[5.箱庭の発見]
これは、あるモンスターの物語・・・(3)
「H」の家族は、N氏の家を訪れることが多かった。
N氏の家は仕事場を兼ねており、N氏自身が会社の社長でもあった。
なぜHの家族がよくここに来ていたかというと、N氏の妻とHの母親が姉妹だったから
という理由もあった。だが、ここに子どもまで連れてきている理由は、Hを一人で家に
残しておけないからでもあった。Hの母親は、Hの性格を信頼してはいなかったのだ。
彼には普通の「心」が無かったが、それでもN氏の家が嫌いだった。
(※「心」が無くとも好き嫌いの感覚は存在するようだ。)
理由はただ一つ、ここではすべてが排除の対象(=無視できない対象/「脅威」)になるからだ。
N氏を一目見た瞬間から、彼は直感的にN氏を排除の対象としていた。もっとも、それは
N氏の側にも若干問題があった。N氏は普通の人から見ても「その筋の人」と思われるような
雰囲気と言動が多かったのだから。
したがって彼はN氏の家に連れてこられると、普通はN氏と顔を合わせずに済む2階に上がり、
一人で過ごすことが多かった。
だから、その「出会い」は奇跡というべきものだった・・・
ある日、彼はたまたま1階にいた。これは、食事の時間が近いので強制的に呼ばれたからという
理由もあったが、もしもここでN氏が1階にいたら、彼は即座に2階に上がっただろう。
そこで彼は不思議な光景を目の当たりにした。
四角い箱の上に、9×9マスの図と、その中に何かが置かれており、それを向かい合った二人の
男がにらめっこしているのだった。
<なんだこれは?>
しばらく見ていると、片方の男が箱の上に置かれているものを動かしたが、またにらめっこ状態に
戻った。
彼には結局なんだったかわからなかった。しかし、彼の視線に気づいた男は、彼にそれが「将棋」
というゲームであることを教えた。
彼はそのゲームに興味を持った。
母親はそのことを知っても「どうせすぐに飽きる」と考えていた。そもそもゲームには相手が必要
なのだが、彼の場合「その相手を見つけようとするはずはない」と思い込んでいたからだ。相手がい
なければ上達しないのだから、やがて飽きると思ったのは無理もないことだった。
だが、母親の予想は大きく外れた。
彼は最初のうち上達しなかったが、やがて専門書を買い込み、それを観続けた。専門書は彼の能力
を超えているのだが、彼の能力はやがて専門書に追い付き始めた。
さらに、母親にとって驚くべきことに、彼は自分で相手を見つけて将棋を指していた。
<<わが子にその能力はないはずなのに、なぜ?>>
その理由は、将棋というゲームの性質にあった。彼は他人とコミニュケーションをとる能力こそ乏し
かったが、それは他人の考えることが理解できないためであり、理解できるものとコミニュケーション
をとることはむしろ得意だったである。
彼は将棋を指すとき、対局相手ではなく「盤面」とコミニュケーションをとっていた。将棋では、
ルールが定められており、しかも情報が完全公開されている。そのため彼は盤面とコミニュケーション
が容易にとれるのだ。
彼にとってそれは初めて見つけた「箱庭」(=自分以外に属するが、自分が積極的に関われるところ)
というべき場所だった。
ただ、彼は対局相手とコミニュケーションをとることはしなかった。その必要はなかったから。
彼が将棋を覚える以前、N氏の会社内で最も強いのはN氏自身であった。会社外まで含めると祖父
(N氏の妻とHの母親にとって父親にあたる人物)が最強だった。
だが、いつの間にか彼に将棋で勝てる者は誰もいなくなっていた。N氏は「天狗の鼻をへし折ってやる」
つもりで(彼にはこの理由は想像できないことだったが)Hと将棋を指したが、逆にN氏の側の鼻がへし
折られた。
最強と呼ばれた祖父さえも、ついに彼の前に敗れた。彼には互角以上の相手がいなくなってしまったのだ。
ある日、祖父は彼に将棋で勝負を挑んだが、2局続けて敗れ、3局目を挑んだ。相手を意識していれば、
祖父の体調不良に気付いていたかもしれないが、彼は相手を意識しておらず、気付くことはなかった。
彼は容赦せずに3局目も祖父を倒した。
3日後、祖父は脳梗塞で倒れ、1か月ほど意識不明が続いた後、天国へと旅立っていった。
それを母親から聞いた彼に、特に反応はなかった。
母親は暗に「あなたが将棋で無理を強いたからでしょう」と詰問したつもりなのだが、彼の側では
別に何とも思っていなかった。たまりかねて今度ははっきり言葉にした母親に対し、彼はこう言った。
「3日前のことなど何の関係もないのでは」
母親は口にこそ出さなかったが、内心でこう思った。
<<この子は(普通の)人間じゃない。>>
だが、口にしなかったとしても、母親がそう思っていることは、彼には自明のことだったのである。