虹の咲く音
見上げれば 光る青空 君の声
昼休み、僕は今日の部活の準備のために、1年の教室を訪れていた。今日の準備を担当する後輩に、顧問の先生からの伝言を伝える。それじゃあよろしく、と言って踵を返すと、聞き慣れた、けれどこんなところで聞くはずのない声が、後ろから聞こえた。
「あっれ〜? ユーヤ? どしたのこんなトコで?」
それはこっちの台詞だ。振り返ると、案の定、能天気な顔をしたチカがにこにこと手を振っている。
「……チカこそ、何やってんだよこんなトコで」
帰宅部の上、委員会にも所属していないチカが、他学年の教室を訪ねることなどそうないはずだ。
「うん、花ちゃん探してるんだけど。ユーヤ、知らない?」
「花村先生? 職員室にいなかったか?」
花村先生は、『花ちゃん』の愛称が似合う女の先生だ。音楽担当で、僕の所属するブラバンの顧問でもある。つまりは今僕がここにいるのは、彼女からの伝言を伝えるためだ。
「ええー……、やっぱそこかぁ。第二音楽室(ニオン)にいなかったから、ここにいてくれたらいいなって思って来たんだけど」
確かに、ここ3組と隣の4組は花村先生が副担任を務めるクラスではあるけれど。この数ヶ月の間に、僕がこの辺りで彼女を見かけたのは数えるほどしかない。そしてそれは僕の巡り合わせのせいだけじゃないはずだった。
「フツウに考えて優先順位は職員室だろ、何で先に行かないんだよ」
「……今日はちょっと行きたくないんだよねー」
えへへ、なんて笑うチカに、大げさにため息をついてやる。今度は何をやらかしたのか。
「今日はもう職員室に行く予定はないよ。──放課後でもいいなら、伝えてもいいけど」
「んー、いい。もらうものもあるから、自分で行く」
「そう」
「うん。ありがとね、じゃあまた後で!」
そう言って、チカはパタパタと足音を立てて駆けていった。
「──今の、吾妻(アガツマ)さんですよね」
硬い声に振り向くと、さっきまで話をしていた後輩が、僕と同じようにチカの後ろ姿を見つめていた。彼は背筋をきちんと伸ばした姿勢で立ち、僕を見ないまま、まだ変声の終わりきらない独特の声で、切り揃えた前髪と同じ鋭さで言を継ぐ。
「先輩、仲良いんですか」
「仲良い、って言うか、腐れ縁って言うか……」
「ふうん……」
「……佐野?」
「彼女は部活やらないんですか」
佐野の言葉は、問いかけというよりもっと鋭い、責めるような響きをしていて、僕は戸惑いを隠せない。
「佐野? 何を……」
「彼女は音楽をやるべきだと思いませんか。歌でも、ピアノでも」
チカとさして変わらない、低い位置から睨み上げられ息をつめた。佐野は知っているのだ、チカの家の──チカの両親のことを。
だけど、だからと言って、佐野がそんなことを言う権利なんてどこにもない。
「やるべきだとか、そんな風に言われてやるもんじゃないだろ」
僕が怒る義理も権利もない、思ってはいても止められなかった。不快を隠さず言い捨てて、1年3組の教室を後にした。
無性にチカの笑い声が聞きたくなったけれど、今の僕はチカを笑わせることはできないだろう。だからといってそのまま教室に戻る気分でもない。足の向くまま何となく向かった先は、第二音楽室だった。
重い扉はあっさりと開く。思った通りだ。第二音楽室の鍵が開きっぱなしだと言うのは周知の事実だ。楽器なんて、決して安くはないのにと、花村先生の不用心を責める声もあるけれど、こういう時にはありがたい。
がらんと広い音楽室は、4時限目に授業があったのだろう、冷房の名残でひんやりしている。歩く僕の足音だけが響く静けさと相まって、その涼しさは、ガラになく煮立った僕の頭を落ち着かせる効果があった。
片隅に置かれたピアノに歩み寄り、人差し指だけ、何かのスイッチを押すように叩いた白鍵は「A」すなわち「ラ」の音。音が聞こえて初めてその事実に気づき、思わず苦笑してしまう。習慣というのは恐ろしい。
何を弾こう。もっとも、僕のレパートリーなんてたかが知れているけれど。
首を傾げ、何かヒントを求めて辺りを見回した。と、背後の窓の外から歓声が聞こえてきた。近づいて、窓を開けて覗き込む。校舎の裏手、花壇の脇で、女生徒が数人水やりをしている。
そのうちのひとり、ホースを持っているのはチカだった。
ホースの先を指先で塞いで飛沫を飛ばす。キラキラと、光を反射する水飛沫、空を貫く高い笑い声。
「見て見てー! ほらっ、虹!」
ホースを振り回してチカが叫んだ。
「虹……か」
あいにくと、僕の位置からは虹は見えない。けれど思い浮かべることはできる。
再びピアノに触れた手が、奏で始めたのはやっぱり、
『 Over the Rainbow 』
拙い音が、頭の中、チカの声に包まれていく。見る見る伸びて、鮮やかな虹が広がっていく。
「──ユーヤっ!?」
突然名前を呼ばれ、驚いて手を引いた。不自然に音が途切れ、頭の中の虹が消える。
幻聴だなんて、僕の頭も恥ずかしいことをしてくれる。そう思った時、再び声が聞こえた。背後から。
まさか。
わかるはずない。けれど僕の常識を打ち砕く声は、はっきりと、窓の下から聞こえてくる。
「ユー、ヤーっ!」
「……人の名前連呼するなよ。恥ずかしいだろ」
「あっ、やっぱりユーヤだ!」
仕方なく窓から顔を出すと、チカがぶんぶんと手を振ってきた。片手にはホースを持ったままだ。どぼどぼと水が流れ落ちる。
「栓閉めろよ、水が勿体ないだろ」
「ね、ねっ、ユーヤも虹見えた?」
「見てない」
「何でー? 見ようよ虹、ほらっ!」
そう言って、チカは飛沫を撒き散らすけれど。
「見えないってば、ここからじゃ。チカ、お前虹の原理知らないだろ」
「虹の原理? どーゆーの?」
きょとんと首を傾げるチカに、盛大なため息が洩れる。
「──わかった、今行くから」
走るのはしゃくで、でも心持ち早足で、僕が花壇に着いたとき、待っていたのはチカひとりだった。
「後のふたりは?」
さっきまではいたのに。
「んー、何か先戻るって」
それはもしかして妙な気を回されたりしたんだろうか。内心顔をしかめる僕に、チカが虹の原理をせがむ。
「詳しくは僕も知らないけど。要はプリズムの原理だから」
「……ぅん?」
「太陽の光が水の粒子を通って分解されるだろ、それが細かな水のスクリーンに映し出されるんだよ。だから、太陽に背を向けた状態じゃないと見えないんだ。──試してみればわかるよ」
素直に頷いて、チカはあちこちに向けてホースを振り回し始めた。
「あ、ほんとだ、虹出ない……。虹ー、虹ー、────あっ、湧いた!」
「──は?」
「え?」
思わず聞き咎めた僕に、チカが聞き返す。
「……虹が、何だって?」
「虹が、湧いた?」
ホースを押さえていた手が緩み、再びどぼどぼと水が溢れ出す。チカの足元が水浸しになっていく。
「──湧かないだろ」
「えー、湧くよ!」
「湧かないよ。雲なら『湧く』って言うけど」
「じゃー虹は?」
そう改めて聞かれると、一瞬戸惑ってしまう。
「虹は……『立つ』とか、『架かる』とか、──無難なところだと『出る』だけど……」
それはさすがに面白味がない。思案する僕からチカは花壇に目を移した。花壇の上、小さな虹の残像を見つめ、わかった、と声を上げる。
「わかった、『咲く』だ! 虹が咲く!」
どう、と尋ねるチカは、これぞ世紀の大発見と言わんばかりの満面の笑みだ。
ホースを持った手が、天へ向けて掲げられる。無意味に垂れ流されていた水が、空に、花壇に、僕の心に、潤いを与えるものに変わった。
「見て見て、ユーヤ、虹が咲いてる!」
どんな花より鮮やかに、天まで届けと虹が咲く、天まで響けとチカが笑う。
しばらく空に咲く虹に向けて水を撒いていたチカが、ふいに振り向いた。
「あ、発見! ね、ね、ユーヤ、虹って五線譜みたいだね?」
「……そうだね」
頷きながら、頬が緩むのを感じた。声をこらえつつ笑い出した僕に、チカがむくれた顔をする。
「何で笑うの〜?」
「いや、チカらしいなって思ってさ」
やっぱりいつでもチカはチカだ。そんな当たり前のことを改めて思った。誰が何を言っても言わなくても、チカの隣に音楽が自然にあることに変わりはない。それでいい。
「チカ、歌ってよ、『Over the Rainbow』」
水浸しの花壇、きらめく虹、晴れ渡る青空、チカの歌声。
チカが咲かせる虹の音と、水溜まりに映る空の色とを、花壇の花たちと分かち合う。
やがて予鈴が鳴る頃には、僕の心も雨上がりの清らかさを取り戻していた。
fin.
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