* * * 「若き賢王は、憂いの表情すら絵になるようだね」 皮肉げな言葉を紡ぐことを生業としている詩人には、そんな挨拶はいつものことだ。だ が今の台詞には明確な意図が含まれていたような気がして、ティムカは用心深く振り返っ た。 「やあ、隣に座ってもいいかな?」 「──ええ、どうぞ」 硬い表情で答えたティムカに、セイランは軽く肩をすくめてため息をつき、頓着しない 所作で地面に腰を下ろす。 「やれやれ。僕は君に嫌われてしまったようだね。三年の月日は人を変えるには充分だ」 「別に僕はあなたを嫌っているわけではありません。──ただ、あなたがそう感じられる なら、その原因は僕の三年間でもあなたの三年でもなく、ここに来てからのあなたの態度 だと思いますけど」 抑え切れない非難を口にするティムカを、セイランは面白そうに見つめている。言われ た内容に堪えた様子はなく、むしろティムカの方が胸を痛めているようだった。 「ふぅん、君はそう思うんだ。──ならもっと直截に言ってみたらどう? 『僕のゼフェ ル様にちょっかいを出すな』ってね」 「っ! あなたは……っ! ────違いますよ。あの方は“僕のもの”なんかじゃあり ません。そんな言い方は、あの方に失礼です」 激しかけたティムカが、顔を背け眉を寄せる。その苦悶の表情はセイランの心を一瞬だ け掠めたが、セイランは容赦せずに言を継いだ。 「君の成長を見守り、祝福してあげたいという気持ちは今でもあるよ。でもそれとこれと は話が別だ。君には悪いけれど、遠慮するつもりはないからよろしく」 立ち上がろうとしたセイランをティムカの腕が引き留める。 「セイランさん! ……どうして、ゼフェル様を傷つけるようなことをするんですか。ゼ フェル様のことが好きなら、」 「好きだと言って、同じ言葉を返してもらって? あいにく僕が欲しいのはそんなものじゃ ない」 ティムカの言葉を奪い、鋭く続けたセイランは、細い眉を皮肉げに歪めた。 「自分でもまだこの感情に与えるべき名を知らないけれどね。ティムカ、君には感謝して いるよ。君のおかげで自分の中の新しい感情に気づくことができた。──じゃあ、」 ゼフェル様によろしく。ついでのことのように付け足して、セイランはすっと立ち上がっ た。 何事もなかったかのように去っていく後ろ姿を厳しい表情で見送って、ティムカは瞼を 伏せため息をつく。 「僕の、欲しいもの……」 小さな呟きが風に溶けた。 「────だよね。ね、ティムカ?」 「──えっ?」 「もう、ぼくの話ちゃんと聞いてた〜?」 「あ、すいません。──ごめんなさい」 呆れたようにため息をついて、すみれ色の瞳がティムカの顔を覗き込む。 「ねぇ、ティムカ最近変だよ? ゼフェルと何かあったの?」 「そういえば、ゼフェルも最近妙におとなしいよな。──おとなしいって言うか……、前 ならつっかかってきてケンカになってたようなとき、いつもふいっといなくなっちゃうん だ」 「それだけじゃないよ。最近その回数増えてるもの。イライラしてるみたい」 「──ティムカさんが原因じゃないなら、セイランさんかな……」 不意に耳に入った名前に、ティムカがぎくりと身をこわばらせた。 「えっ……」 「僕、こないだ見ちゃったんだ。セイランさんとゼフェル様がケンカしてるの。セイラン さんは何言ってたか聞こえなかったけど、ゼフェル様、何度言わせりゃ気が済むんだ、っ て。何度か同じことで言い争ってるみたいだった」 「セイランさんか……。あの人も気まぐれだからなぁ……」 「同じ気分屋でも、ゼフェルの考えてることはわかるけど、セイランさんはよくわかんな いよねぇ……?」 ため息をつく二人を、ティムカは警戒の眼差しで見つめている。その様子をそっと窺っ て、メルがすっと立ち上がった。 「──メルさん?」 「ティムカさん。何でも我慢しちゃうのはティムカさんの悪い癖だよ。──ほら、ここに 意識を向けてみて」 額に触れた手に、目を閉じて気持ちを向ける。密林の中の木の枝のようにティムカの行 く手を阻んでいた雑念が徐々に姿を消し、やがてティムカは無心になっていた。 「はい、おしまい。ねぇティムカさん、あなたはちゃんと自分のことを考えないとダメだ よ。あなたはいつも、自分のことより周りの人のことを先に考えてしまうから……」 「そうそう、たまにはね、ゼフェルを見習ってわがまま言った方がいいよ!」 「俺たちで力になれることなら何でも言ってくれよな」 口々の励ましに微笑みを返す。 自分が何をすべきか、自分は何をしたいのか。少しずつその形が見えてきていた。 最近のゼフェルは、何かから逃げるかのような必死さでティムカを誘うようになってい た。行為の最中にも、より強くより激しい刺激を求めようとする。 「んあっ、はっ、……もっとっ、ティムカ……ッ」 首に縋りついて黒髪を掴み、自ら体を擦りつける。 ティムカは優しい。 ゼフェルを優しく包み、慈しむような抱き方をする。けれどそれが、ゼフェルにはもど かしい。その優しさに縋るのが恐い。ゼフェルの心に影を落とす不安を知っていて、なお それすら包み込もうとするティムカが。 いっそのこと詰ってくれたらどんなに楽か。そう思ったこともある。だがティムカはゼ フェルの心の揺れを咎めることすらしないのだ。 罪悪感を消すように、何もかも忘れたいかのようにゼフェルは必死に身体を動かした。 こうして抱き合うときだけが、ティムカのことだけ考えていられるときだから。 「ゼフェル様……ッ」 強く眉を寄せて、ティムカが低く名前を呼ぶ。身体の中で弾けた熱に白く意識を灼かれ ながら、ゼフェルはティムカの謝罪の言葉を聞いた気がした。 「え……?」 その言葉は、ゼフェルの耳に正確に届いたはずだった。ただ、ゼフェルの頭が、心が、 受け入れを拒否した。 「ゼフェル様……、────すいません、僕はもう、あなたのそばにはいられません」 微かに眉を寄せて憂いの影を落としながらも、労るようにティムカが口を開く。その表 情は、ゼフェルを慈しむようにも哀れむようにも、赦しを請うようにも見え、ゼフェルは 無言のまま薄墨色の瞳をじっと見返した。 なぜ、と聞くべきか否か。ゼフェルは躊躇した。原因は、もうわかってしまっている。 ティムカがずっと苦しんでいたことも知ってしまっている。自分には……、きっとその資 格はない。自分はきっと、……心の内を掻き乱されて、それでもどこかで惹かれているの だ。夜に向かう天の色の髪と冷たい湖の瞳を持つ、奔放で孤独な、あの魂に。 「────わりぃ、」 ぼそりと謝罪の言葉を口にしたゼフェルに、ティムカは大きく目を瞠った。 「どうして……あなたが謝るんですか」 「おまえに、こんなこと言わせるなんて……。おめーも苦しんでるって、オレだってわかっ てたのに」 「僕はただ僕のわがままを口にしているにすぎません。あなたが僕から離れていくのを、 これ以上見たくなくて」 自分から離れることを決めたのだ。それはゼフェルのためではなく、ティムカ自身のた めの決断だ。セイランのためでも、もちろんない。 「わがままなんかじゃねぇよ。──オレ、このままいても、きっと何にも言えなかった。 罪悪感感じながら、不安抱えながら、それでも……何にも言えなかったと思う」 ティムカは優しくて。その腕の中は、あたたかく、心地が良くて。 「──わりぃ」 甘えてしまう。今もまた、ティムカの優しいわがままに赦されて。 「ゼフェル様……。────頬に、触れてもいいですか」 謝らないで欲しい。そう言う代わりに、ティムカは最後のわがままを口にした。 「ああ、」 ふっと目を伏せたゼフェルの頬に手を伸ばす。確かめるように緩く撫で、こめかみのあ たり、髪の生え際を指で辿る。 このままこの身体を掻き抱くことができたら。 ティムカが躊躇したまさにそのタイミングで、ゼフェルの腕が伸びた。首に回した腕を ぐいと引き寄せる。 どちらからともなく視線を合わせ、二人はそのまま唇を重ねた。 * * * 「ここの滝にも、御利益とやらはあるのかな?」 前触れもなくかけられた言葉に、ゼフェルは飛び上がって驚いた。 「なっ……、セイランっ、てめっ、おどかすんじゃねー!」 「やれやれ、そっちが勝手に驚いただけでしょう。冤罪ですよ。それとも、そんなに驚くっ ていうことは、滝に祈っていたのは僕のことだったりしたのかな?」 「なっ……」 「僕はあなたに呼ばれた気がして来たんだけど。僕の気のせいかな。あなたに会いたいと 思うばかりに幻聴が聞こえたのかもしれない」 思いがけない言葉に紅い瞳が見開かれる。 「ティムカに振られたんだって? 慰めてあげましょうか」 「ッ……! いらねーよっ!」 初めて素直な言葉を聞けたと思ったのに。それすらも手口のひとつだと言わんばかりに、 セイランはもういつもの調子に戻っている。ゼフェルの心を煽るだけ煽って、そのまま立 ち去るのだ。セイランだって、ゼフェルに惹かれているのに。それは、ゼフェルがセイラ ンに惹かれる気持ちとどこがどう同じでどう違うのかはわからないけれど、例えば友人の ように互いを認め合い、恋人のように互いを慈しみ合う、そんな良好な関係に近いものの はずだった。だがセイランは、その場所に辿り着くことを、敢えて避けているような気さ えする。 「……“慰め”なんてモンなら要らねぇ。そんなコトしか言えねーなら帰るぜ」 別に自分から言っても良かった。けれどそれではセイランが納得しないと思ったから。 セイランがそうやって追いつめようとするのなら、こっちも逃げようのないところまで追 いつめるまでだ。 言い捨てて踵を返したゼフェルの腕を、セイランは掴んだ。 「待って! ────来てよ」 チャンスは後にも先にもこれきりだ。ゼフェルが向き合うことを決めた今、互いにもう 逃げることは許されない。 睨み合うかのような真剣な眼差しの交叉の末、ゼフェルが小さく呟いた。 「いいぜ」 久しぶりに訪れたセイランの部屋は、彼の好む沙ナツメの香りがほのかに香り、時折何 か画材の匂いがした。涼しげな香りは、セイランの風貌によく似合っている。 「──どうぞ、」 「なんだ? コレ」 「素直になれる媚薬入りのお茶です。──嘘ですよ」 淡い金色をした飲み物は、ハーブティーのようだった。中身が何かはわからなかったが、 とりあえず口にしてみる。これでセイランがこの茶に何か薬を盛っていたら、自分たちの 関係もそれまでだったということだ。セイランはきっと、そんなことはしない。 ハーブティーにも紅茶の茶葉にも詳しくないゼフェルにはそれが何かはわからなかった。 ただ、ほのかな香りと味わいは、今までに飲んだことのないもので、そしてゼフェルの好 みに合うものだった。強いて言えば、カモミールティーに少し近い。 「疑わないんですね。そのお茶に、僕が薬を盛っていたりするかも知れない。──とは、 考えないんですか」 「おまえはそんなヤツじゃないだろ」 真っ向からの切り返しに、セイランが一瞬たじろいだ。 「これ。この茶何だ?」 「アルカディアの地のお茶です。少々の薬効が望めるらしい。僕は味と香りが気に入って 愛飲しています。──あなたはどう?」 「ああ、そうだな。オレも気に入った」 さっきのセイランの言ではないが、確かにこの茶には心を鎮める効果があるようだ。い つになく素直な言葉を選べる気がする。 「媚薬はともかく、素直になる薬ってのはホントみてーだな。──けどよォ、おめーこの 茶よく飲んでてアレじゃあ、人格疑われるぜ」 「疑いたければ好きなだけどうぞ。あれも僕の正直な気持ちだ。──ゼフェル様、あなた を壊してやりたいよ」 「壊したけりゃ好きなだけ壊せよ。そーカンタンには壊れねぇけどな」 真顔で返したゼフェルに、セイランがことさらに眉をひそめる。 「憎たらしい人だ……。泣いても許してあげないよ」 |