Birth Night 〜HAZE in HEAVEN〜

 その夜、オリヴィエは、ベランダで満月に向かうオムレツのような月を眺めていた。
この季節の、だんだんと透明度を増していく夜空を眺めるのは、けっこう好きだ。まあ、
この聖地ではたとえ一番寒くなったとしてもオリヴィエの生まれ育った地には比べるべ
くもない。
 ふと吹いた夜風に肌寒さを覚えて室内に戻る。冷えた体を温めるには、やはり念入り
なバスタイムと、その後のアルコールに限る。今日の入浴剤は何にしよっかなー、と考
えながら歩くオリヴィエが、突然ピタリと立ち止まった。ちらりと横目で見たのは、壁
に飾られたカレンダー。実用性よりも装飾品としての価値を重視したそれは、はっきり
言って読みにくい。装飾文字は判別しにくいのだ。怪訝な表情でしばらく数字たちを眺
めていたオリヴィエが、あ、と呟いた。
「なんだ、明日じゃない」
 無感動に呟いておいて、その後に顔をしかめる。何かと思ったら……、そんなことで
呼ぶんじゃないよ、罪もないカレンダーに八つ当たり。別にカレンダーがオリヴィエを
呼んだわけではないだろう、オリヴィエが勝手に気づいてしまっただけだ。
 別に、また1つ年をとるのが嫌なわけではない。守護聖などという特異なものになっ
てしまった今の自分に、“誕生日”というものがどれだけの意味を持つのか分からない
けれど。それでもこの誕生日という日に、気分が高揚するような憂鬱なような、不思議
な感慨を覚えるのは今も変わらない。
「さーって、おフロ入ってこよーっと」
 いつもの弾んだ調子とはかけ離れた棒読みでカレンダーに別れを告げ、オリヴィエは
バスルームに姿を消した。


           *         *         *


 頭のてっぺんからつま先まで、全身キレイに磨きあげて大満足、そんな面持ちでバス
ルームから出てきたオリヴィエは、さっきとはまるで別人である。いや、いつもの彼に
戻ったと言うべきか。オフホワイトのバスローブ一枚を身につけて、長い髪をタオルで
拭きながら部屋に踏み入った途端、何者かに後ろから口を塞がれた。
「おとなしくしろ!──なんてな」
 耳元で鋭く囁いた侵入者は、一瞬の緊迫の後、手をゆるめておどけた調子で呟いた。
「あんたねぇ……。何やってんの、さっ!」
 脱力に近い状態で緊張を解いたオリヴィエの、語尾と同時に後ろへ繰り出したひじ鉄
は、すっかり油断していたその男に見事に命中する。振り返ると、そこにはげほげほと
咳き込む赤毛の男がいた。
「オリヴィエ、おまえっなぁっ……」
「だらしないねー、ふふん♪」
 とりあえず先取点をとったオリヴィエが、勝ち誇った笑みを浮かべる。日頃から強気
な言動の多いオスカーの、唯一“勝てない”相手がオリヴィエだ。敬愛するジュリアス
に対しても、彼を立てることはあっても自分が下手に出ることはない。もちろん、オリ
ヴィエに対しても下手に出ているわけではないが、惚れた弱みか元から役者が違うのか、
いまいち“勝ちきれない”のだ。実際のところ、そんな状況をどこかで楽しんでいるオ
スカー自身が最大の敗因であったりするのだが。
「──で、オスカー、何の用よ?」 
 抗議の合間に入る咳がおさまった頃を見計らってオリヴィエがたずねた。気を取り直
して背を伸ばしたオスカーは全身黒ずくめ、精悍さに磨きがかかっている。酷薄ささえ
感じられるアイスブルーの視線を据えて、ニヤリと口端が歪められた。
「分からないのか?──夜這いだ」
「──バカ」
 呆れたように呟くオリヴィエに楽しそうな視線を向けて、オスカーが言を継ぐ。
「まぁそれは冗談だがな。──まだ分からないのか?」
  良いながらソファに近づき勝手に腰を下ろす。自信たっぷりな眉の動きに面白くない
ものを感じながら、オリヴィエもソファに足を向けた。
「だから、何がよ」
「今夜、俺がここに来た理由だ」
 今夜、に重点を置くその話し方に、オリヴィエの眉がぴくりと反応した。まさか。─
─昼間は何も言ってなかったクセに。だからこそオリヴィエもついさっきまですっかり
と忘れていたのだ。
 ニヤニヤと人の悪い笑みで、オスカーはオリヴィエの予想が当たっていたことを教え
る。
「明日はおまえの誕生日だろう。──それとも、俺のヴィーナスは、自分の誕生日なん
てものはお嫌いなのかな?」
 ぶんっ、と飛んできた手を余裕で受け止め、そのままひっぱって自分のほうに引き寄
せる。ソファに片膝をついて睨むオリヴィエを笑って抱きしめ、あやすように軽く背を
叩いた。
「冗談だ、怒るなよ。──おまえなら、その美しさに磨きがかかるだけだ」
「そんなの気になんかしてないよ、失礼だねッ!」
 憮然とするオリヴィエの背をなだめるように抱いて口づける。何度か繰り返すうちに、
オリヴィエの腕が黒いシャツの背に回され、口づけは深くなっていく。ぱさりと湿り気
を帯びた金髪がこぼれ落ちた。
「Happy birthday,Olivie」
 濃厚なキスを味わい尽くした唇が、今度は祝いの言葉のために動く。目線と指の動き
につられて時計を見ると、なるほど、ちょうど日付が変わったところだった。
「……まさか時間計ってたんじゃないでしょうね」
「まさか。そんなことはしないさ」
 そう言いつつオスカーは片眉を上げてみせる。どうだか、と呟いて、オリヴィエはオ
スカーに向き直った。
「で? なんかプレゼントでもくれんの? また酒でごまかしたら承知しないからね」
 また、ってなんだよ。顔をしかめるオスカーに、自分の胸に聞いてごらん、オリヴィ
エが切り返す。どう考えても自分のほうが分が悪い、オスカーは早々に話を本筋に向け
た。
「まぁいい。ちゃんとおまえにぴったりのものを用意してきたんだぜ」
そう言ってオスカーが目の前に掲げて見せたのは、香水の瓶だった。けれどオリヴィ
エが銘柄を確かめる前に、再び手の中に隠してしまう。
「ちょっと、」
「つけてやるよ」
 蓋が開いて一瞬の後に届いたその香りにオリヴィエがはっと身構える。だがオスカー
の動きのほうが早く、首筋に一瞬、冷たい感触があった。
「ちょっ……! オスカー、これッ!?」
 しまったと思ったがもう遅い。してやったりとオスカーの唇が、勝利を確信して笑み
を刻んだ。
「ああ、さすがに分かったか。だが試したことはないだろう?」
 ヘイズ・イン・ヘヴン。通称ヘイズ。フェロモン系香水の一種だが、これの特徴は、
相手よりもむしろつけた本人に作用する点にある。早い話が媚薬だ。ごく少量を首筋な
どにつけるだけで良い。個人差はあるが10分から1時間程度で、身体の奥が疼くよう
な感覚を覚えるはずだ。
「あんたねぇ……、そんなのが私へのプレゼントになると思ってんの?」
「なるさ。──いくらでも欲しがっていいんだぜ。おまえが満足するまで相手してやる」
 猛獣の眼差しがオリヴィエを射抜く。聞き慣れたその声さえ、身体にまとわりつくよ
うで。
「サイッテー。──覚えてなさいよ」
 強がりは言うだけ無駄だ。そう分かっていても口にせずにいられない。
「フッ。じゃあ時間までの余興代わりにビリヤードでもするか」
 オリヴィエを腕の中に抱いたまま立ち上がる。床に足がついたのを確認してから手を
放すと、こめかみにキスを贈ってオスカーは先に隣室に向かって歩いていく。オリヴィ
エはその後ろ姿を渋い顔で見送っていたが、やがて小さくため息をつくと、オスカーの
後を追って隣室へ入っていった。

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