★ クインテット番外編 『ねぇ、ヒナツェリア』 ★

 
 先々代のジュペール伯爵、つまりロゼの祖父ギルティには、正室の他に4人の側室があった。正室は遠く王家の血を引く名門貴族の娘であったが、彼女は子供には恵まれず、されど側室たちは皆、1人以上の庶子をもうけた。ロゼの父シュテファンはその中の長子であった。

 ギルティは爵位をシュテファンに譲ろうとしたが、それはたやすいことではなかった。シュテファンの母は貴族ではあったけれども、彼女の父親はとうに病死しており、下級貴族にすぎない実家には取り立てて何の財産もなかった。格式高きジュペール伯爵家からすればシュテファンは“卑母の出”に他ならず、そんな息子に爵位を譲ることを、ギルティの弟たちは大反対したのであった。

 3人の弟たちはそれぞれ独自の意見を主張して憚らなかった。次弟は自分の長男を養子にすべきと兄ギルティに進言し、三弟は別の側室が産んだ息子を後押しした。その側室は裕福な貴族議員の娘で、庶子たちの母の中では最も身分が高いというのが理由であった。さらに末弟は別の側室の子の後見を申し出た。この側室は平民であり、その息子を爵位につければ伯爵家は自分の意のままになるというのが末弟の真の狙いであった。

 血族間の権力争いほど醜いものはない。お家騒動にまで発展しそうな混乱の中、心労の余りシュテファンの母は病床についた。政略結婚で迎えた正室よりはるかに彼女を愛していたギルティは心を痛め、万難を排してシュテファンを爵位につけた。弟たちはこの甥に今後一切の助力を断つと宣言し、叙爵の儀にすら立ち会わなかった。

 そんな叔父たちの仕打ちを決して忘れなかったシュテファンは、自身が成人したのちは側室を1人も持たなかった。若い頃は若いなりに浮名を流した彼であったが、正室を迎えると同時に、周囲が驚くほどぴたりと身を慎んだ。やがて正室は長女マリア・メリーベルを産み、3年後に長男リヒャルト・ルイーズを産んだ。次期ジュペール伯爵となるロゼと、それに彼の姉である。

 晩秋の落ち葉のあずまやで、ロゼは年老いた音楽教師からチェロのレッスンを受けていた。左ききの彼にとって弦楽器は苦手であるはずのところ、王立劇場に招かれた外国人名手の演奏を聴いてすっかりこの楽器に魅せられてしまったロゼは、真剣な目で教師の教えを聞き、熱心にボウイングを繰り返していた。

 カサ、と落葉を踏む足音がしたので教師は楽譜から顔を上げた。2人の侍女を連れて中庭にやってきたのは、ロゼの母、イザベル伯爵夫人であった。
「おお、これは奥方様。」
 白髭の教師は慌てて礼をとり、ロゼも弓の手を止めた。が夫人は、白く細い指をそっと唇にあて、お続けなさいと無言で告げた。ロゼはすぐに続きを弾き始めた。侍女が静かに引いた椅子に、伯爵夫人は腰を下ろした。

 曲を終えるとロゼは立ち上がり、母に向かって礼をした。夫人と侍女たちは拍手した。
「上手になりましたねルイーズ。素晴らしいコンチェルトでしたよ。」
 褒められてロゼは嬉しそうに笑った。教師は惚れ惚れとした顔で言った。
「まことにルイーズ様はご聡明でいらっしゃり、また非常に豊かな感性をお持ちでいらっしゃいます。ハープシコードにしてもバイオリンにしても、12歳とは思えぬ音色をお出しになる。まぶしいばかりの才能に溢れていらっしゃいます。」
「そんな、褒めすぎですよ先生。母上の前だからって。」
 大人びた口調でロゼは言い、母の方を見て言った。
「でも母上がこんなところにおいでになるなんて珍しいですね。どうかなされたのですか?」
 ほほ、と笑って夫人はうなずいた。ロゼと同じブルネットの髪が揺れた。
「ついさっきメリーベルから、手紙とプレゼントが届いたのですよ。すぐにあなたに知らせたくて、それに久しぶりにあなたのレッスンも覗いてみたくて参りました。」
「姉上から?」
 ロゼは目を輝かせた。マリア・メリーベルは今年の春に、遠い南の王国の第2王子に嫁いでいた。仲のよい姉弟であったから、ロゼは姉との別離をひどく悲しんだ。メリーベルは事あるごとに彼に手紙を書きよこし、異国のさまざまな品物を必ずそれに付けてくれた。

「今日は何が届いたと思いますか? それはそれはたくさんの、美しい真珠の粒ですよ。あなたのお披露目のお衣装に使えるようにと心を配ってくれたのですね。」
「それはどこにあるのですか。見せて下さい母上。」
 ロゼは言ったが母は、
「お部屋に置いてあります。今日のレッスンをきちんと終えて、ご覧に入れるのはそれからに致しましょうね。」
 表情は優しく、けれど言葉は厳しく言った。ロゼは老教師をふりむいた。いくら大人びていても彼はまだ12歳、瞳には子供らしい甘えがあった。教師はうなずき、許可してくれた。
「よろしい、では今日の授業はこれまでにいたしましょう。その代わり来週は第1楽章のおさらいからとします。間違わずに弾けるよう、練習なさっておいて下さい。」
「判りました。ありがとうございました。」
 思わず笑みを漏らして、ロゼは深く礼をした。教師は彼の手から楽器を受け取り、手入れと片づけを始めた。

「さぁ、では早く参りましょう母上。」
 ロゼは母のもとへ行った。母は彼の衿元の天鵞絨(びろうど)のリボンを整えてやりながら、
「まぁまぁ、しょうのない我儘さんだこと。でも先生がいいとおっしゃって下さいましたから、ご一緒にお部屋に戻りましょうか。そうね、少し早いけれど、午後のお茶に致しましょう。」
「はい。」
 ロゼは母の椅子を引いてやった。ありがとう、と夫人は立ち上がった。
 

『愛するルイーズ、元気にしていますか? 我儘を言って父上母上を困らせてはいませんか?
私は元気です。先日来、私の殿下にお願いしておいた真珠が、やっと届きましたのでお送りします。クリーム色にピンクにブルー、上品でとても綺麗でしょう? あなたにはきっと似合うと思います。お披露目式のお衣装に使って下さい。
列席できなくて残念ですが、お式がどんな様子だったか、お手紙で詳しく教えて下さいね。お客様には失礼のないよう、しっかりご挨拶するのですよ。
それからあなたの素敵なお友達、ルージュ様、ジョーヌ様、ヴェエル様にどうかよろしく。

次期ジュペール伯爵へ

あなたの姉 マリア・メリーベル』

 読み終えた手紙を、ロゼは丁寧に巻き直して再びリボンを結んだ。母は彼の前に、紅茶の入ったティーカップと天使の飾りの付いた白い小皿を置いた。
「はい、どうぞ召し上がれ。あなたのお好きなプラムの砂糖漬けですよ。」
「ありがとうございます。何だか今日は、嬉しいことばかりです。」
「そうですね。メリーベルにはきちんとお礼のお手紙を書くのですよ。」
「はい。夕方までには、すぐに。」

 母と過ごすこの午後の時間は、ロゼにとって至福のひとときであった。少女時代から本が好きだったという母は、異国の面白い物語や不思議な言い伝え、わくわくする冒険譚をたくさん知っており、小鳥のように綺麗な声で、それらを語り聞かせてくれた。聡明なロゼは母に教わった物語を全て覚えてしまい、そのことがやがて彼を、王妃のサロンの人気者にする要因の1つとなるのである。

「失礼致します。」
 そこへ1人の侍女が、花瓶にどっさりと花をいけて持ってきた。夫人は目を見張った。
「まぁ見事なお花だこと。何ていい香りなんでしょう。あなたがいけてくれたの?」
「は、はい。お目汚しかとは存じましたが、伯母が是非、奥方様とルイーズ様にと…」
 侍女は慌てて礼をしたが、その拍子に手をすべらせ、花瓶を床に落としかけた。きゃっ!と声を上げそれを抱えこんだ彼女を見、夫人は品よく笑った。
「どうしたの。何も緊張することなどありませんよ。ええと…あなたのお名前は、確かヒナツェリアでしたね。女官長の姪御さんの。」
「は、はい。ヒナツェリア・リリアーナ・バレットでございます。」

 震える声で彼女は答えた。伯爵家の女官長を務める伯母に連れられ、ヒナツェリアがこの城に上がったのは先月の終わりのことで、慣れるにはまだまだ日が浅かった。行儀作法の一通りは伯母によって教えられていたけれど、国王の側近く仕えるジュペール伯爵家となればこれまた別格で、彼女にとっては毎日が緊張の連続であった。

 ヒナツェリアの緊張の理由は、実はもう1つあった。現伯爵のシュテファン、伯爵夫人イザベル、それに嫡男のリヒャルト・ルイーズに目通りした時、彼女は9歳年下のルイーズすなわちロゼに、すっかり心を奪われてしまったのだ。彼の身に備わっている優雅な気品と凛々しさは、幼い頃から彼女が夢みていた理想の王子様そのものだったのである。

 けれども美しい母と姉を見慣れて育ったロゼは、ヒナツェリアなど―――彼女は視力が弱いために眼鏡をかけていて、侍女らしく髪は引っ詰めに結い上げ、地味な紺色の制服には何の飾りも付けていない―――まるで女とは思っていないかのようであった。そのせいかヒナツェリアはロゼに、必要最低限の命令の言葉しか、まだかけて貰っていなかった。この時もロゼはヒナツェリアの抱えている花をちらりと見ただけで、彼女自身には一かけらの微笑みすら、よこそうとはしなかった。

「そうだわ、仕立屋のミカエルをお呼びなさい。」
 ティーカップの手を止めて伯爵夫人は言った。
「今日はお時間もあるし、メリーベルからの真珠も届いたし、今からルイーズのお衣装の仮縫いをしてしまいましょう。どうですかルイーズ。お嫌ですか?」
「いいえ。嬉しいです。姉上の下さったこの真珠をつけるとどんな風になるのか、早く見てみたいと思います。」
「そうですね。ではヒナツェリア、すぐに使いを。」
「はい、かしこまりました奥方様。」
 もう一度腰を屈め、彼女は部屋を出た。晴れの衣装に身を包んだロゼはどんなに美しいだろうかと空想するだけで、ヒナツェリアは天の花園をそぞろ歩いている気分になった。
 

 その晩伯爵一家は、ロゼのチェロの復習もかねて小さな演奏会を開いた。父シュテファンがハープシコードを、母イザベルはバイオリンを受け持ってくれた。幸運にも列席を許されたのはお側付きの侍従たちで、ヒナツェリアもその光栄に浴することができた。

 惜しくも数回音を外したが、ロゼは曲を弾き終えた。侍従たちは拍手し、父は言った。
「努力は認めるが、まだまだだなルイーズ。音程も不安定だし、何より自信が感じられない。しっかり練習しないと、満足のいくものにはならないぞ。」
 父に褒めてもらえなかったので、ロゼは残念そうな顔をした。それを見た母は言った。
「チェロはまだ始めたばかりですものね。これから徐々に上手になりますよ。誰だって、最初から上手くは弾けないものです。そうでございましょう?あなた。」
「まぁ、それはそうだがな。とにかく先生のおっしゃる通りに、よく練習することだ。」

 父は侍従長が銀盆に乗せて差し出したワイングラスを手に取って言った。まばゆい灯影にローマングラスが光った。背筋を伸ばし、ロゼは言った。
「はい。この次父上に合わせて頂く時までには、弾けるようになっていたいと思います。」
「そうだな。お披露目式の支度などもあるとは思うが、毎日の勉強を決しておろそかにしてはいけないぞ。私とイザベルは来週から6日間ほど領地の視察で留守にするが、その間もしっかりとな。」
「はい、判っています。」
 ロゼはうなずいた。父は、最も信頼する部下の1人である侍従長に尋ねた。

「来月の式の準備は、もう全て整っているのだな。間際になって予想外の不備があったりしては困るぞ。」
「はい、ご安心下さいませ伯爵。料理にワインに楽団に、それからお客様がたへの招待状の発送と、皆様をお迎えするための馬車やお部屋のご用意まで、全て遺漏なく整っております。あとは当日を待つばかりと申しても決して過言ではございません。」
「そうか。いつもながらの完璧な仕事ぶり、褒めてとらす。」
「は、ありがたき幸せにございます。」
「だが準備というものは、決してしすぎることはない。細部までくれぐれも手落ちのないよう、よろしく頼む。」
「かしこまってございます。」

 侍従長は深々と頭を下げた。ロゼは、女官長からヴァン・キュイ(ホットワイン)のグラスを受け取りながら父に聞いた。
「今回のご視察では父上は、いつか僕もご一緒させて頂いた、あの広いぶどう園にも行かれるのですか?」
「そうだな、あそこも見てこなくてはな。もう摘み取りも終わってひっそりしているだろうが、来年の収穫のことを考えて、少し苗も増やそうと思っている。あとは…学校、慈善施療院、それに教会もいくつか回らねばならん。やれやれ、休暇を兼ねているどころではなさそうだなイザベル。」
 父は母に言った。母はロゼに微笑みかけた。
「本当ならあなたも連れていってさしあげたいけれど、今年のあなたは、大事な大事なお披露目を控えていますからね。残念ですがお留守番ですよ。また来年の秋にご一緒しましょうね。」

「はい。」
 並みならぬ知能の証拠である澄んだ眼差しで、ロゼは短く応えたが、
「でも聞いた話では、今年は雪が早いそうですよ。北の地方ではもう根雪になっているとか。父上も母上も、ご旅行中お体にはご注意下さい。暖かい外套をお持ちになった方がよろしいと思います。」
「ああそうだな。判った、そうしよう。…これ、女官長。私たちの荷物に、厚い冬物の外套を加えるように。ルイーズのいいつけだ。謹んで守らねばな。」
 女官長…ヒナツェリアの伯母は、伯爵とロゼに腰を屈めて言った。
「はい、かしこまってございます。」
「うん。よろしく頼む。」
 そう応えたのはロゼだった。部屋は暖かな笑い声に包まれた。ヒナツェリアは溜息の出る思いでその光景を見つめていた。大聖堂の宗教画もかくやという、幸せな家族の団欒であった。

 

 週は変わり、伯爵夫妻が領地視察の旅に赴く日がやってきた。ロゼは城の玄関で、侍従長や女官長たちとともに両親を見送った。細身の長身に紺色のマントをつけた父は、馬車に乗り込みながら言った。
「では行ってくるぞルイーズ。私たちの留守中、この城の最高責任者はお前だ。もしも何かあった場合は侍従長とよく相談して、お前が最もよいと思う方法を、迷わずに選びとれ。いいな。」
「判りました。」
 表情をひきしめ、ロゼは応えた。馬車の中から母も、
「留守の間、気をつけるのですよ。お寒いですからお風邪など召さないように。女官長。ルイーズを頼みまし
よ。」
 心配そうなまなざしに女官長は感じ入り、床に頭がつきそうなほどお辞儀をした。
「かしこまりました奥方様。ルイーズ様はわたくしが、命に代えましてもお守り申し上げます。」

 そんな彼女をロゼは笑った。
「大袈裟だよ、たったの6日間なのに。…ご安心下さい父上母上。お言いつけを決して忘れず、しっかりお留守を守ります。どうか、お気をつけて行っていらっしゃいませ。」
 ロゼが礼をすると、侍従たちもそれに倣った。最後に伯爵は、
「皆に申しおく。私が留守の間はここにいるルイーズの命令を我がものと心得、全てそれに従うように。よいな。」
「心してございます、伯爵。」

 代表して侍従長は応えた。馬車は扉を閉じ、走り始めた。見送るロゼの胸には、わずかな寂しさを打ち消して余りある、誇らしき緊張感が漲(みなぎ)っていた。父と母が留守の間、この城の主(あるじ)は自分なのだ。誰も自分に逆らうことはできない、がそれは同時に全ての責任が自分の上にあることを意味する。栄誉は束縛を、権力は重責を伴うのだ。そしてこの意識こそ、お披露目に先立って父伯爵が、息子に与えたかった最後の教えであったのかも知れない。

 最後の―――そう、ロゼと両親がともに過ごす幸福な時間は、この朝を最後に永久に断ち切られることになる。ジュペール伯爵家当主という巨大な重圧が、わずか12歳の少年の細い肩に悪魔のようにのしかかってくるのは、あとほんの1週間後のことだとは、まだ誰も気づいていなかった。

 

 両親の留守中、ロゼはいつにも増して規則正しい毎日を送った。幼なじみの親友であるルージュ・ジョーヌ・ヴェエルたちとの遠乗りにも、行かなかったほどである。城が心配だからというその理由を、お前らしいなと言ってルージュは笑った。侍従たちもきびきびと働き、伯爵家の日常には何の乱れもなかった。ただ、いつもは両親と一緒に採る夕食の時だけ、ロゼは慣れ親しんだ自分の城を、こんなにも広かったのかと感じた。

 5日間がゆっくりと過ぎた。翌6日めの夕刻、伯爵夫妻は全ての旅程を終え帰城する予定であった。ロゼは侍従長に、城をいつもより念入りに磨き清めろと命じた。居間には花を飾り、寝室は暖めておくよう、さらに夕食のメニューについても、彼は滅多に行かない厨房にまで顔を出して、料理長に細かな指示を与えた。

「鴨のローストはハーブを使って柔らかく仕上げて。父上も母上もそれが大好きなんだ。デザートには柘榴のアイスクリームと、あとは林檎をたっぷりのリキュウルで煮つめたものがいいな。それから僕にはプラムの砂糖漬け…いや、何でもない。」

 そんな彼の様子を目にするたび、無礼と知りつつヒナツェリアはつい微笑んでしまうのだった。ロゼが感情をみだりに表に出さないのは、幼い頃から躾けられた大貴族の誇りゆえであろうが、その分彼が心の中でどんなに寂しがっていたか、ヒナツェリアにはよく判った。今夜はご両親の大きな翼と柔らかな羽根に、思いきりお甘えになるといい。ロゼの幸せを願う時は必ず、彼女の胸に天使が宿った。

 しかし、夜になっても夫妻の馬車は城に到着しなかった。
 帰りを待つと言い張るロゼを、侍従長と女官長は何とかなだめて食事させ、深夜になってもベッドに入らない彼を言葉を尽くして休ませようとした。
「何ぶんにも伯爵家のご領地は広く、また遠うございます。旅程によって半日や1日の狂いは、珍しいことではございません。」
「そうですともルイーズ様。いつぞやもほれ、アレスフォルボア侯爵殿とのご旅行の折は、父上様のお帰りは1日半も延びられたではありませんか。あの時の母上様は、全くお慌てになりませんでしたよ。お帰りを信じていらっしゃったからです。」
「おそらく父上様はあの時と同じように、ルイーズ様へのおみやげを、もうそれはそれはたくさん抱えられてお帰りになるに違いありません。さぁ、ですから今宵はお休み下さいませ。ルイーズ様の代わりに、私どもがお帰りをお待ちしておりますから。」
 2人がかりで説得されて、ロゼは不承不承にベッドに入った。このままでは眠れないだろうと気を利かせた女官長が、彼に1杯の葡萄酒を飲ませた。そのせいでロゼはほどなく眠った。侍従長たちは徹夜で夫妻を待つことにした。

 ロゼの眠りは深くはなかった。波打ち際を漂うに似た、不確かで気だるい眠りであった。その中で彼は夢を見た。枯葉の降りしくあずまやで、聖母のように微笑む母の夢だった。
『母上! ご無事でお帰りになられたのですね?』
 彼は駆け寄ろうとしたが、なぜか足が動かなかった。母は黙って微笑み続けていた。
『父上は? どちらにいらっしゃるのですか? 夕べはずっとお待ちしていたのに、鴨のローストも冷めてしまいましたよ。』
 言いながらロゼはふと、おかしいなと思った。見たことのあるこの光景は、父と母が出かけるよりずっと前のことではないか。どこかで時間の順序が変になっている。遠くに父の弾くハープシコードが聞こえた。父を捜して振り返ろうとしたロゼの視界を、たちまちに落葉が覆いつくした。

『ルイーズ。』
 母が自分を呼んだ。なのに降りかかる落葉が邪魔で姿が見えなかった。ロゼは必死で腕を動かした。
『母上。どちらにおいでなのですか、母上!』
『いい子でいるのですよルイーズ。愛する私の、ルイーズ…』
『お待ち下さい、母上、母上―――』
「ははうえ…」
 寝返りをうち、ロゼはつぶやいた。テーブルの花瓶の中で白百合が1輪、はらりと音もなく花びらを散らした。
 

 未明の空に白いものがちらつき始めるのを、侍従長は玄関に近い控の間の窓から見た。彼は掌に息を吹きかけごしごしとこすり合わせては、手ぬくめ用の小さなストーブにかざして暖をとった。
 蹄の音が聞こえてきた。早馬だ、と気づくと同時に彼は部屋を走り出た。隣のドアから女官長もまろび出てきた。2人は一瞬顔を見合わせ、先を争うように玄関の樫の大扉をあけた。
 街道警備の一兵士が、はぁはぁと息をきらして馬を下りたところだった。2人を見つけると兵士は、倒れこむが如く膝まづいて言った。

「伯爵領ドルティア村の村長により、伝令つかまつった者にございます。昨日夕刻、街道の峠道にて車輪を滑らせ、御伯爵家のお馬車が崖下へ転落なさいました。ただちに村人がかけつけご救助申し上げましたが、伯爵様は胸と背中の骨を折って即死、奥方様は…」
 兵士はそこで声を詰まらせ、言った。
「かろうじて息をしておられましたが、近くの教会へお運びする途中、うわごとのように『ルイーズ』のお名を繰り返され、そのまま―――」
 女官長の体から力が抜けた。床に崩れる寸前で彼女を抱きとめて、侍従長は兵士に聞いた。
「それは確かなことなのか。何かの間違いではないのか!」

 伝令兵は首を振った。侍従長は虚空を仰いだ。
「伯爵様…。奥方様…!」
 あまりにも突然の不幸に視界がくらみかけたが、彼には倒れている余裕はなかった。もう1つの地獄を見なければならない。侍従長は奥歯を噛みしめた。
「ルイーズ様に、何と申し上げればいいのだ…!」
 

 ロゼの居間の暖炉に、ヒナツェリアは火を入れていた。もうそろそろ伯母が彼を起こしにくる時刻、朝食までに部屋を暖めておかなければならなかった。うまく空気が入るよう工夫して焚きつけを置いてやると、薪はぱちぱちと勢いよくはぜ、炎が勢いを増し始めた。これでよしと立ち上がった時、ヒナツェリアはロゼの寝室に伯母と侍従長が入っていくのを見た。伯母の目は涙で晴れ上がっていて、侍従長は彼女を小声で叱っていた。いったい何事だろうかと、ヒナツェリアはドアに近づいた。

「ルイーズ様。ルイーズ様。」
 侍従長の声が聞こえた。
「お目覚めのお時間でございます、ルイーズ様。」
 やがて少しの間があって、低くくぐもったロゼの声がした。
「朝…?」
「はい。もう、夜は明けておりますよ。」
 ベッドに起き上がる気配があり、
「父上たちは? お戻りになっているんでしょう?」

 眠そうに目をこすりながら言ったロゼの言葉に、侍従長は背後で嗚咽を殺す女官長の呻きを聞いた。
「…なぜ、そうお思いに?」
 彼が問うとロゼは、
「夢を見たんだ。お帰りになった夢。母上がしきりに僕をお呼びになった。だから判ったんだよ。お帰りは遅かったんだね。まだお休みになってらっしゃるのかな。」
 ついに女官長は声を上げてしまった。ロゼは気づき、彼女を見た。
「どうしたの。何か…」
 はっとした顔をロゼはした。聡明すぎる少年であった。
「まさか、お2人に何か…」
 ロゼは交互に侍従たちを見た。女官長はもう耐えられなかった。
「お許し下さいまし…! 私が、私などが先に涙を…!」
「女官長!」
 大声で、侍従長は叱った。ロゼは身を乗り出した。
「どうした。何があったんだ。答えろ。お2人に何があったんだ!」
 窓の外で風が鳴った。

 

 嫡男ルイーズのお披露目という晴れやかな日を待つばかりであった伯爵家の城は、一転、陰鬱な黒一色に閉ざされた。

 村人たちによって浄められた夫妻の遺体は、棺に収められ馬車に乗せられ、悲しい無言の帰還をした。あまりにも痛ましい亡骸を、侍従長はロゼの目には触れさせなかった。もとよりロゼはあの朝以来誰とも口をきかず、ベッドに伏せたままであった。魂の抜け殻になってしまったのは女官長も同じで、葬儀の準備のほとんどは、侍従長が一人で仕切らなければならなかった。

 雪もよいの午後、半旗の翻る石造りの門を、ガラガラと1台の大型馬車がくぐった。馬には伯爵家の裏紋である、淡いピンク地に蔦葉紋様(つたのはもんよう)の腹当てがついていた。玄関の真正面で馬車は停まり、降り立ったのは3人の矍鑠(かくしゃく)たる老人たちであった。前ジュペール伯爵ギルティの弟で亡きシュテファンの叔父、すなわちロゼにとっては大叔父に当たる男たちだった。

「こ、これは皆様、突然のお越しで…。」
 困惑しつつ侍従長は出迎えたが、老人たちは彼を押しのけんばかりに城の中へ歩み入った。隠居所であるサルーンの村から、甥夫婦の死を知ってはるばるやってきたものらしい。ただいまお部屋のお支度を、と追いすがる侍従長を振り向きもせず、先頭の老人…ギルティのすぐ下の弟であるグスタフは横柄に言った。
「庶子の息子はどこにいる。居間か。それとも食堂か?」
「は? 庶子、とは…」
 侍従長は問い返したが、
「庶子の息子だ。じき12歳になる…。確かルイーズとか申したな。」
「いや、ルイーズ様はただいま、ご両親を亡くされた痛みでお伏せりになっておられまして…」

 慌てて止めようとした彼の言葉になど耳を貸さず、老人たちは歩き続けた。今は田舎の隠居所に籠っていようとも、ここはかつて自分たちの住んでいた城。迷いもせずグスタフはロゼの寝室に辿り着き、ドンドンとドアをノックした。

「入るぞ、ルイーズ。」
 返事を待たず、老人たちはずかずかと部屋に入った。驚いた表情でロゼがベッドに起き上がるのを侍従長は見た。青ざめてやつれた顔だった。
「おおおお、可哀相にのぅルイーズや。まだ幼いそなたの身に、何と大変なことが起きたものか。」
 グスタフはいきなり猫撫で声になって、両腕を広げベッドに近寄った。あまりの変わりように侍従長の方が驚いたほどだった。無遠慮にロゼを抱擁し、グスタフは彼の頭を撫でた。
「だがこうして儂らがやって来たからには、もう何の心配もいらんぞ。そなたの父上はなぜか儂らを嫌って、ご本家というのに何の催しにもお招き下さらなんだが、儂らも正当なるジュペール伯爵家の一族。幼いそなたを十分に庇護して、この伯爵家を守っていく所存だ。」

 ポンポンと背中を叩く老人の腕を、しかしロゼは静かに払いのけた。
「遠くからわざわざのお見舞い、心より感謝いたします大叔父上。」
 丁寧すぎる言葉の中に、ちくりと鋭い牽制があった。グスタフは笑いを消した。ロゼは侍従長が羽織らせたガウンの衿先を整えつつ、言った。
「あまりに急なおいででしたので、このように見苦しい姿でのご挨拶をどうかお許し下さい。ご心配はありがたく思いますが、亡き父上のお教えが、僕の胸を去ることはありません。大叔父上たちのお手を煩わすようなことは、なくて済むと思っています。」

 父の教え、と言った時だけロゼは老人の顔を見た。その視線の冷たさに、グスタフは彼の真意を知った。ロゼは続いて侍従長に言った。
「大叔父上たちは長旅でお疲れでしょう。できる限りのおもてなしをして差し上げて、丁重にお送り申し上げて下さい。僕はまだ体が十分ではないので、ここで失礼致します。」
「は。かしこまりましたルイーズ様。」
 侍従長は慇懃に礼をした。グスタフは数回咳払いして、
「いやいやこれは頼もしい、一人前の口をききよるわ。はて父の教えとやらがどのようなものなのかは知らんが、その歳で爵位を嗣ぐことなど出来ないそなたに、この由緒ある伯爵家を委ねて隠居する訳にもいくまいて。しばらくは懐かしいこの城に滞在させて貰うとしよう。ああ、特別な気づかいはいらぬぞ。何せそなたの父上が生まれるよりもっと前から、儂らはこの城内に寝起きしていたのだからな。いかに聡明をもって聞こえようとも、そなたはまだ幼い。そう、思えば嫡子としての正式なお披露目式すら、まだ行っていないではないか。」

 喉の奥で老人は笑った。目を伏せて黙っているロゼに了解のしるしを見たのだろう、
「まぁ、これからのことはゆるりと話し合うとしてだな。そなたはゆっくり養生するがいい。決着を急ぐことはない。儂らには幸い、時間はたっぷりあるからな。―――これ! たれかあるか!」
 主人顔でグスタフは手を打ち鳴らした。やって来た女官たちに彼は言った。
「この城の南の棟は空部屋になっておろう。中庭に面した賓客用の部屋を、続き間で3部屋あけよ。そこを儂らの居室とする。側付きはそうだな、まぁとりあえずは4〜5人ずつ…」
 だがロゼは女官たちに命じた。
「そんな必要はない。下がっていい。」
「―――ルイーズ様!」
 小声で侍従長は彼を止めた。伯爵夫妻亡き今、悔しいが親族の意向を無視することはできない。ここでこの老人たちを怒らせては、さきざき面倒なことになるだろう。しかしロゼは容赦ない口調で続けた。

「父上母上のご葬儀にあたって、この城は今、ご滞在なさるにしては落ち着きませんでしょう。どうしてもとおっしゃるのなら、大叔父上たちにはもっと静かな場所がお似合いです。ノイエ・ブランの森に父上がお建てになった別荘がある。小さいながら贅を尽くした趣味のいい館です。どうぞそちらで、心ゆくまでお過ごし下さい。」
 グスタフの頬は怒りで朱に染まったが、ロゼはそれだけ言ってしまうと、
「申し訳ございません、大儀ですので、これで休ませて頂きます。失礼。」
 ぺこりと頭を下げ、ガウンを脱いでベッドにもぐりこんでしまった。間をおかずに侍従長は言った。
「さ、それでは客間へどうぞ。お茶のご用意をいたします。どうかこちらへおいでください。…さぁ、どうぞこちらへ。」
 片手をドアに差し伸べて、侍従長は3人を促した。グスタフはロゼの背中を睨みつけていたが、
「全く、親子とはいえよく似ておるのぅ…。まあよい、子供の病人の無知な無礼を、咎めだてするのも大人げあるまい。」
 そう言い捨てて、弟たちを連れ部屋を出ていった。

 バタンとドアが閉まる音を確かめ、ロゼは枕に頭をもたげた。侍従長はすぐに戻ってきた。再びガウンを羽織っているロゼに、彼は溜息混じりに言った。
「ルイーズ様、お心の内は十分にお察し申し上げますが、しかしながらあのように反抗的なことを申されては、かえって逆効果かと存じますぞ。」
「…判ってる。」
 ロゼも浅い溜息をついた。

「でも、さっき言ったのが僕の本心なんだ。あの方々が昔、父上にどんな非道(ひど)い仕打ちをしたか、僕は父上から直接聞いて知っている。だから今後もおつきあいはしないし、僕のお披露目式にもお呼びしないのだと父上はおっしゃった。でも、その時の父上はお怒りというより、どこか寂しそうでらっしゃった。あの優しい父上をそんな風に悲しませた方々と、僕は仲良くなんかできないよ。今だって本当は、顔も見たくなかった。出ていけと言ってやりたかったけど、目上の方にその言葉は余りにも失礼だと思ってね。」

「それはおっしゃる通りでございますが…。」
 侍従長の長息を、引き取ってロゼは続けた。
「心配させて済まなかった。大丈夫だよ。意味もなくこれ以上反発はしない。少なくとも身内には違いないんだからね。父上も母上もいらっしゃらない今、僕には…」
 ロゼはそこで言葉を切った。侍従長はドキリとして彼を見た。が、亡き伯爵に生き写しの頬に、涙は光っていなかった。
「…僕には、あの方々しか頼る人はいないんだ。判ってるよ。そんなことはよく判ってる。僕が譲れないものはたった1つ、父上のご遺志だけだ。それさえ認めて下さるのなら、可愛い孫のように大叔父上たちをお慕いするふりくらい、僕は平然とやって見せるよ。」
「御意。…我が君、ジュペール伯爵。」
 侍従長は言い、ロゼに礼をとった。この若き主人をお守りすることが、これからの自分の使命である。命に代えてこの方を、正式な爵位にお就けするのだ。侍従長は固く心に誓った。
 

 ノイエ・ブランの別荘に向かう馬車の中、3人の老人はロゼに対する憤りを思うままぶつけあって時を過ごした。
「全く、なぜあそこで引き下がったりしたのだ兄上。相手は子供とただの侍従、言いなりになることなどなかったのに。」
 末の弟リヒテルが言うと、彼の兄でグスタフの弟であるブレヒトは笑った。
「それは逆だろう。子供だからこそ始末が悪いのではないか。なぁに、口は達者だがルイーズはまだ12歳。本気で相手にしたらこちらが愚かだ。何を言おうと子供のたわごと、笑って受け流しておればよいのだ。」
「それはそうだが、しかし気に食わん子だな。姿かたちばかりかあの小生意気な口のきき方まで、よくもまぁ父親に似たものだ。ツンとしたあの唇は一族にはない。あれはギルティ兄上の側室譲りだろう。」
「まぁ、卑しい血ほど濃いというからな。」
 ブレヒトとリヒテルは笑い合ったが、グスタフはじろりと弟たちを見ると、改めて言い聞かすように2人に語った。

「よいか。そなたたちも知っている通り、爵位を嗣ぐためには2つの条件がある。まずは15歳の誕生日を過ぎていること。もう1つは、正室ないし正室たりえる婚約者がいることだ。これらを満たしていない場合は、親族の中からしかるべき後見人を立て、それを勅命によってお許し頂かねばならん。爵位の空白が認められるのは喪中のみゆえ、喪が明け次第儂らはルイーズの後見人となって、今後の伯爵家本宗家(ほんそうけ)を取り仕切っていくことになろう。」
「まぁ、それは間違いないですな。」

 ニヤリとブレヒトは笑った。長男でなかったがために爵位を望めず、シュテファンとの不仲により本宗家からも遠い位置に追われていたこの老人たちにとって、両親という庇護者を失い独りになったロゼは、いわば人間の姿をした権利証であった。後見人の権力は当主本人と同等ゆえ、ロゼが成人するまでに伯爵家の実権を手にしてしまえば、その後の美酒は尽きることなく彼らのグラスに流れ込むだろう。グスタフはゆったりとうなずき、言った。

「あのルイーズの父親は、亡きギルティ兄上が情にかられて爵位をお許しになった卑母の出の庶子なのだ。ジュペール伯爵家代々の系図からすれば、ルイーズは決して、完全無欠な後継者とは言い難い。是非ともここで儂の孫娘アンリエッタを伯爵夫人として迎えさせ、我が国随一の権威を誇るジュペール伯爵家の血統を正さねばならん。さもなくば、ギルティ兄上が残した過ちは当家末代までの恥となろう。」
「それについてはもちろん、我々の思いも同じです。」
 ブレヒトは即、同意した。

「武力一辺倒のアレスフォルボア侯爵家とは違い、当伯爵家は文化芸術ならびに学問を司る家。高貴さを失っては成り立ちません。卑しい父親に仕込まれた淫らな思想を、まずはあの哀れな子供から洗い落とす必要がありましょうな。」
「その通りその通り。爵位を嗣がせたらしばらくは、見聞をひろめるため外国などに遊学させるというのはどうだろう?」
「ほほぉ、いいことを言うのぅリヒテル。よしよし、いずれはその旨をルイーズに申し聞かすとしよう。異国の珍しい風物には、子供らしく案外興味を持つかも知れんて。」
「かほどに優しい後見人を得られるとは、ルイーズも幸せ者ですな。」
 魔物めいてしわがれた声で、3人は笑った。小雪の舞う大通りを、馬車はノイエ・ブランの森へと進んでいった。

 

 10日後、図らずもロゼの12歳の誕生日に、大聖堂にて伯爵夫妻の葬儀が行われた。国中の主だった貴族はもちろん、諸外国の大使や王族も参列する盛大な式典がかくも迅速に挙行できたのは、皮肉にもロゼのお披露目のために整えてあった準備万端が活きたのだった。

 喪主として最高位の席につくロゼの身支度を、ヒナツェリアは女官たちとともに手伝った。やつれた横顔のしめやかな美しさを闇色の絹は悲しいほどに引きたて、必死に涙をこらえていた女たちに、思わず嗚咽を漏らさせた。月の光をちりばめたが如き真珠の衣装を仮縫いしたのは、つい昨日のことのように思える。あの時のロゼの晴れがましい姿。見つめていた母君の慈愛に満ちた笑顔…。それらが瞼に甦ってきてヒナツェリアも涙をこぼしそうになったが、寸前で彼女は自分を叱り、奥歯をくいしばってこらえた。今一番つらいのはロゼである。それなのに彼は泣いていない。次期伯爵としての自分の役目を、真摯に果たそうとしているのだ。そんな時に私が泣いてどうする。彼を憂鬱にするばかり、不愉快にするばかりではないか。

 ロゼの背後にひざまづいて、ヒナツェリアは彼の上着の裾を整えた。姿見の前で彼は全身を確かめ、
「ありがとう。これでいい。行ってくる。」
 そう言い残して自室を出ていった。女官たちは腰を屈め、見送った。彫刻に飾られた長い廊下を歩いていくのは、あまりにも細い背中であった。
 

 伯爵夫妻の棺は大聖堂の壇上に、埋もれんばかりの白薔薇に包まれて並べ置かれた。神さびた声で大司教が誄(るい)を述べ始めると、そこここですすり泣きの声が上がった。

 王立大学学長という名誉ある職に就きながらも、シュテファンは権威に身をやつすことなく、慈善施療院や養護施設、刑期を終えた前科びとのための技能訓練校などを設立し、貧しい者のために私財を投じて奨学金制度を作った。これからの若者の教育がどうあるべきかを、彼は常に考えていた。優秀と思われる学生や卓越した視野を持つ学者たちを身分貧富の隔てなく身近に集め、月に1度のサロンでは彼らに自由に討論させた。

 妻イザベルは古今東西の芸術に造形が深く、若き芸術家たちを育てるためのコンクールや展覧会を数多く催した。また病気などで親を失った子供たちを手厚く保護し、神の愛が皆に平等であることを繰り返し説いて聞かせた。

 夫妻は皆に慕われていた。その死を人々は心から悼んだ。それゆえ参列者たちの献花には長い時間を要すことになり、ロゼは彼らの1人1人に丁寧に礼をし、時には短く言葉を返した。面ざしに幼さを残すわずか12歳の少年が、悲しみに耐えて喪主を務める姿は集まった人々を感動させ、さすがは伯爵家ご嫡男であるという称賛と、さらには深い尊敬の念をも生んだ。

 丸一日の式典を締めくくるのは『魔断の儀』―――現世(うつしよ)を離れ神の国へと旅立つ死者にいかなる禍(まがごと)も忍び寄らないよう、剣によって魔を断つ儀式であった。参列者の見守る中、壇上に登ったのは元帥アレスフォルボア侯爵だった。彼が自らこの役をかって出るのも実は珍しいことだったが、侯爵とシュテファンはちょうどルージュとロゼのように子供の頃からの親友であった。あまりにも早い友の死を、侯爵は悲しんだに違いなかった。
 儀礼用の長大な剣を侯爵は軽々と頭上に舞わせ、虚空を十字に切り裂いて、鞘に収めることなくシュテファンの棺に置いた。夫妻はこれによって何にも惑わされず、神のみもとへ還ることができよう。

「ありがとうございました、閣下。」
 ロゼは侯爵に深く頭を下げた。黒い喪服に身を包んだ侯爵は、ロゼの肩を静かに撫で、言った。
「あなたは私の親友の大切な忘れ形見。あなたを頼むというシュテファンの声を、私はこの聖堂の中で聞いたような気がします。私に出来ることならば、いかようにもお力添え申し上げましょう。いつでもどうか心おきなく、おっしゃって下さい新伯爵殿。」
「ありがとうございます。」
 再び礼をするロゼに、侯爵は大きくうなずいた。顔だちも体つきも、ロゼは不思議なくらい父親に似ていた。妻と子供たちが私の宝物だよと言っていた親友の面影が、侯爵の脳裏にゆらぎ昇った。
 

 葬儀を終えた棺は6頭立ての馬車に乗せられ、その夜のうちに領地内にある代々の墓地に埋葬された。
 式典のあとの饗応の場は、伯爵家の大広間に設けられた。参列者をもてなすためのテーブルが所狭しと並べられた部屋に、ロゼは疲れた足を引きずるように入っていったが、大叔父たちが主(あるじ)の座に堂々と着座しているのを見て思わず眉をひそめた。彼らもれっきとした親族ゆえ主催側として振る舞うなとは言えないが、その席に着けるのは喪主のリヒャルト・ルイーズと、彼の許しを得た者だけなのである。激しい怒りをロゼは感じたが、満座の客の前で自家内幕の恥を曝す訳にはいかない。かろうじて冷静を保ち喪主席に座った彼に、

「いやいやルイーズ、今日は大役をご苦労であったな。」
 聞こえよがしな大声を出してリヒテルは言った。ロゼは応えなかったが、
「どうした、疲れたのか? そういえば顔色も悪いではないか。遠慮はいらん、この場は我らに任せて、お前は休んだ方がいいかも知れんぞ。お披露目もしていないお前に、この席は荷が勝ち過ぎよう。ただ座っておればいい式典の場とは違ってな。」

 ロゼがテーブルの下で拳を握るのを侍従長は見た。すぐにも駆け寄りたかったが、彼の両手には隣国大使に命じられたワイン瓶とグラスがあった。賓客への給仕が彼の任で、疎漏は決して許されなかった。と、その時、
「よぉロゼ。お疲れ。いろいろ大変だったな。」
 大股に彼に歩み寄り、肩を叩いた少年がいた。つややかな亜麻色の髪を灯火に光らせた、侯爵家嫡男・レオンハルトであった。ロゼが立ち上がるより早く、
「こ、これは若君…。先程は父君元帥閣下に、格別のおはからいを賜りまして―――」
 リヒテルは直立して言った。権威を誇るジュペール伯爵家も、アレスフォルボア侯爵家の人間と同席した場合には無条件に1歩譲らなくてはならない。ルージュとロゼは1歳しか違わないのだが、ルージュの持つ身分と格式はリヒテルなどたやすく無視することができた。

「まぁた痩せたろお前。え?ロゼ。あーあー、ほっぺたコケてんじゃねぇかよ。ちゃんと朝昼晩食ってんのか? 体こわしたらおしまいだぞ。」
「判ってるよ。病人扱いするなよ。細いのは元からだって。」
「ンだよ心配してやってんだろ? まぁいいから、ほら飲め飲め。あんまり美味いワインでもねぇけど、1日中あんな寒いとこにいて体冷えちまったろ。」
「あんまり美味くないって…失敬だな、うちのワインじゃないそれ。しかも秘蔵品だよ?」
 ようやくにロゼは笑った。リヒテルは性懲りもなく口を挟んだ。

「いやいやご心配ありがとうございます。侯爵家若君にそのように懇意にして頂けるとは、このルイーズも実に果報者―――」
「…んぁ?」
 ルージュはじろりとリヒテルを睨みつけ、舌打ちで黙らせてからロゼに聞いた。
「な。誰。この棺桶に片足突っ込んだみたいなジジィ。さっきからぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、うっせんだよ。」
 彼の声は低いのだが、透明で張りがあり、よく通る。広間は一瞬静まり返った。
「ああごめん。遠い親戚なんだ。失礼があったみたいだね。僕からもお詫びするよ。」
 ルージュのパフォーマンスの意図を素早く読み取って、的確にロゼは応じた。立場を失いリヒテルは絶句した。軽蔑の目でルージュはリヒテルを見た。
「ふぅん。ッたくよ、喪主のお前に対する礼儀も何も全然判っちゃいねぇと思ったら、ま、しゃあねぇか。見るからに田舎モンだし、第一こんなに老いぼれてちゃな。ロゼに免じて無礼は許してやっから、これ以上俺を怒らせないうちにとっとと失せろ。」

 薄くなった髪に透けて見える頭頂の肌まで赤くして、リヒテルは広間を出ていった。グスタフとブレヒトは無言で顔をうつむけていた。ルージュはロゼの肩を右腕で抱き、広間を見渡してフンと鼻を鳴らした。苦笑してロゼは言った。
「変なとこ、見せちゃったね。ごめん。嫌だなカッコ悪くて。」
「何言ってんだよ。俺こそ、余計なお世話かと思ったけど。」
 ルージュはポンと彼の肩を叩いた。2人は主のテーブルを離れ、目立たない小テーブルに座を移した。ルージュはロゼのグラスにワインを注いでやりながら言った。
「腹ン中に毒持った身内は、下手すりゃ敵より怖ぇかんな。うちだって似たようなもん―――いや、お前んとこのがまだマシかも知んねぇな。」
「そんなことないよ。ルージュには、父上っていう絶対的な味方がいるじゃない。うるさい親戚がしゃしゃり出て来るのなんて、侯爵が絶対許さないんじゃないの。」
「ま、その点はな。」
 クイ、とルージュはワインを飲み干し、1つ息を吐いてから小声で言った。

「けどお前…実の兄貴に藁人形作られんのも勘弁だぜ。」
「藁人形って、まさか、呪いの?」
「ああ。親父には言ってねぇけどな。」
「それって、やっぱり…ルワーノっていう…?」
「そ。10歳上の腹違いの兄貴。俺がくたばりさえすりゃあ、後継ぎの座に戻れる奴。ま、呪いなんて俺は信じねぇけど? でもやられて気持ちのいいもんじゃねぇだろ。」
 ルージュはニヤッと誘い出し笑いをし、
「てゆーか可愛い子にだったらさ、何されてもいいけどな。『彼の心とカラダを、どうしても私だけのものにしたい』ってなモンならよ、いつだって呪われてやんだけど。ああっチキショー! やりてぇ〜!」
「…君、まだ13歳だよね。もうそれしか考えてないの?」
 呆れ顔で言ったロゼはその時ふと、広間の一隅でじっと自分を見つめている若い女の視線に気づいた。15〜6歳であろうか、シルバーに近いプラチナブロンドの髪を黒いベールで覆っている。

「どした?」
 ロゼの言葉が途切れたのを知ってルージュは聞いた。同時に彼は、ロゼの見ている相手にも目をやり、
「ンだよ今ごろ気づいたのか? あの女さっきからずっと、お前のことじーっと見てたぞ。」
「ずっと…?」
「ああ。あっちでお前がクソじじぃと話してた時からな。」
 ルージュは意味ありげに笑った。
「さしずめ一目惚れでもしたんじゃねぇの? 若くて聡明でお美しい、次期ジュペール伯爵によ。」
「まさか。そんなはずないよ。」
「何でそう言い切れんだよ。よく見りゃけっこう美人じゃん。お前が興味ねぇっつんなら、俺が頂いちゃうぜ?」
 ぺろりと舌なめずりしたルージュに、
「好きにしなよ。舞踏会じゃあるまいし、こういう席であんなにじろじろ、無遠慮に人を見るような子は僕は好きじゃない。容姿以前の問題だよ。」

「相変わらず手厳しいことで。」
 ルージュは肩をすくめ、そこで話題を笑い話に変えた。今日は列席していないジョーヌの話やヴェエルの話など、ロゼを最もくつろがせ楽しませてやれる軽い話だった。生来の華やかな美貌と大貴族の嫡子らしい放胆さに似合わず、ルージュには一点こういう細やかなところがあった。そんな彼の意外な本質をロゼは誰よりもよく知っていたし、また人間として愛してもいた。

「何かあったら言ってこいよ。」
 別れぎわ、玄関まで見送りに出たロゼの前で、愛馬にひらりと股がりながらルージュは言った。
「お前って何でも自分一人で抱え込もうとすっかんな。あんまりよくねぇぞそれ。話くらいいつだって聞いてやっから、ストレス溜めんなよ。いいなロゼ。」
「ああ。ありがとう、何だか少し楽になったよ。」
「そっか。それ聞いて安心した。…んじゃな。」
 鮮やかに手綱をさばき、ルージュは門を出ていった。いつか父に聞かされた言葉を、ロゼは思い出していた。

『人間にとっての財産は、地位でも身分でも城でも宝石でもない。そばにいてくれる人の魂だ。家族だったり恋人だったり、わけても素晴らしいのは友人という宝だ。何を捨てても手放してはいけない。そしてそういう魂には、常に感謝しなくてはいけないぞ。』
「―――ありがとう、ルージュ…。」
 遠ざかっていく彼の背中を見、ロゼは小さくつぶやいた。

 

 葬儀に関する諸事がすっかり片づいたのちも、グスタフたちはノイエ・ブランの館に居座って一向に引き上げる気配を見せなかった。それだけなら黙殺していれば済むことであったが、彼らはしきりにロゼに使いをよこし、伯爵家の今後について話があるから来いと告げてきた。これに憤慨したのは侍従長であった。本邸に住む嫡男を別荘に呼びつけるのは筋が違う。話があるなら自分たちが参上するべきで、いくら相手が老体とはいえ決して聞き入れてはならないことであった。

 すると彼らは別の手を打ってきた。ブレヒトが病気だというのである。重くはないが容態には慎重を期すという書状には、見舞いに来い、さもなくばこちらにも考えがあると、脅しにも似た意志がほのめかされていた。爵位云々をおけばブレヒトは間違いなくロゼの目上であり、いつまでも無視を続ければあの姑息な三老人は、次期伯爵は病気の大叔父の見舞いにも来なかった薄情者であると、悪意をこめた風評をばらまくつもりに違いなかった。

 それに―――。
 書斎奥にある亡き伯爵の執務室で、侍従長は太く長い溜息をついた。その部屋の壁にはぐるりと、代々の当主夫妻の肖像画が飾られていた。最も新しい1枚は、若き日のシュテファンとイザベル。その隣の空間にはロゼの―――第26代ジュペール伯爵、リヒャルト・ルイーズの肖像画が掛けられるはずなのだが。
(後見人か…。)
 解決すべき問題の大きさを思うと、侍従長の胸に苦い水が満ちた。ロゼはまだ12歳で、もちろん婚約者などいない。親族から確かな後見人を立てなければ、爵位を嗣ぐことは絶対に不可能であった。

 コトリ、と背後で音がした。驚いて侍従長は振り返った。やって来たのはロゼだった。喪中ゆえ黒一色の服を着て、彼は侍従長の隣に立ち、言った。
「明日、大叔父上のお見舞いに行こうと思う。だから女官長と一緒に、付いてきてくれるかな。」
 予想外の言葉に侍従長は驚いた。どうやってロゼを説得しようかと思っていた矢先であった。
「これ以上意地を張ったら、お互い、引くに引けない泥沼にはまるだろう。そうなる前にこちらから折れて出た方が得策だ。病気という名目があるなら、僕が尋ねていってもそんなに不自然じゃないし。珍しい果物と花束でも持って、ご機嫌伺いをして来るよ。」
「ルイーズ様…!」

 侍従長は頭を下げた。身分柄どうにもならないこととはいえ、我が身に宿らぬ力を恥じた。ロゼは両親の肖像画を見上げ、言った。
「ただし。大叔父上たちの言いなりにはならない。後見人はあくまでも後見人なんだ。父上のご遺志を軽んずるような真似だけは、僕は絶対に許さない。この家を嗣ぐのは僕だ。そうだろう侍従長。」
「御意。」
「でも僕にはまだ、1人で爵位に就く力はない。だから大叔父上たちのお力を借りざるを得ないんだ。そのためには悔しいけど、大叔父上たちの希望も聞かなきゃならない。それは仕方のないことだよね。領地内の城と荘園を幾つかお譲りするくらいの条件なら、了解しようと思ってる。」
「御意。」

「後見人の力が及ぶのは3年間だけだ。その間に僕は何とか、父上母上のなさってきたことを継げる人間になりたいと思う。父上は新しい学問の制度を作ろうとなすってた。でも、それをすぐに僕がやろうとしたって無理に決まっている。出来ないことを背伸びしてやったって、かえって皆に迷惑をかけるだろう。だから僕は勉強する。父上の書かれた本は全部理解できるようになって、未完成のものはいずれ僕が仕上げるよ。」
「ご立派でございますルイーズ様。そのお覚悟さえあれば、父上母上をお慕いしていた者の全てが、3年間じっとルイーズ様のご成長をお見守り申すことでございましょう。」
 感激しながら侍従長は言ったが、ロゼは一転して沈鬱な口調になった。

「…本当に、待っていてくれるかな。」
「はい。はい。心からお待ち申し上げますとも。」
「こんなに若い僕を? 経験もなければ知識すらおぼつかない、頼りない若僧だとは思わずに?」
「いいえ頼りないなどととんでもございません。お若いからこそ、出来ることがございます。ルイーズ様には、亡き父上様よりももっと長い、人生という時間が約束されております。若さには夢があります。力があります。何より未来がございます。」
「そうだね。父上母上は、僕に未来を残して下さった。」
「御意…!」

「負けないよ僕は。父上は最後の日に、この城を、この家を、守れと僕におっしゃった。お言いつけ通りにすると僕はお約束した。聞いていたろう、侍従長。」
「はい。私めのこの耳で、しかとお聞き致しました。」
「父上と母上は、天国からきっと僕を見ていて下さる。そのお2人のお心に恥じないように、僕は―――」
 ロゼは姿勢を正し、言った。
「生きていくよ。ジュペール伯爵として。父上のように。周囲の反対を押し切って父上に爵位をお譲りになった、優しいお爺様のように。」

 侍従長は無言で頭を下げた。ロゼは両親の肖像画を見つめ続けた。あの日、馬車に乗りこんだ時と同じ慈愛に満ちた笑顔で、2人もまたロゼを見下ろしていた。

 

その2に続く
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