奈良・大和路 夢幻紀行
1999年6月18日金曜日、午前8時30分。
拓はキッチンのガス台下の開きをあけて、元栓をキュッと“閉”の位置に回した。3日間留守にするのだからこうしていった方がいい。彼は部屋の中をゆっくりと見回し、
「窓カギ、よし。録画予約、よし。留守電セット、よし。…よし、よし、よし…と。」
1つずつ“指さし確認”して、床に置いたリュックを肩にかけた。テーブル上のキーを手に持ちレッドウィングに足をつっこみ、ばさっ、と髪を振ってからノブを回して外に出る。フンフンと鼻歌混じりにカギをかけていると、
「お出かけですか?」
洗濯機のすすぎが止まったので出てきた隣の部屋の奥さんに、彼は声をかけられた。歳の頃は27〜8、小柄でキュートな美人である。
「あ、ども。」
拓も負けずにニコッと微笑み、
「ちょっと、友達と旅行いくんです。3日間。」
「まぁそうなんですか。いいですねぇ。どちらへ?」
「飛鳥…とか、そっち方面ですね。」
「へぇ、素敵ですねぇ。でもお天気が、何だかあんまりよくないみたいですよ?」
「そうなんですけどね。俺、実は晴れ男なんすよ。だから多分、向こう着けば晴れると思うんで。」
「じゃあ心配ないですね。お気をつけて行ってらっしゃい。」
「行ってきます。あ、おみやげ買ってきますね。」
「いいえそんなお気づかいなく。楽しんでらっしゃいませね。」
会釈する彼女はまさに“新妻の清々しい色気”に溢れていて、拓は思わずへろっとなりそうになりながら、もう一度頭を下げて階段をおり、成増駅へと向かった。
今回の旅行のメンバーは拓を入れて5名。幹事の八重垣悟、インテリジェンス・イロゴノミの“かまりん”ことカマタ、ステラ桃とも名乗る本名木村智子、プラス拓の4人が関東組。あと1名、唯一の関西組は四国のタミの“真澄っち”だ。
関東組の待ち合わせはJR東京駅、『新幹線南のりかえ口の東海道・山陽新幹線改札口に9時45分』と、八重垣から通達メールが入っていた。
金曜日午前中の下りなら大して混んでいないだろうから自由席でいい、その代わり少し早めに来いというのが幹事命令である。
ラッシュアワーもひと山越えたこの時刻、改札口のかなり手前で、拓は人々の頭の向こうに特徴ある前髪を発見することができた。
八重垣は、ここが改札でなくてどこが改札だという位置―――ピーク時には全てを開ける改札口のうち、今は閉められている左の2つの、その閉められた仕切りのところ―――に立って熱心に何か読んでいた。
ブラック・ジーンズの裾を折り返し、黒っぽいインナーにインディゴブルーのコットンシャツを羽織るという、彼にしては珍しくラフでカジュアルな格好をしている。女たちがちろちろと自分の方を見ていくのを、コイツ見てないふりで実はちゃんと意識してやがんなと拓は思った。
横に細長い『奈良大和路フリーきっぷ』と新幹線特急券を女性職員に示し、拓は改札口を抜けた。この時点で時刻は9時20分を過ぎようとしていた。
「よ。」
声をかけると八重垣は顔を上げた。知的な雰囲気を一層強調する、シャープな顎の線と切れ長の眼、品のいい小さめの唇。拓とは全くタイプの違うその美貌で、彼は人なつこく微笑んだ。
「やぁ、早いね。」
手にしていたB6サイズのノートを、八重垣は足元のバッグのポケットに仕舞った。あいた両腕を軽く組み、改札口の仕切り板にもたれて、
「何時ころ家出た? 拓。」
「俺? 俺は8時半くらい。」
「ふーん。そうするとこの時間に着くんだ。」
「お前は?」
「俺は8時ジャスト。」
「なんかずいぶん早くねぇ? どこだっけお前んち。」
「学芸大学だよ、東横線の。」
「いいとこ住んでやがんな。あそこだったら40分かかんねぇだろ。」
「いや、だって俺は…ねぇ。やっぱ最初に着いてないとまずいと思って。」
「そっか。気合入ってんじゃん。」
「そういう訳でもないけどね。―――あっと、智子さんだ。」
拓の背後に目をやって八重垣は言った。なんでそんな方角から、と拓が振り向くと、
「やーあどもどもおはようおはよう。昨夜はよく眠れたかね青少年の諸君。本日は誠にお日がらもよく、集い集いてイザ旅立たん。」
相変わらず口数の多い智子が、Gパンにスニーカー、リュックサックといういでたちでやってきた。
「なに、おねえさんどっから来たの。」
拓の質問に彼女は親指でクイと後ろ上方を指した。『東北・上越・長野新幹線』という表示が下がっている。
「いや最初はさ、普通電車で来ようと思ってたんだけどね。でもそうすると丁度、通勤通学時間のおしまいにかかっちゃってさ。さすがにこうやって2時間立ってくるのはつらいし。」
吊り革につかまるジェスチュアをしてみせてから、智子はリュックを足元に下ろし、
「ところでかまりんは? まだ来てないの?」
「ええ、まだなんです。」
「そぉ。…まぁ、まだ30(はん)だからね。あと15分のうちには来るっしょ。」
「だけどこういうのってさぁ、一番近い奴がだいたい一番おせーんだよな。」
「ああそうだね。できれば10時7分発の博多行きに乗りたいんだけど。」
「その次って何分だっけ? 八重垣くん。」
「次が14分発の新大阪行き。その次が21分で同じく新大阪。で、その次は38分発の広島行きですね。」
「おい、お前まさか、時刻表全部暗記してきたんじゃねぇだろな。」
「まさか。乗りたいやつとその周辺のだけだよ。」
「たりめーだっつの。誰も1冊全部暗記してきたとは思ってねって。」
「いーや。マジでやりそうだよね八重垣くんなら。」
「どういう意味ですか。」
などと話をしているうちに、時計の針は9時40分を回った。
「遅いなぁかまりん…。場所だいじょぶなんだろね。勘違いとかする恐れ、ない?」
「いや、ないと思いますよ? 昨日確認メール出しときましたから。『新幹線南のりかえ口の東海道・山陽新幹線改札口』って。もちろん折り返し、判ったよメールも貰いましたし。」
「んじゃ大丈夫だろ。あと5分あるし。どうしても10時7分発じゃなきゃ駄目って訳じゃねぇんだろ?」
「ああ、21分発までなら何とかね。京都着が12時59分なんで、真澄っちを2分くらい待たせちゃうけど。」
「2分くらいなら待つだろ。平気平気。」
拓は言ったが智子は、
「ね。ちょっと待ってよ。そもそもここって、ホントに『新幹線南のりかえ口の東海道・山陽新幹線改札口』なの?」
彼女は仕切りから身を乗り出し首をひねって、天井近くの案内表示を、
「―――見えない。ちょっと拓。何て書いてあるよそこ。見える?」
「んな、俺らがこうやって集まってんだから合ってんだろよ。」
「いーや案外、あたしら3人が揃いも揃って勘違いしてたら目も当てらんねーべ?」
「んじゃ聞いてみっか?」
「聞いてみるって誰に。」
「そこのお姉さん。」
応えるが早いか拓は、たまたま客の流れが止まったのを幸い、すぐそばの改札に立っていた女性職員に尋ねた。
「あの、すいません。つかぬこと伺いますけど、『新幹線南のりかえ口の東海道・山陽新幹線改札口』っていうのはここですよね。」
彼女は少し目を見開き、
「…そうですけど。」
「他にそういう名前の改札ってあります?」
「ありません。」
「そうですか。どうもありがとうございました。―――やっぱここだってさ。」
「ッたくアンタは女と見るとソレだからね。」
「ンだよ聞いてやったんじゃねぇかよ。」
「まぁもうちょっと待ちましょう。5分くらいは許容範囲です。」
「あっと。かまりん新宿だから、ヒョッとして中央線じゃねーかぁ? 最近とみに評判の悪い…。」
智子の憶測に八重垣は、
「でも今日は何ともないでしょう。ダイヤが乱れればアナウンス入りますよ。」
「んだね。…でも1つ気になるのがさぁ、―――」
「んな大したことじゃねぇから気にすんなって。」
「まだ何も言っとらんつに。あのさ、15日に一緒にフリーきっぷ買いにきたアトにね?『18日はどこで待ち合わせする?』みたいな話になって、そん時かまりん、『新幹線のりばの前の、あのちょっと高くなったとこ』って自分で言ったんだよね。もしかしてそっちの印象の方が強いってこと、ないかなぁ。」
「ああ…、うん、そういうことってありますね。あと僕が不安なのは…」
「なんだよおめーも不安なんじゃねぇかよ!」
「もう1つ、『新幹線南口』っていうのがあるんですよ。名前が似てるから、ひょっとしてそっちで待ってるかも知れないな。」
「あー、実にかまりんちっくかも知んないソレって。」
「んじゃ2人で分担して見てこいよ。俺ここにいてやっから。」
「そだね。念のために行ってみようよ八重垣くん。」
「判りました。じゃあ僕は南口を。」
「拓! あんた荷物ちゃんと見てなさいよ!」
「へいへい。」
「返事は1回!」
「も、いいからさっさと行けよ。」
ターッと走っていく2人の背中を見比べ、拓はニヤッと笑った。
「アイツら動きいいよな。こりゃ今回、俺ってけっこう楽かも知んない。らっきー♪」
2分ほどで、まず智子が戻ってきた。膝の下から骨が飛び出しそうなスピードで走ってくるなり、
「ちょぉっと拓。何をそんなとこでモデル立ちしてんのよ。伊勢丹の紳士服売り場じゃないんだからさ、改札口でポーズ作ってどーすんの。…だからやめなさいその監視カメラ目線を!」
「いや目立てばさ。目につきやすいかと思って。ところでかまりんは? いなかったんだよねその様子じゃ。」
「いない。ッたく何をしとるんだあのドタンバ姐ちゃんは!」
そこへ八重垣も戻ってきて、
「向こうにもいませんねぇ。駅員に聞いてみましたけどそれらしき人は見なかったそうです。」
「くっそう、まかれたか…。ホシの野郎、いったいどこへ消えやがった!」
「ここで湾岸署ごっこやんないの。どうするよ八重垣。もう10時になるぜ。呼び出しアナウンスでもしてもらうか?」
「いや…最後の手段を連絡してあるから。」
「最後の手段? 何よそれ。」
「改札で会えなかった場合の最後の待ち合わせ場所は、『新幹線ホーム17番線の一番京都寄り』って決めてあるんです。」
「はぁぁ?」
「詳しくない駅で待ち合わせする場合は、やっぱりホームが一番確実でしょう。念のためにそう決めといたんですよ。」
「「…それを早く言えっ!」」
拓と智子は八重垣を置いていきなりダッシュした。
「17番線ってどこよ拓!」
「多分16番線と18番線の間!」
「んなこた判っとるわ馬鹿っ!! おお、そっちかっ!」
階段を駆け上がりホームに着くと、できればこれに乗りたかったひかり115号が発車ベルを待っていた。ホーム先端・京都寄りには誰もいない。果たしてカマタは今、どこに…!と、振り向いた智子を指さして、ひょろっとした人影が叫んだ。
「ああーっ! いたぁっキムラぁ!」
「そういう君は正にカマターっ!」
「やだもー! 会えなかったらどうしようって泣きそうになっちゃったぁ! ねぇどこにいたどこにいた? あたし改札のあたりずっとウロウロしててぇ…」
「うっそぉ、あたしら改札口にいたよぉ?」
「えー、あたしもいたのに…。とにかくごめんねー! でも会えてよかったぁ!」
「ホントだよ置いてこうかと思っちゃったよぉ。一応民宿の電話番号をさぁ、伝えてあるから大丈夫かと思って。」
「それが聞いてキムラ! そのメモをあたし、ウチに忘れてきててーっ!」
「馬鹿モノー! イミないじゃんそれじゃあ!」
盛り上がる女たちに拓はボソッと、
「ね。話はあとにしてさ、どうするよ。10時7分発だよこれが。」
「あー! そうだそうだ! ―――ええい案ずるより産むが易しだ、乗ってまぇ!」
「えっ、乗るの!? これに乗っちゃうのね!?」
しゅたっ、とデッキに足をかけたカマタは、
「…でもキムラ、荷物どしたの? 手ぶら?」
「あぁぁーっ! 拓、荷物っ!」
「そうだよ荷物! どう考えても駄目だろこれ乗っちゃ! 下りろ!」
「急げ―――っ!」
発車ベルの中、3人はホームへ退避した。智子は胸を撫でおろし、
「焦った〜…。んな急ぐことないんだってば。こっちでいいよこっちで。21分発で。これだって京都着は12時59分なんだから。今から並んどけぱ2人掛けの向かい合いで席、取れるし。」
「そうだよ、何ヒトリで慌ててんだよおねえさん…。」
「ケッ、自分だって『乗れ!』とか言ったクセにぃ。」
「言ってねーだろ。俺は『下りろ』つったの!」
「あっと、かまりんに紹介しなきゃね。コイツが拓です。ども、よろしく。」
今ごろ智子が言うとカマタは、
「あっ! えっ! はっ、どうも!」
あたふたする彼女に拓は笑いかけ、
「ども、初めまして。3日間よろしくお願いします。…ったってよ、もうメールで知ってっから、初めてって感じじゃねーよな。いっかぁもうタメ口で。」
「いい、いい! 拓なら何でもあり!」
「なっ!」
「ちっちっちっ、か〜まりんっ! コイツを甘やかしちゃ駄目駄目。チョーシに乗って何すっか判んないよ。」
「それは自分だろ。まぁとにかく並ぼうぜ。先頭だけど。」
「おお、そかそか。さてと何号車にする〜? 禁煙車でいいねっ拓!」
「カンベンしろよ…。」
「ねぇねぇところでキムラさぁ、あたしさっきから気になってるんだけど、…2人とも荷物は?」
「あー! だから! 荷物だってば拓!」
そう言って階段の方を見た智子の視界に、何かよたよたと近づいてくるものがあった。左肩に自分のバッグ、右手に拓のリュック、左手に智子のリュックを下げた八重垣の姿であった。彼は苦しそうに、
「ねぇ…。2人して走ってくのはいいけど、頼むから荷物も持ってってよ…。」
「ごめんごめん。ケロロロローっと忘れてた。ああかまりん、コイツが八重垣ね。よろしく。」
智子が言うと彼はカマタを見た。サッと表情を改めて、
「あ、どうも、初めまして八重垣です。今日はよろしくお願いします。」
「やー、こちらこそぉ。なに、どうしたのぉ? 荷物持ちやらされてんの?」
「いえこの2人がね、荷物放り出して行っちゃうから。まさか捨ててくる訳にもいかないし…。」
「ホントー? 優しいねー八重垣くんは。この2人はさぁ、今そっちのホームに停まってた新幹線に、『乗っちまえー!』とか言ってんだよー。そいで私が『荷物は?』って言ったら、『そうだ荷物荷物!』とかって焦ってんの。荷物じゃなくて八重垣だろう!みたいな。」
「…いいんです、そういう人たちなんです…。慣れてますから僕。」
「あたしはそんなことないからね。3日間仲良くしようね。」
「ちょっとちょっとかまりんさー。元はと言えばアンタが改札に来ないからこうゆうコトになったんであって…」
「だからそれはゴメンなさい! でもおわびに、ほらっ。ちゃんとビールとツマミは買ってきたよぉ! 褒めて褒めてぇ!」
「おおっそれは偉い! 褒めてつかわすっ! …うん? ずいぶん冷えてんねこのビール。」
「どれ。…ほんとだ。てことは、なに。ついさっき買った?」
「うん。」
「ついさっきってことは、あたしら探しながら?」
「そう。3人のこと探しながら…」
智子たちは顔を見合わせ、次にはユニゾンして、
「「「ビールなんぞ買ってる間があったらサッサと改札来いっ!!」」」
「ひぇぇぇ〜ん、ゴメンなさいーっ!」
やがて16番線に、ひかり221号がしずしずと入線してきた。見慣れたはずの白とブルーの車体も、間近で見るとやはりドキドキする。
「あー、こりゃガラガラだねー。自由席で十分十分。」
「まぁ始発ですからね、誰も乗ってないですよ。」
「そりゃそーだ。よっしゃ八重垣! レッツ席取りGoGoGo!」
「だから僕らが列の先頭…判りました判りました、行きますから押さないで!」
プシュンと開いたドアの中へ八重垣は押し込まれた。素早く真ん中あたりの右側…富士山側のシートまで進み、
「このあたりでいいですか?」
「上等上等! さっ、拓! シート回してシート!」
「うっせぇな…。やってんだろ今。」
「やってんのは八重垣くんだけじゃん。」
「おい拓ぅ。いい加減手伝えよお前も。全部俺にやらせないでさ…。」
「だって俺は何の役にも立たない子ちゃんだも〜ん。」
「あれ? 拓が何か根に持ってるみたいよキムラぁ。」
「take in his根。かまりんどうぞ奥へ。」
「あ、あたし手前っかわがいいの。奥ってあんまり好きじゃない。」
「おやそう? んじゃあたし座っちゃうね。…拓! ちょっとコレ上のタナに乗せて。」
「自分でやれよそれくらい…。ッたくしゃーねーなぁ…。」
荷物を上げて席に落ち着くと、はや発車ベルが鳴り出した。過密状態の東京駅は、停車時間が本当に短いのだ。ちなみに4人の位置関係は、進行方向を向いて通路側にカマタ、奥に智子。智子の向かいが拓で、拓の隣り、カマタの正面が八重垣である。
「あーやれやれ、無事発車したね。とりあえず乾杯しましょうよ。かまりん、ビール!」
「はいはい。どうもご心配おかけしまして。はい、八重垣くんに、拓と。キムラと。…行き渡った?」
「おおメルシー。じゃあ乾杯乾杯。…拓。これプルトップあけて。」
「んなの自分でやれよ。」
「だって出来ないもん。あけて?」
「何その上目使い。気持ちわりー。ッとにこの深爪女。待ってろ今俺のを先に…うわッ!」
「なにロンバケごっこしてんのーっ! ティッシュ、ティッシュ!」
「ありますよ、どうぞ。」
「…落ち着いてるなヤエガキ。」
「いえ、だいたいこうなるだろうと読めましたから。ゴミは…はい。こっちの袋に紙屑と、カンはこっちに分けて下さいね。」
「お前ってさ、幹事やるために生まれてきた、みたいなとこあるよな。」
「うん、よくそうやって言われる。じゃあ、今度こそ乾杯しましょうか。」
「よっしゃそうしよう! ではどちら様もビールをお持ち頂いて! えーと…この3日間が、どうか楽しくありますように! 乾杯!」
「かんぱーい!」
4人は缶を口に運んだ。
「…くぅ―――っ! 冷えてて美味いっ!」
「美味しいねー! ねぇねぇこっちも食べて食べてー。お寿司だけどぉ。」
「じゃあ遠慮なく頂きます。荷物運んだからおなかすいちゃって。」
「あ、そうだよねー。引き続き頑張って下さい、幹事さん。」
太巻き寿司をもぐもぐしている八重垣の隣で、拓は空を見上げた。
「だけど問題は天気だよなー…。京都駅で雨女が待ってんだろ?」
「そうなのよねー。天気予報だと今日明日が雨でしょ。しかも本降り。雨女からのメールには『拓の不戦勝であってほしい』ってあったけどね。」
「ああ、そんなこと書いてあったあった。」
カマタはビールをじゅるっとすすり、
「つまり今回のお天気はさぁ、真澄っちと拓の一騎打ちってコトかぁ。―――ちぇ。いいなー。」
「羨ましがってどうするよカマタぁ。」
「だってあたしぃ。雨女でも晴れ女でもないんだもん。拓と一騎打ちなんて出来ないじゃん? つまんないのー。キムラも影響力ない奴だっけ? んじゃ八重垣くんは?」
「僕ですか?」
聞かれて八重垣は、思い出し笑いと照れ笑いと、それに苦笑いが混じったような笑い方をし、
「僕はね、いってみれば酸素なんですよ。」
「へ? な…何? あたしお馬鹿だから判んないよぉ、もっと判りやすく…。」
「酸素って、ほらそれ自身が燃える訳じゃないけど、例えば火のついたドライフラワーを酸素の充満したフラスコの中に入れると、あっという間に燃えちゃうじゃないですか。」
「ああ、そういえば昔、理科の実験でそういうのやったかも…。」
「でしょう? つまりあの酸素と同じで、勢いを増さしちゃうんです。増さしちゃうって変だな、拍車かけちゃうんですよ。だから雨男と僕が一緒にいると土砂降り。晴れ男と一緒にいると、…ドピーカン?」
「うっわー…それってもしかするとチョー迷惑!」
笑ってからカマタはさらに、
「てことは、なに? 今回の旅行中、八重垣くんを真澄っちに近づけちゃいけないってこと? 逆に拓と一緒にいてもらえば晴れ男パワーが増す訳?」
「ええ。理論的にはそうなんですけどね。」
「理論って、理論なのかよソレはよ!」
「まぁそれはそれとして、この3日間の概略スケジュールなんですけど。」
ケロリとした顔で八重垣は言った。
「今日はこのあと京都駅で真澄っちと合流して、智子さんと拓は宇治の平等院、かまりんと真澄っちと僕は秋篠寺。再度合流するのは大和西大寺駅にしましょうか。時間は、そうだな…5時ってことで。西大寺からは近鉄特急か急行で橿原神宮前。駅から民宿まではタクシーですね。何しろ終バスが5時3分なんで、これはちょっと間に合わないでしょう。タクシー使っても大した距離じゃないですから、頭割りにしちゃえばリーズナブルだと思いますよ。…以上までのところで、何かご質問は?」
「ありませーん! 八重垣くんすっご〜い! も、アタシは何でもおまかせー!」
「ありがとうございます。ここんとこ仕事が忙しくてあんまり時間とれなかったもんですから、ほとんど一夜漬けなんですけどね。だからちょっとだけ、心配。」
「なに前髪撫で上げてんだよっ。」
「こらこら拓はひがまないの。んで? 明日以降は? 八重垣。」
「それはお天気次第なんですよね。明日は一応山の辺の道の予定なんですけど、雨が降らなければレンタサイクルを借りて天理から桜井の全コース、小雨程度なら途中までバスを使って、徒歩での半日コース。土砂降りだったら山の辺の道は諦めて奈良市内にします。大仏殿とか、足を伸ばして法隆寺とかですね。市内ならバスの本数も多いし、歩くとこも完全に舗装されてますから。」
「そうだね。ヌカルミのグチョグチョは、ちょっとねぇ…。」
「で、3日めもお天気次第で、小雨くらいまでなら飛鳥路めぐり。土砂降りだったら、これはもう帰りのことを考えて京都市内しかないですね。二条城とか三十三間堂とか。」
「なるほどねぇ…。考えてくれてるんだぁ八重垣くん。サイコーだよぉ。お寿司もっと食べて?」
「あ、いただきます。」
「あたしも貰っていい? かまりん。」
「どうぞどうぞっ! 拓もほら! 食べてっ!」
「いいもんいいもん。俺はどーせ、これっぽっちも役に立ちませんからっ! ふんっ!」
「やだぁぁん、拗ねないでぇぇっ! いー子いー子したげるぅっ!」
「甘やかすなっつーにカマタぁ。…てことはアレか八重垣。とにもかくにも全てはお天気次第と。こうゆうコトやね。」
「そうですね。こればかりは計画しても、どうにかなるもんじゃないですし。」
「言えたなー。まぁまさか3日間とも土砂降りってたこたァあんめぇ。そう信じるしかないね。」
京都までの2時間40分がただの30分にしか感じられないほど、4人はさまざまの話題で盛り上がった。拓のバイトの話。八重垣の学生時代の話。智子の日本むかし話もとい!12年前の飛鳥旅行記。そしてカマタの「失敗しない避妊」ではなくて「ウィンドウズ初体験」等々…。
途中何度か車内販売のワゴンは通ったが、話に忙しくて彼らは駅弁を買うのを忘れてしまった。『昼食は車内で済ませる』という予定を幹事はさすがに真っ先に思い出したが、時すでに遅く、ひかり号は京都駅停車のための減速を始めていた。
「皆さん、食事どうしましょうか。今からじゃ食べてる時間ないでしょう。」
「ほぉんとだ! もうじき京都だよぉ。」
「この太巻きが美味かったんだよな。だから弁当って気になんなかった俺。でもこれで夕方まで食わねぇ訳にはいかないだろうから…いいじゃん京都で食えば。な。」
「そうだよね。あたしは駅弁よりその方がいいなー。そうしようよ八重垣くん。」
「ええ、僕らはそれでいいんですが真澄っちが…。」
「真澄っちが?」
「『午後の時間を有効に使うために昼食は済ませておけ』って、メールで…」
「…言ってあるんだ。」
「実はそうなんですよ。」
「いいじゃんもう1回食わせれば。じゃなきゃコーヒーでも飲んでてもらえば。」
「1対4だ。そういうことにしよう!」
「何か関東組って強引〜。」
「いいんだよ首都はコッチなんだから。」
「そういう問題か?」
わさわさと荷物を下ろしてシートを戻し、4人は早めにデッキに出た。乗客の、特に女性の視線が2人の男に集中していることにカマタは気づき、自慢なような悔しいような複雑な思いだったが、そんなものに智子はトンと頓着せず、拓のリュックを指でつついて、
「しかしあんたも荷物少ないよね。これって中身は何よ。ぱんつと枕とコンドーム?」
「おねえさんっ! でけぇ地声でそゆこと言うなっ!」
やがてひかり号は長いホームに停まり、ドアから乗客を吐き出した。4人も降りて歩き始めた。先頭は八重垣。続いて拓、カマタ、智子の順である。
「なー。待ち合わせはどこなんだよ八重垣。」
「ええとね、『新幹線八条口』。」
「まさかまた行き違いとかねぇだろな。」
「ないと思うよ。一番近鉄に近い乗り換え口だから。…でも1つ気になるのがね、―――」
「やっぱ気になんじゃねぇかよっ!」
「うん。正しくは『八条口』なんだけど、真澄っちのメールに俺、『八丈口』ってタイプしちゃってさ。彼女からのレスにもそのまんま『八丈口』ってなってたんだよね。だから字が違うとかってウロウロしてなきゃいいんだけど…。」
「してねぇよ多分。誰が見たって変換ミスだろ。」
「そうかな。ならいいんだけど。」
「お前さ、そゆとこ細かすぎ。」
「まぁイザとなれば携帯鳴らせばいいんだけどね。拓、持ってきてるだろ?」
「何を?」
「携帯。」
「ンなの持ってきてねぇよ。旅先までそんなん、ヤだもん。」
「うそ! 俺も持ってきてないよ。」
「おま、フツー持ってくんだろ幹事は!」
「いや、てっきり拓が持ってくるだろうと思って…。」
「信じらんね…。これじゃ関東組、原始人だぜ。何かあったらノロシ上げるしかねーじゃねぇかよ。」
「あ、それもいいね。」
「よかねぇっ!」
揉めているうちに4人は八条口に着いた。八重垣の心配はやはり取り越し苦労で、キョロキョロする必要もなくカマタが、
「…あ、いた。真澄。」
小声で言ったその視線の先に、華やかでパッと目を引く傾国の美女はいなかったが、
「ねーさまーっ!」
ヒラヒラと手を振っている、さも“真澄っち”な女がいた。
「真澄―!」
まず駆け寄ったのは面識のあるカマタ。2人は手を取り合って、
「会いたかったよぉぉ! 元気だったぁ? どっから見ても元気だねー!」
「元気元気―。ごめんねぇ雨降らしちゃって。」
「いいよいいよ、好きで降らしてる訳じゃないんだしぃ。」
一通り久闊を辞した後でカマタは、
「あ、あのねぇ、この4人が関東組ね。智子さんと、拓と、それに八重垣くん。」
「何で俺だけ呼び捨てなんだよっ!」
「やーん、初めましてぇ。真澄ですぅ。いつもお世話になってますぅ。」
「どうもこちらこそ初めまして。八重垣です。ごめんね、八条口を八丈口って書いて。」
「えー、そうでしたぁ? 全然平気ですよぅ。すぐ判りました。」
「ほーら見ろ八重垣。ンなこと誰も気にしちゃいねって。…ども、雨女。3日間お前の好きにゃさせねぇからな。」
「やぁぁ〜ん! ごめんねぇぇーこんな天気にしちゃってぇ!」
「なんか自らアメフラシになりきってるぜ真澄っち。どーもどーも、いつも代行ありぁとぉござんす、木村っす。」
「あー、どぉもぉ。初めましてぇ。よろしくお願いしますぅ。」
「いやいやこちらこそ。実はあたしら昼食まだでね。」
「え?」
「また急に話を変えますね智子さん。…いえ、実はね、新幹線の中で食べ損ねて、これから食事なんですけど、…真澄っちは食べちゃったよね。食べとけって俺、言ったしね。」
「はい、そう思って済ませましたぁ。何だ、皆さんまだなんですかぁ?」
「そーなの。だからどっかでコーヒーでもつきあってくれる?」
「いいですよ。」
5人になった一行は、近鉄の駅ビル(なのか?)の名店街へ入っていった。喫茶店兼レストラン風の店を見つけ、ここでいいやとソファーに座る。
「あんまり時間はないですから、懐石弁当とかはやめて下さいね。」
「誰が頼むか、んなもん。」
スパゲティやカレーといった軽食を腹におさめて人心地をつけ、5人は今日のこれからのスケジュールを確認し合った。待ち合わせは5時に大和西大寺駅の、『樫原神宮に向かう各駅停車のホームの一番橿原寄り』という、もう今回の旅行はこれでいこう!という判りやすい場所に決め、
「じゃあここからは2手に分かれて。僕らは秋篠寺、智子さんと拓は宇治ですね。」
「そうそう。えーと今まだ1時15分だから、時間はたっぷりあるでしょ。別行動とはいえそっちには八重垣くんがいるから安心だよね。」
「うん。もー鬼に金棒よ。あたしらのどっちが鬼かは知らないけど。」
「はっはっはっはっ! かまりんたら絶好調―! ほいじゃボチボチ行きますか! 次に会うのは西大寺のホームね。」
秋篠寺コースは近鉄だが、宇治行きはJRが便利だ。メンバーは3人と2人に分かれ、それぞれの目的地へと向かっていった。
その2へ続く
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