奈良・大和路 夢幻紀行

 
【 2日め 6月19日(土) その4 】
 
「さぁ、次がちょっときついですよ。『石畳の急坂』とありますから覚悟がいりますね。」
 行く手とガイドブックを交互に見て八重垣は言った。返事がないので後ろを振り向き、
「でもそれを過ぎたら石上(いそのかみ)神宮ですから、そこで少し休憩しましょう。ね。…大丈夫ですか真澄っち。」
「はーい、平気だよ〜。かまりんはぁ?」
「大丈夫。まぁちょっと、きてはいるけど。」
「え、きてます? じゃあ…石畳の急坂の前に、そこの観光農園で一旦休憩しますか?」
「いや、いい。むしろ一気に行っちゃいたい。」
「おーっしゃ人間、そうでなきゃあ! どわっと行っちゃえヤエガキー!」
「元気ですねぇ智子さんは…。」
「おねえさんてさ、いっつもこうだよね。なんか回りが疲れ出すと、『コイツ、何?』ってくらい元気になんの。どこにそんな無駄なエネルギーがあんだよ。ッとに、たま〜にムカつくぜ?」
「ああもううるさいうるさい、しゃらーっぷ! Goだヤエガキ、GoGoGo!」
「な、ちっとムカつくだろ。」
 道はいよいよ上り坂にかかった。空は段々曇り始めている。今までは青空さえ覗いていたのに、かなり灰色が濃くなってきた。と、
「うっわ、やべ降ってきた!」
「大丈夫よ、すぐやむって。今までもけっこう、パラパラっとは来たじゃない? それですぐ上がったんだから、また同じ感じだよきっと。」
「どうかなー。なんか、暗さが本格的だよ?」
「なぁに、春雨じゃあ濡れていこ〜っ!」
「おねえさぁん…。ッとにさぁ、調子に乗ってっと知んねーぞ? 傘させよ傘、ほら!」
「いいの。かえって気持ちいい。あんたがさしな。あい・し〜んぎん・ざ・れ〜♪」
 雨の中、坂を昇りつめると道はT字路になっており、正面は何かの工事現場で、木材などが積み上げられていた。
「ええと、これをどっちに行くのかな…」
 八重垣は道しるべを探した。傘のせいでガイドブックが開きにくいからだ。すると左の方に、
「あ、あったあった。石上はと…こっちか。こっちですよ皆さん。」
「なんか夕立みてぇじゃんこの雨。だんだんひどくなる。急ごうぜ八重垣。」
「そうですね。」
「やっぱあたしも傘さすわ。ごめん真澄っち、持っててこれ。」
「はいはい。最初から素直にさせばいいのに。」
「どーもすいませんでしたっ!」
 5人は幹事を先頭に、石上神宮へ向かったつもりだったが、
「あれ? 変だな、下り坂だ…。」
「おいぃ、ほんとにこっちかぁ?」
「うん。今の道しるべにはこっちだって書いてあった。でも変だな、この下にあるんだったらさっきの上り坂は何だったんだろう。ただ昇って下りるだけ? そんなの納得できないな…。」
 ぶつぶつ言いながらも雨にせかされる格好で、八重垣は坂を下った。4人は後に続く。
「なー! まさかまた違うなんてことねぇんだろな! ヤだぜ俺この坂また昇ってくんのっ!」
「あ〜…膝が笑ってるよぉ〜。」
「なんでいきなり降りだすのよぉこの雨は。くっそぉ、真澄っち! ヒトが疲れてきたところを狙って卑怯なりっ!」
「ひぇぇ〜ん、そんなぁぁー!」
 土砂降り雨に傘を叩かれ、ほぼ坂を下りきったところで八重垣は、
「いや、待った。これやっぱ違う…」
「おいおいおいおい、ヤエガキ―――!!」
 ガイドブックを開こうとして八重垣はハッとした。行く手に人がいる。地元の人らしい中年の小母さんだ。
「あの、すいませーん! ちょっとお尋ねしますけど、石上神宮ってこっちですかー?」
 彼女との距離はけっこうあるので八重垣は声をはりあげた。小母さんは首を横に振っている。
「えっ、違うんですか!? この上? もっと先!?」
 身ぶり手ぶりで小母さんは教えてくれた。どこかで別の男の声もした。その声の主を探すと、5人のいるのとは反対側の昇り坂―――さっき彼らがヒイフウ昇ってきた坂―――に、白シャツ姿の小父さんがいて、大きく腕を振って坂の上を指さしているのが見えた。
「こっち!? こっちなんですね!? ありがとうございました!」
 八重垣は2人に頭を下げ、
「この上ですって。間違えましたすいません。」
 4人は非難ごうごう、
「てめ、すいませんじゃねぇだろっ! この坂もう1回昇れってのかよっ!」
「もー! 八重垣くんんんっ!」
「何を見てんのよぉ、ばかぁ!」
「すいません。ほんと、ごめんなさい! さぁ、もうちょっとです! 声出して行きましょう!」
「なに似合わねーテンション上げてんだよっ! 今夜お前、飛鳥鍋禁止!」
「えっ! い…嫌だよ。ひどいよちょっと、それだけは。」
「うっせえ食いたきゃとっとと歩け!」
 拓の傘で傘を殴られ殴られ、八重垣は昇っていった。ようやく工事現場の前に来た。
「ええと、ここで間違えたんですよね。こっちから来て、で…この道が違ったんだから、あとはもうこっちしかありません。行きましょう。」
「ほんとかよ。マジだいじょぶなんだろなっ!」
「何て遠いのぉ、石上神宮―!」
「なんつう降りだよっ雨女―!」
 ぎゃあぎゃあわめく4人を先導して、八重垣は少しナーバスになってしまったのか、
「ちょっと待って。これ…ほんとにこっちでいいのかな…。」
「おい―――っ! いい加減にしろよ幹事っ! 風邪ひかす気かぁ!」
「いや、多分大丈夫だと思うんだけど、ここは慎重を期して…」
 彼は立ち止まり、めくりにくそうにバイブルのページをパラパラやり始めた。拓は溜息をついたが、その時背後に足音が聞こえてきた。振り向くとさっき反対側の坂のところにいた、あの小父さんが傘をさして近づいてくる。咄嗟に拓は尋ねた。
「あの、さっきから何度もすいません。石上神宮は…」
「そっち。」
 小父さんは5人が進もうとしていた方角をさした。
「おーい! ヤエガキー! んな神経質になんなくたって大丈夫だって! こっちで合ってるってよ!」
「え?」
 八重垣は顔を上げた。小父さんは涼しい顔で、まるでついてこいと言うように先頭に立った。
「どっから来たんや。」
 小父さんに聞かれ八重垣は答えた。
「あ、桜井の方から…。ってそういう意味じゃないですね。東京です。」
「東京かい。」
 ニヤ、と小父さんは笑い、スタスタと大股に歩き始めた。自然、5人は彼についていく形になった。
「うわ、足元すべるぅ。気をつけてねかまりん。」
「もぉ膝が、笑っちゃって笑っちゃってぇ! あっははは…。はーっははは…。」
「な。無意味に疲れるからよせよ。」
「うん、よすね。」
 あたりの景色を見る余裕は既に5人にはなかったが、左右には何か果樹園のようなものがあって、低い木の枝が容赦なく雨に叩かれていた。やがて「石畳の急坂・その2」は終わり、道は狭いながらも平らになった。
「あれ、池があるよ。釣りなんかしてるぅ。」
 真澄が言ったその池は内山永久寺跡で、後醍醐天皇の馬の首が魚になったといわれる馬魚(ばぎょ)のすみかである。小父さんの目的地はこの池だったらしい。
「あのな、この先まっすぐ行くとガードがあるからそれをくぐって、もっと先行くともう神社やからな。まっすぐ行けばいいんやでまっすぐ。」
「まっすぐですね。ありがとうございます、助かりました。」
「ほな気ぃつけて。まっすぐ行くんやで!」
「はーい!! ありがとーございましたぁ!」
「サンキュー、おっさん!」
 5人は手を振った。
「やれやれ本当に助かりましたね。地獄で仏とはこのことですよ。」
「それは大袈裟だけど…でも親切な人でよかったね。」
「そうだねー。今回は某国工作員ネタはやめとこう。あの小父さんに失礼だわ。」
「キムラってばまだ言ってるぅー!」
 心もち小やみになった雨の中を、彼らは教わった通りにまっすぐ進み、国道25号線のガードをくぐって石上神宮の森の中に入った。右に見える池は鏡池である。
「やっと到着しましたね。ここはもう神社の敷地内ですよ多分。」
「え、そうなの? よかったぁ遭難しなくて!」
 杉に囲まれた林道を抜けると、行く手がサッとひらけた。参道に出たのである。ただでさえ静かな神域は、雨によって音を奪われ森閑と静まり返っていた。5人の他には誰もいない。
「お参りしてさ、ちっと雨宿りしねぇ? 少し待ちゃやむかも知んねぇぞこういう雨は。」
「そうだね。じゃあとにかく拝殿へ行きましょう。」
 楼門の朱塗りの柱は、緑ばかり見てきた目には何とも鮮やかに映った。今日最初に訪れた大神神社よりも、「神さびた」という言葉はむしろ、この石上神宮にこそよく似合う。単層入母屋造りの拝殿は鎌倉時代の建築物で、現存する拝殿の中では最古のものである。その拝殿を正面に見る回廊の屋根の下に、何やら供物を並べ置くような木の台があった。
「ふわぁぁぁ〜〜〜〜〜…。」
 空気が抜けた風船そっくりの声を出して、5人はそれに倒れかかった。
「なー。これって何か大事な台かな。座ったりしちゃバチ当たりか?」
「いいよもう、少々のことは…。」
 らしからぬことを言って八重垣も、よいしょと腰を下ろした。汗と湿気で襟足がくるんとカールしている。拓は空を見上げ、
「まぁたひどくなってきたな雨…。こりゃもう当分やまねぇかも知んねぇな。」
「かも知れないね…。昼間1日もった分、いっぺんに来ちゃったのかも。」
「くっそ、やるじゃねぇかよ真澄っち。この作戦は俺も読めなかったな。」
「ふふん、驚いた? まだまだのようね、拓も。ほほ。」
 てんで気ままなポーズで数分間ボーッとしていると、少しずつエネルギーが戻ってきた。まず口を開いたのは智子だった。
「ねー、拓ぅ。」
「あん?」
「この雨の中をさぁ、傘ささないであの拝殿まで、ダッシュで行って拝んできたら御利益あると思わない?」
「えー? いやぁ…御利益はねぇだろ。面白ぇけど。」
「あ、やっぱ面白い? そっかそっか。よーし! 面白いならイッパツやってみよう!」
「ちょっ、何だよまさかマジで…」
「ああやるよ。やったろうじゃないの。さあ、続けっ拓!」
「続けって… おいっ! おいこら、おねえさんっ!!」
 プールに入る前のシャワーよりも強いだろうという土砂降りの中、智子と拓は水しぶきを蹴たてて拝殿の屋根下へ駆け込んだ。ラップタイムはおそらく2秒足らずだったが、
「ひっで、あーあーびっしょりじゃねぇかよっ! 何考えてんだ馬鹿!」
「こぉら。神様の御前ですよ。お参りは静かに。…おっと。しまったおサイフ、リュックん中だ。悪い、拓。お賽銭50円立て替えといて。」
「50円て、そんなに出すのかよ!」
「そんなにって、うっわー、せっこー! あんた国宝の拝殿にねぇ、50円なんて恥ずかしいってくらいなもんでしょう?」
「んな、別に国宝だから幾らとか、そういう問題じゃねぇだろこれは。あくまでも自分の中の真実が…」
「へー。あんたの真実は50円じゃ高いんだ。へー。ほー。はー。やーだやだ。せっこぉぉい。」
「…判ったよ判りましたよ。出すよ。出しゃいいんだろ!?」
「ん、判ればよろしい。んじゃ2人分合わせて、ほら、とっとと100円入れんか100円。」
「ッたく…アトでぜってー返せよっ!!」
 ぱんぱん、と二礼二拍して、2人は回廊に駆け戻った。八重垣は傘を開き、
「じゃあ今度は僕たちで行きましょうか。大人らしく、ちゃんと落ち着いてね。」
「はーい。…ほんっと、37にもなってキムラってばガキなんだからっ。」
「くぉぉらーっ! 明確に歳を言うなカマターっ!」
 八重垣の左右を2人で挟み、カマタと真澄は拝殿に着いた。傘は閉じずに下に置いて、3人揃って頭を垂れる。
「なー、あの3人ってさ、なんかああして見ると阿弥陀三尊みたいじゃねぇ?」
「あっははっ、言えたぁ! 脇侍は何だっけ、正観世音菩薩と勢至菩薩だっけ?」
「いやよく知んねぇけど、絵的に面白ぇじゃん。…あっと、やべぇここって神社か。仏像の話しちゃ失礼だな。」
「んなこともないでしょお。山の辺の道にある神社仏閣はきっと、人間の知らないとこで協定くらい結んでるよ。」
「ああ、かもな。」
 拝み終えた3人は、どうやらまた八重垣が何か講義を始めたらしく、真澄はそれなり聞いているがカマタはそーっとそばを離れて、軒先からドォーッと垂れる雨水の下に傘を差し出し、音と振動を子供のように楽しんでいる。
「なー! おい! カマタ、カマタ!」
 拓は呼んだが、雨にかき消されて声は届かない。しかしカマタは彼の手招きに気づき、えっ?というふうに耳に手を当てた。
「そいつら置いて! 戻ってこい戻って! 早く!」
 唇に1本指を当てがったり両腕で×じるしを出したりして、拓はカマタに意志を伝えることに成功した。彼女がこちらの軒下に着くのと入れ代わりに、拓は再び雨の中へ飛び出していった。
「ねぇねぇ何するつもりなの拓は。」
 見守っていた2人は、じきに彼の意図を知った。拓は背中を向けている八重垣と真澄が気づかないよう彼らの傘を手早くたたんで、それを小脇に抱えこちらへ駆け戻ってきた。濡れた髪が一筋、額から頬へ落ちかかっている。
「やったやった! 気づかねぇでやんのあいつら!」
 うひゃうひゃ笑う悪戯っ子の彼を、カマタと智子は拍手で迎えた。
「偉い! よくやった拓!」
「ねぇねぇその傘、広げてこっちに置いとけば? 足元に置いたはずがどうしてあっちにって、驚くよぉあの2人ぃ!」
「お! ナイスかまりん! お主もワルよのぉ〜。」
 すっかり悪玉と化した3人のタクラミに気づかず、やがて八重垣は振り返った。
「あれっ?」
「どしたの?」
「傘…。さっきここに置いたよね?」
「うん、置いたぁ。どしたの? やだ、飛んじゃった?」
「そんなまさか神隠しなんて…ああっ!」
 八重垣は3人の方を指さした。拓たちが手を叩いて爆笑している。
「やられた…。くそぉいつの間に…。」
「うっそぉ! ひどぉぉい、ねーさまっ!」
 拓は両手をメガホンにして、
「やむまでそこにいろー! 嫌ならこっちまで走ってこーい!」
「ねー、八重垣くぅん…。これってホントにイジメかなぁぁ…。」
「いや、イジメ可愛がりって奴でしょう…。仕方ない、僕が傘取ってきますから、真澄っちはここで待ってて下さい。」
「えっ! そんな、あたしも行くよお!」
「いいですって。濡れますよ。」
「濡れるのは判るけど、八重垣くんに守ってもらったりしたらもっとイジメられそーで恐いっ! だから先に行くねっ!」
「あっ! ちょっ…真澄っちー!」
 真澄はダッシュし、回廊に駆け込んだ。拓はタオルで顔を拭きつつ、
「よっ、ゴール。よかったな無事帰ってこれて。」
「もー! なんてことするのよぉ!」
 八重垣も、頭上に手をかざしたとて気休めにもならないのだが、それでも一応かざして走ってきた。すぐにバッグに手をつっこんでタオルを引っぱり出している。
「大丈夫ですか真澄っち。ほんとにもう、ひどいよねこの人たちは。」
「何言ってんだよ、雨女と増強剤がお参りで傘さそうってのが、そもそも間違ってんだろ。なぁ。」
「全く、どういう理屈なんだか…。」
 髪と、それに顔と手を八重垣はぬぐった。真澄のことはカマタがハンカチで拭いてやっている。回廊の下で5人はしばし時を待ったが、
「やみそうもありませんね…。ああもうこんな時間だ、まずいな。」
 八重垣は時計を見て言った。何せ今夜は飛鳥鍋である。
「ねー、こっからはどうやって帰んの?」
「ここからですか? まずは天理駅まで行って、JRでさっきの桜井まで戻って、そこから近鉄で大和八木、乗り換えて橿原神宮駅です。」
「なんだ、けっこう面倒臭いんだね。それじゃあんまり時間食えないじゃない。」
「そうなんですよ。でもこの雨が…。」
「もうしょうがねぇから行っちゃわね? 朝まで待つ訳にもいかねぇし。濡れたって溶けやしねぇだろ。」
「うん、そうしようか。国道に出ればバス停があるはずだから、天理までバスで行っちゃおう。」
「賛成。この雨の中は歩きたくなぁい。」
 荷物を持ち傘をさして、5人は拝殿を後にした。風はないが冗談ともかく台風なみの雨で、靴の中はもうグショグショ、裸足と大差なくなっていた。
「何とかしろよ真澄っち! 八大竜王雨やめたまえとか、おめ、祈れねぇの!?」
「そんなの無理だよぉー!」
「ちっきしょ…。やっぱさっきの長岳寺で鐘なんか撞かしたのが失敗だったな。」
「そんなぁ今さらぁ。」
 国道まではすぐだったが、バス停は見あたらなかった。八重垣は車が跳ね上げる水たまりの水を頭から浴びたりしながら、一足先に信号を渡り道端のバス停にたどり着いた。
「うわ、勘弁してくれよ…。」
 そこで彼は頭を抱えた。4時台はなんと1本もない。追いついた4人はそれを知って、
「んな群馬じゃねぇんだからよっ! なに考えてんだこのバスは!」
「ここで30分待つんだったら、歩いちゃった方が早いよねぇ。」
「でも多分それだと、濡れてないのは頭だけ、になるよぉ?」
「仕方ない、タクシーで行きますか。」
「あ、賛成。そうしよそうしよ。」
「ここからなら多分1メーターくらいです。ずぶ濡れで風邪ひくよりいいでしょう。」
「よっしゃ、そうすっか! んじゃ車探せ車! 2台だよな八重垣。」
「もちろん。俺だけ走れとか、頼むから言わないでくれよ。」
「いや来なかったらそれもしょうがねぇだろ。…あ、来たっ!」
 拓はサッと手を上げた。がその空車は反対車線にいる。
「えー、あれは無理じゃない?」
「いや、来さす。ぜってー来る!」
 概して観光地のタクシーは、都心よりずっと親切である。無視されるかと思ったのにその車は、ちゃんとUターンしてきてくれた。
「よっしゃラッキー! まず1台。先に女性陣乗っけちゃおうぜ。」
「ああそうだね。じゃあ3人とも、これに乗って下さい。」
「え、いいの?」
「いいからいいから。うちら後から追っかけっから。タクシーつかまんなきゃヒッチハイクでも何でもするし。ほら早く乗って!」
「じゃあお言葉に甘えて、乗るよっ! すいません天理駅までお願いします。」
 後部座席にカマタと真澄、智子は助手席に乗った。タクシーはワイパーで雨をかき落としながら走り出した。
「急に降ってきましたねー…。今日は1日、もってくれるかと思ったのに。」
 智子は運転手に言った。彼は愛想よく応じた。
「そうやねぇ。けどお客さんたちは、今どちらから?」
「はぁ、それが、何と三輪から山の辺の道をずっと歩いてきました。この雨の中を。」
「……」
 運転手はしばし黙り、
「そりゃ一生忘れんやろな。」
「ほんとにー!」
 3人は笑った。正にその通りであった。
 さて車は、立派というか豪華というか、さすが本拠地大したもんだねぇの天理教本部を見やりつつ、やがてJR天理駅に着いた。彼女らが下りてすぐ拓と八重垣のタクシーも到着した。あのあとすぐつかまえたに相違ない。
「わーい、拓ぅ〜! 元気だったぁ? 八重垣くんもぉ!」
「おお、会いたかったぞカマターっ!」
 再会を喜びあい5人は改札口から中に入った。時刻表を見ると次の電車までは10分強、ある。
「ねぇ、何だったらここでさぁ、ビール調達していこうか。」
 思いついてカマタが提案した。橿原神宮に着いてからまたウロウロするよりも、ずっといいアイデアであった。
「じゃあさ、買い出し担当3人決めよう。ガン首揃えて行くこともないだろうし。」
「そうだね。じゃあその3人、何で決める? ジャンケンでいい?」
「てゆーか真澄っちは最初からパスだろ。フリーきっぷじゃねぇから。」
「あ、そっか。くそう雨女のクセに…。」
「やーん、ごめんなさいぃ! その代わり袋持ちやらせて頂きますぅ。」
「んなの当然だろっ! よし、じゃあいくぞ。…はい、さいしょはグっ! じゃんけん、ぽんっ!」
「…あれ? 決まっ…た?」
「おお、あたしの勝ちーっ! 拓! ヤエガキ! そしてかまりん! 行ってらっしゃーい。」
 智子はぶんぶん手を振った。パーを出した3人は、荷物を2人に預けて改札口を出ていった。
「くっそ、やっぱこういうのってだいたい言い出しっぺが負けるモンなんだよな…。」
「まぁしょうがないよ。へへっ、あたしは両手に花で気分いいからいいんだ〜。ところでビール、どこで買うぅ?」
「この上にさ、駅ビルとかなかったっけ、八重垣。」
「そんな、いくら何でも天理駅の構造まで知らないよ。…あのちょっとすいません、このあたりに酒屋さんていうか、ビールとか売ってるとこってないですか。」
 八重垣は改札口の駅員に聞いた。駅員はキオスクの場所を教えてくれ、3人はそちらに向かった。
「なるほどキオスクかよ。JRも民営化されてから、商売上手になったことっ!」
「いや、拓ぅ。そう言うけどさぁ、確かにこのへんお店はないよ。キオスクで上等上等。ただし問題は15本冷えてるかどうか…」
「えっ、15本も買うんですか!?」
「買うよぉ。だって缶ビールなら1人3本は飲むでしょお? 夜は長いんだし…。」
「はぁ…。まぁ今朝、民宿のおばさんには持ち込み許可もらいましたから、いいですけどね。」
「ああ、あったあったキオスク。ここだここだ。すいませーんビール下さぁい。」
 売り場のおばさんにカマタは声をかけた。ビールはあったが心配した通り、冷えているのいないの、倉庫に取りに行くの行かないのという話になったが、結果としてはオーライで、3人は3カケル5本の缶ビールをビニール袋に入れてもらい、ついでにおつまみも数種類買って、真澄と智子の待つホームへ戻った。
 
 電車が来た頃には、あれほど激しかった雨は一旦上がったものの、やはりまたすぐ降り始めた。石上神宮まで曇り空が続いてくれたのは、大いなる幸運だったのかも知れない。
「でもさ、1日中ピーカンだったら、これ多分歩き通せなかったよね。」
「あ、それは言える。気温はちょうどよかったかも。日焼けとかも心配しなくて済んだし。よかったね。」
「そうそうよかったよかった。さぁ、帰ったら今夜は飛鳥鍋だぜぇ。楽しみだよな!」
 橿原神宮前駅からはまたタクシーに乗って、彼らは民宿へ帰りついた。おかみさんはニコニコ出迎えてくれた。
「んじゃまた、昨日の順番でフロ入っちまうか。それから落ち着いてメシにしようぜ。」
 おかみさんが持ってきてくれた煎餅をポリポリやりながら拓は言った。空腹なのは当然である。昼食後は一切間食なし、その上昼食は消化のいいうどんだったのだから。
「ねー、このビールどうしようか。どこで冷やす?」
「冷蔵庫に入れてもらう訳にはいかないもんねぇ…。」
「あ、庭に出しとくってのはどう。部屋の中よりは涼しいよ。それに雨にも当たるしさ。飲む時は窓あけて取ればいいよ。ねっ。」
 アルコールの保存場所も決まり、入浴を終えた5人は食堂へ行った。テーブルの中央にはコンロが置かれ、その上にでーんと大鍋が乗っていた。
「やたっ! 鍋、鍋、鍋! あー俺、犬みてぇ。なんかヨダレ垂れそぉ。」
 拓は定位置に座って舌なめずりしながら、下ろしていた洗い髪をダイナマイト・ヘアに束ねた。カマタが各自に1本ずつビールを配る。隣りの部屋からはおかみさんが、野菜とうどんの乗ったザルを持って現れた。
「はい、これもう下煮はしてあるからね、火が通ったら食べられますよ。牛乳とね、おだしで煮てあります。」
「ふーん…。うちでもできるかなぁ。」
「おっと、さすが主婦の発言ですね、かまりん。」
 お膳の上には他に、嬉しいことにお刺身も乗っていた。煮えるまで待ちきれず拓は、
「な、真澄真澄。俺、先に一膳ちょうだい。なんかハラ減りすぎ。鍋の前に準備運動しとく。」
「ああごめん気がつかなくて。はい、じゃお茶碗。八重垣くんはどうする?」
「じゃあ僕も、軽く一膳…。」
「あたしにもおくれー、真澄っちぃ。」
「あ、じゃああたしもぉ。」
「…食べるよねぇ、みんな…。」
 拓も八重垣も、食べ方は綺麗な男である。ぱくぱくと豪快に一膳やっつけたところでちょうど鍋が煮えたった。
「うまそぉぉー! も、ガンガンいっていい?」
「うんうん、いっていって! あ、取ろうか?」
「いや、いい。てめぇで勝手に取っから。このへんの白菜とネギが、うまそぉ…」
「僕も自分で取りますね。あ、箸、入れちゃっていいですか?」
「んな、かまやしねって他人じゃねんだからよ。」
「他人だよ…。まぁでも、もう家族同然かな。うん。」
「やだぁ嬉しいこと言ってくれるぅ八重垣くんたらぁぁ! ごはんもっとよそうぅ?」
「いえ、いいですあとにします。そこにうどんもあるし。」
「なぁ真澄ぃ。お前もっと向こう詰めろよ。遠いじゃねぇかよ俺が鍋に…。」
 拓はグイグイと彼女を押した。カマタが体を奥にずらし、なかなか窮屈なことになった。
「邪魔だなこの電子ジャー。おい八重垣、お前ん方、これ引き取って。ん。」
「ああ、そこ置いていいよ。こっち2人だからね。…すみません、もう少し向こう行って下さい智子さん。そんなお鍋の正面で陣取ってないで。」
「おおわりわり。ずりずりずり…。」
 このあとの会話はもう、うまいとおいしいの繰り返しであった。郷土鍋料理にも数々あるが、この飛鳥鍋の店というのは、食道楽の町・新宿にもほとんど見かけない。あっさりした鶏肉の旨みに出汁(だし)と牛乳がほどよいコクを生んで、全体的にまろやかな、優しい味わいの鍋である。ネギの一切れにうどんの一ちぎれまで、綺麗さっぱり漁ったあと拓は、
「ねー。おねえさんちょっとお給仕して。俺に一膳、軽くちょうだい。ん。」
「なに、あんたまだ食べるのぉ? デブっても知らないよ?」
「んな、そんなもん気にして生きて何が楽しいんだよ。あ、もちょっと少なくていい。はいサンキュ。でもってこれにだな、この旨みが全部しみだした残り汁をぶっかけて、ぐっちゃぐちゃに混ぜて…。」
 雑炊状にしたものを、拓は箸でするすると口にかき入れた。確かに美味そうである。
「あ、いいなそれ…。智子さんすいません、僕にも一杯頂けますか?」
「八重垣くんもぉ? はっはー…、ヤセの大食いだよね君は…。」
「ねーねーキムラぁ。あたしもやるぅ。もう太ったっていいやぁ。」
「そうですよねー。すいません、ねーさま。可愛い真澄っちにも下さぁい。」
「アンタ酔っぱらってんじゃないの?」
「…あーっ…。うめぇ―――! おねえさんわりぃ、ワンモア・リクエスト。」
「食いすぎだよあんたはっ! ほら、もうあと一膳ぶんくらいしかないよっ!」
「あ、はいっ。じゃあそれ予約、僕で。」
「ヤエガキ…。」
 健康な男たちはかくも旺盛に食欲を満たし、デザートのスイカまで見事に平らげた5人は、大満足で部屋に戻った。
「あー、食った食った食った。うまかったぁぁー! いや〜…こんなうまいもん食ったの何年ぶりだろ俺。」
 拓は髪をバサッとほどいて、ゴロンと座布団に倒れ伏した。
「こーら。食べてすぐ寝ると牛になるよっ。」
「いいよもう俺、牛でも。ふわー…満足満足。来てよかったぁこの旅行。」
「確かにおいしかったねー。飛鳥鍋なんて出してくれると思わなかったぁ。民宿ってさぁ、サイコーじゃんキムラぁ。安いし親切だし。」
「でしょお! 何たって今回の目標がさ、高崎からの2泊3日、宿泊費プラス往復の交通費込みでトータル5万円以内に上げる!だったんだから。」
「上がってるよ上がってるよ絶対。ナイス予算だよぉ。あたし最初、10万飛ぶかな〜って思ってたんだからぁ。コレ読んでるヒトびっくりするんじゃない? これで5万かかってないって知ったら。しかも高崎からってことは、都区内からならもっと安い訳でしょ? すごいよぉホント。」
「かもねー。どうする八重垣くん。メールで企画依頼とか来ちゃったら。よっ、名幹事ヤエガキ。ここはイッパツ旅行代理店でも始める?」
「いや、僕…学生時代は本当に、『八重垣ツーリスト』とか呼ばれてたことあるんですよ友達に。」
「だろうねー。適材適所だよねぇ。ちょっと道に迷ったりもするけどさ。」
「いや、だから山の辺の道はあれが面白いんですよ。自分たちの足で歩いたなーって実感するのが。」
「ほぉんと。歩いたよねー。」
 真澄はバッグからガイドブックを出して、今日歩いたところを復習し始めた。カマタも覗きこんで、
「以前あたしが友達と来た時はさぁ。ほんとに、3キロは歩いた?ってくらいでリタイヤしちゃって、今日みたいになんか全然歩けなかったの。それなのに今日は、ほとんど全コース通しで歩けたでしょお? 正直ねぇ、意外。よく歩けたなーって感じぃ。」
「そりゃ、幹事がよくできてっからだよ。な、八重垣。今日はほんと、お疲れ。」
 寝転んでいる拓にポンポンポンと背中を叩かれて、彼は、
「え、何か気持ち悪いな、拓にそんな誉められると…。持ち上げといて落とす気なんだろ?」
「あー、やだぁコイツ、俺をそういう男だと思ってるぅ。マジ誉めてやってんのによぉ。」
「ほんとかなぁ…。じゃあまぁ素直に、どうもありがとう。」
「いえいえこちらこそぉ。さっ! 飲んで飲んで!」
 カマタは庭に出しておいた缶ビールを5本、持ってきてテーブルに並べた。よっ、と拓は起き上あがったが、反対に真澄は腹這いになり、
「あー…でもさすがにちょっと足痛い…。誰か土踏まず、踏んでーって感じ…。」
「え、何、踏んでほしい? おい八重垣! 幹事のおツトメその3。真澄っちの足踏み!」
「えー? いやそんなオツトメ、俺知らないよ。」
「知らないよじゃねぇだろ、おめー。あんだけ道まちがって、余計な距離歩かしといてよ。なぁ。」
「ちょっ…。何だよ、さっきといきなり違うこと言って。」
「うるせぇうるせぇ、いいからやれ!」
「やれって…どうするんですか、足の裏踏めばいいんですか?」
「えっ、ウソ! マジで八重垣くんがやってくれるのぉ!? やだぁ、緊張しちゃうう! ちょっと待って、靴下さっき取り替えたけど綺麗かなこれ…。」
「ああ、いいっていいって、そんなん気にしねぇでいいよ。な、ヤエガキ。」
「ええ別にいいですよ。じゃあ…乗りますよ、いいですね?」
「やだーっなんかえっちっぽぉい! ヒューヒュー!」
 よいしょっ、と八重垣は真澄の足を踏んだ。細く見えるけれども彼のカラダは筋肉質で、意外と体重はある方だ。だからぐっと踏みしめられるとさすがに、
「いたっ!!」
 真澄がビクリとしたので、
「あ、すいません!」
 下りようとして彼はバランスを崩し、おっとととっ!と腕をぐるぐる回して後ろによろめいた。
「馬鹿、あぶね!」
 拓はとっさに腕を掴んで止め、
「お前、何やってんだよ。もうちっとでこのガラスぶち破って、庭にころげ落ちるとこだったろ?」
「あーびっくりしたぁ…。サンキュ、拓。ごめん真澄っち。痛かった?」
「ん、うん…。足首の方踏まれた時、ちょっとだけ…。」
「ッとにお前はよぉ。洋服着てっと駄目なんだろな。見ててみ、俺が見本見してやっから。真澄っち、乗るぞ!」
「えっ、えっ、なに、拓が?」
「動くなよおいっ! 危ねぇからじっとしてろ!」
 うまく体重を分散させて、彼はリズミカルに足を動かした。
「あー…。気持ちいいいー。拓ってさぁ、なんでこういうの上手いのぉ?」
「そりゃお前、カンと経験に決まってんじゃん。イクなら先にイッていいぞ。」
「やだぁぁ、もー! あー、でもほんっと気持ちいい…。」
「ちょっとちょっとかまりん。なにユビくわえて見てんのよ。」
「だってぇぇ…。いいなーっ真澄っち! 何よぉ、こん中じゃ一番若いからってぇぇ。ぷーん!」
「えー、そんなそういう訳じゃあ…。」
「いいよ、判ったよ。待ってろあとでカマタにもやってやっから。」
「えっ、やだ、ホント!? どうしよ、どこまで脱げばいいぃ?」
「何考えてんだよっ! そこまでのサービスは、い・た・し・ま・せんっ!」
「ちぇー。つまんないのっ!」
 十分にコリをほぐしてからビールで酒盛りし、夜も更けたので彼らは布団を敷いた。極上の満腹感に加えての程よい酔い心地。熟睡は約束されていた。
「お休みー。」
「お休みなさーい。」
「なんかさぁ、明日はもう帰るんだねー。そう思うと寂しい…。」
「なぁに、終わらない夢はこの世にないとさ。今を楽しめばいいのよ今を。」
「うーん…いいこと言うなぁ、ねーさまは…。感心しちゃう…。」
「チッチッチッ、真澄っち! キムラもう寝てる。今のは寝言みたいよ。」
「うそ、信じらんない…。」
 そんな会話もすぐに途切れた。二晩目の、そして最後の飛鳥の夜である。
 暗闇の底で拓は囁いた。
「な、ヤエガキぃ。もう寝た?」
「いや。まだ起きてる。何?」
「あのさ、…そっちの布団、行っていい?」 
 

その8へ続く
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