[3.屈服の儀式]
筆者はかつて、ネット上で将棋を指していたことがある。
(今指していない理由はこちらを参照)
ところで、将棋や囲碁は他のゲームと異なり「礼で始まり礼で終わる」などと
言われている。ゆえに、対局時には普通、挨拶をするものであった。しかし、
ネット上ではそうは行かなかった。もちろん、礼をする者も多いのだが、しない
者も相当に多かった。
実は、筆者はこの傾向を別になんとも思っていなかったのだが「礼儀重視派」
の人たちにはそうではなかったようで「対局開始・終了時には挨拶をすべきである」
「なぜ挨拶をしないのか」と主張する者が多かったが「礼儀無視派」の側はそういう
主張を別に屁とも思っていないようで、筆者がいた間は「挨拶をすべきである」と
いう流れにはならなかった。
ところで、人はなぜ挨拶をするのだろうか?
こんな主張をすると「礼儀重視派」からお叱りを受けそうである。しかし、人は
生まれてくるときから挨拶をしていたわけではない。挨拶というのは「教育」「要求」
「洗脳」の結果身につくものである。特に子どもの挨拶はほとんどすべて「教育」
という名で強要されたものである。したがって「挨拶をしない」子どもは、する子ども
よりも精神的にはまともである(「洗脳」の影響を受けていないという意味で)。
一方、挨拶をする子どもは大きく分けて(1)一応挨拶をしているが反抗心を持つ者
(2)反抗せずに言われるがままに挨拶している者 の2通りに分けられる。
このうち(1)の者にとって、挨拶とは「屈服の儀式」つまり「自分より力のある者に
屈した印」であり、きわめて否定的にイメージされるものである。したがって、より強制
力のない「教育」とは関わりが薄いと思われる場所では、屈服していた反動が現れ、挨拶
を拒否するといった行動につながるものと考えられる。特に将棋では勝敗を争うもので
あるから、彼らにとっては「するほうが負け」に近いのではないだろうか。
こうして考えると、今の若者にとっての挨拶は「しないほうが当たり前」かもしれない。
彼らが挨拶するのは「教育」の現場だけであろう。
では(2)の方がより望ましいのか?
そうではない。彼らは(1)より危険な「自分の心を殺してしまった者」たちである。
「教育をする側」にとっては都合が「良い子」かもしれないが、実は彼らこそ、いつ大爆発
を起こすかわからないのだ。