記憶圭太が彼女について覚えていることは、そう多くない。とても美しい手をしていたというくらいだ。影を見ても関節がわかりそうな細い指で、縦長の爪が、指の長さを強調していた。高校時代の一時、家庭教師をしていた彼女の名前を、圭太はなぜか覚えていない。あまりに鮮烈な記憶が、その他の情報を塗りつぶしてしまったかのようだった。 お手本のような持ち方でペンを持ち、赤いマルを連ねていく規則正しい音は、いくら聞いていても飽きることがない。圭太の意識は、採点のゆくえよりも、彼女そのもののような繊細さで動く手に向けられていた。 「──センセイ、」 ふいに、圭太は声を上げた。霧雨にも似た音がぴたりと止む。 「どうしたの? 私、どこか間違えた?」 「センセイって、指輪、してたっけ」 右手の薬指に、細い銀色の指輪があった。淡いピンク色の、小さな石が嵌められている。銀かプラチナか、またその宝石が何という名前なのかは、圭太には知るべくもない。 初めて見ると断言できるものを敢えてそう問いかけると、彼女は悪戯を見つけられた子供のような笑い方をした。 「ううん。いつもは鎖に通して首にかけてるの。でも、今日は……鎖が切れちゃって」 圭太は己の不覚を悟った。淡い色のブラウスの襟元を、極力見ないよう努めていたのが仇になった。 「左手にはしないの?」 さらに追いつめるように言を継ぐと、彼女は表情を曇らせ、それをごまかすように笑った。 「左手には、少しゆるいのよ。抜けそうでこわいの」 その指輪が本来左手にされるべきものであることを、彼女は肯定した。だがその微笑みは、彼女の心に潜むかすかな不安を感じさせ、繊細な印象の手と淡い色の指輪と共に、圭太の心を締めつけた。 一週間ぶりに会った彼女は、開口一番、前回の授業を直前で取り止めにしたことを謝罪した。構わないと答えた圭太に、微笑みが返る。頬から顎、そして首に続く線が、見てわかるほどに細くなっていた。解説の声は、さほど変わらない。電話越しの、力無い声が嘘のようだ。だが、圭太が問題を解いている間、彼女の意識がどこか遠くに向けられていると、圭太は気がついていた。 「センセイ、指輪どうしたの」 その日最後の演習の採点を、圭太は唐突に遮った。鎖が切れたと言った日以来、彼女は指輪を右手の薬指に嵌めていた。それが今日はない。円弧が不自然に途切れ、動揺を露わにした瞳が圭太を見上げる。 「……鎖が、直ったから、」 「嘘つき、」 言うなり圭太は、白いブラウスの襟元に手を差し入れた。鎖骨を辿るように肩近くまで指を進めても、金属の感触は得られない。怯えた表情を見下ろして、圭太はそっと手を抜き去った。 その後の成り行きを、圭太は覚えていない。ただ、襟元に手を差し入れたあのときの、小指だけが外にはずれ衿に引っかかった感触。指輪のように圭太を包むあの感触だけが、圭太の中で、今も鮮やかだ。 fin. |