Moonlight Walkers穏やかな陽差しが降り注ぐ昼下がり、大樹の陰で微睡みから目覚めたゼフェルが伸びを すると、隣からくすくすと笑い声が聞こえた。聞き慣れない、だが確かに知っているその 声に、紅玉の瞳がカッと見開かれる。 「──まるで、野生の獣ですね」 少し鼻にかかった、けれど媚びを全く感じさせないその声。 「でも、こんな近くに人がいるのに寝ているようじゃ、その野性は失われつつあるという ことかな」 「──セイラン、」 寝起きのためだけでなく、低く掠れた声が漏れる。 「まあ、そのおかげで僕は、いいものを描くことができましたけど」 ちらりと見せられたスケッチブックの表紙に、ゼフェルはがばりと起きあがった。 「てめっ、まさか勝手にヒトの寝顔描いてたとか言うんじゃねーだろーな!?」 「さあ、どうでしょうね」 「貸しやがれ、破り捨ててやるっ!」 手を伸ばすと、セイランが身をひねって逃げる。いくらももみ合わないうちに、セイラ ンの身体はスケッチブックごと、しなやかな身体の下に組み伏せられていた。手首を押さ えつけたまま、銀の獣の動きが止まる。 「──おい、馬鹿にすんじゃねぇぞ」 不機嫌そうに目を眇めたゼフェルの口から、低く押し殺した唸りが聞こえた。 「こんな試すみてーな据え膳に食らいつくほど、オレは飢えちゃいねぇんだよ」 その瞳の輝きは、いつか成金趣味のエセ画商に見せられた、聖人の血を採取して作った という宝石をセイランに思い出させた。黎明の空のような淡い色の瞳が瞬き、愛おしそう に眇められ、細かく身体を震わせて笑いが零れる。 「何がおかしいんだよ」 ぎらぎらと光る瞳は、聖地、という一抹の寂寥を覚えるほどに美しい場所にはあまりに も相応しくなく、だからこそ逆に魅力的なものにセイランには思えた。 「ごめん。今のは誘ったつもりも挑発したつもりもなかったんだけど。そう思わせてしまっ たのなら謝りますよ。僕はあなたのことは気に入っていますからね。手懐けられないまで も、その毛並みに触れてみたかったんです」 「──ケモノかよオレは」 露骨に嫌そうな顔をしたゼフェルに、セイランのくすくす笑いが大きくなる。 「言ったでしょう。野生の獣だって」 手首の拘束を解かれて起きあがると、身体についた土を軽く払ってセイランは微笑んだ。 「一度、夜の中のあなたを見てみたいですね」 そのまま景色にとけ込むように去っていく。顔をしかめたゼフェルが短い銀髪をがしが しと掻いた。 「あれのどこが、誘ってないって言うんだ……」 * * * ゼフェルのセイランへの印象は、実に興味深いヤツ、だった。高名な芸術家だというか らどんな高慢ちきな奴かと思えば、実際はその逆……と言うか、驕りを許さない研ぎ澄ま された高慢さとでも言うのだろうか、いっそ清々しいような何かをセイランには感じた。 それでいて何か、血が騒ぐような身体の奥で何か訴えるものを感じる。 夜空を見上げて満月を見つけた時に似ている。ゼフェルは思った。 理由もなくわくわくするような。全身の血が引き寄せられるのを感じて総毛立つような。 そんな感覚は、久しぶりだった。 * * * その日はちょうど、満月だった。空にはほとんど雲もなく、強すぎる月の明かりのせい で、その周りだけ星が見えない。宇宙にどれだけの数の星が存在しようとも、たったひと つの白い月には敵わないのだと、清冽な光は傲慢にゼフェルを見下ろしていた。 ボルトを締めていたスパナを手の中で一回転させ、窓越しに月を眺める。調整の終わっ た鋼鉄のボディに指を滑らせ、たった今締めたボルトの丸い突起をもてあそぶ。 「──狼男じゃねぇんだぞ」 満月の夜に血が騒ぐなんて。 冷たい金属の感触に、血の気のなさそうな白い肌を思い浮かべる。滑らかな突起を指の 腹で撫でながら、夜気に曝され快感に尖った先端を撫でたらどんな光を零して月は哭くの かと想像を巡らせる。 身体の奥底に、熱が溜まっていく。 ぎらついた貌をしている自覚はあった。 立ち上がり、薄手のジャケットを羽織るとゼフェルはそのまま窓から飛び降りた。 「──やあ。こんばんは、ゼフェル様」 昼間に庭園で出くわしたときと同じような調子で、セイランは夜の闖入者を出迎えた。 「なんだよ、まるでオレが来るのを知ってたみてーな言い草だな」 「さあ、どうでしょうね。──ただ、今夜は何かいいことが起こりそうな予感はしていま したよ」 愛おしそうに月を見上げるセイランの、白い首が月光に晒される。 「満月の夜に起こるのは凶事って言うだろ」 「そんなもの、美しい月をやっかむ卑小な星たちの、取るに足らない中傷ですよ」 「ずいぶん主観的な言い方するんだな」 「まさか。──これでも僕は、身の程というものをわきまえているつもりですよ?」 振り返ったセイランの、三日月形に引き上げられた唇が、月光を反射して濡れたように 光る。 それを知覚した瞬間、ゼフェルは細い肩を掴んで壁に押しつけ、光る紅唇に食らいつい ていた。 貪るように強く吸い上げ、こじ開け入り込んだ舌が蹂躙する。苦しげに漏れる声に欲望 が募る。 銀糸を引いて唇が離れ、紅みを増した唇からため息が零れた。 「ずいぶん乱暴なんですね」 「悪くないだろ」 覗き込んだ瞳は、蒼白い月の光のようにも思えた。 「──そうだね」 細い腕が首に回される。 「満月の夜には、こんな、獣のキスがちょうどいい」 そして再び唇が重ねられる。舌先だけの探るようなキスは、すぐに深く激しくなってい く。 奥歯の裏を舐めるざらついた舌に、ため息のような悲鳴を上げてセイランが崩れ落ちた。 腰を支えた手が、持ち主の意図を無視して追い打ちをかける。 「ココがイイんだ?」 「はァッ……ん……」 唇を離したゼフェルが今度は意識してそこに触れる。素直に返った反応に、血の色の瞳 が満足げに細められた。力の抜けかけた身体を床に横たえる。 「ちょ……っと……」 ベッドに行かせてくれないのかと、セイランが抗議の声を上げる。両手足をついて獲物 を押さえつけた姿勢で、銀の獣が唇を舐めた。 「ココでやろうぜ。月が見えてイイだろ」 「──背中が痛いんだけど」 「そんなの気にならなくなるくらい悦くしてやるよ」 反論を紡ごうとした唇は、舌を押し込まれて濡れた音を立てた。器用な指先が次々に着 衣を解いてゆき、月光の下、蒼白い肢体が露わになる。 「ああ、ちゃんと体温あんのな」 心臓のあたりに手を置いて、ゼフェルが感心したように呟いた。手を滑らせて、覚醒を 待つ胸の飾りに触れる。 「んっ……、そんなのっ」 「作りモンみてーにキレイだから、ホントに人間かどーか確かめてみたくなってさ。── 芸術家セイランって何でも作るって聞いたぜ。だからおめーも、……コイツも、セイラン の作った作品じゃないかって」 「それで……、確かめられました?」 「そーだな……、まだこれからだな」 言うなりゼフェルは胸の突起をつまみ上げた。鋭い叫びと共に白い喉が晒される。抵抗 を封じるように喉元に歯を当てたまま、ゼフェルは獲物の身体を探った。 「ふっ……ぅあっ、んっ…………あっ、あ……」 どこに触れてもセイランは敏感に哭いて、腰を揺らしてゼフェルをさらに誘う。勃ち上 がった欲望が意図せず触れ合うと、セイランはそれを気に入ったのか、自分から腰をひねっ てゼフェルに押しつけさえした。 目の奥で星が弾ける。 喉を噛まれたまま声を上げ続け、セイランの口端からは嚥下しきれない唾液が零れ落ち た。初めこそその感触を不快に思ったものの、絶え間なく与えられ続ける刺激に頭の奥霞 がかかる。 セイランの視界に入るのは、月明かり射し込む自分の部屋、縁取られて光る銀のたてが み、その向こうに佇む蒼白い満月。 身をひねると、フローリングの床に骨が当たって痛みを覚えるが、それが逆に、銀の獣 に引き裂かれ食われようとしているこの状況には合っている気がした。セイランが以前か ら思っていたとおり、ゼフェルは昼の陽の光の下よりも、こうして夜の月の下にいた方が 何倍も綺麗だった。 「ああ……っ、ゼフェル様っ……」 切ない吐息を零して褐色の背中に手を滑らせる。 「おまえ、──誰のことも、こんな風に誘うのかよ」 掠れた声に目を向けると、紅い双眸がセイランを捉えた。 「しないよ、そんなこと……」 自分から誘ってみせたのは初めてだと言ったら彼は信じるだろうか。 「それに、据え膳には手を出さないんでしょう?」 「場合にもよるな……」 ゼフェルは少し考える表情を見せた。 「おまえのなら、食ってもいい」 目を瞠り、セイランが小さくため息をもらす。 「だめだよ、そんな簡単に人に懐いたら」 口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。 「どんな毒が盛られているかも知れないのに……」 「そんなん知るかよ。食おうが食うまいが、オレの勝手だろ」 すぐに返った答えにセイランは笑った。 「ふふっ。──じゃあ、その餌が作り物だとしても?」 「あ? ──ああ……、さっきの……」 セイランの美貌を、作り物のようだと言ったことを指しているのだと思い至る。 「それもカンケーねーな。ハラがふくれりゃいい。──毒だろーがニセモンだろーが、オ レが食いたきゃ食うし、食いたくないなら食わない。そんだけだ」 「あっ…………。ん……っ」 爪の先が赤く熟した実を弾き、熱くぬめった舌がそれを追う。 身体中が痺れたように重く、けれど感覚だけが研ぎ澄まされていく。 「作り物じゃさすがに、ココまで上手くはできねーよな」 小さく笑って、湿った手がセイランの情熱を掴み、擦りあげた。 「っア…………ッ!」 弓なりにしなる身体を月明かりが照らし出す。浮いた身体と床との隙間に滑り込んだ手 が汗ばんだ肌を辿り、膝裏を押し上げるように掴む。 指を差し入れて内部を慣らすということを、ゼフェルはしなかった。初めてセイランの そこに触れたのは、熱く滾る、ゼフェルの雄の証。セイランに向けられた欲情の凝縮。 じわじわと押し開かれ、切り裂かれる痛みに意識が遠くなりかけた。きつく閉じた瞼の 端、睫毛の先に涙が滲む。 唇に触れた熱に無意識に応え、貪るように舌で絡め取り、目を開けるとすぐ近くにゼフェ ルの顔があった。 「──動くぞ」 小さく頷くと、脚を抱え直され、その振動がまたセイランの細い眉を歪ませる。 内壁を擦られ熱い苦痛に呻く。やがてそれが熱く灼けつく快感になり、強く突き上げら れて叫んだとき、セイランもまた蒼白く光るしなやかな獣になっていた。 * * * ぼんやりと意識が覚醒に向かう途中、背中の痛みを覚えてセイランは無理矢理に目覚め させられた。 眉を寄せ、起きあがろうとするが、身体に上手く力が入らない。 「ああ……昨夜……」 呟くと、ひどく掠れた声が聞こえた。 「痛……っ」 床の上で寝ていたのなら、身体中が痛くても当然だ。その上昨夜はいろいろと無理な体 勢を強いられた。 ちらりと横を見ると、銀の獣はまだまだ微睡みの中にいた。少し俯せに近い形で横を向 き、身体を少し丸めて眠るその姿は、本当に獣のようである。 「虎の子供かなんかがこんな感じだったよね……」 思わず一人ごちたセイランに、銀の眉がぴくりと動き、もぞもぞと身体が動く。姿勢を 変えてまた眠りに落ちるかと思われたゼフェルは、しかし心地よい向きを見つけられなかっ たらしく、やがて伸びをして血色の瞳を表した。まだ目覚めきっていない、とろんとした 目をしている。 「おはよう、ゼフェル様?」 寝っ転がったまま声をかけると、寝ぼけた声が返った。5秒ほどの空白の後、パッと両 眼が見開かれる。 「ぁあ!? ──あぁ、昨夜あのまま寝ちまったのか……」 気怠い体を起こし、再び大きく伸びをする。 「っつ……。だりぃー。っつーか、身体いてぇ……。──セイラン、おめー平気か?」 「さぁ。とりあえずあなたの方がまだマシだろうとは思いますよ」 未だ起きあがる気になれないらしいセイランを見下ろし、ゼフェルはばつが悪そうに髪 をぐしゃりと掻き回した。こんな時のゼフェルは年相応の少年に見える。 しばらくそうして目を逸らしていたゼフェルは、ふとセイランに目を向けきらりと瞳を 光らせた。何か素敵な悪戯を思いついた子供のようだった。 「な。セイラン。ちゃんとベッド行って寝直そうぜ」 甘えるように顔を寄せ、ぺろりと唇を舐めて囁く。 「その『寝る』はどっちの寝るですか? どっちにしろ僕は一人で起きあがってベッドま で歩いていく気力なんてないから、あなたに抱いていってもらわないとならないんですけ ど」 「どっちでも、おまえの好きな方でいいぜ。ま、ベッド行ってからの気分次第だな」 「ふふっ、じゃああまりあなたを挑発しないようにしないと」 言ってゼフェルの背中に手を回す。目を瞠ったゼフェルが、眉間にしわを寄せた。 「おめー、言ってるコトとやってるコト違わねー?」 「だって連れていってくれるんでしょう?」 小さく舌打ちをして、セイランを抱え上げたゼフェルの後ろ姿が寝室のドアの向こうに 消えていった。fin. |