奈良・大和路 夢幻紀行

 
【 2日め 6月19日(土) その3 】
 
 広い国道169号線の向こう側に、ドライブインめいた雰囲気の大きな店「まほろば」がある。信号のないところをうまく横断して中に入っていくと、時分どきだけに混んではいたが幸い満席ではなかった。
「あれ、5人掛けは無理かな。」
 ざっと見回して八重垣は言った。拓はすかさず、
「んじゃ2たす3に別れりゃいいじゃん。ほらそこ、ちょうど2つ空いてるし。」
 なるほど通路を隔てて4人掛けの席が2つある。片方にさっさと彼は座った。女性陣の方は、
「じゃあかまりんと真澄っち、そっちに座ってよ。あたしは八重垣くんと、ちょっとコースの確認なんぞしたいから。」
「あ、そう? じゃかまりん奥どうぞ。」
「はいはい〜。」
「あーハラ減った。なぁなぁ何にする? やっぱそうめんかな。だけどうどんもいいよな。」
 拓は早速メニューを広げ、3人で、これがいいのあれはどうだの、暖かいの冷たいのとディスカッションしたあと各々オーダーを決めた。隣の2人の方を見、
「なー。そっちは決まった? 何にすんだよ。」
 尋ねると応えはいたって簡略、
「あ、俺、そうめんで。」
「あたしはにゅうめんね。」
 それから何を始めたかというと、2人黙ってガイドブック読みである。3人は様子を横目で眺め、
「…あいつらってさ、ひょっとして、そっくりなんじゃねぇの。性格つうか特性が。」
「そうねー、言えてるかも…。」
「そういや同業者だよな。あれっ? でも真澄っちもコンピュータ屋か。」
「うーん、そうなんだけど…でも八重垣くんと、ねーさまってもともと汎用機系なのね? だからあたしとはちょっとお派が違うかなー。」
「え、汎用機って何?」
「んーとね、銀行のオンラインシステムみたいな、大型のコンピュータ。一時ダウンサイジングがブームになってずいぶん減ったんだけど、最近また増えてきたんじゃないのかな。」
「ふーん。よく判んないけど、そういうのがあるんだぁ。」
「んだからぁ、要するにあいつらはオタクだってことだろ? やっぱどっか変わってんもんな。さすがは作者とそのキャラだわ。うん。」
「あ、でもねでもね。キムラが前にメールで言ってたんだけどね。」
「なになに。」
「拓は自分の中の『こうありたい自分・こうあるべき理想』で、対して八重垣くんは『こうである自分』なんだって。だから八重垣くんには愚痴も我儘も言えるけど、拓には絶対、泣き言なんか言わないって。言っちゃいけない相手なんだって、そんなことキムラ言ってたよ。」
「…いや〜…けっこう聞かされてんぜ? 俺。」
「それでも加減してるんじゃないのお? 八重垣くんにはもっとヒドイこと言ってんのかも知れないよぉ?」
「あ、かもなかもな。よかったぁ俺、理想で。そこまで面倒見たくねぇもん。」
 ひそひそ言っていると唐突に、
「聞こえてるよっ全部。か〜まりんっ、あんまりバラさないでよねっ!」
「うわびっくりした。なんだぁ聞いてたのぉ? 地獄耳ー。」
 八重垣も苦笑して、
「聞いてましたよ。すごくよく聞こえました。咳払いしようかと思ったくらい。」
「ねーっ! そいでナニ、あたしらがオタクだってぇ? そりゃまぁ、違ってはいないけどさ。面倒見たくないとか言ってた奴いなかった?」
「え? んなこと誰か言ったっけ? …山菜うどん遅ぇな、どうしたんだよ。」
 拓が厨房の方を見やった時、タイミングよくウェイトレスがやってきた。どれが誰か聞こうとするのを、
「あ、テキトーにこのへん置いちゃって下さい。勝手に取るから。はいタヌキの人ぉ。」
「あーありがと拓。はい、七味いる?」
「お、サンキュ。いっただきまーす。」
 パキンと箸を割って全員ズルズル食べ始めた。が、
「おい、八重垣ぃ…。お前さ、食ってっ時くらいガイドブック閉じろよ。」
「いや、ちょっとこの先がね? いくつかコースがあってちょっと複雑になるから、よく調べとかないと…」
「んな、5人もいんだから何とかなるって。イザとなったらどっかで野宿すりゃいいじゃん。」
「そうね、拓とだったら野宿もいい…いーやダメ駄目だめっ! 今夜は宿で飛鳥鍋じゃないよっ!」
「あー! そうかそうだった! おい幹事! お前そうめんなんか食ってねぇで調べっとこきっちり調べとけよ。いいな!」
「…勝手な奴…。これで理想なんですか? 智子さん。」
「さーねぇ、どぉだかね。ごめん、そこの七味取って。」
「ああはいはい。」
 
 関西らしい薄口の味つけを楽しみ、食後の休憩を少しとって5人は出発した。再度国道を渡り、こんもりと緑に覆われた天皇陵を右手に見る小径を進む。と、拓が何かに気づいて言った。
「なんだこの鍵。」
 陵(みささぎ)の回りはちょうど皇居のお掘のようにぐるりと池がとりまいていて、グレイの羽根の五位鷺がつがいで飛びかっているのだが、その池と道の間に、土手とも言うべき草の細道があった。今歩いている土の道から草の道へは、行こうと思えばひょいとひとまたぎで移れる、のに、その草の道の「入り口」に当たるところに、小さな鉄の門がついているのだ。柵も壁も何もないから門だけあってもどうしようもないはずで、なのにそこにはご丁寧に、錠前までしっかりかかっていた。
「意味ねぇー! 何がしてぇんだよこれ!」
 錠前を指さして拓も4人も笑った。底のない桶よりずっと無意味である。昔は柵があったのに壊れたのだろうとか、他の場所にあった門をここへ移したのだとか、考古学的な見地から活発な意見交換がなされたが、そのうち八重垣の眉間に、段々と縦皺が寄り始めた。彼はひたと立ち止まった。
「道が違う…。」
「ええっ!?」
「今、最後の道しるべってどこでした?」
「道しるべ…は、さっきお店入る前の、あの畑の中に立ってたよ。」
「何だよぉ、違うのかよ八重垣ぃ。さっきちゃんと調べたんだろ?」
「うん。でもこの道はどう考えても違う方向に行ってる…。」
 八重垣はガイドブックを右へ回したり逆さにしたり、結局元に戻したりした。見た目は冷静そのものだが、顔はけっこうひきつっている。
「戻りましょう。」
 やがて彼はきっぱり言った。
「判らなくなったら、判るところまで戻る。それが鉄則です。」
「いや鉄則は鉄則だろうけど、…おいっ! 待てよっ!」
 ガイドブックを凝視しつつ前体重の早足になって、八重垣は天皇陵の池のはたまで戻った。
「なー! どこまで戻んだよ!」
 4人としてはついていくしかない。コイツこんなに早く歩けたのかよというスピードに拓が何とか追いついたところで、
「まぁた立ち止まってる…。どぉれ。何が判んねんだよ、ちょっと見してみ。」
 拓は八重垣の隣に立ち、強引にガイドブックを覗き込んだ。八重垣は指先で地図をたどった。
「ほら、ここがさっきのうどん屋だよね。その前の道はこれしかないから、ここまでは絶対合ってるんだよ。でもこの先、この曲がり角がどれなのか…」
「どれどれ、どうしたのぉ? 判んないのぉ?」
 真澄もカマタも顔を寄せた。拓は腕で2人の肩を押しやって、
「んな集まってきたら手元が暗ぇだろっ! 待ってろ今調べてっから。」
「ねぇ、ねぇ拓。」
 八重垣は彼のTシャツの袖を引っぱり、
「ひょっとしてさ、この池の脇を行くんじゃないのかな。この土手みたいなとこを。」
「あ? なに、この草の上をぉ?」
「うん…。この地図によると、方角はつまりこっちだろ? で、さっきの道が違うとなると、あとはこの草の道しかないと思うんだ。」
「待て待て待てお前。んな、この道ったってよ、そこのヤブに突き当たって終わってんじゃねぇかよ。まさかあの葦みてぇなの、ザワザワかきわけて行けっつんじゃねぇだろな。そんなん、もう山の辺の道じゃねぇぞ。富士の樹海だろ。」
「ああ、ねぇ…。」
「ああねぇ、じゃねーだろお前。第一よ、違うよぜってー。だってあの門に、しっかり鍵かかってたじゃねぇかよ。」
「そうか。あの鍵にはちゃんと意味があったんだ。」
「おいおい感心すんなよぉ! んなとこで迷って、飛鳥鍋食い損ねたらどーすんだよっ!」
「でも…じゃあ今の道で合ってたってこと?」
「とにかく行ってみようぜ。道はこれしかねんだからよ。」
「そうだね。」
 男2人は歩き始めた。3人も後に続く。道はゆるやかに左カーブして、そこで、
「あっ、判った!」
 八重垣は声を上げた。
「これだこれこれ! ほら! ここで地図が、少し右に曲がってるんだ。ここを見すごしたんだよさっきは。ね! …判りました皆さん。長岳寺はこっちです。」
「ほんとぉぉ? だいじょ〜ぶぅ?」
「今度は大丈夫。どうもご心配おかけしました。」
 少し行くと、やれやれ道しるべが見つかった。八重垣は心底ホッとした顔をして、
「ね。合ってたでしょ。この道でいいんですよ。」
「ほんとだぁ。これはちょっと判りにくいよね。さっきの曲がったところにさ、道しるべ立てといてくれればいいのに。」
「でもまぁ、こうやって迷いながら行くのがまた楽しいんですけどね。ね。」
「迷わした張本人がセルフフォローすんなっ!」
 拓にどつかれ、八重垣はわざとよろめいてみせた。あたりは古びた住宅街であったが、道はだんだんと狭くなり、農家の裏の里山を昇り下りしているような雰囲気になってきた。
「おやま、ニワトリ。」
 鳥好きの智子が、道の真ん中に立っている茶色い雌鶏を見つけた。どこかの家で飼っているのだろう。人慣れしており怖がる様子もなく、目を合わせたらじゃれつかれそうであった。
「道にニワトリってのも珍しくない?」
「『道ばた』なら田舎にはよくあるけど、真ん中にいんのは珍しいかもねー。面白いや。」
「犬や猫じゃないんだからねー。」
「やっぱり車が通らない道だからだよ。」
「…な。面白ぇってば、あれも面白くねぇ?」
「え、何?」
 拓が指さしたのは、農家の門の角に置いてある手作りの道しるべだった。道しるべといえば聞こえはいいが、実態はベニヤの看板である。
「『←天理』…。なんかさ、文字に苛立ちがこもってねぇか?」
「こもってるこもってるぅ! きっとさぁ、聞かれるんだよ旅行者に。庭にいたり部屋の窓あけてあったりすると、旅の解放感でミョーに人なつこくなった奴が、『すいませーん! 天理ってこっちですかぁ?』とか。」
「ああ、あるでしょうね。それでつくづく嫌になった訳ですか。」
「そう。きっとそうだよ。なんかあの白いペンキの手書き文字にはさ、『天理はあちらですよ〜』じゃなくて、『あっち!!』ってニュアンス、感じるもん。」
「言えたなぁ…。」
「GWとかのシーズンにはさ、この静かな道を旅行者がゾロゾロ、それこそ列をなして通っていくんだろうからね。ジモトの人には迷惑なのかもねぇ。」
「ゴミとか捨てたりさ、すんじゃない? 中には。」
「かもなぁ。」
 天理はあっち!!の看板はその先にも、ここぞという個所には必ずと言っていいほど置かれていて、おかげで5人は迷うことなく、目的地にたどり着くことができた。
「おお、ここだここだ。『高野山真言宗 釜ノ口山 長岳寺』。」
「静かだねー…。雨は上がったのに、人影どこにもないじゃん。」
「ラッキーラッキー。ゆっくりできんぜ。」
 5人は大門をくぐり、境内へ入っていった。まっすぐに延びた参道は、だがずいぶん行っても寺に着かない。道の左右の植え込みは全てつつじだから、花どきにはさぞや見事だったろう。
「今の時期ってさ、ほんっとシーズンオフなんだろな。」
「そうだね。藤もツツジも菖蒲も終わってるし。」
「JRでも『閑散期』っていうくらいですからね。落ち着けていいですけど。」
 道はカクッと直角に左に折れ、そのあたりには何と民家まであった。が、ここで参道はようやく終わりに近づく。
「あっと、このお寺は入場料がいりますよ。まとめて買いますから僕に出して下さい。」
「おお、よろしくな幹事。」
「よろしくな、って…だからはい、お金。」
「んな、300円くらい立て替えとけよぉ。」
「駄目。忘れるに決まってる。特に君は。」
「んっ! 八重垣くん、その指摘はまことに正しい!」
「どーゆー意味だよっ!」
 八重垣は5人分の料金を払い、引き換えに貰ったリーフレットを配った。ここの境内は比較的広く、築山に池、八十八ヶ所道などもある。
「まずは本堂にお参りしましょうか。ここのご本像は玉眼…眼に玉をはめこんだ仏像としては日本最古のものなんですよ。」
 バイブルを手に八重垣は言った。楓の枝のさみどりが美しい。石畳を歩いていくと左手に本堂が見えてきた、のだが、
「何だ? あのおっさん。」
 拓は小声で言った。青いジャンパーを着た男が、一瞬あれっと思う雰囲気で本堂前の階段に腰かけている。
「おいおいぃ、今どき賽銭泥棒かぁ?」
「馬鹿、聞こえるよ拓っ!」
「だってヘンじゃん。まだ若いけどよ、ひょっとしてイッちゃてる奴じゃねぇの?」
「よしなよしな。いいよ先に奥から見てこようよ。」
「そうしますか。いずれいなくなるでしょう。触らぬ神に祟りなしですね。」
「ここは寺だっつの。」
 5人は大きな「放生池」を回って、短い石段を上った。緑のカーテンを幾重もめくって…とそんな詩的な表現がぴったりはまる光景の中をそぞろ歩いていると、木の間隠れに弘法大師の立像と、小さな鐘楼が見えた。願いをこめて一打せよと木札に墨書してある。
「あ、俺、打ってこよ! いい?」
 誰にともなく拓は聞いた。
「そりゃいいけど、バチ当たりなお願い、すんじゃないよ。」
「へっ、俺の祈りは世界平和〜。」
 トントンと軽やかにきざはしを昇っていって、彼は綱を掴んだ。前後に数回振り勢いをためて、渾身の力を注ぎ込む。
「あー、いい音ぉ…。緑の中にしみわたってくぅ…。」
「だろ。鐘を撞(つ)かせたら俺はちょっとしたもんよ。んじゃ次、八重垣。」
「いや俺はいいよ。どうぞ、真澄っち。縁結びを願って。」
「んもー! あたしっていえば縁結びだと思ってぇ! …でも行ってくるね。」
 真澄は上り、同じように綱を持った。下で4人が見守っている。八重垣はぼそっと、
「あ。しまった。」
「何だよ幹事。また道が違うとか言うんじゃねぇだろな。」
「いやそうじゃなくて、鐘の音で真澄っちがパワーアップして雨になったら困るなと思って。」
「ううん大丈夫よ八重垣くん! だってほら、今、先に拓が撞いてるじゃない?」
「ああそうか。晴れ男と雨女の、鐘撞き対決なんですねこれは。」
「よっしゃ、もらった。俺の勝ち〜!」
 すると真澄は鐘楼の上から、
「まだ撞いてないもんねっ! ではっ! 雨女真澄、いきま―――す!」
 ぐぉぉ〜〜〜んと響いた鐘の音に4人は、
「うーん…。甲乙つけがたい気がするなぁ…。八重垣くん的にはどうよ、この勝負は。」
「そうですねぇ…。響きの深さは、力がある分だけやっぱり拓の方がありましたけれども、余韻という面から捉えると真澄っちの方が…って、何ですか僕が判定するんですか?」
「いや最終決定は天照大神にお任せするけどさ。」
「ねーねー! ところで真澄っちは何を拝んだの?」
「えー? そんな、何を拝む間もなかったですよっ。4人してああだこうだと…まったくもー。」
 笑いながら5人は本堂の方に戻った。が、
「おい、あの男まだいるぜ?」
「ほんとだ。やっぱイッちゃってんのかなぁ。八重垣くん聞いてきなよ、お賽銭狙ってるんですかって。」
「嫌ですよそんな。智子さん行ってきて下さいよ。」
「なんでアタシが。年の順ならかまりんでしょお。目上の立場は守らねば。」
「どしてこういう時だけ守りに入るのぉ。そうだ、真澄っち行っといで真澄っち! 良縁なんてどこにあるか判んないのよっ!」
「おお、そうだそうだ。鐘の一打に願いを込めそこねたお詫びに、君にチャンスをあげよう。レッツ良縁!」
「そんな縁なんか、いりませんーっ!」
「けど…それにしてもあの男、不気味だよな。スケッチでもしてるっつんなら納得いくけどよ。ああやってじーっと、池の方眺めてるだけだぜ。」
「案外昨日の…某国の工作員の仲間なんじゃないですか?」
「はっはっはっ、ナイス八重垣―! てことはあれかなぁ? 昨日のおじさんは面が割れてるから、あの人があたしらをつけてきたのぉ? やぁん、そんなにしてまでナグサミモノにしたいのかしらっこのカラダをっ。」
「ま、違うと思うけどな。でもどうするよ。ここまで来て本堂素通りってのはムカつかね?」
「あっさり否定すんなよ拓ぅー。」
「え? ああわりわり。ナグサミものね、了解了解。なぁ八重垣、どぉすんだよぉ。」
「どうするって、俺は間に合ってるから遠慮しとくけど。」
「ちげーよ! ナグサミじゃなくって本堂本堂本堂! お参り!」
「あ、お参りか。うん…。それはしたいよね。」
「してーだろ? ならさ、行っちまおうぜ。あんなん無視して。はいちょっくらごめんなさいよって通っちまえばいいじゃん。」
「…それもそうだね。別に気にすることないか。じゃあ皆さん、お参りしましょう。」
「よし、そうしよう!」
 5人は一かたまりでつかつかつかと男に近寄り、脇を通り過ぎて本堂の正面まで進んだ。何も起こりはしなかった。単なる一変人が、感傷にひたっていたのだろう。
「あれぇ。これって自由に入っていいみたいよ。ここにそう書いてある。」
「どれどれ…。ほんとだ。この戸を開けると中に明かりがつくんだってぇ。へー。」
「ねぇ八重垣くーん。入ってみようよぉ。」
「いいですね。間近でご本尊を拝みましょう。」
 真澄は戸をゴトゴトと滑らせた。靴を脱いで畳に上がる。
「失礼しまぁぁす…。」
「んな職員室みてぇな入り方すんなよ。堂々といけ堂々と。」
「拓だって腰、引けてるよ。」
「うっせーな、これは単に体重移動を…うわッ!」
 突然拓が驚いたので、つられて真澄は飛び下がった。ために彼女の背中がモロに、八重垣の鼻づらを強打した。
「ごめん! だいじょぶ八重垣くん!? …もーっ! 何よ拓はぁ!」
「いや、だって、だって急に明かりつくんだもんよそこぉ! あーっびっくりしたぁっ! 心臓バックバク!」
 彼が指さした右奥の板敷きには、寺に伝わる古文書などの品々が展示されていて、その横の壁には四天王(らしき仏像)のポスターが貼ってあった。天井の高い薄暗い堂内にいきなりポッと明かりがついて、しかもそれが照らしたのが四天王のアップ写真ときては、確かに不気味だっただろう。
「ッとに幽霊屋敷じゃねんだからよ、善良な参拝客を驚かしてどうすんだっつの…。もう仕掛けはねぇだろな。いきなり床が割れるとか。」
「そんなルパンじゃあるまいし。ほらいいから、入った入った。…八重垣くん大丈夫? 鼻血とか出てないね?」
「ふぁい、ふぉれはらいひょふ…。」
「お前やっぱ反射神経、鈍すぎ。真澄っちくらい楽勝でよけろよ。ほら、あそこに林檎があっから自分で持ってきて食え。」
「それじゃお供えドロボーじゃないよぉ拓ってばぁ。賽銭泥棒よりタチ悪いじゃない。」
「な、な、な。とか言うけど酒もあんぜカマタ。今夜の鍋に合うんじゃねぇ?」
「えっ、どこどこどこ?」
「ほらあのタナの上。な。あんだけあんだから2〜3本持ってったって判んね判んね!」
「そーだねっ! あ…でもぉ、さっきの受付のとこ通り抜ける時にバレないかなぁ。」
「んなのフクロ入れちまえば判んねって。えーと…おおこれこれこれ! これなら入んだろ!」
 拓は、ハンカチで鼻をおさえている八重垣が肩からはずして脇に置いた黒いプラダのバッグをつかんだ。
「ちょっ…。おい! なんで俺のを使うんだよ!」
「んな、幹事だろおめー。こういう時に役に立たなくて何が幹事なんだよっ! …よし、今なら誰も見ちゃいねぇ!」
「馬鹿っ! よせよっ! バチが当たるだろ、おい拓っ!」
 強引にバッグを握って拓は中腰で壇に近づこうとし、八重垣はゴキブリでも叩くようにバタバタと、四つん這いで後を追った。3人は大笑いだった。
「ま、ともかくここでちょっと休憩していこう。涼しいし静かだし、最高じゃん。」
「そうだね。お線香のいい匂いもするしね。」
 じゃれていた2人も、まさか本気で持ち去る気はないので適当なところでノリを納め、5人は横一列に座って、本尊阿弥陀如来と対峙した。
「なー。おねえさん。」
「何よ。」
「これさぁ…昨日の平等院と同じで、ひょっとしてすげー贅沢なことしてんぜ、うちら。」
「ああそうだね。長岳寺貸し切り状態だもんね。」
「ほんとだよ。普通さぁ、本堂でこんなことできねぇぜ?」
「お供えカッパらおうとしたり?」
「だからそういうことじゃねぇって。」
「こんなふうに、静かに仏像と向き合ったり、ですよね…。」
「お前も急に文学モード入るなよヤエガキ。…まぁそんなふうにさ、誰か他の奴に気ぃ使わなくて済むっつうか。」
「そうだね。今回の旅行の、最高のことかもねそれが。」
「言えたぁ。あたしも初めてだもん、こんなの。」
「確かに滅多にないですよね。でも…なんかホッとしました、僕は。」
「え? なんで?」
「いや、こういう神社仏閣見て回るのって、嫌いな人は嫌いじゃないですか。なんか…辛気臭くて暗いよ、みたいな。でも、僕はけっこう好きなんですよね? だから、皆さんとこんなふうに同じものを見れて、うん…嬉しいです。ほんとに。」
「そんなぁ、こちらこそだよぉ八重垣くん。いろいろ調べてくれてさぁ。感謝だよぉ。ねぇ。」
「うんうん、言えた言えた。感謝してる。」
 だが拓は横からヒラヒラ手を振り、
「おいおいおい真澄っち! 褒めすぎ褒めすぎ! 褒めすぎっとコイツ調子乗っから、ほどほどにしろ、ほどほどに。」
「もう、拓はまたそういうこと言うぅ。たまには八重垣くんに感謝したらぁ?」
 言い返されて憮然としかけた彼は、しかし、
「ご存じですか? 仏像っていうのはね。…」
 何かに酔ったような口調で話し始めた八重垣に、カマタや真澄と顔を見合わせた。
「いや仏像じゃないな、『仏』っていうのにはね? 大きく分けて、如来、菩薩、明王、天の4つがあるんです。如来は悟りをひらいた者、菩薩は悟りをひらこうと修業している者、それ以外はいわば家来衆ですね。如来の居場所である浄土にも実はいくつかあるんです。西方極楽浄土だけじゃあないんですよ。薬師如来は東方瑠璃光世界の主だし、浄土というのは仏教の『世界観』に基づく世界地図の一部だといっていいでしょうね。」
「…な。だから言ったろ? ほどほどにしろって。」
「如来の中の主なものとしては、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来などがあって、それらを区別するのがあの、仏像の結んでいる『印』なんです。」
「…ふ、ぅー…ん…。」
「そこにある阿弥陀如来像ね? これがなぜ『阿弥陀如来』と呼ばれるかというと、ほら、あの手を見て下さい? こんなふうに丸を作ってるでしょう? あれが『九品印(くぼんいん)』と言われるもので、手の位置と指の形によって、上品上生(じょうほんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)まで9段階に分かれてるんですよ。薬師如来はほとんど必ず左手に薬の入れ物を持っていますし、釈迦如来は立像なら与願・施無畏(よがん・せむい)の印を結んでいます。ほらこういう…。あるでしょう、こういう形の。」
 彼は実際にやってみせて、
「こっちの手はね、衆生にものを恵み与える『与願』の形、こっちの手が『まぁまぁ落ち着いて、心を鎮めなさい』っていう『施無畏』の形です。他にも転法輪印、法界定印なんかがありますけどね。日本中の有名なお寺の本尊はもう大部分がこの3つの如来のどれかですから、どんな手の形をしているのかを見れば大抵判りますよ。…あ、あとは如来と菩薩の区別ですけど、これは簡単です。菩薩はアクセサリーをつけてます。完全に悟りをひらいた如来とは違って、まだ自分を飾る心があるっていう意味なんですよ。」
「へー! そうなんだぁ。ふぅぅん。それは知らなかったぁ。」
「…馬鹿、感心してみせんな真澄! やまんねーだろヤエガキワールドが!」
「えー、結構面白いじゃないぃ。あたし法学部だからさぁ、こういうの全然知らなくて。」
「ああそうでしょうね。全然畑違いだ。僕は一応、東洋哲学専攻だったんで…このへんはまぁ、本職っていうかね。うん。」
「…おー、やってるよやってるよ前髪撫であげ! も、全開!」
「でね? こんなふうに仏教の体系づけをしっかり行ったのが、他ならぬ天台宗なんです。だから最澄っていう坊さんは、今でいえば東大の学長ですよね。ものすごく論理的な、シャープな頭脳を持った人だったと思いますよ。仏教っていうのは人の心を救う宗教な訳ですけど、ある意味総合的な哲学…そう、学問なんです。天台宗はいわば天台ユニバーシティですね。―――そうですよね智子さん?」
 急に話を振られて、カマタや拓と指スマをやっていた智子は、
「え? なに? ユニバーシティが何やて?」
「嫌だな、聞いてなかったんですか? せっかく僕が一生懸命説明したのに。ねぇ真澄っち。」
「う? うん…。」
「おやそれはよかったこと。あたしも仏教学はいちおー単位取ったけど、もうウン10年前のことだからね。八重垣くんは説明のしかたも上手だし、判りやすかったんじゃない?」
 と智子は真澄に聞いたのだが、
「ええ、とっても判りやすかったですよ。」
 答えたのは聞いたこともない声だった。5人は驚いて振り向いた。半開きにしてある戸口のところに見知らぬ顔が2つあって、旅行中の熟年夫妻とおぼしきそれらは、ニコニコと八重垣に微笑みかけてきた。
「ついつい聞きほれちゃいましたよ。ありがとうございます、名ガイドさんですねこちらのお兄さんは。」
「ほんとほんと。ただで聞かせて貰うのが悪くなっちゃいましたよ。」
 八重垣は赤くなって、
「いや、光栄です。拙い解説ですみませんでした。」
 ぺこりと頭を下げた。夫婦は彼に何度も礼を言って、木の階段を下りていった。
「すっげーじゃんヤエガキ! お前、天台宗から感謝状もらえっか知んねーぜ!」
「そんな、何言ってんだよ。やめろよ恥ずかし―――」
「お前さ、ヨーロッパとか回って仏教ひろめてこいよ。平成の遣唐使…いや遣欧使か。逆フランシスコ・ザビエルじゃん! くわー、かっけーヤエガキ!」
「…ひょっとして馬鹿にしてない? 拓…。」
「馬鹿になんかしてねぇよ馬鹿。俺、自慢だよお前みてーなトモダチがいて。」
「そう? そう言ってもらえると嬉しいよ本気にしてないけど。」
「お前、素直に信じろよヒトの言うことを…。ほら阿弥陀如来もそう言ってんぜ? 仏様の言うことは信じんのがスジだろ?」
「あれ、言わなかったっけ? 無神論者なんだよね俺は。」
「…わっけ判んねーコイツぅ!」
 4人は畳の上を転げ回って笑った。下品下生の蓮のうてなから突き落とされるかも知れない。
「しかしまぁ、こうして仏像に向かってるとさ。」
 笑いがおさまったところで智子は言った。
「あたしさぁ、出家したいなーとか思うんだよねぇ。」
「「「「はぁぁぁ?」」」」
「もちろん今すぐじゃないよ。もっと歳とってからの話。」
「ちょっ、ちょっと待…。おねえさんさ、出家ってどういうことか判ってんの? この世の煩悩とはきれいさっぱりおサラバすんだぜ?」
「そだよ。それくらい知ってるよ。」
「いやー…無理じゃねぇのぉ? 煩悩のカタマリだよおねえさんて。」
「だからぁ、今すぐじゃないつったでしょお? 50とか、それくらいになったらね。」
「いえでも智子さんて、50歳なんて、そんなにはるか彼方先の話でもないでしょう?」
 ぴくっと反応した彼女の背中に八重垣はハッとした。
「あの、…僕、いま、やっちゃい、ま、した…?」
「あーあ。知んねーヤエガキ。今カンペキ押したー。あーらら、こらら。俺知〜らねっと。」
「……」
 こめかみに汗を吹き出している八重垣のプラダバッグを、智子はわしっと掴んで壇の前に進んだ。
「この木魚、持って帰ろう! それにこの叩き棒! 燭台! 全部つっこんでやるぅ!」
「ああーっ! すいませんごめんなさい、すいませんっ!」
 阿弥陀仏にとっては、末法の世の再来かという騒ぎであったかも知れない。だが5人は最後にはきちんと正座して長い祈りを捧げた。そうして外に出、静かに戸を閉めた。
「いやぁ〜充実の時間を過ごしたねぇ! 何度も言うけど滅多にない経験だよこれは。」
「そうだねー。でもさ、あたし中でずーっと『うっるさいな〜…』と思ってたんだけど、この音ってこれ、ひょっとしてカエル?」
 確かに本堂の中には、どこか遠くで工事でもしているのかという、ゴォッ、ゴォッという音が聞こえていた。外に出てみるとどうやらそれは、目の前の池から発せられているらしい。
「あ、これはウシガエルね。」
 自信に満ちて即答したのは真澄だった。
「へぇ、ウシガエルなんですか。僕、初めて聞きました。」
「えーホントぉ? 八重垣くんてさすが都会人だねー。」
「いや真澄っちがイナカ暮らし…あっいえいえ何でもっ。」
「ふーんだ。どうせフリーきっぷも売ってないイナカですよーだ。」
「けど群馬にもウシガエルはいないなぁ…。北部の山沿いはどうか判んないけどね。」
 5人は参道を戻り、山の辺の道をなおも北に進み始めた。次の目的地は、最後の目玉・石上(いそのかみ)神宮である。このあたりは上長岡(かみなんか)という地名で、回りにはミカン畑が続いている。
「このへんにあるこんもりした森…っていうか丘は、ほとんど全部古墳ですよ。あれも、あれも、それに多分あれも。」
「ふーん。古代のお墓の隙間に人間が住んでミカンつくってるんだ。」
「そんな感じですね。のどかでいいじゃないですか。」
「そうだね。」
 もちろんあたりはミカン畑だけではなく、道の左右には普通の畑や水田もあった。その一角に何やら目をひく囲いがしてある。
「あれぇ? 歌碑なのかなこれ。」
「どれどれ。」
 5人は近寄った。石に刻まれているのは流麗な草書体なので解読不可能だが、下に解説書がついている。読むと、
「『衾道(ふすまじ)を 引手(ひきで)の山に 妹(いも)を置きて 山路をゆけば 生けりともなし  柿本人麻呂』 ほっほぉ人麻呂くんじゃないか! 元気ぃ?」
「元気ぃ?って…、ああそうか、智子さん卒論は人麻呂でしたっけね。」
「そーそー。私の専門中の専門だよぉ。つぅてももう15年前の話だからねー。忘れてるなぁ。」
「な。んじゃこれ、どういう意味だよおねえさん。訳してみ。」
「んーとねぇ。要は恋歌だね。あの山の向こうに『君』がいる。置いてきてしまったのだと思いながら山路をゆくと、生きた気分ではないように、私はぼんやりしてしまう。…とまぁ即興の直訳ですがね、こんなもんかな。ああ拍手なんかいらないよ。」
「誰がすっかよ。」
「これはねー。言葉通りに取れば『君』を置いてきた、って意味だけど、1歩つっこんで解釈すれば、君のもとに心も魂も置いてきた、と。だから『生けりともなし』なんだよね。夕べは朝まで一緒にいたのかも知れない。夜が明けるまで愛し合ったんだよきっと。
…で、今、男は一人うちに帰るところ。このへんで山道を振り返って、虚空に浮かぶ恋人の面影に溜息ついたりしてさ。そう考えると万葉集なんて、言葉だけが昔のものであって、内容とか感覚は1000年たっても全然変わってないと思わない? 三十一文字(みそひともじ)に宇宙をこめる、これが日本にしかない短詩形文学であって、その草分けが万葉集であり、さらには文学という美意識を宗教的呪術からほぼ完全に切り離したのが、柿本人麻呂なんですねぇぇ。判るかなぁ、この偉大さが! 素晴らしいでしょう人麻呂って―――っておいっ! なんでそこで指スマやってんのぉ!」
「あ、終わった? いや〜、すっげタメになったよなみんな。なっ!」
「「うんっ!」」
「いえ僕はちゃんと聞いてましたよ智子さん。素晴らしい解釈だと思います。」
「へっ。コイツはさ、さっきの50歳フォローで必死なんだぜヤエガキ。」
「拓! 頼むからそれは言うなってば!」
「べーだ。いいよーだ。次いくよっ八重垣!」
「ああ、はいはい。」
 5人はさらに足を進めた。山の辺の道とは至るところに名刹がある訳ではない。こうして雰囲気を楽しみながら会話するのが、この道を歩く醍醐味であろう。小岳寺、大和神社御旅所、ウシガエルの鳴く池。道しるべたどりつつ話題はいつしか、
「なー。さっきはオトコ2人に過去を話さしたんだからよー、今度はそっちが聞かせる番だろー?」
「ああそうだね。確かにこれじゃ不公平だな。うん。」
「不公平だなって、何が?」
「だから過去のバクロ話だって。どうせ3人とも、叩けばホコリの出るカラダなんだろ?」
「やんやんっ! 拓のその口調、ミゾグチタケヒロみたいで、いいーっ!」
「んな、違うもんと一緒にすんなよ、いくらビジュアルが一緒だからって。だけど俺さ、かまりんに聞きてぇことあんだよな。」
「えっ、なに何なに?」
「俺、結婚したことねぇから判んねんだけど、すっげ興味あるのが、結婚して、ある程度たって、子供とかもいる2人のさ、その…いわゆる夫婦生活?」
「やだぁー! そんなの聞いてどうすんのよぉ!」
「いやだから将来の参考にね?」
「そんな、ウチなんか参考になんないよぉー!」
「なるかなんねぇかは聞いたアトで決めっから。な。聞かして聞かして? かまりん夫妻の夜のコミュニケーション。なっなっ!」
「もー! 昼間っからなんでそういう話になるのよぉ〜!」
 盛り上がろう、としたところで道は住宅街にかかり、昇り坂の途中で子供たちが何やら遊びに興じていた。彼らの耳に入れるのは教育上どうかと思われるため、そこを通り過ぎる時だけ5人は黙った。そして再び、
「別に恥ずかしい話じゃねーだろよ、リッパに結婚してる配偶者なんだから。悪いことしてる訳じゃなし。」
「それはそうだけどぉ、でもそういう問題じゃなくて…」
「じゃあどういう問題なんだよ。言ってみ? 夫婦生活を紹介できない理由っ!」
「だからぁ、紹介するようなモンじゃないでしょー? 完全プライバシーじゃないよぉ。」
「んな、それ言うんだったらさっきの、うちらの初体験話だって完全プライバシーだぜぇ? ソレを聞きてぇ聞きてぇっつって話させといて、ずりーじゃん?って俺は言いてぇ訳よ。な、ヤエガキもそうだろ?」
 拓にポンと肩を叩かれた八重垣だったが、
「道が違う…。」
「ナニ!?」
「これ、ちょっと雰囲気違いますよ。多分間違ってます。」
「おいおいまたかよ幹事ぃ。さっきうどん屋で何を調べたんだよっ!」
「おかしいなぁ…。この道がこうなって…」
「お前、そのガイドブック腐ってんじゃねぇか?」
「いやそんなことない。生ものじゃないから。ええと…さっき最後に見た道しるべってどこでした?」
「えー? 覚えてないよそんなの…。どこだったぁ? 真澄っち。」
「ええと確かねぇ…あの子供たちが遊んでたあたりにあったんじゃないかな…。もうずいぶん手前だよ?」
「ですよねぇ。つまりその間は道しるべがなかったってことだから、やっぱり違いますよ多分。」
「そうかぁ? さっきと同じで案外合ってんじゃねぇの? もちっと進んでみて―――」
「いや戻るんだったら早い方がいいよ。怪我はなるべく小さい方が。」
「怪我してるって決まった訳じゃねぇだろ。よし判った、うちらここで待ってっから。お前だけ戻って見てこい。」
「え、俺だけ? そんな殺生な…」
「殺生って、お前が間違ったんじゃねぇかよっ! 責任とれ幹事。それからおねえさん!」
「はっ!?」
「さっき、うどん屋でガイドブック見てたクセに判んなかったんだからおねえさんも同罪。中間地点でヤエガキの連絡待ち。」
「連絡待ちって…何よそれは。」
「だぁから。ヤエガキがこう行く。標識がある。どっち行くのが正しいのか判る。うちらに知らせる。けどこの場合、行って、見て、戻ってくんのをうちらが待つ時間は、なるべく少ない方がいい。だからこの中間地点でおねえさんが中継する。OK?」
「OKって、アンタ私とヤエガキをパシリにする気ぃ!?」
「んな人聞きの悪い。その方が合理的だろ? ほら、とっとと行けよヤエガキ。おら!」
「なんかさ、拓ってちょっといじめっ子みたいだよね…。判ったよ行ってくるよ。俺が間違えたんだよね、はいはい。智子さんすいません、中継お願いします。」
「ちょっとちょっとヤエガキ!」
 たったったっ、と走っていく彼は、黒いプラダを斜めがけにしたなかなか愛嬌のある姿であった。仕方なく智子も途中まで戻った。緩い下り坂が大きくカーブしているあたりで八重垣の偵察結果を待つと、
「こっちです、やっぱりこっち!」
 坂の下から彼は大きく手招いた。
「え、そっちなのぉ?」
 ほとんどパントマイム状態で情報交換し、智子はいじめっ子たちの滞留地点へ急いだ。3人は道端の石に腰かけて何やら口に入れている。
「ねー! やっぱ違ってたって! こっちこっち! 早く!」
「え? 違ってたの? なんだそうかよ、どっこいしょっと。」
 Gパンの尻をはたいて拓は立ち上がった。
「ちょっとあんた何食べてんのよ。」
「えー? かまりんに飴もらった。」
「ずっるい…。人に中継やらしといて…」
「はいはいキムラぁ、あげるよ。はい。」
「お、どもども。ほらほら八重垣が待ってるから早くいこ。」
「いいよ別に、待たしときゃあ。」
「意地悪拓〜。」
 4人は飴をカラコロいわせながら坂道を下った。
「おっと。さっきもいたよな、あの里のわらべ。」
「いたいた。多分さ、コイツら何やってんだとか思ってるかもねー。」
 真澄は言った。拓は彼らのそばを通り過ぎる時、
「よ。元気か子供たち。よく遊びよく育て。な。」
 1人の子の頭をくりっと撫でて言った。その子はびっくりして拓を見上げた。ニッ、と手を振っても表情は変わらない。
「ちょおっと、拓。あんた誘拐犯と間違われたらどーすんの。そんな人目をひく尻尾ぶら下げて。」
「えー? 今日はしっかり束ねてんじゃん。別に人目は引かねぇよ。」
「引くよぉ拓は。どんなカッコしてても目立つっていうか。」
「そうそう。旅行先でワルサできないタイプね。」
「そんなんつまんねぇじゃんかよぅ。…お、ヤエガキ。ご苦労ご苦労。」
「ね、やっぱこっちだったよほら。戻ってよかった。」
 4人を待っていた八重垣は、そこにある道しるべを指さした。確かに矢印は左を示しているが、彼らの昇っていった坂とは別に、もう1つ下りの坂が左に延びていた。
「あー! こっちかぁ! なぁんだぁ。」
「これは間違えるよぉ。ねぇ。早めに戻って正解だったよ八重垣くん。」
「はい、お詫びに飴あげる。」
「あ、頂きます。ありがとうございます。」
 5人になった一行は細い坂道を下り、退屈といえば少々退屈だが、心を休めるには丁度いいであろう長閑な、ビニールハウスが林立する畑の中を歩いていった。
「へー、苺じゃんこれ。どおりで甘い匂いすると思ったら。」
「ほんとだ。でももう収穫は終わってるっぽいね。」
「苺っていえば栃木でしょ? 奈良でも作ってるんだねー。」
「そりゃ作るくらいは作んだろ。けど見事に人っ子ひとりいねぇな。」
「農家の人の今日のお仕事は終わったんじゃないのぉ? あ、そういえばさ、さっきの畑の中に、『農作業中は声をかけないで下さい』みたいな札が建ってたじゃない。」
「ああ、そういえばあったねー。」
「畑仕事してると、道案内にされちゃうのかなぁ。やっぱ迷惑なんだろね。」
「でも『声をかけないで下さい』ってきっぱり立て札たてちゃうのは…ちょっと、かなって気もしますね僕は。なんか、突き放す感じで。」
「まぁな。…あ。今ちょっと笑い話思い出した。」
「え? なになに拓。なに?」
「あんね。確か埼玉かどっかの友達んち遊び行った時に見たんだけど。」
「うんうん。」
「そいつんちのそばに栗畑があってさ。ちょうどイガがはじける頃で、車がバンバン通る県道のすぐそばだから、ちょっとハタケ入って取ろうと思や取れんじゃん。だから栗泥棒とか、いたんだろうなと思うんだけど、そこにやっぱ立て札たってたんだよ。こんくらいの。」
「うんうん。」
「そこに書いてあったのがさ。まぁ言わんとするコトは判んだけど、ちょっとコレは違うだろ、っつう内容で。」
「なに。何て書いてあったの?」
「『栗の中に入らないで下さい。』って。」
「はっはっはっはっ! おっかしー!!」
「なー! 栗ん中、ってのはちげーだろ! あのイガをよ、こうやって分けて入んのはかなりいてぇぜ? まぁそうやって入ったら入ったで可愛いか知んねぇけど。栗ってギチギチくっついて入ってんじゃん。こやって。目だけ出してキョロキョロって。」
「はははっ、やだぁ可愛いー!」
 ビニールハウス畑はやがて尽き、5人はいよいよ石上神宮に近づいていった。途中に『夜都岐(よとぎ)神社』というのがあって、その名に拓は大喜びだったが、このあたりまで来るといささか疲れが出てきて、皆さすがに口数も減っていた。
 

その7へ続く
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