心のままに

 いつからか、自分を見つめる視線の意味が変わったことを知っていた。
 それを受け止める自分も、また似た思いを抱えていたから。


「あっ、こんにちはオリヴィエ様!」
 静かな宮殿の回廊を歩いていると、後ろから明るい声に名を呼ばれた。足を止め振り返っ
たオリヴィエの目の前で、身軽に駆け寄ったランディの栗色の髪がふわりと揺れる。
「はぁい、今日も元気そうだね」
「はい! ──あ、そうだ。オスカー様が、今晩オスカー様のお屋敷でゲームをしようっ
ておっしゃってたんですけど、オリヴィエ様もいかがですか?」
 肯定の返事を期待する空色の瞳をちらりと見やって、オリヴィエはう〜んと呻り声を上
げた。
 オリヴィエと同い年のオスカーと、彼の同期であるリュミエール、年の近い3人は、時
にはケンカしつつもそれなりに仲良くやってきていた。
 そこへ、新たにこのランディがやってきて、──初めての後輩だ、3人は彼を弟のよう
にかわいがった。ランディもまた、3人をそれぞれ兄のように慕ってくれていた。それは、
ランディより年少の者が入ってきてからも変わることはなく……。
 けれどいつからだろう。その親愛に、別の意味が込められるようになったのは。
「んー、悪いけど、今夜はルヴァのトコに顔出す約束してんだよね」
「そうなんですか……」
 明らかに落胆したその様子に、オリヴィエは小さく苦笑して、栗色の頭をぽんと撫でた。
「ま、今日は3人で楽しんでよ。──次は参加させてもらうからさ」
 気遣いを感じさせるその仕草に、ランディは気を取り直して笑顔を向けた。
「はい! じゃあ俺、オスカー様にお伝えしておきますね。失礼します」
 そして走り去る背中にオリヴィエは声をかける。
「そんなに走ってると、またジュリアスに文句言われるよー!」
 はい! と返事をしつつもそのまま駆けていく後ろ姿を見つめて、オリヴィエは長い髪
をかき上げた。
「まったく、──どうしたもんかねぇ」


「よう極楽鳥、いなかったから勝手に待たせてもらったぜ」
 執務室の扉を開けて、視界に飛び込んできた炎の髪に、オリヴィエは目を瞬かせた。
「オスカー。──あんた、ランディに会った?」
「ん? ああ、今夜のゲームにおまえも誘えって言っておいたんだが……、もしかして入
れ違いか?」
「そうみたいだねぇ」
「まぁいいさ、そのうちここを嗅ぎ当てるだろう」
「あんたねぇ……。犬じゃないんだから」
「犬だろ。呼ぶとシッポ振ってついてくるじゃないか」
 言ってオスカーはクッと笑った。オリヴィエも、先刻のランディを思い出して頬に笑み
を刻む。けれどどことなく覇気がないオリヴィエに気づいて、オスカーが真顔になった。
「最近化粧のノリが良くないんじゃないのか。もう年なんだから、夜遊びはほどほどにし
ろよ」
 一言余計だよッ、オスカーの顎にこぶしを喰らわせて、オリヴィエは腕を組んだ。
「年のコト言うならあんただって同じでしょーが」
「フッ、何か悩みがあるなら俺に相談しろよ。──他でもないおまえの弱みを握れるのな
ら、このオスカー、いくらでも力になるぜ」
「ぜぇぇ〜〜ったい! あんたにだけは言わないねッ!」
「ハハ、冗談だ。──まあ、おまえもたまには人を頼れよ」
 それじゃあ今夜、待ってるぜ。
 そのままオスカーは部屋を出ていった。
 何しに来たのさアイツ、とオリヴィエはオスカーがもたれていた執務机に目をやり……、
呻り声を上げた。
「あんっの……ッ、どさくさに紛れて私に押しつけたねッ!?」
 机の上には今日中に片付けねばならない案件が3つ、素知らぬ顔で置かれていた。


 カードを手に、ランディがふっとため息をついた。
「ランディ、どうかしましたか? ──疲れているのでしたら、今日はもう」
「リュミエール、甘やかすなよ。どうせ勝てそうもないカードを見て落ち込んだだけだろ」
「違いますよ! そんなんじゃ、ありません」
 それだけ言って口をつぐみ、ランディは視線を彷徨わせた。言葉を探すように──誰か
を、探すように。
 リュミエールが何かを言いかけ、けれど言葉を発することなく唇を閉じた。
「すいません。やっぱり俺、今日は帰ります」
「そうか」
「気をつけて帰ってくださいね」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
 ランディの後ろ姿を窓から見下ろして、リュミエールがふとため息をついた。髪と同じ、
淡い銀青色の睫毛が物憂げに伏せられている。
「あのぼうやも困ったもんだな。あいつがぼうやの手に負えるとは到底思えんぞ」
「! オスカー、あなたも気づいて……」
 わかりやすすぎるからな。オスカーも軽くため息をつく。
「だいたい、世の中には素晴らしい女性が星の数ほどいるってのに、なんでオリヴィエな
んだ。あいつは化粧こそしてるが、どこからどう見たって男だぞ」
「……けれど、誰かを愛しいと想う気持ちに、変わりはないのではないでしょうか」
 睫毛を震わせて視線をそらしたリュミエールを見つめて、オスカーは心の中で呟いた。
 困った奴が、ここにも一人……か。


 俺、どうしたんだろう。
 夜道をゆっくりと歩きながら、ランディは心の中で呟いた。全身の意識が9割方その思
考にとらわれているせいで、足を動かす意志も力もいつもの半分以下しかない。傍目には、
とぼとぼ歩いているようにさえ見える。
「はぁ……。俺、どうしちゃったんだろう……」
 今度は声になって言葉が出てきた。
 いつも通りのカードゲーム。なのに、あの人がいないだけでこんなに違うのか。目に映
る景色が、文字通り色褪せて見える。
  ココ
 聖地に来たときからずっと、兄のように3人をそれぞれ慕っていた。いつからか、中で
もオリヴィエにどこか特別な思いを抱いているのは自覚していたが、それが何かまではわ
かっていなかった。
 彼がいると楽しい、そんな心の動きよりもっと明確に、もっと切実に。彼の笑顔を、豪
快なリアクションを、優しい眼差しを、自分がどれだけ欲していたかを思い知らされる。
「こんなに心の狭いヤツだったなんて……」
 カードゲームをしながら、彼は今ごろルヴァのもとで楽しく過ごしているのかと思うと
やりきれなかった。
 わがままだ。独占欲にすらならない。
「こんなに……、オリヴィエ様のことが、好きだったんだ……」


 リュミエールも帰ったあと、1階の居間で一人グラスを傾けていると、窓ガラスがひと
つ、コンッと鳴った。
 来たか、呟いてテラスに出る窓を開け放す。波打つ金の髪が、月明かりに照らされてそ
こにあった。
「何さ、話って」
「まあ上がれよ」
 手すりに手をついて、ひょいと飛び越える。オスカーの目の前におりたったオリヴィエ
は、既に話題をわかっているようだった。
「単刀直入に言うぜ。──俺たちの、かわいい弟のことだ」
 琥珀色の酒で口を湿らせて、オスカーはすぐに話を切り出した。
「ぼうやから向けられる思慕におまえが気づいてないはずがない」
「……そうだね」
 否定せずに、オリヴィエも酒を口に含む。
「おまえはぼうやのことをどう思ってるんだ」
 答えを知りながら、オスカーは尋ねる言葉を口にした。
「ん……、かわいい後輩だと思ってるよ」
               スガ
 オスカーは目を眇めてオリヴィエを眺めやる。伏せられた長い睫毛の間から、濃青の瞳
が揺れるのが見えた。
「あいつはイイ男になるぜ。俺に負けないくらい。陛下と宇宙を守る、強い男に。──オ
リヴィエ、あいつはダメだ。諦めろ。おまえがどんな男や女を好きになっても構わないが、
あいつだけはダメだ」
 一瞬、二人の視線が交錯した。
 睫毛越しにオスカーに射る視線を向けて、けれどオリヴィエはすぐに目をそらす。
 口端を微かに持ち上げて、オリヴィエが笑った。
「やぁっだ、何マジになっちゃってんのさ。あの子はかわいい弟だよ、そう言ったでしょ。
──じゃあね、おやすみ」
 残りの酒を一気にあおり、オリヴィエは立ち上がった。
 来たときと同じように、テラスから帰る後ろ姿を、オスカーの氷蒼の瞳がじっと見つめ
ていた。


                   *                  *                  *


 いつか来ることだとはわかっていたが、それはやはり突然のことのように思われた。
 執務の息抜きに出かけた森の中で、ランディにばったり出くわしてしまったのだ。
「オリヴィエ様、俺、あなたが好きです」
 予期していた、けれど唐突な告白に、まるで台本を読むかのように用意された言葉を紡
ぐ自分がいる。
「あんたのことはかわいい後輩だと思ってるよ。でも……それはあんたの言うような「好
き」じゃないんだ、ごめんね」
 眩しいまでに晴れ渡った空が、一瞬、歪んだ気がした。
 胸の痛みをこらえるように眉を寄せ、ランディはやっとのことで短い言葉を吐き出すこ
とに成功する。
「はい、わかりました。──すいません、いきなりこんなこと言って」
 顔を上げ、真っ直ぐ見つめてくる瞳は、こんな時までも綺麗だった。
 オリヴィエは、思わず腕を伸ばし目の前の身体を抱きしめたい衝動に駆られ、ぎゅっと
手を握りしめて耐える。
「オリヴィエ様、──ありがとうございました」
 礼儀正しく、深く一礼して、ランディはそのまま駆け出した。
 その姿が見えなくなるまで見守って──オリヴィエは、髪が乱れるのも構わず片手でぐ
しゃりと髪をかき上げた。
「ああもう……っ!」
 誰よりも、あの笑顔を守りたいのに。
「あんな顔するなんて……」
 痛みを隠して平気なフリをする。そんな大人な顔は、あの子には似合わない。もっと心
のままに、 きらきら光る多面体のような表情の変化が何よりも誰よりも似合うのに。
「あんな顔……、させたのは、私、か……」


 その夜、深夜も深夜、森の木々さえ息をひそめる頃にオリヴィエの館を訪ねたオスカー
は、正体をなくす寸前まで酔ったオリヴィエというものを初めて目撃した。
 テーブルの上には空になったウイスキーボトルが1本、3分の1まで減ったものが1本。
アイスデカンターには氷どころか水の名残さえ見受けられず、もうずいぶん長いこと彼が
酒を飲み続けていることが知れる。
 思わず眉をひそめて歩み寄って、ふと足に触れたものに目を向けると、同じボトルがこ
こにも1本転がっていた──むろん空だ。
「おい、オリヴィエ」
「なんだよ」
「おまえいつから飲んでんだ」
「るっさいな、あんたには関係ないだろ」
 言葉使いが微妙に違う。そういえばオリヴィエが今のような余裕のある年上のしゃべり
方をするようになったのはランディが来た頃からだったとオスカーは思い出した。
「なんだよ、私が飲んだくれてんのは面白い? ──はん、こんな時は酒に強いのも困り
もんだね。こんなに飲んでんのに、全然酔わせてくんないんだから」
「オリヴィエ」
「聞いたんだろ。──あの子から」
「ああ。──オリヴィエ、俺が言ったからか? あいつを諦めるように、俺がおまえに」
「ふざけたコト言ってると怒るよ!?」
 ダンッ、とグラスを叩きつけるように置いて、藍色に濁った瞳がオスカーを見据える。
「私がそんなことすると思ってたんだあんたは!? ──ちがうよ。私が決めたんだ。私
が自分でそう決めて、私が選んだ言葉で、私が……」
 あの子を、傷つけた……。
「オリヴィエ」
「オスカー、私はあの子が変わってしまうのがこわいんだ。私との関係がぎくしゃくする
のを恐れてるんじゃない、きっとあの子は今までどおり、兄のように私を慕ってくれる。
そうじゃなくて……、あの子には、ランディには、ヘンに大人の顔を覚えてほしくないん
だ。不正をそのまま見過ごしたり、悲しみや苦しみを感じさせない笑顔を浮かべたり──
そんなのは、あの子には似合わない、似合ってほしくないよ……」
 水も止まれば腐っていく。風は、止まったら風じゃなくなってしまう。
 オスカーは、夕刻館を訪ねてきたランディの言葉を思い出した。
『俺、オリヴィエ様のことが好きなんです。ただの好きじゃなくて尊敬でもなくて、もっ
と、それ以上に。──オリヴィエ様にこの気持ちを伝えて、同じように返してもらえると
思ったわけじゃないけど、……でも、言わずにいられなかったんです』
 そういって少し悲しげに、穏やかに笑う姿は、彼に最も似合わない“諦め”というもの
とはどこか違っていた。
『でもオスカー様。──なんでだろう、俺、あの人に、俺の気持ちには応えられないって
はっきり言われたのに、……なんか、失恋した気がしないんです。告白する前と同じよう
に、まだ可能性がある気がして……。──俺って、往生際が悪いのかなぁ』
「ランディはランディだぜ」
 言ってオスカーはニヤリと笑った。
「ただ己の心のままに信じる道を進む。あいつの動いたところに風ができる。──あいつ
はそういう男だ」
 オスカーは、オリヴィエの手の中のグラスをひょいと取り上げた。
「ところでオリヴィエ、燃えさかる炎は風を生み出し風を煽る──って知ってるか?」
 最後に謎かけめいた言葉を残し、オスカーは中身の残るボトルを持って部屋を出ていっ
た。


「さあっ、い、ってぇ……」
 執務室の机に肘をつき額を押さえ、この世の全てを呪うかのような声でオリヴィエは呟
いた。
 二日酔いなんて、今までに数えるほどしかしたことがない。だから余計にこたえる。
 こんな状態でも、執務には出なくてはならない──が、まともな執務ができるとは到底
思えない。頼むからサクリアを扱う仕事は回ってこないでくれとオリヴィエは真剣に思っ
た。書類は適当に、どこかのお人好しにでも肩代わりさせればいい。だが夢のサクリアを
送れるのはオリヴィエしかいないのだ。今日は勘弁してほしい、夢のサクリアでなく酒の
サクリアを送ってしまいそうだ──そんなものがあるならの話だが。
「あの子はどうしてるのかな……」
 執務室で一人、胸の痛みに耐えているのだろうか。それとも何事もなかったかのように
振る舞っているのか、あの大人の顔をして。昨夜のオスカーの言葉を信じるならわりと元
気そうならしいが。
「炎は風を煽る──って、一体何やったのさオスカー?」


 夕刻、執務を終え帰る頃には二日酔いはすっかり治っていたが、オリヴィエの気分は相
変わらず晴れなかった。
 リュミエールのハープを聴きに行こうと思い、慰めの言葉をかけられるのを恐れてやめ
る。次にルヴァを思い浮かべ、あの苦労人に自分までもが荷物を背負わせるのもと思って
やめる。クラヴィス──は、今はダメだ、あの男の控えめで適切な優しさに触れたら、下
手をしたら泣きそうだ。オスカーには昨夜醜態を見せたばかりだし……。
「やだなぁ、私ってば友達いないじゃん」
 自分から頼るのを避けているのを知りつつ思わずひとりごちる。結局オリヴィエは、一
人で自分の館へと帰ることにした。
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