ツキガヨブ



 耳鳴りがするほどに静かな夜というものを、その日僕は初めて体験した。
 静かすぎて、真昼の静寂の余韻が耳鳴りのように、耳の奥深くでキィィン……と音を立
てている気がする。時々、少し離れたところにある線路を電車が通るのか、踏切のような
音がするけれど、それが終わるとまた静寂の音が聞こえてくる。
 空はまっくろで、星が覆いかぶさるように光っていて、沈み行く三日月が星に救いを求
めて手を差し伸べていた。
「おにいちゃん……」
 鳴くような声に振り返ると、妹が途方に暮れた顔をして立っていた。
 トオコ
「透呼、」
 無表情に名を呼び、身を起こす。手をついたベッドがギシッと音を立て、思いのほか大
きく聞こえたその音に、妹はびくりと身体を揺らした。
「おにいちゃん、こわいの」
「何が、」
「月が、呼んでる」
 月が、呼んでる。口の中で妹の言葉を繰り返し、僕は眉を寄せた。
「月が、呼んでるの。耳が痛いの」
 ああそうか。僕は納得した。妹も、あの静寂の音を聞いたのだ。聞いて、その初めての
体験に恐怖を覚え、僕がそう思ったのと同じように、空にかかる三日月に何かを感じたの
だろう。
「大丈夫だよ、透呼。月が呼んでるんじゃない。──今まで騒々しすぎるところにいたか
らね、耳がこの静けさについていけないだけだよ」
 僕らは今日、この田舎町に引っ越してきた。それまでの、街中の大通り沿いの家を売っ
て。この、数えられないくらいに星の多い、静かな町に。
「月が呼んでるの。──ねぇ、どうしておにいちゃんじゃないの?」
「え?」
「どうしてとおこなの? おにいちゃんじゃないの?」
 瞬間、カッと目の前が赤くなって、気がつくと僕の手は妹の頬を打っていた。黒目がち
の瞳が見る間に潤み、涙と泣き声がほとばしる。
             ヤツキ
「透呼どうしたの? ──夜月!?」
 騒ぎを聞きつけて顔を覗かせた母の横をすり抜けて、部屋を飛び出した僕はそのまま夜
の中へ、まっくろな静寂の中へと走り出していた。
 

                    *          *         *


 幼い頃の僕には夢遊病の気があったらしい。らしい、というのは僕自身はそれを覚えて
いないからだ。
 それにしても、そんなことで三つも年下の妹をぶってしまうなんて大人気ない。ふっと
溜め息をつくと自然に歩みが止まる。
 空を見上げると、相変わらずまっくろな、目眩がしそうな星空だ。三日月はもう消えて
しまったかと辺りを見回すと、平屋の屋根にしがみつくようにして、まだしぶとく生き残っ
ていた。
 鼓動が静まってくると、また静寂が僕を包む。春先の、けれど夜の空気は程良く冷たく、
どの季節にも属さない肌触りで、どの世界にも属さない自然さで……。
                         カン
 そんな思考を耳鳴りが遮る。いや、耳鳴りではなく、閑、と響く、あの静寂の音だ。
「あんた、何こんなトコうろついてんの」
 突然、背後から声をかけられた。驚いて振り向くと、髪を短く切り揃えた、僕と同じく
らいの──男の子? 女の子?
「ねぇ。あんたこんなトコで何やってんの」
 服装や、ぶっきらぼうな話し方は男のようだが、かすかな甘さのある高い声は多分女の
ものだ。
「何って、…………散歩」
 呆然と、問われるままに答えると、その子はにやりと口端を歪めた。
「呼ばれたんだ」
 勝ち誇ったように、決めつける。──呼ばれた? 何に。
 僕の心の声が聞こえたように、その子はまた笑った。
「呼ばれたんでしょ。ボクの声が、聞こえたんでしょ」
「君の、声、」
「そう。────」
 そして赤い唇が開かれた瞬間、すべての音が僕から消えた。
 目を瞠り、思わず耳を押さえた僕に見下した一瞥をくれ、閉じられた唇の端が引き上げ
られる。
「聞き覚え、あるでしょ?」
「それは、君の……? 君は、一体……」
    ル ナ
「ボクは流名 。──夜月、また会えて嬉しいよ」
 愕然とする僕の目の前で、その子は──流名は姿を消した。
     また会えて嬉しいよ
「なんで……」
 無意識の呟きは、何に対しての問いかけか自分でもわからないまま。
 ザ、と土の擦れる音に我に返る。
「おにいちゃん……」
 振り返ると、頬に湿布を貼った妹と、妹の手を引いた母が心配そうに僕を見つめて佇ん
でいた。
「──透呼、母さん」
 名を呼ぶと、二人の頬が少し緩んだ。
「夜月、──さあ、帰りましょう」
 頷いて、一歩を踏み出す。その時初めて、僕は自分が裸足であることに気がついた。足
の裏に感じる土はひんやりとしていて、まるで月のようだ。
 二人に並んだ時、ふと何かが聞こえた気がして振り返った。
 何もないことを確認して、空を見上げる。平屋にすがっていた三日月は姿を消し、ただ
まっくろな夜空を星が埋め尽くそうとしていた。
 

                                       fin.


コメント(from 氷牙)          2001.6.15

掲示板1500HITうすらひさんからのリクエストは、「物音」でした。
このリクを聞いた瞬間、ふと相川の中によみがえった記憶。それが、この創作のモトになっています。それすなわち、“静寂の音”。──それって音?(笑)
でもでもっ! ホントに静かで静かすぎると、カーンともキーンともつかない音がするんだよう!
相川はですね、中学に上がるまで大通り沿いの家(騒音、70〜80ホン(あ、今はデシベルか)くらいあった)に住んでたんですが、卒業と同時に引っ越しをして閑静な住宅街に移り住みました。引っ越してきた日の夜、あまりに静かすぎて眠れなかったんです。それを思い出して。……別に僕が夢遊病だったわけではありませんので(笑)。念のため。

しかしうすらひさんのサイトに合うようなお話を……と思っていたはずなのに、なにやらダークっぽい感じ。う〜ん(^^;)。
そしてまたも(?)名前ネタちっくです。てゆうか好きそうな名前だよな。
日常に身近に潜んでいる狂気にも似たものを描きたかったのですが。月って、見上げてると狂いそうになりますよね?──僕だけか?(^^;)




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