セピア色の写真押し入れの奥で埃を被っていた古いアルバム、保存状態が悪く色あせてセピア色に、 三十年以上前の懐かしい山の写真たち、一枚一枚に想いでが詰まっています。 時々会う友人、行方知れずの旧友、そして二度と会うことのできない親友たち・・・ 徳和から乾徳山へ(山梨県) 1964年7月大菩薩峠(山梨県) 1965年6月日光白根山麓・菅沼(群馬県) 1966年10月谷川岳西黒尾根下山中(群馬県) 1967年10月富士山五合目付近 1968年10月八ヶ岳(長野県) 1969年8月北アルプス高天原(富山県) 1974年7月 |
尾瀬の想い出1967年(昭和42年)6月♪夏がくれば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空♪ 国民的愛唱歌“夏の思い出”で全国的に有名なあの尾瀬、 山好きの私が訪れたのは一度だけでした。 私が二十歳頃、提案者は誰だったのか、定かな記憶はありませんが、幾多の仲間で尾瀬にと話が進み、 参加者を募ったそうです。如かし当日出発駅の上野に現れたのは私以外高校時代の仲間AとSだけでした。 夜行日帰りの山旅は裕福でない私達の常識、夜中に沼田下車、 そして登山バスで尾瀬の代表的な登山口大清水へ、バスの到着は夜明け前の午前3時20分、 多くの登山者やハイカーで活気がありました。早々に身支度を整え三平峠を目指し登山道を登り始めました。 尾瀬は1〜2泊の旅が標準、夜行日帰りの尾瀬歩きは無理な計画、普通に歩いては尾瀬に足跡を残せません。 小走りで多くのハイカーを追い越し先に進みました。 登り切った早暁の三平峠は橙色の朝日に包まれ、眼下の尾瀬沼はうっすらと霧に包まれていました。 三平峠からの降りは勢いよく尾瀬沼湖畔へ、 夜行日帰りで尾瀬沼だけでなく尾瀬ヶ原まで足を延ばそうという強行スケジュールの私達にとって、 東電小屋から沼尻(たじり)まで船の運航は想定外の出来事、 乗船中の暫しの休息時間は、時間・体力・気力に余裕をもたらしました。 空腹の私は船内で朝食を取ろうとしたのですがAとSに制止されました。 地方の交通機関内の飲食はごく一般的、何か理由があるのでしょうか? 土曜日の終電で丹沢へ出かけた時など、雨天の場合は早朝の小田急線上り電車で新宿に戻ります。 少々混雑した背広姿の多い電車内で、ザックに腰を降ろし平気でお弁当を広げる方が恥ずかしいと私は思います。 沼尻で下船後各自御握りの朝食、そこから尾瀬ヶ原の入り口見晴、そして竜宮小屋まで尾瀬ヶ原の木道を一気に駆け抜けました。 竜宮小屋付近から望む至仏山や尾瀬ヶ原360度の展望は圧巻でしたが、 "繁多の水芭蕉が咲き誇る尾瀬"はポスターだけの世界、水芭蕉は期待外れでした。 竜宮小屋で尾瀬ヶ原と後に富士見峠へ、登り辛さは夜行の疲れと早足歩きの付け、 峠から富士見下バス停への降りは居眠りが出そうな倦怠感がありました。 昼12時私たち三人は沼田駅行きバスの車中、当然夢心地で揺られていました。 当時の山日記には大清水3:40発〜三平峠5:25着と記載されています。
大清水〜三平峠の標準的な時間は2時間半、これを1時間45分で歩いた体力・脚力は若さです。
此の時代、尾瀬沼方面の登山口は群馬側3時間弱の大清水コースが主流でしたが、
現在は所要時間の少ない福島側沼山峠コース(1時間強)が人気とか。
今度、尾瀬に行くときは福島側・御池から入山し燧ヶ岳に登り尾瀬ヶ原で一泊、
次の日は至仏山に登り鳩待峠に下山と考えていますが、尾瀬ヶ原の木道での渋滞を考えると足が遠のきます。 |
赤岳は吹雪でした1968年(昭和43年)12月30日〜1月1日
足元から突風は登山者の自由な行動を妨げるだけでなく身体をも吹き飛ばす勢いがあります。
呼吸の邪魔をする凍り付いた毛糸の目出し帽、ゴーグルも同様で視界最悪、かといって外すと即凍傷の危険が、
両脚は登山靴にオーバーシューズ、10本爪アイゼン着用、ピッケルを持つ手には毛糸の分厚い手袋とオーバーミトン、
充分な装備にもかかわらず、手足の指の感覚は鈍り、思うように動かすことが出来ない状態です。
同行の富士澤先輩の睫毛と髭は真っ白に凍り、まるでサンタクロースの様、おまけに鼻水まで凍らせています。
鏡がないので自分自身を見ることが出来ませんが、眼鏡使用の私はそれ以上に凄まじい状況だと思います。
昨日は中岳のコル付近まで登りましたが、山と自分達のコンディションが悪いという理由で引き返しました。
その実は、救助隊員のスノーボートに乗せられ運ばれて行く突風で滑落したという血だらけの登山者と出会ったからです。
一昨日は雪中の露営で体調不良、昨夜は寝具も充分で温かく快適な小屋泊まり、体調は十分です。
風雪は昨日よりも弱まっているとは言え、下方からの突然の強風は油断できません。
視界は1〜2m、ルートを外さぬように、凍り付き滑りやすくなっている急な岩場を何本かのアイゼン爪に体重を乗せ、
息をととのえ慎重に一歩ずつ這うように登っています。
何ら目標が見えない登高は辛いもの、唯一の頼りは所々の岩に付けられたルートを示す赤いペンキだけです。
どの位の時間の経過があったでしょうか、風雪の向こうにうっすらと頂上を顕す独標が見え出しました。
1969年1月1日の赤岳は吹雪でした。 |
日本二の山『オラントオのトコジャア(私達のところでは)、日本一と日本二の山があるンダド〜!富士山と白根山ズラ!』 正確ではありませんが、山梨県の甲府盆地を中心とした国中地方の方言、幼い頃何度も耳にした従兄弟の口癖でした。 日本一の山は言わずと知れた富士山、白根山は日本二の山?一般的には北岳・間の岳・農鳥岳 (きただけ・あいのたけ・のうとりだけ)の総称が白根三山、日本で二番目に標高の高い山は北岳です。 何時のことか、私は北岳を指さし「あの山は白根山ではなく北岳では?」と叔父に訪ねると 『今はホオトモ(そうとも)イイ(言う)らしいネ』と返答でした。 此の地方では地図上の北岳を“白根山”と代々言い伝えられ、現在でもその様に呼ぶのだといいます。 此所、南アルプス市白根町は甲府盆地の中央を流れる釜無川の西側に位置し、天候の良い日には、西に櫛形山、白根連峰と夜叉神峠方面、 北は八ヶ岳・奥秩父の山々、東は大菩薩山系、そして南は御坂山系と富士山、360度の展望があります。 1968〜1970年
始めて北岳を目指したのは昭和43年7月、私が21歳の時、F氏との白根三山縦走でした。
八本歯のコルで体調を崩した私はそのまま北岳稜線小屋へ、そして北岳山頂に辿り着かぬまま間ノ岳・農鳥岳へと縦走を進めました。
同年8月、広河原にツェルト(簡易テント)を設営、翌日は大樺沢でまた体調不良、撤退しました。 |
風上賢治と北アルプスへ行く1974年(昭和49年)7月26日〜
「お〜ぃ梅太郎、山へ行かねぇか?
オンナノコ四人連れて裏銀座縦走するんだってさぁ、俺だけだとチョットなぁ〜御前もこいよ!」
悪友風上賢治からの電話でした。
彼と私とはバスケットボール部で同じ汗を流した仲間、と言うより行動を共にした悪友、
常に誘うのは彼、私は受け身、性格が正反対なので衝突も殆ど無、高校一年からの交情でした。
学生時代の彼は酒、タバコ、喧嘩など校則破りの常習者、暴力事件をおこし退学寸前の時もありました。
今でも時々私の住まいに立ち寄り日本茶を4〜5杯飲み、長々と世間話をして帰るお尻の重たい奴でした。
悪友は群れる(集まる)ことが好きだったようで、高校時代から仲間を自宅に招き酒などよく振る舞っていました。
また定時制高校にはレクリエーションが少ないという理由で海や山へ数々の計画と実行。
学校中を巻き込んだ貸し切りバスによる夜行日帰りのスケートバスツアーなども成功させました。
現在、彼は東京都バスケットボール連盟の審判員や母校のバスケットボール部コーチをしています。
そのバスケットボール部の顧問江藤教諭からの同行依頼だそうです。
(経緯は計画した女性4人から江藤教諭へ同行依頼、江藤教諭は悪友に、それから私へ)
「江藤さんも、オンナノコ4人も、山たいしたこと、ないんだってさ〜!
俺一人だとなぁ、御前もこいよ!」(自分以外は登山経験が少なという意味)
いつもならば強気一辺倒、強引な誘い方をするのですが、今日の電話は違いました。
受話器の向こうから彼の弱音が見え隠れしています。
かと言って「梅太郎頼むよ」などと消して口にする男ではありません。 |
仙丈ケ岳奮闘記1979年(昭和54年)8月2〜4日
夫婦揃っての山登りは今回で3回目、昨年は北八ヶ岳と中央アルプスの宝剣岳・木曾駒ヶ岳に登り、
今年は南アルプス・仙丈ケ岳(せんじょうがたけ)に天幕を担いで登ります。
私にとって、仙丈ケ岳は今回が2回目、9年前長野県側・戸台から大きなザックで入山、
北沢峠にツエルト(簡易テント)を設営し、軽装で甲斐駒ケ岳と仙丈ケ岳に登りました。
早朝松戸を経ち、南アルプス北部の玄関口、白鳳渓谷・広河原まで愛車で乗り入れました。
当時、南アルプス・スーパー林道は一般車でも通行可能でした。
現在北沢峠までは長野県・戸台口、山梨県・広河原共に公営バスが運行されていますが、
昭和54年頃は未舗装の林道と登山道を徒歩3時間強の行程でした。
其所を天幕・食料・炊事道具・衣類など約30kg、冬山並みのボッカ(荷上げ)は三十路過ぎの私には少々辛いものがありました。
其の原因は出発前に自宅行った登山用食料の試食会でした。
通常、私の基本的食料はアルファ米、スープ類、ドライフルーツ、自家製自称ペミカン
(塩味で肉と野菜に火を通し油で固めたもの、カレー、とん汁、シチューなどの具、本当のペミカンは別物らしい)でした。
炊事用具も日帰り等の短期間ではクッカー(12cm位の小鍋)とエスビット(無臭の固形燃料)のみ。
長期の場合、夏はコンパクトガスコンロ、冬はガソリン使用のスベア123でした。
ところが癖のあるアルファ米は拒否、食べ慣れないドライフルーツは無理とか、普段の食生活でなくては不参加と女房殿、
仕方なく白米は研いで天日乾燥(自家製無洗米)、生野菜、果物、肉類の缶詰、味噌醤油等の調味料と菓子類など用意しました。
炊事用品も当然増えてコッヘル(大小の鍋、フライパン等の炊事セット)とハンゴー、
コンロもコンパクトガス、スベア123と総動員でした。
この日のためにテントを改良しました。二本フレームのダンロップ吊り下げ式テントにフレームを一本増やし、
防水ナイロンの布を入手し、テント全体を被うフライを作りました。これで荷物置き場の前後室が出来ました。
北沢峠に着いてからも大変でした。複雑なテントの設営、女房殿が手伝うと余計に複雑に、自分一人でやりました。
台所にあるガスコンロと違い、点火装置が無く火加減の難しい当時のコンロ、初めての女房殿には無理でした。
いつも簡単調理のアルファ米を食べている私は、久々の飯盒炊爨に苦戦、焦がしました。 |
御岳山・日の出山・山歩記2001(平成13年)8月3日ここ数年、親子3人でオートキャンプや山歩きを楽しんでいます。 今年は御岳山から日の出山に登ることになりました。 朝6時、武蔵野線・新松戸駅まで自宅から30分歩きました。 足慣らしを兼ねたつもりでしたが、駅に着いたときには疲労感がありました。 昨夜は、1年振りの山歩きに家族で盛り上がり夜遅くまで大騒ぎでした。 そして朝5時起床、大忙しの出発準備、朝食後のお茶はゆっくりと飲む時間がありませんでした。 電車に乗り座席に腰掛けると即居眠り、西国分寺駅と立川駅で乗換、 青梅線・御岳駅下車、娘は両親にそれらを知らせる目覚まし係でした。そしてバスで御岳山麓・滝本駅へ、 昭和10年開通のケーブルカーは僅か6分で山頂近くの御岳山駅まで運んでくれました。 ケーブルカー降りたときも半睡眠状態、身体が目覚めませんでした。 8時半、山頂駅近くのベンチに腰掛け2度目の朝食?にしました。 食べたのは昼食用のおむすび・野菜サラダ・果物、日の出山で食べる昼食はお菓子類だけになってしまいました。 食後はのんびり、そして林の中を5万株といわれる可憐なレンゲショウマ群生地まで、一汗掻いてひと登り、
霧の中、林の彼方此方に咲く花はとても神秘的で印象深いものでした。
御岳山駅から神社へ続く参道は二十数件の宿坊、土産物屋や食事処が集まる門前町、
茅葺屋根の建物、角が取れ丸みをおびた石段、曲がりくねった狭い坂道、この街並みはどこか懐かしさを感じさせてくれます。
大きな鳥居をくぐり、立派な御影石の階段を登った所が標高九百二十九米御岳山山頂でもある御嶽神社でした。
日本には多くの御岳山(御嶽山)があります。
関東地方では栃木県芳賀郡市貝町と群馬県安中市、及び埼玉県秩父市にある山は“おんたけさん”
東京都青梅市にある山は“みたけさん”と読みます。
その他には“みたけやま、みたきさん、みだけやま、おたけやま”と読む山もあります。
青梅市にある御岳山は古くから栄え、紀元前90年崇神天皇が創建したと伝わる、武蔵御嶽神社は関東一の霊場と言われています。
本殿に参拝、入口に鎌倉時代の武将、畠山重忠公の馬上像がある
宝物殿には日本三大鎧の一つ国宝・赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい)や鎧、太刀など、多くの重要文化財が展示されていました。
神社から日の出山へは、神代ケヤキの所まで戻ります。
此のケヤキは御嶽神社の御神木、推定樹齢千年、国の天然記念物にも指定されています。
日の出山は御岳山から1時間に満たない歩程、比較的軽装で登ることができる家族向きの山です。
人家がなくなると次第に登山道らしくなり、杉林の中を行きます。
徐々に傾斜がきつくなり、急な階段を登りきった所が日の出山(ひのでやま)山頂、
標高902mの広い山頂には東屋や丸太のベンチが沢山あり、休憩するのには最高の場所でした。
今日は生憎の曇天、景色を楽しむことはできませんが、親子三人、会話を楽しみました。
日の出山からは、数多くの下山路がありますが、私達は上養沢へ降りました。
普段運動をしていない私の脹脛・膝・大腿部は、命令違反を起こし、急な下りでリタイヤ寸前でした。
途中にある養沢鍾乳洞はいくらかのお金を払い見学した憶えがありましたが、
現在は閉鎖され、鍾乳洞小屋も廃墟となっていました。
上養沢はバスの本数の少ないところ、待ち時間が多すぎるので歩くことに、
3ッ目の停留所まで1時間、山間部はバス停の間隔長いと思いました。 |
高 尾 山・山 歩 記2001年(平成13年)11月23日
晩秋の、木々の葉が美しく紅葉した高尾山を訪れました。
今年は親子三人で御岳山・日の出山・山歩き、北軽井沢でオートキャンプを楽しみましたが、
中学校一年生で親離れ中の娘、付き合いは限界だと今回の参加は拒否され、
仕方なく夫婦二人の山歩きになりました。
新宿から京王線で高尾口駅へ下車した途端、駅のスピーカーから『帰りは大変混雑します。今のうちに帰りの切符をお買い求め下さい』
駅は今でも大混雑、帰りはこれ以上?お正月の初詣を連想させました。
今日は“高尾山もみじ祭り”とか、確かに人の数はお祭り、中途半端ではありませんでした。
土産物屋や露天商は大繁盛、おみやげを買う人が行列を作るほどの賑わいでした。
これが紅葉真っ盛りの高尾山なのだと実感しました。
山は静かなもの、と思いこんでいた私は場違いな所に迷い込んだと思いました。
人波に押され到着したケーブルカー乗り場、乗車待ちの予定時間は1時間半、リフトは2時間待ちと表示されていました。
私は、この様な状態で山を楽しむことは不可能と判断、行き先変更が最良と思いましたが、
“紅葉、もみじ”と興奮状態の女房殿には馬耳東風、仕方なく頂上まで表参道を歩いて登ることにしました。
表参道は針葉樹に囲まれた舗装された登り、四阿があり展望が開けた所が金比羅台、
さらに暫く登ると、登山リフトの終点山頂駅、てケーブルカー高尾山駅、この辺りから勾配はなだらかになり、
所々に紅葉が見られるようになりました。
浄心門をくぐり、女坂から薬王院山門へ、正式には高尾山薬王院有喜寺、成田山新勝寺、川崎大師平間寺と共に、
真言宗智山派関東の三大本山の一つだといいます。
この薬王院、及び付近の真っ赤な紅葉には心奪われるものがありました。
当初からの予想通り、表参道は人の波、その行列は頂上まで続きました。
広い頂上も通路を除いて満員、お弁当を広げる場所は空き待ち状態、大変なことになっていました。
やむなく頂上の先へ、下山道の両脇も満員、15分ほど降り座る場所を確保、ようやく昼食を広げることが出来ました。 次のページヘ |