

 「愛知県下の基督教徒ら名古屋市に矯風会なるものを組織し、各地と声援して運動中なるが、その目的とするところ、娼妓の借財と出稼ぎとは全く別問題にして、借財のためにその身を拘束せらるるのいわれなし。もし借財のため出稼ぎを条件として契約を締結したりとせば、これ明らかに民法第九十条に抵触する不法の契約なるをもって、全然無効なりと主張するにあり。
 この論は、ひいて一般貸座敷営業者に少なからざる影響を及ぼし、またこれがため無知の娼妓は負債を償却せずして廃業せんと企つる者各地に起こり、現に名古屋、京都、大阪、静岡等においてもこれらに関し紛議を生じ、あるいは訴訟の提起を見るに至れり。すでに愛知県においては訴訟提起の結果、娼妓の勝利となりたるをもって、彼らはますますその気焔を高めたり。
 もし、この勢いをもって停止するところなくんば、今後、貸座敷営業者と出稼ぎ娼妓との紛糾は頻頻相ついで起こり、貸座敷営業者は、あるいはその防御策として賭博者または浮浪者らを使いて基督教徒に暴行もしくは危害を加えんとするに至るやも計りがたきをもって、厳重警戒中――」

 当時の廃娼運動を描いたドラマで「あさきゆめみし」というものがあるらしい。廃娼第一号となった旭遊郭の小六(本名・佐野ふて)と、「廃娼運動の父」と言われたアメリカ人宣教師・モルフィに題材を求めた作品と言う事だが、これに関しては、今となっては視聴は難しいだろう。

 その後、大正3年6月24日には、長らく遊郭の名物であった「張見世」が姿を消している。「張見世」とは、通り沿いに面した格子戸を通して、楼内に居並ぶ娼妓の姿を直に見渡す事ができる建築上の構造のことだ。「吉原炎上」など、かつての遊郭を舞台にした映画やドラマなどでも、格子戸越に、緋毛氈の上に座った遊女達の姿を幻想的に描写している作品が存在したような記憶がある。遊郭と言えば張見世と言っても過言ではないほどの存在だったと言って良いだろう。当時の遊客には、張見世の廃止に名残を惜しむ向きも多かったようだ。

 張見世に代わって採用されたシステムが「写真見世」だ。これは名前からもうすうす察しがつきそうだが、客が娼妓の写真を見て相手を指名する形式のものだ。おそらくは、現在の風俗店にまで継承されたシステムと言ってよいだろう。当然と言えば当然だが、張見世から写真見世への変化の過程で泣いたものと笑ったものがいる。泣いたのは、登楼するつもりもないのに張見世から娼妓を覗いていたひやかし。笑ったのはズバリ写真屋である。なんでもこの時撮影された写真には、どの娼妓も、当時でさえもすでに過去のものとなっていた、江戸時代の花魁スタイルで映っていたそうだ。

 ところで、大正元年には、当時の県知事・深野一三によって貸座敷取締規則が改正されている。これによって、一度は尾張地方での遊郭営業は、「南区稲永新田」(現港区)に限定して許可されるようになるはずだった。しかし、この移転問題に絡む疑獄事件が発生したことで、旭遊郭の稲永新田移転の話は立ち消えになり、代わって「愛知郡中村」(当時)へ引っ越す事になったのである。時に大正8年のこと。そして、31620坪という新天地(日吉・寿・大門・羽衣・賑の5つの町)の整地は大正9年3月から始まった。移転も完了し、晴れて開業の運びとなったのが大正12年4月1日。まさにこの日、かつての旭遊郭は、廓名も新たに、「中村遊郭」として再出発したのだった。ちなみに稲永は後年になると結局、熱田伝馬町から引っ越しと言う形で遊郭が設置されている。


 その後の大須について。

 大須から遊郭が姿を消す事で、街の活気が失われる事を危惧する声は、中村移転と前後するように大須の住人から上がっていたようだ。そこで、大須の新たな活性策として採用されたのが、「大須市場」と言うものだった。これは、毎月18日、大須に軒を並べる店が、自店舗の専門分野以外の商品を安売りするものだったらしい。この催しが図に当り、遊郭無き跡の大須でも人の入りが絶える事は無かったという。

 もっとも、それも遊郭移転後間もない時期の話。日本各地の商業地の多くが経験したように、日本人のライフスタイルが変化した事のあおりを受け、街から客足が遠のいてどうしようもないほどの不況にあえいだ時期は、大須にもあった。しかし、その後に打ち出された活性策が再び効を奏し、現在の大須は非常な活況を呈している。

 アーケードが張り巡らされた商店街には、PCを中心とした家電やマニア向け同人誌を売る、秋葉原を「薄く」したような電器店が点在し、その隙間を埋めるように、古着も含めた若者向けの服を売る店が多く建ち並んでいる。昭和の雰囲気を残す昔ながらの個人商店も多い。食べ物屋もかなりの数が存在している。ファーストフードからちょっと洒落たレストランまで、非常にバラエティに富んだ構成である。ただ、かつてこの近辺に遊郭が存在していた事を匂わせるものはほとんど無い。街のはずれには、一応風俗店もあるが、業態はファッションヘルスらしく、遊郭が存在していたのとは正反対の位置に店を構えているため、おそらく遊郭時代との連続性は無いだろう。

 まっすぐ歩くのも難しいほどの人手がある大須の休日を見ていると、それが遊郭時代から受け継がれた雑駁さであるようにも思えてくる。とにかくその往来の多いことは、名古屋の都心部を超えているようにさえ見える。私は常々、この点を不思議に思っていたのだが、最近気が付いてしまった。この大須という街には、名古屋人の心の故郷たる「地下」が存在しないことに。

参考文献
神崎 宣武、1989年、「聞書 遊廓成駒屋」、講談社
大野 一英、1979年、「大須物語」、中日新聞本社
名古屋市中村区制十五周年記念協賛会編、1953年、「中村区史」、中村区制十五周年記念協賛会 

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