雨音
すべて包んで 洗い流して
たったそれだけになれたら
部活の終わり、反省会の途中で雲行きが怪しくなった。イヤだなぁと思いながら眺めていると、案の定、反省会が終わる頃には土砂降りで。憂鬱さに遅くなる片づけの手の中、帰る頃には止んでくれたりしないかなぁなんて淡い期待もあったりする。
諦めて早々に帰る仲間を見送って、僕が音楽室を出たのは雨が降り始めてから30分以上も経ってからのことだった。
雨は、まだ止んでいない。さっきよりはマシになっているものの、小降りと言うにはほど遠い。
昇降口で靴を履き替えて、紺色の傘を持って一歩を踏み出して、固まった。
「────チカ?」
音を立てて打ち付ける雨の中、制服姿のチカが立っていた。
「あ、ユーヤ」
ちゃお、なんていつもと同じ調子でチカが手を挙げる。
「……っな、」
雨風の抵抗がもどかしい。走り寄ってチカを睨んで低く呟く。
「ナニやってんの」
「んー……水浴び?」
「ふざけんなよ、何やってんだバカ、びしょ濡れじゃないか!」
きょとんと首を傾げるチカに、どうしようもなく腹が立った。
濡れた腕を掴んで駆け戻り、屋根の下に引きずり込む。細い腕は、冷房に冷えた指と変わらない温度で。
「お前、この雨ん中ずっと突っ立ってたのか!?」
「うん、気持ちよかった」
「ふざけんなよ風邪ひくだろ!」
先に帰った奴らにも怒りを覚える。こんなチカに気づかずにいたのか、気づいてもそのまま無視していったのか。──こんな、発作的なチカの“奇行”に付き合うような奴は、そうそういないとわかってはいるけれど。
「ふざけてないよ、大真面目。気持ちよかった。シャワーみたいで」
悪びれた風もなく、チカが言を継ぐ。
「ずっと雨音聞いてたの。雨音しか聞こえないの、すごかったよ。気持ちよかった」
「雨音ってレベルじゃないだろ……」
肌を打つ雨の勢いは痛いくらいだったろうに。まるで水の槍のような、こんな中で。
「うん、もう怒濤なの。それだけ。他に何もない感じ。全部削ぎ落とされて、洗い流されそうだった。全部綺麗にしてもらえるみたいで、気持ちよかった」
チカの呟くような歌うような独白を聞きながら、カバンの中から引っ張り出したタオルでチカの身体を乱暴に拭く。文化部なのにタオルと着替えのシャツを常備しているのは、別に雨に濡れたチカのためじゃあないんだけど。
「ほら、シャツ」
「え、いいよこれで」
「そんなの着てたら風邪ひくだろ」
「大丈夫だよ、もう乾いてきたし。ユウヤがごしごし拭くからあったまってきた。乾布摩擦みたい?」
「──バカ、ウソつけ、ブラ透けてるぞ」
腹立ち紛れにいつもなら絶対言わないようなことを口走った。
「え。──あーいいよユウヤだし」
「おい……」
「それに、返せなくちゃっちゃうと困るから、いい」
ちょっと困ったような笑顔を浮かべたチカに、僕はそれ以上何も言えなくてため息をついた。シャツの替わりにもう1枚、乾いたタオルを押しつける。そっちはおとなしく受け取って、チカは自分でスカートと脚を拭き始めた。
「──チカ。お前、カバンは?」
ふと思い至って尋ねると、そこ、と指差される。昇降口の扉の内側、雨の入り込まないところにある見慣れたぺたんこのカバンは、置いてあるというより落っこちてるというような感じだ。
「濡れたら困るから置いといた」
「……そういうとこには頭回るんだな」
「ひどいなぁ。せっかく、ユウヤに借りたCDダメになったら困ると思って避難させたのに。そんなこと言うんだ?」
「日頃の行いだろ」
冷たく返してカバンを拾い上げる。薄っぺらいカバンの中身はきっと、ペンケースとノート類が1・2冊、それから件のCD1枚、そんなものだろう。
「聴いたんだ。どうだった?」
先日チカにCDを1枚貸した。僕の部活の演奏会のCDだ。
「ううん、聴いてない」
「──────何のために借りたの」
今日持ってきたということは、返すつもりなんだろう。CDを借りておいて聴かずに返すとは、やっぱりチカは、よくわからない。
「夜ね、聴きながら寝たらよく寝られるかなって思ったんだけど、よく考えたら夜中にCDはかけられませんでした」
おどけた調子で肩をすくめるチカに、自然、眉が寄るのが自分でわかった。
「それで、どうしたの」
「うん、だから抱きしめて寝たの。音は聞こえなかったけど、この中にユウヤの音が入ってるんだって思ったら嬉しかったよ。ありがとう」
常々思っていることだが、チカには臆面というものがまるでない。
「ユウヤがついててくれたから気持ちよく寝られたよ、ありがとう」
「……その言い方、何か語弊があるんだけど」
ついてたのは僕じゃない。──CDに嫉妬してどうするんだ、馬鹿らしい。
「うん、でもユウヤの音に抱きしめてもらってる気がしたよ?」
「──そう」
僕は一体どんな表情をしたんだろう。ヘンなカオ、とチカが笑った。
返すべき言葉が見つからなくて、助けを求めるように空を見上げた。いつの間にか小降りになった雨は、空から直接、または壁や雨どいをつたって地面へ落ちて、かすかな音をさせている。雲の切れ間からはわずかに夕暮れ時の明るい空が見えていた。
「ああ、止んできたな。そろそろ帰ろうか」
振り向くと、チカが頷きを返す。
並んで歩いて、校門を出たところで、チカが小さく呟いた。
「ユウヤが来てくれて良かった」
「──え」
「雨の音しかなくって、全部流れて消えちゃうかと思った」
「チカ、」
「雨で洗ったら綺麗になるかなとか思ってやってみたんだけどね! ──でも、なくなんなくて良かった」
ありがと、とまた言う。
それは最後の雨のひとしずくみたいに、僕の心に静かに落ちた。
「いくら酸性雨ったって、一回の雨で全部溶けるわけないだろ。そんなんだったらとっくの昔に人類絶滅してるよ」
分かっていながら関係のない言葉を返す。そんな表情はチカらしくない。
「うん。けどこわかったの。でもそうなりたかったの。だけど、」
言葉を切って、空を見上げる。
「だけど、どうせ聴くならユウヤの声がいいな!」
振り向いた顔には確かな微笑み。
息を吸い込んで、何かを言いかけ、──結局全部ため息になる。たぶん僕が今まで生きてきた中で、最大級のため息だ。
力が抜けて笑う僕に、チカの笑顔が一瞬ふくれっ面になる。だけどすぐに笑い出した。
どうせ全身包まれるなら、雨の音よりチカの笑い声がいい。そう思いながら、水溜まりに構わず足を突っ込んだ。
fin.
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