奈良・大和路 夢幻紀行
【 2日め 6月19日(土) その1 】
朝霧が晴れるように自然に、拓は目を覚ました。
枕元に置いておいた腕時計を手に取り顔に近づける、と時刻は7時18分であった。何とナイスな時間であろう。体内時計が健康な証拠である。彼はあくびを1つしてからモソモソと腹這いになり、煙草をくわえ火をつけた。
右側の布団の中には八重垣がいた。首を心持ち左に傾けているので顎の線がよく見える。この寝顔にゾクゾクする女は多いんだろうなと思いながら眺めていると、眠っていても視線は感じるのか、八重垣は軽く眉をしかめ体を動かした。やがてうっすらと目をあき、言ったのが、
「…朝?」
拓はぷっと笑った。
「朝だよ。なに寝ぼけてんだよ。今…7時20分。」
「そっか。」
左手で目を覆い少しじっとしていた八重垣は、前ぶれもなくむくっと上半身を起こし、かくんと首を前に垂らして、それから、
「おはよう。よく眠れた?」
唐突にそう尋ねた。
「ああ。よく寝た。けど…お前の起き方って何か変な。ロボットみてぇ。」
「そう? いつもこんなだよ。」
「そらまそうだろうけど…」
八重垣は煙草は吸わない。四つん這いになって布団を抜け出し、
「歯、磨いてくるわ。」
タオルを首にかけ歯ブラシを持って、静かに座敷を出ていった。拓も煙草を揉み消し、もう1度ごろんと仰向けになってから、両腕を天井に突き上げてくわーっと伸びをし、よっ!と起き上がった。
女たちの方はまだ静かだが、彼女らの寝起き顔に別に興味はないので(何やと?)八重垣同様、拓は洗面所に向かった。
顔を洗って戻ってくると、襖の向こうで何やら、人の出入りと布団を畳む物音がして、
「おっはよー! 大雨かと思ったらそうでもなくてよかったねっ!」
朝からそのテンションは何?の智子が、さも『熟睡しました』という顔とアタマで襖をあけた。
「お早うございます。そうみたいですね。降ってはいるけど小降りっていうか。」
「なー。おねえさん何だよそのアタマよぉ。ちったあ女の身だしなみってモンを考えろっつーの。」
「ああもう朝からうるさいうるさい。八重垣くん、この分なら奈良市内じゃなくて山の辺の道、行けるね。」
「ええ、十分行けますね。レンタサイクルはちょっと無理かも知れないですけど。」
「あたしはカッパ持ってきたんだけどね。まぁやめとこう。荷物は少なめにしてなるべく両手あけて。」
「そうですね。むしろ涼しくていいかも知れませんよ。すいてるだろうし。」
「ああそりゃすいてるだろうね。」
「TVつけてみっか。天気予報やってんだろ。」
拓はスイッチを入れた。ローカルニュースの画面が映った。
「はっはぁ、ぜんぶ傘マークだ。真澄っちパワー絶好調。ちょっとムッカ。」
「やだぁ、ムカつかないでよぉ拓ぅ! なるべく大人しくするからぁ!」
「な、八重垣。途中で土砂降りになったらさ、三輪明神のいけにえ誰にすんだっけ。」
「え? いけにえ? …まぁ、それはやっぱり…」
「やだーっ! いけにえは勘弁してぇっ! 今日もちゃんとお給仕するからぁ!」
「大丈夫よ真澄っち。キミがいなくなっても慎吾くんのことは、ずっと見守っててあげるから。」
「うううっよろしくお願いします、ねーさま! リバウンドは5キロまでで止めるようにと…って違うでしょーっ!」
寝起きでこれだけのボルテージなら、昼ひなかはどこまでいくのだろう。八重垣は少し不安になった。
8時になったので食堂へ行き、夕べと同じ席に着く。おかみさんは今日もてきぱきと料理を作ってくれたようだ。
「わーい、生卵〜! いっただきまーす!」
「大根下ろしにしらす干し! いいわー、嬉しい!」
「でもこれさ、日本の朝の定番だけど、やっぱ関西の朝食!って感じするね。いや文句とかじゃなくて特徴。」
「え、どこが?」
「関東以北だったら、絶対これに納豆付くでしょ。」
「あー! 言えたぁ! 付く付く。ホテルのバイキングにだってあるもんね!」
「関西ってさぁ、そんなに納豆食べないのぉ? 真澄っち。」
「うーん…。やっぱりまず出ないですね。特別に頼まないと。」
「地方色かぁ。面白いもんだね。」
3人の話を聞きつつ拓は、納豆があろうとなかろうと、食べる量には大差ねーだろ?と思った。まさしくそれはその通りで、
「ごちそうさまでしたー。」
テーブルにはやはり食器しか残らなかった。
出かける準備はすぐにできた。バスは21分発だが何ごとも早めが一番だと、5人は9時5分前には靴を履いた。小雨模様の中、傘をさしているとおかみさんが出てきて、
「今日はお天気もこんなで涼しいだろうから…夕食に飛鳥鍋、出しましょうか?」
「「「えっ!!」」」
女3人はそろって聞き返し、
「飛鳥鍋―! 出して頂けるんですか、嬉しーっ!」
「じゃああの、ビールとか買ってきて持ち込んでいいですか? お鍋と聞いちゃあ、これはお酒がないと…」
カマタの質問におかみさんは快く、いいですよと言ってくれた。やったー!と5人は喜び、
「行ってきまーす!」
元気よく挨拶をして門をあけた。道へ出るとバス停は目の前だった。
「ねー、ここでいいの? 八重垣くん。」
「ええと…ちょっと待って下さい。停留所としてはここでいいんですけど、どっちから来るのかな。逆行きの場所に立ってたら大馬鹿だし…。あれ?」
妙な場所にもう1つ停留所がある。何だろうと八重垣は駆けよった。明日香村内にそんなに幾つも、路線があるとは思えないのだが…
「あーっ! 八重垣くん、バス、バス!」
カマタが彼を手招いた。狭い四つ角を大きな車体が曲がってくる。
「これに乗んのかよ八重垣! 21分つってたのに、やけに早くねぇか?」
「ちょっ…これじゃないですよ! これじゃないです、行き先が違います、乗るのは橿原神宮駅行き!」
「えー? これって何なの? どこ行きぃ?」
「これは…桜井駅行き! これじゃないですよ!」
車体の横をすり抜けながら、そう言ったとたん八重垣は自分でハッとした。
「桜井駅南口…?」
彼は頭の中に素早く地図を広げた。桜井までは電車で行くつもりだったが、その桜井への直通バスがこれだ。何でガイドブックに書いてなかったんだろう、いやそれはどうでもいい。電車を乗り換え乗り換えして行くよりも、これに乗ってしまった方がいいに決まってるんじゃないか…?
「いや、ストップ! これでいいんです、これで!」
前言撤回した八重垣に、
「えっ!? えっ!? なに! どうすればいいのっ!」
当然ながら4人は右往左往する。八重垣は信じられないほど身軽にバスの方へ戻っていき、乗らないんやなと思ってかドアを閉めている運転手に、
「すいません! ちょっとすいませーん! 開けて頂けますか! ここあけて下さい、オープン・ザ・ドア!」
後ろの4人を大爆笑させるセリフを吐いてバスに乗りこんでいった。
「すいませんちょっとお伺いしますが…。」
「はい?」
これだけ大騒ぎで乗ってきて、しかも標準語で話しかけてくるのは観光客に決まっている。と判ったからかどうか、歳とった運転手の対応はひどく親切なものであった。
「どこ行くんやね、あんたら。これは桜井駅行きやで?」
「ええ、それは判ってるんですけど…橿原神宮行き、とは違うんですよね? これは。」
「全然違うよ、方角が逆。橿原行くんやったらバス停はあっちの…」
「これって桜井駅まで何分くらいで着くんですか?」
「20分くらいやけど、橿原には行かないよ?」
「ええ行かなくていいんです。20分か。じゃあこっちのが早いな。」
「何やよぅ判らんけど、つまりあんたらの目的地はどこなんや。」
「いえですから桜井駅なんです。この路線があるの知らなくて、電車で乗り継いで行くつもりだったんですけども、でもこれでいいんです。あ、フリーきっぷの範囲内ですよね?」
一人で納得してしまった八重垣が不安だったのか、運転手はさらに尋ねてくれた。
「それはそうやけど、だから、最終的にはどこへ行くの。どこへ行きたいんや、あんたらは。」
「ああ、山の辺の道。雨ですけどね。行ってみようと思って。」
「…。」
なぁんだ、という顔で運転手は黙った。八重垣はどうもと礼を言い、後方の乗り口に向かって、
「いいよ。乗って。これで大丈夫。」
「おいホントなんだろな。信じるぞ。俺、お前信じるかんな。」
「うん。信じて。ほら早く早く。もたもたしてると悪いよ。」
「んな、てめぇで混乱さしといてよ…」
ブツブツ言いながら拓はステップを上がり、5人は一番後ろの席に横一列に座った。乗客は他に誰もおらず、運転手はミラー越しにニコニコと話しかけてきた。
「どっから来なさったね。東京? このお天気で山の辺歩くんか?」
「そうでーす。物好きでーす。いぇ〜い。」
キリッと髪を束ねた快眠快食の顔で、拓はVサインを出した。運転手は感心し、
「そらまたえらく時季外れやなぁ。」
「俺もそう思いますぅ、いぇーい。んでも休みが取れなくて、仕方なかったんすよ。」
「まぁ若いからねぇ。雨くらい大丈夫やろ。」
「いやそれが若くなんかな… いてっ! おねえさ… 足、足踏んでる!」
「おーほほほほほ、人間死ぬまで青春よぉ。」
雨の土曜日ではあったが、走るにつれバスは混んできた。見るからに観光客というのはこの5人だけで、あとはみな地元に住む穏やかな人たちばかりである。渋滞もなく桜井駅に到着し、下りていく客の最後から、
「どうもお騒がせしました。お世話様でした。」
きちんと八重垣が礼を言うと、
「あのな、駅の向こう側行ってな、通りをまっすぐ行くとサティがあるから、その脇に大きな案内看板が建っとるで。『山の辺の道』、ゆぅていろいろ書いてあるわ。」
「そうですか。ありがとうございます。行ってきます。」
「ほな気ぃつけてな。」
ソロゾロとバスを下りて駅の通路を歩き、
「さすが観光地、親切な運転手さんでしたね。」
「ほんとだねー。道とかけっこう聞かれんのかも知れないね。」
「でもあたしさぁ、いま説明してくれてる間に、この切符サッと真澄っちに渡しちゃおうかと思った。」
ケラケラ笑ってカマタは言った。東京組の4人はJRと近鉄の『奈良・大和路フリーきっぷ』で来ているが、この企画きっぷに四国発着のコースはないのだ。
「それは大胆な発想…。でもやろうと思えばできたよね、今。」
「うん。でもさぁ、親切な運転手さんだったから、悪いかなっと思って、やめといた。」
「そうですよ。あんなに親切に教えてくれたのに申し訳ない。」
「これさ、むしろ感じ悪い横柄な運転手だったら、やっちゃうよね。」
「やっちゃうやっちゃう。人間そういうモンだよ。」
山の辺の道とは、元来奈良と桜井を結ぶ交易路なのだが、周遊コースとして一般的なのは天理〜桜井間の約15キロである。シーズン中は行列が出来るほどの有名観光ルートだ。
「海石榴市(つばいち)と金屋石仏をパスするのはちょっともったいないんですけどね。全コースだと少しきついですから、バスで三輪まで行っちゃいます。いいですね。」
「はーい。おまかせでーす。」
反対側、北口に出ると目の前にバス乗り場があった。
「『天理駅行き』だって。これに乗ればいいんだろ? 八重垣。」
「うん、ここだね。これに乗って三輪明神参道口で下りて…」
ガイドブックを開く八重垣の隣で智子は、
「おやま、ブックオフがある。ほんとに全国にあるんだね。」
などと全然関係のないものを発見して感心していた。空は曇っているが雨は落ちていない。このままいってくれればピーカンよりもウォーキングには適した陽気だ。
数分でバスはやってきて、5人の他に若干の乗客を乗せ、広い国道を走り始めた。
八重垣は地図の道路を指先でなぞり、今どのあたりを走っているのか確認していた。カーナビを信じないタイプの男である。歩けばけっこうな距離もバスにかかればほんのわずかで、
『次は、三輪明神…』
アナウンスを聞きつけて真澄はブザーを押した。八重垣がハッと顔を上げる。
「三輪明神参道口でいいんでしょ?」
「ああ、はい、すいません、そうです。」
バスは路肩に寄り、5人を下ろした。道路の反対側に、ここを右折すれば大神(おおみわ)神社であることを示す道路標識が付いている。がそんなものがなかったとしても、ここが参道だとはすぐ判る。高さ32.2メートル、日本最大の大鳥居が灰色の空にどどーんと聳え建っているのだから。
「すっげ…。ここまででけぇと何か不気味だな。」
「言えてるねー。また色が赤くないからさぁ。」
「いえ、これで赤かったらかえって怖くありません?」
「ああ確かにそれもそうかも…。」
「よくさぁ、石投げてあの横棒のとこに乗っけたりするじゃない? ここじゃ絶対無理だね。」
「無理無理。むこっかわに人がいたら危ねって。」
「第一届かなくない? 助走つけて槍投げみたく投げないと。」
「いやそこまでして乗せなくても。」
「雷とか落ちないのかなぁ…。」
「んな群馬じゃねーんだからよ。」
これほど巨大だと「くぐっている」という感じさえしないが、5人は大鳥居をくぐり抜けて神社を目指した。途中でJR桜井線の線路を越える。
「うわ、なんかまた降りだしたぜ。」
「なーにこれくらい平気平気。」
道は少しずつ昇り坂になり、二ノ鳥居を過ぎると本格的な参道の風情になってきた。丈高い杉の木が砂利敷きの左右に壁を作って、神域と俗世とを粛然と隔てている。
「まさに『神さびた』雰囲気だよねー。」
「いいですね。落ち着きますね心が。」
ザクザク進んでいくと左側に、
「おっ! 真澄っち真澄っち! キミのための社がそこに!」
「えっ? 何ですか?」
見ると『縁結び』と墨書された札が建っていた。八重垣が近づいていってよく読むと、
「…ああ、これはむしろ結婚してる人用ですね。夫婦和合と家内安全ですから。」
「じゃああたしだ。ちょっくら御免なすって。」
「おねえさんはエンギでもねぇから離れてた方がいいよ。」
「るせいっ!」
カマタはリュックを背にしっかり手を合わせ、自らの将来の安泰を祈った。と、そこで真澄が、
「あたしも一応拝んどこー。」
「一応ってのは何なんだよ真澄っち、一応ってのはよ!」
拓はおかしそうに笑い、
「な、これさ、デジカメで撮ってHPに載せたら笑える絵だよな。真剣に拝む真澄っちの背中と、その脇に建つ『縁結び』の立て札!」
「はっはっはっ、ウケるウケる!」
「でもそういえば今回のこのメンバーって、誰もカメラ持ってきてないんですよね。なんか、僕としては嬉しい。」
「何でお前が嬉しいんだよ。」
「だってさ、そういうのって何か嬉しくない? よくさぁ、いるじゃないどこ行ってもまずカメラ構える人。撮らなきゃ気が済まないのかなぁ。自分の目で見るのが一番大事なのに。」
「まっな。特徴的…つうか、単に変わってんだろ? うちら5人とも。」
オガミ終えた真澄を含んで5人はさらに奥へと進んだ。見えてきたのは文字からして古代日本最大の社、大神神社。
「ああやっぱり工事中ですね。」
階段を昇りきったところで八重垣は言った。大神神社は平成12年まで解体修理中、工事のビニールシートがそぼ降る雨に濡れている。
「まぁ、ぶち壊しってほどのこともないでしょう。神様のお住まいも、古くなれば改装するんですよ。」
「そだね。ここはお酒の神様だからワレワレはちゃんと拝んでいこうよ。全国の酒屋さんに下がっているあのスズメバチの巣みたいなやつ…杉玉って、ここがそもそもの起源なんだって。」
「あ、そうよね。ちゃんと拝まなきゃ。」
「賽銭賽銭…。八重垣代表して出しとくか?」
「何で俺が。駄目だよそんなんじゃ、お賽銭の意味ないだろ。」
「お賽銭込みのフリーきっぷとかってねぇのかな。」
「ないないない! アイデアとしては面白いけどバチ当たりっ!」
5人はおのおの小銭を投げ、正式な二礼二拍で祈りを捧げた。境内のあちこちには寄進者の名前と金額を記した木片がずらっと掛けられている。
「ふわー、金30万円だってよ。個人でそんなんやる奴いんだな。」
「あんたと違って信心深いのよ。」
「でも30万は多くね? 行ってもせいぜい5万だなー。」
「ん〜…あたしだったら5千円てとこかなぁ。」
「なっ! なっなっ、そうだよなカマタ! やっぱそれが普通の感覚だよな。」
「まぁ今回はお賽銭だけってことで。」
「うちら旅の途中だから。そうそう。」
拝殿の裏手を散策する小径もあるのだが、雨ですべるのは確実であろう。5人は大神神社を後にした。
「さあ、いよいよここからが山の辺の道本格コースの始まりです。辛くなったら途中でバスか電車に乗るとして、行けるところまで行ってみましょう。」
「よっしゃ! 目指せ全走破、じゃない歩破!」
拓は両腕でガッツポーズをした。
「じゃあ行きますよ。次の目的地は桧原(ひばら)神社ですが途中の小さなお社とかにも、足が向いたら寄ってみましょう。」
「はーい。それではイザしゅっぱ〜つ。」
5人はゾロゾロと歩き始めた。先頭が八重垣でその後ろに何となく女3人、しんがりを拓がかためる形となった。
二ノ鳥居を出てすぐの、細い道を右折すると看板が見えた。『森正』と書いてある。
「おおっ一見『森且』のようなこの看板! これって三輪そうめんのお店なんでしょ? 八重垣くん。」
「ええそうですね。山の辺の道って食事できる店が本当に少ないですから、ここは貴重なんですよ。時間によってはここで昼食もいいかなと思ったんですが、今回は先に進みます。」
「そうだね。さっき食べたばっかだもんね。…つっても今、そうめん食べろって言われれば食べられるけどさ。」
「えっ? じゃあ…食べていきます?」
「いや、いいいいそんな! 食べ『られる』って話よ。」
「そうですか。びっくりしたぁ…」
「旅行先って何でだか食欲沸くんだよね。活動するからかな。」
「環境が変わるからじゃないの。エネルギー必要なんだよきっと。」
重厚な造りの民家が連なる路地を進んだ正面に神社があった。『若宮』である。ついでといっては何だがそこにも足を踏み入れてみる。
「…へー、太直(おおた)タネ子を祀ってるんだぁ。」
「オオタタ猫ってどんな猫?」
「拓ぅ。それは…ボケなのか? それとも天然?」
「さぁ。おっ、あんなとこにタマゴのパックがあんぞ。」
「ほんとだ。『磐座(いわくら)』だって。ふーん。タマゴの好きな神様なのかな。」
「ひょっとして蛇に関係してんじゃないの? 知ってる? 古代日本の蛇神論。」
「いや知らねぇけど。」
「ほらどっかのハタケから出てきた有名な、『漢倭那国王』ってハンコあるじゃない。」
「ああ、そういや教科書に載ってたな。」
「あの『那』って、英語のsnakeのnaとも通じるんじゃないかって論があるのよ。日本語の『長い』にはもともと蛇の姿が影響してるんじゃないかと。」
「なんかよく判んね。お前知ってる? 八重垣。」
「いえ知りません。」
「…まぁいいや、ウケなかったからこの話はここまで。…次行こう次っ!」
「行きますか。」
「なー。うちらって神様にしてみりゃうっせー奴らだろな。タマゴが好きかの蛇が長ぇの。」
「なぁに枯木も山の賑わいだ、かまうこたぁない。」
「いえそれは意味が違いますよ智子さん。」
「知っとるわい。」
登り坂の正面に、こんもり丸い三輪山の森が見えている。天気がよければいい眺めであろう。知恵の神・久延彦(くえびこ)神社を左に見、磐座神社を過ぎて5人は狭井(さい)神社に着いた。清楚という言葉がぴったりのこじんまりとした境内に、桧皮葺の拝殿が建っていた。
「ええと…ここはですね、昔、百合の花がたくさん咲いていたそうですよ。三枝(さい)っていうのは百合のことで、神武天皇のお后、五十鈴姫の実家がこのあたりにあったそうです。」
ガイドブックを小脇に抱え、B6サイズの『八重垣ノート』を開いて幹事は説明した。拓が東京駅の改札で遠目に見た時、八重垣が読んでいたのがこのノートである。覗きこむと細かいペン字でびっしりと名所旧跡の説明が書き込んであった。
「すっげ、お前、こんなん作ってきたの!」
拓が手を伸ばすと八重垣は身をかわした。
「ちょっ…見るなよヒトの虎の巻を。」
「すっげー…。気合入ってんじゃん。どしたのお前。ダツボーだねこれは。…ねぇねぇ見てみ、おねえさんたち。」
「なになにどうしたこうした。」
「いいですよ集まってこないで下さい。あ、ここの薬井戸は霊水だそうですよ。飲んでいきましょう。こっちです。」
八重垣は拝殿の後ろへ回った。小さな石段を登った突き当たりに香炉を大きくしたような石の…何というか、『泉源』があり、脇の台にプラスチックのカップが並んでいた。
「よっしゃ、テイスティングしよ。」
拓は左の手のひらに水を受けてペロリと舐め、くちゅくちゅくちゅとやってからゴクリと飲んだ。唇からひとしずくの霊水が垂れる。
「あ、うまい。さすが生水、この甘さは本物。」
「え、ほんと?」
「ほんとほんと。ほのかに甘いの。水道水の臭みが全然なくて、まろやかで、品がいい。」
「ほんとかぁー?」
恐る恐る口をつけて、4人は拓の舌が正しいことを知った。生きた水の生の甘さ。ひんやりした土の冷たさを、じかに感じるあの味であった。
「おいしー! ひっさしぶりぃこんな水飲んだの!」
「うん、おいしいですね。こんな水でお茶いれたらすごくいい味がするんだろうな。」
「そうそう、ご飯なんか炊いてもおいしそうー! 水割り作ってもおいしいよきっと!」
「なんつぅかさ、雑菌も微生物も山ほど入ってそうだよな。顕微鏡とかで見たらすげぇんだぜきっと。」
「言えたー。うじゃうじゃいそう。」
「でもさ、人間ってもともと、そんなんと仲よくつきあってきた訳で、今なんか流行みたいに殺菌だ消毒だっていってっけど、俺テキにはあれ、違うと思うね。この水、これ殺菌したらまじぃぜ、ぜってー。人間てそんなにヤワじゃねんだよ。」
「そうだね。俺もそう思う。自分たちで弱くしちゃってるとこが、現代人にはあるよね。」
「だよなぁ。泥のついた手で食うおにぎりが、これがサイコーにうめぇんじゃねぇか。なぁ。」
「そうだよねー。あー水筒持ってくればよかったぁ。この水汲んで持って帰りたいぃ。」
「そこまでしますか、かまりん。」
彼らは山の辺の道本道に戻った。しばらくは薄暗い山道が続く。
その5へ続く
インデックスに戻る