セピア色の写真

 押し入れの奥で埃を被っていた古いアルバム、保存状態が悪く色あせてセピア色に、 三十年以上前の懐かしい山の写真たち、一枚一枚に想いでが詰まっています。 時々会う友人、行方知れずの旧友、そして二度と会うことのできない親友たち・・・


 徳和から乾徳山へ(山梨県) 1964年7月
 
 
大菩薩峠(山梨県) 1965年6月


日光白根山麓・菅沼(群馬県) 1966年10月


谷川岳西黒尾根下山中(群馬県) 1967年10月


富士山五合目付近 1968年10月


八ヶ岳(長野県) 1969年8月


北アルプス高天原(富山県) 1974年7月
 
 
 

尾瀬の想い出

1967年(昭和42年)6月

尾瀬ヶ原  ♪夏がくれば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空♪ 国民的愛唱歌“夏の思い出”で全国的に有名なあの尾瀬、 山好きの私が訪れたのは一度だけでした。 私が二十歳頃、提案者は誰だったのか、定かな記憶はありませんが、幾多の仲間で尾瀬にと話が進み、 参加者を募ったそうです。如かし当日出発駅の上野に現れたのは私以外高校時代の仲間AとSだけでした。 夜行日帰りの山旅は裕福でない私達の常識、夜中に沼田下車、 そして登山バスで尾瀬の代表的な登山口大清水へ、バスの到着は夜明け前の午前3時20分、 多くの登山者やハイカーで活気がありました。早々に身支度を整え三平峠を目指し登山道を登り始めました。 尾瀬は1〜2泊の旅が標準、夜行日帰りの尾瀬歩きは無理な計画、普通に歩いては尾瀬に足跡を残せません。 小走りで多くのハイカーを追い越し先に進みました。 登り切った早暁の三平峠は橙色の朝日に包まれ、眼下の尾瀬沼はうっすらと霧に包まれていました。 尾瀬沼 三平峠からの降りは勢いよく尾瀬沼湖畔へ、 夜行日帰りで尾瀬沼だけでなく尾瀬ヶ原まで足を延ばそうという強行スケジュールの私達にとって、 東電小屋から沼尻(たじり)まで船の運航は想定外の出来事、 乗船中の暫しの休息時間は、時間・体力・気力に余裕をもたらしました。 空腹の私は船内で朝食を取ろうとしたのですがAとSに制止されました。 地方の交通機関内の飲食はごく一般的、何か理由があるのでしょうか? 土曜日の終電で丹沢へ出かけた時など、雨天の場合は早朝の小田急線上り電車で新宿に戻ります。 少々混雑した背広姿の多い電車内で、ザックに腰を降ろし平気でお弁当を広げる方が恥ずかしいと私は思います。 沼尻で下船後各自御握りの朝食、そこから尾瀬ヶ原の入り口見晴、そして竜宮小屋まで尾瀬ヶ原の木道を一気に駆け抜けました。 竜宮小屋付近から望む至仏山や尾瀬ヶ原360度の展望は圧巻でしたが、 "繁多の水芭蕉が咲き誇る尾瀬"はポスターだけの世界、水芭蕉は期待外れでした。 竜宮小屋で尾瀬ヶ原と後に富士見峠へ、登り辛さは夜行の疲れと早足歩きの付け、 峠から富士見下バス停への降りは居眠りが出そうな倦怠感がありました。 昼12時私たち三人は沼田駅行きバスの車中、当然夢心地で揺られていました。

 当時の山日記には大清水3:40発〜三平峠5:25着と記載されています。 大清水〜三平峠の標準的な時間は2時間半、これを1時間45分で歩いた体力・脚力は若さです。 此の時代、尾瀬沼方面の登山口は群馬側3時間弱の大清水コースが主流でしたが、 現在は所要時間の少ない福島側沼山峠コース(1時間強)が人気とか。 今度、尾瀬に行くときは福島側・御池から入山し燧ヶ岳に登り尾瀬ヶ原で一泊、 次の日は至仏山に登り鳩待峠に下山と考えていますが、尾瀬ヶ原の木道での渋滞を考えると足が遠のきます。
 尾瀬国立公園は、福島・新潟・群馬・栃木の四県にまたがる山岳地域にあります。 只見川の源流尾瀬沼、その西に位置する至仏山、北は燧ヶ岳、東北には会津駒ヶ岳、 東側の田代山と帝釈山などの山々が含まれた地域です。 日本最大の山岳湿原である尾瀬ヶ原は高標高地の湿原で、 その大部分は高層湿原(枯死した植物が低温のため腐らず泥炭化蓄積し、 周囲より高くなった湿原)のため、貴重な湿性植物の宝庫です。 平成19年8月、日光国立公園から独立、他の地域の編入し誕生した国立公園です。 また尾瀬は日本でのごみ持ち帰り運動発祥の地です。昭和47年から始まり全国に広まりました。

 
 
 

赤岳は吹雪でした

1968年(昭和43年)12月30日〜1月1日

赤岳登頂  足元から突風は登山者の自由な行動を妨げるだけでなく身体をも吹き飛ばす勢いがあります。 呼吸の邪魔をする凍り付いた毛糸の目出し帽、ゴーグルも同様で視界最悪、かといって外すと即凍傷の危険が、 両脚は登山靴にオーバーシューズ、10本爪アイゼン着用、ピッケルを持つ手には毛糸の分厚い手袋とオーバーミトン、 充分な装備にもかかわらず、手足の指の感覚は鈍り、思うように動かすことが出来ない状態です。 同行の富士澤先輩の睫毛と髭は真っ白に凍り、まるでサンタクロースの様、おまけに鼻水まで凍らせています。 鏡がないので自分自身を見ることが出来ませんが、眼鏡使用の私はそれ以上に凄まじい状況だと思います。 昨日は中岳のコル付近まで登りましたが、山と自分達のコンディションが悪いという理由で引き返しました。 その実は、救助隊員のスノーボートに乗せられ運ばれて行く突風で滑落したという血だらけの登山者と出会ったからです。 一昨日は雪中の露営で体調不良、昨夜は寝具も充分で温かく快適な小屋泊まり、体調は十分です。 風雪は昨日よりも弱まっているとは言え、下方からの突然の強風は油断できません。 視界は1〜2m、ルートを外さぬように、凍り付き滑りやすくなっている急な岩場を何本かのアイゼン爪に体重を乗せ、 息をととのえ慎重に一歩ずつ這うように登っています。 何ら目標が見えない登高は辛いもの、唯一の頼りは所々の岩に付けられたルートを示す赤いペンキだけです。 どの位の時間の経過があったでしょうか、風雪の向こうにうっすらと頂上を顕す独標が見え出しました。 1969年1月1日の赤岳は吹雪でした。
イーグル  1968年12月30日未明、登山者で満員の新宿発最終長野行き夜行列車から、 富士澤先輩と私は中央本線茅野駅のホームに降り立ちました。 正月休みを利用し厳しくも美しい八ヶ岳の冬を堪能、そして赤岳山頂に立つことが目的の山行です。 茅野バスターミナルも列車同様の大混雑、各々目的の山に向かうべく、大型ザックの登山者で溢れていました。 茅野から終点・美濃戸口までは主に未舗装の道路、バスで1時間弱揺られます。 そこから平坦な山道を1時間程歩いた所が美濃戸という集落、一息つくのに丁度良い場所です。 数軒ある山小屋の一つ、小松山荘の暖簾をくぐり、肉うどんを注文しました。 薪ストーブを囲み食べる肉うどんは身体の芯まで温もりが伝わり、夜行の疲れを癒してくれます。 丼に山盛りの野沢菜はサービスとか、半シャーベット状で歯に凍みます。 当時漬け物嫌いだった私も一度口にすると箸を止めることが出来ませんでした。 その後、何度か小松山荘に立ち寄り野沢菜をいただきましたが、あの味に出会うことはありませんでした。 美濃戸からは柳川北沢・南沢と、八ヶ岳への登山道は二分されます。 私達はちらほらと降る小雪の中、北沢沿いの道を今夜の露営地赤岳鉱泉へ向かいました。 キャンプ指定地の赤岳鉱泉には大きな山小屋が一軒、付近は大小様々なテントで埋めつくされ、多くの登山者が休息をとっていました。 好天ならば八ヶ岳連峰を望むことが出来る別天地ですが、今日は朝から雲が厚く薄暗い灰色の世界でした。 積雪は吹き溜まりで3m位、ザックから折りたたみスコップを取り出し、雪をブロック状に切り出し、 其れを積み重ねイーグル(イヌイットのかまくら)を遊び心で作りました。 出来上がったイーグルは隙間だらけ、一晩の宿にはほど遠いものでした。 午後3時、雪を掘り下げツェルト(簡易テント)を設営、早めの夕食、即寝袋の中へ、そして夜行の疲れで爆睡しました。 夜半、横からの圧迫感で眼を覚ますとツェルトの床面積が少なくなっていました。 慌てて外に出るとツェルトは半壊状態、夕方からの積雪は思いの外多く、雪掻きに一汗かきました。 そしてツェルトの中に戻った頃から寒さが強まり、室内の温度計は零下20℃以下、 白金懐炉の暖では熟睡不可能、夜明けまでの時間の長さはとても辛いものがありました。 その夜から2日後、富士澤先輩と私は厳冬の八ヶ岳連邦主峰赤岳2899mの頂上に立つことが出来ました。

 
 
 

日本二の山

5月の北岳  『オラントオのトコジャア(私達のところでは)、日本一と日本二の山があるンダド〜!富士山と白根山ズラ!』 正確ではありませんが、山梨県の甲府盆地を中心とした国中地方の方言、幼い頃何度も耳にした従兄弟の口癖でした。 日本一の山は言わずと知れた富士山、白根山は日本二の山?一般的には北岳・間の岳・農鳥岳 (きただけ・あいのたけ・のうとりだけ)の総称が白根三山、日本で二番目に標高の高い山は北岳です。 何時のことか、私は北岳を指さし「あの山は白根山ではなく北岳では?」と叔父に訪ねると 『今はホオトモ(そうとも)イイ(言う)らしいネ』と返答でした。 此の地方では地図上の北岳を“白根山”と代々言い伝えられ、現在でもその様に呼ぶのだといいます。 此所、南アルプス市白根町は甲府盆地の中央を流れる釜無川の西側に位置し、天候の良い日には、西に櫛形山、白根連峰と夜叉神峠方面、 北は八ヶ岳・奥秩父の山々、東は大菩薩山系、そして南は御坂山系と富士山、360度の展望があります。

1968〜1970年

北岳山頂1969  始めて北岳を目指したのは昭和43年7月、私が21歳の時、F氏との白根三山縦走でした。 八本歯のコルで体調を崩した私はそのまま北岳稜線小屋へ、そして北岳山頂に辿り着かぬまま間ノ岳・農鳥岳へと縦走を進めました。 同年8月、広河原にツェルト(簡易テント)を設営、翌日は大樺沢でまた体調不良、撤退しました。
 “夏がダメなら春があるさ!”と思い翌年昭和44年5月再度挑戦。 5月3日定番の新宿発最終鈍行列車に乗車、翌日の昼頃白峰御池の幕営指定地到着、雪の上にツェルトを設営しました。 翌5日3時半起床、5時出発、午前10時、私は夢にまでも見た、憧れの北岳山頂に立つことができました。 登頂は感無量、私は北岳に魅了されました。
鳳凰小屋の朝1970  時間の経過と共に北岳登頂の、あの感動が忘れられず8月、 北岳の大岩壁と日本のエーデルワイス・キタダケウスユキ草の写真を撮りに再度北岳に向かいました。 広河原でツエルトを設営、夕方から雨、翌日は大雨のため一歩も登ることなく引き揚げました。
 次は厳冬期の北岳山頂に立ちたいと思うようになりました。しかし私の技量では当然無理、鳳凰三山から眺めることにしました。 下山中 秋、その準備として、鳳凰三山縦走に出かけました。今回は計画通り観音岳と赤抜ノ頭の間にある岩小屋でビバーク(露営)、 ツエルトも持たない稜線のビバークは、体温を奪い熟睡不能、とても長く辛い夜でした。 昭和45年正月、北岳を眺めに鳳凰三山縦走に出発、1月3日朝、芦安のバス停に着いたときは曇りから小雪に変わっていました。 この日は夜叉神峠小屋に宿泊、次の日は南御室小屋へ、この日も雪でした。1月5日南御室小屋から少し登ると稜線に出ます。 薬師岳・観音岳・地蔵ケ岳と縦走、一日中風雪と岩と氷の稜線では、北岳の影すら眼にすることはできませんでした。 1月6日鳳凰小屋の朝は皮肉にも快晴、疲労困憊の私はもう一度地蔵ケ岳に登り北岳を望む余裕はなく山を降りました。

 
 
 

風上賢治と北アルプスへ行く

1974年(昭和49年)7月26日〜

高天原  「お〜ぃ梅太郎、山へ行かねぇか? オンナノコ四人連れて裏銀座縦走するんだってさぁ、俺だけだとチョットなぁ〜御前もこいよ!」 悪友風上賢治からの電話でした。 彼と私とはバスケットボール部で同じ汗を流した仲間、と言うより行動を共にした悪友、 常に誘うのは彼、私は受け身、性格が正反対なので衝突も殆ど無、高校一年からの交情でした。 学生時代の彼は酒、タバコ、喧嘩など校則破りの常習者、暴力事件をおこし退学寸前の時もありました。 今でも時々私の住まいに立ち寄り日本茶を4〜5杯飲み、長々と世間話をして帰るお尻の重たい奴でした。 悪友は群れる(集まる)ことが好きだったようで、高校時代から仲間を自宅に招き酒などよく振る舞っていました。 また定時制高校にはレクリエーションが少ないという理由で海や山へ数々の計画と実行。 学校中を巻き込んだ貸し切りバスによる夜行日帰りのスケートバスツアーなども成功させました。 現在、彼は東京都バスケットボール連盟の審判員や母校のバスケットボール部コーチをしています。 そのバスケットボール部の顧問江藤教諭からの同行依頼だそうです。 (経緯は計画した女性4人から江藤教諭へ同行依頼、江藤教諭は悪友に、それから私へ) 「江藤さんも、オンナノコ4人も、山たいしたこと、ないんだってさ〜! 俺一人だとなぁ、御前もこいよ!」(自分以外は登山経験が少なという意味) いつもならば強気一辺倒、強引な誘い方をするのですが、今日の電話は違いました。 受話器の向こうから彼の弱音が見え隠れしています。 かと言って「梅太郎頼むよ」などと消して口にする男ではありません。
 ここ数年、悪友とは年数回スキーに行く程度、殆どが杯を交わす間柄でした。 高校時代、彼に誘われて登った乾徳山、それが私のはじめての山登りでした。 卒業後も山登りは続き、一時期お互いに夢中になり、毎週出かけたこともありました。 いつの頃からか、山歩きだけでなく岩登りや沢登りもするようになりました。 そしてお互いザイルパートナーとして幾多の山や沢を登り続けました。 ザイルは危険なところで使うもの、相手に命を預ける道具です。最悪の場合は生命に関わることもあります。 お互いの信頼感、技量、気心が知れていなければザイルを結ぶことは不可能です。 その頃の我々は、相手の疲労度、気力などは言葉より表情で読み取れるような関係でした。
 日本アルプス(飛騨・木曽・赤石山脈)は3000m級の山々が連なる気象条件が厳しい山域です。 一般的に快適な登山が楽しめるのは1年の内、夏の2〜3ヵ月くらいです。 しかし夏でも悪天候になれば気温は氷点下、霙混じりの雨が降ることもあります。 集中豪雨は交通機関の運休のみならず、登山道の破綻、橋の流失などで下山路を絶たれることもあります。 今回のように長期間の登山はより多くの危険を伴うもの、基礎知識・体力・経験は不可欠ですが、 気象条件も考え合わせ充分な装備と余裕のある日程が必要です。 山は都会と違い予定通りの行動は困難、この長いコースを悪友と2人だけなら問題ありませんが、 4〜5人の初心者と一緒では失敗の可能性大、好きな山登りも気が進みません。 過去に苦い経験のある私は、断ることが正解だと思いました。 しかし即答は悪友の顔を潰すことになるので、日を改め、理由を付けて断ることにしました。
 半月が過ぎた頃、悪友風上から「おい!学校へ顔だせよ!」と呼び出しの電話、 仕事が忙しく山行きのことなどすっかり忘れていた私は、バスケの練習が終わったら、例のごとく、 また一杯飲むのだと勘違い!時間を見計らい電車でノコノコと出かけて行きました。 練習時間が過ぎ照明が消され薄暗くなった体育館には悪友と初対面の江藤教諭が待っていました。 その瞬間に思い出しました。断りの電話を入れることを…失敗したと思いました。 一般的に裏銀座コースとは、高瀬ダムから入山し野口五郎岳、水晶岳、双六小屋、そして西鎌尾根から 千丈沢乗越を越え、槍ヶ岳を目差す玄人好みの長距離コースです。 途中にも困難な場所がありますが特に槍ヶ岳山荘から頂上までは梯子や鎖場の付いた危険箇所、 夏でも事故がある所、初心者には無理なので中止を進めることを思いつきました。 ところが高天原と雲ノ平がメインで鏡平から新穂高へ降りるとか、槍ヶ岳に登らない裏銀座縦走?吃驚と困惑。 言葉を失った私は山行き同行を了承した形になっていました。(悪友の顔には“シテヤッタリ”と書いてありました) おまけに年上の江藤教諭から頼られることが責任の重さを強く感じました。 多分、私のことを大ベテランの山男とでも言ったのでしょうか?(海外登山の経験もないのに、無責任な奴)
 いつもならば出発日が近づくにつれ気持ちの高ぶりを感じるのですが、今回の山行きは日に日に不安が募ってきました。 7人全員の初顔合わせは出発当日の昭和49年7月25日発車数十分前の上野駅改札前広場でした。 (悪友は気楽な顔で上野駅に現れました) 関東周辺の日帰りハイキングならばいざ知らず、北アルプスを数日間歩くのですから、 事前の話し合いで綿密な計画と装備の検討がこの世界の常識です。 今回は小屋泊まりなので日帰り登山に毛の生えた程度の装備で十分なのですが、私は万が一を考え、 ツエルト(簡易テント)、包帯等の医薬品一揃え、7人分の非常食そして 人を背負うことの出来るザック(荷物を空にするとザックの両脇から脚が出せる)を用意しました。 往路は我々の定番、新宿駅23時55分発中央線の長野行き鈍行山岳夜行列車でなく、 車体は濃いブルーにクリーム色の帯を付けた通称ブルートレインと呼ばれる 上野・金沢間を走る夜行寝台特急“北陸”私は初体験でした。 大混雑の山岳夜行ではほとんど通路でザックに座り仮眠を取っていましたが、 今回は三段式寝台客車なので横になれる贅沢さ、快適そのもの、翌朝まで熟睡ができました。 早朝、富山駅下車、バスに乗り換え折立へ、そこから今晩宿泊する太郎平小屋を目差しました。 夜行の疲れか、気疲れか、徒歩5時間の行程で疲労を感じました。
高天原へ  翌日は太郎平から黒部川上流の薬師沢添いに歩きました。 そして高天原峠を越え一時間ほど降ると北アルプス最北の別天地といわれている高天原の湿原です。 “古事記”での高天原(たかまがはら)は“天つ神の住まう場所”だといいます。 地上にある高天原は三重県伊勢志摩や宮崎県高千穂が有名です。 ここ秘境高天原は3000m級の山々に厚く包まれた標高2100mの盆地です。 その中央に今晩お世話になる高天原山荘がありました。今日のコースタイムは7時間強、疲れました。 今回のメンバーの中では一番元気がないのが私です。(恥ずかしい) 悪友たちは山荘から2〜30分離れた高天原温泉に行きましたが私は休息を取りました。 高天原温泉はどのルートからでも2日間は山を歩かないと到達できないことから、 日本一遠い温泉と呼ばれているそうです。後日、私も入浴すべきだったと後悔しました。
昼食の支度  そして次の日が日本最後の秘境と呼ばれる雲ノ平でした。 高天原山荘から昨日越えてきた高天原峠へ引き返し、そこからは急な尾根を2時間ほど登り、 緩やかな傾斜に変わるころ雲ノ平山荘が見えてきました。 雲ノ平は北アルプスのほぼ中央、周囲を黒部源流に囲まれ平均標高は2500m、 約4km四方の溶岩台地です。周囲は黒部の谷を隔てて、三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶岳、薬師岳、 黒部五郎岳などの3000m級の山々に囲まれ、優しく見える糖池やチングルマの群落などの 高山植物、アクセントとなる火山岩やハイマツなどが点在し、山の深さ、自然の美しさを堪能できる 地上の楽園の一つだと思いました。 雪渓の上 当初、初心者と聞かされ気が重かったのですが、この頃になると同行者の装備や歩き方などから ビギナー以上の体力や技量があることが解り、気苦労が解消、 私は持参した自慢の一眼レフカメラで、おおいに大自然を満喫することができました。 悪友も調子に乗り、例の照れ隠しの口癖「馬鹿野郎〜ナンダラカンダラ」を連発していました。 雲ノ平山荘のある通称ギリシャ庭園からスイス庭園、祖父庭園、そして残雪のある日本庭園に、 その頃になると曇天だった空も下り坂、黒部源流の標識がある付近からは小雨に、 稜線上の三俣山荘からは本降りとなりました。 三俣蓮華岳、双六岳は頂上を通らず巻き道を進み、ずぶ濡れで双六小屋に飛び込みました。 この日もまた疲れました。機嫌も悪くなりました。着替えをすませ早速布団にもぐり込み爆睡しました。
双六小屋の朝  双六小屋の朝は好天でした。最近山登りから遠ざかっていたせいか、なかなか疲労が抜けず体調が整いませんでしたが、 今朝は絶好調!ようやく山登りに体が慣れてきたその日が下山日、皮肉です。 自分だけ別行動で目前の槍ヶ岳へ!そんな思いでした。 弓折岳付近から鏡平へ、鏡平は槍・穂高の絶好の展望地、池に映る槍ヶ岳が特に有名なところです。 淀んだ池と靄(もや)で見えない槍・穂、ザックからカメラと取り出すことはありませんでした。 鏡平からは急な降りと林道歩き、新穂高までは行程時間以上にながく感じました。 そしてバスで飛騨高山(岐阜県)に、この日は市内にある彼女らが常連だという民宿に泊まりました。
 翌朝は早起きし輪島(石川県輪島市) 呼子(佐賀県呼子町)と並び称される 日本三大朝市の一つ、高山朝市へ出かけることになっていましたが、 山登りの疲れか昨夜の深酒か、江藤教諭と悪友は高鼾(たかいびき)で見物を棄権しました。 私は彼女らに連れられ始めての朝市巡り、この日は山屋からカメラマンに変身しました。 (商売のように頻繁に山登りをしている連中を山屋といいました。仲間内の言葉だと思います。 日本にはこの時代、現在のように組織化されたプロの山岳ガイドは存在しませんでした) 朝市では女性4人の持ちきれないほどの土産物買いに驚きました。 普段私は土産を買わないのですが、この日は家への土産を少しだけ買いました。 民宿に帰ると朝寝坊の4人が朝食を始めたところでした。 (悪友の不機嫌な顔は“お前だけイイ思いをしやがって”と文句を言っていました。 女性4人と出かけましたが電話番号の交換など誰ともしていません。 起床時間に声をかけると“行かない”と返答しておきながら…ワガママな奴です) 外出の5人もホオ葉味噌の朝食を頂き、高山から名古屋経由、新幹線で帰京、 上野駅改札前広場から始まった北アルプス男女七人六日間に及ぶ山旅の終着は 7月30日夕方の東京駅新幹線ホームでした。 病人や怪我人も無くスケジュール通りコースを完歩、体調不良の私を除けば成功だったと思います。 寝台特急や新幹線を初体験した優雅で贅沢な山旅、貧乏な私には今までにない夢のような出来事でした。 高天原と雲ノ平が主目的、それに古都高山の観光を加えた山旅は女性らしい繊細な企画だと感心しました。
 東京に帰り、どのような成りゆきだったか記憶は定かではありませんが、 今回の山旅で同行した女性の一人石川和子さんになぜか写真を手渡す事になっていました。 翌年9月、悪友の風上賢治は結婚式場で不馴れな司会で額に汗していました。 花嫁は石川さん(現在の女房殿)、花婿は何故か私?…でした。 当初、気が進まなかった山行きの結果がこの様なことに…不思議な気がします。 『縁は異なもの』とはこの様なことをいうのでしょうか。 その時、悪友は“俺より先に結婚しやがって!”と思ったに違いありません。 「梅太郎の奴、ヨメサンもらったら付き合いが悪くなった」と愚痴りながら酒を飲んだといいます。

 
 
 

仙丈ケ岳奮闘記

1979年(昭和54年)8月2〜4日

北沢峠幕営地  夫婦揃っての山登りは今回で3回目、昨年は北八ヶ岳と中央アルプスの宝剣岳・木曾駒ヶ岳に登り、 今年は南アルプス・仙丈ケ岳(せんじょうがたけ)に天幕を担いで登ります。 私にとって、仙丈ケ岳は今回が2回目、9年前長野県側・戸台から大きなザックで入山、 北沢峠にツエルト(簡易テント)を設営し、軽装で甲斐駒ケ岳と仙丈ケ岳に登りました。 早朝松戸を経ち、南アルプス北部の玄関口、白鳳渓谷・広河原まで愛車で乗り入れました。 当時、南アルプス・スーパー林道は一般車でも通行可能でした。 現在北沢峠までは長野県・戸台口、山梨県・広河原共に公営バスが運行されていますが、 昭和54年頃は未舗装の林道と登山道を徒歩3時間強の行程でした。 其所を天幕・食料・炊事道具・衣類など約30kg、冬山並みのボッカ(荷上げ)は三十路過ぎの私には少々辛いものがありました。 其の原因は出発前に自宅行った登山用食料の試食会でした。 仙丈ケ岳 通常、私の基本的食料はアルファ米、スープ類、ドライフルーツ、自家製自称ペミカン (塩味で肉と野菜に火を通し油で固めたもの、カレー、とん汁、シチューなどの具、本当のペミカンは別物らしい)でした。 炊事用具も日帰り等の短期間ではクッカー(12cm位の小鍋)とエスビット(無臭の固形燃料)のみ。 長期の場合、夏はコンパクトガスコンロ、冬はガソリン使用のスベア123でした。 ところが癖のあるアルファ米は拒否、食べ慣れないドライフルーツは無理とか、普段の食生活でなくては不参加と女房殿、 仕方なく白米は研いで天日乾燥(自家製無洗米)、生野菜、果物、肉類の缶詰、味噌醤油等の調味料と菓子類など用意しました。 炊事用品も当然増えてコッヘル(大小の鍋、フライパン等の炊事セット)とハンゴー、 コンロもコンパクトガス、スベア123と総動員でした。 この日のためにテントを改良しました。二本フレームのダンロップ吊り下げ式テントにフレームを一本増やし、 防水ナイロンの布を入手し、テント全体を被うフライを作りました。これで荷物置き場の前後室が出来ました。 北沢峠に着いてからも大変でした。複雑なテントの設営、女房殿が手伝うと余計に複雑に、自分一人でやりました。 台所にあるガスコンロと違い、点火装置が無く火加減の難しい当時のコンロ、初めての女房殿には無理でした。 いつも簡単調理のアルファ米を食べている私は、久々の飯盒炊爨に苦戦、焦がしました。
仙丈ケ岳山頂  山梨県と長野県の境界にある仙丈ケ岳は南アルプス北部の北沢峠を挟んで男性的な甲斐駒ヶ岳と対峙するかのように、 その優雅さは“南アルプスの女王”と呼ばれる気品ある山です。 小仙丈カール・大仙丈カール・藪沢カール、そしてゆったりと四方に伸びる尾根が美しい山容を形成しています。 また南アルプス屈指の高山植物群など、魅力一杯の山です。 翌日も好天、北沢長衛小屋前の幕営指定地から小仙丈ケ岳を目指し森林の中を登ります。 森林限界からハイマツの斜面を急登すると小仙丈ケ岳、展望が開けます。 仙丈ケ岳、甲斐駒ヶ岳、北岳、鳳凰三山、素晴らしい眺めです。 其所から一時間、高山植物咲き乱れるお花畑を楽しみながらの登りは雲上散歩です。 最後の急登で一汗掻いた所が仙丈ケ岳山頂、8月3日は絶好の登山日和でした。
 8月4日は下山の日、時間があるので朝露で濡れたテントを乾かしてから撤収することにしました。 其の間に炊事道具や衣類の整理、そして朝食、御握り、サラダ、果物など昨日の残り物が大量にありました。 食べ残しなのでお隣のテントにお裾分けは失礼なこと、 何処かのバイキングの様な大食らいの朝食になりました。 持ち帰りの食料は自家製無洗米2合と御菓子のみ、他は全部お腹の中へ撤収、背中の荷物が軽くなりました。 そして食べ過ぎのお腹で愛車の待つ広河原まで降りました。

 
 
 

御岳山・日の出山・山歩記

2001(平成13年)8月3日

 ここ数年、親子3人でオートキャンプや山歩きを楽しんでいます。 今年は御岳山から日の出山に登ることになりました。 朝6時、武蔵野線・新松戸駅まで自宅から30分歩きました。 足慣らしを兼ねたつもりでしたが、駅に着いたときには疲労感がありました。 昨夜は、1年振りの山歩きに家族で盛り上がり夜遅くまで大騒ぎでした。 そして朝5時起床、大忙しの出発準備、朝食後のお茶はゆっくりと飲む時間がありませんでした。 電車に乗り座席に腰掛けると即居眠り、西国分寺駅と立川駅で乗換、 青梅線・御岳駅下車、娘は両親にそれらを知らせる目覚まし係でした。そしてバスで御岳山麓・滝本駅へ、 昭和10年開通のケーブルカーは僅か6分で山頂近くの御岳山駅まで運んでくれました。 ケーブルカー降りたときも半睡眠状態、身体が目覚めませんでした。 8時半、山頂駅近くのベンチに腰掛け2度目の朝食?にしました。 食べたのは昼食用のおむすび・野菜サラダ・果物、日の出山で食べる昼食はお菓子類だけになってしまいました。 レンゲショウマ

食後はのんびり、そして林の中を5万株といわれる可憐なレンゲショウマ群生地まで、一汗掻いてひと登り、 霧の中、林の彼方此方に咲く花はとても神秘的で印象深いものでした。 御岳山駅から神社へ続く参道は二十数件の宿坊、土産物屋や食事処が集まる門前町、 茅葺屋根の建物、角が取れ丸みをおびた石段、曲がりくねった狭い坂道、この街並みはどこか懐かしさを感じさせてくれます。 大きな鳥居をくぐり、立派な御影石の階段を登った所が標高九百二十九米御岳山山頂でもある御嶽神社でした。 日本には多くの御岳山(御嶽山)があります。 関東地方では栃木県芳賀郡市貝町と群馬県安中市、及び埼玉県秩父市にある山は“おんたけさん” 東京都青梅市にある山は“みたけさん”と読みます。 その他には“みたけやま、みたきさん、みだけやま、おたけやま”と読む山もあります。 青梅市にある御岳山は古くから栄え、紀元前90年崇神天皇が創建したと伝わる、武蔵御嶽神社は関東一の霊場と言われています。 本殿に参拝、入口に鎌倉時代の武将、畠山重忠公の馬上像がある 宝物殿には日本三大鎧の一つ国宝・赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい)や鎧、太刀など、多くの重要文化財が展示されていました。 神社から日の出山へは、神代ケヤキの所まで戻ります。 此のケヤキは御嶽神社の御神木、推定樹齢千年、国の天然記念物にも指定されています。 日の出山は御岳山から1時間に満たない歩程、比較的軽装で登ることができる家族向きの山です。 人家がなくなると次第に登山道らしくなり、杉林の中を行きます。 徐々に傾斜がきつくなり、急な階段を登りきった所が日の出山(ひのでやま)山頂、 標高902mの広い山頂には東屋や丸太のベンチが沢山あり、休憩するのには最高の場所でした。 今日は生憎の曇天、景色を楽しむことはできませんが、親子三人、会話を楽しみました。 日の出山からは、数多くの下山路がありますが、私達は上養沢へ降りました。 普段運動をしていない私の脹脛・膝・大腿部は、命令違反を起こし、急な下りでリタイヤ寸前でした。 上養沢付近 途中にある養沢鍾乳洞はいくらかのお金を払い見学した憶えがありましたが、 現在は閉鎖され、鍾乳洞小屋も廃墟となっていました。 上養沢はバスの本数の少ないところ、待ち時間が多すぎるので歩くことに、 3ッ目の停留所まで1時間、山間部はバス停の間隔長いと思いました。
 この御岳山と日の出山は、私にとって大変想いでの多い山です。 19歳の春、初めて1人で登った山が御岳山・日の出山、高校時代から始めた山歩き、登山経験6回目の超初心者でした。 20歳になった正月、悪友を誘い、霙降りしきる中、古里駅から大塚山を経て御岳山へ、 溝鼠のように泥だらけで汚い私達は晴れ着姿の初詣客と一緒のケーブルカー乗車を躊躇、歩いて下山した記憶があります。 3回目は、私が独身の頃、彼女(現女房殿)と登った山が日の出山、そんな思いを踏みしめながら親子3人で歩く山道…感無量でした。

 
 
 

高 尾 山・山 歩 記

2001年(平成13年)11月23日

紅葉  晩秋の、木々の葉が美しく紅葉した高尾山を訪れました。 今年は親子三人で御岳山・日の出山・山歩き、北軽井沢でオートキャンプを楽しみましたが、 中学校一年生で親離れ中の娘、付き合いは限界だと今回の参加は拒否され、 仕方なく夫婦二人の山歩きになりました。 新宿から京王線で高尾口駅へ下車した途端、駅のスピーカーから『帰りは大変混雑します。今のうちに帰りの切符をお買い求め下さい』 駅は今でも大混雑、帰りはこれ以上?お正月の初詣を連想させました。 今日は“高尾山もみじ祭り”とか、確かに人の数はお祭り、中途半端ではありませんでした。 土産物屋や露天商は大繁盛、おみやげを買う人が行列を作るほどの賑わいでした。 これが紅葉真っ盛りの高尾山なのだと実感しました。 山は静かなもの、と思いこんでいた私は場違いな所に迷い込んだと思いました。 人波に押され到着したケーブルカー乗り場、乗車待ちの予定時間は1時間半、リフトは2時間待ちと表示されていました。 私は、この様な状態で山を楽しむことは不可能と判断、行き先変更が最良と思いましたが、 “紅葉、もみじ”と興奮状態の女房殿には馬耳東風、仕方なく頂上まで表参道を歩いて登ることにしました。 表参道は針葉樹に囲まれた舗装された登り、四阿があり展望が開けた所が金比羅台、 さらに暫く登ると、登山リフトの終点山頂駅、てケーブルカー高尾山駅、この辺りから勾配はなだらかになり、 所々に紅葉が見られるようになりました。 頂上付近の大混雑 浄心門をくぐり、女坂から薬王院山門へ、正式には高尾山薬王院有喜寺、成田山新勝寺、川崎大師平間寺と共に、 真言宗智山派関東の三大本山の一つだといいます。 この薬王院、及び付近の真っ赤な紅葉には心奪われるものがありました。 当初からの予想通り、表参道は人の波、その行列は頂上まで続きました。 広い頂上も通路を除いて満員、お弁当を広げる場所は空き待ち状態、大変なことになっていました。 やむなく頂上の先へ、下山道の両脇も満員、15分ほど降り座る場所を確保、ようやく昼食を広げることが出来ました。
 私が東京の小学校に通っていた頃、何年生だったかは忘れましたが、遠足で高尾山に登った記憶があります。 不安定で滑りやすい枯れ葉の上を歩いたこと。滝が綺麗だったことを憶えています。 表参道には滝がないので、琵琶滝のある前の沢沿いに登ったのだと思います。 高尾山薬王院では、蛇滝と琵琶滝の二滝を水行道場として一般に開放しているそうです。 行衣一衣で瀧に打たれる水行をテレビで見たことがあります。 私の記憶の中にある滝はテレビで見た水行の行われる琵琶滝だったかも知れません。 昭和2年ケーブルカー開通、リフトは昭和39年、東京オリンピックの年に営業開始とか、 ケーブルカーは印象にありますが、リフトの存在は知らなかたので昭39年以降、高尾山に登ってはいないようです。
 山歩きの案内書では、高尾駅からバスで小仏へ、小仏峠から城山を経て高尾山に登り蛇滝口へ降るコースが紹介されています。 混雑するのは山頂からケーブルカー高尾山駅間のみ、他はゆったりと山歩きが楽しめそうです。 “高尾山もみじ祭り”次回の訪問はガイドブックのコース通りに歩こうと思いました。

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