第三章(仮)  中村遊郭を歩く

 前置きが随分長かったが、いよいよ中村遊郭を歩いてみる。別項ですでに触れたが、かつての中村遊郭は現在も名古屋市中村区にある賑町、羽衣町、大門町、寿町、日吉町に跨る範囲に存在していた。これら5町の南西側に位置する名楽町も、戦後の中村遊郭の運営母体であった名楽園に由来する名前のようで、ここまでが遊郭ゆかりの町と見ても良いだろう。

 この章では、遊郭消滅から50年を経た中村の今を見て歩く。とりあえずの暫定版となるが、いよいよ中村遊郭探訪である。
(参考までに昭和31年時点の中村遊郭の概略図。妓楼が存在しない区画については割愛。また、周辺部はひずみが大きいのも注意。)

 2002年から3年にかけて旅館業を廃業し、建物を取り壊した大観荘(名古屋市都市景観重要建築物)の例を見るまでも無く、遊郭時代を偲ばせる妓楼建築は今も次第に失われつつある。ここに掲げた写真は、いずれも記録写真と言うには心もとないものばかりだが、それでも2004年現在の中村遊郭を後々まで伝える資料となれたら幸いである。

▼太閤通・大門交差点より望む

 
 
 以前に別項で「名前負けしている」というようなことを書いた太閤通から見た、旧中村遊郭方向。画面中央の道を奥へと進めば遊郭地区である。ちなみに、コンビニの写っているあたりが名楽町2丁目。
 地名が物語っているように、昔はこのあたりが中村遊郭への入口だった。遊郭は周囲から隔絶された都市空間の異界だったために出入口はごく限られていたが、現在では全方位から5つの町へ進入する事が出来る。象徴的な意味をこめ、この写真をトップに掲載しておく。
 
▼大型スーパーとソープランドが向かい合う風景

 
 
 画面奥にあるのがスーパー・「ユニー中村店」。手前左側にあるのがソープランド・インペリアル福岡。両者の間を隔てるのは幅10mにも満たない道路一本。お互いの店先から向かいの店の客の入りをつぶさに伺える状態である。ソープの客がかなり肩身の狭い思いをしそうなのは容易に想像できる。
 ただ、この町の歴史がそうさせるのか、スーパーの買い物客がソープを意に介している様子はない。
 
▼妓楼から旅館へ

 
 
 ユニー中村店の向かい側にあるビジネス旅館・牛わか。古い地図と見比べてみると、遊郭時代の屋号をそのままに旅館業へ転業した事がわかる。
 売防法施行直後、妓楼の経営者たちは当時の「トルコ風呂」なり旅館なり、あるいは料亭などへの商売替えを迫られた。
 遊郭の建物は、もともと宿泊にも供する事が出来るように造られていたはずだから旅館への転業も理にかなったものではあった。ただ、トルコにしろ旅館にしろ、売防法後は遊郭関係者にとって苦しい時代だったようだ。
 
▼長寿庵

 
 
 平成5年に名古屋市都市景観重要建築物に指定された長寿庵。長寿庵系列は中村遊郭時代に隆盛を誇った諸派閥のうちの一つ。ただ、昭和31年当時の地図を見る限り、長寿庵という屋号を掲げる妓楼は存在しない。このあたり、まだまだ不勉強を感じる。察するに、屋号に「壽」の字が使われている妓楼が長寿庵系列だったのではないか。
 現在は玄関先に表札がかかっている。どうやら、ごく普通の民家として使われているらしい。
 

 
 
 長寿庵といえばこれ。壁面に飾られた美人画。
 
▼住む人の無くなった遊郭の建物

 
 
 現在でも、時代の流れによる旧遊郭の淘汰は続いているのだろうか。今見られる大門界隈のソープは成駒屋の既述とは打って変わった今風のソープだ。そして、生まれ変わりに成功したものが残る一方で、旧態依然としたものの多くは消えていったようである。
 その中で、遊郭時代の様式をほぼそのまま残しているらしき建物を見つけた。現在は住む人がいなくなっているようだが、長らく空家にされていると言う雰囲気でもなかった。比較的最近まで居住者がいたらしい。こういった建物も、やがては姿を消していくのだろうか。
 
▼デイサービスセンター・松岡大正庵

 
 
 妓楼を廃業後に料理旅館となっていた松岡旅館。しかし、料亭としての経営も時代とともに難しくなり、2001年にデイサービスセンター・松岡大正庵として2度目の再出発を果たした。
 松岡旅館も名古屋市の都市景観重要建築物に指定された建物であり、関係者もその保存に頭を悩ませたとのこと。こういう形での存続は稀有な例ではないかと思うが、これが起死回生の策となることを期待する。
 
▼料亭・稲本

 
 
 中国風の建築様式が目立つ料亭・稲本。妓楼建築の中にあっても特徴的なつくりの建物だ。また、古色蒼然という表現がピッタリな他の建物に比べて、外観も小奇麗な印象を受ける。もちろんこれも、名古屋市の都市景観重要建築物。
 見ていると、何とはなしにノスタルジックな感慨にふけりそうになる。縁があったら一度くらいはお邪魔してみたいところ。
 
▼ユニー中村店裏通り・新金波

 
 
 一見するとどうということのない裏通りである。ここに「成駒屋」のインフォーマントだったお秀さんの店「新金波」がある。遊郭時代から同じ場所、同じ屋号で、同じ商売(と言うとやや語弊があるが)を続けていたことにちょっとした感動を覚えた。
 明治日本には「大阪富田家の八千代」、「赤坂春本の万竜」という二人の娼妓がいた。これに旭遊郭「金波楼の金吾」を加えて、「天下の三名妓」と呼んだと言う。
 そして新金波は、かつての金波楼と同じ「四海波」系列に属する由緒と歴史のある店なのである。
 
▼中村観音(白王寺)


 
 こちらのお寺の本尊は十一面観音。無縁骨を練り固めて造った仏像であるとのこと。この十一面観音はそれほど歴史の古いものではないらしく、中村に遊郭がやって来た頃にはすでに存在していたのだろうか。
 諸行無常が感じられ、そこから遊郭哀史を訴えかけてくるような場所でもある。大須から中村へと遊郭が引っ越してきたのは大正8年のことだ。いまだ苦界と呼ばれる劣悪な環境ではあったようだが、近世以前に比べれば、娼妓の待遇もいくらかは改善されていたのだろうか。
▼番外:納屋橋・ちらつく私娼の影


 
 旭遊郭にしろ中村遊郭にしろ、基本的には公認の売春宿だった。その影で、いつの時代にもモグリ営業を続ける者たちもいた。赤線時代の青線だったり、商売するための特定の店を持たない私娼、いわゆる「立ちんぼ」である。現在の名古屋駅西口路地裏でも、男性が然るべきタイミングにそこを徘徊すれば、近隣で「商売」をする立ちんぼから声を掛けられることもある。
 さすがにその営業活動を撮影する勇気は無かったので、名古屋駅西口と並ぶ私娼地帯・納屋橋近辺で見つけた看板を紹介しておく。日本語の警告文の下のほうには、アルファベットの一文も添えられている。一部は英語、残りはポルトガル語かスペイン語か。

参考文献
神崎 宣武、1989年、「聞書 遊廓成駒屋」、講談社
名古屋市中村区制十五周年記念協賛会編、1953年、「中村区史」、中村区制十五周年記念協賛会
服部鉦太郎、1973年、「明治・名古屋の顔」、六法出版社
木村聡、2002年、「赤線跡を歩く」、筑摩書房
若山滋、1993年、「遊蕩の空間 中村遊郭の数奇とモダン」、INAX

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