風のゆくえ
夕暮れ、足早に行き交う人混みの中を、逆らうように進む人影がひとつ。 フードを目深に被っているため表情はわからないが、背格好からして男のようだ。 ふと顔を上げた瞬間吹いた風に、枯れ草色のフードの下から銀の髪が現れる。雪の結晶 のような白銀の色合いは、濃い色の髪を持つ者の多いこの街では、ひどく目を引くものだっ た。 加えて、血の色を思わせる赤褐色の瞳。 何人かが思わず立ち止まり、周囲の視線が青年に集中する。 顔を顰め、舌打ちをして、青年はフードを被り直すと逃れるように横道へと逸れた。 雑多な街並みは青年の生まれた街に少し似ていた。それが逆に、美しく整えられた、彼 の第二の故郷とも言うべき場所を思い出させる。再び風が吹き、かすかな花の香りに誘わ れるように路地を進んでいく。 辿り着いた先は、小さな墓地だった。子供の頃作った犬や猫の墓のような、小さな墓標 がいくつか並んでいる。青年を呼んだ花は、墓地の片隅の大樹のものだった。白い、小指 の爪くらいの大きさの花びらを持つ花が、満開に咲いている。まだ外套を手放せないくら いに寒く、花の季節にはずいぶんと早い。 見上げていると、後ろから声をかけられた。振り返ると腰の曲がった老婆が同じ言葉を 繰り返した。 この花は、春を告げる花なのだという。この花びらの舞う日を境に雪は止み、春が訪れ るのだと。 老婆はもうひとつ、この墓地に眠る者はいないということも教えてくれた。どこで命を 落としたかもわからない、還らぬ人を弔う場なのだと。 その言葉は、青年に二人の人物を思い起こさせた。 一人目を見送ったのは、もうずいぶん前の話だ。二人目を見送ったのは青年にとっては つい最近の、昨日のことのように思えるのだが、見送られた当人にしたら遙か昔の出来事 なのだろう。もしかしたら彼も、この墓地に眠る資格をすでに得ているかも知れない。青 年と同じ第二の故郷の持ち主、彼を季節に例えたら春だろうか、鮮やかな光に包まれた、 希望に輝く旅立ちの季節。 青年は、自分は冬に例えられるだろうと思った。そしてもう一人、──彼の白い肌、清 冽な美しさは、まさに冬のものだろう。夜に向かって凍り始めた空の色に過去が甦る。 風が吹く。花びらが舞う。かすかな香りに包まれる。 白い花びらを手のひらに受け止める。冷たい風に煽られひんやりと、その感触は雪のよ う、そして彼のようだった。 いつだったか二人で雪を見た。綺麗だね、と微笑むその横顔が綺麗だった。 * * * 眠れなくて外に出たら、三日月を見上げる彼に出会った。半ば予想されていたことだ。 待ち合わせをしていたかのように、自然な微笑みが向けられる。 「あなたも眠れないの?」 「ああ」 「──あの人は、」 「あいつなら、今頃はぐっすり夢の中じゃねぇの? いっぺん寝たら、滅多なことじゃ起 きねーからな」 「ふふっ、そうだね」 あの人らしい、と肩をすくめて彼が笑う。愛おしげに細められた湖水の瞳は、昼間の─ ─普段の彼からは想像もつかない優しい色をしている。彼のこの表情を見られる人間はそ うはいない。彼の、隠れた優しさを、隠された淋しさを。 ──あいつは、知っているのだろうか。 「もうすぐ、終わるね」 ぽつり、呟きが聞こえた。整った横顔は何の感慨も抱いていない無表情に見えて、だが 蒼白い月影のような瞳が揺れているのがわかる。 「ああ、」 「もうすぐ、──さよならだ」 語尾の不自然な震えに顔を上げると、透明な雫が一粒落ちた。手を伸ばそうとして躊躇 い、その間に彼は自分で涙を拭った。 「初めから、わかっていたことなのに……」 髪を掻き上げて、自嘲の笑みが零れる。 「わかってたからって、止められるモンでもねぇだろ」 「そうだね……。────ごめん、つらいのはあなたの方なのに」 「別に、そんなことねぇよ」 断続的に襲い来る胸の痛みは、慣れるものではないけれど。 「──言わないの?」 言わない、と答えると、彼は笑った。 「そう。じゃああの人は、何も知らないまま行くんだ」 「その方が、あいつらしいだろ」 「……うん、そうだね」 泣き笑いのような、様々な色をちりばめた表情が月明かりに映える。 「もうすぐ、僕は僕のいるべき場所に戻る。あなたたちはここで、──すぐに、僕を忘れ る」 「忘れねぇよ」 「忘れるよ。忘れなくちゃいけない。──あなたたちは、僕の一生の何倍もの時間を、こ こで生きていかなきゃならないんだから」 「体感時間は変わんねぇだろ」 「それでも、ここの時の流れが違うということを、あなたたちは知ってしまっている。そ れを忘れてしまえたり、割り切ってしまえたり、……そんなことはできないでしょう?」 子供に言い聞かせるように。 「忘れられていくことは、別に恐いことじゃない。人はそうして生きていくものだから」 夜空を見上げると、蒼白い影が細い首すじを縁取った。 「あの人はきっと、すぐに僕を忘れるよ」 だから、と言葉を切って、涙を湛えた瞳が向けられる。 「あなたも、僕のこと……忘れて?」 雫が落ちるより先に、細い身体を押し倒していた。 淡い色の瞳が見開かれる。 「忘れるかよ。忘れてやるかよ。──忘れてなんか、やるもんか……!!」 彼の身体に、自分の心に、痛みを刻みつけて。 この想いを忘れないように。 見下ろす月に照らされて、蒼白い肩が光を放っているように見える。 月の光と同じ形の傷が背中について、彼の姿が消える頃には、同じように跡形もなく消 えていた。 * * * ぽつり、手に落ちた雫に我に返り、青年は宵の空を見上げた。最後の夕陽が目を射り、 手のひらに目を戻して自分の涙だと気づく。次の雫が白い花びらの上に落ちて光る。 細く長く息を吐いて、下唇をゆるく噛む。涙を拭った右の拳が口元に寄せられ、今度は 親指の爪が上下の唇に挟まれた。 また風が吹き、白い花びらが舞い落ちる。ところどころに残る雪と相まって、それは本 当に雪のように見える。 そういやあいつも雪が好きだった、と青年は思いだした。たまに雪が降ると、そのたび 大はしゃぎして、犬と一緒になって走り回っていた。 大樹を見上げると、吹く風のように枝を揺らし、その間から自分を呼ぶ声が聞こえる気 がする。 何とかは高いトコが好きだとからかったら、いい年をしてムキになっていた。思い出し て笑う青年の表情は、しかしどこか寂寥を感じさせる。 白い花が咲く、風に散る。季節が移り変わっていく。 会いたい。 今までで一番強く想った。叶うことがないのは承知の上で。 彼らも、こんな想いを抱いて旅立ったのだろうか。問う相手はいない。 歴史を刻む木の幹に手のひらを触れ、辿るように目を上に向ける。また吹いた風に一瞬 目を閉じ、青年はふと振り返った。小さな墓標の前に佇む老婆のもとに歩み寄る。 ここに墓を作りたいと青年が言うと、好きなところに作れと老婆は言った。 少し考えて、青年は大樹の近くに墓標を立てることにした。周りにあるものと同じ、木 の枝を組んだだけの簡素なものだ。 ナイフを取り出し、二人のイニシャルを刻む。曲線の多い、刻みにくい文字だと心の中 で悪態をつく。 土を掘り起こして穴に差し込み、土を戻すと、青年は息をついてまた樹を見上げた。 その合図を待っていたかのように強い風が吹き、白い花びらを一斉に散らしていく。風 に乗って、花びらはどこまで飛んでいくのか、風の向かう先はどこなのか。見極めるよう に、青年は白い残像を追いかける。 見開かれたままの紅い瞳が、ようやくひとつ瞬きをした。小さく息をついて俯き、挙げ た左手で銀の髪をかきまぜる。 ポケットに手を突っ込んで、再びナイフを取り出した。どさりと音を立てて座り、乱暴 に墓標を切りつける。現れたのは、青年のイニシャル。 「──じゃあな」 墓標を見下ろし、呟くように告げて、フードを被り直した青年の後ろ姿が夕闇の向こう に消えていった。fin. |