Early Morning
しん、と張りつめた空気が部屋の中にまで入り込んできていた。それはむしろ心地良い
静寂。心の中に溜まる鬱屈としたものを清めてくれるかのようだ。その力は、無意識のう
ちに心待ちにしている足音とはまるで違うようでいて、よくよく思い返してみると、実に
似通った後味を持つ──一言で表すならば、清澄、である。
まだぼんやりと薄明るい空を眺めながら、クラヴィスは微睡みの中でとりとめのない思
考のかけらを漂わせる。
この時刻、100日ほど前にはうるさいくらいに眩しかった空も、この季節ともなれば
まだ夜明けを迎えたばかりだ。小鳥たちがようやく眠りから覚め、太陽をせかすようにさ
えずりはじめる。それもまた、彼にとっては子守唄のひとつだ。やがて訪れる暁の王子が
永き眠りを破るまでには、まだ少しの猶予がある。
「おはようございます!!」
ふいに、張りのある声が静寂を破った。瑞々しい若木が水滴を弾き返すようなその声。
よもや幻聴ではあるまいか。いや、だがあの者ならば。
緩慢な動きで寝台から抜け出し、テラスへ続くガラス張りの扉を押し開けると、果たし
てそこに、すなわち目の前に伸びる木の枝の上に声の主はいた。声は、確かに下から聞こ
えたはずだった。クラヴィスが寝台からテラスへ出てくる間にこの木を登ったのだろう、
なんとも身軽なことである。
クラヴィスの姿を認め、声の主──ランディは力強くも無邪気な笑みを浮かべ、改めて
もう一度朝の挨拶をした。
ああ、早いな。クラヴィスが返すのは対照的にやる気のない言葉だ。そっちに行ってい
いですか、と問うとランディは返事も聞かずにテラスの手すりに飛び移る。2歩目の足が
手すりに触れたとき、朝露に濡れた手すりで足が滑り、ぐらりと身体が揺れた。
「うわっ?」
「ランディ!」
咄嗟に叫んでクラヴィスは腕を伸ばした。日に焼けた手首をぐいと引っ張る。どさりと
音を立てて、二人はテラスに倒れ込んだ。
「──びっ、っくりした…………。あっ、すいませんクラヴィス様。ありがとうございま
す。お怪我はありませんか?」
クラヴィスの身体をクッション代わりにしてしまったランディが、さっと身をどけて謝
罪の言葉を紡ぐ。その腕を掴んで再び引き寄せ、クラヴィスは軽く眉を寄せた。
「全くおまえは……。朝から驚かせてくれる」
何も知らない他人が見たら不愉快さを表していると思うであろうその表情は、クラヴィ
スにとっては心配や憂いに近い感情を表すものだ。──今回は、少々呆れの要素も入って
いる。
「ごめんなさい。──そうか、もうそんなに寒いのか。今度から気をつけないといけない
な」
「……玄関から入ればよいだろう」
「でも、それじゃあ朝早くから鍵を開けてもらわないといけないでしょう? それにクラ
ヴィス様の寝室は、こっちからの方が近いんだし」
闇の館の者達を起こしてしまっては悪い、というよりめんどくさいからという理由の方
が勝っているように見えるが、その実ただ木登りをしたいだけなのでは……と冷静にクラ
ヴィスは考える。それに危ないからやめろと言ったとて、きっと聞きはしないのだ。たと
え足を滑らせてもこの高さだ、ランディの身軽さを考えれば大した怪我はすまい。──少
し怪我でもした方が、大人しくなって良いかも知れない。
そんなことまで考えて、結局クラヴィスが発した言葉といえば。
「──好きにしろ」
たったこれだけ。
「はい!」
そして元気に返事をしたランディは、自分の言い分を認めてもらえたと思っているよう
だった。
「ああっ、そうだ!」
いきなり叫んでランディは、きょろきょろと辺りを見回した。
「どうした?」
「あの、俺のハンカチ、落ちてませんか?」
「…………ハンカチ?」
「はい。えっと……あ、あった!」
クラヴィスの身体を越えて手を伸ばした先には、なるほど、ハンカチと思しきものが、
何かを中に包んだ形で落ちていた。四隅をひとつに結んだ、カゴのような形をしている。
ハンカチを取り上げたあとには、その中からこぼれたと思われる土片が残った。
「ごめん、落としちゃって。──大丈夫かなぁ?」
ハンカチ(の中身)に謝って、ランディはその包みをそっと手の中に抱いた。
「クラヴィス様にって思って持ってきたんですけど……、あぁ、よかった無事だ」
おそるおそる包みをほどくと、中から小さな花が顔をのぞかせた。濃いから淡いへ、紫
のグラデーションを見せる綺麗な花だ。そしてその花は、摘み取られたものではなくて、
なんと根ごと土ごと掘り起こされてきたものだった。
「────私に、これを……?」
「はい! 花びらがクラヴィス様の眼みたいで綺麗だと思って、だからクラヴィス様にも
お見せしたかったんです。でも摘んじゃうとすぐに枯れてしまうから、鉢に植えて育てら
れるように、って、思ったんですけど……」
言いながら自分の思いつきに自信がなくなってきたのか、最後の方はずいぶんと小さな
声になっていた。ちらっとクラヴィスを見上げて、首を傾げている。
「フッ……。全くおまえといると、退屈する暇がない」
クラヴィスの口元が笑みの形にほころぶ。苦笑混じりの、だが温かい微笑みだ。それを
見てランディの顔にも朝日が昇る。わかりやすい反応に、クラヴィスの笑みが深くなった。
「ああ、もらっておこう。──とりあえず少し水を与えておいた方が良いか。あとでマル
セルに世話の仕方を聞いておかねばな」
そう言うとクラヴィスは花を持って立ち上がり、部屋の中へと入っていった。後を追い
ながら、ランディがあいづちを打つ。
「そうですね。あと花の名前も知りたいですよね? マルセル知ってるかな、……知らな
かったらルヴァ様のところで調べてみます」
「この花の名前か? ……似たような花なら以前見たことがあるが」
「ホントですか!?」
「ああ」
手の中の小さな花に視線を落とし、クラヴィスは瞼を閉じた。時間の彼方に埋もれてい
た思い出がよみがえる。
「私の故郷の惑星で、これに似た花が“春待ち草”と呼ばれていた。冬に向けて咲く、珍
しい花だ。冬の寒さに耐え、ひとり花開くことから名付けられたらしい。────母が、
好きだった花だ」
ランディは静かに目を瞠った。クラヴィスの口から、幼いときのことを聞くのは初めて
のような気がした。彼に占いを教え、聖地へ発つときに水晶を持たせたという母親の話は
聞いている。幼いクラヴィスにとって、かけがえのない存在だったに違いない。
「お母さんが……。それなら、尚更大切に育てましょうね」
そっと歩み寄り、小さな紫の花を撫でるように手をかざす。触れてはいないその手から
生命の温もりが伝わってくるようで、クラヴィスはそっとその感覚に身を委ねた。
どんなに寒くてつらくても、必ず春はやってくる。温かい光に包まれた季節は必ず来る
のだから諦めるなと、そう言っているようだから好きだと母は言った。そして確かに、ク
ラヴィスは今、長い冬の果てに春の陽差しを感じている。その春を連れてきたランディの
手によってこの花と再び相見えることになったのも、何か運命に導かれてのことなのかも
知れない。
逆境においても一人立つ、諦めずに前進する力を、か。──おまえに似ているな。
「そうだな……。“春待ち草”か、そんなものの存在さえも、久しく忘れていた。おまえ
のおかげだ、礼を言わせてもらおう」
「え、そんなっ。──でもこの花って、やっぱりクラヴィス様に似てますよね」
「私に?」
「ええ。口に出しては言わないけれど、いつも優しく見守ってくれてて、励ましてくれて
る、そんな感じです」
「そうか、おまえはそう感じるのだな……。フッ、私はおまえに似ていると思ったが」
「え、俺ですか?」
「おまえが花なら、これのように冬の寒さにも立ち向かってひとり咲きそうだ」
そう言うとクラヴィスは小さく笑った。北風に負けじと踏ん張って咲く姿でも想像した
のか。
「花に例えられるのって、なんか、照れますね……。でも、うん、俺が咲いてる姿を見た
皆が喜んでくれて元気になるんなら、あなたが笑ってくれるなら──俺、どんなに寒くて
も平気です」
クラヴィスの瞳をまっすぐ見つめて、ランディは言い切った。
微かに瞠目し、クラヴィスはやがて吐息を漏らす。その強さが多くの人々を勇気づける
ということに、この少年は気づいているのだろうか。いや、己で気づかないからこその、
魅力なのかも知れない。どんなに無理に見えることでも、彼が口にするだけで叶いそうな
気がするのだ。
「ふ、そうだな……。だがあまり無茶はしてくれるな。おまえが良くとも見ているこちら
の身が持たぬ」
「え……? あ、もしかして、俺のこと心配してくれてるんですか……?」
「──さあな」
「ええっクラヴィスさま〜っ」
揶揄するような返答に、ランディは一転してすがるような声を出す。眼を細めてその様
子を楽しんでから、クラヴィスは口を開いた。
「そろそろマルセルも起きる頃だろう。花は土に根づくものだ、早いほうが良い。──散
歩には少々遠いが、……行くか?」
「え? ──あ! はい、行きます!」
「そうか。では支度をしてくる。待っていろ」
やわらかな栗色の髪を撫でて、クラヴィスは着替えのために隣室へと向かった。
その足下に、クラヴィスの影を追うように光が射し込んでくる。
開け放たれたままのテラスから見える森の上へ、太陽がその姿を現したところだった。
fin.
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こめんと(byひろな) 2000.11.11
鳳城まから様、1515HIT!の記念リクエスト、ランクラでございます。
フタを開けてみたら、結構“×”な感じになったんじゃないかな、と、自分では思っているんですが……、いかがですか?
クラヴィス様はあんな朝早くから起きてんのか!?ということについて。
HIRONAの個人的見解ですが、クラヴィス様の惰眠の貪り方(失礼・笑)って、“二度寝・三度寝、微睡みを楽しむタイプ”じゃないかと思ったので。一応起きてはいるんだけど、起きあがらない。そしてその気怠い時間を楽しむ。……それって私じゃん(笑)。
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