たそがれあそび



 その子は、いつもひとりでボールを持って立っていた。
 夕暮れの公園、子供たちは皆それぞれの家へと帰り、こんな時間に外にいる子供はその
子とおれくらいだ。あまり時間が遅くなると、夜の闇と共に毒素がやってくるから。空の
色が変わり始めたら普通はみんな家に入る。抵抗力の弱い子供ならなおさらだ。
 けれど、そんな人のいなくなるひとときこそが、おれに許された遊びの時間だった。他
の子供に会わずに済むから。昼間はずっと、生まれつきの病気でベッドから出られない妹
と過ごしているおれがわずかだけ外に出ることを許される時間。それがこの、短い黄昏の
時間なのだ。
 おれがいつもひとりでいるのと同じように、その子もいつも、ひとりだった。大きなボー
ルを両手でもって、ぽつんと佇んでいる。母親の迎えを待っているようにも見えるが、そ
うでもないようだった。いつもおれが帰るときになってもまだそこにいる。ずっと、ただ
佇んでいる。大きなボールを抱えて、わずかに首を傾げて。
「ねえ、君、いつもそこにいるね」
 声をかけたのは、ほんの少しの好奇心と、ほんの少しの気まぐれからだった。ここのと
ころ特に妹の具合が思わしくなく、母も忙しそうで、家にいるのが気詰まりになってきて
いたこともあった。
 その子は、まさかおれに声をかけられるとは思ってもいなかったらしい。まるで何もな
いところからいきなり声をかけられたかのような驚き方をした。ラベンダー色の虹彩を持
つ瞳が、大きく見開かれる。
「えっ……」
 あまりの驚きようにおれのほうが驚いた。もしかして悪いことをしてしまったのかとさ
え思う。訊いてみて、もし迷惑なようなら明日からは今まで通りに互いに干渉しない関係
に戻ろう、と思い、意を決して口を開いた。
「毎日この公園に来てるだろう? いつもここにいる。──そうだよね?」
「う、うん……」
「良かったら一緒に遊ばないかい? あ、おれはシュナ。君は?」
 その子は、こくんと息を飲み、一生懸命舌と唇を動かした。
「ゆ……ゆぅら」
「ユゥラ?」
 うん、と返事をする代わりにこくりと頷く。頭が重いのか首が細いのか、赤ん坊の頭の
ように安定が悪い。古いぬいぐるみが落ちつきなく頭を揺らすような動きだ。毒素のせい
か、それとも他に原因があるのか、訊いてみたい気もしたけれど、さすがにほとんど初対
面でその質問は失礼だ。
「しゅなは、ぼくに声をかけてくれるんだね」
 口を開いた彼は、年齢よりもかなり幼い印象だ。年はたぶんおれと同じくらいなはずな
のに、ひどく舌っ足らずなしゃべり方をする。妹のほうが、よっぽどしっかりと言葉を話
すだろう。名前を確認したのも、彼が“ユラ”なのか“ユゥラ”なのか、よく聞き取れな
かったからだ。舌の動きが遅いのだろう、子音を発音する時間が長い。おれの名前も、彼
が口にすると“シュンナ”とも“シュニャ”とも取れる、独特の響きになった。
 笑って、こてんと首を傾げる。そのまま落っこちてしまわないかと思わず心配してしま
う。妹も、昔まだ生まれて間もない頃はそうだった。
「うん……なんか、君が妹にどこか似ているせいかな?」
 似ても似つかないのに、どこか気になるのをそのせいだと思いこむことにした。
「いもうと? しゅなの、いもうと?」
「うん。──カナって言うんだ」
「かな……。か、な。かな、かわいいね」
「うん、大事な妹だ。体が弱いから、ベッドからは出られないんだけど」
「そうなの……」
 ラベンダー色の瞳が翳り、金茶色の睫毛が伏せられる。夕陽に輝く睫毛が濡れているよ
うに見えて、おれは慌てて話題を変えた。
「な、なあユゥラ。そのボールいつも持ってるけど、お気に入りなの?」
「え?」
「だから、そのボール」
 指差すと、緩慢な動作で俯き手に抱えているボールを見下ろす。答えが返らないことに
焦れたおれが口を開こうとした頃になって、ようやく彼は顔を上げた。
「ボール……、ぼく、いつも持ってるの?」
 何かがおかしい。
「え? だって、今、そのボール持ってるだろ?」
「うん」
「──昨日も持ってたよね?」
「…………そうなの?」
 何かがおかしい。会話が噛み合わない。と言うよりこれはそれ以前の問題だ。もしかし
て彼は、記憶に関係のある病気の持ち主なのだろうか。そう考えると、幼い仕草やしゃべ
り方も納得がいく。
「しゅな、ボール好き?」
「ああ」
「じゃあ、これあげる」
 そう言って、彼は手に持った薄水青のボールを差し出した。
「えっ、いきなりそんなのもらえないよ。──それよりさ、このボールで、一緒に遊ぼう?」
 おれの提案に、彼はきょとんと目を丸くして、それからにっこりと笑った。


 おれが公園に行くと、彼はいつもひとりで同じ場所に佇んでいる。毎日、ずっと同じ場
所にいる。遅れてきたことがないどころか、寸分違わず毎日全く同じ場所にひとりボール
を抱えて立っている。
「ユゥラ。こんにちは!」
「こんにちは、しゅな」
 そんな挨拶から始まり、黄昏が夕闇に変わるまでのわずかな時間を二人で過ごす。木の
枝で地面に絵を描いたり、葉っぱや木の実を集めたり、ユゥラの持っているボールで遊ぶ
こともあった。
 時間は瞬く間に過ぎ、あっと言う間に別れがやってきてしまう。
 ソラ
 天を仰いで、おれは燃えるような色の雲を見上げた。
「ああ、もうこんな時間なんだ」
 ユゥラも並んで天を見上げる。
「そら、……あかい」
                        アオ   アオ
「うん、そうだな。──なあ、ユゥラ。天ってさ、薄青から濃藍に変わるだけなのに、な
んでその途中でこんなに真っ赤になるんだろうな」
「真っ赤……。血の色みたい」
「血の色、か。──天って昼と夜をくり返すたびに、こうして血を流して生まれ変わるん
だろうか」
「血を流して、生まれ変わる……」
 呟いて、ユゥラは一瞬身震いをした。蒼白い顔の中で、黄昏の天にも似た色の瞳が不安
げに揺れる。例えが悪かったのか、怖がらせてしまったようだ。言い方を変えたら、気を
取り直してくれるだろうか。
「えっと……、だから、毎日新しい天が生まれてくるってことだよな。毎日同じように見
えていても、昨日の天と今日の天は違う天なんだよ」
「毎日、あたらしい……、違う、血を流して……」
「ユゥラ、だから血を流すってのはもういいからさ。悪かったよ、変な例えして」
 けれどそういえば先に血の色だと言いだしたのは彼のほうだったと思い出したが、もう
そんなことはどうでも良かった。
  アカ
 朱赤く染まる天を、二人並んで見上げる。言葉もなく、ただゆっくりと死に絶えていく
天を見送って、おれはまた同じようにくり返す明日を思った。


 その日、珍しく母が少し早めに帰ってきたので、妹を母に託し、おれはまだ明るい公園
へと出掛けた。
 子供たちでにぎわう公園。けれど見知らぬその光景は逆にさみしさすら感じさせる。数
人で連れ立って、または迎えに来た親に連れられて、ひとりまたひとりと消えていくのを
見送るせいもあるのかも知れない。
 さすがにユゥラはまだいなかったか。と思った瞬間、視界の隅に見慣れた姿が映った。
ユゥラだ。おれは初めていつもの場所でないところにいる彼を見た。おれと遊んでいると
きはともかく、おれが来るまでの間、彼はずっと同じ場所にひとりで佇んでいたから。毎
日、同じ場所に、同じようにボールを手に持って。
 ユゥラが走っている。そういえば、手にあのボールを持っていない。もしやと思って視
線を動かすと案の定、彼の前方をぽとぽとと転がるボールの姿が見えた。
 ボールを追って、彼もたどたどしい足どりで走る。その目は真っ直ぐにボールだけに注
がれている。
 このままでは公園の外に出てしまう、そう思ったとき、公園の前の通り、角を曲がって
走ってくる車の姿が見えた。旧式の、車輪で地を蹴って進む車だ。逆噴射の機能がないか
らすぐに止まれない不便なタイプ、それが、ボールが向かう先の道を、音を立てて走って
くる。
 危ない、このままでは……!
「ユゥラ、止まれッ! 危ない……!」
 転がるボール、走るユゥラ。お願いだ、止まってくれ。車が突っ込んでくる。
「ユゥラ……ッッ!!」
 必死の叫びは、ようやく彼の耳に届いたようだった。彼が振り向き、かすかに笑みを浮
かべる。そしてそのまま、小さな身体のすぐ後ろに車体が迫り────。
「────!!」
 おれは思わず目をぎゅっと瞑って顔を背けた。どれくらいそうしていただろうか。いつ
まで経ってもなんの音も聞こえてこない、いや、それどころかさっきまで確かに聞こえて
いたはずの子供たちの声もないことに気づいて顔を上げると、あたりには誰もおらず何も
なく、おれはただひとりで黄昏時の公園に佇んでいた。
「えっ……?」
 車もユゥラも、ボールも見あたらない。
「ユゥラ? ユゥラッ!?」
 天の色は、いつもおれが公園に来る時刻をとっくに過ぎていることを教えてくれた。け
れどユゥラはどこにもいない。いつもの場所に、いつものようにボールを持って首を傾げ
て佇んでいるはずの彼は、今日はそこにはいなかった。天の薄青が血のような朱赤を経て
濃藍に変わっても、彼は現れなかった。
 次の日も、その次の日も。おれが彼の姿を見ることは、もう二度となかった。

                                           fin.


コメント(by氷牙)          2001.4.7

ある日の帰り道、突然浮かんだ、中途半端に近未来(?)で、中途半端に童話っぽく、そして中途半端に不幸っぽいハナシ(苦笑)。
“彼”が“ゆら”と名乗った理由とか、大きくなったシュナとか、書こうかと思いましたが、やめました。皆さんそれぞれで考えてくだされば、と思います。

この話で何を書きたかったかというと、二人が夕焼けを見つめて血を流して云々と語る、あのシーンだったりします。今の季節、6時前に仕事が終わると、駅まで歩く道すがらまさしくトワイライト・黄昏時・逢魔が時な、あの時間帯なのですが、毎日のように空を見上げてはひとりにんまりと笑っている変な人になっております(笑)。



Natural Novel    CONTENTS    TOP

感想、リクエストetc.は こ・ち・ら