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私の山日記

 保存状態が悪く色褪せた私の山日記、最初の頁には昭和三十九年七月五日乾徳山登山曇りと級友八名の氏名が記されています。 其の冊子には日付山名のみ記載され空白の多いものから図入りの詳細な記録まで、 十七歳から二十八歳までは頻繁に、結婚後は年に数度、住宅購入後はローンの支払いに追われ数年に一度、 最後の頁は昭和五十七年八月八甲田山田茂萢岳、五十八年二月丹沢二の塔、六十年八月筑波山と三項目記されていました。 少々余裕が出てきた四十一歳の時は癌との遭遇で入院、大腸摘出手術そして七年間に及ぶ通院生活、時間と体力を失いました。 その間には再入院の危機があり、山登りは諦め、身回りの整理や山道具の殆どを廃棄し覚悟を決めた時期がありましたが、 私の青春が詰まった山日記と想いでの多い数枚の写真は処分出来ませんでした。 山歩き再開の切掛けとなったのは昭和六十年の筑波山から十三年経過した平成十年夏の那須家族旅行でした。 旅行疲れの両親を保養所に残し、親子三人で那須見物、清涼感と好天に浮かれロープウェイで那須岳中腹の山頂駅へ、 周辺散歩で戻る予定が、頂上まで登りたいと幼稚園児の娘にせがまれ、仕方なく標高1915mの那須茶臼岳(なすちゃうすだけ)に登ることにしました。 当時わたしは五十一歳、しかし最寄り駅まで徒歩20分が辛い体力年齢は後期高齢者並み、でも親馬鹿振りを発揮し頑張りました。 頂上までは滑りやすい砂地と浮き石の多いガレ場、大股で歩く娘は上手に登れません。 私の脳裏に山好きだった若い頃が蘇ってきました。 浮石の見分け方、ガレ場の歩き方、落石の危険性など、いつの間にか娘に山のことを説明している自分は陶酔状態でした。 此の那須茶臼岳が我が家の山歩きの始まり、そして毎年出かけるようになりました。 成長と共に低山歩きでは物足りなくなった娘は富士登山を口にするようになりましたが、 私の体力では低山歩きが精一杯、首を縦に振ることは出来ませんでした。

二十八年振りの単独行・大岳山(おおだけさん)

2003年(平成15年)8月23日

大岳山  那須茶臼岳から五年が経過、平成十五年夏のこと、 体力も年相応人並みに回復した私は革製の軽登山靴を購入し意気込んで富士登山宣言、 しかし高校受験の娘は『疲れることは嫌だ』と予想通りのつれない返事、親離れの始まりでした。 新品の山靴で富士山に登ることに一抹の不安があった私は足慣らしの山歩きを予定しました。 始発電車に乗り新宿経由で青梅線御岳駅下車、バス・ケーブルと乗り継ぎ参道を御岳神社へ、 其所からは登山道を大岳山(おおだけさん)山頂を目指しました。 好天の頂上からはうっすらと富士山が、来週の好天を願いつつ愛宕山から奥多摩駅へ降りました。 奥多摩大岳山(おおだけさん)は標高1266.5m、行程5時間20分で標高差927m、暑い夏は避けるべき山でした。 山日記によると最後の単独行は昭和四十六年八月中央アルプス空木岳、実に二十八年振りでした。

 
 
 

 富士山剣ケ峯 

2003年(平成15年)8月29・30日

富士山  八月二十九日朝、私は新宿発7時45分発の中央高速バスに乗り込み富士山河口湖口五合目に向かいました。 バス到着後は教科書通りに身体を慣らすため十分休息をとり出発、ダケカンバの広い道を進みました。 六合目の安全指導センターでは、若い警察官に呼び止められ『注意して登るように』と富士登山注意書きを手渡され、 七合目付近では、下山中の中年女性から『頂上付近は強風なので中止するよう』窘められました。 私自身に原因があるようです。普段着のジャンバーとズボン、旅行用ザック、 山用品の山靴とステッキは新品、どこから見ても単独行の初心者・中高年遭難者予備軍でした。 御来光 標高2300mの五合目から2700m七合目位までは比較的順調でしたが、 その後、頭痛、吐き気、手のむくみなど高山病の初期症状が出て鈍足になり、 ようやく今晩予約の宿、元祖室(がんそむろ)という名の山小屋に到着したのは15時でした。 羽毛服の小屋番が迎い入れてくれた室内はストーブが焚かれ外気温の低さを物語っています。 夕飯は紙容器の盛られたカレーライス一杯とほうじ茶のみ、水は貴重品だと感じました。 薄暗い部屋と湿った寝具、今も昔も山小屋は同じ、進化したのはトイレくらいでした。
 八月三十日未明、頂上で御来光を迎える早立ちの登山者で小屋が騒がしくなりました。 一人布団の中というわけにもいかず標高3250mの山小屋を午前3時に立ちました。 しかし昨日と同じ相変わらずのスロ−ペース、日の出の5時15分は九合目半で迎えました。 登山者は皆立ち止まり日の出と共に拍手と歓声、心に残る感動的な瞬間でした。 辺りは視界が開け、雲海からの金色に輝く陽光は冷えた私の身体を温め元気を与えてくれました。 一頑張りで今日の目標だった頂上の久須志神社3710mに到着、 荒々しい火口を隔てた測候所のある剣ケ峯は3776m富士山の最高峰です。 現在の時刻は朝8時、計算上11時までに此の場所に戻れば16時発のバスに乗れるはず、 しばしの休息で体調もまずまず回復、欲を出して富士山の火口を一周するお鉢めぐりに挑戦、右廻りに剣ケ峯に向かいました。 あいにく剣ケ峯は薄曇り、視界は開けず遠望を楽しむことは出来ませんでした。 気温は摂氏5℃、石段に腰掛け日向ぼっこ、いつの間にかの居眠り、私には快適なひとときでした。 剣ケ峯からは成就岳、伊豆岳を上り下りして久須志神社戻り、五合目への下山にかかりました。 降るにつれ、天候は悪化、視界が悪く小雨模様、しかし下山路は膝腰に負担が少ない火山灰地、 ステッキを使い小走りで比較的快調に降れました。 霧雨の3000m付近で小休止、山小屋で頂いた弁当を広げると“ヒートパックの牛丼” 炊事道具を持たない私は冷え切ったご飯を半分食べ、残りは持ち帰りました。 六合目付近からは雨の降った様子もなく好天、気分良く五合目に到着することができました。 五合目バスターミナルで14時発のバスに空席があったので予約変更、 発車までの10分間、大急ぎで娘への土産物と自分用の飲物を購入しバスに飛び乗りました。 三千米登山は二十四年振り、昭和五十四年夫婦で登った南アルプス仙丈ヶ岳以来でした。

 
 
 

 乗鞍岳(のりくらだけ)と木曾御嶽山(きそおんたけさん) 

2003年(平成15年)9月14・15日

乗鞍岳畳平方面  長年の夢だった三千米への復活、私にとっては予想外の出来事、欲が出てきました。 九月十四日未明、愛車を信州に向け走らせました。 以前観光旅行で乗鞍岳畳平まで車で入ったことがありましたが、今年からは自然保護のため、一般車両の通行禁止、 乗鞍高原無料駐車場に車を止め、シャトルバスに乗り換えなければなりませんでした。 始発バスは朝6時、標高2700mの畳平まで1時間、 バスの車窓から望む乗鞍の雄大な大自然は未明からの運転の疲れを癒してくれました。 山の天気は替わりやすいもの、乗鞍高原からバスの終点畳平付近までは好天でしたが、ここ畳平は横殴りの霧雨が降っていました。 雨具を付けようか否か迷う雨量、愛車に戻れば着替えがあるので防風着にしました。 乗鞍岳は3026mの高山ですが畳平から剣が峰までは標高差300m強、登りやすい山です。 この日は温度が低く雨模様、スカート姿で登ってくる観光客はいませんでした 。乗鞍岳山頂 山頂にある祠の前での記念撮影は順番待ちの状態、十代から七十歳代まで幅広い登山者で溢れかえっていました。 付近に腰を降ろし、のんびりと時間を過ごすつもりでしたが、 視界の悪い山頂では長居は無用、畳平へ引き返しそのままバスで愛車の待つ乗鞍高原へ降りました。 午前11時、早めの昼食はバスターミナルにある食堂で地元の美味しい信州蕎麦を戴きました。
 乗鞍高原からは地図を頼りに運転、梓湖へ降り、野麦街道を南下、 木曽福島経由で木曾御嶽山七合目標高2100mの田ノ原へ移動、2時間30分の運転でした。 午後2時、田ノ原無料駐車場は100台以上の車で混雑、駐車場所を探すのに一苦労しましたが、 時間の経過と共に車の数が減少、夕方まで残ったのは30台前後、皆夕食の支度をしていました。 出発前から田の原山荘宿泊か、車中一泊か、決めかねていました。 駐車場隣の山荘売店まで偵察を兼ね飲み物を買いに行きましたが、 人影が少なく活気のない室内、ビールを購入しそのまま愛車に戻りました。 最近は車で宿泊し山に登る登山者が多いと聞きました。 中にはキャンプ気分でテントを設営、ターフの下でバーベキュを楽しんでいるグループもいました。 私は見晴らしの良い場所に愛車を移動し夕食の支度をしました。 献立は乗鞍岳頂上で食べる予定の冷えた御握り、熱いカップ麺、焼きそば、バナナ、 それにビール、食べ過ぎて十六時寝床。
朝の御嶽山  九月十五日、昨夜から今朝にかけて、寒さで何度も眼を覚ますことがありました。 車中泊まり用にオートキャンプ用の薄いシュラフ一枚用意、標高2100mの夜は予想以上に気温が低下、失敗でした。 3時起床予定が6時と大寝坊、外は昨日と違い快晴、絶好の登山日和、ガスコンロで湯を沸かしカップラーメンを食べ7時に出発しました。 愛車の窓から見える石の鳥居が登山道の始まり、平坦な道をしばらく歩くと大江権現、 付近からは樹林帯の中を行く階段状の登りが始まり、金剛童子という場所が森林限界、展望が開けると同時に暑さが増してきました。 木曾御嶽山は活火山、登山道の西側から水蒸気が立ちのぼり異臭がします。 昭和五十四年に火山活動(噴火)があり登山禁止の時期がしばらく続きました。 疲れが足に現れてきた頃、王滝頂上山荘に到着、今日は此処で一泊したい気持ち、 頑張って山荘横から石段を登ることに、山荘の上には石垣に囲まれた立派な神社がありました。 この山には山岳信仰に関する施設が多く点在、八月の盛期には手甲脚絆に白装束の集団で溢れるそうです。 王滝頂上から剣ヶ峰までの登りは比較的足場が悪い登山道、頂上山荘横から狭くて急な石段を登ったところが剣ヶ峰の頂上でした。 登山者も多く混雑、皆至福の時を過ごしていました。 御嶽山頂 山頂部は広大で、剣が峰、継子岳、継母岳などのピークと一の池から五の池まで五つの火口跡の池があるそうです。 頂上からは二の池と摩利支天山、遠くに昨日登った乗鞍岳、そして北アルプスを眺めることができました。 二日間の睡眠不足により体調は不十分、標高差約1000mを登るのは辛いもの、 好天の晴れ空に元気を戴いて木曾御嶽山剣ケ峰3063mの頂上に立てました。登りは辛く、降りは厳しい、そんな山登りでした。 田の原駐車場へ戻り一休み、着替えて帰路につきました。 中央高速道路は例のごとく小仏トンネルで大渋滞、松戸に着いたのは零時を廻っていました。

 
 
 

 立山(たてやま)と黒部ダム  

2004年(平成16年)9月11日

 松戸市には毎年“サマーナイトウォーク”という催し物があります。 読んで字の如く夏の夜中に山手線一周の距離35km歩く行事です。 約5kmごとに休息所を兼ねたポイントがあり、中止を申し立てると搬送車で出発地まで送ってくれます。 私は四年前の七月、第七回大会に参加、25km地点で終了(キブアップ)すべき処、無理して完歩しました。 結果は“三十五粁完歩賞獲得”其の引き替えは疲労による左膝の古傷再発、 30分以上の歩行が困難、七〜八月の三千米登山は中止でした。
立山  大型台風十八号が去った九月九日の天気図は関東南岸に前線が停滞、富山県地方の降水確率は四割、山は荒れ模様、 登山には不向き、しかし予定通り翌十日、準備を整え20時30分家を出ました。 22時30分発室堂行きバスの集合場所は都庁大型バス駐車場、新宿駅西口から500m程歩いた所でした。 九月なので登山者は少なく、バスは定員の半分以下、一人で二席確保でき変則的な姿勢で横になりました。 アイマスクを付け即睡眠のベテラン登山者、お弁当を広げる旅行者、缶ビールを開ける団体さん、 何時間も喋り続ける迷惑さん、バスの乗客は様々です。 “さわやか信州号”と名付けられたこの夜行バスは練馬から高速道路で更埴へ、その後深夜の一般道、 糸魚川から立山インターまで再び高速道を走りました。「高速代を節約しているみたい」とヒソヒソ話が聞こえてきました。 途中何回かの休憩の後、終点の室堂バスターミナルに着いたのは翌朝7時頃でした。 室堂は標高2450m、目前の立山連峰や剣岳は雲が厚く姿を顕しません。 気温は低く長袖のシャツだけでは肌寒く、雨が先ほどまで降っていたようで地面は濡れて滑りやすい状態でした。 “普段着で山に登ると観光客と間違えられ咎められること”昨年の富士登山での教訓です。 四十五歳の時、再入院を通告され、山道具を含めた身の回り品の整理を行ったため、登山用品は殆ど残されていません。 登山者らしい雰囲気を出そうと、市販のズボンを短く切り、昔風なニッカポッカを作りました。 四年前に他界した父の趣味は庭いじり、その時使用していた衣類は、私が若い時着用の冬山用ヤッケ上下、 ナイロン製で二重、下はペンキ汚れや穴が開き使用不能でしたが、上は少々の油汚れ程度、汚れを落とし今回持参しました。 私は其の想いで多き三十年前のヤッケに身を包みバスターミナルを出発しました。 歩きだして30分、雲が少しずつ切れ始め、気温も上がり肌が汗ばみ出しました。 祓堂(はらいどう)からジクザクの坂を登りきったところが一ノ越山荘のある一ノ越、 ここで五色ヶ原方面に向かう方々と別れを告げ私は立山の登りにかかりました。 一ノ越からは風が強く視界も悪くなり数メートル先がようやくです。 赤ペンキのサインを目印にコースを外さぬように登りました。 また浮き石が多く足場の悪いので落石に注意しながら慎重に登りました。 大汝山(おおなんじやま) 登り切ったところが立山神社のある雄山(おやま)3003m、大勢の登山者が休息中でした。 今回私の目標は立山の最高峰、大汝山(おおなんじやま)3015mなので先を急ぎました。 雄山からは登り降りの稜線をしばらく行ったところが大汝山でした。 頂上は私一人、視界も悪くしばらく寂しい時間を過ごしました。 待つこと20分、ようやく最初の登山者が現れ、コンパクト・デジタルカメラのシャッターを押して頂きました。 その後は次から次へと登山者が到着、狭い頂上は一杯になりました。 その頃には厚い雲に覆われていた頂上が足下から徐々に視界が開けるようになり、 眼下1500mに鮮やかな翠玉の黒部湖が姿を現わしました。 黒部湖対岸の針ノ木岳や名峰鹿島槍ヶ岳、五竜岳の登場を待ちましたがですが雲が切れず残念でした。 一年ぶりの三千米を堪能した私は先ほど通り過ぎた立山雄山神社に戻りました。 立山雄山 立山は、富士山、白山と並ぶ日本三大霊峰の一つだそうです。 たたみ十畳ほどの広さの所に1996年、136年ぶりに建て替えられた立山頂上雄山神社の峯本社があります。 峯本社で祝詞を受け、神酒を戴き、おまけに神主様と記念撮影までしました。 雄山からの下山中、浮き石に足を取られ尻餅一回、盃一杯の神酒で酔うはずが無く、 多分気の緩み油だったのでしょうか、幸い怪我はありませんでした。 朝は天候が悪く通りすぎてしまった立山開山伝説の残る場所“玉殿の岩屋”や日本最古の山小屋“室堂山荘”はバスターミナルの すぐ近くでした。 帰りのお楽しみは黒部アルペンルートを扇沢までの観光です。 大多数の観光客に混じりながら室堂からトロリーバスで大観峰駅に、 立山ロープウェイに乗換え黒部平駅へ、次は黒部ケーブルカーに乗車、到着した所が黒部湖駅、有名な黒部ダムでした。 左岸にある黒部湖駅から右岸にある黒部ダム駅まではダム上部の歩道を歩きます。 右手の黒部湖は数時間前に大汝山から眺めたのと同じ翠玉色の湖、 左側は186mという日本一の高さを誇る巨大な建造物・黒部ダム、大迫力の放水を上から眺めることが出来ました。 このダムは1986年から7年の歳月を経て完成、其の物語の映画化が石原裕次郎主演“黒部の太陽”でした。 黒部ダム駅はトンネルの中をしばらく進んだところ、扇沢駅行きのトロリーバスに乗りました。 予約バスの発車時間までは、土産物の物色と遅めの昼食で暇潰し、アルコールはナシ、でした。 新宿に戻ったのは夜8時、立山登山と黒部アルペンルートを楽しんだ夜行日帰りの旅でした。

 
 
 

 槍ヶ岳(やりがたけ)から南岳(みなみだけ)  

2005年(平成17年)7月

槍沢  高山植物咲き乱れる槍沢を今私は汗を流しています。 脚を止め先方を見上げるとそこには日本のマッターホルン槍ヶ岳3180mが、 好天の青空に大きく映し出され気持ちの高鳴りを憶えます。 槍ヶ岳3180m 今晩は目前の殺生ヒュッテ泊まり、明日は槍ヶ岳の頂上へ、そして南岳まで縦走しその日は南岳小屋泊まり、 それから難所の大キレットを越え穂高の山々を楽しもうというのんびりした計画でした。 しかしながら上空の雲は明日の悪天候を予感させます。予定を繰り上げて槍ヶ岳を目指しました。 槍ヶ岳の肩にある槍ヶ岳山荘から頂上までは往復一時間の行程、山荘にザックを置いて空身で登りました。 梯子と鎖の付いた岩場は当初緊張しましたが昔取った何とやら、三点支持は身体が覚えていたので、気分良く頂上へ、 記念撮影を済ませ、ザックの置いてある山荘に戻り昼食、今朝槍沢ヒュッテで戴いた美味しいお弁当を食べました。 そして先に進みしました。槍ヶ岳から大喰岳3101m中岳3084m南岳3032mの縦走路は快晴、 進行方向には穂高の峰々、遠くに木曽御岳や乗鞍岳、振り返ると槍ヶ岳、特上の3000m雲上散歩でした。
雲上散歩  窓ガラスに雨が強く叩きつける音で夜中に何度も眼を覚ましました。 此所は標高3000mにある南岳小屋、辺りが明るくなっても風は止まず、私は昨日の疲れがとれないまま朝を迎えてしまいました。 客は私を含め十一名、空いているので熟睡できると思っていたのですが…。 午前5時30分、朝食時の食堂は何となく緊迫した雰囲気で皆、言葉少なく元気を感じません。悪天候の性でしょうか。 食事を終え、身支度を調えてから外に出ると昨日とは違い穂高の山々を遠望することはできません。 飛騨側からの湿った強風は私の眼鏡に水滴をもたらします。 雨具を装着し大キレットから北穂を目指す人、停滞しようか迷っている人、いろいろです。 大キレットは梯子あり鎖ありの北アルプス有数の難所で事故も毎年あります。 私は夜中、布団の中で停滞か下山かと迷っていました。其れは出発前から悪天候時はキレット越えは中止、と決めていたからです。 今年は例年になく太平洋高気圧が弱いのでこの悪天候は数日続くような気がしました。 近年、梅雨明け十日という言葉は存在しないように思います。 出発の日も大変でした。台風の接近で夜行バスの運行が危ぶまれたからです。 とりあえず新宿のバスターミナルまでと、台風通過直後の午後八時家を出ました。 幸いにもJRの運休はなく無事新宿に到着、バスも予定通りの発車でした。 土砂崩れで通行止めの沢渡を迂回し、当初の予定より一時間遅れの午前7時上高地到着でした。 上高地は雲が垂れ下がり温度が低く雨、今回の山行きを象徴しているかのようでした。 天候の悪いときは山小屋で好天を待ち槍ヶ岳だけでも登ろうと思い上高地を発ちました。 そのようなことを考えると昨日の好天はとても幸運だったように思えました。 目前の北穂高岳までは長谷川ピーク・飛騨泣きという難所がある水平距離1km、標高差250mを降り、350m登る3〜4時間の行程、 穂高を目前にし、このまま退却するのはとても辛いこと、昨日の疲労取れないので下山する事が正しい選択だ、 と自分に言い聞かせ小屋を後にしました
穂高の山々  南岳小屋から南岳へは風雨が強く視界は2〜3m、コースを外さないよう慎重に登りました。 南岳と中岳の中間点にある天狗原への下山道は昨日の通過地点、視界が悪くても難なく探せました。 下降地点からは鎖や梯子の多い急な岩綾、浮石に注意しながら一気に横尾尾根のコルへ、 其所から岩塊群を降ると雪渓のある氷河公園と呼ばれる天狗原に到着、残雪と霧は風景の色を消し無彩色の世界、 カールの底の圧迫感、冷たい静けさの雪渓には私一人、恐竜の生息した太古世界に足を踏み入れたような感覚を覚えました。 昨日槍沢の雪渓を小気味よい速さで降って来る若者を見ました。 安定感のある足裁きは山靴に滑り止めを付けていた事、今の私は其れを持ち合わせていません。 ザックの脇に付けてあるストック二本を両手に、氷上化した幾つもの雪渓を慎重に下降や横断しました。 天狗池は半分埋雪、本来ならば逆さになった槍ヶ岳が池に映し出される槍ヶ岳遠望の一等地です。 若い頃の夢、其の一つが此所にテントを張り、槍ヶ岳を眺めることでしたが、現在は自然保護のため幕営は禁止されています。 天狗池からはツバメ岩のガレ場を横断し槍沢へ、その頃には視界も回復、500m位先の天狗原分岐から、 こちらへ登ってくる6・7人の集団を確認することができました。 私はその先にある、凍結した急斜面の雪渓を渡りきった時、一人の女性登山者が現れ『上はどうですか?』と声をかけてきました。 先ほどの集団から一人抜けだし、かなりの速さで息も切らずの登ってきたこの女性、どこか見覚えのある顔ですが思い出せません。 後日、山の雑誌の中に天狗原槍沢間ですれ違った女性登山者の顔を見つけました。 女性世界初のエベレスト登頂及び女性で世界初の七大陸最高峰登頂者、田部井淳子さんでした。 田部井さんは私より七歳年上、あの速さで登っても汗もかかず、息切れもせず、其の体力は目から鱗でした。 槍沢を横切り、天狗原分岐を昨日登ってきた槍沢沿いに降りました。 一昨日宿泊した谷合の槍沢ヒュッテで一休み、其所では男性従業員がヘルメットを着用し、 ヘリコプターでの荷揚げ受取り準備中でした。 昨日は槍ヶ岳山荘の荷揚げを槍沢途中で下から見上げました。 今日は近くで荷揚げの見学と興味津々の私、暫くすると谷間に荷物を吊り下げた大音響のヘリコプターが登場、 上空で停止と同時に網に包まれた荷物が降下、数人の従業員が慎重に金具を外し、 用意されていた空き缶などの廃棄物の入った網に取り付けると、ヘリコプターは素早く吊り上げ旋回して退場、 見応えのある山の出来事でした。

 
 
 

 10月の北岳 

2006年(平成18年)10月・還暦の年 

 今年の夏は私的諸事情により家を数日間空けることができませんでした。 日帰りの山歩きは物足りないと、私の中に住み着いている山登りの虫が騒いでいました。 秋風が吹く10月、漸く諸条件が満たされその機会が巡ってきました。 早速計画通り北アルプス穂高岳の山小屋に予約の電話を入れましたが、宿泊可能だが満員で予約は受けられないとの奇答。 気象条件の厳しい山では生命に関わることが多いので予約なしでも断られることはありませんが、 最盛期には畳1枚分で3人が交互に横になる酷い状態の時が現在でもあるとか、理解できます。 私は北アルプスより人気の少ない南アルプスに行先変更をしました。
北岳  私たちが若かった昭和40年代、土曜日の新宿駅23時55分発長野行きは山岳夜行列車と呼ばれ、 登山者で超満員、座席に座れることはまれ、ほとんど通路で仮眠を取っていました。 全ての駅に停まりながらのんびり走るこの鈍行列車は中央線沿線、山登りの定番でした。 時と共にこの松本経由長野行きの鈍行夜行列車も松本止りの臨時列車になり、 そして国鉄末期には上諏訪止まり、いつしか消えていったといいます。 平成14年12月ダイヤ改正で登場したのが臨時快速「ムーンライト信州」です。 形態は違いますが現在は運転されていない山岳夜行列車の復刻版だと思いまいた。 この列車は全車座席指定、出発当日にJRみどりの窓口で指定席券を手に入れました。 その夜、私は新宿23時54分発ムーンライト信州81号白馬行の乗客になりました。 座席は旧特急車輌使用なのでリクライニング、夜行バスよりも座席が広く快適でした。 この夜行列車は各駅停車ではありませんが、大月や塩山などの想いで多き駅に停車、 車窓からの街の灯りは青春時代の郷愁に満ちあふれていました。 新宿から甲府までは2時間と20分、私にとっては短い山岳夜行列車の旅でした。
八本歯  肌寒い甲府駅構内と駅周辺のベンチには寝袋の中で仮眠を取っている登山者で溢れていました。 寝袋を持たない私は広河原行きのバス停に順番取りのザックを置き周辺を散策、 24時間営業の丼屋で豚丼とけんちん汁の夜食、コンビニでは朝食用のサンドイッチを購入、 そして花壇の隅に腰掛け温かい缶入りコーヒーを飲みバスの到着を待ちました。 始発時間が近づくと続々と登山者が現れ、バス会社係員のバス増発要求の緊迫した無線を耳にしました。 当初「広河原までは全員座って行けますよ」と話していた係員は一人でも多くバスに詰め込むのに必死でした。 私の順番は前から10番目、楽に座れましたが、出発時間寸前乗車の人は到着までの2時間10分辛かったと思います。
 朝6時、日差しのない標高1520m谷合の広河原は今にも雪が降り出しそうな底冷え、 ベンチに座り朝食をとる気にはなれませんでした。 休憩もせず身体が温まるまでと白い息を吐きながら、大樺沢を歩き始めました。 3時間近く歩いた頃、谷間は開け朝の温かい光に照らしだされたところが標高2220mの二股でした。 私は出発前から迷っていたことがありました。この二股から直接小屋に向かい明日北岳に登るコース、 もう一つは今日登頂後小屋に入るコース、日だまりの岩に腰掛けサンドイッチを食べながらじっくり考えました。 今、夜行の疲れを感じていたならば即小屋へ直行、睡眠を多く取ることを考えたのですが、此所では元気でした。 二股から望む霧氷の付いた八本歯という難所や雪化粧した北岳山頂付近は雲の流れが速く風の強さを物語っています。 降水確率・温度・風速の予報は今日より明日の方が良好、登る条件としては良いのですが、 帰りの交通事情を考えると今日登り明日早めに下山が有利・・・一長一短悩みました。 思案の結果、私は八本歯のコルを目指し、北岳バットレスと呼ばれる山頂まで続く高さ600mの大岩壁や、 周辺の紅葉を楽しみながら大樺沢を登り始めました。 北岳山頂 当初は快調でしたが、急なコル(鞍部)の登りでは夜行の疲れで顎が出てきました。 (顎が出る=登りの時、急な道や重い荷物で疲れ呼吸が苦しくなり、顔が前に出た様子をいいます) コルから上部の梯子や鎖の付いた岩場は所々凍りつき、下からの強風や突風は予想通りに辛い物がありました。 疲労による体調不良で3000mの空気は薄く感じましたが、其れでも何とか頂上に立つことが出来ました。 37年前、北岳山頂の独標は3192mと書かれていましたが、今日の山頂表示板は3193mに変わっていました。 この山頂表示板の斜め後方に3192mの三等三角点があり以前の最高地点でしたが、 平成16年10月国土地理院は正面の少々高い岩盤上の地点を最高標高値と変更したそうです。 富士山や中部山岳の主な山々が一望できる山頂も、今は凍り付き、強風は体温を奪い、突風は身体の動きを妨げる、 そのような状態では景色を眺める余裕などなく他の登山者にコンパクト・デジタルカメラのシャッターを御願いするのが精一杯でした。 山頂では肩からザックも降ろさず早々に退散、眼下の肩ノ小屋に向かいました。
北岳山頂  予想通り小屋は混雑していました。そして人の数だけ話題も豊富でした。 「疲労のため八本歯付近で動けなくなった登山者が北岳山荘に運ばれたが、この強風ではヘリコプターでの収容は無理だ」とか、 「今日の始発バスは甲府駅と芦安駐車場合わせ27台だった」とか、いろいろの話が耳に入りました。 夕食は午後5時、大盛御飯と塩辛い味噌汁、そして少量のおかず、南アルプスの山小屋らしい夕食でした。 夜八時消灯、本来ならば夜行による睡眠不足で今夜は爆睡なのですが、 身体を横にするだけの一人分の狭い寝床は巾45cm、寝返りにも苦労しました。 眠りが浅く夜中時々眼を覚まし、早く夜が明けないものかと腕時計の時刻を確かめていました。 4時を過ぎた頃、ケータイの目覚まし音が部屋の彼方此方から、 そしてヘッドランプの明かりを頼りに身繕いしている様子が覗えました。 4時30分点灯、多くの登山者が日の出を観ようと部屋から出て行きましたが、私は疲労で身体が動きませんでした。 朝食を頂きザックを持って外に出たのが朝6時、風は止み、雲らしい雲も見あたらず、朝の光は温かく爽快でした。 朱色に染まった富士山が眼に飛び込んできました。其の隣には鳳凰三山や秩父の山々、 仙丈ケ岳の向こうが雪を被った北アルプスの峰々、信州伊那谷を挟んで中央アルプス、絶景でした。 標高3010m肩ノ小屋の上部が北岳山頂、此所からは標高差180m、登り50分、好天の山頂で遠望を楽しみたいと思うのですが、 早めの下山は連休の交通事情を考慮した選択、後ろ髪を引かれる思いで小屋を後にしました。 二股までは快調でしたが、広河原に近づくにつれ2日間の睡眠不足と疲労で膝が笑いだしてきました。 (膝が笑う=下山時、膝の疲労が原因で脚がガクガクし下半身が不安定な状態をいいます) 2本のストックに助けられ9時20分広河原バス停到着、菓子と飲み物を口に、シャツを着替えてからのんびりと日向ぼっこ。 バスの発車は10時30分ですが続々と登山者が集まり、乗客は忽ち100人を越えました。 北岳肩ノ小屋 発車時間40分前には用意されていた4台のバスに乗車、その後の乗客は満員のバスに押し込まれました。 次のバスは12時、午前中でこの様な状態では昼から夕方にかけて今以上の混雑、 予定通りの時刻に乗れない登山者が多く出るのでは思いました。 私の乗車したバスは定刻より少し遅れましたが、甲府駅では予定していた電車に乗ることができ、 夕食時までには帰宅、久々のビールは2日間の疲れを癒してくれました。
 〔後記〕標高3193mの北岳は富士山に続く日本で二番目の高峰、深田久弥著『日本百名山』では北岳を『哲人』と形容しています。 知識・学識が豊かで、すぐれた思想をもつ《哲人ソクラテス》の様な山だ!という意味でしょうか。 若い時四度挑戦し頂上に立てたのは1回のみ、今回の北岳も手強い山でした。 私が普段登っている丹沢大倉尾根は標高差1200m、今回の広河原・北岳間の標高差は1670m、 4割増しの標高差を克服出来たこと、幸運だったと思います。 雪を纏った北岳に寝不足と体調不良、悪条件にもかかわらず頂上に立てたのは、 山の神様が私にくれた還暦祝い、だったのかも知れません。本来ならば山麓で宿をかり体調を整え登るべき山でした。 此の10月の連休、北アルプスでは、多くの遭難者が出ました。私の登った南アルプスは多少気象条件が良かったようです。 亡くなられた方々のご冥福を祈りたいと思います。

 
 
 

 再び富士登山  

2007年(平成19年)8月

ご来光  『富士山に登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿』と地元静岡県吉田には昔からの言い伝えがあるそうです。 馬鹿とは良い表現ではありませんが多分、『一度は登りなさい。二度登ることはないよ』という意味かと想像します。 私は其の『二度登る馬鹿』になってみようと思いました。 八月二十五日新宿駅西口発中央高速バスの予約状態を前々日インターネットで確認したところ、夕方の予約は一便のみ可能でした。 当日料金を払い16時50分発のバスに乗り込むと、中は十代二十代の人がほとんど、爺は私だけで若者の熱気に圧倒されました。 ほとんどの人が金剛杖持参、焼き印の入った物、無垢の物、旗や鈴の付いたものなど様々でした。 若者達にとって富士登山は静かな流行のように思われました。 今は中高年が山登りの主役かと考えていましたが、多くの若者達が山を愛してくれることに感動を覚えました。 バスが動きだし、高速道路に入った頃、車内は照明が落とされ夜行バスの雰囲気、 しかし若い人たちの会話は留まることを知りませんでした。 私は周囲を気にせず安眠用のアイマスクと音楽の入ったアイポットを取り出し仮眠の準備をしました。 その時通路を挟んだ隣の席の小さなザックを膝に乗せていた青年が話しかけてきました。 フジサン・何回登リマシタカ?どんな山デスカ?泊まるトコロ有リマスカ?此のヨーフクで登レマスカ? と、辿々しい日本語で質問攻め、裕福な留学生に見えました。 膝上の小さなザックが気になったので、防寒具の有無を訪ねると、 バスの荷物室に別のザックがあるとのこと、日本以外の山も経験していると言うので安心しました。 周りの人々の耳が此方を向いていた様なので少し気になりましたが、その若者とは一時間ほど山の話をしました。
 車の横揺れと寒気で目覚めました。熟睡していたようです。バスは富士スバルラインを登っていました。 車窓から、薄暗い景色を呆然と眺めていると、いつの間にか終点の富士山河口湖五合目に到着しました。 時刻は19時10分、眠気が取れないままレストハウス前のベンチに座り持参のお握りと飲み物を口にしましたが、 私の身体は半睡眠状態、標高2300mの五合目は空気もさほど薄くないと思うのですが、 身体が拒否反応を起こしている様です。荷物をベンチに残し、暫し辺りを散策しました。 デジカメのシャッターを押してくれと小御岳神社前で呼び止められました。 私より五・六歳年上の男性、見覚えのある顔でした。 その人は以前来たときは富士吉田から登ったとか、私は四年前の八月末、小屋泊まりで登ったことを話すと、 私の顔を憶えていたのでしょうか、気のせいか顔の表情が変わりました。 その後どこと無く不味い空気が流れ、話が進むことはありませんでした。 頂上 四年前、其の男性と思われる人は、山岳ガイド同行だったので目立ちました。 速さが私とほぼ同じくらい、前後して登りました。休む所も一緒の時が多く、何時しか言葉を交わすようになりました。 その時、その人は上から下まで新品の登山用品を身につけていました。 ガイドは帽子代わりの白いヘルメット、袖に案内人組合の腕章を着けたラガーシャツ、 日ノ丸の付いた洗いざらしのハーフパンツは海外遠征隊荷揚げ用の支給品では無かろうかと想像しました。 その日は後になり先になり私の予約した山小屋付近まで続きました。 翌日遭ったのは一回だけ、下山途中の六合目烏帽子岩付近でした。そんな記憶がありました。
 大勢の登山者に混じり19時40分五合目を立ちました。 日の出までは10時間余り、寒い頂上で御来光を待つのは辛いので、時間調整しながら登ることにしました。 其の考えが大失敗に繋がりました。其処には大渋滞が待ち受けていたからです。 頂上に近づくにつれ登山道が狭まり、登山者同士の間隔も詰まり次第に渋滞、登れば登るほど人が多くなり、 脚を動かす時間より待ち時間の方が多く、私は自分の気力が薄らいでいくのを感じました。 本八合目付近、此の調子なら頂上で御来光を仰ぐのは不可能と諦め始めたとき、 トモエ館の前で「御来光は頂上で見ても、ココで見ても同じだヨ」と番頭さんの呼び込みが聞こえました。 其の喋りは、直に御来光が迎えられる、と勘違いする流暢な誘い、悪魔の囁き?でした。 少々自棄気味の私は、此所で日の出を見て下山しようと深々とベンチに腰を降ろしました。 かなりの時間の経過がありました。疾うに日の出時間は過ぎ、辺りは明るくなってきましたが、 水平線の雲は厚く、太陽は顔を出しません。手にしたデジカメを支える手は冷たく疲れ果てていました。 一瞬、僅かな雲間から日の光、シャターチャンスを逃しました。 また長い時間が経過、そして今度は堂々たる太陽の出現、直視できぬ純美でした。 小屋の番頭さん曰く「今日は良かったネェ〜御来光が二回見られて!」 日の出時間が遅くなったのは、水平線にある雲が原因、けして番頭さんの責任では無いのですが、 文句の一つも言いたい感じでした。この様な体験も山登りの楽しみの一つだと考え直し、 此処に腰を降ろしたのも何かの縁、その番頭さんにインスタントカップ麺を注文しました。 600円を手渡したとき「3分待ってくださいヨ」と強い口調、御来光の不満を麺に置き換える登山者がいるのだと思いました。 私は明けて往く眼下の峯々を眺めながら、温かい麺と汁をすすりました。 高所での温もりは、身体を温めるだけではなく、和らいだ気持ちに、次第に気力が充実し心身共に登山意欲が蘇ってきました。 その後、登山渋滞にもめげず、頂上に辿り着き、無事下山できたのは、 此の一杯のカップ麺お陰だったのでは、と思いました。

 
 
 

 ミシュラン三つ星の山 

2007年(平成19年)11月21日

高尾山頂上から  今日は朝寝坊してしまいました。 慌てて身繕いをし、電車に飛び乗り熟睡の続き、そして寝床から起き出すように終点高尾山駅のホームに降り立ちました。 表参道から山頂を目指す予定でしたが、陣馬山まで足を伸ばす為と自分に言い訳しつつ、ケーブルで山頂駅へ、 寝ぼけ眼で参道を進み、108段の男坂で身体がお目覚め、登り切った薬王院の紅葉は物足りず休憩も取らずに頂上へ進みました。 程なく高尾山頂、其所には雪化粧した富士山が私をお出迎え、 備え付けてある木製の長椅子に腰掛け御握りで遅めの朝食、副食は美しい富士山でした。 数年前、大混雑と大渋滞で腰を降ろす場所も無く嫌いになりかけていた高尾山でしたが、 此の日は平日、静かな山歩きに大満足出来ました。 山頂から城山、小仏峠、影信山、山王峠、陣馬山へと延びる稜線は、富士山の展望台が数多く随所に茶店が有りました。 なかでも山頂から少し降った楓の多い“もみじ台”は紅葉の最盛期、富士の雄大な姿との調和は圧巻でした。 陣馬山から和田峠へ降り、其処からは舗装された陣馬街道をバス停のある陣馬高原下へと歩きました。 今回の山歩きは高尾山から奥高尾へ、青空と富士と紅葉が印象的な晩秋の旅でした。
陣馬山頂上  三つ星レストランという用語で世界的に有名なミシュラン格付けガイドブックの東京版が今春発売され売り切れとか、 其れとは別に、お山にも三つ星が付けられたガイドブックの存在を知ったのは年の瀬でした。 今年発売されたミシュラン初の仏語版外国人向け日本旅行ガイド“ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン”では、 三ツ星観光地の山は二つ、富士山と並んで高尾山が選ばれていました。 今年は4年振りで富士山に、高尾山には6年振りに登りました。 此の二つのミシュラン三つ星の山を偶然登っていたこと、思い掛け無い満足感を得る事が出来ました。 (必ず見るべきだと評価された三つ星最高ランク観光地は、 知床、松島、日光、東京、富士山、高山、奈良、京都、姫路城、高尾山の十箇所です。 資料「MICHELIN Voyager Pratique Japon」2007)



 
 

丹沢山塊

丹沢山(たんざわさん)

2005年(平成17年)10月23日

丹沢山からの富士山  若い頃頻繁に訪れていた丹沢山系、主に沢登りが目的で丹沢山の頂上に立ったことがありませんでした。 今回は大倉尾根から塔ノ岳1491mそして丹沢山1567mへ、同じコースを往復します。 行程は8時間、疲れが少ない様に鈍足で登りました。 丹沢山で昼食を済ませた帰り道、塔ノ岳の登り付近で年配の単独登山者と擦れ違いました。 蛭ヶ岳今朝の温度、山荘の混み具合など質問を受けましたが、蛭ヶ岳は丹沢山より奥の山、 今朝大倉から登り丹沢山往復の私には答えられない質問でした。 丁寧に答えたのですが理解してもらえず、仕舞いには此の時間此所を歩いているのは可笑しい、 今朝大倉から登ってきたのは嘘だろうと言う始末、 それならば今朝新宿駅で購入した小田急電鉄発行の丹沢大山フリーパスを見せようと思いましたが、大人気ないこと、止めました。 後日考えたのですが私を嘘つき呼ばわりした登山者には、私の行動は想定外、 若者ならいざ知らず、爺の丹沢山日帰りは常識外だったようです。 その様な誤解を受けたこと、ちょっぴり嬉しくなった丹沢の逸話でした。


 還暦の年・大山(おおやま)  

2006年(平成18年)12月16日

大山  還暦は数え年六十一歳の呼び名、六十年で再び生まれた年の干支に還ることからだそうです。 私は昭和二十一年生まれ、平成十八年がその年にあたります。 還暦祝いは満六十歳の誕生日に行われることが多いとか、私の誕生日十一月三日文化の日、 その日に3000m山頂で還暦祝いを、などと無骨者の私にしてはお洒落な計画を立てました。 伊那側から入山し仙丈ヶ岳(せんじょうがたけ)に登る一泊二日の旅になる予定でした。 しかし諸事情により、やむなく中止、一生に一度の夢は儚く崩れ去り、後に残されたものは、 1/25000の地図と電車バス時刻表や行程時間等が書かれた計画表のみでした。
 その一ヶ月前の十月、北岳に登りました。 そのため大倉から塔ノ岳(とうのだけ)まで標高差1200mの大倉尾根を六回登りました。 塔ノ岳だけではなく、丹沢山往復、表尾根を縦走し蓑毛に下山など、 8時間くらいの行程を歩きました。またスクワットやジョキングなどのトレーニングも積み重ねていました。
 そして仙丈ヶ岳登山中止から二ヶ月、トレーニングもせず、山歩きもご無沙汰、当然筋力が落ちていました。 先日テレビの旅番組で見た神奈川県の大山(おおやま)は軽い山歩きなので、今の私には妥当な山だと思いました。 大山は四十二年前の夏、同僚のMとI三人で登った山、その時は友人のSからリックサックとキャラバンシューズを借用し、 夜中に蓑毛から大山に登り表尾根縦走し大倉に降りた、元気な十七歳の時でした。 今回は還暦の爺らしく大山ケーブルカーに乗車、 下社駅を降り、立派な石造りの階段を上り終えたところが大山阿夫利神社下社でした。 登山の安全を祈願し上社のある頂上へ、標高差550m、行程1時間20分の登りですが、 それ以上に時間を要し、脚が重く疲れました。 二ヶ月間の空白は身体の彼方此方を錆び付かせているように思えました。 頂上でのんびりと昼食をとり、下山はイタツミ尾根からヤビツ峠経由蓑毛まで2時間弱の降りでした。 還暦の年、最後の山歩きは大山でした。


 雪の塔ノ岳(とうのだけ) 

2007年(平成19年)1月27日

 関東地方に雪が降りました。インターネットの丹沢ライブカメラでは山々が白い帽子を被っていました。 私はいたたまれず、次の朝4時45分の始発電車に飛び乗りました。 代々木上原で小田急線に乗り換え渋沢駅へ、それからバスに揺られ登山口の大倉に到着、準備運動も適当に大倉尾根へ、 雪は花立山荘付近から、左右に切り立った巾30cmほどの馬ノ背付近は凍結し滑りやすい状態、軽アイゼンが欲しい所、 その様な準備のない私はストックと備え付けの鎖やロープを頼りにヘッピリ腰で通過しました。 いつも賑わう頂上は、一面の雪景色で人も疎ら、正面の富士山を独り占め出来そうな至高の時がありました。 下山も同じ大倉尾根、時間の経過と共に気温が上昇し雪も溶け始めました。 先ほど難所だった馬ノ背も難なく通過、花立山荘下の急坂からは泥道、滑りやすい登山道は大倉付近まで続きました。
 丹沢塔ノ岳(とうのだけ)は私のお気に入りの山です。ほとんど大倉尾根から登ります。 別名馬鹿尾根と呼ばれ標高差1200mをひたすら登るだけなので、その名が付いたとか。 私の場合、三千米の山に登る前に訪れます。塔ノ岳までの所要時間は三千米登山の切符だと考えているからです。 好きな理由は、豊富な登山道で下山が楽しい、 近いので移動時間が少なく、交通費が安い、電車の乗り換えが一回で済み、ほとんど座席に腰掛けられることなどです。 今は地図に書かれた登山道のみ歩いていますが、若い時、大倉尾根付近の沢は私達のホームグランド、身近に感じる所なのです。
 此の山に登る時は4時45分の始発電車乗ります。7時少し前に渋沢駅に着きます。 大倉行きのバスは7時18分発、始発から数え2番目のバスです。 喋ったことは乏しいのですが、よく見かける顔は数多く皆塔ノ岳の熟練者達です。 昨年頂上で話した登山者は、なんと140数回目だとか、塔ノ岳の鉄人でした。 また、アルミの背負子にお弁当程度の荷物を付け、息も切らさず、颯爽と登る仙人もいます。 推定年齢八十歳、小柄で体脂肪無し、一年中半袖短パンとか、大倉尾根に毎週現れるそうです。 私など足下にも及ばない猛スピード、何度か遭遇しました。


 平成二十年の初詣 

2008年(平成20年)1月1日

 例年正月は午前零時近所の神社に参拝し新年を迎えていました。 私は大晦日年越し蕎麦を啜りながら至高の初詣を思い浮かべていました。 今回は除夜の鐘を聞きながら山に登る、其れは私にとっての至高、只の思い付きでした。 急ぎパソコンで電車・バス・ケーブルの時刻表検索、21時34分の電車に乗れば其の事が可能、迷わず準備をしました。 ほろ酔い加減で最寄り駅到着、予定の電車は動き出すところで乗り遅れました。 此の時点で除夜の鐘を聞きながら山に登る事は不可能になりましたが、 片意地を張って山登りするのが私の信条、家に引き返す事もせず次の電車に乗りました。 代々木上原20分、伊勢原30分、大山ケーブル20分と乗り継ぎ時間が多く、 大山阿夫利神社下社に着いたのは午前零時を廻っていました。 神域の初詣客は疎ら、登山者も僅か、物淋しい正月風景でした。 ヘッドランプの明かりを頼りに寒風の吹き荒ぶ中、急な石段を一人で登り始めました。 前後に登山者の居ない闇、過去何度と無く歩いている同じ山道も時間の経過が遅く感じる深夜の山登りでした。 偶に人に会う嬉しさ、「おめでとうございます」の挨拶は一年に一度の登山者同士のご賀礼です。 元旦の山頂は満員御礼札止めだ、と聞かされていた私は登山者の少なさに驚きました。 寝袋に包まり「寒い!サムイ!」と日の出を待っていた三人の若者が印象的でした。 此の場所に留まり日の出を待つ準備のない私は、扉の閉まった上社に新年の挨拶を済ませ下山しました。 新しい年を迎える初日の出は帰宅途中の車中でした。


 大山から鶴巻温泉へ 

2010年(平成22年)10月2日

 今年最初の山登りは試行錯誤の末、親しみ深い神奈川県丹沢山系に決めました。 八月、小田急線秦野駅からヤビツ峠までバスを利用、富士見山荘を経て菩提峠・岳ノ台と写真を撮りながら回り、 ヤビツ峠で一息入れてイタツミ尾根から大山山頂へ、下山は日向薬師に降りました。 二回目は奥多摩の大岳山、此処は七年前数十年振りに単独登山を再開した山です。 三回目はまたも大山、若い頃頻繁に訪れていた丹沢山系は私のホームグランドと呼びたい山々です。 早朝のヤビツ峠行きバスは中高年の登山者で満杯でした。 前回同様イタツミ尾根から山頂へ、下山路は表参道から浅間山、高取山、念仏山、善波峠、吾妻山 そして鶴巻温泉駅までのロングコースを計画しました。 相変わず表参道は若者達が多く渋滞中、特に山ガールと呼ばれる山用スカートにボーダー柄のレギンス、 ショーウィンドーから抜け出したような派手な蛍光色等の女子、主にカップルのようです。 山ボーイという言葉は無いようですがレギンス男子もかなり目立つ服装、最近流行のパワースポット巡りなのでしょうか。 パワースポットとは地球に点在する特別な場、エネルギースポット、気場ともいい疑似科学の一種だそうです。 ブームに乗って神仏への畏敬の念を持たずにスタンプラリーのようにパワースポット巡りをする行いについては批判も多いようです。 日本の殆どの山は神域のようです。喪に服していた私は一年数ヶ月山歩きを中断していました。 表尾根を過ぎ、浅間山から鶴巻温泉へ向かうコースは行き交う人も疎らでしたが、善波峠は弘法山ハイキングコースとの交差点、 大勢のハイカーで賑わっていました。 秦野駅から鶴巻温泉駅への弘法山ハイキングコースは某社イベントで親子三人が歩いた思い出のコース、十年前のことでした。


丹沢山塊の南端・高松山(たかまつやま)

2011年(平成23年)2月5日

高松山  丹沢の山登りは大山・塔ノ岳が主だった私、他の山にも眼を向けようと思いました。 昭文社山と高原地図丹沢を広げると南端の山は高松山標高801m、松田町と山北町の中間に位置する山です。 この冬のテーマは日溜まりの山歩き、高松山は最適だと思いました。 小田急線新松田駅からバスで高松山入口へ、東名高速を潜り、収穫の終わったみかん畑の農道を進みます。 暖かい日差しの中、快適な里山歩きです。 農道が終わり、植林帯の登山道を1時間半登ったところが高松山、広々とした芝生の山頂、正面には富士山、そして箱根の山々、 最高のロケーションで早めの昼食にしました。 ガイドブックの下山路は尺里峠(ひさりとうげ)から出発地の高松山入口バス停に戻るコースが記されていましたが、 物足りないので虫沢峠古道から川村小学校高松分校と最明寺史跡公園に、 戦後酪農開拓入植者によって開墾された高松山中腹の山北町向原地区、其所に昭和31年開校の町立川村小学校高松分校がありました。 約半世紀の歴史を刻むノスタルジックな木造の校舎、昨春廃校になったそうです。 最明寺史跡公園は向原地区から山道を一登り、松田山山腹にある緑地公園で緑の池と小鳥のさえずりが印象的でした。 最明寺は、承久三年(1221年)浄連上人(源延)が信州善光寺の一光三尊の仏を模写し金銅の仏像を松田山頂に安置しのが始まりだとか。 其所からは舗装された林道と国道を小田急線新松田駅まで歩きました。 登山道や林道脇にたたずむ石仏、みかん畑と茶畑のある里山風景、咲き誇る白梅、膨らみだした椿の花、川辺の菜ノ花、 数々の野草など変化に富んだハイキングが楽しめました。


丹沢山塊の東端・高取山・仏果山・経ヶ岳          
          (たかとりやま、ぶっかさん、きょうがたけ)

2011年(平成23年)2月20日

仏果山  小田急線本厚木駅からバスで40分、愛川ふれあい村で下車、高取山へ、天気予報通りの曇り空、肌寒い里山歩きから始まりました。 山道は先日の降雪が所々に残り歩きにくく、特に高取山北面直下300mの急登は一面の雪原、 凍り付いていないのでアイゼンは使用せず慎重に登りました。 山頂からは眼下の宮ヶ瀬湖が微かに眺められる程度、丹沢山系の山々はどんよりした雲の中でした。 昼食は寒いので先延ばし、仏果山(ぶっかさん)革籠石山(かわごいしやま)経ヶ岳(きょうがたけ)へと進みました。 仏果山は煤ヶ谷の正住寺を開いた天鑑存円上人(仏果禅師)が座禅修業をしたと伝えられる山、経ヶ岳は弘法大師が経文を収めた経石がある山。 経ヶ岳にある解説板に書かれた伝説では大宝三年(七百三年)修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)が丹沢八管山を起点に 平山・塩川滝などを経て大山まで七宿三十カ所、おおよそ四十九日間加持祈祷を唱えながら修法を行ったとか。 古来より丹沢は信仰の山、山伏など修験者の修業の場でもあったようです。 経ヶ岳頂上のベンチに腰掛け遅めの昼食、暖かいカレーラーメンとコーヒーは都会では味わえない最高の御馳走でした。 景色のない頂上では長居は無用、体が冷えないうちに早々の退散、半僧坊バス停を目指し山を降りました。

 
 
 

 秀麗富嶽十二景 

 秀麗富嶽十二景(しゅうれいふがくじゅうにけい)は富士山を望む優れた景観がある場所として、 山梨県大月市が1992年に定めた12山域19峰だそうです。 大月市から見える富士山は三ツ峠山等の山々によって裾野が隠れ、 十二単を身につけているように見えるとして12という数字を使用、 選定は大月市出身の山岳写真家白籏史朗氏を中心に行われたといいます。 また大月市主催による秀麗富嶽十二景写真コンテストが毎年開催されているとか。
一番山頂・雁ヶ腹摺山(がんがはらすりやま)1874m・姥子山(うばこやま)1503m
二番山頂・牛奥ノ雁ケ腹摺山(うしおくのがんがはらすりやま)1995m・小金沢山(こがねさわやま)2014m
三番山頂・大蔵高丸(おおくらたかまる)1781m・破魔射場丸(はまいばまる)1752m
四番山頂・滝子山(たきごやま)1590m笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)1358m
五番山頂・奈良倉山(ならくらやま)1349m
六番山頂・扇山(おおぎやま)1138m
七番山頂・百蔵山(ももくらやま)1003m
八番山頂・岩殿山(いわどのさん)634m・真木お伊勢山(まぎおいせやま)550m
九番山頂・高畑山(たかはたやま)982m・倉岳山(くらたけやま)990m
十番山頂・九鬼山(くきさん)970m
十一番山頂・高川山(たかがわやま)976m
十二番山頂・本社ケ丸(ほんじゃがまる)1631m・清八山(せいはちやま)1593m


八番山頂 岩殿山(いわどのさん) 

2010年(平成22年)11月21日

岩殿山  街に落ち葉が舞う頃、低山歩きの最適な時期の到来、この冬から春までは交通の便がよい中央本線大月付近の山歩きと決めました。 新松戸駅から正味二時間、バスを利用せにず山歩きが出来る地域です。 何事も最初が肝心なので、山域の雰囲気に慣れること、交通機関乗り換えの要領を掴むこと、等の理由で中央線大月駅近くの岩殿山に行きました。 公園化されている山頂までは駅から一汗流す程度、富士山は雲に隠れ物足りなさを感じましたが、築坂峠以西は普通の登山道、 大岩壁や鎖場など変化に富んだ山歩きが楽しめました。 今回の山歩きで一番気になったことは、岩殿山山頂にあった“秀麗富嶽十二景八番山頂”の表示板、私のガイドブックには記載が有りませんでした。 葛飾北斎の富嶽三十六景は有名ですが、秀麗富嶽十二景は江戸時代の隠れた浮世絵かと思いました。


六番山頂 扇山(おおぎやま)  七番山頂 百蔵山(ももくらやま)

2010年(平成22年)12月5日

百蔵山艶山  昨日、松戸市内の竜房台から雪化粧した富士山を眺めることが出来ました。 もっと近くで仰ぎたい、写真に収めたい、と思い立ちザックを背に早朝起ちました。 今回は扇山と百蔵山をセットで登る計画、四方津駅から登山口の犬目までバスを利用しました。 終点の犬目バス停で料金を支払い下車すると、 扇山に登るのならこの先のバス折り返し地点まで乗せるから、と運転手さんが親切に声を掛けてくれました。 バス折り返し地点は集落の先の林の中、扇山登山道の登り口でした。降り立ったバスの乗客は二組のカップルと私の五人でした。 枯葉を踏みながら林の中の登山道をひたすらのぼる、扇を広げた形の扇山頂上付近はなだらかな登り、展望が開けた所が頂上でした。 皆思い思いに寛いでいる、ガスコンロでラーメンを作っている中年夫婦、臭いに釣られ私もザックから御握りを取り出しました。 なだらかな稜線からの急な降りは、枯葉が登山道を覆い滑りやすいのでステッキを使用します。 私の登山靴は今年で八年目、靴底のビブラム部分は残りわずか、剥がれそうなので螺旋止めしてあります。 平坦な道路を歩くだけでも軋む音がします。そろそろ限界かと思います。 緩やかな登り降りを繰り返したあと、急勾配を一気に上がると百蔵山頂上、大勢の登山者で賑わっていました。 富士山を正面にしばしの休息、雄大な富士は今年最高でした。(写真百蔵山艶山)


十一番山頂 高川山(たかがわやま)

2010年(平成22年)12月19日

高川山  乗車客の少ない中央本線甲府行き普通電車は、ドアー付近からの隙間風で車内暖房の暖気は感じられません。 コーヒー一杯で早朝家を後にした私には空腹感と寒気で登山意欲が失われつつあります。 思い切って大月駅で途中下車、以前立ち寄ったことのある駅隣接の立喰店に入りました。 私は早朝のお勧めメニュー、半カレーと麺のセットを注文、店員さんの返答は一分お待ちください!でした。 湯気が顔中に広がるカレーとかけ蕎麦はボリューム満点、満腹感で元気溌剌、次の電車に乗りました。 下車駅はホームから線路上を横断し改札口へ、板壁の駅舎やトイレ、初狩はローカル色豊かな町でした。 少々複雑な道路を案内板に従い高川山を目指しました。 山頂へは複数の登山道があり、私は沢コースを登りましたが、前後に人の気配は感じられず、熊出没の看板が気になりました。 好天の狭い頂上には先客が十数名、富士山に向かい寛いでいました。 東は中央沿線の山々、北には大菩薩山系、西は白銀に輝く南アルプス、 そして南側は霞んだ都留の街と雪を抱いた富士山、360度の大パノラマが広がっていました。 今回の目標は高川山登山と富士の写真を撮ること、両方達成できました。 帰路は尾根沿いにむすび山を経て大月駅まで、日溜まりの山歩きを楽しみました。


九番山頂 高畑山(たかはたやま)倉岳山(くらたけやま)

2011年(平成23年)1月15日

富士山  土曜日朝七時、新松戸駅武蔵野線ホームは通勤通学の乗客で溢れていました。登山者は私一人、遊びの私は微かな罪悪感。 此処は冬でも始発の五時十五分発の電車は登山者が多く、夏は五割を超えます。乗客層も時間帯により変化することを痛切に認識できました。 高尾駅に近づくにつれ登山者の割合が多くなり、 高尾駅八時四十四分発小淵沢行き中央本線普通列車は八割が登山者、登山列車といても過言ではない状態でした。 この日は鳥沢駅で下車、鳥沢の町から小篠の集落を経て登山口へ、 田舎の集落は曲がりくねった道が多く、登山口への案内板の数も少ない、古い板切れに書かれた文字が不鮮明だたりもします。 余所見の多い私は案内板を見落とす事が多く、登山口までが一苦労、複雑な里歩きは苦手です。 気象予報通りの日差しのない曇り空、雨や雪が降られなければ上出来と思い登り始めました。 今日は富士山を眺めるのを諦めていましたが、高畑山山頂では曇空に薄らと美しい富士が、 しかし正面眼下のゴルフ場には気分が削がれました。 倉岳山に到着した頃には次第に雲が厚くなり、体感温度も低く感じられ、暖かい物が欲しくなりました。 昼食は取って置きのカップヌードル、魔法瓶のお湯を注ぎました。 此処で重大な失敗が発覚、箸を忘れたことです。三分間思案の末、カップヌードルの蓋を丸めて箸の代用、何とか完食出来ました。


十番山頂 九鬼山(くきさん)

2011年(平成23年)1月29日

九鬼山  山梨県大月市にも桃太郎伝説がありました。桃太郎の出生地は百蔵山(モモクラヤマ)、 犬は扇山登山口の犬目(地名)、猿とキジは猿橋(町名)と鳥沢(地名)、九鬼山の鬼、以上が登場人物かと思います。 昨年12月5日犬目の集落から扇山と百蔵山に登り猿橋駅に下山、1月15日鳥沢駅から高畑山と倉岳山へ、そして今回九鬼山に登る、 私の中の桃太郎伝説登山完成?九鬼山と猿橋間に点在する岩場は鬼ヶ島のイメージ、伝説とのコラボ登山?楽しかったです。 九鬼山は人気のない山だとか、鬼の字が嫌われているのでしょうか。富士急行線禾生駅(都留市)で下車した登山者は私の他二名、 九鬼山頂上で三名、頂上から猿橋までの登山道ですれ違った人六名、五時間半歩いて出会った人が計十一名、 平日の様に静かな山歩きでした。


十二番山頂 本社ケ丸(ほんじゃがまる) 清八山(せいはちやま)

2011年(平成23年)7月24日

 富士急行河口湖駅から天下茶屋行きのバスに乗車、三ツ峠登山口で私を含め20名程の登山者が下車しました。 私以外の登山者は皆三ツ峠山へ向かいました。私は一人寂しく清八林道から清八山を目指し歩き始めました。 山麓から湧き上がるガス(濃い霧)で展望の無い林道歩き、鶯をはじめとする野鳥の鳴き声は木々の間から清涼感をもたらしてくれます。 林道から山道へ、視界の悪い山歩きは不安なもの、地図と磁石をザックから取り出し方位を確かめながら慎重に進みました。 清八山、本社ケ丸、共に白一色の世界、心地よい涼気、其れ以外の感想はありません。 角研山から笹子駅までの下山路は案内板が少なく、草で踏み跡が不明瞭、地図磁石頼りの山歩くは数十年振りでした。 中央本線笹子駅は無人駅、今朝購入した一日フリーのホリデーパスがあるのでキセルも可能でしたが、 山歩きは〆が肝心、大月駅までの230円の乗車券を券売機で購入しました。 この日、山で出会った人僅か5名、笹子駅乗車人数6名で登山者は私一人でした。 大月駅で乗り換えると、私とは対照的な7〜8名の登山者グループが車内で酒盛りを始めました。 私は車内での酒臭い体臭が嫌いなので、家まで好きな酒類は我慢します。 しかし、この日は彼らの仲間入りしたい気分でした。


秀麗富嶽十二景・2010年(平成22年)〜2018年(平成30年)

 昭文社山と高原地図を広げ、登った山名を赤丸で囲むこと、好きです。ここ数年は地図24大菩薩嶺を広げることが多くなり、赤丸も増えてきました。 5月17日金山鉱泉から姥子山と雁ケ腹摺山、6月3日やまと天目山温泉から大蔵高丸と破魔射場丸、 その結果、秀麗富嶽十二景(12山域19峰)八年目にして完登出来ました。
一番山頂・雁ヶ腹摺山1874m・2018年(平成30年)5月17日・姥子山1503m・2018年(平成30年)5月17日
二番山頂・牛奥ノ雁ケ腹摺山1995m・2014年(平成26年)7月27日・小金沢山2014m・2014年(平成26年)7月27日
三番山頂・大蔵高丸1781m・2018年(平成30年)6月3日・破魔射場丸1752m・2018年(平成30年)6月3日
四番山頂・滝子山1590m・2012年(平成24年)8月5日・笹子雁ヶ腹摺山1358m・2012年(平成24年)6月24日
五番山頂・奈良倉山1349m・2012年(平成24年)5月20日
六番山頂・扇山1138m・2010年(平成22年)12月5日・2014年(平成26年)1月25日
七番山頂・百蔵山1003m・2010年(平成22年)12月5日
八番山頂・岩殿山634m・2010年(平成22年)11月21日・真木お伊勢山550m・2016年(平成28年)3月21日
九番山頂・高畑山982m・2011年(平成23年)1月15日・倉岳山990m2011年(平成23年)1月15日・2014年(平成26年)1月19日
十番山頂・九鬼山970m・2011年(平成23年)1月29日
十一番山頂・高川山976m・2010年(平成22年)12月19日・2015年(平成27年)3月14日
十二番山頂・本社ケ丸1631m・2011年(平成23年)7月24日・2018年(平成30年)4月29日・清八山1593m・2011年(平成23年)7月24日

 
 
 

富士展望の山

金時山(きんときさん・きんときやま)

2011年(平成23年)3月6日

金時山  寒い季節は日溜まりの山歩きを楽しみたい、年を重ねるごとに私も爺になったと実感します。 今回は暖かそうな箱根、中でも一番人気の金時山に登ります。 始発の電車で小田原へ、そしてバスに乗り換え観光地の仙石へ、早速登り始めました。 別荘地を抜け山道へ、降雪の後らしく、ぬかるんだ泥道、徐々に雪道へ、凍り付いた階段状の登山道は1時間続きました。 日溜まりの欠片も無い金時山頂上は、台風のような強風と肌に刺す冷気で静止状態を保つことが困難な状態でした。 早速愛用の一眼レフを取り出しファインダーを覗くと、富士山は氷雪を纏い冷たい空と相まって厳しい表情、 それでも凍える手でシャッターを数十回切りました。 此の総毛立つ酷寒に耐えきれず、写真撮影後即山頂を背に足柄峠へと向かいました。 雪の中を1時間歩いても丸鉢山に到達しません。さらに40分、突然目前にゴルフ場が、途中の登山道案内板を見逃していたのです。 地図を広げ位置確認、此処は静岡県駿東郡小山町、JR東海・御殿場線足柄駅まで1時間位の地点、 本日予定の足柄峠や矢倉岳は遙か彼方、 分岐点まで戻るには2時間半、其所から矢倉岳まで2時間40分、さらに矢倉沢バス停までは1時間20分、予定通りの行動は無理です。 諦めて写真を撮りながらのんびりと山麓へ、正午頃、金太郎の像がある足柄駅に到着、平屋建ての駅舎は無人でした。 改札口付近には電子マネーのタッチパネルや券売機など一切ありません。 電車の乗り方が分からず途方に暮れ、駅舎の中などを隈無く探索、 すると踏切を隔てたホーム側に大きな文字の案内板を見つけました。 @ワンマン乗車位置で電車ドアー開放ボタンを押す。 A車内にある乗車整理券をとる。B車内最前部出口または下車駅改札で精算する、と書かれていました。 バスのような乗車整理券がある電車は初体験でした。


 矢倉岳(やぐらだけ)と足柄古道 

2011年(平成23年)5月15日

矢倉岳  小田急線新松田駅から地蔵堂行きのバスで矢倉沢下車、本村方面へ歩き始めました。 橋を渡った正面の二階家の壁面には緑紺黄赤の四色で大きく“←矢倉岳ハイキングコース”の案内が書かれていました。 (私は複雑な里歩きが苦手、商店の看板のような、此の道標ペイントには感激)ミカン畑や茶畑を過ぎると山道に入ります。 葛折りの杉林、道辺のタチツボスミレやシャガ等の野草たち、皐月晴の蒼空と清風、心地よい汗、 東日本大震災で二ヶ月間山歩きを自粛したストレスが解消される山歩きです。 急だった雑木林の登りが緩やかになると、急に視界が開け箱根の山々や富士山が一望できる矢倉岳の頂上に着きました。 広々とした草原の山頂、シートに腰をおろし早めの昼食、満腹になると心地よい睡魔が、至福の時間が流れました。 下山は山伏平、足柄万葉公園、足柄関所跡を経て静岡県側の足柄古道をJR東海・御殿場線足柄駅まで歩きます。 今回の矢倉岳は3月の金時山とセットで登る予定の山でしたが、山道の分岐を見落とし足柄駅に降りてしましました。 今日は意識的に足柄駅に下山するコースを選びました。 足柄古道は小田原・関本・矢倉沢・足柄山・御殿場へと続く歴史ある街道です。 ヤマトタケルの越えた道(古事記)ともいわれ、万葉集にも足柄を詠んだ歌が数多くあります。 奈良時代には足柄道、足柄路と呼ばれ東西を結ぶ重要な官道でした。 800〜802年、富士山の延暦噴火で一時通行が途絶え箱根越えが利用されましたが噴火が収まった一年後に復旧しました。 江戸時代になると箱根路が整備され東海道の主要街道に、足柄古道は脇往還(矢倉沢往還)として引き続き繁栄しました。 明治時代に入ると東海道本線(現・御殿場線)が開通、戦後は現在の国道246号が整備されたため、 静岡県北駿地方と神奈川県足柄地方を結ぶ交通路としての重要性は薄れました。 御殿場線は二両編成で一時間に上り下り各1本のローカル列車です。 何もない駅で一時間待ちは退屈、前日調べた足柄駅時刻表と時計を見ながら急いで下山、 前回と同じ12時37分発国府津行き列車に飛び乗りました。


 大菩薩嶺(だいぼさつれい)

2011年(平成23年)8月28日

大菩薩  私の古い山日記によると、大菩薩峠や大菩薩嶺は二十歳前後に3回登っています。 印象的なのは新宿発の山岳夜行に乗り中央本線塩山駅下車、そこから未明のバスで裂石登山口へ、 上日川峠、福ちゃん荘、勝緑荘を経て大菩薩峠、下山は石丸峠から小菅に降りたコースです。 現在大多数の登山者はバスで甲斐大和駅から上日川峠に入山、裂石登山口より2時間10分登山時間が短縮され、 山頂まで2時間未満、らくちん百名山と言われています。私も上日川峠までバスに乗り唐松尾根から大菩薩嶺に登りました。 さすが日本百名山・大菩薩嶺は大人気、特に若いカップルの多さには驚かされました。 大菩薩嶺は森林の中、展望はありませんが、10分ほど歩いた雷岩は富士山・大菩薩湖・大菩薩連嶺など絶景の展望台、 今日は生憎の曇り空、早々に大菩薩峠に向かいました。峠は多くの登山者で賑わっていました。 私は岩に腰掛け早めの昼食、余裕を持って小菅大菩薩道を降りました。 30分ほどのフルコンバという分岐点に《林道崩壊、迂回登山道有り》の案内板、 下山時間が計算できず、予定のバス乗車が可能か、少々心配になりました。 さらに10分程降ると下からマウンテン・バイク(自転車)が4台次々と登ってきました。 山道の幅は僅か30〜50cm、登山者同士の擦れ違いは片方が避けての通過状態、彼らの技術力と体力には驚かされました。 空模様が次第に悪化、視界が悪くなり霧雨が降り出しました。 行き交う登山者も無く、薄暗い森林帯の一人歩きはあまり良い気分ではありません。 林道に出たとき初めて小屋番らしき登山者と出会い、崩壊林道迂回路の状態を訪ねると親切に教えてくれました。 以降小菅村までは人との出会いは皆無でした。 小菅橋立下バス停到着、小菅・奥多摩駅間のバスは1日4本、食堂も見あたりません。 1時間のバス待ちは退屈なので村散策を兼ね川沿いのバス道路を歩きました。 小菅村の自然を堪能し余沢バス停から帰宅の途につきました。

 富士展望の山々を意識し始めたのは近年のこと、2010年11月山梨県大月市の岩殿山以降でした。 富士山を望む景観地は麗富嶽十二景を始め有名無名多数あるようです。 私にとって富士展望の山々を歩く楽しみの一つが写真撮影です。 写真に対する拘りでカメラをコンパクトカメラから一眼レフに変更、ザックが一回り大きくなりました。

 
 
 

 奥穂高岳(おくほたかだけ)涸沢岳(からさわだけ)

2011年(平成23年)9月17日〜19日

モルゲンロート  昨夜23時新宿駅西口都庁大型バス駐車場から“さわやか信州号”という夜行バスに乗車した私は今朝6時標高1505mの上高地に到着しました。 持参したおむすびで腹ごしらえを済ませ、今日の目的地標高2309mの涸沢(からさわ)へ、 標高差約800m行程6時間、他の登山者を気にせずマイペースで登り始めました。 曇り空が霧雨に、中間点の横尾からは本降り、肩に食い込むザックの重量は約15kg超、心が折れそうになりました。 待ちに待った5年振りの二泊三日の登山、恋しい穂高に逢わず下山する事はあり得ない、と心に誓い頑張りました。 高度を上げるにつれ雨量も減少、涸沢到着の昼頃には運良く雨も一時中断、急いでテントを設営しました。 荷物の整理を済ませ、管理棟でキャンプの手続き、そして涸沢ヒュッテの売店へ、お目当ては名物のおでんです。 安いか高いかは別にして、おでん6品と生ビールのセットが\1400、心が折れそうになったこと忘れました。 夜7時、雨音が途絶えました。明日の好天を願いつつ夢の中へ。

ジャンダルム  朝4時半、人々の話し声で目が覚めました。 朝食のラーメンを食べ外に出たのが5時過ぎ、今朝は昨日と雲泥の差、涸沢のテント村は360°の展望、 北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳、前穂高北尾根、屏風ノ頭、遠くに常念岳、 そしてモルゲンロート(朝日をうけて雲が赤く染まること)は感激の極め、カメラを持って歩き回りました。 『ピーカンじゃあ、登らなアカンヤロ!』と若者達の声、私も同感です。 身支度を調えパノラマコースからザイテングラートと呼ばれる支尾根へ、アルペンムード満点の登りです。 穂高岳山荘のある白出のコルで一休み、奥穂高岳(3190m)の取り付きは目前の梯子と鎖場、渋滞しているので気長に登ることにしました。 狭い岩場の交互通行、行程50分は余裕を持った時間のように感じました。 狭い山頂付近は派手な服装の山ガール・山ボーイで溢れ、ジャンダルム(ドーム型の岩稜)を指さし 『あの岩の上に小栗旬が座っていた』と映画“岳”の話で盛り上がっています。 私は記念撮影を済ませ、早々に退散しました。 前穂北尾根 白出のコルに戻り、涸沢岳(3110m)へ一登り、奥穂高岳より少々広い頂上でしばしの休息、 眼下の登山道は5年前に登った南岳から日本のマッターホルン槍ヶ岳へと続いています。 台風の影響でしょうか、雲の動きが速いように思われます。 行動食(おやつ)を食べながら3000mの雲上を満喫しました。 そして景色を楽しみながらのんびりと涸沢まで下山、テントに戻らず売店に直行し生ビールで穂高に乾杯!
 涸沢生活三日目、今朝は雲が多く朝焼けは見らませんでした。 のんびりと朝食を済ませ、テントを撤収し下山の準備をしました。 バス予約は16時、時間を調整しながら降ったのですが、14時20分上高地バスターミナル到着、土産物屋の二階にある上高地食堂へ、 バスの乗車時間まで登頂祝いの生ビールを飲み帰宅の途に着きました。 帰宅した二日後の21日、台風15号首都圏直撃、本邦標高第三位の奥穂高岳と八位の涸沢岳に登れたこと、運の良さを感じました。

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