第二章(仮)  中村遊郭の昔から

 JR名古屋駅の西側出入り口と言えば、「太閤通口」である。これは、新幹線ホームから最も近く、かの悪名高い「大名古屋ビルヂング」があるのとは反対側に位置する出入り口である。「太閤」とは、太閤秀吉こと豊臣秀吉のことだ。秀吉は、尾張中村の農民の子(あるいは下級武士)の子として生まれたが、出世に次ぐ出世を重ね、臣下としては最高位の位である正一位関白太政大臣にまで進んだ。そして、関白の座を退いてからは太閤(前関白の意味)と呼ばれるようになった。秀吉の出身地・「尾張中村」こそが現在の名古屋市中村区であり、「太閤通口」、そしてその命名の元となった「太閤通」と言う名は、同郷の有名人である秀吉にちなんだ名前と言うわけである。もっとも、この太閤通は、威勢の良い名前の割には取り立てて立派な道と言うわけでもなく、無闇に広い名古屋の各通りの中にあっては、むしろ地味でさえある。
 新幹線ホームの最寄出口と言われて、旅慣れた人にはピンと来る物があるかもしれない。名古屋駅西は、名古屋の都心側ではない。どちらかと言えば裏口の風情だ。新幹線のホームから見る限りは、そこそこ背の高いビルも建ち並んでいるが、これは舞台の書き割のようなもので、駅を出て5分も歩けば、下町の風情が今も色濃く残る地区に入る。
 かつて中村遊郭があった街は、このような所である。そして、遊郭時代の余韻を残していた「赤線」と呼ばれる施設がこの街から姿を消したのは、今ではだいぶ草臥れてしまったこの界隈の建物がまだ真新しい輝きを放ち、あるいは存在すらしていなかった昭和33年のことだった。

 前段では、名古屋に色町が誕生したときから旭遊郭が中村に移転するまでの沿革を簡単になぞってみた。それに引き続く今回は、旭遊郭の中村越しから消滅までの30年余りと、現在に至るまでの経緯について触れてみようと言ったところである。

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 前述の通り、旭遊郭の中村移転が決定されたのは大正8年のことである。そして間もなく、名古屋土地株式会社と旭廓土地株式会社の間で、遊郭開設予定地となる土地の売買契約が成立している。31,620坪(104,346u)の広大な土地が、当時の金額にして119,700円余りで取引された。その後、土地の整地、組合事務所を含めて娼家が次々と新装され、「中村遊郭」としての新たな門出を迎えたのは、3年あまり後の大正12(1923)年4月1日のことである。

 中村遊郭は、東京の吉原を模した造りの廓だった。遊郭の外周を幅一間の濠で囲み、四隅の道は斜めにすることで廓の外周を不等辺八角形とし、外部からでは中の様子をのぞくことが出来ないようになっていた。中村遊郭は、周囲から隔絶された都市の異界だった。とは言え、遊郭が引っ越してくる直前直後の時期の中村界隈は、れっきとした農耕地帯で、人の通りもまばらだったようである。それが、たちまちのうちに名古屋市内で最大の歓楽地となった。

 中村遊郭は、あくまで旭遊郭を前身とした遊郭で、降って沸いたようにして突然姿を現したものではない。移転一年目からかなりの活況を呈していたようだ。「中村区史」には、大正年間の中村遊郭に関する以下のようなデータがある。

年次 遊客数 遊興金(円) 遊客一人平均消費額(円)
大正12年 654,316 1,828,490 2・99
13年 709,302 3,445,342 4・86
14年 755,940 3,414,546 4・52

 上の表を見る限り、開業後のかなり早い時期から相当数の客足があった事が伺える。また、昭和3年と8年には、「本場」京都の島原から専門家を招き、花魁道中を催したようである。これは、遊郭近隣の人ばかりではなく、遠来の見物客も現れるほどの晴れがましい催し物だった。「その行列は鳶の者2人―金棒引き―台付提灯―花魁―傘持―振袖―新造2人―禿2人―新番―押へ。の順序で花魁は目も眩むような金銀の刺繍した裲襠を着て、三枚歯の黒塗下駄を素足に穿き、外八文字に踏んでジョウ(鳥の下に衣)嫋として落着き払つて行く絢爛な姿は全く錦絵を見るように鮮やかで、木念仁といえども見とれざるを得ない。」(中村区史)

 ところが、「中村区史」によると、中村遊郭の全盛期はむしろ昭和12(1937)年頃だったらしい。この年名古屋では、名古屋汎太平洋平和大博覧会が開催されていた。JR名古屋駅が現在の位置で完成したのも、同じ年である。この頃の中村遊郭は、娼家の数138軒、娼妓約2000人を擁する日本屈指の遊里だった。と言うより、中村遊郭が吉原を上回る国内最大の遊郭となった時期は、まさしくこの時期なのかもしれない。比較対照とするべき同時期の吉原の規模は未確認だが、「成駒屋」によれば、当時の日本国内で、いわゆる娼家(貸座敷業)の営業地となっていた場所は545箇所、娼妓は全国で44,908人(いずれも厚生省調査のようである)。一営業地あたりの平均娼妓数は82.4人。「中村遊郭は吉原を超えて日本一の規模だった」と言う話は、とかく「○○一」と言う表現を好むきらいがあるらしい名古屋人気質が生んだ大言壮語の類ではないかと勘繰っていた時期もあったが、具体的な数値データを検証してみると、中村遊郭の巨大さは明らかに頭抜けている。

 ただ、この繁栄も長くは続かなかった。昭和12年とはまた、日中戦争勃発の年でもある。日本の行く末には、すでに暗雲が立ち込めていた。遊郭もそうした世情と無関係でいるわけには行かず、出征軍人の慰問、遺家族慰問、戦死者の慰霊祭等に金を出し、骨を折っていたようである。そして、昭和16年に太平洋戦争開戦。同18年には戦時体制のあおりを受け、中村遊郭は一気に規模を縮小する。昭和18年当時、136軒存在していた娼家のうちの117軒が、営業再開の日を夢見つつ休業に入り、残ったのはわずか19軒の店と、220人の娼妓だった。もちろん、同時期には日本全国の遊里が同様の整備縮小を余儀なくされているため、中村遊郭は相対的には巨大遊郭であり続けたようである。

 一方、今は本来の目的に供されなくなった娼家は、三菱航空、三菱発動機、大同製鋼の大軍需工場の寄宿舎や寮施設として転用されたとのことである。全ては戦時体制のためだった。 

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 名古屋には太平洋戦争の折、米軍機の空襲を受けて市街地が焦土と化した経緯がある。中村遊郭の娼家の中でも、55軒が空襲によって焼失している。ただ、終戦前後の遊郭が青息吐息の状態だったのはむしろ、戦時体制のためだった。何もかもが緊縮の方向に進む時勢下では、遊郭に隆盛はなかったのである。敗戦と言う形であるにせよ、戦争が終わったことで遊郭もまた復興に向けて歩みだした。終戦直後の昭和20(1945)年9月には、中村遊郭を取り仕切る組合の名称が、「旭廓貸座敷組合」から「名楽園組合」に改められた。現在も日吉・寿・大門・羽衣・賑の5つの町に寄り添うようにして残る「名楽町」という町名の起源となった名前であり、この時期から中村遊郭も「名楽園」の名で呼ばれるようになる。またこの頃には、遊郭で働く女性の呼称を、それまでの「娼妓」から「芸妓」に改め、廓内の各娼家の「営業形態」を、貸座敷業から特殊飲食店に切り替えている。

 昭和21(1946)年2月2日、内務省令第三号「明治三十三年十月内務省令第四十四号娼妓取締規則は之を廃止す」が公布された。これに先立つ1月21日、連合国軍最高司令官総本部(GHQ)から「公娼の存続はデモクラシーの理想に違反」するものであるとして、これを廃止するよう指令が下されたためである。そして、この内務省令により、形式上は公娼制度は廃止の運びとなった。しかし、このことは必ずしも遊郭時代の終焉を意味しなかった。名楽園側は、特殊飲食店を特殊カフェーに改称、あわせて「芸妓」を「給仕婦」に改めている。内務省令を受けたものだったのだろう。

 このあたりの時期の中村遊郭の動向には、ちょっとした事情があった。内務省令発令後の5月29日、各府県は、「前借制度の廃止を徹底させること」、「身体その他自由の拘束を絶対させぬこと」、「稼業搾取をさせぬこと」の三原則を、各遊郭組合の責任者に通達した。ただし、禁止されたのはあくまでも旧態依然とした「遊郭」としての営業であって、「特殊飲食店」としてであれば、遊郭時代に類する営業を続けることが認められていたのである。もちろん、そこで働く女性の呼称が改められたのも、同種の指導の影響だった。

 それから半年ほど後の11月には、時の吉田内閣によって「特殊飲食店を風紀上支障のない地域に限定して集団的に認める措置方針」が決定された。事実上の遊郭復活である。根拠とされたのは、「なまじ規制をかけると各所に私娼がはびこり、性風俗の乱れにつながる」という、これまでにも遊郭復活の口実として持ち出されたことのある理屈だった。この時から、中村遊郭は赤線と呼ばれる区域に含まれることになった。赤線地帯にある娼家は、公認の売春宿と言うわけである。こうして、遊郭の存続は法律上認められるようになり、戦後間もない時期は進駐軍の軍人も遊郭を利用していたため、遊郭の景気はわずかながら回復していった。中村遊郭に関して言えば、「進駐軍司令官からの進駐についての用意を命ぜられ」ていたようであるが、昭和20年12月15日には、早くも進駐軍人の登楼禁止令が発令され、この時期には一気に客足が遠のいたようだ。その後、名古屋駅周辺にたむろする私娼や、「青線」の隆盛におびやかされることもあったが、「中村区史」には、当時の中村遊郭(名楽園)の様子について、このような記述がある。

 「さて現在の名楽園はどう息づいているか、営業者は八十一軒、給仕婦(芸妓)九百人を数えているが、これをかつての最全盛期に比べると、営業者はざつと二分の一、給仕婦はざつと三分の一に減じているが、その制度、その設備に組織面に遺漏なきをきしている」

 繰り返しになるが、「中村区史」の編纂発表は昭和28年のことである。遊郭時代終焉の幕引きとなった売防法制定は、この3年後の出来事だった。

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 売春防止法は昭和31年の制定から2年後の同33年に施行された。「成駒屋」の中では度々この法律がザル法である可能性を指摘しているし、そのような目で見れば確かに不備だらけで、本当に売春を根絶しようと考えているのかどうかについては首を傾げたくなる部分もある。ただ、たとえこれがザル法であったとしても、売防法が施行されたことによって遊郭はその歴史に幕を下ろさなければならなくなった。

 そうは言っても、かつて遊郭と呼ばれた施設で行われていた行為(要するに売防法が禁じているはずの売春である)が根絶されたわけではなかった。ご存知の通り、この平成日本にはソープランドと呼ばれる極めて特異な風俗店がある。何が特異かと言えば、ソープランドでは俗に言う「本番」行為が行われているのである。風俗業界において最も一般的な業態となるであろうファッションヘルスやその亜種と、ソープランドが決定的に異なるのは、要するにこの点においてである。そしてそのソープランドの中には、かつての遊郭が転業して始まったものも少なくなかった。なお、ある種の脱法行為とも言えるこの性風俗業は、誕生当初からソープランドと呼ばれていたわけではなく、かつては「トルコ風呂」と呼ばれていた。

 なぜトルコだったのか、なぜソープランドに改称されたのかについてはすでに別項で触れているのでここでは話題の俎上には載せない。ただ、当該箇所で「トルコが言葉狩りの対象になっている」というような趣旨のことを書いてはみたものの、より厳密には外圧により改称に至ったものではなく、ニュアンスとしては自主規制に伴う改称とした方が正確かも知れない、と考えている事だけはここで述べておく。

 さて、この遊郭時代の終焉からトルコへの過渡期の様子に関して、「成駒屋」には興味深い話が書かれている。以下はその引用。「成駒屋」の主要インフォーマントである「お秀さん」のモノローグである。「お秀さん」は遊郭の楼主であったが、売防法以後は、全国にその名を轟かした名店の系列であった自分の店を「トルコ風呂」としていた。

 「それともちろん、ごらんのとおりの設備が、いまの時代の商売感覚からはズレとるんだね。遊郭の頃の建物がなまじ立派じゃったばっかりに、建物をそのまんまにとりあえずの転業のつもりで私らはズルズルとトルコをやってきたんですもの。トルコをやるんだったら、遊郭時代とまるっきり別の商売感覚でやらねばいけん、ということは私らにも、もうようわかっている。この中村でも、代がかわったり、新しく出来るトルコは、建物から設備を一新して近代感覚でやってなさるわの。じゃが、それは、ほんのわずかです。

 そうです、それには理由もあるんだわ。

 あんたも知ってのとおり、遊郭がなくなったのが昭和三十三年ですわの。中村ではあのとき、ほとんどが、建物はそのままに旅館かトルコに転業しとるわいの。放っぽらかして廃墟になってるところもあるが……、まあ、ほとんどが旅館かトルコ。

 ここ(新金波)も、建物の骨組みは、昔のまんま。部屋も畳をあげて、そこに防水の床をはって、湯ぶねを置いただけ。あとは、壁をビニールクロスにしたり、コンクリートの廊下をタイルばりにしたり、まあ、ところによっていろいろじゃが、結局、どこもが木造部分を強化したうえで、表面をはりかえたという程度なんです。

 なぜかといえば、よその遊郭のことはよう知らんが、中村遊郭は、昭和三十三年の売防法(売春防止法)のときに組合員がみんな集まり、組合長の久米さんを中心にして善後策を協議した事があるんだわの。そのとき、売防法は恒久的なものではない、一時的な暫定措置じゃろう、やがて解除されるにちがいない、という意見が大半をしめたんですわいの。それで、とりあえずは名楽園組合というとった遊郭の組合組織を新名楽園として、また陽の目をみるようになるまでをしのいでいこう、と考えたんです。

 それで、建物を売却したり、とりこわしたりして転業するよりも、その暫定措置と判断したあいだ、このまま建物を利用して、一時的な転業をはかるのが得策じゃろう、と、ほとんどの人がそう考えたわけですがの。中村には、昭和になってからの新開地じゃから、建物もしっかりしとるから……。」

 「お秀さん」の述懐はこのあと、「中村は時代を読み間違えた、時代に乗り遅れた」と続く。その感想はあながち間違いではなかっただろう。とは言え、中村遊郭の人が世情に疎かったのかと言われれば、そうでもなかったように思う。本稿でここまで旭廓から名楽園へと遊郭の歴史を紐解いて来た中からも、遊郭という場所がその時々の為政者から規制を受け、そしてその度に復活して来た経緯は自明のことである。遊郭の内側にいた人々が売防法も先例と同じに考えたのは、致し方のないことだった。いやむしろ遊郭の内情や歴史を知り尽くした人たちだったからこそ、売防法への対応を誤ったのだと言えよう。しかしその結果として、「中村遊郭」の斜陽化がそれまでをさらに上回る勢いで、一気に加速していったのは事実である。

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 「お秀さん」は中村が時代遅れだと述懐したが、それと同時に、時代遅れではない隆盛を極める「トルコ」として、岐阜県岐阜市にある金津園を相当意識していたようである。昭和も終わりごろに中村で特殊浴場を経営していた人の言であるが、現在に至るまで、中村と金津園が位置する東海地区の風俗産業事情に大きな変化は見られないような気がする。

 東海地区では、「シティへブン東海版」という風俗情報誌が販売されている。書店はもちろん、一般のコンビニでも売られているようなさほど珍しくもない雑誌だが、とにかく分厚いその威容は、かなり人目を引くのではなかろうかと思う。電話帳並みかそれ以上の厚さで、妙なたとえではあるがこれで人を撲殺することも出来るのではないかと思うほどである。2004年6月号を見ると、実に1505ページもある。

 その内容だが、最初の百数十ページはグラビアやら各種企画が続いている。そして、その後の400ページは、ひたすら業態がファッションヘルスとなっている店舗の広告が続くと見てよい。さらにキャンパスパブ(名古屋独特の業態らしいが実態がよくわからない)、デリバリーヘルスと、業態ごとにグラビアと広告がセットになっている形式が続く。ソープランドが始まるのは971ページ目からだ。紙面の構成自体は他業態と同じである。ソープのカテゴリは200ページほどだ。ただし、そのほとんどが金津園の情報に費やされ、名古屋のソープランドに割かれるページ数は20ページ足らずである。中村遊郭の流れを汲む大門エリアの店舗は、8軒が広告を出している。聞くところによると、名古屋のソープランドは大々的な広告を打てないように条例か何かで一定の縛りが加えられているらしいが、それ以上に、天下に名だたる金津園を相手に萎縮してしまっているイメージが強い。金津園は、東京吉原、滋賀雄琴、神戸福原などと並ぶ全国区のソープランド地帯である。同紙にも50軒以上の金津園ソープが広告を出しており、その意気は盛んだ。大門ソープは名古屋駅西口から20分も歩けばたどり着くような立地だが、JR岐阜駅の南口に広がる金津園は、名古屋駅から新快速列車に乗れば20分ほどで行ける場所だ。早い話、かつての中村遊郭は現在、巨大な金津園ソープと完全に商圏を同じくしているのである。

 それに加えて、名古屋市内のファッションヘルス・イメクラは、シティヘブンに広告を出しているだけで160軒を数える。ここに加えて30軒近いキャンパスパブ(ちなみにこのタイプの店は名古屋駅西口に多い)、100軒のデリバリーヘルスが大門ソープの競合相手となりうる。もちろん、商業誌に広告を出していない店舗もあるし、名古屋市内に存在する実際の風俗店の数はさらに多くなるだろう。名古屋周辺の風俗産業は文字通り立錐の余地がない状態だ。大門ソープにしてみれば、前門の虎・金津園、後門の狼・名古屋ヘルスといったところだろうか。前門の虎云々と言えばまだ聞こえはいいかも知れないが、酷な言い方をすれば始めから勝負は見えている。

 「中村遊郭」の今は、このような状態なのである。

参考文献
神崎 宣武、1989年、「聞書 遊廓成駒屋」、講談社
名古屋市中村区制十五周年記念協賛会編、1953年、「中村区史」、中村区制十五周年記念協賛会
シティへブン東海版(2004年6月号)、株式会社ワークスジャパン  

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