囚人役達にリンチをくらう囚人番号38:シュタインホフ

長らく観たいと思っていた『es(エス)』を、やっと観てきました。
1971年に、アメリカのスタンフォード大学で実際に行われた
心理学実験を基にしたフィクションです。



warning:
私は心理学についての知識をほとんど持っていません。
これは、そんな私がこの映画を観てどう思ったかを率直に述べたものです。
この記述に対して「そりゃ違うだろ」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、
飽くまで個人的な意見である事をご了承ください。








「被験者求む ─── 学内の模擬刑務所において2週間の実験を行います。報酬は4000マルク」


新聞に掲載されていた広告を見て集まった20名の一般人が、看守役と囚人役に振り分けられ、大学内に作られた模擬刑務所で過ごすという実験が行われる事になった。被験者は、この実験を取り仕切る教授から「看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしく振る舞うように」と言い渡される。また、囚人には以下の6つのルールが課せられた。

・囚人は、互いに受刑番号で呼び合うこと
・囚人は、看守に対して敬語を使うこと
・囚人は、必ず看守の指示に従うこと
・囚人は消灯後、会話を交わしてはならない
・囚人は、出された食事を全て残さずに食べること
・ルールを違反した場合、囚人には罰が与えられる

このような環境下に置かれた看守役・囚人役の人格が、2週間の間にそれぞれどのように変化していくのかを観察するための実験だったのだが、それはわずか7日間で中止せざるを得なくなるという結果に終わった。この実験に関する訴訟は今もなお続行しているらしく、現在、この類の実験は倫理的に禁止されている。








<遊びが遊びでなくなる瞬間>

「ただの好奇心だよ。刑務所生活を体験できるんだろ?」と、面白半分で実験に飛びついた者。「4000マルクという大金が魅力だった」という金目当ての者。「これをネタに記事を書けば絶対にイケる!!」と、出版社にかけあって応募した者。動機は様々だが、広告を見て集まった人々はみんな、温厚なフツーの人達。看守役を与えられた者達は、警棒や制服を与えられてゴキゲン。一方、囚人役に回った者達は、お粗末な囚人服や殺風景な囚人房など、これまでとは無縁の世界を面白がっていた。

軽いノリで始まった実験だったが、「囚人は自分達の言いなりなんだ」と分かった瞬間から、看守役は次第に凶暴な人格へと変化していく。囚人を丸裸にして、立ったまま一夜を過ごすように言いつけたり、バリカンで丸刈りにし、土足で踏みつけた囚人の頭の上から放尿したりという卑劣な行為を重ねる看守達。「俺の事を『看守さん』と呼べ!! さもなければどんな目にあうか分かってるんだろうな?」....囚人は看守に絶対服従....看守だけが持つ特別な権力を振りかざすその顔に浮かぶ、不気味なほど歪んだ薄ら笑い。

精神的に追い詰められていく囚人
同時に、看守によって非情なまでの拘束・暴力にあう囚人達の精神は、次第に病んでいく。「看守は恐い」というイメージを植え付けられ、日に日に自分の殻に閉じこもって卑屈になっていく囚人達。実験が開始されてわずか数日後には、看守を見るだけで恐怖のあまりに暴れ回る者も現れる。

ホンモノの看守のように、次第に高圧的な人格へと変わっていく看守役。それとは反対に、ホンモノの囚人のように没個性化し、無気力になっていく囚人役。実験を試みた教授陣が、もはや実験どころではないという危機を感じた時、既に事態は想像を絶する恐ろしいものとなっていた....。







<「状況」が持つチカラ>

この映画のタイトル「エス」というのは、心理学用語で「無意識下の欲求」を意味するらしい。体育や、スポーツ心理学の講義でフロイトの事をチラッと習った事があるけど、「エス」は、自己を形成する3要素のうちの一つで、「エゴ」「スーパーエゴ」に続く最も深い部分に位置するそうな(懐かしい響きですね。学校で「エゴ」を習った方、多いのでは?)

この心理学実験では、「状況の力」についてがテーマとなっている。人間がある状況下に置かれた場合、その人間の人格がどう変化(順応)していくのか。模擬刑務所という環境下で、看守・囚人という「状況」を与えられた人々は、わずか数日でその環境に順応し、いつの間にか看守らしさ・囚人らしさを身につける。刑務所とは無縁の善良な人間であるにも関わらず、だ。彼らは自分自身をコントロールする力を失い、看守・囚人という「状況」にコントロールされてしまうのである。

そう考えてみれば、私達は常に「状況」にコントロールされているとも言える。私自身を例にとれば、「私」という人格は、以下のような状況に支配されている一人の人間なのだ。

・家族の一員
・企業に務める社員
・スポーツインストラクター

もちろん、社会における私の役割はこれだけではない。友人、先輩と後輩、先生と生徒、上司と部下、同僚、ただの通りすがり....人に接する際、私に要求される役割は、挙げればキリがないほど多種にのぼる。私は相手によって自分の役割を変え、それ相応の接し方をする。無意識に行っている事ではあるが、これも「状況の力」によってコントロールされた上での行動に他ならない。

実験の経過をモニターで見守る教授達また、「私」という人格は、これまでに置かれてきた状況の中で得た人生経験によって形成されており、これはいわゆる「積み重ねの結果」とも言える。もしスポーツインストラクターをしていなければ、おそらくもっと違った人格になっていただろうし(←これは明白。前よりふてぶてしくなったもん・笑)、一日違いで内定をもらった某銀行に入社していれば、今とは全く異なる人格が形成されていたハズ。

人格は状況によって形成・変化するものである....この映画は、いかに人間が影響を受けやすい生物であるのかを改めて示唆しているように思える。

過去にファシズムへの道を歩んでしまったドイツが、奇しくもこのような映画を作ったという事も興味深い。アドルフ・ヒトラーによる独裁政権下で、なぜユダヤ人の大量虐殺というおぞましい事件が起こったのか。この映画は、その答えのヒントを垣間見せてくれるような気もする。


固い文体になってしまった....


ちなみにこの映画のクライマックスは....どっひゃー!!!!!! なんてマヌケな雄叫びどころじゃござんせん。フィクションと分かっていても、見るに堪えないぐらいでした。あまりのスゴさに、隣りに座ってたオンナの人なんて、のけぞって顔を手で覆ってたもん。それぐらい生々しかったの、ホントに。終わってからお手洗いに行ったんだけど、個室に入るのが恐かった。小さな空間に対して、なぜかすごく恐怖を感じたんです。映画を観ている間は、この実験の経過を観察する教授達のような心境だったけど、心のどこかで自分自身を囚人役の立場に置いてたのかな、なんて思ってしまいました。

もしかしたら....この映画に興味を持って、わざわざ自発的に劇場まで観に行った私って、実は、自ら進んで被験者になる事を望んだこの映画の登場人物達と同類なのかもしれない。そう思いません?


この映画のもとになった、スタンフォード大の「監獄実験」(Stanford Prison Experiment)に関するHPもあります。全て英語ですが、画像もたくさん掲載されているので、興味のある方はコチラへどうぞ。