★ クインテット新春特別番外編 『チュチュとシュシュの物語』 ★

 

 馬車を下りるとチュミリエンヌは、頭にかぶったショールの衿元をぎゅっと押さえて、正面に見える門と左右に立っている警備兵を睨んだ。足元には、暖冬ゆえさほど深くはないが雪が積もっている。彼女はスカートを膝のあたりまでたくし上げ、内側にフェルトのついた革の長靴でキュッキュッと雪を踏みしめ進んだ。

「おいお前、何の用だ。今日は面会日じゃないぞ。」
 案の定兵士に呼び止められた。彼女は用意してきた口上を述べた。
「私、こちらの司令官を務めていらっしゃるルージュ様…アレスフォルボア侯爵家若君の侍従です。司令官殿のことでどうしてもおうかがいしたい話があって参りました。ここを通して下さい。」
「通して下さいって…それで通れりゃ門番はいらないんだよ。何か身分を証明するもんを出しな。」
「そんなものは持っていません。何しろ下働きですから。…失礼します。」
 強引に門を抜けようとしたチュミリエンヌだったが、
「待て待て待て!」
 むんずと衿首を掴まれ引き戻された。

「何すんのよ、ちょっと放してよ! レディには優しくしろって学校で習わなかったのっ!?」
「レディだとよ。」
 2人の兵士は顔を見合わせて笑い、
「あいにく兵隊学校じゃ、そんなもんは教えないんでね。さぁ帰った帰った。女だからってお目こぼしする訳にゃいかないんだ。どこの間者がまぎれこんでるか判らんご時世だからな。怪しい奴は決して通すな、ことによってはひっとらえろというのが、第1連隊長のご命令なんだ。悪く思うなよ。」

 犬か猫でも追い払うような手の動かし方をした兵士の前を、チュミリエンヌは立ち去らなかった。
「第1連隊長って、シュワルツっていうのよね。うどの大木に目鼻つけたみたいな、ぬぼーっとしたでっかい男。総身に知恵は回りかね、の見本みたいな奴でしょう。」
「…。」
 2人の兵士は彼女の顔を見、どちらからともなく吹き出すと腹を抱えて笑い始めた。
「面白ぇ女だなお前。名前は何ていうんだ。」

 チュミリエンヌはツンと横を向いた。
「女の子の名前をみだりに聞くもんじゃないわ。なんにも知らないのねあんたたち。そんなだからお嫁さんも貰えないのよ。」
 2人はまたゲラゲラ笑った。警戒心など忘れたように親しげな顔になり、やがて彼らはこう言った。
「まぁしょうがねぇだろう。中に入れる訳にゃいかねぇが、特別にここへ呼んできてやるよ。あんた誰に会いに来たんだ。」
「本当はいけねぇんだけどな。連隊長にバレねぇようにこっそり連れてきてやっから。」

 チュミリエンヌはニヤリと笑った。
「今言ったその、総身に知恵の回りかねてる奴よ。シュワルツとかいう第1連隊長。」
 兵士たちはサッと真顔になり、
「連隊長に…?」
「そうよ。早く呼んできてよ。話はすぐに済むわ。聞きたいことがあるだけだから。」
 男たちは互いの目をのぞきこんで、表情で相談していたが、
「しょうがねぇ…。いいって言っちまったからな。待ってろ、聞いてきてやる。」
「早くね。」

 広い練兵場を横切って走っていく兵士の背中を彼女は見送ったが、兵士は途中で立ち止まり、引き返してきて彼女に聞いた。
「おい、何て名前なんだよお前。誰が来たか判りませんじゃ連隊長に聞けもしねぇ。」
「チュミリエンヌ・フリーデルよ。侯爵家の侍従の。」
「司令官とこの、チュミリエンヌだな。」
 再び兵士は走っていった。彼女はふうっと息を吐いた。


 誰もいない会議室でシュワルツは、机の上に大きな紙を広げて何やら考えこんでいた。乱雑に書き込まれているのは丸と矢印の記号、どうやら敵陣の形に合わせた攻撃パターンの分析のようである。

「ここに親玉がいるとして、まず先兵がこう突っ込むだろ。次がこう動く、こう来る…。こう来たら、こっちの隊がこう…。駄目だ、ありきたりすぎるわ。もっとこう相手があっと驚くような破壊力のある攻撃はできねぇもんかな…。」
 ペン尻でガリガリ頭を掻いていると、ノックのあとで、
「失礼します連隊長。」
 門を警備していたあの兵士が顔をのぞけた。
「何だようるせぇな。今俺は難しいことを考えてるんだ。急ぎの用じゃなかったら後にしてくれ。」
「いえそれが、連隊長にお会いしたいという女が参っておりまして。」
「女?」
 シュワルツは振り向いた。

「はい。司令官殿の侍従で、チュミリエンヌとかいう。」
「チュミリエンヌ? 誰だそいつぁ。」
「ご存じないですか。」
「さぁて誰だったか…。星の数ほど女はいるからな。」
「ええとですね、やけにパキパキとものを言う女で、ちっこいくせに気の強そうな、跳ねっかえりのじゃじゃ馬です。」
「跳ねっかえり…。」
 あっ、とシュワルツは目を見開いた。チュミリエンヌという名前は初めて聞いたが、思い当たる相手がいた。
 

 それはルージュが兵士全員にふるまった、あの食事会の日のことだ。4000人分のディナーなどそう簡単に用意できる訳がないと高をくくっていたシュワルツの目の前で、それらはあっという間に整えられた。侍従たちは皆きびきびと動き、その中に1人、やけに威勢のいい小柄な女が確かにいた。彼女は荒くれ兵士たちを、その皿はそっちだ、この皿は向こうへ持っていけと顎でこき使っていたのだ。

 その食事会の席でシュワルツはルージュと和解し、場は拍手と歓声に包まれた。こうと決めたらこだわらない性格のシュワルツは、ルージュが用意した料理をありがたく頬ばっていたのだが、1人の兵士がやってきて彼にこう耳打ちした。
「連隊長、あっちの鴨のローストは食いましたか。こりゃもう絶品ですぜ!」
「おおそうかそうか。どれだ、どこにある。」
「ええっとねぇ…おーいそこの女! 連隊長様が鴨肉を食いたいそうだ。持ってきてくれ、急げよ!」
 兵士が指示した相手はその小柄な女だった。彼女はキュッとシュワルツを睨むと、皿に手早く肉を盛りつけ、無言で目の前に差し出した。

「よ、ありがとよ。」
 礼を言ってフォークに突き刺し口に入れるや否やシュワルツは、顔中の穴から火が吹き出したかと思った。からいの何の、人生のうちでこれほどからい思いをしたのは初めてだった。
「へめー!!」
 怒鳴り声さえ間の抜けたものになったが、その女はフンと鼻で笑うと水差しをドンとテーブルに置き、くるくるとよく動く目でシュワルツを睨みつけ言った。
「ルージュ様をいじめる奴はね、この私が絶対に許さないからね。」
 

「あいつか…。」
「え、お心当たりがおありですか連隊長。」
「何しに来たんだよあのとんがらし女…。」
「は?」
「何の用だっつってる。まだ何かする気なのかよ。」
「さぁ…。何でも司令官殿のことでどうしても聞きたい話があるとか。すぐに済むと言っていました。」
「う"ー…。」
 シュワルツは本当に頭を抱えた。

「いる、つっちまったのか。」
「何ですか?」
「その女に俺が、中にいるって言っちまったのかよ。」
「はい、どうしてもと言われたもので、会うかどうか聞いてくると言ってしまいましたが。」
「馬鹿野郎…。」
 彼は舌打ちした。居留守など使ったら今度は、厨房に忍び込んで下剤を盛られそうな気がした。

「しょうがねぇ。どこにいるんだそいつは。」
「門のところに待たせてありますが。」
「連れてこい。」
「よろしいんですか?」
「いいよ…。」
「かしこまりました。」
 兵士は出ていった。シュワルツは溜息をつき、あの時のからさを思い出して思わず身震いした。
 

 兵士に案内されて、チュミリエンヌは階段を登っていった。ショールとコートは入口で脱ぎ、畳んで腕にかけていた。侯爵家の下働きは、春から秋は白麻の服で、冬場は厚手の紺色の服である。飾りは胸元のリボンだけだが、ポニーテールに結った髪にも彼女は同色のリボンを結んでいた。輪郭の綺麗なチュミリエンヌに、そのヘアスタイルはよく似合った。

「失礼いたします。お客様をご案内しました。」
 ドアをあけて兵士は言い、彼女を部屋に入れた。シュワルツはこちらに背を向けて窓際に立っていた。左手を腰に取り右手はカーテンにかけて、精一杯のポーズをつけていながらも、緊張、の2文字が背中の真ん中に貼りついていた。

「今日はちょっと聞きたいことがあって来たのね。」
 兵士が下がるとチュミリエンヌは、そこにあったテーブルの椅子に勝手に座って切り出した。
「ルージュ様のご様子がおかしいの。戦さからお帰りになって以来、お食事もまともに召し上がって下さらない。こんなことは初めてでみんな途方に暮れてるわ。あんたなんかに聞くのは癪にさわるんだけど、教えて。ルージュ様をそんなに苦しめるような、いったい何があったの?」
「…メシを食わねぇだぁ?」
 シュワルツは思わず振り向いた。チュミリエンヌはうなずき、
「そう。お帰りになってからずっと。このまんまじゃお体がもたないわ。ひどくお痩せになって、お顔色も悪くて…。」
 言っているうちに彼女は泣きそうになったが、シュワルツはそこで何と、ぶふっ、と大きく吹き出した。

「参ったなそりゃ。あのお坊ちゃんにはよっぽどこたえたとみえら。」
 シュワルツの笑いは嘲りではなく、弟を思うような一種の親愛の情だったのだが、チュミリエンヌにそんなことは判らなかった。笑い続けるシュワルツの前で、チュミリエンヌはすっくと立ち上がった。そのまま大股にドアの方へ歩いていくのを、帰るのかと彼は思ったが、彼女はくるん!とこちらを向くといきなりダダッと走りだし、シュワルツの手前1メートルの位置で思いきりジャンプした。何事かとも判らぬうちに彼の両目から星が飛んだ。強烈な平手打ちだった。

「何がおかしいのよこのスットコドッコイ! あんたみたいなスポンジ頭には判んないのよ、ルージュ様がどんなに悩んでどんなに苦しんでおられるか! あの方はね、お優しいのよ。言葉にはお出しにならないけど、思いやりがあって心の豊かな、素晴らしい方なんだから! あんたみたいに刷り損ねの新聞紙を泥水につけてきのこがはえてるような腐った心の奴とは違う世界の人なのよ! あんたなんかね、人の迷惑も考えないでただでっかくぼーぼー育っただけじゃないの! 何とか言いなさいよこの腑抜け! その腐った頭は何のためについてるの。それはもしかして帽子の台!?」

「…。」
 左の頬を押さえて涙目になったシュワルツは、まじまじとチュミリエンヌの顔を見、つぶやいた。
「お前さ…よくそう次から次へと悪口雑言を思いつくもんだよな…。」
「おあいにくさまね。昔から喧嘩であにじゃに負けたことはないのよ。でかい男なんてだいたいが見かけ倒しなの!」
「兄貴さんに同情するよ…。」
「なに。何か言った?」
「いえ言ってません。ごめんなさい。俺が悪うございました。」
「判ればいいわ。」
 すとん、とチュミリエンヌは腰を下ろした。恐る恐るという感じでシュワルツも、彼女の向かいの椅子を引いた。

「それで話を戻しますけどね。」
「はい。」
「何があったの、ルージュ様に。」
「ええと…話せば長いんですが。」
「要領よくまとめて教えて。」
「はい…。」

 シュワルツは少し間をおいて考えをまとめ、ハルスの町で起きたこととエフゲイアのこと、それにフリッツの話などを、彼女に判るよう話してやった。最初は彼を睨んでいたチュミリエンヌだったが、
「子供に死なれた母親の涙を見て、司令官はたまらなかったんだと思う。戦さなんだから人が死ぬのはしょうがないんだけどな、それだけじゃ割り切れないいろんなことを、司令官はまるで自分1人の罪であるかのように感じてるんだろうよ。」
 しみじみとシュワルツが言うのを聞くと、彼女はさめざめと泣きだした。男が本気で殴ったら折れるだろう細い肩が、ひくひくと上下していた。

「まぁ…でもこればっかりはな、回りの人間があんまり騒ぐのもよくねぇからな。穏やかに放っとくのが一番なんだ。必ず時間が解決してくれる。ろくに食わねぇったってお前、司令官はまさか水も飲まねぇ訳じゃねぇんだろ? だったら大丈夫だよ。人間、水だけで半月やそこらは生きてられんだから。なるべく野菜もんの料理作ってやりゃ、そのうち食うだろ。鳥みてぇにな。」
「そうね…。」
 小さく洟をすすってチュミリエンヌは言った。
「私たちが騒いじゃいけないのね。一番つらいのはルージュ様なんだもの。見守るしかないのよね、私たちには。」
「ああ。見てんものつれぇけどな。仕方ねぇ。兵隊になった男はみんな、1度は同じ思いをするんだ。司令官の親父さんだって、将軍たちだって、それに…この俺も、だな。」

 シュワルツはニヒルに笑ったが、チュミリエンヌは即座に、
「あんたはせいぜいお代わりが減ったくらいでしょ。鈍いからそんなにむくむく、遠慮も何もない図体に育ったのよ。」
「あのな、俺はこう見えて何度戦火をくぐってきたと思ってんだ。」
「あんたなんかいつ死んだっていいわよ。まぁそういう奴に限って、憎まれっ子世にはばかるでのうのうと生きてるのよね。…さて、と。」
 今度こそ帰るためにチュミリエンヌは立ち上がり、ショールとコートを手に取った。
「おい何だよ、聞くだけ聞いて、何か言い忘れてることがあんだろが。」
「ないわよ。聞きたかったのはそれだけ。お邪魔しました。」
「待てっつんだよこのオコジョ!」
「おこじょ?」
 キッ、と振り返ったチュミリエンヌに、シュワルツも立ち上がって歩みよりながら言った。

「ッたく礼儀も何もねぇ女だな。いいか? 人さまにものを聞いたら、ありがとうございますだろありがとうございます。いいやそれだけじゃねぇ。お忙しいところお時間を取って頂いて誠にありがとうございました、突然の訪問、ご無礼をお許しくだ―――」
 そこでシュワルツの呼吸が止まった。ジャンプをしない代わりにチュミリエンヌは、彼の向こう脛を嫌というほど蹴っていた。しゃがみこんだ彼を後ろに見捨て、バタン!と彼女はドアを閉めた。
 廊下の曲がり角ではどう見ても不自然な人数の男たちが立ち話をしていたが、無視してチュミリエンヌは階段を下りた。

 足音が消えるのを待って、その中の1人ヴォルフガングは、兵士たちに背中を押されて会議室のドアをノックした。
「失礼しまーす…。おーい、いるか、シュワルツ?」
 首を伸ばしてキョロキョロ見回すと、シュワルツはチュミリエンヌが座っていた椅子の脇に立って、呆然と虚空を眺めていた。
「おい、どした…?」
 小声で尋ねたヴォルフガングは、次に信じられないものを見た。左頬にまだうっすらと赤い手形を残したシュワルツの顔が、彼の方を向いてニーッと笑ったのだ。こいつ、何をされたんだろうとヴォルフガングは思ったが、シュワルツはその表情のまま何も言わなかった。
 

 練兵場の雪をざくざくと踏んで、チュミリエンヌは門に向かって歩いていた。胸の中が妙にざわめいていた。苛立ちではなく悲しみでもなく、怒りでも不安でも、かといって嬉しさでもない、つかみどころなくふわふわとした、えもいえぬざわめきだった。
 彼女は立ち止まり建物を見やった。幾つも並んだ四角い窓。さっきの部屋はどこだろう。あの男はまだそこに立って、私を見ているのだろうか…。シュワルツの顔を思い出そうとしている自分の心に、チュミリエンヌはなぜか驚いた。

「ほんと、ヤな男。サイテーのでくのぼうの唐変木だわ。」
 ふん!と鼻息を吹きかけて彼女は歩きだした。長靴にはべったりと雪が付いていたが、不思議と爪先は冷たくなかった。チュミリエンヌは両手でスカートを掴んで、ざく、ざくと歩き続けた。

 

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