奥三河の花祭と国学者

早川孝太郎の年譜

 山田慶「目と耳と足で書いた民俗学者 早川孝太郎」『三河人物散歩』(愛知県教育文化振興会編・平成9年〔1997〕)に基づき要約、その元となる参考資料:詳細な年譜は三隅治雄「早川孝太郎」『日本民俗文化大系(7)』評論社・昭和53年〔1978〕の「早川孝太郎の年譜」と照合、宮本常一「早川孝太郎氏を悼む」『民族學研究』21巻3号(昭和32年〔1957〕212頁、須藤功著『早川孝太郎』(ミネルヴァ書房・平成28年〔2016〕)の巻末「早川孝太郎年譜」を参考に山本正名が作成。

明治22年〔1889〕12月20日 愛知県南設楽郡長篠村横山(現新城市)で生まれる。
明治36年〔1903〕3月 長篠尋常小学校高等科卒業。のち農業手伝い。小学校時代は図画や読書を好む。
明治37年〔1904〕頃 大野銀行豊橋支店勤務、かたわら市立素習学校(今の時習館高校の前身)に通う。
明治41年〔1908〕 同銀行勤務を辞めて上京、洋画の勉強に励む。
  大正年代に入り、洋画から日本画に転向した後、大和絵の松岡映丘の門に入る。
大正3年〔1914〕 薬問屋の長女てると知り合い結婚
大正4年〔1915〕 柳田国男主宰の民間伝承研究の雑誌「郷土研究」に「三州長篠より」を投稿、長男誕生
  柳田國男に認められ、民俗学へ転向。折口信夫と出会う。
大正8年〔1919〕 長女誕生
大正9年〔1920〕 柳田国男と共著『おとら狐』刊行、折口と早川は「おとらさん」、「折口先生」と呼ぶ間柄となる。
大正13年〔1924〕 早川、奥三河の花祭を下調べ
大正14年〔1925〕 次男誕生
大正15年〔1926〕1月 折口信夫とともに長野県新野の雪祭と奥三河三沢山村の花祭を見学・採訪
  帰京後、柳田の紹介で渋沢敬三と会い、資金援助の勧めから奥三河の花祭を調査・研究
  渋沢は郷土玩具の熱心な蒐集家+「花狂い」となって、毎年のように花祭見学、民具を収集

昭和5年〔1930〕4月 早川41歳、『花祭』前・後編2巻(各巻とも1650頁、挿絵240個、限定300部刊行、定価25円)出版(当時、ほとんどの書籍は2〜8円)、渋沢邸改築時に、中在家の花祭を招待して披露

昭和7年〔1932〕 柳田国男著『女性の民間伝承』の編集を任され刊行。柳田の不興、家庭内の不和か。
昭和8年〔1933〕 渋沢の勧めで九州帝大農学部農業経済研究室に助手として単身赴任、各地を探訪調査
昭和11年〔1936〕帰京、農村更正協会に就職、簿記、農業経営指導等で全国各地をまわる。
  伊那地方の調査、満州移民へ協力
昭和15年〔1940〕 東亜研究所の依頼を受けて、朝鮮、満州、蒙古、華北の農村の食糧事情を調査
昭和16年〔1941〕 早川52歳、伊那地方に出張し、宮崎智恵(22歳)と恋仲に
昭和17年〔1942〕 下伊那郡鎮西で智恵と結婚。ここから東京等に通い、また満蒙開拓移民の推進に尽力
昭和19年〔1944〕 長女病死、翌年長男誕生
昭和21年〔1946〕 農村更正協会を辞職、茨城県の高等農事講習所(後の鯉渕学園)講師に就職、「村落社会学」の講義担当
昭和22年〔1947〕 茨城県学園内で自炊生活、時々山口に通う。次男誕生。民俗学研究や仲間との交流なし。
昭和25年〔1950〕 『佐賀県稲作坪刈の研究』刊行
昭和26年〔1951〕 山口市から家族を迎えて武蔵野市に居を定める。
昭和28年〔1953〕 早川の研究室の火事で蔵書1万冊焼失。その後、全国農村家庭の食糧構造の調査
昭和30年〔1955〕 国の文化財保護委員会専門審議委員となり、民俗資料の指定・選択の調査
昭和31年〔1956〕 夏、久しぶりに北設楽を訪ね、設楽民俗研究会のメンバーと会う。
昭和31年〔1956〕 8月に発病(悪性の肋膜上皮細胞腫)、12月に病状悪化で死去、67歳。法名「春秋院花泉渉月」

主要著書に『花祭』、『早川孝太郎全集』(全11巻)などがある。