Apr.2004








『Signs』(『サイン』)

自分が所有する畑に突如現れたミステリーサークルを見て「いよいよ宇宙人による地球侵略が始まったか!?」と、すっかり妄想モードに陥って大パニックを起こす一家のオハナシ。

アタシ、かなりウケまくったんだけど、これってコメディ?(笑) ちょっとしたハズし技、話のオチ、すっとぼけなキャラ達(←ホアキン・フェニックスに至っては、文句のつけようがないぐらいの最高級のすっとぼけぶり)、どれを取ってもコメディでしょ。オマケにあのエイリアンって....(爆笑) いかにもありがちなイメージだわ。きっと幼い頃のシャマラン少年が描いていたエイリアンの姿をそのまま映像化したんだろうなあ。

でも、いろんなトコに伏線を張ってたのは、さすがシャマラン監督だなと思いました。これまでの『シックス・センス』や『アンブレイカブル』と同じく、ほんのちっちゃなコトにも意味を持たせている丁寧な作り込みは素晴らしいと思います。アタシの基準では『アンブレイカブル』はイマイチだったけど、『サイン』は結構笑えます。でもこれって、マジメなモノを期待して観たら肩透かし食らうかもしれないんで、飽くまでコメディ度を追及していただければいいかと思います(笑)









『Dogville』(『ドッグヴィル』)

人口20名ちょいの極小村「ドッグヴィル」の住人達と、ドッグヴィルに迷い込んだおかげでチヤホヤされたり拷問されたりと大忙しな日々を送るハメになった謎のオンナが織り成す理不尽ストーリー。

「何から何までド肝を抜かされる超奇抜な一品」という他にどう表現すればいいんでしょう?とにかくスゴいっす。きゃー!!!!!(叫) 全編スタジオ内での撮影、大道具はベッドと椅子と家のドア(笑)、運動会の時に石灰を使って引いた白線を思い出さずにはいられない村のレイアウト(爆笑) ハッキリ言って、視覚的には学校の演劇部レベルと大して変わりのないセット。とにかく、とっぱなから「なんぢゃこりゃああああ!?!?」という雄叫びの連続である。でも、そんな異様なドッグヴィル・ワールドも、時間が経つにつれて目を放せなくなってくる。その「目の放せなさ度」のスゴさが、かのカンヌ映画祭で賛否両論を巻き起こしたと言っても過言ではない。

結局、この映画で何が怖いかって言えば、村人達の群集心理なんすよね。なんかもう人間の根底に巣くってるおぞましい本能が、めーいっぱいスクリーンにぐわわっと現れてるってカンジ。赤信号もみんなで渡れば、って、まさにアレ。車の通ってない状態での赤信号なら、別にみんなで渡っちゃってもいいかなって思ったりするけど、この映画は次元が違うだろ次元が!!!! でもこれって、今の中東で起こってる戦争で拷問しただのしないだのって言ってるのと、心理状況がまったく同じだと思う。気持ちがそれっぽくなっちゃうのよね、きっと。舞台がちっちゃな村か捕虜収容所かってだけの違い。

もしアタシがドッグヴィルの住人だったら、他の村人達と一緒になって、あのうつくすぃキッドマンにあーんな事やこーんな事をしちゃうんだろうか....う、考えただけでもゾッとする。









『Dogville Confession』(『メイキング・オブ・ドッグヴィル』)

そんな恐ろしい心理映画『ドッグヴィル』の60分間のメイキング。

あまりにも重々しいテーマを扱うため、仕事を続けるうちに俳優達に精神的重圧が大きくのしかかるのを見越したのか、セットの外に『言論の自由』と名づけられた小部屋が設置された。ここでキッドマンを始め、各キャスト達が、思いのたけをぶつけまくっている。キャストだけでなく、ラース・フォン・トリアー監督自身までもがグチをこぼすわ懺悔はするわ、すっかり赤裸々部屋と化している。

監督からハイレベルな演技の注文をつけられ、どうしたらいいのか次第にワケがわかんなくなっていくキャスト達に向かって「オレはお前たちにギャラ払ってんだぞ!!!」と吼えるトリアー監督が笑えます。そうかと思えば、監督自身が無茶なほどハードな仕事を俳優達に要求してるくせに、逆にショゲちゃった監督を慰めるキャスト達。なんだこの妙なコンビネーションは....(爆笑)










『In the Cut』(『イン・ザ・カット』)

ひょっこりと聞き込み捜査に現れた刑事にフラつき、オンナとしてのあらゆる欲望が目覚めちゃった大学教授のオハナシ。

監督:ジェーン・カンピオン、製作:ニコール・キッドマン、主演:メグ・ライアンという、ちょっとオンナくさい映画である。『ある貴婦人の肖像』や『ピアノ・レッスン』など、カンピオンの作品にはかなりクセがあるのだが、この作品もまた然り、ってなカンジだった。もともとこれはスザンナ・ムーアの小説を映画化したものだが、現代の風潮に合わせるためか、原作とは最後のオチが異なっている。試しに原作も読んでみたが、どっちのラストシーンにしろ「イマイチ理解できねーよ!!」という人は多いような気もする。まあ「そこがカンピオン独特の個性なのよね」と言っちゃえば、コトは簡単に片付いちゃうんだけど(笑)

これって、ある程度の年齢を重ねないと、観てもつまんないかも。おそらく、ハタチそこそこのコがメグ・ライアン目当てに観に行ったら「なんじゃこりゃ!?」って思うんじゃないかなあ。個人的な事を言わせていただくと、アタシはこの映画のあるシーンを観て、ちょいと泣けてしまったのである。歳とって若干ヨレかけのオンナがとった×××な行動(←ネタバレ防止)が、なぜかわからんけどミョーに理解できたんですよねえ。でもこれは今のアタシが観たからそうなったのであって、きっと10年前のアタシがこの映画を観てたら「はぁ!?!?」って思ってたに違いない。

もともとこの映画の主役はキッドマンが務める予定になっていたのだが、彼女の体調やらなんやらといった理由でライアンが演じる事になったらしい。でも、もしこの映画の主役を超美形なキッドマンが演じていたら、なんだかハナシがウソくさく思えたかもしれない。このテのプロットって、際立って美しい人間が演じると、視覚がそっちにいっちゃうからダメなのよねー。むしろライアンみたいなフツーの雰囲気を持ってる俳優が演じる方が、かえって映画全体のバランスが良くなるし、よりリアルっぽくていい。そういう意味では、ライアンはいい仕事してると思う。ただ、この役を彼女が引き受けた事が、興行面や彼女のキャリアの面でどうだったかというところは。。。。なんとも言えないけどね。









『Something's Gatta Give』(『恋愛適齢期』)

娘のカレシ(←っつっても60を越えたオヤジ)と恋に落ちちゃう50代オンナのドタバタ・ラブコメディ。

アタマ使わなくても十分対応可能なぐらい先の読める単純明快なプロット、お決まりなラストシーン、教科書どおりの起承転結、これこそラブコメの王道である。そんな決まりきったラブコメを成功させるには、どんなキャラを絡ませるか、そして、そのキャラを誰に演じさせるか、また、どれぐらい気を利かせたセリフを使って観客を楽しませるかといったところに重要なカギが存在する。ラブコメは、キャスティング&ベタさのサジ加減を間違うと、見るのも耐えられないほどヒドい仕上がりになるが、この作品はそんなポイントをめちゃめちゃウマくおさえている。

ダイアン・キートンには、57歳とは思えないぐらいの特別な魅力がある。大口を開けて楽しそうに笑ったり、失恋したと言って家中に響き渡るぐらいハデに泣きまくるあの表情は、別にオトコじゃなくても、いとおしくなってしまう。おそらく、この映画を観た世の女性達は「あんなふうに歳を取りたい!!!」と思ったハズだ。ついこの間まで「ラブコメの女王」と言われていたメグ・ライアンが57歳になった時、果たしてこの役をうまく演じられるのだろうか?というのは、アタシの素朴な疑問である。

相手役のジャック・ニコルソンもまた、これまでの彼のイメージとは一味違った珍しいキャラを演じている。「オンナは20代に限る」という若いオンナ好きなところは、実際のニコルソンと大して変わりはなさそうだが(笑) ホントに好きになってしまった女性とどう接していいのかがわからない、という不器用さや恥じらい。そのあたりは、以前ヘレン・ハントと組んだ『恋愛小説家』のキャラにも似ているが、『恋愛適齢期』では、それに輪をかけたイケてるギャグも盛り込まれている(ニヤニヤ) いいぞニコルソン!!!!!

個人的には、ダイアン・キートンの妹役を演じたフランシス・マクドーマンドが好みである。特に美形ではないし、一見どこにでもいそうなおばちゃん(←失礼)なのだが、非常に面白味のある彼女の演技は、いつも楽しい気分にさせてくれる。数年前に『ファーゴ』でオスカーの主演女優賞を取っているが、どちらかというと主役よりも脇での演技の方が見ごたえアリ。現在の名バイ・プレイヤーの一人と言ってもいいのではないかな、というのがアタシのちょっとした意見であります。

迷った時に優しく背中を押してくれそうな作品。特に30代以上の人には、ぜひぜひ観てほしい一本です。20代中盤までの人たちには、ちょっと理解しにくいかも。だって、まだ若さオンリーで生きていける世代だもんね。