<夢>の彼方




   7 〈夢売り〉



「おや――いらっしゃいませ。今日は、どんな御用件でしょうか」
 カラン――と鐘を鳴らして訪れたその男性の姿を見て、青年は一瞬、いぶかしげな顔をした。だが、それも一瞬のこと、すぐに表情を元に戻すと、営業スマイル全開で青年はその男性を迎え入れる。
 年の頃は二十五、六だろうか。中肉中背だがそれなりに引き締まった身体と、爽やかな印象を与えるその顔立ちは、彼がとても明るく快活で、周囲から一目も二目も置かれそうな好青年であることを感じさせた。
 だが、それも、通常であれば、の話だ。
 青年は驚きの瞳でもって彼を見る。今の彼は瞳に生気が無く、全身から感じる雰囲気もとても苦悩に満ちた苦々しいものとなっており、さながら人生の敗残者か何かのように、青年には感じられていた。
「その様子では、以前の〈夢売り〉はさほど効果がなかったようですね――」
 そう語りかけた青年の言葉に、彼はぎょっとしたように瞳を見開くと、まじまじと青年を見つめ、掴みかからんばかりに勢いよく前に乗り出すと、必死の形相で話し出した。
「やっぱり、僕はここへ来たことがあるんですね! ここの前に立った時から、なんだかとても強烈な既視感を感じていて――でも、それが何かを考えようとすると、頭が割れるように痛くなって、それ以上は何も考えられなくなってしまう。まるで痴呆か何かのように、僕にはそれを思い出そうにも思い出せない。教えてください! 以前の僕は、ここに来て何をあなたに相談したんですか? 〈夢売り〉って、僕は何かを、あなたに売ったんですか?!」
「それは――」
『ああ、売ったぞ。とびきりの〈悪夢〉をな。キサマが毎夜苦しめられていた〈悪夢〉――産まれるはずだったキサマの子供の泣く〈夢〉だ』
「ちょっと待ってください。一度売った〈夢〉の内容は、本人が覚えているのではない限り、こちらからは提示しない決まりだったでしょう!」
 二人で取り決めた決まりをあっさりと破り、横合いから男性に彼が前回ここへ来た時売った〈夢〉の内容を告げた鴉に、青年が抗議の声をあげる。だが、鴉はそんな青年をフンと冷たく一瞥すると、顎をしゃくって男性の方を指し示す。
『そうでもないぞ。あの通り、ヤツが自力で思い出すのも時間の問題だったからな』
「子供……? 僕と、彼女の、子供……?」
 そこには、身に纏う苦悩を更に濃くし、頭を抱えて呻く男性の姿があった。痛み、霧に霞む頭の奥底から、必死になって記憶の断片を拾ってこようとしているのだろう、彼の顔が強く苦しげに歪んでいる。
「……分かりました。確かに、このまま彼を苦しませておくのは宜しくないですね」
 青年はそう嘆息すると、これは異例中の異例なんですが――と言いながら彼へと向き直った。
「今から三ヶ月ほど前でしょうか。確かにあなたは、一度ここを訪れています。あなたの恋人――」
『彼女≠ェ、亡くなってほどなくしての事だな』
「もう、貴方は横から話の腰を折らないでください。そう、あなたはその頃、恋人を事故で亡くしましたね。まだ学生だった彼女にプロポーズをして、良い返事をもらったすぐ後に……」
 青年はそこでいったん言葉を切ると、少し呆けたような彼の顔を一瞥した。
「今、何故そんなことを知っているって顔をしましたね。これは皆、あなた自身が話してくれた事ですよ。あなたが、前回ここに来た時に。そして、これから話すことはおそらく、あなた自身は覚えていない事でしょう。その時あなたが見ていた〈悪夢〉と、それにまつわる〈記憶〉を全て、我々が買い取ってしまいましたからね。私は、あなたが今日ここにみえた目的も、だいたいのところ見当が付いているつもりです。これから話すことを聞くと、今のあなたの苦悩はきっと更に増すことになるでしょう。それでもよろしければ語らせていただきますが――」
 そう、静かに語る青年の声に、はじめはおどおどと、次には覚悟を決めたように、しっかりと頷く男性。青年はそれを確認した後、静かに、ゆっくりと話し出した。
「あの頃、あなたは最愛の恋人を亡くし、うちひしがれていました。それこそ絶望のあまり何も出来ず、仕事にも支障をきたすほどに。ですが、あなたを苦しめている最大の原因は、実はあの天使のような笑顔を持つ彼女を亡くした事だけではなかったんです。あの事故があった当時、彼女は妊娠をしていた。まだ受精後数週間と、周囲はおろか本人ですらも妊娠の兆しに気付いてはいなかったのですが、それでも確かに彼女はあなたの子供を身籠もっていた。あなたはそれを彼女が搬送された病院のナース達の噂話から、偶然にも知ってしまうことになる。それから、あなたの悲しみは苦悩となり、彼女を殺したトラックのドライバーを責め、助けられなかった病院の医師達を責め、彼女を救うことができなかった自分を責め、そして何よりも、彼女を幸せにするとの誓いを果たせなかった自分のふがいなさを責め、呪っていた。そう、あなたにとって、その時世界は終わったも同然だったのです。あなたの強すぎる自責の念は、同時に産まれるはずだった自分と彼女の間の子供に対する贖罪を望み、あなたは毎夜毎夜、暗い暗い闇の中で怨みがましい子供の泣き声を聞き続ける悪夢を見る――そう、あなたが前回、我々に買い取りを希望した〈悪夢〉は、この、もしかしたら生まれていたかもしれないあなたの子供に関する〈悪夢〉。あなたはその〈悪夢〉から、それにまつわる全ての〈記憶〉と共に解放されることを願っていた。強く、激しく、何よりも強く望んでいた。だから、我々がその〈夢〉を買い取ったのです。ほら、これが……」
 その時の〈夢〉の結晶ですよ。
 そう言って青年が取りだしたのは、暗褐色に黒い条線が何本も入った錫石。その黒く暗い陰は、それそのまま彼の抱えていた苦悩の色だったのだろうか。ともかくそれはある種静謐な美しさを保ちながらも、どことなくもの悲しさを感じさせるような、そんな宝石の姿をしていた。
「あなたが望むのであれば、この〈夢〉をあなたに返すこともできますが、いかがしますか?」
 そんな青年の言葉は、空中でかき消される。
 強い、魂を揺さぶる悲嘆の泣き声に――。
 そう、青年の言葉を聞いていた男性はいつしか、青年と鴉の目の前で慟哭していた。それは、聞く者の魂を震わす悲しみの声音。彼は、自分ではもはや覚えてはいなかった青年の話と、ずっと抱え続けてきた彼女への罪悪感に、心がいっぱいになって哭いていた。それは或いは、この先彼が下す決断に対する、彼女への陳謝の涙だったのかもしれない。彼は大声で慟哭し、青年と鴉は無表情な目でそれを見守る。その空間にはしばらくの間、彼の魂を震わす獣のような泣き声だけが響いていた。
「…………いえ、お返しいただかなくても結構です。悲しいことですが、今、それを返して貰ったところで、僕にはそれを受け止めきれるだけの強さはない。きっと、前よりも自分自身を責めてしまうのがオチだと思います」
 ややあって、一通り泣き倒した彼が、青年と鴉に向かってその言葉を投げかけた時、彼の顔にはとても強い決意の色が浮かんでいた。それは何かを覚悟した時の男の顔。彼が本来持っていたであろう、〈強さ〉の現れ出でた顔だった。
「実は今日、ここへ来たのは、彼女の夢を……最近僕が毎日見ている、彼女との幸せな想い出の詰まった〈夢〉を、何とか見ないようにすることはできないかと思って、それを相談しに来たんです。そう、僕はこの幸せだった過去の夢を、できることなら売ってしまいたかった。僕にはその幸せを、過去のものとして受け止めるだけの勇気はなかったから。その夢を見る度に悲しくなり、よりその夢を求めて生きてしまう自分の心に、何とか決別をしたくて、僕は、彼女との想い出をできることならなくしてしまいたかった。それが彼女に対して手酷い裏切りになる事を分かっていながら、彼女とあの時出会っていなければ僕はもっと平穏に生きられたんじゃないかと思い、彼女の〈想い出〉を全て封印してしまいたいと思っていた。でも――」
 彼は力強い決意を湛えた目で、青年を、そして次に鴉を真っ直ぐに見つめて口を開く。
「今、ここに来て、それが間違いだったことにようやく僕は気付きました。ただ自分の辛さから逃げて、彼女の事を忘れてしまっただけでは、僕はきっと前回の二の舞になってしまう。例えここであなた達に彼女に関する〈夢〉を全部売って、彼女の記憶を全て消し去ってしまったとしても、僕のそんな弱さがなくならない限り、僕はきっと前には進めない。きっと、同じ過ちを繰り返す。辛いけど、彼女はもういないのだと受け止めて、あの最高に幸せだった日々が夢や幻ではなく本当に懐かしい記憶として、僕の中で心穏やかに思い出せるようにならなくては、彼女や、生まれるはずだった僕の子供に対しても僕は顔向けできなくなる。そしてそれが、僕がもういない彼女にしてやれる、たった一つのことなんだと、今、僕はようやく気付きました――」
「それではいかがなさいます? あなたが望むのであれば、この〈夢〉を返すことも、彼女に関する〈夢〉を全部譲り受けることも、はたまた今日は何のお取引もしないということもできますが」
 再び、静かに問いかけた青年のその言葉に、彼は少し、そうほんの少しだけ躊躇したように口を噤み、目を閉じた。そして、何かをふっきるかのように一度大きく深呼吸をすると、意を決したかのように口を開く。
「でしたら、今回は是非とも――」
 そうして語られた彼の回答。彼の、静かな決意に満ちたそれは、青年や鴉の予想を全く覆す、意外性に満ちたものだった。





   8 夢の架け橋



『もったいないものだ。このような綺麗な〈夢〉を、彼自ら手放してしまうとは――』
 嘴の先でキラキラと光る月光石を弄びながら、鴉がぼそりと呟いた。鴉の嘴に突かれるその宝石は、透明感のある薄白色の輝きの中に時折猫の瞳のような綺麗な筋を映し込む、とても美しい結晶だった。
「しょうがないでしょう。彼自身がそれを望むというのですから――」
 どことなく寂しそうな雰囲気を滲ませながら、青年が応える。
 そう、今、鴉が嘴で弄んでいたのは、あの男性の語った〈夢〉――彼が彼女に関して見た、綺麗な綺麗な〈想い出〉の全てが、美しく結実したものだった。
「僕がこの〈想い出〉達を全て、受け止められるぐらい強くなるまで、この〈夢〉を預かっていてもらいたいんです」
 驚く青年や鴉を余所に、そう強い決意を込めて言い放った彼を思い出す。
「もちろん、記憶の欠片である〈夢〉を売るということは、その〈記憶〉そのものをなくしてしまうに等しいことだと、僕も重々承知しています。でも、これは僕がさっき言っていたような逃げじゃない。僕が全てを受け止め、前に進むためのチャレンジなんです。まだ今の僕には全てを受け止めきれるだけの強さはない。どう言いつくろってみても、それは確かです。だから、ほんの少しの猶予期間をもらって、前に進むだけの強さを身に付けるためのチャレンジをしたいんです。そう――」
 そこで彼はいったん言葉を溜めると、次の瞬間、力強く言い切った。
「例え彼女のことを全て忘れてしまったとしても、僕は絶対に自力で全てを思い出して、彼女の〈夢〉を返して貰いに戻ってきます。例え時間はかかることがあったとしても、絶対に、僕はここへ戻ってくる。僕と彼女の間の絆は、何モノにも負けない強いモノなんだと、僕は信じているから。そう、だから、何よりも大事にしたい大切な僕の宝物――それをしばらくの間、預かっておいて欲しいんです」
 そう語った彼の瞳には、もう一片の迷いもなかった。彼は一度彼女を忘れ、そして再び取り戻すことを、強く強く願ったのだ。今はまだ受け止めきれない彼女との想い出――それを全てきちんと受け止めるために……。
『やはり、ヒトの子の考えることは良く分からん。このまま、取り戻せない可能性の方が遙かに高いと言うのにな』
 キラキラとした月光石から出る精気を気持ちよさそうに全身に浴びながら、鴉が呟く。彼にしてみればこんな御馳走をあっさりと手放してくれた男性に、お礼の一つでも言いたいところだろうか。
 だが、決めつける鴉に少しヒトの子を弁護したくなった青年は、彼の苦言に対して反論の言葉を投げかけた。
「いえ、そうとも限りませんよ。彼ぐらい〈想い〉が強ければ、或いは奇跡が起こるかもしれませんし――」
 そこまで言うと青年は、ふ、と何かを思いついたかのように、悪戯っぽく微笑んだ。このすぐ手近に、正真正銘もう一つの〈奇蹟〉があることを、青年は今、思い出していたのだ。
『オイ! 待て、それは――』
 瞬間、鴉から抗議の声が上がるが、それを努めて無視し、青年は手に持った月光石へと、棚から手に取った大粒の紅水晶を近づける。
「これは〈夢使い〉としての私の直感なんですけどね、例え時間はかかろうとも、あの青年はきっとこの〈夢〉を取り戻しに参りますよ。だって、そうではありませんか。彼はこの紅水晶の〈夢〉を託した彼女が、自分の生命の最期の最期までかけて幸せになることを願っていた男性なのでしょう? それならば、きっと彼は彼女を取り戻しに戻ってきます。そうでないと、彼女≠ェあまりにも浮かばれないと思いませんか」
 そう言いながら、両の掌の中にある二つの宝石を、青年は互いに近づけていく。そしてその〈夢〉の結晶同士が互いに触れるか触れないかというぐらいに近づいたその一瞬――
 ほのかな光を放ちながら、それらの〈夢〉はまるでそれ自体実体がないかのように互いに融け、混じり合い、次の瞬間青年の掌の上で紅く輝く一際綺麗な太陽石へと変化していた。
「だからこれは、ちょっとした私からのサービスです。本当に彼がこの〈夢〉を取り戻しに来る奇跡が起きたなら、これくらいの事はしておいてあげないとバチが当たってしまいそうですから」
 本来ならば決して出会うはずはなかった、彼≠ニ彼女≠フ紡ぐ〈夢〉。片方は相手の死を受け止めるために一度相手を忘れることを願い、もう片方はこの世に残された相手が幸せになること願って、共に青年と鴉の元へと託されたこの〈想い〉――それらが、ここに揃っていること自体が、もう既に十分奇跡なのだ。奇跡的な出会いを果たしたそれらを青年の力で引き合わせてみることで、果たしてどのような結果が引き起こされるのか、その瞬間、青年はそれをとても見たくなっていた。
 これだけ強く引き合う彼と彼女の絆の糸を、再び繋ぎ直してみるのも悪くはない。彼女がその生命の最期の最期まで、いったい何を願って生きていたのか――再び奇跡が起こって彼がこの〈夢〉を取り戻しに来ることがあったなら、それを是非、彼にも伝えてあげたいと青年は思う。
 そう、だから、これはその奇跡の結末のための、ほんのちょっとしたお手伝い――
『フン。やはり、人間の考えることは全く以て良く分からん』
 青年の感傷のためにお気に入りの〈夢〉をいきなり奪われた鴉が、少しふて腐れたように吐き捨てた。
「まあまあ。彼がこのまま戻ってこなければ、この〈夢〉は結局貴方のモノになるのですから、そんなに拗ねることはないではありませんか」
『別に拗ねてなどおらぬ。馬鹿にするでないわ!』
 笑み混じりの青年の言葉に、ますます不機嫌そうにぷい、と横を向く鴉。だが、そうは言いながらも鴉もまんざら、彼女の〈夢〉が彼にもたらすであろう結末に興味がないわけではないことに、その時青年は気付いていた。
 そんなに意地を張らなくても良いですのに――。
 鴉のそんな強がりが、なんだか妙に可愛らしい。このような事を言ってはまた鴉に怒られるかもしれないが、時折見せる鴉のそんな人間臭さが、青年には妙に可愛く、愛しく思える。
 さて、あの青年は、ちゃんとここに帰ってこれますかねえ――
 久々に、楽しみな事ができました、と青年は薄暗い部屋の中で誰とはなしに呟いた。この、薄暗い刻の止まった部屋の中。そこにもたまにはこうやって、面白いことがあるらしい。
 そして青年は、二つの〈夢〉が融け合った宝石をまた棚の上に戻すと、次なる訪問者を待ち受けるために、しばしその眼を閉じたのだった――。



   9 受け継がれしモノ



「――それで、自分の心を苦しめていた彼女との〈想い出〉を一時手放した彼は、それから生来の活発さを取り戻し、見違えるように生き生きと、仕事でもそれ以外のことでもみるみると頭角を現していったわ」
 きらきらとした光を振りまきながら、少女は語り続ける。
「それはまるで人が変わったよう、と他の人に噂されるくらい、容赦なくライバルを蹴落とし、仕事のできる優秀なサラリーマンに成っていった。ううん、彼はこの時、本当に人が変わっていたのかもしれない。だって、彼が彼女と過ごした数年間は、本当にもの凄い密度を持った、比類なくステキな時間だったんですもの。それを全てなくした彼が、以前の彼とは違っていたとしてもそれは当然だと思うの。彼女と共に過ごした時間で培った優しさや穏やかさ、そして闊達さを失った代わりに、ともかく彼はとても有能な自分を取り戻した。そう、今や仕事もプライベートも順風満帆だった彼は、いつしかずっと自分を支えてくれた部下の女性と恋に落ち、そして……」
 と、そこまで一気にまくし立てた少女は、そこで一度言葉を切る。そして、再びあのとろけるような天使の微笑みをその顔に浮かべ、〈夢〉の内容を聞く青年と鴉へと、その最後の物語を紡ぎ出した。
「そこから先は、もしかしたらあなたたちの方が良く知っている事なのかもしれないわね。そう、彼は全てを思い出し、あの時預けた〈夢〉を――何よりも愛しい存在である彼女と生まれるはずだった自分の子供に関する〈記憶〉と〈想い出〉の全てが詰まった〈夢〉を――返して貰いにここへ戻って来たの。その時までには彼はもう、全てを受け容れ、懐かしく想い出の中に転がしていられるだけの強さと幸せを、手に入れていたから。彼は、自分の宣言通り、奇跡を起こしてここへ来た。そして彼は、全ての想い出と共に、彼女≠ェ死の間際――最期の最期で願ったその〈夢〉を知るの。それは、幸せな家庭を築き、平凡だけど愛と笑顔に満ちた暖かい人生を、彼が過ごせますように、という彼女の〈願い〉。彼女が死ぬ間際に存在した、〈死神〉と〈夢魔〉のほんの小さな気まぐれによって、奇跡的にこの世の中に残った〈夢〉。それを、彼は彼女との全ての〈想い出〉と共に、その瞬間、心の奥底にじんわりと感じていた。そう、彼は、彼女の最期の願い通り、恋に落ちた部下の女性とその後しばらくして結婚し、そして……私が生まれたの!!」
 そう言った時の少女の顔。それは本当に光に満ち、輝いていた最高の笑顔。そう、まるで、あの時のあの少女が時を越えて今、この場所に出現したかのような……。それは青年と鴉にそんな既視感をもたらす、本当に光溢れた至高の笑顔だった。
「でも、可笑しいわよね。父に奇跡を起こして全てを思い出させたのが、付き合い始めてしばらくした後に母が言った『本当はね、私、今よりも昔の先輩の方が好きだったんですよ』って言葉がきっかけだったって言うんだから。そう、母ったらね、父に対してこんな言葉をかけたらしいの」
 ――ちょうど私が新人だった頃の先輩は、とても優しく格好良くって、私たち新人女子社員一同の憧れの的だったんですよ。でも、その時先輩には既にとても可愛らしい彼女がいるって話だったから、私たち、泣く泣く諦めていたの。先輩が輝いていたのはその彼女のおかげだって言うのは、良く分かっていたし……え? 彼女ってなんだ……って、覚えてないんですか? あんなに大事にしていた彼女のことを。信じられない! いくら彼女を亡くしたことが先輩にとっては辛すぎる体験だったと言っても、すっかり忘れてしまうなんて……そんな、そんな薄情な人だとは私、思いませんでした。先輩はそんな人じゃないって、私はずっと思ってたのに……。いくら仕事ができるからって、私、そんな先輩は好きじゃないです。あの頃の、優しかった先輩はいったいどこに行ってしまったんですか? 私だって、先輩がそんなんじゃ、この先永遠に彼女に顔向けできないわ。彼女を差し置いてこの先、あなたと幸せになっていくなんて、私には絶対に考えられない……
「ねっ、こんな母の発破が全てのきっかけだったなんて、なんだか可笑しくありません? つまり、なんだかんだで父も母も、彼女≠フことはいつも心のどこかに引っかかっていたって事なのよね――」
 うふふ――そう本当に可笑しそうに、彼女は笑う。
「だから、わたしが今、ここにいるのは、とってもとってもステキで、奇跡的な偶然の積み重ね。そう、まさに奇跡の結果なの。ありがとう。あなたたちが父を救ってくれたおかげで、父と母は結ばれた。そしてもしかしたら昔、母になるかもしれなかった人の〈想い〉――それをこうして伝えてくれたおかげで、わたしは今ここに存在してる。そう、その彼女の願い通り、わたしも父も、そして母も、今、とっても幸せよ」
 その一瞬、青年の目にはその少女に重なって微笑む、彼女の姿が確かに見えたような気がした。いや、それは本当に錯覚などではなかったのかもしれない。あの鴉がその時、まるで懐かしいものを見たかのように、彼女を見つめながら目を細めて感傷に浸っていたから――。
「さて、これで、わたしの売りたいっていう〈夢〉の話は全てお終い。ねっ、最高にステキで、最高に幸せな〈夢〉だったでしょう? わたしの中に積もる色々な人の〈想い〉が、わたしにこんなステキな〈夢〉を毎日見せてるの。だからこの〈夢〉もまた、わたしの中からなくなっても、きっとどこかの誰かを幸せにしてくれると思うわ。そう、わたしの父のように、何かに苦しんで毎日を生きている誰かを……。うん。それはわたしが保証する!」
 彼女が力強くそう言った瞬間――鴉の口からきらきら光る特大のダイヤモンドがこぼれ落ちた。それはおそらく世界でも類を見ないであろう、数百カラットはあろうかという特大のスターダイヤ。それが、彼女が今語った〈夢〉の、結実した結果だった。
「あなたの今語った〈夢〉は、確かにお受け取りいたしました。ご安心ください。この〈夢〉の〈想い〉はきっと、それを一番必要としている人の中に、受け継がれていくことでしょう。ちょうど彼女の〈想い〉が、あなたという存在の中に受け継がれたのと同じように」
『そうだな。心配せずとも、これは我が大切に保管しておいてやろう。その、時が来るまでな――』
 少女が紡いだ〈夢〉の使い道に関する、その青年と鴉の答えに満足したのか、少女は最期に、とびきりの笑顔でにっこりと微笑んだ。そしてその見る者全てに幸せを与える天使のような笑みを保ったまま、外への扉へとその手をかける。
「本当にありがとう! 〈夢売り〉のお兄さんに綺麗な鴉さん。わたし、例え今売った〈夢〉の事をここから出たら忘れてしまったとしても、この事は絶対の絶対に思い出してまた来るわ――そう、わたしの父のように!!」
 そして、その言葉だけをこの狭い空間の中へと残し、彼女は元気いっぱいに飛び出していった。彼女らしく、後ろを一切振り返ること無く――。
「どうでも良いことではあるんですが、私は〈夢売り〉のお兄さんではなく、〈夢使い〉のお兄さんなんですけどねえ……」
 そう呟く青年の声も、もはや少女には届かない。後に残された青年と鴉は顔を見合わせ、青年は少し困ったような顔をしながら頭を掻く。
『クカカカッ――』
 そんな青年を見て、さも可笑しげに声を漏らす鴉。おそらくはあの、陽だまりのようだった少女の残り陽がまだ残っているせいなのだろう。青年と鴉の心の中は、今とても暖かく、光り輝いて浮き立つものとなっていた。
 彼女はきっと、これからの毎日を強く、美しく生きていくことだろう。例えどんな不幸が彼女の身に降りかかってこようとも、彼女は死が彼女を捕らえるまさにその瞬間まで、前向きに、強く強く生きていけるに違いない。
 そう、予感させるものがあった。
 例え、この世界がこの先、どんなに辛い試練を少女に用意していても、彼≠ニ彼女≠フ想いを継いでいるあの少女ならきっと、それに負けずに周囲に幸せを届け続けてくれるに違いない。自分が辛い最中にあってもなお周囲を慮り、こぼれんばかりのあの笑顔で人々を幸せにできるに違いない――。
 さて、彼女がまたここに戻ってくる時には、いったいどのような幸せな〈夢〉を運んできてくれますかねえ。
 カランカラン、と遠のいていく乾いた鐘の音と共に、再び薄暗くなった〈夢売りの館〉。その刻の止まった室内にはだが、少女が託した最高級の幸せの詰まった〈想い〉が、いつまでもいつまでも、きらきらと暖かい光を放っていたのだった――。





幸せな〈想い〉、悲しい〈想い〉

幸福な〈夢〉、不幸せな〈夢〉

あなたは今、何を望んでいるでしょう?

ここは、夢と現の狭間の地

うたかたの夢の集う〈夢売りの館〉

あなたも知らないあなたの本当の望みが露わとなる空間

さあ、扉を開けてご覧なさい

今宵、あなたはどのような〈夢〉をお探しですか――







コメント(by氷牙) 2004.10.12

じゃじゃ〜ん! 相川氷冴サマこと高波修サマ(湘南ソロモンFKO)からいただいた、夢売り海賊版でございます!(笑) PNやサークル名までご丁寧にパチモンぽく(笑)。こういう遊びってすごく好き。
私の手元にはこれの製本版があるのですが、皆さんにも見ていただきたい! ロゴや装丁までそれはもう丁寧に真似ッコしてくださっているのですよ〜!(笑)
そして内容の方はというと、これまた素敵な希望に満ちた物語で。『遙かなる星々の物語』とも『YAKINIKU!!シングル』とも違う(笑)新たな高波さんの魅力が味わえます。
物語の途中には、悲しい出来事もありますが、夢と希望と祈りとを受け継いだ少女の微笑みは、青年にとっても、私たちにとっても、救いになることでしょう。
個人的に、人々の語った<夢>の結晶──そのさまざまな宝石のセレクトがとても印象深く、楽しく読ませていただきました。あとね、いつもよりちょっと人間くさく、人情味の篤い鴉さんv(笑) 青年との掛け合いもやはりイイですねえ。
高波さん、素敵なお話をありがとうございました! 次もよろしくお願いしますね!(ニヤリ)




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