前のページ私の山日記保存状態が悪く色褪せた私の山日記、最初の頁には昭和三十九年七月五日乾徳山登山曇りと級友八名の氏名が記されています。 其の冊子には日付山名のみ記載され空白の多いものから図入りの詳細な記録まで、 十七歳から二十八歳までは頻繁に、結婚後は年に数度、住宅購入後はローンの支払いに追われ数年に一度、 最後の頁は昭和五十七年八月八甲田山田茂萢岳、五十八年二月丹沢二の塔、六十年八月筑波山と三項目記されていました。 少々余裕が出てきた四十一歳の時は癌との遭遇で入院、大腸摘出手術そして七年間に及ぶ通院生活、時間と体力を失いました。 その間には再入院の危機があり、山登りは諦め、身回りの整理や山道具の殆どを廃棄し覚悟を決めた時期がありましたが、 私の青春が詰まった山日記と想いでの多い数枚の写真は処分出来ませんでした。 山歩き再開の切掛けとなったのは昭和六十年の筑波山から十三年経過した平成十年夏の那須家族旅行でした。 旅行疲れの両親を保養所に残し、親子三人で那須見物、清涼感と好天に浮かれロープウェイで那須岳中腹の山頂駅へ、 周辺散歩で戻る予定が、頂上まで登りたいと幼稚園児の娘にせがまれ、仕方なく標高1915mの那須茶臼岳(なすちゃうすだけ)に登ることにしました。 当時わたしは五十一歳、しかし最寄り駅まで徒歩20分が辛い体力年齢は後期高齢者並み、でも親馬鹿振りを発揮し頑張りました。 頂上までは滑りやすい砂地と浮き石の多いガレ場、大股で歩く娘は上手に登れません。 私の脳裏に山好きだった若い頃が蘇ってきました。 浮石の見分け方、ガレ場の歩き方、落石の危険性など、いつの間にか娘に山のことを説明している自分は陶酔状態でした。 此の那須茶臼岳が我が家の山歩きの始まり、そして毎年出かけるようになりました。 成長と共に低山歩きでは物足りなくなった娘は富士登山を口にするようになりましたが、 私の体力では低山歩きが精一杯、首を縦に振ることは出来ませんでした。 二十八年振りの単独行・大岳山(おおだけさん)2003年(平成15年)8月23日
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富士山剣ケ峯2003年(平成15年)8月29・30日
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乗鞍岳(のりくらだけ)と木曾御嶽山(きそおんたけさん)2003年(平成15年)9月14・15日
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立山(たてやま)と黒部ダム2004年(平成16年)9月11日 松戸市には毎年“サマーナイトウォーク”という催し物があります。
読んで字の如く夏の夜中に山手線一周の距離35km歩く行事です。
約5kmごとに休息所を兼ねたポイントがあり、中止を申し立てると搬送車で出発地まで送ってくれます。
私は四年前の七月、第七回大会に参加、25km地点で終了(キブアップ)すべき処、無理して完歩しました。
結果は“三十五粁完歩賞獲得”其の引き替えは疲労による左膝の古傷再発、
30分以上の歩行が困難、七〜八月の三千米登山は中止でした。 |
槍ヶ岳(やりがたけ)から南岳(みなみだけ)2005年(平成17年)7月
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10月の北岳2006年(平成18年)10月・還暦の年 今年の夏は私的諸事情により家を数日間空けることができませんでした。
日帰りの山歩きは物足りないと、私の中に住み着いている山登りの虫が騒いでいました。
秋風が吹く10月、漸く諸条件が満たされその機会が巡ってきました。
早速計画通り北アルプス穂高岳の山小屋に予約の電話を入れましたが、宿泊可能だが満員で予約は受けられないとの奇答。
気象条件の厳しい山では生命に関わることが多いので予約なしでも断られることはありませんが、
最盛期には畳1枚分で3人が交互に横になる酷い状態の時が現在でもあるとか、理解できます。
私は北アルプスより人気の少ない南アルプスに行先変更をしました。 |
再び富士登山2007年(平成19年)8月
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ミシュラン三つ星の山2007年(平成19年)11月21日
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丹沢山塊丹沢山(たんざわさん)2005年(平成17年)10月23日
還暦の年・大山(おおやま)2006年(平成18年)12月16日
雪の塔ノ岳(とうのだけ)2007年(平成19年)1月27日 関東地方に雪が降りました。インターネットの丹沢ライブカメラでは山々が白い帽子を被っていました。
私はいたたまれず、次の朝4時45分の始発電車に飛び乗りました。
代々木上原で小田急線に乗り換え渋沢駅へ、それからバスに揺られ登山口の大倉に到着、準備運動も適当に大倉尾根へ、
雪は花立山荘付近から、左右に切り立った巾30cmほどの馬ノ背付近は凍結し滑りやすい状態、軽アイゼンが欲しい所、
その様な準備のない私はストックと備え付けの鎖やロープを頼りにヘッピリ腰で通過しました。
いつも賑わう頂上は、一面の雪景色で人も疎ら、正面の富士山を独り占め出来そうな至高の時がありました。
下山も同じ大倉尾根、時間の経過と共に気温が上昇し雪も溶け始めました。
先ほど難所だった馬ノ背も難なく通過、花立山荘下の急坂からは泥道、滑りやすい登山道は大倉付近まで続きました。 平成二十年の初詣2008年(平成20年)1月1日例年正月は午前零時近所の神社に参拝し新年を迎えていました。 私は大晦日年越し蕎麦を啜りながら至高の初詣を思い浮かべていました。 今回は除夜の鐘を聞きながら山に登る、其れは私にとっての至高、只の思い付きでした。 急ぎパソコンで電車・バス・ケーブルの時刻表検索、21時34分の電車に乗れば其の事が可能、迷わず準備をしました。 ほろ酔い加減で最寄り駅到着、予定の電車は動き出すところで乗り遅れました。 此の時点で除夜の鐘を聞きながら山に登る事は不可能になりましたが、 片意地を張って山登りするのが私の信条、家に引き返す事もせず次の電車に乗りました。 代々木上原20分、伊勢原30分、大山ケーブル20分と乗り継ぎ時間が多く、 大山阿夫利神社下社に着いたのは午前零時を廻っていました。 神域の初詣客は疎ら、登山者も僅か、物淋しい正月風景でした。 ヘッドランプの明かりを頼りに寒風の吹き荒ぶ中、急な石段を一人で登り始めました。 前後に登山者の居ない闇、過去何度と無く歩いている同じ山道も時間の経過が遅く感じる深夜の山登りでした。 偶に人に会う嬉しさ、「おめでとうございます」の挨拶は一年に一度の登山者同士のご賀礼です。 元旦の山頂は満員御礼札止めだ、と聞かされていた私は登山者の少なさに驚きました。 寝袋に包まり「寒い!サムイ!」と日の出を待っていた三人の若者が印象的でした。 此の場所に留まり日の出を待つ準備のない私は、扉の閉まった上社に新年の挨拶を済ませ下山しました。 新しい年を迎える初日の出は帰宅途中の車中でした。 大山から鶴巻温泉へ2010年(平成22年)10月2日今年最初の山登りは試行錯誤の末、親しみ深い神奈川県丹沢山系に決めました。 八月、小田急線秦野駅からヤビツ峠までバスを利用、富士見山荘を経て菩提峠・岳ノ台と写真を撮りながら回り、 ヤビツ峠で一息入れてイタツミ尾根から大山山頂へ、下山は日向薬師に降りました。 二回目は奥多摩の大岳山、此処は七年前数十年振りに単独登山を再開した山です。 三回目はまたも大山、若い頃頻繁に訪れていた丹沢山系は私のホームグランドと呼びたい山々です。 早朝のヤビツ峠行きバスは中高年の登山者で満杯でした。 前回同様イタツミ尾根から山頂へ、下山路は表参道から浅間山、高取山、念仏山、善波峠、吾妻山 そして鶴巻温泉駅までのロングコースを計画しました。 相変わず表参道は若者達が多く渋滞中、特に山ガールと呼ばれる山用スカートにボーダー柄のレギンス、 ショーウィンドーから抜け出したような派手な蛍光色等の女子、主にカップルのようです。 山ボーイという言葉は無いようですがレギンス男子もかなり目立つ服装、最近流行のパワースポット巡りなのでしょうか。 パワースポットとは地球に点在する特別な場、エネルギースポット、気場ともいい疑似科学の一種だそうです。 ブームに乗って神仏への畏敬の念を持たずにスタンプラリーのようにパワースポット巡りをする行いについては批判も多いようです。 日本の殆どの山は神域のようです。喪に服していた私は一年数ヶ月山歩きを中断していました。 表尾根を過ぎ、浅間山から鶴巻温泉へ向かうコースは行き交う人も疎らでしたが、善波峠は弘法山ハイキングコースとの交差点、 大勢のハイカーで賑わっていました。 秦野駅から鶴巻温泉駅への弘法山ハイキングコースは某社イベントで親子三人が歩いた思い出のコース、十年前のことでした。 丹沢山塊の南端・高松山(たかまつやま)2011年(平成23年)2月5日
丹沢山塊の東端・高取山・仏果山・経ヶ岳
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秀麗富嶽十二景 秀麗富嶽十二景(しゅうれいふがくじゅうにけい)は富士山を望む優れた景観がある場所として、
山梨県大月市が1992年に定めた12山域19峰だそうです。
大月市から見える富士山は三ツ峠山等の山々によって裾野が隠れ、
十二単を身につけているように見えるとして12という数字を使用、
選定は大月市出身の山岳写真家白籏史朗氏を中心に行われたといいます。
また大月市主催による秀麗富嶽十二景写真コンテストが毎年開催されているとか。 八番山頂 岩殿山(いわどのさん)2010年(平成22年)11月21日
六番山頂 扇山(おおぎやま) 七番山頂 百蔵山(ももくらやま)2010年(平成22年)12月5日
十一番山頂 高川山(たかがわやま)2010年(平成22年)12月19日
九番山頂 高畑山(たかはたやま)倉岳山(くらたけやま)2011年(平成23年)1月15日
十番山頂 九鬼山(くきさん)2011年(平成23年)1月29日
十二番山頂 本社ケ丸(ほんじゃがまる) 清八山(せいはちやま)2011年(平成23年)7月24日富士急行河口湖駅から天下茶屋行きのバスに乗車、三ツ峠登山口で私を含め20名程の登山者が下車しました。 私以外の登山者は皆三ツ峠山へ向かいました。私は一人寂しく清八林道から清八山を目指し歩き始めました。 山麓から湧き上がるガス(濃い霧)で展望の無い林道歩き、鶯をはじめとする野鳥の鳴き声は木々の間から清涼感をもたらしてくれます。 林道から山道へ、視界の悪い山歩きは不安なもの、地図と磁石をザックから取り出し方位を確かめながら慎重に進みました。 清八山、本社ケ丸、共に白一色の世界、心地よい涼気、其れ以外の感想はありません。 角研山から笹子駅までの下山路は案内板が少なく、草で踏み跡が不明瞭、地図磁石頼りの山歩くは数十年振りでした。 中央本線笹子駅は無人駅、今朝購入した一日フリーのホリデーパスがあるのでキセルも可能でしたが、 山歩きは〆が肝心、大月駅までの230円の乗車券を券売機で購入しました。 この日、山で出会った人僅か5名、笹子駅乗車人数6名で登山者は私一人でした。 大月駅で乗り換えると、私とは対照的な7〜8名の登山者グループが車内で酒盛りを始めました。 私は車内での酒臭い体臭が嫌いなので、家まで好きな酒類は我慢します。 しかし、この日は彼らの仲間入りしたい気分でした。 秀麗富嶽十二景・2010年(平成22年)〜2018年(平成30年) 昭文社山と高原地図を広げ、登った山名を赤丸で囲むこと、好きです。ここ数年は地図24大菩薩嶺を広げることが多くなり、赤丸も増えてきました。
5月17日金山鉱泉から姥子山と雁ケ腹摺山、6月3日やまと天目山温泉から大蔵高丸と破魔射場丸、
その結果、秀麗富嶽十二景(12山域19峰)八年目にして完登出来ました。 |
富士展望の山金時山(きんときさん・きんときやま)2011年(平成23年)3月6日
矢倉岳(やぐらだけ)と足柄古道2011年(平成23年)5月15日
大菩薩嶺(だいぼさつれい)2011年(平成23年)8月28日
富士展望の山々を意識し始めたのは近年のこと、2010年11月山梨県大月市の岩殿山以降でした。 富士山を望む景観地は麗富嶽十二景を始め有名無名多数あるようです。 私にとって富士展望の山々を歩く楽しみの一つが写真撮影です。 写真に対する拘りでカメラをコンパクトカメラから一眼レフに変更、ザックが一回り大きくなりました。 |
奥穂高岳(おくほたかだけ)涸沢岳(からさわだけ)2011年(平成23年)9月17日〜19日
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