奈良・大和路 夢幻紀行
【 3日め 6月20日(日) その1 】
「よーっしゃ。晴れた晴れた。こんなら今日は飛鳥巡りできんな。」
食堂に続く廊下を、朝食を食べに向かいながら拓は言った。庭木の葉からはまだ滴が垂れていたが雲は切れていて、快晴とまではいかないけれども今日は、傘を持ち歩く必要はないだろうと思われた。5人は食堂のテーブルについた。既に定まったおとといからの位置である。
「あれっ。これはひょっとして…貰ってもいいのかな。」
隣のテーブルに置いてある『飛鳥王国パスポート』を見て八重垣は言った。地図など飛鳥観光の手引き書と、各入場料が団体扱いになる割引券がつづられたブルーの表紙の冊子である。
「なに、どれどれ。ひいふう…お、ちょうど5冊あんじゃん。貰っちゃえ貰っちゃえ。」
「貰っちゃえって…いちおう聞いた方がいいんじゃないのぉ?」
「ま、あとで一応な。」
手にとって拓はパラパラとページをめくった。その間に真澄は給仕を終えた。
「さてそれじゃ、いっただきまーす。」
5人は食事を始めた。智子は姿勢を低くして空を見た。
「なんか、今日はけっこう暑くなるかな〜って感じしない? 最終日になっていよいよ、晴れ男の実力発揮かね拓。八重垣くんに助けてもらって。」
ぶふっ、と拓は味噌汁を吹き出しかけた。カマタはふきんを取ってやり、
「ちょおっとぉ。何やってんのよ拓ぅ。ほらぁ、これで拭きな?」
「サンキュ…。」
「はい、ここんとこにワカメの切れっ端がついてるよ。そっちじゃない、唇の下、下!」
「何よぉ。何うろたえてんのぉ? ひょっとしてアンタたち、夕べ2人で何かした?」
くす、と八重垣が笑ったことに3人は気づき、
「「「ええっ! ま、まさかっ!」」」
カマタなどは箸まで置いて、
「ちょおっと! 何よっ! 何したの2人してっ! ゆ、ゆ、ゆ、許せなあい!!」
「まぁまぁ、かまりん落ち着いて。やっちゃったもんは取り返せないよ。」
「ちが――う! なんでひとことコッチに声かけないの! 拓と八重垣くんのやっちゃったシーンなんて、そんな眼福が世の中にそうそうあるモンじゃないでしょおおお! きーっ!」
「…な。待て。ちっと待てよ。違うんだって。そうじゃなくて。」
拓は3人をなだめにかかったが、八重垣は漬物をポリポリかじり、
「なにを照れてるんだよ拓、今さら…。忘れた? そっちから誘ってきたくせに。」
「「「ええええええええ―――っ!!」」」
「だからちょっと待てっ! ヤエガキ! お前な、お前そういう…」
「ああもう拓はうるさいっ! ね、ね、ね、八重垣くん聞かせて聞かせて。どうだったどうだった。痛かった?」
「誘われた時の気分ってどんなどんな? 嫌だった? それともラッキー?」
口々に聞かれても、八重垣は黙ってニヤニヤしている。真澄に口を押さえられていた拓はようやくその手を振りほどき、
「おめ、ちっと待てよっ! 人をドキドキさしたのはそっちだろっ! 俺はな、俺は途中からマジで…」
「なにっ、途中からマジになったと!」
「ほらまたカマタがそんなギラギラとよぉ…。だからそうじゃねえって。そういうことじゃなくて…。」
「まだあんなこと言ってる。可愛いなぁ拓は。」
「ヤっ、ヤエガキーっ!」
落ち着き払った八重垣、焦りまくる拓、興味津々の3人で座はしばらく大騒ぎになったが、智子いわくとにかく昨日のシーンを再現してみろということになって、説明を始めたのは拓だった。
「だからね? だから俺が。確かに最初は『そっちの布団行っていい?』って聞いたの!」
「「「うんうんうん!」」」
「したらさ、フツー、『何言ってんだよ!』とか、『馬鹿、よせよ! お前ってまさかソッチ系?』とか言うだろ?」
「「「うんうんうん。」」」
「それがこいつ、黙っちゃって。しーんとして何のフォローもねぇからよ、俺、何てシャレの通じねぇ野郎だと思って、『おいぃ、何かフォローしろよ。まさか本気にしたんじゃねぇだろな!』つったら、したらコイツ、『何だ、本気じゃないの?』って…。」
「「「えええ―――っ!!」」」
「そんな、3人していちいちユニゾンで驚かないで下さいよ。」
「いいからいいからっ! 続き! そいでどした!」
「んで俺はさ、『本気って、何だよ本気になってほしいのかよ』つったの。したらコイツ、『いや、本気だとしたら、黙ってた方が拓がドキドキするかなって思って』」
「くわーっ、ヤエガキ知能犯っ!」
「だから俺は『お前、俺をドキドキさしてどうすんだよ。マジでやってやっか?』って脅しかけたら、コイツ次がすげぇの! 『でも声出すと向こうの3人が起きるよ?』」
「「「何だとぉぉぉ―――っ!!」」」
「だから、俺も芝居気分でね?…」
「…やっちゃった訳?」
「違うっ!! だから! やって、ねえっ!!」
「うっそお。ホントにぃぃ? 据膳食わぬはオトコの恥だよぉ?」
「いや据膳て…僕は別に据膳になったつもりはないですよ。ただ、拓がどうしても欲しいんだったら仕方ないかなって…」
「「「ひぇぇぇぇぇ―――っ!!」」」
「うるせぇ! いちいち驚くなっ! てめ、ヤエガキ! なんでそうあえて誤解を招くような物言いをすんだよっ!」
「だってその方が…ねぇ。面白いし…。」
「何なんだよお前はっ!」
「ままま、それはいいとして。んでどうなった。続き続き。」
「まだ聞く気かよ…。んだからぁ!」
「うんうんっ! 芝居気分で、どした!」
「俺は言ったよ。『んじゃ声が漏れねぇように、口ふさいでやるよ。』」
「うきゃあーっ! 縛るの? 縛るの? ねぇねぇねぇ!」
「ちょっとかまりん落ち着いて…」
「真澄っちだってハナのアナ開いてんじゃないのよっ!」
「したらコイツ! 『えっ?』とか真面目な顔しやがってよ、『ね、ちょっと待って。俺が下?』」
「はっはっはっはっはっはっはっ!! ヤエガキ、さいこー!」
「んだから俺がね。『何で俺がお前にやられなきゃなんねぇんだよ』つったら。『いや、それはかわりばんこで…』」
「やだーっ! かわりばんこーっ! 奇数日は拓で偶数日が八重垣くんっ! きゃーきゃーきゃー!」
「壊れたなカマタ…。」
「ねぇねぇそいで? そいでどうしたのよ、拓ぅ!」
「そいで俺ももう呆れたっつーか、ま、このへんまでだなって思って、引いた。」
「えー、つまんなぁい…。ねぇ八重垣くぅん。ほんとにそれだけだったのぉ?」
「うん、拓がそういう話にしときたいなら、俺はそれでいいよ。」
「おいっ、ヤエガキ! おめ、いい加減にしろよ?」
「判った判った。ごめんね、この先は2人だけの甘い秘密にしとくんだったよね。」
「だから―――っ!」
わめく拓を無視して、八重垣は茶碗を差し出した。
「ごめん真澄っち。おかわりいいかな。」
「へ? ああ、はいはい。」
とまぁ結局、夕べは実際のところ何があったのかなかったのか、判明しないまま5人は食事を終えた。多分食後に会計することになるであろうと全員が財布を持ってきたのは正解で、いいタイミングであらわれたおかみさんは、
「ええとそれじゃあ、お1人様1泊5500円で、前金で1万円振り込んで頂いてますから、合計で4万5千円ですね。」
「はい、それじゃこれでお願いします。」
きちんと揃った紙幣を、八重垣はおかみさんに差し出した。確認している彼女に八重垣は、
「どうも2晩お世話になりました。飛鳥鍋もおいしかったし、部屋もきれいで、とても感謝してます。」
座布団こそはずさなかったが、きちんと頭を下げて礼を言った。これにはおかみさんも恐縮したのだろう、思いがけぬ申し出をしてくれた。
「これから駅まで行くんやったら、車、出しましょうか?」
「え、いいんですか?」
「ええもう、送るだけやけどね。バスよりかは楽やし。」
「じゃあお言葉に甘えます。ありがとうございます。」
5人は部屋に戻って荷物を片づけ、出発の準備を整えた。庭に出ようと真澄は下駄箱を開けて、
「あれ? 靴…きのうここに入れたよね?」
するとそこへおかみさんがやってきた。両手に何か抱えている。
「えっ、もしかして、靴?」
真澄が気づいた通り、石上神宮でのあの土砂降りでグショグショだった5人の靴を、夕べからおかみさんは丁寧に新聞紙で包んで、湿気を取ってくれていたのである。
「すみません…。なんか、こんなにしてもらっちゃって、申し訳ないです。」
八重垣は頭を下げた。拓もレッドウィングを履きながら、
「も、ほんと、吉井さんサイコー。友達にバンバン宣伝しときます。飛鳥行くんだったら民宿に限る。中でも吉井さんの奥さんは女神様みたいだったって。」
「まぁまぁまぁ、お上手やねぇこのお兄さんはっ!」
明日香村には民宿が10軒ほどあって、料金は皆一律である。予約は明日香村の観光センターが一手に引き受けており、利用者側が宿を指定することはできない。が1泊2食つきで5500円という値段は旅館やホテルに比べればびっくりするほど安く、飛鳥方面の旅の拠点とするには最適であろう。飛鳥なら民宿。これはもう太鼓判である。
「はいはいおねえさん、古畑任三郎みたく視聴者に語りかけてんじゃねぇよ。行くぜ。」
「あいよっ。」
5人はおかみさんと一緒に道へ出た。道を渡り、家と家の間の細い路地を抜けて、少し行ったところに砂利敷きの駐車場があった。車たちは雨ざらしではなく、ビニールテントに似た半円形の屋根に覆われている。そのうちの1つから青いバンがバックしてきた。運転しているのが吉井さんの旦那さんに違いない。なるほどああいうおかみさんを持ちそうな、物静かなご主人であった。
「じゃあ、これで失礼します。どうもありがとうございました。」
「「「「ありがとうございましたー!」」」」
八重垣に続いて4人は礼を言い、バンに乗った。おかみさんは手を振ってくれた。
「いやあ本当に助かりました。何から何までお世話になっちゃって、すみません。」
「なぁに。これくらいやったら何でもありませんがな。」
吉井さんの旦那さんは四国にゆかりがあるようで、彼と真澄の会話ははずんだ。だが駅にはすぐ着いてしまった。荷物をロッカーに預ける話をしていたのを旦那さんは聞いていて、
「だったらあっち側がいいな。」
わざわざ駅の反対側に車を回してくれた。5人は感激し、手を振って別れを惜しんだ。
「いやー…親切な宿だったねぇマジ。」
「本当だね。人づきあいが嫌いだったら民宿なんてやるはずもないけど、でも助かったよほんと。」
「さてと、じゃあ荷物はロッカーに入れて、自転車を借りましょうか。」
八重垣は駅の建物に入っていった。神殿を真似た大きな屋根がなかなか立派で、駅としてはこちらが『表側』なのだろう。
「そういえば橿原神宮にはお参りしなかったねぇ。」
「ああそうですね。素通りになっちゃうな。」
「じゃあせめてこっから拝む?」
「駅からですか?」
「うん。気は心、気は心。」
「それもそうですね。」
5人は神宮がある方をむいて、手を合わせ小さくお辞儀した。
「えーとレンタサイクルは…ああ、あそこだ。」
ロータリーを渡って向こう側に看板が見えた。さすがは日曜だけあって先客がいた。だが応対しているのは小父さん1人だけで、しかも手際があまりよくない。
「なんか俺、手伝いたくなってきたな…。なぁ八重垣。そんな感じしね?」
「うん、するよね。1人じゃ大変だよ。あ、ほら、ああやってちゃんと空気圧まで見てくれてるんだ。」
「なー。丁寧は丁寧なんだけどよ、いかんせん時間かかりすぎだよな。」
ブツブツ言っているとようやく先客は出ていき、彼らの番になった。これがまた5台なので時間がかかる。代表者として八重垣が申込書に記入した。広々とした倉庫に行儀よく並んだオレンジ色の自転車を、小父さんは1人でわっせわっせと押してくる。するとそこへ後客が来た。若い女の子の2人組である。こうなると拓は黙っていない。
「あ、自転車? ってそりゃそうか。自転車借りっとこだもんねここ。えーと? 2台でいいんだよね?」
勝手に事務所に入り込んで、拓は引き出しから申込書を出した。小父さんのやることをずっと見ていたので覚えてしまったのだろう。こういう面、せわしない首都に住む東京人は器用である。
「はい、じゃあどっちか1人でいいからここに住所と名前と、電話番号も一応書いてね。乗り捨ての有無と予定返却時刻、あ、それにスリーサイズも書いといてくれるかな〜? なんちゃって、うっちょ〜ん。書くんだったら俺の手帳に書いてっ。」
喜々としている彼に女の子2人も「嫌だあ、そんなぁ」などと嬉しそうだ。小父さんは自転車に夢中で気づかない。
「まったくもぉ…。やっぱ筋金入りの孔雀なんだね拓って。」
「しかも今日は朝から尻尾ほどいてるもんねぇ。やる気満々なんだろねアレは。」
「あーもう放っとき放っとき。ねーヤエガキぃ。サドルの位置が高ぁい。ちょっとゆるめて、そっち。」
「ああ、はいはい。」
「こぉら、拓! あんたも自分の自転車、さっさと調節しないと知らないよ!」
「あー? いいよあとでやっから! …へぇぇ2人とも女子大生なんだ。今日はなに、例の遺跡見にきたの? あ、やっぱ、そう!」
盛り上がっていると小父さんが戻ってきた。怒鳴られる前に拓は、
「あ、どうもお疲れ様です。はいこれこちらの彼女たちの申込書。記入しといてもらいました。えーと、乗り捨てはなしですね。じゃああとはよろしく。」
訳が判らず小父さんがキョロキョロしているうちに、拓はさっさと外に出た。4人はもうペダルに足をかけていた。
「ほーれ拓、おいてくよっ!」
「おいちょっと待てよ! 待てって、こら!」
大急ぎでサドルの高さを合わせ、拓は駅の地下道で4人に追いついた。
「ンだよ薄情もん。人が見知らぬ他人に親切にしてるのによ。」
「へっ、ほざけほざけこのエロ拓。若い子と仲良くできて、よかったねっ!」
「全くもう、俺というアマンがありながら拓は…。今夜、お仕置きだよ?」
「だからいい加減にやめろよぉヤエガキぃ。」
5人はお揃いの自転車をこいで、まずは甘橿丘に向かった。といっても水先案内人は先頭を行く八重垣である。右手に持ったガイドブックをじっと見つつ片手運転されると、転びはしないか不安になるが、駅前をしばらく行き、造成中の新興住宅地といった雰囲気の場所を通り抜けたあたりで、キキキーッと彼はブレーキをかけた。
「すいません、走り出してすぐであれなんですけど、何か道が違う…。」
「おいおいおいおいぃ、また始まったのかよぉヘボ幹事ぃ!」
「おかしいな、駅前をちょっと右へ行くってなってるのに、行き過ぎたかな…。」
徒歩と違って自転車の間違いは、間違う距離も長くなる。八重垣は首をかしげていたが、
「まぁともかくも方角はこっちです。戻りましょう。」
目の前のT字路を左に曲がった。カタカナのコの字を逆向きに書くようなコースである。
「ッたくよー! ヒトをからかってる余裕があんなら、ちゃんと道見とけっ!」
「ああもううるさいなあ。黙ってついて来いよ。」
「おっと、強気! 何なんだおめ、その態度の違いは。」
「いや、昨日までの2人じゃない訳だからさ、もう。」
「…おい頼むって…」
しばし行くと正面に、比較的車の通りの激しい道が見えてきた。右方向へ何台ものレンタサイクルが走っていく。
「ああ、ここを右みたいですね。やっぱり少し行きすぎちゃったんだな。」
「ねーねー八重垣くん。そこのコンビニで飲むものとか買ってかない? 昨日の山の辺の道であたし学習したよぉ。」
「そうですね。寄っていきましょうか。甘いものとかも少し、あった方がいいかも知れませんね。」
5人は店に入り、ポカリスエットや桃の天然水、ウィダーインゼリーなどを買い込んだ。
「よっしゃ、しゅっぱぁつ。」
縦1列にペダルを踏んで薄曇りの道をいく。車道と歩道がきちんとは分かれていない上に、前後から次々車が来る。ゆえに輪上での会話は難しかった。
道のそこここには、山の辺の道にもあったような道しるべが立っていた。『甘橿丘→』の表示を八重垣は見たが、
「ここは直進します! 川に沿っていきましょう!」
後ろを振り向き大声で言った。
「おい大丈夫かぁ? 変なことすっとまた道に迷うぞぉ?」
「大丈夫、甘橿丘ってそれだから!」
彼は右方向に聳える小高い丘を指さした。正面には小さな橋と柵が見える。今朝ほどまでの雨で水量の増えた飛鳥川であった。5台はスピードを落とした。
「へぇぇ…。このへんも変わったあ…。昔私が来た頃なんて、ただの雑木林だったんだよこのへん。」
智子は感慨深げであった。丘の回りはきっちり整備され、正に『史跡公園』の雰囲気が出来上がっていた。道沿いに案内図が立っている。八重垣はそれを見て、
「駐輪場があるみたいですね。そこに止めて、展望台まで昇ってみましょう。」
「わーい。高いとこ好き好きー。」
「ナントカと煙と、おねえさんだよね。」
「るせい!」
八重垣は駐輪場の見当をつけてそちらへペダルをこいだが、
「あれ? ここって公園の中なんじゃないですか?」
延びすぎた芝の上で自転車をおり、ウロウロした。他に1台も停まっていないところへもってきて、何の表示も白線もない。
「いいよいいよ、多分ここだよ八重垣くん。レンタサイクル盗む人なんかいないって。ここに停めて、行こ行こ。」
「はぁ…。大丈夫ですかねぇ。」
「平気平気。細かいコトは気にしないっ!」
再度案内図を確かめ、5人は頂上にある展望台への坂を昇った。
「なんかちょっと昨日の山の辺の道に似てるぅ。」
「ああ、あの玄賓庵のあたりな。」
「そうそう!」
確かに真澄の言う通りだった。この道はオリエンテーリングのコースにもなっていて、「この樹の名前は何でしょう」などの札もあちこちに掛かっていた。
「市民の憩いの場なんだろねー。」
「まぁね。でも前に来た時は、こんな舗装なんかされてなくてさー、木と石の登りにくい階段だったんだよ。途中に志貴皇子(しきのみこ)の歌碑とかあってさ、あれはどこに移されたのかな。」
「歌碑って、万葉集ですか?」
「うん。『采女(うねめ)の 袖吹きかへす明日香風 都を遠み いたづらに吹く』ってやつ。」
「へー。そんなんがあったんだ。」
「草むらつーか、茂みの中にね、ポンと放り出されるみたいにこの碑があってさ。それはそれで風情があったよ。」
「ああ、かもねぇ。」
最初のうちこそ会話していた5人だが、おいおいこりゃ登山なんかいという急坂に、段々寡黙になっていった。昨日から多いパターンである。だが頂上に着いてパッと開ける視界の壮快さは、やはり格別であった。
「うわー! 見てみ見てみあの行列!」
カマタが指さしたのは、例の『飛鳥京跡苑池遺構』を目指してかその帰りか、飛鳥路をぞろぞろとアリのように連なって歩いている人間たちの点々であった。昨日今日と一般見学者への現地説明会を行うとのニュースがNHKで報道されたため、近郊はおろか全国の歴史ファンが集結しているらしい。
「すっげ…。さすが日本放送局の威力だな。なんか昨日はカメラも入ってて、夜のニュースで流れたみてぇじゃん。」
「古代の大庭園だ、って新聞にも大きく載ってたしねぇ。どうすんの八重垣くん。あとで行ってみるの?」
「いいえ。」
即座に彼は否定した。
「あんなに人が集まってたんじゃろくに見れないですよ。工事現場じゃないんですから、そんなところを係員に従ってゾロゾロ歩くなんて、僕の趣味じゃないです。」
「あは。同感同感。八重垣くんのそういうとこ、好きだな。」
「そうですか? ありがとうございます。でも僕にはもう拓がいるから。」
「おめ、こっから簀巻きにして突き落とすぞ?」
「ねーねーあの山は何ぃ? どれとどれが大和三山?」
「そこにパノラマ図があるよ。えーと…多分あれが畝傍山。」
展望台の真ん中には木の切り株を型どった大きなテーブルがあって、表面には銅製の丸い板がはめこまれている。そこには360度の方角に何が見えるかを、古地図めいた線画で書き込んであるのだ。
「あれが…天香具山で、あっちが耳成山かぁ。額田女王をめぐる古代日本最大のロマンス、つーか三角関係ね。うーん思い出すなぁ。」
「思い出すなって、ああそっか、おねえさん演劇部で額田やったことあんだよな。」
「脚本まで書いたんだよーん。今にして思えば稚拙きわまりないモンですがね〜。
『香具山は 畝傍を愛(お)しと 耳成と相争ひき 神代よりかくあるらし うつそみも 妻を争ふらしき』。中大兄皇子、のちの天智天皇の御製っすね。しかしいいねぇ万葉集は。もぉ著作権なんか完全消滅してっから、引用しまくりぃの、書きまくりぃの。」
「んな、中大兄皇子にどうやって印税払うんだよ。窓口は宮内庁か?」
「はっはっはっ、せこー。」
「うわぁ、日が照ってきた照ってきた。昨日までは傘だったけど今日は帽子が欲しいかもね。」
「ほんとだね。さすがは晴れ男の拓。しかも増強剤の八重垣くんともやっちゃったしねぇ。」
「だからやってねえっつの!」
昇りはきつかったが下りは楽で、5人は坂を下り駐輪場に戻った。
「あれ、台数増えてますね。やっぱここに停めてよかったんだ。」
「やだぁまだ心配してたの?」
「ええ、心配性なんですよ僕。あんまり太れないタイプですね。」
「あんなに食べるのにねー。」
スタンドを上げ、八重垣は自転車にまたがった。次の目的地は飛鳥寺。日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏の拝観である。飛鳥寺は甘橿丘のふもとにあり、到着まではほんの5分だった。
「わぁお、賑わってる賑わってる。なんか初めて『観光地!』って感じの場所に来た気がするぅ。」
「言えてんな。昨日までずっとうちら、孤独な旅人だったもんな。」
「さぁさぁお参りしようぜい。」
明らかに駐輪スペースと判る場所に自転車を並べて、彼らは境内に入った。
全盛期には法隆寺の3倍の規模を誇ったといわれる飛鳥寺も、現在の広さは猫の額である。飛鳥王国のパスポートからさっそく割引券を使わせてもらい、お堂で5人は説明を聞いた。なかなか味のある顔だちの坊さん(らしき小父さん)がフリップ状の説明ボードを掲げてあれこれ解説してくれる。その間をぬってヒソヒソ言うのは智子だ。
「ほら、この仏像の手の形が与願・施無畏の印だよ。アクセサリーはつけてないから如来像、そして手の形から釈迦如来だと判る訳ね。どう、タメになったでしょー今回の旅行は!」
「ちょっと、うるせぇっておねえさん。ちと黙ってろ。」
狭い堂内にぎっしり並んだ参拝客は、最後に坊さんの声に合わせて合掌した。立ち上がり、外に出るまでの廊下には寺に伝わる品々がガラスケースで展示されている。懲りもせず智子は説明した。
「あのね、このお寺はね、神道の守護者である物部氏に勝利した蘇我氏が、仏教の興隆を目的として建立した初の本格大寺院なんだけども、大化の改新で蘇我氏が滅んで以来、後ろ盾をなくしちゃうんだよね。初めは飛鳥にあるから飛鳥寺、って判りやすい名前で呼ばれてたのに、天武政権の発足時に改名させられて『法興寺(ほうこうじ)』になったのよ。
まあそれくらいなら仕方ないかと思ってるうちに都は平城京に移されて、各寺院も飛鳥から奈良へ引っ越せ、つう政府命令が下るのね? それでこの寺は怒ったのよ。何たって『本格的な日本の仏教はウチの寺から始まったんだ』ってプライドがあるもんだから、時代に流されるのを潔しとしなかったんだろね。たとえおカミのお言葉でも、そのゆかりの地を離れるなんてイヤだと。
それだけじゃない、新京では新たに『元興寺(がんごうじ)』と名乗れ、なんて言われてね、冗談じゃねぇとばかりに抵抗したのよ。元興寺なんて過去の遺物みたいな名前じゃん。そしたら政府は、そんならいいよってんでサッサと奈良に『元興寺』って寺を建てちゃった。一部の坊さんたちは泣く泣くそっちに移ったのかも知れないけど、それでもきかない強硬派は依然として飛鳥に居残ったんだって。
このガンコさにほとほと手を焼いた政府は、こっちの、飛鳥に残った方の寺を『本元興寺』と呼ぶことにしたんだって。けど、当時飛鳥にあったはずの無数の寺も、奈良に移された新しい元興寺も、後世全部消滅ないし荒れ果てちゃったのに、この寺だけは今もこうして飛鳥の代表的な観光名所になってる…。これは代々の反骨精神ていうか意地っつーか、つまりは根性の賜物なんだろうね。」
「へー。その話はおもしれぇじゃん。反体制の寺なんだ、ここ。」
「そうそう。田畑を没収されたり本堂を壊されたり、嫌がらせもされたみたいだよ。あの飛鳥大仏も何度も火災にあってね、日本最古の鋳造仏とかいいながら国宝に指定されてないのは、顔と指の一部にしか創建当時のものが残ってなくて、修理に修理を重ねた、いわばボロボロの仏像だからなんだって。まぁ国宝じゃなくても重要文化財だけどね、国の。」
「…けどさ、それってつまり、壊れるたんびに直したってことだから、ある意味すげぇじゃん。反体制の寺なんかに政府の援助がある訳ねんだから、費用は自分らでかき集めたんだろ?」
「うん、多分そうなんだよね。だから意地と根性のお寺なのよ、ここは。」
「なんか『がんばりましょう』みてぇだな。」
靴を履いて庭に出ると、休日らしい喧騒の一隅に小さな鐘楼があった。甘橿丘で何度か聞いた鐘の音は、ここから響いてきたものに違いない。
「よっしゃ、1発1発! 今日1日の晴れを祈願しようぜ!」
拓はまた嬉しそうに駆けのぼっていった。下で4人は、
「鐘見ると撞きたくなるのかね。変な孔雀。どういう条件反射なんだか。」
「女性性器の象徴だとか、鐘ってそういうことなの?」
「さぁ。知ってる? 八重垣くん。」
「うーん…。ちょっと聞いたことありませんね。」
ゴーンと鳴らして拓は下りてきた。続いては今回カマタがチャレンジする。
「がんばれカマター! 目指せ千人斬り!」
「あ、それはちょっと難しいかもよ。あと999人だって話だからねぇ。」
「いや、あと999じゃなくて今が999人めなんじゃないですか。」
「おお素晴らしい。さすがは人の親だ。」
「ちったぁ見習えよな、真澄っちもな。」
「そうだね〜。でもそれに先立って、まずは良縁を探さないとなー。」
「なぁに質より量だ、火遊びでも行きずりでもガンガンいけガンガン。」
打ち終わってカマタは下りてきて、
「ちょおっとぉ。何よぉ今の999人ていうの。あたしはこう見えてもバージンカマタと言われててねぇ!」
「へっ。笑かすんじゃねっつの。…なーなー八重垣ぃ。入鹿の首塚っての行ってみようぜ。このすぐ裏だって、さっき坊主が言ってたじゃん。」
「そうだね、行ってみようか。ちょっと暑いけど…。」
寺の裏門を出ると水田が広がっていた。畦道に似たコンクリートの遊歩道がその中を通っている。白く細い道はかなり照り返しがきつかった。
「へー、これが首塚。つまり見た目はお墓だね。」
「うん…。きっちり整備されすぎだよねぇこれ。こういうのって田んぼとか畑の真ん中に、ポツンと放り出されてこそ伝説の重みがあるのにさぁ。」
「確かにこれじゃ、首塚つぅより戦没者の供養塔って感じだよな。」
「あれ、たまには拓もいいこと言うじゃん。似てる似てる。」
「でも入鹿ってさ、皇極(こうぎょく)天皇…中大兄のお母さんね。この人の情夫だったとも言われてるんだよね。中大兄が入鹿を斬ったのは、それに対する諫めもあったんだろうって。」
「ふーん。昔もいろいろあったんだぁ。人間のすることなんて変わんないねー。」
「それにしても智子さん、万葉集専攻だっただけのことはありますね。さすがに詳しいな。」
「へへっ。まーね。シッタカぶりは見苦しいけどさ、歴史の裏話みたいなのなら楽しいでしょ?」
「まぁな。今のでギリギリだけどな。」
「はいはい気をつけますよ。でもその入鹿の首塚をさ、飛鳥寺のそばに持ってくるってのが権力の残酷さだよね。滅びたものは1か所にまとめちまえっつーか。」
「ああそうか。飛鳥寺は蘇我氏の寺だから…。」
「うん。そういう風に見ると歴史って面白いよね。どんな映画より小説よりドラマチックでさ。受験勉強じゃ絶対判んないけど。」
5人はぶらぶらと境内を横切り、駐車場の傍らにある売店に入った。『大和茶アイス』ののぼりに心惹かれたのである。夏に近い日差しのせいで全員喉が乾いていた。早速賞味してみる。
「あ。ちゃんと緑茶の味すんじゃん。甘くなくていいわこれ。」
「ほんとだぁ。お茶の…なんだろ、苦みもあるね。抹茶ほどはこってりしてない。」
横1列ベンチに座ってペロペロやっていると、売店の小母さんと観光客の会話が耳に入ってきた。曰く。
「この時期にしちゃすごい人出だね。あの遺跡のせいだろこれ。」
「ええそうですよ。昨日もすごかったし。団体さんはバスで押し寄せるはTV局の車は来るは…。」
「ふうん。いったいどこが儲かってんのかねぇ。」
「ほんとですよ。地元は大迷惑。」
これには5人も笑ってしまった。盛り上がるのはいつも部外者連中なのかも知れない。
「なんかさぁ…話変わるけど、拓がアイス舐めてるのって何となくえっちだよね。」
「あ? なに、俺?」
「うん。ほらほらその、垂れそうなのをペロッてやるとこなんか。」
「いやそう見つめんなって。食ってらんねぇだろ? 八重垣の方見てろよ八重垣の方。」
「え? 何ですか、どうかしました?」
「ううん大したことじゃないけど。八重垣くんの口はさ、セクシーっていうより理知的だもん。」
「え、そう…ですか? 魅力足りません?」
「ちゃうちゃうちゃうちゃうっ! そういう意味じゃなくてぇ!」
「どうなのかなあ。ねぇ拓。俺の口でちゃんとイケる?」
「馬鹿っ!!! や、大和茶アイスが、肺に…」
げほげほ咳込む彼の背中を八重垣は撫でてやろうとしたが、
「いいから触んなっ! お前、いったい何考えてんだよっ!」
「やだなあ知ってるくせに。さてと皆さん、この後どうしましょうか。橘寺へ行く前に、石舞台古墳も行きます?」
「行く―――っ! あそこは是非とも行きたいぃ!」
「そうですか。じゃあ先にそっち行きましょう。アイスはもう食べ終わりました?」
「はいはい大丈夫よー。コーンまでしっかりやっつけましたっ。」
八重垣はガイドブックでコースを確かめ、立ち上がった。飛鳥寺、石舞台、それに高松塚古墳が飛鳥観光の3大スポット…いやシンボルといってもいいかも知れない。今後それに苑池遺構が加わるかどうかは、いずれ時間が判断するだろう。
5台の自転車は八重垣先頭・拓をしんがりにバス通りを南下した。途中の道の左側にはコンクリート工場がある。これは12年前にも確かにここにあった建物で、少しずつとはいえ確実に変わっていく明日香村における、将来の遺跡候補なのかも知れない。
飛鳥坐(あすかにいます)神社、酒船石、民族資料館なども本当は見て回りたい場所だが、時間の都合で割愛しなければならない。贅沢を言ってはキリがないけれども、出来ればもう1泊したかったなと八重垣は考えた。
板蓋宮(いたぶきのみや)跡伝承地にさしかかった時、行く手にテントと人だかりが見えた。
「あれっ。なぁんだ、こんなところに受け付けがあるんですね。」
八重垣に続いて4台もブレーキをかけ片足を着いた。メガフォンを持った係員がテープレコーダーのように、苑池遺構の見学希望者はここでパンフレットを取って案内図に従い現地へ行けと繰り返している。
「どうします? せっかくだからパンフだけでも貰っていきますか?」
「あ、そうしようよ。待っててあたし貰ってくる!」
真澄が言うと拓も、
「俺も行く俺も!」
すちゃっ、とスタンドを立てて石畳の上を走っていった。ひらひらと髪がなびいている。
「目立ちますねぇ彼は、何をしても…。なんか回りに注目されてませんか。ほらほら、あの小母さんたち振り返ってますよ。」
「あー、そうかもねぇ。困った孔雀だ。自己顕示欲のカタマリかも知れんな。」
「まぁそれもいいじゃないですかエネルギッシュで。」
微笑んでいる彼にカマタは、やはり聞きたいことがあった。つんつんつん、とシャツの袖を引き、
「ねーねー、八重垣くぅん。」
「はい?」
「あのさ、夕べって、夕べってホントに、拓、と…?」
彼は心底おかしそうにクスッと含み笑いした。
「さぁどうでしょう。ご想像におまかせしますよ。その方が楽しいでしょ?」
「えー…。意味シン…。そんなんじゃ今夜ウチ帰ってから寝らんないよぉ。ねー、キムラぁ! どっちなのよぉ!」
「だ〜か〜ら、ご想像にまかせるってばよぅ。ねーヤエガキっ!」
「ねー。…ああ戻ってきたきた。」
「よ、お待ぁち。はいよお前らの分。」
「サンキュ。さっ、じゃあ行きますよ。」
腑に落ちない気分のままカマタは地面を蹴った。
石舞台へ向かう道は、吉井さん宅のすぐそばの郵便局の前を通る。国営とはいえ売上向上につとめているらしいその局は、全国津々浦々から集まってきた歴史ファンに、記念スタンプ付きハガキとおぼしきグッズを路上販売していた。多分休日返上で、実にご苦労様なことである。がその呼びかけは、
「こんにちはー! 郵便局でぇす!」
「どうぞご覧になって下さぁい、郵便局でぇす!」
通りすぎざま5人は笑った。
「んな、誰がどう見たってありゃ郵便局だろ。テレビ局でも水道局でも東京特許許可局でもねぇよな。」
「そういわないでさぁ、あの努力は買って、あげようよ〜。」
「はっはっはっ、若おやじ!」
たどり着いた石舞台のあたりはこれまた、いつフランス革命が起きたのだというくらいに変わっていた。大型バスが何十台も停まれそうな広大な駐車場、レストランとみやげもの屋と観光案内所が合体したドライブインそっくりの施設、車を誘導している制服姿の警備員…などなど、たかが石を積み上げただけの墓が、少々やりすぎではないかと思えるほどに優遇されていた。
「ふわぁぁぁ…。二条城なみだねこりゃあ。他に何がある訳でもないのにさぁ。」
「二条城っつうか、コンサートホールみてぇじゃねえ?」
「言えたぁ。ほんとそんな感じぃ。」
しっかりと設けられた受付で、きっちりと料金を払って公園内に入る。売店も整備されていて、
「おおっ! すっげぇコレ! “石舞台Tシャツ”!」
「やっだーホントだぁ! なんか笑えるかもー!」
「な、これさこれさ、どっかの夏コンの”お揃い”にすりゃウケんじゃねぇか? 『南ゲートに5時半集合、目印は“石舞台Tシャツ”ねっ!』とかって。」
「いいかもいいかもぉ! ねぇキムラやればぁ? 『トリプルT』でさぁ。」
「やるかっ! 何が悲しくてヒトの墓がプリントされたTシャツ着て集合せなあかんねん!」
「おもしれぇからアリだよアリあり! おねえさんてそういうのすっげ似合いそう。」
「けっ。あたしだったら石舞台じゃなくてこっちの、飛鳥大仏のガラにするねっ!」
緑の芝生に綺麗に覆われた公園。そんな風情の中にその巨大な花崗岩の墓はあった。使われている石の総重量は2300トンというのだから、いずれ高貴な人間の墓には違いない。
「普通に見たらただの石だけどな。」
「そうだね。でも雑に思えてしっかり積まれてるんだよ。」
外側をぐるりと見て、続いて階段を下り中に入る。きのうまでの雨が地面に溜っていて、薄暗い内部の空気はひんやりと冷たかった。
「これだけ人がいてもさぁ…。中に入るとやっぱお墓だね。どことなく不気味…。」
「そうだよなぁ。誰かの死体が、ここに埋められてた訳だもんな。」
「やだやだ、そういう言い方すると怖いよぉ拓ぅ。」
「あれっ! 今、カマタの後ろに何かが!」
「やだーっ!!」
「こぉれ、かまりんっ。抱きつきたいのはあたしじゃないでしょー?」
「だってだって、まさか拓に抱きつく訳にいかないじゃないよぉ! 八重垣くんが怒るぅ!」
「おいっ! いつの間にそういうことになってんだっ!」
「別にいいよかまりん。貸してあげる。僕の拓だけどね。」
「てめ、千年くらいこん中埋まってみっか?」
古代の空気を十分堪能して5人は外に出、道の反対側の休憩所で少し休んだ。八重垣はバイブルをめくり道順を確かめた。
「じゃあ、次は橘寺へ行きましょう。聖徳太子生誕の地ですよ。」
「わーい。懐かしのミスター1万円札ー!」
「ええと…そこを曲がって、橋を渡ればいいんだな。もう迷わないようにしないと。」
念入りに見ている八重垣の手元を拓は覗きこみ、
「あれっ。おいおいおいぃ、ここ行こうぜここ!」
「え?」
「マラ石、なんつうのがあんじゃんマラ石なんつうのが! くうーっ! 俺のタメにあるような石だっ!」
「そんな、いいんですか智子さん、これ伏せ字にしなくて…。」
「いや…そうするベキかとも思ったんだけどね? しっかりガイドブックに書いてあるからさぁ。」
「へっへっへっ、放送禁止用語〜。とにかく行こうぜ。俺、しっかり撫でてこよー!」
「だーめっ。そんなとこ寄ってる時間はないよっ。今日ここでもう1泊すんならともかく、3時前には京都行きに乗ってなきゃなんないんだから。」
「えー…。やだぁぁ。俺、行きたぁいい…。」
「そんな上目使いしてもだめっ。自分のでもいい子いい子してなさい。さっ、行こうぜヤエガキ!」
「行きますか。」
ポカリスエットのキャップを締めて八重垣はバッグに入れた。拓はぶつぶつ言っていたが1対4では勝ち目はない。5人は、飛鳥川の上流にあたる小川に沿って橘寺へと向かった。
「ああ、ここですね。その階段の上です。」
「『橘寺』…ほんとだあ。横から入るみたいな感じになるのかな。」
「そうですね。えっと、じゃあそこの空き地に停めますか。何も書いてないけど大丈夫でしょう。」
「はーい。」
5台の自転車を並べて停めて、彼らは階段を登った。
「あっち〜…。」
拓はTシャツの半袖を肩までまくりあげ、ついでに髪を束ねた。これだけでかなり涼しいらしい。
「ほんっと暑いね。昨日がこの天気だったら山の辺の道で倒れてたかも。」
「あぁそうだねー。そう考えるとさ、よかったよねぇ1晩めにしてこの2人が、やっ―――」
「言うなっ!! それ以上言ったら、俺はマラ石の隣りに小屋建てて住むぞっ!」
橘寺。ここは周知の如く聖徳太子創建七ヶ寺の1つとされており、太子に縁(ゆかり)のものが数多く伝えられている。飛鳥の地にふさわしくどこかのんびりした趣のある寺だ。
境内に入ってすぐ左側に、橘型の塔心礎がある。溜った雨水が鏡となって、雲を浮かべた青空を映し出していた。
「きれーい…。このまんまパンフレットとかに載せたい感じぃ。」
「本当ですね。なんかこう、工場で型抜きしたみたいに整ってる。着物の紋付きとかにある橘の紋って、まさにこの形じゃないですか。」
「心礎ってことはぁ、昔はこの上にどーんと塔が建ってたんでしょ?」
「そうなんじゃないですか? でも聖徳太子が実際に生まれたのも育ったのもこの場所じゃあなくて、ここは太子のお父さん、用明天皇の離宮だったそうですね。」
「えー、何だ、そうなのぉ? 太子生誕の地っていうのは、それじゃあただの言い伝えなんだぁ。」
「ええ。古くからそう信じられていたんでしょうね。」
「そうみたいね。でもさぁ、確かに事実も大事だけど忘れちゃいけないのは、どうしてそういう言い伝えが『出来たのか』ってことだと、かの梅原猛センセイが言っておられる。」
「ああ、『隠された十字架』の著者ですね。それに『水底の歌』でしたっけ?」
「お、さすがはヤエガキよくご存じで。」
「知ってますよ。ベストセラーになったじゃないですか。法隆寺の謎ブームの火つけ役になった本ですよ?」
「あ、そういや俺も聞いたことあるな。法隆寺のナゾ…。太子の祟りがどうとかって奴だろ?」
「そうそう。ちょっと面白ずくに読まれちゃったみたいな部分もあるけど、示唆に富んだ本だったよね。」
「ええ。あれに書いてあることをすぐに丸ごと信じるのは、まぁ、ちょっとアレかも知れませんけど、歴史ファンていうか、考古学ファンは増えたでしょうね。それだけでもいいことですよ。」
「うん。いい仕事した本だよね。」
「『なんでも鑑定団』かっつーの。」
蓮華塚、太子の黒駒像などを見てから5人は、太子堂とも呼ばれる本堂に上がった。
「なんか長岳寺以来、うちら本堂大好き人間になってるよな。」
「ほんとほんと。本堂と見ると靴脱いで上がり込むの。ヘンなクセがついたもんだよ全く。」
「な、カマタ。東京着いたら山手線に靴脱いで乗んじゃねぇぞ。」
「乗んないよぉっ!」
参拝客は多くても堂内にまで入る者はやはり少ない。5人は聖徳太子の勝鬘経(しょうまんぎょう)講讃像の前に横1列になって正座した。
「ハタから見たらこれ、面白い絵だろうね。5人でズラッと。」
「あいつら何拝んでんだと思われんだろな。若い身空で人生ハカナんでんのかとか。まぁ…よく意味も判らずに出家考えてる奴はいるけどな。」
「へっ、意味くらい判ってるよっ。この世は全て色即是空。儚いもんだねぇ。なむなむなむ…」
「何いきなりおがんでんだよ。」
「いえね、何にも増して、世界平和をね。」
「嘘つけえ。 『グッドニュース』の予約録画、失敗してませんようにとか拝んだんだろぉ。」
「…なんで判ったの。」
馬鹿話はあいかわらず好調だった。さんざん笑ったあと5人は太子像にしっかり手を合わせ、外に出た。決して信心深くはないけれども、妙に拝むのが好きな一行である。
「ねーねーこっちに『二面石』があるよー。」
真澄は4人を手招いた。それは高さ1メートルほどの石像物で、背中合わせになった2つの顔の左右が、どんな人間も持っている善悪の両面を表すとされている。が、
「なんかさ、柔軟体操してるみてぇだな。あんじゃん、こやって背中向きに肘組んで、よっ!て相手を持ち上げるやつ。」
「ああ、あるある。背筋伸ばす運動。」
「かわりばんこに、ね。」
八重垣は言った。女3人は吹き出し、拓は彼の尻を回しげりした。
「なんだよ、別にそういう意味じゃないよ。もう、何をこだわってんのかなぁ拓は。派手に見えて純情なんだから。」
「るせー!」
橘寺の真正面、お向かいさんといった位置に川原寺はある。次に向かうのはそこだ。真っすぐ行けば近いのだが自転車を脇の道に置いたので、一旦そちらに下りなければならない。石段の上から見下ろすと、自転車の隣りにはトラクターが停めてあった。さっきからあったのだろうが気づかなかったのだ。
「なんか、いいトータル・コーディネイトしてんな。」
実はトラクターも自転車も、明るいオレンジ色なのである。5人は笑い、日差しに熱せられたサドルにあちぃあちぃと騒ぎつつ、広い道路を横切った。
その9へ続く
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