流れる雲と





   手を伸ばして 捕まえられたら もう離さない





 空が高い。
 朝起きて、ベランダに出てまず思うのはそれだ。教室の窓から、玄関を出て、ことあるごとに空を見上げて思う。チカのクセがうつったみたいでちょっと嫌だ。
 秋だ。スポーツの秋、芸術の秋、文学の秋と、何かと忙しく行事が詰まっていては、ゆっくり秋の空気を味わう暇もないんじゃないかと思うのは僕だけなのだろうか。
 天高く、馬肥ゆ。食欲の秋でもある。
 ファーストフードもコンビニも、こぞって期間限定と銘打った商品を送り出して、僕らでフォアグラを作るべく太らせている。非難めいた思考になるのは、今日の調理実習で栗おこわを嫌と言うほど作らされ、食べさせられたからだ。調理実習も栗おこわも嫌いじゃないけど、何事にも限度ってものがあると思う。
 胃に入ってから更に膨れた餅米は、信じられないことに、放課後になってもまだ僕を苦しめていた。おかげで部活にも身が入らなかった。お腹に力を入れられないのだから仕方がない。
「ユウヤ、おつかれ。今日は夕飯、お茶漬けにでもしてもらったらどうだ?」
 本来腹筋で調節すべき空気の量を、頬と唇で調節するという荒技をやってのけた僕は、まるで硬いゴム風船をいくつも膨らませた後のように、口が疲れ果てていて、もうしゃべるのも億劫になっていた。一言でも減らそうと、手を挙げただけで賛同と挨拶を同時に済ませて音楽室を出る。振り向いて、閉まりかけの重い扉の向こうに見えた空に、秋だなあとまた思った。
「あっ、ユーヤ!」
 靴を履き替えて昇降口を出る。校門をくぐると、聞き慣れすぎた声が耳に飛び込んできた。
「おっつかれさまー。……どーしたの?」
 大きな目を更に丸くして首を傾げるチカに、歩きながら渋々経緯を話すと、チカは最後まで聞き終わらないうちに吹き出した。失礼なヤツだ。
「笑い事じゃないよ」
「あはは、ゴメンゴメン。じゃー疲れたユーヤくんのほっぺをほぐしてあげよう」
 そう言って、チカは伸ばした手で人の頬を挟み、むにむにと揉み解している。
「……ゃめろってば」
 立ち止まり、手を払いのけて睨むと、チカは珍しく真面目な顔で覗き込んできた。
「だってユーヤ、すごい顔してたんだもん。そんな顔やだ」
「やな顔で悪かったな」
「違うってば! ユーヤの顔は好きなの。でもさっきのユーヤの顔は違うの! ユーヤじゃないの!」
 ……言葉の足りない子供を相手にしている気分だ。
 だけど、それにしても。
「──そんな、ヒドイ顔してた?」
 尋ねて、大真面目に頷かれては、認めないわけにはいかないだろう。
 思わず盛大なため息が洩れた。
「あーっ、ため息! ダメだよ、幸せが逃げちゃうよ?」
「今日の僕には今更逃げる幸せもないよ」
「ダメだってばそんなこと言っちゃ!」
 地団駄を踏みかねない勢いで、チカは真剣に怒っている。呆れて小さく息をつくと、ふいに笑いがこみ上げてきた。
「ユ、ユーヤ?」
「いや、なんか……馬鹿らしくなってきた」
 身体を震わせて笑ってから、いつの間にか胃を圧迫していた栗おこわの存在が消えていたことにようやく気づく。頬の痛みももうほとんどない。ほんとに馬鹿みたいだ。
「ユーヤ??」
「何でもない。──帰ろうか」
「うん……」
 納得のいかない顔で、それでもチカが隣に並ぶ。
 しばらく無言のまま歩き続け、ちらりと僕を横目で見上げたチカが、いきなり立ち止まって僕の腕を掴んだ。
「うっわ……! ユーヤっ、見て見て、すっごい、雲っ!」
「うわっ!? なに……、──!」
 腕を掴んで引き留められ、今度は何だと思いながらもチカの指さす方を見る。
 次の瞬間、僕はチカと同様、目を見開いて立ちつくしていた。
 この空の様を目にしたら、チカの単語だけな上にものすごい倒置法な呼びかけも頷ける。
 チカが指さしたのは西の空、沈みかけの夕陽に照らされて、空はやわらかい空色から緋色へのグラデーションになっていた。茜色でも朱色でもなく緋色の空は、夕焼けの激しさや眩しさよりも切なさや優しさを思わせて、わけもなく泣きたいような気持ちにさせられる。
 そんな空を、西へ向かう太陽を追いかけるように、うすい雲の塊たちが連なっている。秋の雲の典型、羊雲や鰯雲よりは大きなその塊たちは、ほとんど風のないらしい空で、行き場をなくして立ちつくしているようにも、悠々自適に漂っているようにも見える。
 ぼんやりとその様子を眺めていると、チカの呟きが聞こえた。
「流氷みたい……」
 そう言われてみると、それは確かに春のオホーツク海に浮かぶ流氷に似ていた。もっとも、僕もチカも、テレビでしか見たことはない。
「綺麗だね……」
「うん……」
 そのまま僕たちは、またしばらく無言のまま並んで空を見つめていた。
 途中、一度だけ、ふとチカが隣にまだいるかどうか不安になって隣を見たら、なぜか必死な顔をしたチカが僕の腕を掴もうとしていて、手をつないでまた空に目を戻した。
 チカもたぶん、同じことを思ったんだろう。
 風に乗り、空を進みながら次第に形を変えていく雲、今は皆同じような大きさ形で並んで太陽の後をついて行っているけれど、そのうち消えたりはぐれたりして、バラバラになってしまうのだろう。海の上の流氷だってそうだ。ずっと同じままではいられない。
 今は揃いの制服を着ている僕らも、やがてここを卒業して、それぞれの道を歩いていく。
 その時も、隣にチカはいるだろうか。──いてくれたらいい。いると信じたい。チカもきっと、僕がいたらいいと思ってくれてるはずだから。
 つないでいた手に力を込めた。チカも握り返してくる。
「……この雲、パパのとこまで届くかな」
 ふいにチカが呟いた。
 西へ向かう雲。海を越えて、大陸を越えて。届くといい。
「そうだね。届くといいね」
 そう答えて振り向くと、僕を見上げてチカが笑った。
 今日初めてマトモに見たチカの笑顔は、夕焼けよりよほど眩しかった。




fin.





コメント(by氷牙)     2004.10.19

なんだか最近『ソラノイロ』シリーズの更新ばっかりになってきていますね? まあいいや(いいのか)。
つーこって秋のユウヤ&チカをお届けです。──今日の夕焼けがあまりに素敵だったので。ホントに流氷みたいだったのよ。
その後、ちょっと目を離して、また見たら、今度は流氷雲(勝手に命名)が夕陽に照らされてピンクで、まるで蛍光塗料塗られてうっすら発光しているクラゲさんのようだったのでした(笑)。明らかに先日見た水族館のクラゲが影響している発想ですね……。
今回、久しぶりに、ただ季節の移り変わりと日常の一幕、って話になるかと思っていたら、最後にチカちゃんがぽつりとパパリンのことを……(ぱぱりんってアナタ)。つーことでチカパパは欧州にいることが判明しました☆ その先は追々書いていきますのでお楽しみに〜。
そういや、全然カンケイないけど、チカちゃんって最近すっかりユウヤくんのこと「ユーヤ」って呼んでますね……まーこっちのほうが呼びやすいしチカちゃんぽいか?

11.07 突然思い立って色変更。──だって、前のなんかすごい暗い色だったんだもん! ソラノイロっぽくない。と思って。
夕焼けタイムの雲の色のごく一部をお届け。どんなにがんばってみても、あの空の美しさをココに再現なんてできないからね。





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