ご紹介いただきました川崎展宏でございます。今のご紹介を伺っているうちにだんだん頭が垂れて参りまして、このまま退散したほうがいいのではないかと恐縮しております。
 「南風」70周年、本当におめでとうございます。古稀の艶、その艶が若々しい艶であることを、さきほど控室で「南風」を拝見しながら感じた次第であります。
 昨年の秋でございましたか、鷲谷先生から突然お電話を頂戴いたしまして、70周年記念に何か話を、ということでございました。思わず「生きておりましたら」とお答えしまして、何だか軽々しい答えだと反省したんですけれど、本心でもあったんです。実際、私の中学の後輩の平井照敏が最近亡くなりましたし、生きておりましたらというのは嘘ではございません。ところで壇上で時々私はハンカチを出して目を拭うかもしれませんが、これは感動ではなくて老化によって涙腺が詰まって、鼻の方へ行くべき涙が溢れてくるので汚い話でございます。初めに申しておきますが、私は満76歳でございます。賞味期限ははるか昔に切れておりまして、現在は頬っぺたに廃棄処分という赤いハンコがぺったり貼ってございます。こういう場所に呼んでいただけるのは光栄なことで、「元気を出さなきゃ」と自分を励ましている次第でございます。どんどん固有名詞を忘れてしまいますので、まさか、高濱虚子の名を忘れるとは思いませんが、実際、虚子と子規を混同して話していることがあったりして大変危なっかしいので、固有名詞は全部書いて参りました。しょっちゅうメモを見て国会答弁みたいで大変お見苦しいとは思いますが、ご勘弁下さい。

 私はここの会場へ来るのに、新幹線の「のぞみ」を使って来たのでありまして、近代文明の恩恵はたっぷりと受けている筈でございます。しかしながら、速くて便利という、そして新しさを競うという近代文明の在り方に、この齢になりますとついて行けない。恩恵を被りながらいちゃもんを付けるのは悪いことでございますが、詩歌に携わる者には、恩恵を受けている現代に対していちゃもんを付ける、そいういう使命があるのではないかと思いますので悪しからず。悪しからずといって誰に悪しからずといっているのか解らないのですが・・・・。速くて便利というのは日常の生活に関わることだけでなく、産業革命以来、近代文明が進むにつれまして、人間が生きる死ぬ、これだけは絶対に科学でも解決がつかない、死すべきものとしての人間の在り方というものを、近代以前ならこれは神様に預けてしまえばいい訳ですが、神様に預けることが出来なくなりましたものですから、生きている基本を考えようとするのは詩人がやらなければならなくなります。そうすると詩人の一人一人がその大問題、生き死にを含む大問題を考えようとしますから、脳が爆発致します。近代の詩人達の多くが狂うのはそういうことではないかと思うのです。文学に致しましても、常に個人とその個人の独創が尊ばれます。そして新しさをお互いに競うのが近代文学の在り方でございます。そういうものに私はついて行けない、又、人々について行けないという共感が得られる時期が来ているのではないかと思います。
 そういう私にとりまして、今、虚子が新しいのです。新しいというのは近代の方向で新しいのではなくて、近代の新とは次元の違った意味で新しい、そういう思いを今いたしております。「今、思うこと」の中心はそういうことでございます。

 そこに芭蕉の葉がございます。これをどう詠むか、

 横に破れ縦に破れし芭蕉かな (昭和9・11 新歳時記)

 どうしてこの句を真っ先に挙げるかと申しますと、ぼろぼろになるまで使っております虚子の新歳時記の中で、この一句が最近ぐーんと胸に来たんですね。そしてそのぐーんと来た気持ちを何とか今日この席でお話できたらと思いまして始めに挙げる次第です。これは『五百句』には名言っておりません。しかし、そんなっことはどうでもいいのです、一句と私との関係ですから。この句は単純そのものですね。しかし、何か背筋をただされる、詩歌の鞭で背中を強く打たれたといったある種の痛さと快感がある、そんな気持ちでこの句を受け取ったのでございます。その時に思い出した虚子の言葉があります。資料にも書いてありますが、

 渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句。

この言葉だったんですね。これは明治36年10月に「ホトトギス」に発表されました「現今の俳句界」という碧梧桐の作品に対する批評の文章なんです。実は、「渇望に堪へない句は、単純なること棒の如き句」の前に「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて」と付いております。「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて、渇望に堪えない句は・・・」と続いていくわけです。では、碧梧桐とはなにか、これはやはり個性と独創を競う近代俳句の新を求め続けるという姿勢の原点となった、そういう意味で近代俳句の非常に大きな存在だということは申し上げるまでもございません。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>が今の私には強靱な句に思えます。「重々しき事石の如き」というのは比喩でありますから、私が受け取ったのはまず強靱だなということ、それから単純なる事棒の如き句だと思います。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>それだけなのですから。無味なる事水の如き句、ちっとも味付けがしてございません。これは正に平成の現今の俳句界で渇望に堪えない句ではないかと思った訳です。この齢になって、又一つ虚子の句を発見したという思いがします。見方を変えて言えば、これは、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句じゃないでしょうか、だってただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>なのですから。何じゃこれは、冗談じゃない、何にも新しくない、ただの葉っぱじゃないかということですけれど、立場を変えれば渇望してやまない句の条件をいくつも満たしている句じゃないですか。虚子の発言は一言でいえば、T気の利いた新しさUを狙った碧梧桐の俳句の在り方を痛烈に批判した文章であります。私にとっては、近代俳句の問題として、現代俳句の問題として、今の自分自身の問題として、渇望に堪えないのが、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句ということですね。無味なる事水の如き句、立場をかえていえば、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句、そういう句が出来たらなあと思います。句は授かるもので作れるものではありませんが、今こそこういう句が欲しいと思います。

 次に、やはり芭蕉の葉を詠んだ路通の、

 芭蕉葉は何になれとや秋の風  路通

 いい句ですね。この句にはTアU母音が八つあるんです。それで葉がはためいている感じがするのでしょう。詩歌が人の心を惹き付けるのはそういうところなんです。各務支考が「一生の風雅をこの中にぞととどめ申されけむ」、路通の俳諧の最も良いものがこの中に結晶しているだろうと言っております。路通には心根の卑しいところもございまして、弟子仲間から批判され忌み嫌われた路通が自分の境涯を託した句として、現代のわれわれにも訴える力がある句なんですが、これは、単純なること棒の如き句でも、重々しき事石の如き句でも、無味なる事水の如き句でもないんです。路通といえばこの句を思い出してきましたが、この句の良さは良さとして、今のわたしは虚子の句により強く惹かれます。生きているといろんな句に出会いますね、その時その時で変わって、その前の句が見劣りがしてというよりも、自分の子のみから外れて、新しい句が立ちのぼって来る、それでいいんじゃないでしょうか、それが生きているという事だと思います。<五月雨をあつめて早し最上川>って句は名吟といわれて来ましたが、私はある時期からうるさい句だと思っておりました。「Tあつめて早しUがうるさい」、これは僕だけがいったんじゃないんですよ、なんと子規が「仰臥漫録」ですでに言っておりました。ただ、「あつめて早し」を最上川そのものに対する挨拶ととれば十分納得できるという、そういう条件を入れないとあの句は名品であるとは思えないのですが・・・。最上川をたたえる前の文章といっしょに読むと迫力のある句となります。

 では、<横に破れ>の句、これは写生の句なんでしょうか。写生といえば写生の句で、写生の権化の句だといえばそうなんです。私はちょっと違うと思うのです。写生というのは子規が広めた方法で、近代俳句の中心的な方法であったに違いないけれど、写生は写される対象と写す人間が必ずいる筈ですね。でも虚子は写生について、「写生主義」という文章を昭和4年に書いておりますけれど、ふつう僕たちが考えているのとはちょっと違うんです。虚子はそれを「客観写生」と言いますけれど、客観を大きく主観を小さくという方向で写生をしろと言ってるんです。客観を大きくというのは、虚子のいう客観は花鳥ですから、花鳥を大きく、それを詠む人間を小さく、これが写生の基本だと言ってる訳なんです。私は「写生主義」という文章が大好きで、何回も読んでいますが、一生懸命に一茎の草花とか一羽の小鳥を写生していると、それが大変「近しいもの、親しいもの」に思えてくる。又、それが「非常に親愛な、非常に力強いもの」に思われる。こうなって来た時に、虚子のいう写生の第一歩が始まる。「一茎の草花、一羽の小鳥にのみ真実があって」自分がどう思う、こう思うというようなことは、何の価値もないものだと思った時に、それで写生の第一歩だというのです。この齢になるまで何度も読みましたけれど、第二歩ぐらいまでは解るけれど、第三歩までは解らないのです。今日この席で解るように奮闘しようかと思っているのですが、まず花や鳥が大変懐かしいものになる、それから親愛な力強いものになる、真実は鳥や草花の方にあって自分がこう思う、美しいと思う、可愛いと思うなどということは何でもないんだと、どうも僕らが一般に考えている写生と違うんですね。人間を消す方へ消す方へ持っていくのです。「虚子の写生には人間がない」、そういう事を言われた時期もありましたが、私は近代の人間の脳の肥大化、人間の傲慢に対して、人間を小さく花鳥を大きくというのは、強烈な近代批判であるし、現代の先端に立つ思想だと考えることも出来るんじゃないかと思います。第二段階には、自分が心を詠もうとすれば花鳥の姿が具わっている、花鳥を吟詠しようと思うと自分の心がちゃんと出ている、これが第二段階であります。第三段階になるとなかなか解らないんです。「更にその心を空しうして、大自然に接し、常に心を流動の姿に置くということ」これは一体どうすればいいんだろうか、なんとなく解りそうだが、解ったような顔をしないでおきます。解らないけれど方向としては、第一段階の方向を突き詰めて行けば、そういうことになるのであろうということが解れば、それでいいのだと思います。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>は第一段階でもあるし、ことによると第三段階でもある、というのは、横に破れ縦に破れたというのは、場面のショット、写真撮影じゃないですね。秋風が立つまでの、まず玉巻く芭蕉、それから葉っぱを広げる芭蕉、風が吹いて揺れる芭蕉、やがて破れる芭蕉、枯れ芭蕉になる前の葉がぼろぼろの芭蕉、最後に枯芭蕉ですね。これは天地の運行を含んでいると読めるんじゃないか、そうしますと虚子の写生主義の第一段階とも我々は納得するし、第三段階にもなっている。大自然に接し、常に心を流動の姿に置いている者が流動の姿のままの芭蕉を捉えた句ではないかと思った訳です。

 写生の話はこれくらいにしまして、芭蕉、といっても芭蕉翁じゃありませんで植物の芭蕉のことですが、虚子はお母さんのお腹の中にいる頃から謡曲を聞いて育ちましたし、虚子はお能をやりましたから、謡曲の「芭蕉」を聞いていない筈はない。知らない筈がないんです。虚子の晩年に「芭蕉の女」という写生文がございます。熊本の江津湖に芭蕉林がありますが、その芭蕉林の近くで「ホトトギス」の集いがあった時の経験を写生文に書いています。その時にいつも側にいるお弟子さんが虚子の手を曳いたんですね。そしたら熊本の元気な女性が立ち上がって、私にも先生の手を曳かせて下さいと言った。芭蕉林を訪ねた時に手を曳かせてくれと言った女性がいたので「芭蕉の女」を書いたのです。謡曲の「芭蕉」は、皆さんよくご存じとは思いますが、中国の片田舎の話なんです。お坊さんが一所懸命法華経を読んでいる。その中の薬草喩品(ゆほん)という、草木も成仏するというお経を読んでいると、女が現れて私にもそのお経を聞かせて下さいという。何故聞きたいのかと問うと、「私も仏恩にあずかりたい」という。それじゃお経を読んでいる間だけ、ここに上がって聞きなさいといってお経を聞かす。その女性は芭蕉の精の化身であったのです。やがてその女が芭蕉の精そのものとして現われ、草木成仏のお経の力によって救われたと最後に序の舞を舞って終わるという謡曲の内容を短く紹介して、虚子が、「俳句は花鳥諷詠の詩である。これに依って人間も草木国土も共に成仏し、極楽に大往生する。私の手を曳かせてくれと言った女性は花鳥諷詠に縁があって、これでこの女性も極楽往生する」と、花鳥諷詠というのはそういうものだと言っている。こういう写生文があるくらいですから、意識の中にお能の「芭蕉」があって句を作ったか、或いは意識を全くしないで作ったかはわかりませんが、「芭蕉」の科白を虚子が知らなかったということはまず無いでしょう。これは断言できると思います。ところで、作品の言葉はただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>だけであったのです。

 序の舞は、

 シテ 霜の経(たて)、露の緯(ぬき)こそ弱からし

 地  草の袂は

 シテ 久方の

 地  久方の、天つ乙女の、羽衣なれや

 シテ これも芭蕉の、葉袖を返し

 地  返す袂も芭蕉の扇の、風茫々と、ものすごき古寺の
     庭の浅茅生、女郎花、刈萱、面影移ろふ、露の間に、
    山おろし松の風、吹き払ひ吹き払ひ、花も千草も、
    ちりぢりに、花も千草も、ちりぢりになれば、芭蕉
    は破れて、のこりけり

 これで閉じる訳です。そしてふと現実に戻った脇僧が見たものは、古寺の破れ果てた一本の芭蕉であったというのであります。私の実に勝手な読み方ですが、「霜の経(たて)、露の緯(ぬき)こそ弱からし・・・花も千草も、ちりぢりになれば、芭蕉は破れて、残りけり」ここまでを前書きに致しまして、<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>と置いたって様(さま)になるんじゃないかと思います。単なる写生ではない、その中に諸行無常を含んでいる。諸行無常というのは人類が天地の運行とともに親兄弟や友人、自分の死を思いながら感じるものであって、天地の運行に関わりのあるものでございましょう。<横に破れ縦に破れし>の句も天地の運行を含んでいてもいいのではないか、その諸行無常を含んだ「芭蕉」を見終わって、自分の心の中でこの一句を口ずさんでもいいんではないかと思うのであります。

 ところで、今年の二月に「俳句朝日」で、稲畑汀子、稲畑廣太郎、私、倉橋羊村、深見けん二、坊城俊樹の6人に虚子の句を各50句選ばせて、どれが共通しどれが共通しないかという企画をやったんです。総合誌ですから、いろんな企画を思いつくのでしょう。虚子が好きな人たちばかりですから重なる句が随分あると思いましたが、6人が選んだ句は、

 たとふれば独楽のはぢける如くなり  

 この一句だけだったんです。<去年今年>など6人重なると思いましたが重なりませんで、驚きました。その中での15句は私一人だけでありました。この中の6句を取り出して参りました。これについて喋れば私なりの虚子についての思いが出てくるんじゃないかと思います。

 まず第一句目は

 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城

 この句は大正2年の守旧派宣言と同じ頃に作られた句でして、法の城というのはお寺ですね。季語と定型をちゃんと守るという城に自分達は立てこもるのだという宣言の句だと思います。そういう宣言という意味を外しましても、イメージとして、霜が真っ白に下りた法の城が見えてくるのです。これはお寺とも思えないし近世の城とも思えない。何か分からないけれど、俳句の城、虚子の言っている句の城がぼうっと見えて来るように思えるんです。しーんとしていながら実に強い。そしてこれも音が働いていますね。TシUというしみ入るような音です。意図している訳ではないのですが、作者の天才はこういうところに自ずから出てくると思います。霜は日が射せば儚く融けてしまう弱々しいものでありながら、非常に厳しいものでもありますね。霜というものの働きが、詩として胸に訴えてくるんじゃないかと思います。この句については虚子自身が、「ホトトギス」に書いているんですね。この虚子は、一見ヌラッとしたような虚子とは全然違います。

「寺!それは俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所、足が一度三文をくぐるとそこはもう何人(なんびと)の犯すことも許さぬ別個の天地である。
法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、そこに冷たき寒き彼等の生を護つてゐるんおである。彼等は何によつて其城を護るのであらう。曰く、風吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落葉がすれば落葉を楯とし、霜が降れば霜を楯として」

と。かつて子規が「熱きこと火の如し」と評した虚子の面目がここに出ていると思います。俳句の約束と形、そこから生まれる余韻を大切にしようとした、その決意をこの句が語っていて、その決意がプロパガンダとしてではなくてイメージとして訴えてくる、そいういう意味で僕はたまらなく好きな句です。この句は兵隊の句じゃないですよね、将の句です。説明は出来ないけど位があります。

  鎌倉
 秋天の下に浪あり墳墓あり

 この句は好きな句ですから、電車を待っている時なんかに思い出すことがあるんです。「鎌倉」という前書を忘れて何処かでこの句を思い出したんです。そして、ああ何にも無いんだ、浪と墳墓とそれだけかと、地球滅尽の後のような変な気持ちになりました。鎌倉という前書によって、歴史を踏まえた深みと幅のある句として読ませてくれます。句だけだと突き放されてしまうような気がします。芭蕉は植物ですが、こちらは人間の墳墓ですから、突き放され方が植物とは違います。前書がないと鎌倉の一切は関係なく、何か怖い句になります。これは前書がなくてはならない句だと思います。

 春の浜大いなる輪が画いてある

 これは『五百句』の句なんで旧漢字で書いてある筈です。

 春の濱大いなる輪が畫いてある

と書くとまた感じが少し違って来ます。歴とした『五百句』の句ですから、選び抜かれた句なのです。なんだか春の中にふわっと抱かれた、春という大きな大きな大仏様に抱かれたような感じですね。。これはやっぱりTアU母音の働きなんです。虚子の句のすごさは、音の配列のすごさだと思うんですよ。
 いよいよ死ぬ時に<春の濱大いなる輪が畫いてある>なんて称えられたら素晴らしいと思います。そしてこれは「ボーツとした句」です。今、現代俳句に足りないのは「ボーツとした句」なんです。

 魚鼈居る水を踏まへて水馬

 「魚鼈(ぎょべつ)」とはスッポンで水に住む動物の総称なのですが、魚鼈はちゃんとした熟語です。「書経」にも「鳥獣魚鼈」とあります。魚は泳がなければならないので、泳いで餌を取る。スッポンはスッポンで餌を取る、スッポンはああいう泳ぎ方をしなければならない。水馬は水に潜る訳にはいかない、だから表面張力を利用して水面にいる。各々がその在るべき処に居て、生とは何かなんて考えないでその生を全うしている。これは近代の世界ではありません。速くて便利の先端に生活している我々がこの句を突きつけられたら、「ふざけるんじゃない」という人と「ええっ」と驚く人がいると思いますが、「ええっ」と驚く側にいる人が、事によると最先端にいる人なのかもしれない、今やそういう時代なのかもしれません。
<魚鼈居る水を踏まへて水馬>この句には人間の入る余地がない。おごそかな世界じゃありませんか。。これを描くのが虚子の提唱した花鳥諷詠なのでしょう。私はこの一句をもってしても虚子はすごいと思います。近代の価値観からすれば無価値ですが、見方によれば崇高な世界なのです。

  山本元帥を痛む
 ひとたびは明易き夢ならばとも

 前書にT痛いUという字が書いてあるのです。山本元帥は昭和18年4月8日、ブーゲンビル島で戦死しております。その時、朝日新聞から求められて「五月某日 山本提督戦死の報を朝日新聞より受け、その需めに応ず」と書いて、山本元帥をT痛むUと、このT痛Uの字を書いております。戦後の『句日記』には進駐軍の検閲を憚ったのか、「某月某日」となっております。昭和30年頃に出した自選句集では、又、山本元帥をT痛むUと直っております。<ひとたびは明易き夢ならばとも>やさしい句なんだなあ。このやさしさはかなわないですね、このやさしさがあるから強い句が出来るんですね。朝日新聞の求めに応じて作ったんでしょうけど、その当時の日本の国民の気持ちで作ったんですね。この句と一緒に

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや 石橋秀乃

 山本健吉さんの奥さんだった人の句ですが、この句も同時に思い出します。
 私達は戦争に負けるとは思っていなかったんです。5月23日から一週間、都民葬が芝公園の水交社という海軍将校クラブでありましたので、私はいわゆるスフ、ステーブル・ファイバーという人工繊維のズボンにアイロンをあててもらい、下着まですっかり着替えて行きました。遺骨の前で白い布が風にはたはたしていたのを今でもはっきり覚えております。遺骨は回収されたのです。戦後、山本元帥の遺体は腐らなかった一種の伝説が取り沙汰されたこともありました。敗戦で私が憧れた海軍兵学校も向こうの方から消滅しましたし、子供のころ佐世保の丘の上から確かに目にした聯合艦隊も消えてしまうということが私の今日に強く影響しているといえば嘘になります。そんな事忘れてふらふらと生きておりますから。それじゃ全然影響していないといえば、それも違うでしょう。そういうことがあったのは事実なのです。私は鎮魂という意味でなくて、そのあたりの印象が強いから、齢と共に輪郭が明確になってくるから、戦争の句を作るんです。心に残っているから作るので、鎮魂という意味ではありません。
 戦艦大和の沈没、この作戦の戦死者は3721名、アメリカの戦死者は16名です。吉田満の『戦艦大和ノ最後』という一冊の本が残りましたが。

 この山に住みける烏、獣、蛇

 この句には読点がついているんですね。<この山に住みける>の「ける」は今もずっと住んでいるという継続の「ける」なんです。この山に生きかわり死にかわりして住んで来た烏よ、獣よ、蛇よ、とそれだけです。「単純なる事棒の如き句」であります。この山というのは千葉県の房総半島にある鹿野山神野寺(かのうざんじんやじ)のことです。そこでの句会で詠んだものなんですが、その山の烏や獣や蛇に、「やあ」と言っているんです。無論、句会で出した句ですから、一同に、この地の句を作りましたよ、という挨拶の気持もありますけれども。この句を見たときは驚きましたねえ、最初見たときより齢を取るとともにこの句を思い出すたびに驚いております。「やあ」という挨拶だけなんです。しかし、これも現代の状況に照らせば、この山から獣や蛇を追い出したのは誰だ、ということにならざるをえません。追い出した近代の側からいえばふぬけた句、まぬけた句かもしれませんが、正に近代という化け物にヌーッと突きつけた棒の如き句ではないでしょうか。

 子規と虚子の違いを言うことで、虚子の像がはっきりすると思います。虚子はちゃんと言っているんです。子規に真っ向から反対したといえる文章があるんです。昭和16年に書かれた『二千六百一年句話』と、その内容が簡潔に集約的に書かれて同じ年に刊行された『年代順・虚子俳句全集・第四巻』の序文です。序文のおわりに「俳句といふ呼称もこれを尊重しながらも、発句といふ名前に深い愛着の情を持つものであるといふことを言つておく」とありますが、その前に、近代の俳句の混乱は全て子規が発句と言わずして俳句という名称を広めたことにある。そのことが、今の言葉で私流に言えば、個性と独創を競うような近代文学の世界へ俳句を押しやった。そのために近代文学と同じように俳句もまた個性と独創と新を競うものになった。その結果、自由律や新興俳句も出てきた。それから人間探究派というものも出てきた。これらは虚子の目から見れば全て異端であります。これは俳句を近代文学の一部とした、近代文学と同一のものとして俳句という名称でひろめたことにあるというのです。「発句は文学なり、連俳は文学に非す」というのは、「芭蕉雑談」で子規が言った言葉です。この頃子規はまだ「発句」と「俳句」を混同して使っていました。ここでいう発句はあきらかに俳句のことです。俳句というのは一人一人の感情つまり個性で作るからこれは文学であるが、連俳というのは知識であるから文学ではないというのであります。「俳句は文学の一部なり、文学の標準は俳句の標準なり」と「俳諧大要」にはっきりと書いています。文学と同じ標準で俳句を評価するべきであると書いてある。これがそもそも俳句の混乱のもとだと虚子はいっているのです。だから自分はあくまで発句という名称にこだわるといっている。でも、そうですよね、俳句の方法として写生を唱道すれば、写生というのはもともと写実主義でございますから事実を重んじます。事実だけを重視するとなんで季語が必要なのか、何で定型が必要なのかという疑問がやがて出てきますよね。事実のほうが大事なのだとなれば、定型も崩れてくるし、季語も無くなる。そうすると虚子のいっている花鳥諷詠とは全然違ったものになってきます。では、虚子のいっている花鳥諷詠とは何かと言いますと、発句性を大事にするということなのだと思います。発句というのはまず挨拶として季題を通して脇に呼びかけますね。また当然、脇以下に対して巻頭の句として立っていなければならない。余韻がなければならない。定型としての切れと季題は発句だから必要なのです。これには何の反発の余地もないのです。脇に呼びかける、その場所を褒めるというのが発句なのですが、虚子の場合は自然そのもに呼びかけている。称えている。自然を脇としているのではなくて、自然を大きなものとして呼びかけている。芭蕉を詠むことによってその芭蕉に当たった風雨と歳月と季節の移り変わり、その移り変わりを通して造化というものに呼びかけている。芭蕉を芭蕉たらしめている造化に呼びかけている。「魚鼈居る」の世界に呼びかけている。虚子は俳句という名称は子規を尊んで使うけれども、虚子で一番大事なことは、近代に発句を捨てなかったということ、人間の崩壊につながるような現代に、それとは全然違う別乾坤をうち立てた、そういうことではないかと思います。

 我々は現代文明のお蔭の真っ只中に住んでおりますけれど、時々虚子の世界にはっとさせられ、体ごと何処かに持って行かれてしまう時、くすっと可笑しくなる時があるんじゃないですか。「こんにちは。魚鼈居る水を踏まへて水馬」っていわれっれば「ええっ」と思いますが、俳諧というのはもともと滑稽の文学です。虚子は現代とは全然次元の違った世界をわれわれに突きつけるんですよ。自分の住んでいる心の世界とその突きつけられた世界との落差に驚くんですね。驚いた時に笑いが伴うんです。だから虚子の発句にも俳諧があるといってもいいんじゃないかと思うんです。<春の濱大いなる輪が畫いてある>「へええっ」って何かおかしいですね。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>「へええっ」・・・・・じゃこれで終わります。失礼いたしました。
                                                       (文責 編集部)

 

講演資料 川崎展宏

 横に破れ縦に破れし芭蕉かな    新歳時記(昭9.11)
  渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如きく、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、
  ふぬけた句、まぬけた句等。「現今の俳句界」(明治36・10)

 芭蕉葉は何になれとや秋の風  路通
  霜の経(たて)、露の緯(ぬき)こそ弱からし、・・・・花も千草もちりぢりになれば、芭蕉は破れて、残りけり 
                                            謡曲「芭蕉」

 霜降れば霜を楯とす法(のり)の城
   鎌 倉
 秋天の下に浪あり墳墓あり
 春の浜大いなる輪が画いてある
 春の濱大いなる輪が畫いてある
 魚鼈居る水を踏まへて水馬
   山本元帥を痛む
 ひとたびは明易き夢ならばとも

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや  石橋秀野

 この山に住みける烏、獣、蛇

  発句(俳句)は文学なり、連俳は文学に非ず  「芭蕉雑談」(明26〜27)

  俳句は文学の一部なり、文学の標準は俳句の標準なり  「俳諧大要」(明28)

  俳句といふ呼称もこれを尊重しながらも、発句といふ名前に深い愛着の情を持つものであるといふことを言つておく
                            『年代順・虚子俳句全集・四』「序」(昭16・3)