陽炎〜かげろう〜

 夏祭りの最終日、河原は花火見物の人々でごった返している。
 そんな喧噪から逃れるように、僕は一人、薄暗い林の中へと入っていった。
 向かう先は、林のちょうど真ん中あたりにある小さなほこら。そこに、今年もきっと彼は
いるはずだ。
 足音をたてないように注意して、極力ゆっくりと歩いた。本当は今すぐにでも駆け出した
い。早くほこらに着きたいのだ。
 やがて、朽ちかけた小さなほこらが見えてきた。身体にうっすらと汗がにじんでくるのが
分かる。
 彼は、そこにいた。
  うすい紺色が美しい、かすりの着物を着ている。裸足の指は、土ひとつついておらず、ま
るで宙に浮いているかのようだ。真ん中で分けられた黒髪が、ひとすじふたすじ、青白い額
に影を落としている。
 涼しげな目元に不釣り合いな程の紅さを持った唇が微かに動いた。
 カ ヤ
「夏也」
 導かれるままに、僕は彼の目の前に立った。彼の額がちょうど唇の前に来る。
 手を上げて、そっと、白い頬に触れた。冷たい。
 ミヅキ
「水月」
 確かめるように名前を呟くと、彼──水月はうっすらと微笑んだ。額に軽く口づける。顔
を上げた彼の、微笑みの形を崩さない唇にも触れた。血に塗れたように紅い色をしているの
                    スモモ
に、彼の唇はやはり冷たい。よく冷えた赤い李を口に含んだような感触だ。
 唇が離れると、水月は無言のままほこらの裏手へ向かった。僕もその後ろをついていく。
 ほこらの後ろには、子供一人がやっと通れるくらいの小さな穴が開いていた。いや、穴と
言うよりは、通路だ。そしてその道の行き着く先を、僕は知っている。知っているが、水月
にそれを告げるのは、なぜかためらわれた。本当は、水月はそんな僕のためらいも何もかも
見透かしているのかも知れなかった。


暗く湿った通路を歩いている間中、僕たちは無言を保った。いくらか歩くと淡い真珠色の光
が壁の所々から漏れてくるようになり、やがてその光は僕たちのすべてを覆った。外に出た
のだ。──いや、外、という表現は少しおかしいかも知れない。そこは乳白色の岩に囲まれ
た洞穴の、湖のほとりだった。
 水と岩以外には何もなく、生き物の気配もしない。目を閉じればきっと、僕はそこに一人
で、かすかなさざ波の音に包まれるだろう。そう思うと、まばたきをすることさえ恐ろしく
なる。
 水月はまっすぐ湖へと向かった。素足が水に触れる。僕を振り向こうともしない。
 耐えきれなくなって僕は走った。飛びつくように水月をかき抱いて、そのまま倒れ込む。
 大きな音を立てて、水飛沫が上がった。
「夏也」
 今度ははっきりと声に出して、水月が僕の名を呼んだ。開いた唇から紅い舌がのぞく。つ
ま先から突き上げてくる衝動にまかせて冷たい唇を吸った。
 濡れてはりついた胸の合わせに手を差し込んで触れる。水月の肌は、湖の水と区別がつか
ないくらいに冷たい。その冷たい腕を僕の肩に回して、水月は白い首すじをのけぞらせ、見
せつけた。唇はまた、あの微笑みの形を作っている。
 冷たく澄んだ嘲笑に唆されるままに、彼を抱いた。


 ふと気がつくと、僕はほこらの前に倒れていた。衣服が濡れ乱れている。すでに乾き始め
てはいたが、逆にその生乾きの感触が気持ち悪かった。身体がずいぶんと冷えている。
 遠くに花火を打ち上げる音が聞こえる。
 ゆっくりと身体を起こし、着物の合わせを整えた。はたいた裾から、はらはらと真珠色の
砂が落ちる。
「水月」
        イラ
 呟いて、なんの応えもないのを確かめると、僕は歩き出した。喧噪が大きくなってくる。
花火の打ち上げが終わり、人々が帰路に向かっているのだろう。
 一の流れに逆らって僕は河原へ向かった。人気のなくなった河原は、火薬の匂いに満ちて
いる。視線を上げると、よく晴れた天のところどころに灰色の煙が残っていた。
 水面は穏やかな流れを見せている。けれど僕にはそれが偽物のように思えてならない。本
当は、この河は怒濤のように流れ、濁流がすべてを呑み込もうとしてる──そして、無力に
流される一つの命。
 五年前の夏祭りの日、僕は彼とここで出会った。
 大人の目をかすめて、立入禁止の林に踏み入り、ほこらの中を覗いた後だ。真夏だという
のに青白い肌をした彼に興味を引かれて近づいた。
「君、さっきほこらの林の中に入っていったね。僕は知っているよ。」
 彼はあの唆すような笑みで僕を見つめた。尾けられていたのに気づかなかった屈辱と、大
人に告げ口されるかも知れない恐怖とで混乱し、動揺のままに彼を押し倒した。
「君はほこらを汚した。罰が下るよ。」
 自分がほこらの神ででもあるかのような彼の口調に頭の中がカッとなった。
 気がついたときには、僕の両手は彼の細い首を絞めていた。たよりない胸が白く陽差しに
照り映える。白い腕はなんの抵抗もしない。
 思わず手を放し、よろけて尻餅をついた。その一瞬を狙ったかのようにサイレンが鳴り響
く。と同時に、河の上流から水の塊が押し寄せる。
                                        タス
 細い腕を掴んで逃げる途中で水に追いつかれた。死を覚悟した次の瞬間、僕は大人達に救
けられ、彼はそのまま水に消えた。
 水が引いた後の河原は午後の陽差しに照らされて、もうもうと湯気が立っているようだっ
た。その陽炎の向こうで、彼が微笑みの形に唇をゆがめているのが見えた。



コメント(by氷牙)

やっと、まだ誰も目にしたことのないお話をここにUPすることができました。
とはいっても、元を考えたのはやはり学生時代です。それに今回、多少の書き直しをして完成とあいなりました。
一足早く、夏祭りのお話です。
テーマは、『少年。夏。水』だそうです、メモによると。一部、長野まゆみさんを意識した気がしないでもないような部分がちらほらと(笑)。フッ、まだまだ甘いな、ってとこですね。




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