奈良・大和路 夢幻紀行
【 1日め 6月18日(金) その2 】
智子と拓はJRの改札口を、フリーきっぷを見せて通過した。
「ところで宇治ってどう行くんだよ。何に乗んの。」
「え? だから、電車?」
「ブッとばすぞ? てめー。」
「いいからついて来んさい。こっちこっち。」
スタスタと歩いていく智子の後ろを半信半疑で拓はついていったが、どうやらこの自信にはウラづけがあったらしく、階段を登って下りた先のホームには、オレンジとブルーの奈良行き電車が停まっていた。
「はいよ、これが51分発ね。20分かかんないで宇治だから。」
中距離電車型の、固定式向かい合い座席に座って智子は言った。平日の14時前、車内はガラガラにすいている。拓はリュックを網棚ではなくシートの上に置いた。
「雨、今はやんでるみたいね。このままもってくれればいいけどなぁ。」
「いやー、またすぐ降んじゃねぇの? 何せ雨女と八重垣が一緒にいんだから。」
「だよねー。まぁこっちには晴れ男がいる訳だから、あんたのパワーをここはひとつ、じっくり試させてもらいますよ。」
「…なんか聞きようによってはベツのイミっぺーぞ、それ。」
短いベルが鳴り、電車はゴトンと走り始めた。快速なので停車駅は少ない。六地蔵の次がもう宇治である。
「あー。やっぱ降ってきたよおねえさん、ほら。」
ガラスに走った銀の筋を見て拓は言った。
「ほぉんとだ。くそぉ、ナニをツルンでやがんだねあっちの2人は…。しっかり見張っとけつーの、かまりんよぉ。」
「ちょっと俺こいつまとめるわ。濡れっとうっとおしいんだ、本降りみたいだしよ。」
拓は手首のゴムで、くるくると器用に髪を束ねた。こうした方が1つ2つ若く見える拓と、一見年齢不詳の智子は、どこからどう見ても恋人同士ではなく姉弟かまたは親戚であった。(うっせー)
JR宇治駅は小さくてホームは2つしかない。下りてすぐの改札正面がそのまま駅の出口である。が歩み出すのを躊躇したくなるほどの雨が、ざぁざぁと石畳を叩いていた。
「うわっちゃー…。タイミング、最悪。」
空を見上げる拓の隣で智子はパキパキと折りたたみ傘を開き、
「行くよっ。」
勇敢というか無謀というか、無頓着に歩き始めた。
「おいっ!」
あわてて拓も傘をさし雨の中に出る。
「へー…。この前来た時とはだいぶ変わったなー。こんなんなかったんだよ前回は。いや、工事中だったのかも知れないな。時世時節、色即是空。因果は巡る風車だねぇ…。」
「なー。おい、おねえさんてば。そうスタスタ行かなくてもさぁ、少し待てば小やみになるとか考えねぇの?」
「何よあんたは雨に当たると溶けたりする訳?」
「いや溶けやしねぇけど…人間、その場の環境に適応する知恵ってモンがさ。」
「自然の前ではね、人はいつも無力なの。じたばたしたって始まりゃしない。」
「いやそういうコトじゃねぇだろ。」
「人間万事塞翁が馬。ほーらごらん、多少小やみになってきた。」
「だから駅で少し待ってりゃよかったんじゃねぇかよっ。」
「うるさいねぇこのオトコは。文句ばっかたれてッとあの宇治川にタタッこむよっ!」
「へー、あれが宇治川かぁ。おっと、信号点滅!」
「走れっ拓!」
宇治橋西詰めの広い交差点を、2人は川の方へ渡った。『うじばし』の欄干の脇には石段があって、そこから河原に下りられるようになっている。
「おお、鳥がいるいる。けっこう流れが急なんだねー。」
智子は下りてみようとしたらしいが、こりゃぜってー足が滑るなとさすがに気づいたようで、
「『平等院表参道』…。こっちだこっちだ。行くよおねえさん!」
拓の手招きに素直に従い、2人はどっこいしょとリュックをしょい直して参道に入っていった。左右にお茶の店と、割烹をかねた旅館が建ち並んでいる。参道、というと長いイメージがあるが実際はほんのわずかの距離で、細かな砂利を敷き詰めた平等院境内に、2人はすぐに到着した。雨もポツポツ程度におさまり、これなら傘はいらないだろう。
「おっと、拝観料いるんだな。小銭小銭…。」
「何せ国宝かつ世界遺産だからね。はい500円玉。一緒に買って。」
「へいへい。」
料金と引き換えに券と小さなパンフレットを出しながら、係員は愛想よくこんにちはと言った。同じ挨拶を拓は返して、通り抜けるなりぼそっと、
「…ンだよ、おばちゃんじゃん。」
「てめー何てシッケーな奴!」
俗世間のコトバを吐く智子に、拓は待てというふうに軽く手を上げ、言った。
「ちょっ…。ねぇ、これ、理想だよおねえさん…。」
境内、という言い方は似合わない平等院の、敷地内にはまさに緑が滴っていた。つい今しがたまで降っていた雨が木々の梢をしっとりと撓(しな)わせ、たっぷりと水を含んだ砂利は普段なら耳障りな足音をさえ、静かで趣き深いものにしている。まずは扇の芝と釣殿のあたりを歩きながら、智子も感動の面持ちで、
「ほんと…。あたし初めてだよこんな平等院…。」
「ああ。こんな日に来んのって、冷やかしじゃなくほんとに見たい奴ばっかだろうしな。」
「そうだよね。」
前奏曲に似た一巡りを終えて、2人は鳳凰堂へ歩みを向けた。華麗にして荘厳な建物は、まずは真横、左を向いて視界に入ってくる。大棟両端にひとつがいの鳳凰を乗せ、翼に似た透廊(すかしろう)を左右に張り出した建物は、遠い時代の夢の中からゆらゆらと浮かび上がるが如く、空気全体が細かな水滴を抱いている灰色の舞台にたちあらわれた。
「う、わぁ…。」
言葉でなく、それは溜息だった。たいていは物見高い観光客であふれかえり、暇さえあればシャッターを押している人たちに遠慮しいしい、足早に通り過ぎるしかないのが、有名な寺社仏閣の悲しき宿命である。だが今ここにいる人数は、ざっと見回した限り30人にも満たないだろう。正に驚異的な少なさだ。
阿字ヶ池を巡る小径をゆっくりと歩き出した時、また雨が降り始めた。だが径の上には、縮緬(ちりめん)を思わせる半透明の葉を幾重にもかさねて廂(ひさし)をつくる楓や、陽が落ちれば木の下闇になるだろうこんもりした櫟の枝が差し交わされているので、傘などという不粋なものを頭上にかざす必要はなかった。
「これってさ、もしかしてとんでもねぇ贅沢じゃねぇの…。」
「言えてるよ…。世界遺産ほぼ独占状態。一生のうちにそうはない経験かも知んない。すっげ嬉しい。何か、泣いちゃいそう。」
「いんじゃねぇの泣いたって。泣く価値あんだろ、これは。」
「だけど泣くよりもさ、ちょっと葛生先生モード、入っていい?」
「何だそれ。」
「耽美派雅文調自己陶酔モード。我田引水自画自賛、天上天下唯我独尊。」
「ああもう何でもお好きにどうぞ。」
「『平等院鳳凰堂。それはまさに、人知と芸術の粋をつくして創り上げられた、この世ならぬ荘厳の世界だからである。』…」
「ちょっ、…何すんのかと思ったら、いきなり自分の書いた文章のリピート?」
「いや、だってまさに今その気分だからさ。実は気に入ってんだよね、このあたりの葛生先生の台詞。」
『大陸文化には、この微妙な光と影の感性はないんだ。もちろん大陸文化なくしては、そもそも文字からして借り物なんだからね、和様芸術は発生しなかったろうが…。この鳳凰堂のような日本文化の神髄と、それから、時代の最先端を行く新しい感性とが、君のような若い人たちの手で融合されて、創られていくのが望ましいと私は思うよ。』
「…くぅぅ〜っ!いい文章書くねぇ木村智子っ!」
「それはちょっと行きすぎ行きすぎ。やめろってもう、みっともねぇから。」
「判っちゃいるけどさぁ。おお、ご覧なさいあの阿弥陀如来の慈悲深きお姿を。」
「昔、これが建ったばっかの頃もさ、貴族たちはこの位置から、こうやってあの仏像、眺めたんだろな。」
「うん。将来に希望を失った落ち目の権力者が、藤原家に残された全ての力を尽くして、命がけで描いた浄土世界。その想いがこの鳳凰堂を、創建当時の姿のまんま、こんにちまで伝えたのかも知れないね。」
「その思想って、ある意味普遍的…かも知んねぇな。不安の全くない時代なんてある訳ねぇんだからさ。誰だって大なり小なり、不安な気持ちで生きてんだから。」
「そうだね。その不安の果てにある、極楽。瑠璃色の宝池(ほうち)に浮かぶ500億の宝楼(ほうろう)。そのうちの1つが多分、この鳳凰堂なのかもね。いやそれだけじゃない。現実には極楽なんてあり得ないってみんな知ってる。だから鳳凰堂は、そんな『見果てぬ夢の哀しさ』も秘めてる。こんなに優雅で華麗な建物なのに、何かこう、一種切ない感じがするのはそのせいだよね。」
「…な。今さ。すげー話してんね俺ら。」
「してる。ヒョッとしたら聞いてる人ムカつくかも知んない。まぁ生身の木村拓哉氏は、間違ってもしない話だろうね。」
「しねーしねー。ぜってーしねー。『拓』しかしねぇって。」
「自分でゆぅなよぉ。」
鳳凰堂の正面で池は少しくびれており、そこは建物全体を眺めやれるいわば絶好の記念撮影スポットである。が、
「マジ感動だよな。ここに誰もいねぇなんて。」
「すごいよね…。こんなとこでボーッと立ってたら、どけって言われるよフツー。」
「屋根がさ、濡れてんじゃん。天気のいい日とは多分、全然違う色してんだろな。」
「朝と夕方、午前と午後。太陽の位置と光の角度で表情変えるんだろうね、この建物。」
「てことはアレか、季節でも違うんだ。」
「そうだよそういうことだよ。ふわー…。この近所に住んでる人が羨ましいなー。」
「でもさ。何でおねえさんそんなに平等院好きなの。法隆寺とかいうならまだ判んだけど、平等院…。10円玉のファンだって訳でもねぇんだろ?」
「いるんかいそんなファンが。言わなかったっけ?中学の修学旅行で、来てさ。」
「うんうん。」
「修学旅行なんてさー。落ち着いてなんか見らんないじゃない?友達とワイワイする方が忙しくて。それに人数多いしさ、景観台無しやん。今回この旅行をこの時期に持ってきたのも、修学旅行生はまず、いないだろうと思ったからだもん。」
「ああ、確かにありゃ邪魔なんだよな。てゆーか俺も騒いだけど当時は。」
「あれでさぁ。バスに乗って一通りいろんなとこ見たけど。この平等院だけだったのよ、あたし鳥肌たったの。」
「チキン肌?修学旅行の時に?」
「うん。あの入り口からやっぱこうやって入ってきてさ。30分、とか言われて勝手に歩くじゃない。んで仲のいいグループで固まって、確かそのへんから建物見たのよ。したらね?」
「うん。」
「見えたんだぁホントに。平安貴族たちがあの回廊をさ、こうやって勺(しゃく)持って歩いてる姿が。あの赤茶けた柱も、当時は丹(に)の色に塗られてたはずで、そういうのがなんか、サーッとこのへん立ち昇ったのね? もうゾゾゾゾーッとか来ちゃって。全身ザラっザラ。『タイムトリップ』つうのは、あの一瞬のことだろうね。時間の感覚が頭の中でぐちゃぐちゃになんの。」
「それってすごいじゃん。集団の中での経験、つうのがすごいよ。」
「でもさぁ…。今って、それに匹敵してるかも知れない。1つの建物をさ、こんなに没頭して、何にも邪魔されずに見たのってあたし初めてだもん。しかも雨だよ雨。日本の風景を、最も美しく縁どるもの、雨…。日本情緒の根源って、しっとりと雨にけぶるこの風情だろ。―――これが。ここが。今あたしらがいる空気。これって日本美の神髄だぜ拓。すごいことしてんだよあたしらは今。」
「なんか、怖いかもな。生きながらにして極楽にいんだよ、今おねえさんは。」
「そう言われると即身成仏みたいでちょっとヤだけどね。」
「だからそうやってさ、たちまち現実に戻ってくんなよぉ。ヒトがせっかく成仏手伝ってやってんのに。」
「んなもん手伝わんでええ、ええ。放っといておくれやす。」
建物真正面から2人は、鳳凰の右の翼、池の奥へと移動した。浄土の象徴である蓮の花が、降りしきる雨に打たれている。歩くにつれ当然、建物を見上げる目の位置が変わる。濡れて光る瓦の尾根と破風(はふ)のリズミカルな流れに、さらに松の枝と楓の葉がかかって、尽くしきれぬ無限の変化(へんげ)を鳳凰堂は、次々と2人に見せてくれた。誰もいないあずまやの前、入り口方向を逆に見はるかす位置で再び立ち止まり、智子は言った。
「これさ、こっちから見ると何だか男性的な感じしない? 向こうからだと柔美つーか、さも女性的で繊細な雰囲気だけど…。」
「ああ、言えてんな。何でだろ。左右対象だよなこの建物。」
「うん。でもこっちから見た方が破風とかがさ、こうドンドンドンってダイナミックに置かれてる感じがする。」
「光の加減かな。見える空が、あっちの方が多いとか。」
「そっか高い木がないんだ。視界がパッと抜けるんだね。そいで今思ったんだけど、これさぁ、大小の各屋根の四隅が、みんなヒラッと上に反りかえってるじゃない。鳥の羽根みたいに。」
「ああ、そうだね。何つんだっけあの、鳥の羽根の先っちょ。…風切り?」
「そうそう風切り! しかも見てみな拓。その反りの角度がさ、全部同じだよほら。真ん中の大きな屋根も、両脇の小さい屋根も。」
「ほんとだ。全部揃ってんだ。」
「この鳳凰堂自体が、きっと鳥なんだね。建物全体が何かこう、ふわっ…と空に舞い上がろうとしてる気がする。」
「極楽浄土を目指して?」
「うん…。…いやー…………感動…。」
「感動してっと大人しくていいね、おねえさんね。」
「―――ね。ちょっとウンチクたれてもいい?」
「何ことわってんだよ今さら。何でも垂れりゃいいじゃん、聞いててやっから。」
「ありがと。…あのね、ボードレールっているじゃんフランスの詩人で。あの人が言った『芸術の本質』。」
「本質とか神髄って、おねえさん何かやたら好きだよね。」
「かもね。で、芸術にも色々あって、それぞれ担当する五感がある訳じゃない。音楽は耳・聴覚、絵画は目・視覚、みたいに。でも芸術の力っていうのは、この五感をみんな一緒くたにしちゃうことなんだって。例えば素晴らしい音楽を聴いていると目の前に風景が見えるよね。風の匂いとか川の水の冷たい心地よさとか、感じることができるじゃない。」
「そうだね。」
「逆に絵画を見ていて音楽が聞こえることもある。ゴーギャンとマチスとルノワールじゃそのメロディーが全然違う。こんな風に、視覚聴覚味覚触覚を、せーのでガバッと総動員する力。それが芸術ってもんなんだって。今さ、この建物見てて、あたし音楽が聞こえる気がしたんさぁ。もしもドボルザークに見せたら、この鳳凰堂が醸し出す雰囲気を・カラーを・アイデンティティを、音楽という手段に写し取って、表現してくれるんだろうなぁ…。」
「なるほど、そうつながる訳か。この話はドコ行くんだろうってちょっと心配だったけど。」
「悪うござんしたね。」
「おねえさんてさ、…オトコとつきあうの難しいかもな。」
「なんだなんだいきなり。何を言い出すねんこの小僧は。」
「いや、案外、女がそういうこと言うの嫌う男って多いかなと思ってさ。理屈っぺーとか、言われんだろ。」
「ああ、…ありますねぇ…。理屈っぺー以前に、平等院が好きっていうのがそもそもムカツク、みたいな。でもさ、これもし今日ここに誰かいたら、まさかこんなにつくづくと見やしないよ。これだけは独りじゃなきゃ出来ないことだし、また、したら相手に失礼だよね。たとえ親子でもきょうだいでも親友でも恋人でも。自分内部の世界に入りこんで、相手を無視することだから。」
「…ちょ、ちょっと待って。んじゃ俺は何、ここにいる俺は。」
「んな、そりゃあんたは、さ…。」
鳳凰堂の裏側をぐるっと回って、2人は入り口の側に戻り、内部拝観券を手に池にかかった橋を渡って堂内に入った。主(あるじ)は丈六の阿弥陀如来、二重天蓋(にじゅうてんがい)の下に鎮座している。
「何か説明してくれるみたいだよ。」
「うん。正直ジャマなんだけどね〜。アタシのがぜってー詳しいって。説明しろ、ちゅわれりゃーやったるで?」
「じゃあそれは右から左に耳の間抜いといてさ、仏像だけ見てりゃいいじゃん。ほらそこあいてる。座って座って。」
揃いの上っぱりを着たおばさんが平々凡々たる(スイマセン)説明をしてくれるのを、一見大人しく2人は聞いていたが、見ている場所は説明個所とは全然違っていた。しまいにはひそひそと、
「な、あれが木彫透彫宝相華(もくちょう・すかしぼり・ほうそうげ)だよな。葛生先生がああだこうだ説明してくれた。」
「そうそう。螺鈿(らでん)とかも使われてんの。」
「組入天井(くみいれてんじょう)、つうんだっけ。」
「見事な技術だよね。大陸を渡ってきた先進文化が、日本の風土紀行に十分ミックスされて生まれた平安時代の国風文化。何たってその爛熟期の、絶頂も絶頂、頂点を極めたのが、この鳳凰堂と源氏物語なんだからね。」
「仏教自体、日本風に変わったんだろ? 確か。」
「鎮護国家の仏教から、衆生救済の仏教へ。末法思想のすごさっつったら、ノストラダムスどこの騒ぎじゃなかったんだからぁ。って実際に見た訳じゃないけど。」
「でもこういう時おねえさんて便利だよな。ダテに仏教系の大学出てないよね。」
「ま、大学名はちょっと言えないトコだけど? 教授は本物の住職さんだった、早稲田の。」
「さしずめナマグサ坊主だろ。」
「うん。銀座のホステスさんとおつきあいしてたんだって。お寺ってお金あるからね。」
「うっわナマグせ〜!」
段々現実の話になってきたところで説明は終わり、一同はわらわらと外に出た。とその時、職員(?)のおばさんの1人が、どこぞの女子高生60人がやってくると説明係に告げにきた。ピクッ、と拓の耳が反応する。
「な、もちょっと。もちょっとここにいねぇ? ホラ俺ら勝手にしゃべっててさ、説明ちゃんと聞かなかったろ。」
「…ミエミエなんだよっ! おいでっアホ孔雀!」
「いていていて…」
智子に髪を引っぱられて、拓は本堂から連れ出された。が、入れ代わりに入ってきた賑やかな集団を見て彼は、
「おおーッ!やったルーズソックスじゃんっ!うっわ、あの子可愛いー!」
「こらこらこらっ!そういうのはいいのいいの!こっちおいでっ!」
まだ時間があるので智子はもう一度、池の向こう側に拓を引っぱっていった。本堂の中にはジョシコーセーの集団がいる。拓の視線はそこから離れず、芸術もヘッタクレも彼の頭からはきれいに流れ落ちているだろう。タイミングよくか悪くか雨も上がり、彼は髪のゴムをほどいてバサリと首を振った。
「ッたくもー…。判りやすいオトコだよねあんたは。HPでもさ、どうして孔雀のサロンなんですかって聞かれることあるんだけど、『拓=孔雀』の図式の説明、これで済んだよね。」
「え? 何でよ。見ての通り華やかで美しいから孔雀だろ。」
「なにテキトーなこと言ってんのっ。交尾したいメスが来ると尻尾に似たその髪の毛ほどくから孔雀なんでしょうが!」
「そうだっけ。」
「そうだよっ!」
「んよっしゃっ! んじゃ尻尾もヒロゲたことだし、エンリョなく行ってきまっす! いぇ〜い交尾交尾〜♪」
「やめなさいこのバチ当たりっ!」
やがて説明を受け終わった彼女らは、三々五々庭を散策し始めた。こうなったら防ぐ手だてはない。拓は全身をウキウキと弾ませて、
「ね、ね、ね、おねえさんまだこのへんとか見てぇだろ? 俺、ちょっと用があっから、30分後にあの出口んとこで待ち合わせしよう。5時に西大寺。十分間に合うだろ。んじゃな!」
例の撮影スポットでひとかたまり、ふたかたまり、みかたまりしている女の子の中へ、拓はさもさりげなく歩み入っていった。わざとらしく髪の毛をかき上げたりしていれば当然、
「あの、シャッター、お願いしていいです?」
「え? ああ、撮るの? いいよ。んじゃみんなそこに並んで並んで。んー、端っこの髪の長いカノジョ、もすこし中。真ん中のキミ、もちょっと笑ってっ! ソックスの左右がずれてるよっ!」
たちまち回りはジョシコーセーの花園、ただでさえ下がっている目尻をいっそうてれっとさせて、拓はご満悦の様子だった。
「ッとにしょーもねぇ奴…。ま、しゃあねぇか私のキャラだからな。」
智子は気づいた。雨の波紋が消えた阿字ヶ池の水面に、陽炎のように鳳凰堂がゆらめいている。雲間からうっすらと差し込む光が、建物の表情をまた新たに塗り替えていた。
中学の頃は…と彼女は回想した。中学の頃は、自分の好きな風景に人影があるのは嫌だった。例えばこの鳳凰堂でも、建物の美を純粋に楽しむためには、自分以外の参拝客を抹殺したいのが本音であった。でも今は違う。本堂の縁側に腰かけて足をぶらぶらさせている女の子も、冴えないポロシャツ姿で仏像を見上げている中年男も、全てが1つの風景としてすんなり視界に収まるのである。平等院は山寺ではない。かの昔にも今と変わらず、華やかな笑い声に包まれていたはずだ。ちょうどあの高校生くらいの年頃の若女房たち。恋のさやあてに熱中する貴公子たち。そんな人間模様を鳳凰は、大棟の上から見下ろしていたのだ。
この国宝の世界遺産は、あと何千年、ここに在ることができるのだろう。会津八一の『鹿鳴集』にある歌を、智子は静かに思い出していた。
ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に いずれ の ほとけ あり たたす らむ
感心なことに拓はちゃんと、30分で戻ってきた。が1人や2人ケータイの番号を聞き出した相手はいるのかも知れない。満26歳の男をそこまでは詮索しないことにして、2人は平等院を後にした。駅への途中、宇治橋を真ん中あたりまで渡ってみて、どう見てもあれはカモメだろう!という鳥に驚いたりしたが、4時8分発の奈良行き快速が到着するまでには若干余裕のある時間に、2人はホームに着いてしまった。
「何だよベンチくらい置いとけよ…。」
「あっちホームにはあるのにねー。いいよいいよ、直で座っちゃお。」
柱の根元の少し高くなったところに、拓と智子は90度直角の背中合わせで腰を下ろした。これができるのがGパンのありがたさ、そして旅というものの非日常感である。
「ありゃ、また降ってきた…。」
工事中のホームの屋根はプラスチックのトタンであった。夕立のような雨音を楽しんでいると、ほんの数分で雲が切れ、宇治川の向こうに聳える多分あれが嵐山じゃないか?の山肌を覆う木々から、水墨画そっくりの霧が天に向かって昇り始めた。
「すっげ、舞台のスモークみてぇ…。」
「なんかさ、『これが宇治だぜ参ったか!』って感じの眺めだよねー…。」
「ああ。マジ参った。これが宇治だわ。ほんとの宇治。」
「うん。」
「今日さ、来てよかったな。」
「そうだね。正直言って、かまりんや真澄っちにつきあって秋篠寺行くのが普通かなって、チラッと思ったんだけどさ、ここはどうしても来たかったんだ。無理して来て、よかった。」
「ただヒトツ残念なのがさ…」
「何よ。」
「俺テキには、さやかちゃんに会いたかった。ジモッピーしか知んねー美味しい抹茶アイスのお店っての教わって、…あああっ、一緒に食っちゃいたかったな〜っ!」
「よさんかこのエロ孔雀っ!」
奈良行きの快速に乗って、30分弱で奈良駅着。大和西大寺駅までは、時刻表上はほんの5分なのだが、
「だけど近鉄だろ? 西大寺って。」
土砂降りの奈良駅で拓は言った。智子もそれにはハッとする。
「そっか。京都みたくJRと同じ駅舎じゃないんだ。でもどっかに案内板くらいは…」
「―――ねえっ! どっこにも書いてねぇよ『近鉄奈良』なんてっ!」
「きっと仲悪いんだね、旧国鉄と私鉄…。」
「ガイドブックとか持ってねぇの? 駅はぜってー書いてあんだろ?」
「持ってるけど荷物の一番下に入れちゃって、宿に着くまで出せないんだよぉ。」
「何でそうゆう入れ方すんだよっ!」
「いいよ聞いてくるから。そこに案内所があるし。ちょっとここで待ってて。」
拓に傘を持たせて智子は飛んでいった。1分とたたずに戻ってきて、
「判った判った。行こ。」
「ほら傘。すっげ降りだよ。さっきよりすげー。」
「ほーんとだ。またまた真澄っちと八重垣がツルンどるな。けーっ! 若けりゃいいのかヤエガキはっ!」
「別に若かねっつの。…んで? どっち行くんだよこれを。」
「ああ、三条通りをまっすぐ行ってね、ほいで小西通りを左だってさ。」
「三条通りって、どれ。」
「…さあ?」
「さあ、って…さあってさあってさあって、おねえさんっ!!」
「だってあのオバさんが自信たっぷりに『三条通り』って言うから!その三条通りが判んないんですとは、どーしてだか言えなかったんだよぉぉ!」
「なんでソコまで聞いといて肝心なとこカッコつけんだよっ! イミねーだろがそれじゃあ!」
「大丈夫! 木村智子野生のカンを信じなさい! 何たって新宿の地下街でさえ迷ったことのない女! どれが三条通りかは知らねどもっ! …くんくんくんっ! 匂いからいって、こっちだっ!」
「匂いで判んのかよっ!」
「いいから、さぁ、続けっ!」
「赤信号ツッ切るな―――っ!」
バシャバシャと盛大にしぶきを上げて、2人は夕暮れ迫る奈良タウンをなぜか全力疾走した。
その3へ続く
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