★ クインテット番外編 『ジョーヌのラブレター』 ★


 その夜の母の笑顔が、ジョーヌにはどことなく寂しそうに見えた。

 元々体が丈夫ではなく、何かというと床(とこ)につくことの多かった母であったが、10日ほど前から離れに引きこもり、10歳になったばかりのジョーヌは会うことも許されずにいた。
 母が伏せっている間の屋敷はひどく慌ただしく、父子爵の伯父や伯母が訪れたり、王宮との秘密の使者が幾度も往き来したりした。落ち着かない気持ちでジョーヌは、書斎の窓から朝に夕に離れの方を窺い見た。

 そして10日後にようやく、ジョーヌは両親との夕食の席につくことができた。母は食欲がないらしく、スープを半分飲んだだけでシルバーを置いてしまった。食事が済んだあとジョーヌは、体調のよい時に母が必ずそうしてくれたように、今日は誰に会ってどんな話をしたか、どんな本を読んで何を覚えたかを聞いてもらおうと思ったが、母は早々に離れに引きとることになり、その際、
「ごめんなさいねヨーゼフ。そばにいてあげられなくて、ごめんなさい。」
 そう言って微笑みジョーヌを抱きよせ、柔らかく暖かくなつかしいキスを額と両頬に与えてくれた。

 翌日、母が遠い南の別荘に居を移したことを、ジョーヌは父に聞かされた。10日前に母は吐血していた。後世の医学をもってすれば、その病は不治に近くとも他者に伝染(うつ)ることはないと判ったはずなのだが、血を吐くという症状が最も忌み嫌われた時代、いかに大貴族の正室とはいえジョーヌの母は、本邸を遥か離れた地にひっそりと身を隠すしかなかった。
 さらにヘルムート子爵家は国家の食料庫として、全国民の命をつなぐ”食物”を管理する家であった。病を得た妻を子爵は、城に置いておく訳にはいかなかったのである。

 淡々と父に諭されたあと、ジョーヌはかつて母のいた部屋へ飛んでいった。家具にはすべて白い布がかけられ、いつも母が座っていた窓際の椅子もテーブルも、それに刺繍の台すらも彼の目には映らなかった。
 それからジョーヌは離れへ走った。つい昨夜まで母がいたはずのそこには、どこから差し向けられたのか警備兵が立っており、慇懃無礼な口調で彼に立入禁止を告げた。交差された盾と長槍の向こうではあろうことか悪魔払いの準備が進められていて、母の残していった身の回りの品々は、巫女装束の女たちによって運び出されていた。

「若様! ジョーヌ様っ!」
 立ち尽くす彼の背後に駆け寄り、抱きかかえたのは侍女のドーラであった。
「ご覧になってはなりません。さ、お部屋にお戻りあそばせ。」
 促されてもジョーヌは動こうとせず、その目には見る見る涙が盛り上がった。
「あれは母上のお衣装じゃないか…。どうするんだ。どこへ持っていくんだよ。」
「ドーラは存じません。さぁ早く。」
「ごまかすな。母上の大切にしていたお品を、勝手にどこへ持ってくんだ! 魔除けの札なんてどうして貼ってあるんだよぉ!」
「それが決まりなのでございます。母上様はお優しいかたでございました。追い払うのはにっくき疫神にて、決して母上様ではございません。みなが母上様を心からお慕い申し上げております。―――これ誰か! 若様をお部屋へお連れ申すのです。早くなさい、誰か!」

 上臈(じょうろう)の命令を聞きつけた傍らの兵士が、御免、と言ってジョーヌを抱え上げた。そのまま有無を言わさず連れ去られながら、ジョーヌは声はたてなかった。ただ大きく目を見開いて、ぽろぽろと涙を流した。

 半月後、ジョーヌに笑顔を取り戻させる出来事があった。それは母からの手紙だった。屋敷を出る時に母は、今後子爵家とは一切の関わりを絶つと誓わされていたが、一人息子を思う気持ちに耐えられず、最も近しい侍女の1人を密かに遣わせてきたのであった。
 門前で斬り殺されても仕方のない使者をドーラは自分の知人であることにして下屋敷にかくまい、彼女がコルセットに縫い付けて持ってきた手紙を、ジョーヌにこっそりと渡してやった。

「母上が僕にお手紙を!?」
 封を切る前からジョーヌは泣いていた。母の好きだった山百合の花が透かし模様で入った便箋には、見慣れた文字の文章がこのように記されていた。

私の天使へ
元気にしていますかヨーゼフ。決められたお勉強はちゃんとやっていますか?
心配しなくても私は大丈夫です。
こちらはとても過ごしやすい気候で、毎日、気持ちよく目覚めることができます。
あなたのお顔を見られないのは寂しいけれど、この病気は都にいては治らないのです。
いつかきっとあなたに会える日のために、私は寂しいのを我慢しています。
ですからあなたも泣いたりせずに、毎日を立派に過ごして下さい。
父上のお言いつけをよく守って、きちんと神様にお祈りして下さい。
私はいつも、どこにいても、愛するあなたのことだけを思い、あなたの幸せを祈っています。
母より

 ふぅ…と息を吐いた時、ジョーヌはもう泣いてはいなかった。彼は手紙を3度繰り返して読み、畳んで封をし胸に抱きしめた。
「母上は、ご病気を治すために努力していらっしゃるんだね。それなのに僕は泣いてばかりで、本もろくに読まなかった。恥ずかしいな。こんなことじゃだめだよね。また父上に叱られる。」
「さようでございますよ。」
 泣きたいのを必死にこらえ、ドーラは深くうなずいた。
「若様がしっかりなさらなければ、母上様もご安心できますまい? 今は何よりもお体の治療におつとめになることが、母上様にとっては大切なのでございますよ。」
「そうだね。ごめんねドーラ。お前にも心配かけたね。」
「いいえ、私めはそんな。それよりすぐにお返事をお書きなさいませ。使者は明日にもここを発ち、母上様のおん元に帰ると申しております。」

「ほんとに?」
 ジョーヌは表情を改めて、
「じゃあ急がなきゃ間に合わないじゃないか。僕は書くのが遅いんだから。ええとええと何を書こう。前略、母上お元気ですか…」
「お口でおっしゃっても駄目でございます若様。すぐに文箱をお持ちしますので、今夜じゅうにお書き下さいまし。」
「判った。早くね。」
 ジョーヌは自分の机に向かい、真剣な顔で腕組みした。

 母とジョーヌの間にはこうして、何通もの手紙がやりとりされた。もちろん父子爵はそのことにすぐ気づいたが、妻と息子の情愛を踏みにじるような愚かな男では断じてない彼は、見て見ぬふりをするどころか、腹心に命じて使者に心づけを渡してやった。
 ジョーヌの書く手紙の内容は他愛ない話ばかりだった。小麦の栽培所に紛れ込んだ子ネズミを退治できずに逃がしてやったこと、庭に来るリスに家族が増えたこと、昨日焼いたパンが美味しかったこと、課題を終えるのが早かったので家庭教師に褒められたこと等々。ジョーヌが2通出すうちに母からは必ず1通届き、その文面はいつも穏やかで、優しい思いやりに満ちていた。

 半年後、母の便りは途絶えた。その訳を頭では理解しながら、月日が経ったあともジョーヌは、誰かから手紙が届くたびにふと、それが母からのものであるような気がした。


 喪が明けてすぐ、子爵家には新たな正室が迎え入れられた。この国の法律において貴族は何人側室を持ってもよいとされていたが、ヘルムート子爵の側室はただ1人、カタリーナという名の女だった。彼女への愛情は嘘ではなくとも、遠い田舎町で寂しく死んでいった妻と、その母との別離を健気に耐えたジョーヌの気持ちを思う時、子爵はカタリーナを正室とするのをためらわざるを得なかった。
 しかし嫡男ヨーゼフはまだ爵位を継ぐには遠く、正夫人の座を長いこと空白にしておくことは、大貴族・子爵家にとって決して許されはしなかった。病の妻を城からは出しても頑として離縁だけはせず、さらに正室を迎えるのを喪が明けてからにしたことが、ヘルムート子爵に出来得る最大最高の誠意であった。

 とはいえそれをすんなり理解するには、ジョーヌはまだまだ幼かった。父上に新しい奥様が来ますとドーラに聞かされた時、彼はまず顔色を変え続いて絶望の表情になり、読んでいた本を音たてて閉じて、一言言い捨て書斎を出た。
「母上の部屋には入れさせないよ。あそこだけは絶対使わせないで。」

 ジョーヌの言葉をドーラは、悩んだ末に子爵の耳に届けた。子爵は何も言わずに聞き、小さく溜息をついた。子爵は敷地内に新たな別宅を建てさせ、カタリーナと、まだ3歳の娘エルザ(ジョーヌにとっては腹違いの妹)をその館に住まわせることにした。
 カタリーナは内気で大人しい女だったから、正室の座に酔って権勢を伸ばしたがったりはせず、子爵とともに公の場に出ても常に控えめな態度でいた。実に見よい賢明な処し方であると、世間は好意的な目で彼女を見た。彼女とその娘を無視し続けたのはジョーヌ1人であった。


 子爵邸の広大な敷地内には、研究栽培用の畑や小麦の保管庫の他に最新のパン工場(こうば)があった。単に小麦を育てるだけでなく美味しいパンを作る研究にも、子爵は力を入れていたのである。
 商売ではないので操業は毎日ではなかったが、焼けたパンは王家を初め都の主だった貴族の食卓に届けられ、さらにそれでも余分があった場合、そのパンたちは多くの農家が密集しているワイス通りの公園で、農民に無償で配られた。もちろんこれは民には大人気だった。子爵家の馬車が公園に着くとたちまち大勢の人垣ができ、1人1個限りだと告げる侍従の声は、最後はいつも枯れていた。

 農民にパンを配るその役は、1年半ほど前からジョーヌが勤めるようになっていた。普通であれば大貴族の嫡子が民と親しく交わることなど考えられなかったが、父子爵はジョーヌが12歳でお披露目を済ませた時から、その仕事を彼に任せていた。農民の暮らしを知り彼らに深く慕われることで、ジョーヌを真に優れた指導者にするのが、父の本当の目的であった。

 そしてジョーヌは今日も、編み籠にいっぱいのパンを2人の侍従とともに馬車から下ろし、公園の中央にしつらえられた木のテーブルに並べた。彼らの前には農民たちが押すな押すなと集まっていた。
「いいねー、今日も1人1個だよ。2度並びとかのずるをしたら、次からはその人にはあげないからね。こないだ数が足りなくてもらえなかった人が優先。判ったー? じゃあ今から配ります!」
 ジョーヌが言うと農民たちはパチパチと拍手をした。大貴族の気品はそのままに決して偉ぶったりしないジョーヌを、農民は『俺たちの若様』、『あたしらの若様』と呼んで敬愛していた。

 次々と差し出される2本の腕にジョーヌは1つずつパンを渡し、時には一言二言話をした。侍従たちは彼の左右にぴたりと控え立ち、農民を装ってジョーヌを狙う不届き者がいないかどうか、油断なく護衛の目を光らせていた。
 パンはあっという間になくなった。人垣はジョーヌにお辞儀をしつつ三々五々散っていった。
「こうやっていつも喜んでもらえると、嬉しいよね。」
 彼らの後ろ姿を見送りつつジョーヌは言った。侍従たちも、
「さようでございますな。人はパンのみにて生くるにあらずとは申せ、うまいパンを食せるのは人間にとって大いなる喜びにございます。」
「そうだね。今度来られるのは来週になるかな。ぶどうパンも少し持ってきてあげたいね。」

 ジョーヌは侍従たちとともに後片づけを始めたが、ふと視線を感じて顔を上げた。植え込みの影からこちらを窺っていた少女が、びくりと身をすくめるのが見えた。ジョーヌの様子に気づいてそちらを見た侍従が、
「何者か! そこに潜む者、怪しきは斬って捨てるぞ!」
 声を荒げ大股に近づこうとしたのを、やめろとジョーヌはとどめた。
「そんなにきつい言い方をするな。女の子じゃないか。怖がらせたら可哀相だ。」
「いやしかし…。」
「いいって。何をされた訳でもないよ。ほら城に帰るぞ。」
 ジョーヌに言われ、侍従は舌打ちして戻ろうとした。

 すると驚いたことにその少女は、スカートの裾を手で押さえて走りだし、あっ、と声を上げた侍従の横をすり抜けてジョーヌの前に駆け寄った。
「若様!」
 彼女はジョーヌの手の中に何かを押し込み、
「これを、これを、どうか読んで下さい…!」
 それだけ言って深く頭を下げ、くるりと身を翻した。侍従は剣の柄に手をかけ、
「おいっ! そこな娘、待て!」
 怒鳴った時には少女はもう、白い子ウサギさながらに駆け去ってしまっていた。

わたくしのジョーヌ様へ
突然このようなおたよりを差し上げることをお許し下さい。
わたくしは農夫ベックの娘でエルリーケと申します。いつもいつも遠くからジョーヌ様のお姿をお慕い見ておりました。
どんなに貧しく見すぼらしい者にも、全く分け隔てなくおいしいパンを下さるジョーヌ様を、わたくしの父も町の人たちも、みな神様のように思っております。
もちろん、それはわたくしも変わりません。ジョーヌ様がおいで下さった日は天国のようで、お会いできなかった日は地獄のようです。
どんな雪雲も溶かしてしまうジョーヌ様の笑顔を、物陰から拝見できるだけで幸せなのでございます。
でも先日、わたくしはジョーヌ様にお言葉をかけて頂きました。
妹と弟を連れて並んでいたわたくしに、ご家来の方は怖いお顔で、子供の分まで3つもやれないとおっしゃいました。
ところがジョーヌ様は「そんなこと言うなよ」とご家来をお叱りになり、わたくしに「でも1個は小さいのでいいかな。ごめんね」とおっしゃって下さったのです。
いいえ、きっとジョーヌ様はそんなことは覚えていらっしゃらないと思います。でもわたくしはそれ以来、どうしてもジョーヌ様にお礼を申したくて、それから、お慕いしている気持ちをひとことだけでもお伝えしたくて、思い余ってこのような手紙を書きしたためてしまいました。
心から、お慕い申し上げております。多くは望みません、これからもどうか、素晴らしい笑顔をわたくしに下さいませ。それだけでわたくしは幸せでございます。
エルリーケ

 決して上手くはない文字の、けれど精一杯丁寧に書いたと判る手紙を読み終えて、ジョーヌは思わずつぶやいた。
「もしかして、俺宛てのラブレターじゃんこれ…。」

 便箋を裏返し封筒の中をのぞき、ひとり落ち着きを失っていたジョーヌは、馬車が停まったのにハッとして手紙をふところにしまった。御者台から下りた従者は、扉をあけてひざまずいた。ありがと、と外に出て城の中に入り、何となく胸ポケットを気にしながらジョーヌは廊下を歩いていった。暖かいような重たいような、不思議なこそばゆさがあった。
 部屋に着くと、ジョーヌ付きの侍女が3人揃って頭を下げた。お召し替えをと言う彼女らに下がれと命じ、ジョーヌは窓辺に背をもたれさせてもう一度手紙を読んだ。

(エルリーケ、っていうのか…。)
 パンをもらいにやってくる農民たちの衣装はみな一様に茶褐色で、老いも若きもジョーヌには同じような顔立ちに見えた。しかしついさっき自分の前に走り出てきた少女の顔は、さすがに鮮明に脳裏に焼きついていた。大きくカールした茶褐色の髪にリボンを結びピン留めをし、ふわっとした感じのブラウスを着て、白いエプロンをつけていたあの子。
(俺と同い年くらいかなぁ。けっこう可愛い子だったような…。『心からお慕い申し上げております』だって。俺のこと好きなんだぁ、この子。)

 自然とほころびる口元に、彼は自分で照れた。参ったなぁ、などと口に出して言いウロウロと室内を歩き回り、また立ち止まっては手紙を読み返し、また照れては歩き回った。十数分それをくり返しているといささか疲れてきて、ジョーヌはソファーにダイビングし、クッションの上に腹這った。
「久しぶりだよなぁ、誰かから手紙もらうなんて…。母上が亡くなってから初めてじゃないかな。」
 ひとりごちてジョーヌはふと、遠い笑顔を思い出した。母の死から今日までのおよそ3年間のうちに、彼の背は伸び声も低くなり、子供時代の淡い記憶は日1日と薄らいでいたけれど、母の笑顔は思い出の浄化作用に拍車をかけられて、おぼろな空に光る明けの星さながら、今もジョーヌの心の中で輝き続けていた。

「返事、書いた方がいいのかな。」
 クッションの上に頭をもたげてジョーヌはつぶやいた。
「でもな、それもなんだか物ほしそうかも知れないな。俺個人はともかく、うちの体面とか立場とかも無視できないし…。いやそんなこと思うのは間違ってるのかな。だけど好き勝手にはできないのが貴族なんだし…。」
 ぶつぶつ言っているとドアがノックされ、
「失礼いたします若様。」
 聞こえたのはドーラの声だった。彼は慌てて起き上がり、手紙をポケットにねじこんだ。

「どうなさいました? ご様子がいつもと違うと侍女たちが…」
 尋ねつつ部屋に入ってきたドーラは、ソファーに座り前かがみになって額のあたりを押さえているジョーヌに驚いた。
「若様! どこかお具合でも悪いのですか!?」
「…いや何でもない。ちょっと考えごとをね。何でもないよ。」
 どうにかその場をとりつくろって服を着替え、夕食を済ませベッドに入っても、気がつくとジョーヌは微笑んでいた。
 そんな息子の表情に子爵は、
「何かいいことがあったんだろうね。ヨーゼフのあんな顔は久しぶりに見たよ。」
 寝酒のブランデーを運んできたドーラに言った。

「あの子は昔からどうもその…内向的というか、大人しすぎるところがあった。まぁ男の子だからね、成長とともに変わるだろうと思っていたが、そろそろその時期なのかも知れない。」
「さようでございますね。」
 ドーラもうなずいた。子爵はさらに、
「その分これからは少し、難しくなるかも知れないから…君はなるべくあの子の近くにいて、さりげなく気を配ってやってくれないか。本来は母親の役目なんだろうが、あの子にはそれがない。でも父親の私があの子を甘やかすのは、とてもよくないことだからね。」


 返事を出そうかどうしようかジョーヌが迷っているうちに時間はさっさと過ぎてしまい、週明けになった。ジョーヌは落ち着かない気持ちでパンを馬車に積み、ワイス通りの公園に向かった。いつものように農民たちが待っていた。
「今日はぶどうパンもあるからね。でもこれは2人で1個だから、ケンカしないで仲良く分けてね。」
 そう言って配り始めながらジョーヌの目は、自然、エルリーケを探していた。

 彼女はいた。列の中、小さな妹と弟を連れて、不安なような嬉しいような、笑いとも怯えともつかない表情でジョーヌを見上げていた。思わずジョーヌは目をそらしてしまい、どぎまぎと意味のない動きをした。
「…若?」
 侍従が不審そうな顔をしたので、ジョーヌは慌てて笑った。

 列はエルリーケの番になった。ジョーヌの額には汗が吹き出した。エルリーケも目を伏せていた。ジョーヌは手元に視線を落とし、そこにあったぶどうパンを3つ、ずいっと彼女に差し出した。
「あの、これは…。」
 小声で尋ねる彼女に、
「いいから。」
 怒ったような口調でジョーヌは言った。エルリーケは真っ赤になって、エプロンで素早くパンをくるみ、
「ありがとうございます!」
 ぺこりと頭を下げて走っていった。ふぅ…とジョーヌは溜息をついた。
「あのぉー。」
 次に並んでいた男が妙な顔をしていた。ジョーヌは我に返った。
「あ、ごめんごめん。えっと、パンだよねパン。うん、パンね。」
 急いで平静を装うことに、彼は何とか成功した。

 3日後、ジョーヌたちはまた公園を訪れた。パンを受け取る時にエルリーケは、2通めの手紙をジョーヌの手に押し込んでいった。

 その手紙に記されていたのは、さらなる恋心と不安だった。この前の自分の手紙にジョーヌが怒っているのではないかとエルリーケは書いていた。どうしてそうなるんだとジョーヌは驚き、されども誤解を解く方法が彼には皆目判らなかった。
 数日後、またパンを持って広場に行くと、列の中に彼女の姿はなかった。ジョーヌの胸は暗くふさいだ。しかし帰りぎわになってエルリーケは現れ、最初の時と同じように手紙を渡して走り去っていった。

 馬車の中、心臓の上を片手で押さえジョーヌは封を切った。彼女の文章は落ち着いていた。決して多くは望まない、若様のお姿を遠くから見ているだけで幸せですとあった。これからも時々は手紙を出していいですか、との文末の問いに、もちろんだよとジョーヌはつぶやいた。心に花が咲いたように、暖かな気持ちになれた。
 時々、と書いていながらもエルリーケは会うたび手紙をくれた。本当は雀躍りするほど嬉しいのに、パンを渡し手紙を受け取る時、ジョーヌは彼女の目を見られなかった。その代わり彼は城に着くと手紙を何度も読み返し、引き出しの奥に仕舞いこんで金色の鍵をかけていた。


 ある日のことであった。風もなくからりと晴れた気持ちのいい日だったので、ジョーヌは中庭に出て愛用の馬具の手入れを始めた。
 フンフンと鼻歌を歌いつつ、油を含ませた布で乗馬ブーツを磨いていると、その時視界の隅の方でチラリと白いものが動いた。何だろうと顔を上げた時には、木漏れ日だけが光っていた。鳥でも来たのだろうと再び目を伏せると、今度はガサッと草むらが動いた。ジョーヌはそちらを見た。ひょこりと顔を出したのは、ジョーヌと同じブルネットの髪にマーガレットを一輪差した女の子…つい先日5歳の誕生日を迎えた、腹違いの妹・エルザであった。

 エルザの小さな体には、はずむような期待が見てとれた。ジョーヌに声をかけてほしくて、こっちへおいでと言ってほしくて、彼女の目はきらきら輝いていた。しかしジョーヌは一瞬にしてエルザを黙殺した。鼻歌をやめ笑みを消し、全身で拒絶を示した。エルザの表情も変わった。晴れた草原に雲が影を落とすように、寂しげな目になった。

「姫様! 姫様、どちらへ行かれたのですか!?」
 すると木立の奥の方から女の声が聞こえてきた。やがてハァハァと息をきらして、1人の侍女が姿を見せた。ジョーヌは無視し続けた。エルザのもとに駆け寄った彼女は、そこにジョーヌがいるのに気づき大慌てで腰を屈めた。
「ご無礼申し上げました、若様。どうぞお許し下さいませ。」
 ジョーヌは初め答えなかったが、その女がいつまでも頭を上げないため、早く追い払いたくて口を開いた。
「見かけない顔だな。新参なのか。」
 侍女は姿勢を変えず、
「はい。姫様5つのお誕生日の折りに、守り役としてお召し抱え頂きました。イト・マーナと申します。どうぞお見知りおきを―――」
「こっちの庭に子供を入れるな。」
 遮る声の冷たさに、マーナははい?と問い返した。

「こっちの庭には子供を入れるなと言ったんだ。ここは本邸、僕と父上の住まいだ。関係ない者がみだりに立ち入れる場所じゃない。」
「いえ…関係ない、とは…その…」
「いいから下がれ。命令だ。下がれ。」
 マーナは眉を寄せたが、嫡男の命令に背くことはできなかった。仕方なく抱き上げようとすると、当然であろう、エルザはべそをかきかけていた。
「さぁお部屋に戻りましょう姫様。兄上様はご用をなさっていらっしゃいます。お邪魔をしてはなりませんよ。」
 足早に遠ざかっていく背中を、ジョーヌは横目で見送った。


 翌日、ジョーヌは父の執務室に呼ばれた。ノックをし、失礼しますと言って中に入ると、子爵はそこにいた全員を下がらせ、机に肘をついて手を組んだ。
「あのねぇヨーゼフ…。お前はその、エルザのことが嫌いなのかい。」
 単刀直入に本題に触れ、父は机の前に直立しているジョーヌを見上げた。
「お前がカタリーナに対していい感情を持てないのは仕方ない。だけどね、エルザには関係ないじゃないか。お前があの子を嫌うのは違うよ。あの子に罪はないんだ。もう子供じゃないんだから、お前にもそれくらいは判るだろう。何か言いたいことがあるんなら、私に言ってくれないか。」

 父は怒ってはいなかったが、その目は厳しかった。ジョーヌは両手を握りしめた。父の言うことは尤もだと、彼は頭では判っていた。しかしたった今父が口にした『あの子』という言葉が、ジョーヌの心に幾本かの刺となって刺さっていた。父と母と、自分。ジョーヌにとってかけがえのないその繋がりを、この父は破ろうというのだろうか。妹なんていらない。父に特別な情愛をこめて『あの子』と呼ばれる存在は許せない…。

「申し上げたいことなどありません。」
 さらりとジョーヌは言った。
「ただ僕は、ああいう小さな子供が嫌いなんです。こちらの状況も都合も考えずに図々しく割り込んで来るから。エルザがどうのこうのじゃなくて、僕は子供は嫌いです。」
「…何を言っているんだお前は。」
 子爵は身を乗り出した。
「状況だの都合だの、たかだか5つかそこらの子供に判るはずがないじゃないか。お前だって昔はそうだったんだよ。私が何をしていたって、どんなに忙しい時だって、ベッドに下ろすと泣いたじゃないか。だから私はね、お前をこうやって抱っこして、来客に会ったこともあるんだよ?」
 ジョーヌは唇を噛んだ。父がそんなに可愛がってくれた自分が、なぜ今こんなに孤独なのか。妹なんか欲しくない。できるならこの世からいなくなってほしい。父上はもう母上を忘れてしまったのだろうか。エルザがそんなに可愛いのか…。

「まぁとにかくね。」
 子爵は顎のあたりを撫でながら言った。
「お前はあの子の兄なんだから、せめて笑ってやるくらいはしてやれないもんなのかい。そんなに難しいことじゃないだろう。」
「…嫌です。」
 言下に口をついて出た言葉に正直ジョーヌ自身も驚いた。父に対してこんなに反抗的になっている自分が、我ながら別人のような気がした。
「他のことは、父上の仰せに従います。でも、あの子供に笑うなんてできないです。嫌いなものは嫌いです。いつか父上は、自分の意志は明確にしろとおっしゃいました。だから僕はその通りにしています。」
「いや、それとこれとじゃ話が…」
「もうよろしいでしょうか。家庭教師の先生が待っておられますので。失礼します。」
 父の返事も待たずにジョーヌはその部屋を出た。


 兄を慕いながらそばにも寄せてもらえず、大人ばかりの中で寂しそうにしているエルザが、守り役のマーナには哀れで仕方なかった。彼女の意見によって子爵は、近従たちの娘の中からエルザと歳の近い女の子2人を選び、遊び相手として屋敷に上がらせた。
 彼女らはすぐに仲良くなり、遊び盛りの年頃ゆえ屋敷の廊下を走り回った。自分の部屋には絶対近づけるなとジョーヌは侍従に命じたが、甲高いはしゃぎ声は遠くからでもよく聞こえ、そのたびにジョーヌを苛立たせた。

 ある日、子爵家にヴェエルが遊びにきた。『五色の御旗』の一員としてこの国の貴族の最高位にありながら、ヴェエルはいつも泥だらけになって外を飛び回っていた。今日も今日とて彼は埃まみれの上着をはたきもせず、案内すら乞わずに邸内に入ってきた。
「こんちはー。ジョーヌいるぅ?」
 天真爛漫な笑顔に子爵家の侍従たちもつい笑ってしまい、彼の持っている袋から落ちる乾いた泥にも、眉ひとつ寄せはしなかった。
「はい、多分お部屋の方に。」
「そっか。サンキュー。」
 ヴェエルはずんずんと廊下を進み、
「よー。ジョーヌー。面白いもん作ったよー。」
 まるで自分の部屋のようにノックもなしにドアを開けた。

「お前、そうやって人の部屋入ってくんなよ。びっくりするだろ?」
 エルリーケの手紙を読み返していたジョーヌは、大慌てに慌てて引き出しを閉め、ムッとした顔で振り向いた。しかしヴェエルはそんなものは無視して、
「見てよ見てよこれ。画期的な発明しちゃったぁ。」
 袋の中から奇妙な筒を何本も出して床に並べた。
「おい泥くらい拭いて持ってこいよ、床が…」
「これはね、自動水撒き機。ジョーヌんとこの畑って広いじゃん。そこにバーッて水撒けんのこれで。ほらほらこっから水入れんでしょ。そうすっとここが回んのね。で、水車の要領でビヤーッてやって、遠くまで水飛ばすんだよ。」

「へぇ…。面白そうだな。」
「だろ? だろ? 絶対役に立つと思うんだよ! ちょっと試してみたいでしょ!」
「うん。ちょっとな。興味わいてきた。」
「んじゃ組み立ててみんね! 庭行こう庭。どっかに花壇あったよねここんち。」
「あるけど、別にそこでいいじゃん。」
「だめだよ、どうせなら花に水やろうよ。そうだ、この奥にいいとこあんだよ。俺、ここんちよーく知ってんだから。」
 ヴェエルは床に広げた筒をガチャガチャと小脇に抱え、勝手知ったる他人の家の廊下に出ていった。
「待てよおい! ヴェエル!」
 苦笑しつつジョーヌも後を追った。

 ヴェエルは中庭を斜めに抜け、あずまやの見える低い柵の前で足を止めてジョーヌが追いつくのを待った。子供でもひとまたぎで越せる柵なのに彼がそこで立ち止まったのは、その奥が、かつてジョーヌの母が大事にしていた庭園であると知っていたからだった。自由奔放な野生児に思えて、こういうところには気の回る優しいヴェエルであった。
「入っていい?」
 ヴェエルは聞いた。彼の心遣いがジョーヌは嬉しかった。
「うんいいよ。今は誰も来ない庭だけど、庭師は入れてるからそんなに荒れてないだろ。」
「全然荒れてなんかないよ。綺麗綺麗。ここの花にさ、これ使って水やろうよ。」
「そうだね。母上も喜んでくれるかも。」
「じゃ組み立てるの手伝って。」
「いいけどどれをどうすんの。」
「このね、赤い印のとこをぴったり合わせて、この紐でしっかり結んでって。」
 2人は柔らかな芝生の上にあぐらをかき、大小の筒を順番に繋ぎ合わせる作業を始めた。

「なんか難しいよヴェエル、これ。」
「簡単だよ。こんなのサルだってできるよ。」
「出来ねぇよー! こっからどうすんの?」
「うわ、下手くそー。そんなんじゃ水が全部漏っちゃうって。だからね? ここをこうするでしょ?」
「こう?」
「逆逆逆!」
「あ、こっか。」
「もっと逆じゃんそれじゃあー! こっちから、こう! …違うってばー!」
「やべー、俺、マジでサルかもぉー!」
 2人は声を上げて笑った。と、そこでヴェエルは、
「…あれ? 誰だあれ。なんかちっちゃい女の子がいるよ。」
 あずまやの方を見て言った。ジョーヌは顔色を変えた。

「何やってるんだそこで!」
 いきなりジョーヌが怒鳴ったのでヴェエルの方が驚いた。大股に近づいてくるジョーヌの怒り顔に、あずまやの影にいた3人の女の子たち、エルザと2人の遊び相手は逃げることもできずに立ちすくんでしまった。ジョーヌは1人が手にしている花を見て、声にならない悲鳴を上げた。
「これ、母上が一番大事にしてたオールドローズじゃないか! お前、これ、これ、折ったのか!?」
 あまりに激しい口調に脅え、女の子はその花を脇に捨てた。いや本当は落としたのかも知れないが、折ったのみならずゴミのように投げ捨てた行為に、ジョーヌの怒りは頂点に達した。ビシャッと高い音がして、女の子はわっと泣きだした。

「おいっジョーヌ! お前それはひどいよ!」
 ぽかんと見ていたヴェエルが慌てて飛んできた。地面に両手をつき顔をぐちゃぐちゃにして泣いている女の子を、彼は軽々と抱き上げた。
「だいじょぶか! どっか切ってないな!? ああごめんごめん、痛かったよなぁ。」
 頬をさすりぎゅっと抱きしめてやると、女の子はヴェエルの首にしがみついて泣いた。つられるようにあとの2人もべそをかき始めた。
「おいおい何だよ、お前らも泣くのかよぉ。」
 ヴェエルはしゃがんでエルザの頭を撫でた。

「ごめんなー。びっくりしたんだよなー。よしよしよし。怖くない怖くない。」
 少し乱暴なくらいの撫で方だったが、その力強さが逆にエルザを安心させたのだろう、彼女は喉をひくひく言わせながらも、懸命に泣きやもうとしていた。そのさまは健気で愛らしく、さすがのヴェエルもジョーヌをにらみつけた。
「お前さぁ、叩くことないだろよこんなちっちゃい子。そりゃ花を取ったのは悪いかも知れないけど、だったら駄目だって注意しろよ。まだ判んないよ子供なのに。それをいきなりひっぱたくなんてさぁ…。可哀相に、ほっぺた真っ赤じゃんほらぁ。」

 ジョーヌは何も言えずにヴェエルたちを見下ろしていた。頼れる庇護者に出会えたかのように彼にしがみついて泣いている女の子、べそをかき彼の後ろに隠れてしまったもう1人の子。そしてエルザはヴェエルの指を小さな手でしっかりと掴んでいた。
 いささか良心が咎め出すよりも早く、ジョーヌの胸にはある苦い感情が頭をもたげていた。彼自身決して気づきたくはないものだったが、それはヴェエルへの嫉妬であった。兄である自分に可愛がってほしくて、何とか気を引こうとしていたはずのエルザが、今は完全にヴェエルを慕い、敵でも見るような目をこちらに向けている。

 ヴェエルはいつもこうなんだ、とジョーヌは思った。心の垣根を物ともせずに、あの人なつこい笑顔と屈託ない態度でくぐり抜けてしまう。大人も子供もヴェエルが好きで、ヴェエルを悪く言う人は滅多にいなくて、自分が薄氷を踏む思いで相対しているような事柄を、ひょいとまたぎ越してニコニコしている。平気だよこっちへ来いよ、出来るよ簡単なんだってば。何がそんなに怖いんだよと言いたげな顔をして―――

「ここには2度と入るな。」
 ひんやりと冷たい声でジョーヌはエルザに言った。父に似て細面(ほそおもて)の彼がこの表情をすると、ぞくりとするほど酷薄な気配が全身に漂った。ルージュの派手さやロゼの艶とは一風違うジョーヌの美貌は、パッと人目に立つというより、ふとした拍子に気づいたが最後、決して脳裏を去らない性質のものだった。そういう美しさに冷たさが加わった時、生まれる拒絶は生半可ではなかった。エルザはヴェエルに身をすり寄せた。ジョーヌは踵を返した。


 バタン!と後ろ手に閉めた自室のドアにジョーヌは鍵をかけた。怒りと葛藤が背中に嫌な汗を浮かせていた。彼はしばらくその姿勢で自分を落ち着かせたあと、テーブルに置かれた陶器の水さしからごくごくと水を飲んだ。口の脇に筋を描いて滴った水が白い衿を濡らした。はぁ、と大きく息を吐きソファーに崩れ、彼はまたしばし動きを止めた。

 やがてジョーヌはふらりと立ち上がった。彼の目は机の引き出しの一番下を見ていた。そこにはエルリーケからの手紙の束が入っていた。ジョーヌは中の1通を広げ、彼女の文字を辿った。

いつもいつもお優しそうな若様ですが、わたくしは時々、それだけが若様のお姿ではないような気がいたします。
悲しいことやつらいことがあっても、もしかしたら若様は、それらを我慢して笑っていらっしゃるのではないかと、そんなことを思ったりもいたします。
若様の横顔が溜息に曇る時、わたくしには何もして差し上げることがない。
それがとても切なく、寂しゅうございます。

「そうだよ。俺は我慢してるんだよ…。」
 ジョーヌはつぶやいた。手紙を透かしてエルリーケの笑顔が天使のそれのように見えた。
「誰も、ほんとの俺なんか判っちゃいないんだ。優しいとか穏やかだとか偉そうにしないとか、みんなで勝手なこと言ってるけど、ほんとの俺はそんなんじゃない。いろんなことが嫌でたまらないのに、必死で我慢してるんだよ。」
 エルザの遊び相手を叩いたことでヴェエルは自分をなじったけれど、子供なんて口で言っても判らない。今までに俺は何度も、こっちの庭には入るなと言ったんだ。それなのにあいつらは守らなかった。俺は間違ってなんかない。なのにどうして俺が責められなきゃならないんだ…。
 本当の自分を判ってくれているのは、もしかしたらエルリーケだけなのかも知れない。唐突にジョーヌは思った。

 エルリーケに会いに行こうか。次にジョーヌはそう思った。いつも俺のことを思っていると書いてある。近くにいなくても彼女には、不思議なくらい俺の気持ちが判るんだ。会いにいったらきっと喜んでくれる。最初は驚くかも知れないけど、感激して泣いてくれるかも知れない。会って、話をして、もし俺のそばに来たいっていうなら連れてきたっていい。農家の生活はつらいはずだ。城の中なんて見たことないだろう。綺麗なドレス、美味しい食事。俺を好きになってくれた子に、それくらいしてやったっていいはずだ。ルージュのお父さんは平民の女の人を側室に迎えてるんだし、何だったらエルリーケをずっとそばに……

 え、とジョーヌは自分の巡らせている想像にとまどった。それってつまりは結婚、てこと…? 俺の運命の相手は、もしかしてあの子だっていうのか…?
 誰もいないと判りきっているのに、ジョーヌはあたりを見回した。心臓の音が妙に大きかった。左胸を押さえ、彼は手紙を鼻に近づけた。少し湿った紙の匂いがした。あの子と結婚するってことは、つまりはだから要するに、男と女がするようなことを、あの子としちゃう、ということで…。

 ジョーヌの頭と心はざわめいた。―――女の子と。そういうふうに。するのって。それってどんな感じなのかな。ルージュはもう女知ってんだよな。ロゼ…が知らない訳ないか。ヴェエルは子供だから絶対まだだろ。順番でいけばじゃあ、次は俺か。もしかしたらこの子と、そういうふうになるのかな。
 俺のことが大好きだって。俺を思うとドキドキして苦しくなるって書いてる。恋してるんだよな、この子は俺に。じゃあ俺も好きにならなきゃ駄目じゃん。恋をして、つきあって、それで、それから、……
 彼女に会いにいこう。ジョーヌは決心していた。


 ジョーヌはその夜、1人の少年を連れて城を出た。少年の名はウィル、侍従の息子でジョーヌとは同い年、若様若様と彼を慕う一番の“腹心”であった。2騎は夜道を駆け抜けてワイス通りに着いた。
「若様はこちらでお待ち下さい。自分が使者に立ちますので。」
 ウィルの目は共犯の喜びに輝いていた。
「エルリーケ様のお住まいも自分が調べておきました。こちらへご案内して参りますので、少しお時間を頂戴いたします。」
「うん。」
 緊張の面持ちでジョーヌはうなずいた。

 彼は深いネイビーブルーのマントに、揃いの帽子を被っていた。帽子にあしらわれた白い羽根は月明かりに淡く浮かび上がり、腰に下げた剣がきらりと光を返すさまは、
「まさに王子のようです、若。エルリーケ様は何とお幸せな。」
「…よせよ。」
 ジョーヌは照れたが、褒められて自信もわいてきた。
「では行って参ります。しばしお待ちを。」
「判った。お前も気をつけてな。」
 ピシリと馬に鞭を当て、ウィルは走って行った。

 ジョーヌは馬上で月を見た。満月にはあと3日足りずとも、降り注ぐ光に申し分はなかった。
「ロマンチックだよなぁ…。」
 彼はうっとり微笑んで目を閉じた。
 ウィルはすぐにエルリーケを連れてくるだろう。彼は気が利く奴だから、すぐにどこかへ身を隠すに違いない。そうしたら彼女と2人きり。恥ずかしくて何も言えない彼女に俺の方から近づいていって、最初の一言はこれだ、『いつも手紙をありがとう。』それから彼女の手を取って、
『何度も読んだよ。みんなとってある。僕を好きになってくれて嬉しいよ。だんだん僕も、君のことしか考えられなくなってた。』…いや待てよ、だんだんじゃ失礼かな。最初に手紙をもらった時から、って言われた方が嬉しいのかな。こういうのロゼは詳しいんだろうけど、まさか聞けなかったしなぁ…。


 どれくらいの時が過ぎたか、ジョーヌはゆっくりと近づいてくる蹄の音を聞いた。ドキン、と跳ねた心臓を押さえ、一度目を閉じて深呼吸し、落ち着け落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせて、彼は音のする方を見た。そこにいたのは手綱を引いたウィル、馬の背にはしかし誰も乗ってはいなかった。
 どうしたんだ、と表情で聞きつつジョーヌは小走りに彼に近づいた。ウィルは困惑の顔でジョーヌを見上げた。
「彼女は。いなかったのか。それとも来たくないって…?」
「いえ、そうではございません。一応あの…お連れはしたのですが…。」
 ウィルが肩ごしに振り向いた先で、その時キャーッと黄色い歓声が上がった。

「ちょっとちょっと本物よぉー! ほんとの若様よぉー!」
「すごーいエルリーケったらぁ! 嘘じゃなかったんだぁ!」
「やだもぉカッコいい! 何あれ何、剣下げてんの!?」
「会いにきてくれたんだぁー! すごいじゃなーい!!」
 数人の娘たちは一様に頬を赤らめ、右に左につつきあって笑っていた。ジョーヌは呆然とした。いったい何がどうなっているのか、全く理解できなかった。
「これ、娘、娘!」
 ウィルは駆け寄っていって、
「そのような無礼を申すでない! なぜこんなにゾロゾロついてきたのだ!」
「だってだってお城の若様でしょー? いつもパンくれるあの人でしょー? 手紙出したってエルリーケが言うから、まさかホントに読んでくれてるのぉー?ってみんなで言ってたんだもん! 見に来なきゃ始まらないじゃない。ねーえ!」
「無礼者っ!!」
 ウィルは小さく怒鳴ったが、娘たちは騒ぐのをやめなかった。

 立ち尽くしているジョーヌのもとへ、やがて仲間に押し出される形でエルリーケが歩み寄ってきた。さすがに少々気のとがめる顔で、だがその目が浮かべているのはむき出しの好奇心だった。
「まさか、ホントに来てくれるなんて思ってなくて…。やだ、困っちゃった、どうしよう。えー、何話せばいいんだろ。判んないよぅそんな急に。手紙書いてる時は楽しかったけど、実際どうすればいいかなんて…。」
 そこで彼女は仲間を振り返り、
「ねー! 何聞けばいいのよー! あたしあがっちゃって汗かいちゃうー!」

 ジョーヌは言葉もなくエルリーケを見下ろした。近くでよく見ると彼女の髪は乾いて艶がなく、畑仕事のせいであろう手の甲はガサガサ、すり切れた袖口は垢じみて光っていた。
「…帰るぞ、ウィル。」
 短く言ってジョーヌはエルリーケに背を向けた。ウィルがかけよるうちにジョーヌは馬上の人となっていた。
「でもあの、お送りしなくてよろしいのですか? 夜道を娘ばかりで歩かせるのは危険かと…」
「知るかそんなの。放っておけばいい。来い。」
 彼の命令を拒むことはできず、ウィルは鐙に足をかけながらエルリーケたちを見やった。彼女らはやはり、
「ひどーい! ちょっと! 送ってってくんないの!?」
 騒ぎたてる娘たちを完全に無視して、ジョーヌは馬の腹を蹴った。

(俺は馬鹿だ…。)
 夜風に頬をなぶらせ、ジョーヌは苦い思いを噛み殺した。
(いったい何を期待してたんだ。あいつらにとって俺はただの見せ物。興味本位の珍しい生き物にすぎないのに。)
 ジョーヌは革の鞭を馬の尻に打ち下ろした。1度ではなく3度4度と打った。限界の速度で走っている馬が苦しがっているのは判ったが、構うもんかと彼は思った。心が残酷な怒りに支配されていた。誰も本当の俺を見てくれない。本当の気持ちを誰も判ってくれない。そう思うと全身が張り裂けそうで、このまま地獄の底へと駆けおりてしまいたかった。

 それでもジョーヌは城へ帰った。現実世界においては彼は、他に行くところがなかったからだ。全てを捨てて旅に出る、などというのは物語にしかない行為であって、鬱屈した思いを胸に抱えつつ、ジョーヌは濁った日常の中にその身をおさめた。日々はあいも変わらずに、ぬるぬると過ぎていった。


 公園でのパン配りも、いつも通りに続けられた。違うのはジョーヌが無愛想で、あまり口をきかないことだけだった。
 しかし彼は視界の隅でエルリーケが来ていないことを確かめていた。もし来ていたらあからさまに無視して、いたたまれない気持ちを味わわせてやるところだったが、さすがに無礼を悟ったのだなと思うと、多少は気分がよかった。自虐にも似たその思いは、可愛さ余って憎さ百倍とも少し違う、ジョーヌの反抗心であったかも知れない。父にも家にも自分自身にも、彼は反抗していたのだった。

 城へ戻ると、玄関のホールからすぐに見える前庭でエルザたちが遊んでいた。ジョーヌの視線に即座に気づいて、エルザはハッと立ち上がり、彼が何も言わないうちに、
「あっち行こ。」
 2人の女の子の手を取って走っていってしまった。何だよ、とジョーヌはムッとした。中庭に入るなとは言ったけど、今の場所だったら別に構わない。これじゃまるで俺が意地悪で、遊び場所を奪ってるみたいじゃないか。
 人影の消えた庭を険しい顔で睨んでいた彼のもとに、1人の侍従がやって来た。
「お帰りなさいませ若様。父上様がお呼びでございます。どうぞ執務室の方へ。」

 ジョーヌが部屋に入っていくと、子爵はいつものように部下たちを下がらせた。またお小言かとうんざりしたジョーヌに、父は事務的に言った。
「来週のね、エルザの初結いの儀式なんだけど、これはお客様を招いて行う我が家の正式な行事だから、お前にも出席してもらうよ。そのつもりでいるようにね。」
「え、僕もですか。」
 意外な顔のジョーヌに、
「そうだよ。ヘルムート子爵家の嫡男として当然のつとめだ。礼服を整えるようドーラにはもう言ってあるから、失礼のない身支度をして、皆さんにご挨拶できるようにしておきなさい。いいね。判ったらもう行っていいよ。」

「ちょっと待って下さい。」
 ジョーヌは父の机に手を突いた。
「なんで僕が出席しなくちゃならないんですか。初結いの儀式は普通身内だけでやるもので、そんなに大袈裟な催しではありません。」
「別に大袈裟にする気はないよ。いい機会だからあの子を皆さんに紹介しようと思うだけだ。」
「そんな必要がどこにあるんですか。」
「そんなことをお前に言われる筋合いはないよ。私がそう決めたんだ。」
「決めたって…。」
 憮然とするジョーヌに子爵はきっぱりと言った。
「どうあろうと式には出席しなさい。これは私の決定なんだ。反論は認めない。いいね。」

 怒りと苛立ちを手のひらに握ってジョーヌが自室に戻ると、ドーラが茶の支度をしていた。ジョーヌは上着をソファーに叩きつけ、ドサッと腰を下ろした。彼の前にカップを置きながら、
「式の件で、父上様からのお話はございましたか。」
 さらりとドーラは聞いた。
「ああ。どうしても俺に出席しろって言ってた。」
「わたくしにも、若様のご礼装を整えるようご指示がございました。」
「冗談じゃないよな。初結いの儀式なんてさ、親戚の女の人たちだけで内輪でやるのが普通だろ? なんで子爵家の行事として客まで呼ぶかなぁ…。」
 銀のスプーンで茶をかき回す指先に、内心で見とれつつドーラは言った。
「おそらくは、正式なお誕生日祝いをして差し上げられなかった代わりとお考えなのでしょう。」
 言われてジョーヌも納得がいった。エルザが生まれた時はまだ、カタリーナは側室だったのだ。

 ごくり、とジョーヌが茶を飲んだ時、ノックの音が聞こえた。
「誰です。」
 尋ねたのはドーラである。
「エルザ様付きのイト・マーナでございます。式典のことに関して若様のご意見を賜りたく、参りました。」
「若様はただ今お疲れです。あとになさい。」
 気を利かせてドーラは言ったが、
「何ぶんにも急ぎのことでございます。ほんの数分で済みますゆえ、お目通りをお許し願えませんでしょうか。」

 ドーラはジョーヌを窺い見た。彼は軽く眉を寄せていたが、
「…いいよ。どうせまたあとで来るんだろ。」
 溜息とともに言った。ドーラはドアをあけた。イト・マーナが腰を屈めていた。
「お入り。お話は短めにするように。」
「かしこまってございます。」
 マーナは中に入った。スカートを広げてひざまずき、
「若様にはご機嫌麗しく。おくつろぎのところ大変申し訳ございません。」
「いいよそういう面倒なのは。用は何。疲れてるんだ、早くしてくれ。」
「はい、実はエルザ様のお式当日のことなのですが、父上様より、エルザ様のエスコート役は兄上様にお願いするようにとご指示を賜りまして。」
「俺が!?」
 ジョーヌは頓狂な声を上げた。

「ちょっと待てよ。なんで俺なんだよ。そんなの父上がやるべきじゃないか。」
「それは私におっしゃられましても…。当日の段取りは若様とよく調整しろというのが父上様のご命令…」
「ふざけんな。そんなの嫌だと言ってこい。」
「それは私には許されぬことでございます。」
「なんでだよ。お前は父上に言われてここへ来た。だったら俺に言われて父上のところに行け。なんで俺があんな子供のエスコートをしなきゃならないんだ。この子爵家を嗣ぐ俺が、側室上がりの女の産んだ子供なんか―――」
「…若様。」
 マーナの声に怒りが籠った。

「今のお言葉はご訂正下さい。カタリーナ様への侮辱でございます。」
「何が侮辱なんだよ。俺はあの女を認めてない。父上の正室は俺の母上だけだ。」
「カタリーナ様は今や、正式な子爵夫人にございます。エルザ様はそのご令嬢。あなた様の妹君にございます!」
「何だよ、ずいぶん必死になってるな。ああそうか。いくら父上が認めててもこの家を嗣ぐのは俺だ。俺に取り入っとけばあとあと有利だとか何とか、あの子供に吹き込んでるのか。」
「若様っ!!」
 マーナはすっくと立ち上がった。

「あなた様がご嫡男だとて、おっしゃっていいことと悪いことがございます! あなたはエルザ様のお気持ちを思いやったことがおありですか!」
 マーナの剣幕にジョーヌは、一瞬ひるむが如くまばたきしたが、
「…お前にそんなこと言われる筋合いはない。俺は―――」
「筋合いも筋違いもございません! お兄様に取り入るだなどと、そんな風にしかお考えになれないのだとしたら、わたくしは若様を軽蔑いたします!」
「何だと?」
「幼き方がご年長者の兄上をお慕いになるのは当然のこと。しかも若様は、民草への思いやり深くご慈愛のお心に満ちた、素晴らしい方であると皆が申しております。そのお話はエルザ様のお耳にも届き、幼心に兄上への憧れと思慕の情を募らせておいでなのでございます!」

「…またそれかよ。」
 冷たい苦笑いを浮かべてジョーヌは言った。
「思いやり。慈愛の心。そういうのをみんなして俺にぐいぐい押しつけてくる。勝手に想像してああこう噂する。それが俺にとってどんなに迷惑でつらいことなのかひとっつも考えないで、自分たちの勝手な空想で俺をいい人に仕立てるんだ。もうやめてくれよそういうのは! 勝手なイメージで人を判断すんな!」
 怒鳴りつけたジョーヌをその時、マーナの次の言葉が貫いた。
「あなた様とてエルザ様をイメージで判断しているではありませんか!」

 びくっ、と小さくジョーヌの肩がはねた。マーナは涙を浮かべて言いつのった。
「いったい、エルザ様の何を若様はご存じなのですか。エルザ様をそばにお寄せにもならないで、話しかけることも笑いかけることも、ただの1度もなさったことのない若様に、エルザ様の何がお判りになるというのですか! カタリーナ様は確かにもとご側室です。そのカタリーナ様がお産みになったお子様だから…ただそれだけの理由で若様は、エルザ様を自分勝手に嫌っていらっしゃるのです!!」

「黙れ!」
 思わずジョーヌは声を荒げた。しかしマーナは、
「いいえ黙りませぬ。誰かが申し上げねばならぬことでございます。若様のおっしゃることはあまりに理不尽。それではエルザ様がお可哀相です。お嫌いになるにしてもエルザ様の本質をお嫌いなさいまし。ただの一方的表面的なご判断でものごとをお考えになるのは、この先子爵家を担っていかれる若様ご自身の―――」
「言葉がすぎますマーナ! 控えなさい!」
 脇からドーラが言った。

「父上様のご指示を受けての参上ゆえ、そなたの言葉聞き流すつもりでおりましたが、一侍従に過ぎぬそなたがそこまで申す立場ではありません! 若様にご意見するとは無礼千万! こののちこの場で一言でも発したら、首席侍女たるわたくしの権限をもってそなたを即刻罷免いたしますよ!」
 ぐっ、とマーナが詰まったのを見て、
「臣下の礼をとりただちに下がりなさい。自らの立場を今一度思い返すように。よろしいですね。」
 侍従にとってドーラの命令は、ある意味子爵のそれよりも強いものであった。マーナは深く首(こうべ)を垂れ、ジョーヌの前に跪いた。言葉を発するなとの指示に従い、彼女は無言で退出した。

「ご無礼つかまつりました、若様。」
 ドーラはジョーヌに頭を下げた。が、ジョーヌはドーラを見なかった。
「…下がれ。」
「はい?」
「いいから下がれ。早く。」
「かしこまりました。」
 素早くドーラは下がっていった。一人になったジョーヌはぼんやりした顔で、窓べに歩みより外を見た。特に何を見るでもなく、視線は宙をさまよっていた。今までに経験したことのない衝撃が、彼を呆(ほう)けさせていた。

(俺は、この子爵家の正式な嫡子だ。今上(きんじょう)の陛下にも王太子殿下にもお目通りして、神官からの祝福も受けた。その俺があんな侍女の言うことに耳を傾ける必要はないんだ。ましてやそれを聞き入れたり、いちいち言う通りにしたりしたんじゃ、回りへのしめしもつかないし、子爵家の威信にもかかわる。そうだ、だから気にすることなんてない。)
 何とか気持ちを立て直そうとジョーヌは独りで正論を探したが、誰を騙せても自分は騙せない、マーナの言葉に射られた胸は痛みを増し、その痛みは彼をぎりぎりと追いつめていった。

『あなた様とてエルザ様をイメージで判断しているではありませんか!』
 どん、とジョーヌは壁を叩いた。どう繕ってもこれだけはマーナの言う通りであった。エルリーケからの恋文に心ときめかせた自分、けれど実際に彼女が見ていたのは“子爵家の素敵な若様”にすぎなかった。あの時に感じた虚しさ、悲しさ、悔しさ、自嘲。それと全く同じことを自分は、エルザに対してしているのだと。

「俺は、エルザが憎いんじゃない…。」
 一筋の涙を頬に伝わせ、ジョーヌはひとりごちた。
「俺があいつらを認めたら、母上がお気の毒な気がするんだ…。病気になってしまったばかりに、母上はこの城を追い出されてしまった。遠い館でたった独りで、寂しく死んでいかれたんだ。みんな母上のことを忘れてる。俺だけは覚えていたいんだ。俺があの子を可愛いがったら、母上があまりにお可哀相だよ…。あんな子供、いなくなっちゃえばいい。母上の子じゃないんだから。カタリーナだって死んじゃえばいいんだ。大っ嫌いだあんな奴ら…!」
 ジョーヌは壁に拳を打ちつけ、いつしかすがりついて泣いていた。


 夕食の時間になってもジョーヌは部屋から出てこなかった。ノックをしても返事はなく、心配した侍従たちはドーラに相談したが、
「若様はお具合が悪いとおっしゃっておいででした。お薬を召し上がってお休みになっています。大丈夫、私にお任せなさい。」
 彼女はそう言って場をおさめた。

 闇の濃くなる時刻、ドーラはひとりワゴンを押してジョーヌの部屋へ向かった。ナプキンの下にあるのはパングラタンとフルーツだった。鍵のかかったドアをドーラは小さくノックして、
「若様。お食事をお持ちしました。ここをお開け下さい。」
 二度は叩かず待っていると、ひそやかな音がして鍵がはずされるのが判った。彼女は中に入った。灯りはテーブルの燭台だけで、ジョーヌの表情は見えなかった。
「こちらでよろしゅうございますか?」
 無言のYesを確かめてドーラは皿を並べた。グラスを置きワインを開けていると、ジョーヌはコトリとテーブルに着き静かにシルバーを取り上げた。彼の好みの味になるよう料理長に命じたグラタンを、ジョーヌは綺麗に平らげた。

「お寂しゅうございますか、若様。」
 グラスを正面に押しやりながらドーラは言った。ジョーヌの気配は動かなかった。
「お心の真ん中に、ぽっかりと穴があいておいでですね。これほどおそばにおりながら、私にはどうすることもできないのが悲しゅうございますが、一つだけ判ることがございます。それは若様をお救いになれる方が、この世界にたったひとりいらっしゃるということです。」

 目だけを動かしてジョーヌはドーラを見た。ドーラは淡々と続けた。
「それは他でもない、若様ご自身でございます。今、若様がお身を沈めていらっしゃるのは、孤独という名の椅子にございます。一度その椅子に座ってしまった者は、誰にも助け上げることはできません。誰が手を差しのべようとも、座っている者には見えないからです。つらくても苦しくても、ご自分でそこから立ち上がろうとなさらなければ、若様はずっとお寂しいままですよ。」
「…。」
 ジョーヌは黙っていた。感情の嵐はもう彼を吹き過ぎていて、そこにいるのはいつも通りの、穏やかで思慮深いジョーヌであった。

「人は皆、一人では生きていけないのでございます。多くの人間が集まれば、時に意のままにならぬことも出てまいりましょう。正義も真実も、ひとつではないのです。10人の人間がいれば10通りの性格があるように、そこには10通りの真実があるのです。若様にも、父上様にも、先ほどの侍女にも、そしてこの私にも。みなそれぞれの真実の上に、人生を築いているのです。でもその人生のお城の回りに、人を拒む高い塀を巡らせてしまうのは、ドーラはよいと思いません。門は常に開けておかなければ。違う真実をも受け入れて初めて、他人や世界を見る目が磨かれ、この子爵家をお嗣ぎになるにふさわしい“度量”を、お身につけることがかないましょう。ドーラは若様に、そういう大きな殿方になって頂きとうございます。」

 石のように動かないジョーヌの手に、ドーラはそっと手のひらを重ねた。
「エルザ様を、受け入れて差し上げなさいませ。あの小さなお体で、懸命に兄君を慕っていらっしゃいます。子爵家直系のご兄妹のお仲が、良いに越したことはございませんよ。」

 最後の一言を、ドーラはあえてつけ加えた。一種の大義名分を与えられた方が、人間は決心をつけやすいからであった。ジョーヌはまだ無言だったが、追いつめられるとひどく依怙地になってしまう彼の本質は、気持ちの優しさであり思慮深さであるとドーラはよく知っていた。
「そうそう、そういえばパイのデザートがございますよ。」
 口調を変えて彼女は言った。
「甘酸っぱく煮こんだリンゴをたっぷりと使った、それほど甘くないお菓子でございます。少しお召し上がりになりませんか? お皿に切り分けてお持ちしますが。」

「…うん。」
 ジョーヌは小さくうなずいた。かしこまりました、と行こうとしたドーラを彼は呼び止め、
「少し、じゃなくていい。いっぱい持ってきて。」
 その語尾は笑っていた。ドアを閉め、ドーラも笑った。


 初結いの儀式は正午からだった。ジョーヌが自室で支度をしていると、
「申し上げます。父上様からのご伝言にございます。」
 子爵の近習がやってきて部屋の隅でひざまづいた。
「何。」
 飾り帯を絞めながらジョーヌが聞くと、
「王宮よりお使者が参られまして、父上様は陛下の御許に祗候なさいました。つきましては本日の儀式、父上様の名代として、全てを若様にお任せになるとのことでございます。」

「何だって!?」
 ジョーヌは近習の方を向き、
「聞いてないよそんなの! 名代ってそんな、俺が? 今日の仕切りを何もかも、この俺にやれっていうのか!?」
「御意。」
「御意じゃないよ! そんな、急に言われても困るよ!」
 ジョーヌはうろたえたが、ドーラには子爵の腹の内が判った。彼女はジョーヌに歩み寄った。
「ご心配には及びません、若様。お打ち合わせは全てお済みなのでございましょう。父上のご名代、立派におつとめなさいませ。」

「そんなこと言ったってさぁ…。」
 ジョーヌの額に汗が滲みだすのを、ドーラは布で押さえてやって、
「若様なら大丈夫でございます。さ、サッシュ(懸章)をお付けなさいませ。」
 彼の傍らに控えていた侍女に目で合図した。侍女が捧げ持っているのはクリームイエローのサッシュ、子爵家嫡男のしるしであった。それを肩から斜めに懸けて、ジョーヌは姿見の前に立った。白一色の礼装で胸元にはカナリーダイヤモンドのブローチをつけ、豊かにレースをのぞかせた袖口に見える指先は、ほっそりと長くしなやかだった。
 ドーラは彼の背後に立って無言の溜息をついたあと、宝剣を額の高さに掲げてひざまづいた。ジョーヌは剣を腰のベルトにさした。

「凛々しいお姿でございます若様。お客様がたも皆、目を見張りましょう。自信をお持ちなさいまし。」
「そんな、見た目がよくってもさ…って自分で言っちゃったよ。いやちょっとさ、決まってるかなーなんて思って。やだな、なんか恥ずかしいこと言ってる? 俺。」
「まあ若様はお戯れを…。」
 侍女たちはひそやかに笑った。そこへ別の侍従が迎えに来た。
「申し上げます。お式の準備が整いました。皆様、広間にお揃いでございます。若様には何卒、お出ましのほどを。」
「…判った。」
 ジョーヌは笑いを消し、鏡の中の自分をきゅっと睨んで、
「行ってくる。」
 ドーラと侍女たちに告げ、部屋を出ていった。女たちは深く膝を屈めた。


 控室に、エルザはいた。侍女たちに囲まれ緊張の面持ちで、大人しく椅子に座っていた。ジョーヌの姿を見て侍女たちが一斉に礼をすると、エルザは怯えたように彼を見た。この日のために誂えたのだろう、つやつやしたレモン色の絹のドレスを着、痛くないようゆるく結い上げた髪には大きなリボンを結んでいた。近づいてくるジョーヌをエルザは見上げた。小さな口には薄く紅がさされていた。

「さ、行こう。」
 ジョーヌは手を差し出した。エルザはその手と彼の顔を交互に見た。
「お客さんが待ってる。みんなに君を紹介しなくちゃ。さ、立って。」
 ほら、と手を近づけても、エルザは立とうとしなかった。マーナは前に進み出て、
「姫様、どうなすったのですか。あんなにいっぱい練習して、ご挨拶はちゃんとできるようになったではありませんか。皆様、エルザ様に会いたくて集まって下さったのですよ。その方たちにご挨拶なさらなければ。」
 エルザはマーナの顔を見て、それからまたジョーヌを見た。

「大丈夫。僕が一緒に行ってあげる。」
 ジョーヌは身を屈め、エルザの手元に掌を伸ばした。
「だから怖くない。ね。みんなにご挨拶しよう。」
 エルザは動かなかった。助けを求めるようにジョーヌがマーナを見たその時、レモン色のドレスの小公女は椅子からするりと体を滑らせ、とん、と床に足をつくと右手でジョーヌの指をきゅっと強く掴んだ。少し湿った、暖かく柔らかい手であった。
「よし。行こう。」
 2人は並んで歩き始めた。


 子爵家大広間に集まった客たちは、用意された豪華な酒肴に目と口を楽しませていた。そこに短いファンファーレが響き、皆は正面にしつらえられた舞台に一斉に注目した。執事長が声を張り上げた。
「ヨーゼフ・グロサリア・フォン・ヘルムート様ならびに、エルザ・ビエンナ・フォン・ヘルムート様、おでましにございます!」
 わっ、と広間を埋める拍手に迎えられ、ジョーヌとエルザは舞台に登った。ジョーヌは大きく深呼吸して、挨拶の言葉を述べた。
「共に栄え来し、我らが佳き国の皆さん。父・ヘルムート子爵が不在のため、名代として私がこの場に立たせて頂きます。本日は当家の祝い事のために、かくも大勢の皆さんにお集まり頂き、心からの感謝を申し上げます。そして、えーと…今からですね、このエルザが皆さんにご挨拶を致します。一生懸命練習しました。ちゃんと言えたら、どうか拍手してやって下さい。当子爵家の長女。僕の妹のエルザです。」

 さらに大きな拍手が沸いた。ジョーヌはエルザを見下ろし、視線で前に出ろと促した。ジョーヌの指に巻きついている彼女の手に、いっそう力がこもった。
 何だか小鳥がとまってるみたいだな、と思った時、ジョーヌは自分の心に不思議な力強さが芽生えているのを知った。人さし指と中指を2本一緒に掴んで、まるでそれが世界でたった1つの信じるもののように握りしめているこの子を、今この場で支えてやれるのは自分だけなのだという思い。たとえ母親は違っていても、エルザと自分には同じ血が流れている。生まれ変わるまで切れることのない、強い強い繋がりなのだ…。

「さ、エルザ。」
 ジョーヌは彼女の横にしゃがみ、掌に余る小さな肩をそっと押さえた。
「大丈夫。僕がついてるよ。1歩だけ前に出て、ちゃんとお辞儀をするんだ。もしご挨拶の言葉を忘れちゃったなら、言わなくていいよ。この綺麗なドレスを皆さんに見せてあげよう。両手で裾を広げて、ぺこってお辞儀だけすればいい。ね。」
 背中を支え軽く押すと、エルザは足を前に出した。客たちが注目するのが判った。頑張れ!というジョーヌの心の声が届いたのか、彼女は作法通りにスカートを広げ、腰を屈めて礼をした。
「エルザ・ビエンナ・フォン・ヘルムートです!」
 よく響く高い声で彼女は言った。
「今日は、わたしのお祝いに来てくれてありがとうございました。これからも、どうかよろしくお願いします!」

 おお、と客たちは暖かくどよめいた。最後にもう一度礼をしたエルザに、万雷の喝采が贈られた。大役を果たした彼女は、くるっと振り向きジョーヌを見ると、いきなり駆けよってきて抱きついた。頬がふれ、衿にしがみつかれ、しゃがんでいたジョーヌはバランスを失ってしりもちをつきかけた。客たちは微笑みながら拍手を続けた。


 舞台を下りたジョーヌは、公爵夫妻や王家の使者など主だった数人の客たちに、エルザを連れて挨拶した。彼の手を掴んだまま辛抱強く連れ歩かれていたエルザに、やがてジョーヌは言った。
「さぁ、よく頑張ったね。もういいよ。あとは僕だけで大丈夫だから、エルザはもう部屋に戻っておいで。」
 よしよしと頭を撫でてやり、ジョーヌは侍従にマーナを呼ぶよう命じた。マーナはすぐにやって来た。

「エルザを休ませてやって。人いきれで疲れちゃったみたいだ。喉も渇いてるだろうしね。」
「かしこまりました。」
 マーナは深く腰を屈め、エルザのもう片方の手を取った。しかしエルザは動こうとしなかった。
「いかがなさいました? 姫様。」
 尋ねても答えはなく、エルザはジョーヌの顔をじっと見上げていた。
「どした? もういいよ、部屋でゆっくりお菓子でもお食べ。」
 微笑むジョーヌにエルザは言った。
「お兄ちゃまは? お兄ちゃまもお疲れでしょう? お部屋に行かないの?」

 ジョーヌは言葉を返せなかった。こんなに小さな少女なのに、エルザは自分を気遣ってくれている。お兄ちゃま、という響きの何という優しさ、暖かさ…。これほど可愛い妹を、どうして俺は嫌ったりしていたんだろう。両手を伸ばしてジョーヌはエルザを抱え上げた。
「大丈夫。お兄ちゃまは平気だよ。今日は父上がいないから、お兄ちゃまがお客様のおもてなしをしなきゃならないんだ。」
「そうなの? お父様がお出かけだから?」
「うん。だからエルザは、部屋でいい子にしててくれる? マーナたちと一緒に。いいね?」
 ジョーヌはエルザの目を見た。自分と同じ黒褐色の瞳であった。
「はい。」
 こくりとエルザはうなずいた。思わずジョーヌが頬にキスしたほど、賢く愛らしいしぐさだった。


 そのあとジョーヌは客たちの相手を、嫡男らしく一手に引き受けてこなした。まだ若い彼にはいささか気の張る大役だったが、父子爵の名代という立場では、こんな話も聞かされなくてはならなかった。
「ときに若様、先日父上様にお話したご縁談の件なのでございますが、若様としてはいかがお考えでありましょうや。」
「縁談?」
 グラスから口を離しジョーヌは聞いた。相手は内大臣であった。
「はい、さようでございます。ギスカール公国の外務大臣より、第4王子のご正室として是非ともエルザ様のお輿入れを願うと、かような申し出がございまして。」

「エルザを!?」
 ジョーヌは驚いた。初結いを迎えたばかりの彼女に、もうそんな話が来ているとは…。大貴族の宿命とはいえ余りにむごい気がして、話し続ける大臣の顔をジョーヌはまじまじと見てしまった。
「かの国の第4王子は当年6歳におなりでして、つい先日歯固めのお式を済ませられたそうでございます。お歳の頃はちょうどよき釣り合いにて、結構なお話ではないかと存じますが。これが第1第2王子となりますと政権がらみで色々面倒なこともありましょう。しかし第4王子なら既に王位には遠く、その分自由に政務にお就きになれます。そのようなお方のご正室様とあらば、エルザ様もお幸せでございましょうし、何しろ他国の王家とのご縁は、我が国にとっても御家にとっても、非常にめでたきことであるかと。……若様?」
 不快感をあらわに立ち上がったジョーヌを、大臣は視線で追った。

「どうしてエルザが幸せになると判るんだ。そんな、今から決められた政略結婚なんて…。これからいろんなことを経験して、大人になって、それから考えることだろう。なんで今日そんな話をするんだよ。祝ってやってくれよエルザの初結いを。そんな先のことなんて判んないじゃないか。父上だってそう言ったはずだよ。」

「いえ、父上様には、非常によい話だから前向きに検討したいとお言葉を賜っておりますが…。」
 気の利かない大臣は、ジョーヌの心中も察することなく言った。怒鳴りそうになるのをかろうじて押さえ、彼は大臣に背を向けた。
 今日は祝いの席だった。エルザの成長を寿(ことほ)ぎ、美しく貞節な女性になってほしいとの願いをこめて催される初結いの儀であった。何もこの日にそんな話をすることはないだろう、国のためだの家のためだの、エルザを何だと思っているんだ。内大臣ばかりか父上までも…。

 ジョーヌはベランダに出た。カーテンが広間の喧騒を仕切り、そこには爽やかな風の匂いと鳥のさえずりがあった。ジョーヌは手すりに手をついて、玉砂利を敷き詰めた広い前庭を見下ろした。正門へと延びる馬車道には無数の轍が刻まれて、招待客たちの乗ってきた馬車が左右にずらりと並んでいた。そのさまはジョーヌに子爵家の力を――地位を権力を人脈を財産を――無言で語り教えていた。

(それが、貴族の定めなのかな…。この城や財宝や大勢の召使いたち、そういうものと引き換えに俺たちは、何を失ってるんだろう。好きな相手と結婚すること、例えばそんな自然なことが、エルザには許されていないんだ。もちろん俺にもヴェエルにも、それにルージュにもロゼにも、みんな。)
 降り注ぐ午後の陽光を受けてきらきら光る馬車の屋根飾りが、ジョーヌには一瞬、黄金の棺に見えた。すぐそばの枝から数羽の鳥が鳴き声をあげて飛び立った。太陽の前をよぎる彼らの翼が、ジョーヌの顔に寂しげな影を落とした。


「ま、若様。」
 ドアの向こうに立っていたのがジョーヌだったので、イト・マーナは驚いた。反射的に腰を屈めた彼女に、
「エルザは?」
 部屋の中を窺うようにしてジョーヌは聞いた。どうぞ、とマーナは彼を招じ入れた。
「こちらでございます。もうお休みになっておられますが。」
「かまわない。顔を見にきたんだ。」
 居間を抜け、控えの間を抜けた奥の寝室にエルザのベッドがあった。侍女が1人ついていたのをマーナは下がらせた。天蓋付きの小型のベッドの中、大きな縫いぐるみを抱きしめてエルザは熟睡していた。

 ジョーヌは傍らの椅子に腰を下ろし、エルザの髪を撫でた。こんな小さな体にのしかかる大貴族の宿命を思い、彼の横顔は悲しげに曇った。マーナは彼の背後に立ち、言った。
「本日はエルザ様のお式、ありがとうございました若様。お部屋に戻られてからもエルザ様は、兄君に優しくして頂いたと、それはもう嬉しそうに私どもにおしゃべりなさいまして。」
「そうか。」
 ジョーヌの表情は笑顔に変わった。マーナはさらに、
「いつぞやのご無礼を、わたくしはお詫びしなくてはなりません。立場もわきまえずにあのようなことを申し上げ、ドーラ様にもお叱りを賜りまして―――」
「いや、謝るのはこっちだ。」
 途中でジョーヌは遮った。

「あの時お前に注意されなかったら、俺は自分の勝手さに今でも気づかなかったかも知れない。勇気を出して言ってくれてありがとう。誰も叱ってくれる人がいなくなったら、それはすごく不幸なことだよね。」
「若様…。」
 マーナは言葉を詰まらせた。
 人間はみな、余裕のない時にこそ他者に攻撃的になる。他者がみな無礼で愚かで忌まわしく思えるならば、それは自分自身が何かを誤っているからに他ならないのだ。自らの心が安定し穏やかである時、人は謙虚で寛容である。また、何か大きなものを1つ乗り越えた時、人はこのジョーヌのように、素直で冷静な心をもって他者に感謝できるのである。

 その時ドアの外に複数の気配が動き、囁き交わす人声も聞こえてきた。マーナはノックより先にドアをあけた。先ほど下がらせた侍女かと思えばさにあらず、
「ヨーゼフ様がお見えなんですって?」
 立っていたのはカタリーナだった。
「ま、奥方様…。」
 マーナは腰を屈め、ジョーヌは振り向いた。寝支度をしていたらしいカタリーナは、急いで結ったに違いない髪のほつれを気にしつつ、深々と頭を下げた。
「このような時刻ゆえ、ご無礼な姿をいたしております。どうぞお許し下さいませヨーゼフ様。」
 まるで主に対するかの行為に、
「よして下さい。」
 ジョーヌは立ち上がり歩み寄った。

「お顔を上げて下さい。さぁ。失礼なのは急に来た僕の方です。さっきエルザが疲れていたから、それがすごく気になって。」
 差しのべられた彼の手を滅相もないと断って、カタリーナは背中を伸ばした。小柄で色の白い、品のいい美女だった。
 四角四面に筋立てれば、今や正式な子爵夫人である彼女は嫡男よりも格上の立場にある。けれどこうして自ら1歩下がり、控えた態度をとるカタリーナを目の当たりにして、ジョーヌは彼女を聡明と噂する世間の目が正しいことを知った。

「お休みになるところだったのでしょう。慌てさせてしまって済みませんでした。これで失礼いたします。」
 美しき礼には、礼をもって返す。それが由緒ある貴族のたしなみだった。ジョーヌは姿勢を正し、胸に掌を当てて彼女に頭を下げた。確執の溶けた瞬間であった。カタリーナは目を潤ませて微笑んだ。
 去りぎわに戸口で立ち止まり、ジョーヌは言った。
「父上のこと、よろしくお願いします。それから僕の妹のエルザも。よかったら僕の部屋へも遊びに来て下さい。僕もエルザに会いに来ます。」

 自室に戻ったジョーヌをドーラは待っていた。彼は湯浴みし夜着に着替え、ワインを1杯だけ運ばせてひとり寝室に入った。窓に向かってひざまずき短い夜の祈りを捧げ、それからグラスを手に取ってジョーヌは空を見上げた。まさに降るような星空だった。

(心って不思議なものだな…。)
 ワインに唇を浸し、彼は思った。
(雲ってしまうと何も映さない水鏡みたいだ。自分で覆ってしまったらなおさら、何も見えなくなってしまう。石を投げられれば波紋が出来るし、汚れて穢(きた)ないものが流れ込んでくることもある。そのたびごとに色が変わって、波立ってみたり凪いでみたり、とても不思議な水鏡だ。だけど、その上に広がる空は大きい。たった1つの水鏡には映しきれないほどに大きい。空の全部は無理であっても、なるべく多くを映していけたら、心にとってはそれが一番の幸せなのかも知れないな…。)
 ジョーヌはグラスをのぞきこんだ。ふと、エルリーケの面影が浮かんだ。

(あの子にも、俺はひどいことをしたな。勝手に夜中に呼び出しておいて、送りもしてやらなかった。女の子だけで夜道を帰るのはきっと怖かっただろうな…。)
 ごめんねと心で謝って、ジョーヌは思いついた。明後日は日がいいのでまたパンを焼く予定である。ぶどうパンに胡桃パン、それにオレンジの皮の砂糖着けを入れた菓子パンも特別に作って、エルリーケに持っていってやろう。”お城の若様”が来たからと女友達に自慢したいならすればいい。彼女が見ていたのは偶像にすぎなかったとしても、あの手紙はジョーヌが貰った初めてのラブレター。自分を想う気持ちを切々と書き記した文(ふみ)は、遠い日に母がくれて以来、誰とも交わしたことのないものだった。
 エルリーケに会いに行こう。好きだの嫌いだのは抜きでいい、今度こそ落ち着いて話をしよう。ジョーヌはシーツを頭からかぶり、目を閉じた。母の笑顔を久しぶりに夢に見た。


 翌々日、ジョーヌはいつものように馬車に乗りワイス通りの公園に向かった。傍らのバスケットにはエルリーケのために取り分けたパンが入っていた。快晴で微風のある心地よい日だったから、ジョーヌは窓をいっぱいに開けさせ、景色を楽しみながら振動に身を任せていた。馬車のすぐ横にはウィルの馬がいた。
 あと1つ角を曲がればワイス通りだという地点で、彼はジョーヌに言った。
「おやあちらの方に何か人だかりがしておりますな。何か催しでもあるのでしょうか。」
「どこどこ?」
 ジョーヌは身を乗り出して、
「ほんとだ。賑やかだね。何やってるんだろう。」
「今日は祝いごとにはよい日ですからね。」
「ちょっと寄ってみようか。村の人たちがみんな集まってるとしたら、このパンはそこで配ったっていいし。」
「そういたしましょうか。」
 ウィルは御者にその旨を伝え、馬車は進路を変えた。

 近づくにつれ賑わいの正体は結婚式であると判ってきた。小さな教会の前には花籠を持った村娘や、月桂樹の枝を持った男たちが大勢群れていて、花嫁花婿が建物から出てくるのを待ち受けていた。
「ああ、やはりそうでしたね。奇遇なことでございます。この場で若様にパンを頂けるとなれば、それは村人たちにとって何よりの祝福。若い2人への最高のはなむけでありましょう。」
「うん。じゃあすぐに準備して、ウィル。」
「かしこまりました!」
 ウィルは馬にムチを当て教会に駆けつけて、
「皆の者よく聞け! 今ここに若様がお見えになる! 今日の佳き日を祝って皆にパンを下さろうというのだ! 心して頂戴するように!」
 わっ、と群衆は拍手をした。

 左右に従者を従えたジョーヌの手から、村人たちは次々パンを受け取った。粗末ながら全員が晴着を着ており、表情も素晴らしく明るかった。同じ笑顔を返しつつジョーヌはテーブルの下に隠したエルリーケのためのパンを気にしていた。
 その時教会の鐘が鳴り響き、大きく開いたドアから主役の2人が姿を見せた。場は喝采に包まれた。ジョーヌは目を疑った。花冠をつけベールを引いている花嫁は、他ならぬエルリーケその人であった。

 呆然と言葉を失ったジョーヌの耳に、近くにいた男たちの会話が聞こえてきた。
「やれやれようやくゴールインしたか。長いつきあいだったもんだな。」
「何年になるんだ? ガキの頃からだろうあの2人は。」
「隣同士だからな。10年は越えてるだろう。10年間恋愛してたんじゃ、結婚なんて今さらだろうな。」
「てことは子供も月足らずだぞこりゃ。」
「それに違いないや。」
 どっと笑う一同の横で、ジョーヌは情けない顔になり、
「嘘だろおい…。オトコいたのかよ…。それなのにあんなラブレター俺によこすなんて、何考えてんだよお前…。これじゃ俺、丸っきし馬鹿じゃん…。」
 立ちつくす彼に気づきもせずに、エルリーケは祝福の紙吹雪を浴びて、夫の腕を抱きしめていた。


 人気(ひとけ)のない公園にジョーヌはしゃがみこみ、パンをちぎっては投げていた。投げる先には雀と鳩が群れていて、嬉しそうにつついたりくわえあったりしていた。ジョーヌの目の焦点は合っていなかった。機械的に手だけが動いていた。
 遠くから1騎の蹄の音が近づいてきた。ジョーヌは顔も上げなかったが、馬の主は彼に気づいたらしく、手綱を操って公園の中に入ってきた。
「何やってんだよジョーヌ。」
 その声はヴェエルであった。ひらりと地上に飛び降りるや、
「お前、何もったいないことしてんの! そんなうまい菓子パン、鳥になんかやんないで俺にくれよぉ!」
 ジョーヌが何か言う前にヴェエルはバスケットの中に手を突っ込み、つかみ出したパンにがぶっと噛みついた。
「うめー! チョーうめーじゃん! なんで自分が食わないのジョーヌ!」
「…うるさいよ。」
 ジョーヌは鳥たちにパンを投げ続けた。

「何だよ、何があったんだよ。さては誰かにフラれたのかぁ?」
 どん、と体をぶつけられてジョーヌはふらつき、
「お前には関係ないだろ。ったくそんな汚い手でさぁ、よく平気でものが食えるよな。」
「平気だよこんくらい。」
 両手に1つずつ持ったパンをヴェエルはたちまち平らげて、
「おっ、まだあるじゃん。」
 バスケットから残りのパンを取り出した。ジョーヌは彼を見て溜息をついた。
「お前ってさぁ、どうしてそうなの。落ち込んでる俺のそばでそうやってバクバクバクバク…。少しは遠慮とかしろよ。」
「いいじゃん、硬いこと言うなよぉ。」
「俺はね、お前のイメージとかじゃなく、お前の本質が嫌いなんだよ。」
「何言ってんのこの人。意味判んねー。」
 ヴェエルは横目で笑い、コロネのチョコレートを指で掘って口に入れた。

「あーうまかった! ごちそうさまぁ。」
 あっという間に6個のパンを食べつくすと、ヴェエルは手をはたいて立ち上がりつつジョーヌの腕を掴んだ。
「ほら、何いつまでもしゃがんでんだよ。行くぞ。」
「行くぞってどこ行くんだよ。悪いけど俺は今、お前の遊びにつきあってる気分じゃないんだ。」
「違う違う遊びじゃない。これからルージュんち行くの。さっき遣いが来てさ。聞いてない? 公爵家の息子が見つかったんだって。」
「…マジ? 生きてたの?」
 ジョーヌは表情を変えた。
「うん。なんか北の方の町の、平民の家にいたんだって。公爵家の執事が見つけたらしいよ。」
「うっそ。見つかったんだ。2歳の時にさらわれたんだよね。」
「確かね。でも肩に青獅子の入れ墨もちゃんとあって、本物に間違いないんだって。」
「へぇぇ…。じゃあそのうち公爵家に帰ってくるんだ、その子。」
「そうだよ。王位継承権も持ってるシュテインバッハ家の若様だ。俺らのボスだよ。」
「どんな奴なのかなぁ。ルージュと同い年だっけ。」
「だと思った。…なんて話はあとでいいじゃん。ルージュが待ってる。ロゼも来るから早く行こうぜ。」
「あ、ちょっと待って。」
 手にしていたパンの残りをジョーヌは細かくちぎり、
「これ、ここ置いとくからな! 自分らで分けて食えよ!」
 ヴェエルの後を追って馬の腹を蹴った。鳩たちは首をかしげて見送った。


 かくしてこの物語は『クインテット』本編に続く。少年時代のジョーヌが経験した、1つの愛すべきエピソードであった。

< 完 >

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