メルーカ 20 ──第五章【夢色の恋】第5話 メルーカは、マーレとともに彼女の部屋で着せ替えに夢中になっていた。いや、正確に言うならば、メルーカの着せ替えに夢中になっているマーレに付き合う形だ。 「ねっ、メル、次これ!」 まだやるのかと思ったのが顔に出たのだろう、マーレが頬を膨らませる。 「だってこんなにキレイなんだもの、もっとキレイにしないともったいないじゃない!」 表現は違うがウェニーと同じようなことを言う。思ってメルーカは小さく笑った。 「いいなあ、メル。あたしもこんなにキレイだったらいいのに」 「マーレもキレイだよ」 ウェニーとマーレで決定的に違うのは、自分の容姿に自信を持っているか否かということだ。微笑んだメルーカに、マーレは窺うような目を向けた。 「メルは、この髪、こわくないの?」 「え……?」 「外の人は、この髪の色を恐がるって聞いたわ。血の色だって、たくさんの血を吸った罪深い民の証の色だって」 「そんなことない!」 メルーカは叫んでいた。驚いたマーレが手を離し、結いかけの金の髪が零れ落ちる。 「そんなことない。綺麗だって思ったんだ。罪の色だって、ぼくは綺麗だって思っ……、ぁ──ごめん」 「エルのことね」 「うん」 無口で暗い目をした男をマーレは思い浮かべた。黒髪黒眼自体は、多いものでもないがさして珍しいものでもない。だが、それに拘るということは、それはエルの本来の色ではないのだろう。“罪の色”に身を染めながら、その身に似合わぬ光の名を持つことからもそれは窺える。多かれ少なかれ、名前はその人を表すものであるはずだ。 そして、対照的に輝かんばかりの美しさと明るさとで傍らに立つメル。 マーレは、語られない彼らの旅の目的が少しだけ分かった気がした。思い出すのは、古より語り継がれる伝説、隠された村の、始まりの物語。 「いいな、メル」 「え……?」 「メルなら、羽もきっと綺麗よね」 「マーレ……!?」 「あたしは羽もまだらなの。飛べないし」 「羽、って、……マーレ、君、羽があるの!?」 驚いて聞き返したメルーカに、マーレはあっさりと頷いた。 「うん、メルもあるんでしょ? それから、たぶんエルも」 確信している口調に、戸惑いつつもメルーカは頷いた。 立ち上がったマーレの背に音を立てて羽が現れた。白い衣の裾がひらめく。 マーレの翼は、淡い蒼とくすんだ灰とが入り混じった不思議な色をしていた。彼女の瞳と同じ色だ、メルーカは思った。その色合いは空に似ているが、それよりももっと深い、何かさざめきのようなものを感じさせる。 「綺麗な羽だね」 メルーカは微笑んだ。 「ほんとに?」 「うん。優しい色だ、マーレに似合ってる」 「────ありがと」 じっとメルーカを見つめ返して、やがてはにかむようにマーレが笑った。 「ね、メルの羽も見せて?」 メルーカは一瞬躊躇ったが、マーレの不思議な蒼灰色の瞳に強請るように見上げられては断れない。白い方だけ出せば問題ないよね、と言い訳のように自らに言い聞かせた。そんなことが可能かどうかは分からなかったが、試してみないことには始まらない。 メルーカは覚悟を決めることにした。頷いて立ち上がり、背中に意識を集中させる。白いのだけ、白いのだけと念じながら翼を開く。 羽ばたきの音とともに、部屋の中が一瞬明るさを増したような気がした。慌てて後方を振り向くが、水晶の翼は現れていない。髪の長さにも変化はなく、メルーカはほっと胸を撫で下ろした。 「わぁ……っ、きれーい!」 歓声に顔を向けると、マーレが蒼灰色の瞳を輝かせていた。 「そう?」 「うんっ! すっごい綺麗よメル! あたしの知ってる中で一番綺麗!!」 「……ありがとう」 久しぶりに聞く手放しの賞賛は、くすぐったくもあるが、胸の内を温かく満たしてくれる。メルーカははにかみながらも素直に礼を口にした。 「ね、メルはその羽で空を飛べるのよね?」 「うん、でも少しだよ。あまり遠くへは行ったことがないから、どれくらいの距離を飛び続けられるのかはわからないんだ」 言いながら、メルーカはエレスとの出会いを思い出していた。黒く大きく強靱な翼、メルーカを抱えたまま、サン=ヴィータの村を囲む森を越えられるほどに。 その時だった。 「メル、いるか?」 小さくノックの音が響き、確認の声とともに扉が開いた。振り向いたメルーカは、見開かれた漆黒の瞳に炎が疾走るのを見た。 「──っ、何やってるんだお前!」 びくりと肩を震わせたメルーカに、エレスが一瞬にして詰め寄った。思わず頭部を覆う仕草をした細い手首に、伸ばされた指先が一瞬触れる。 「──……ッツ……!」 バチッ、と薪の爆ぜるような音とともに、小さな光の粒が辺りに散らばった。 驚きのあまり眼をつぶれずにいたマーレが見たものは、ふたりの触れ合った肌の間で爆ぜた透明な火花と、手を引いたメルーカの背に現れた、もう一対の、──水晶の翼。 「エルっ、だいじょ……、っ」 向けられた視線の鋭さに、メルーカが言葉を途切らせる。泣きそうな顔で佇むメルーカの背中には、二対の翼が淡い光を放っていた。 「メル、不用意に翼を見せるな」 「──うん、ごめんなさい……」 未だ痛みの残る手を、エレスはゆっくりと拳に握った。 「それだけだ」 言い捨てて背を向けたエレスに、マーレが非難の声を投げる。 「ちょっと、エル……っ!? ──もうっ、何よ、あの言い方! ひどいじゃない!」 振り向かずエレスが出て行くと、憤慨した様子を隠さずマーレがメルーカを振り返った。 俯くメルーカの肩を、長く伸びた金の髪が覆っている。その背に広がる二対の翼は、泉の中から見上げる泡のような、透明な光を纏わせていた。 また伸びてしまった髪は、マーレに切ってもらった。アーディに頼むことも考えたが、事情のすべてを話すわけにもいかず、この姿をあまり多くの人には見せたくない。メルーカの髪を整える間、マーレはしきりに「もったいない」を連発した。 感謝を伝えてマーレと別れたメルーカは、自室に戻り、手持ち無沙汰、アミの腕輪を弄んでいた。ノックの音に、緊張を隠しきれない声で答えると、入ってきたのは思った通り、エレスだった。 「メルーカ、話がある」 改まって名を呼ばれ、メルーカは微かに目を瞠り、緊張した面持ちで頷いた。 入り口近くに立ったまま、エレスはまず謝罪の言葉を口にした。 「さっきは、悪かったな」 「え……ううん、いいよ。エルが言いたいことも分かるし。ぼくのこと、心配してくれたんでしょう?」 「ああ、だがそれだけじゃない」 「え……?」 呻くように呟いたエレスは、歩み寄り、メルーカと向かい合うように腰を下ろした。夜の闇よりも黒い瞳がメルーカを捉える。 「お前に伝えたいことがある。だがそのためには、俺はお前に話さなくてはならない。俺が、お前を探す旅に出た理由を、俺が犯した罪のすべてを」 「エル……!」 驚きに目を瞠るメルーカを、エレスはじっと見つめている。こんなに間近でエレスを見るのは久しぶりだとメルーカは思った。こんなに真剣な、深い眼差しを見るのは……。 「聞いてくれるか」 低い問いかけに、ゆっくりと頷く。そして、エレスは話し始めた。 「──はじめは当てのない旅だった。いつ死んでも良かった。だが、お前の──<祝福の水の子>の伝説を知って、その一縷の望みに、俺は賭けたんだ」 罪が浄されたとして、それでマハールやフレルに許されるとは限らない。だがせめてと。 「ふたりへの償いのための旅……それがいつの間にか自分のためになっていた。俺は結局、自分のことしか考えていない。これは、その報いなんだ」 「エル……?」 「俺がお前に触れられないのは、お前が<祝福の水の子>で、俺が<罪に汚れし者>だからじゃない。過去と同じ罪を今また犯そうとしている俺に与えられた罰だ」 「……エル、それって……」 メルーカの瞳がゆっくりと見開かれる。 「今日、お前を怒鳴ったのも、警戒しないお前を責めたんじゃない。灰の斑の交じる髪──赤耳族の、罪の証を持ちながらお前に触れられるマーレに、俺は……嫉妬したんだ……」 どこか熱にでも浮かされたように、エレスはいつになく饒舌だった。 「初めて会った時のことを覚えているか? 俺が、力ずくでお前を自分のものにしようとした日を。あの時、お前も言ったな、そんなことをしても手に入れられないと。分かってはいたんだ。それではフレルの時と同じだと。分かっていたはずなのに、見失いかけてた。お前に言われて目が覚めた。 お前とともに旅を続けて、──俺の罪を浄してくれる<祝福の水の子>であるというだけでなく、お前を大切に想うようになるのに、大した時間はかからなかったよ。だが、お前はいずれ生まれた村に還る。そう言い聞かせていた。そんな時だった、お前が、赤耳族に……」 思い出して、エレスは眉をひそめた。 「お前の熱を鎮めるために触れながら、それ以上を望む心があることを、お前を護る精霊が感じ取ったんだろう。このまま行けば、俺はいつか、自分の欲望のままにお前を傷つける」 「そんな……っ! それじゃあぼくの、ぼくの気持ちはどうなるのっ!?」 たまらずメルーカは叫んでいた。 「ぼくだって……ぼくだってエルのこと好きなのに……っ。今のままじゃ、ぼく、エルに頭を撫でてもらうこともできないんだよ!?」 大きな手は、滅多に見られることのない微笑みと同じように、優しく温かいことをメルーカは知っている。その手はメルーカを守りこそすれ、傷つけたことなど一度もない。 言葉では言い切れない想いを伝えるように、メルーカはじっとエレスを見上げた。 わずかに涙の気配を見せる、けれど澄んだ青い瞳に見つめられて、エレスはぐっと歯を食いしばった。目の前の、愛おしい小さな身体を抱きしめてしまいたい。骨が折れるほどに、息も止まるほどに、強く。 抱きしめて、腕の中に閉じこめて、そのまま、自分だけのものにしてしまえたら。 強く想う心を、エレスは握った拳に込めた。 同じように、寝台の上にぺたりと座り込むメルーカの手がシーツを掴む。 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに。 だが、今触れれば、大切な人を傷つけてしまう。 「……ねえ、エル」 沈黙の後、メルーカが小さく口を開いた。 長い、緊迫した時の間、数々の、口に出せない言葉と行動に移せない想いとに溺れかけていたエレスは、その瞬間、愛おしむように水面を撫でるメルーカの手を思い浮かべた。薄暗い水底に優しく光が降り注ぐ。 「あなたの、……服に、触れてもいい?」 エレスが頷くと、小さな手がそっと伸ばされる。 「痛かったら言ってね……?」 そう言いながら、メルーカは、エレスの服の裾をそっと掴んだ。 「今はこれが精一杯だけど、ぼくが、……あなたの罪を、浄したら。そしたら、エル……、ぼくに、触れてくれる? ぼくを抱きしめて、髪を優しく撫でてくれる?」 エレスは大きく目を瞠り、次いで痛みを堪えるような顔で震える息を吐き出した。強く握った指先が熱を持つ。 カーラの街で出会った女将の助言、森の中でのメルーカの言葉、カーラの長老の、アーディの、……さまざまな人の言葉が、エレスの脳裏に浮かんでは消える。 「──ああ」 長く感じられた沈黙の後、眩しいものを見るようにメルーカを見て答えたエレスの声は、低く、微かに掠れていた。 ほっと力を抜いたメルーカの息が、エレスの胸の痛みとともに、緊迫の空気に震えて溶けた。 |