★ クインテット番外編 『マレーネの選択』 ★


 夜の暗闇にはらはら降りしきる、雪と見まごう花びらの下(もと)でロゼは彼女を待っていた。薄くれないのブラウスの肩に黒絹のマントをうちかけて、掌にもてあそぶ乗馬用の革手袋に注がれていた視線が、草の褥を踏んで近づく彼女の―――マレーネの気配に気づいた。
 微笑む腕に迎え入れられて、はずむ息を彼女は懸命に鎮めた。
「今夜は会えないかと思ったよ…。」
 耳元に囁かれる彼の声は、甘く熱く心を溶かす。シフォンのショールの胸元を押さえている彼女の指を、ロゼは手の中に捕らえた。そのまま指先にくちづけながら、
「気が狂うほど、君に会いたかった…。」
 吐息で焼かれた指先をマレーネは彼の首に回した。
「わたくしも、お会いしとうございました伯爵。」
 ロゼは彼女の細い顎を指で掬い、
「僕のことは、ルイーズと呼んでいい。恋人だけに許す名前だ。」
「ルイーズさま…。」
 くちづけのかたちに傾けた首に、淡いべにいろがふたひら、みひら…―――

「―――喝っ!!」
「ふぐぅっ!」
 背中の真ん中をヒナツェリアの膝で押され、マレーネはバッと目をあいた。そこは伯爵家の敷地内に建てられた薙刀道場で、あたりには練習中の女たちの勇ましい掛け声が響いていた。
「全く、あれしきの突きを受けただけで気絶するとは鍛錬不足な。そんなだからいつまでたっても初級試験にすら合格しないのです。もっとしゃんと気合を入れなさいマレーネ!」
 どん、と薙刀の尻で床を叩くヒナツェリアをマレーネは見上げた。ひっつめに結い上げた髪に長い鉢巻きを結び、スカートの裾を腰にからげた姿は、
「…鬼のようだスな…。」
「何か言いましたか?」
 キッ、と睨みつけられてマレーネはしぶしぶ立ち上がった。
「ッたく、もうちょっとで接吻できただスに、計ったように邪魔しやがるだスな…。」
「何をぶつぶつ言っているのです。ああもうみっともない、ヨダレをお拭きなさい! さぁもう1度下段の構えから素振りです! はい構えてっ!」
 ふぅ、と短く息を吐き、マレーネは姿勢をとった。


 その日の練習を終えた侍女たちは、道場の裏の井戸で汗を流し服を着替え、半数の者はすぐに持ち場に、シフト上休憩時間を取れる者たちは台所の隣の部屋に集まってティータイムと洒落こんだ。
 流行の服の話や芝居の話、他人の噂話とお決まりの流れに従って、やがて話題は伯爵家の主、ロゼのものに変わった。
「本当に、何てお美しいお方なのかしら…。」
 女たちは一様に溜息をつき、もしも願いが叶うのならば、一夜でいいからお側に上がりたいと異口同音に言った。

「でも無理よね、あたしたち下働きには雲の上の御方だわ。」
 干菓子を口に入れながら1人が言うと、
「それもこれもあの女官長が邪魔するからよ。そりゃあ伯爵様のご信頼は厚いし、確かに仕事もできる人だけど、いくら先代の女官長の身内だからって、ちょっと大きな顔しすぎじゃない?」
「だいいちなんであの人だけ、伯爵様をミドルネームで呼ぶわけ? 礼儀礼儀ってうるさいくせに、礼儀知らずは自分じゃないのよねぇ。」
「全く、その通りだス。」
 うんうんとマレーネもうなずいて、
「伯爵様をそのお名前で呼べるのは、特別なご寵愛の証だス。これは有名な話だスよね。」
「そうよそうよ。王家にもつながるような大貴族のご婦人だって、伯爵様をそのお名でお呼びしたいがために凌ぎを削ってるっていうじゃない。なのに何なのよねぇあの人ったら。」
「ま、あれはご寵愛でも何でもない、例外だスな例外。物事には必ず例外があるだスよ。」
 きっぱりと言い切ったマレーネがおかしいと皆が爆笑したところへ、
「ちょっとちょっといい知らせよ!」
 1人の侍女が駆けこんできた。

「今から伯爵様が公爵家へお出かけになるんですって! 玄関からお馬車にお乗りになるわ!」
「なにっそれはチャンスだス! 行くだス行くだス早く行くだス!!」
 一同は先を争って裏庭に出、茂みをつたって物陰に潜んだ。公爵家ご訪問とあれば馬車は家紋入りの正式なもので、装いは軽くとも略正装になるはずである。馬車は横付けされ御者は膝まづいた。まもなくこの城の若き主が、それに乗るため姿を現すはずだ。下働きたちは息をつめて見守った。


 ヒナツェリアはロゼの私室で、彼の身支度を手伝っていた。姿見の前に立った彼のすらりとした背にマントを着せかけ、膝立ちに屈んで裾を整え袖口のレースを整える作業は、彼女にとってまさに陶酔のひとときであった。
「今夜はそんなに遅くならないと思うから、食事は戻って食べる。用意しておいて。」
「かしこまりました。」
「それと今日明日のうちに、ロワナ国大使の書状が届く予定だ。もし僕の留守中に届いてしまったら、使者には非礼を詫びて、丁重にもてなしてやってくれ。礼の品はこのあいだ用意してもらったものでいい。頼んだよ。」
「はい。お任せ下さいませ伯爵。失礼のないようおとりはからい致します。」
「うん。」
 ロゼは鏡の中の自分をもう1度確かめてから、ふわりとマントをなびかせて歩き始めた。ゆるく焚きしめた香の匂いが、水脈(みお)の如く彼を追った。

「いらしたわよいらしたわよっ!」
 物陰の茂みの中で、団子状に折り重なった下働きたちは色めきたった。玄関を出てポーチを横切ったところ、馬車に乗る直前の位置でロゼは立ち止まり、侍従長と何か話をしていた。遮る邪魔ものは何もなく、距離こそあれ彼女らは、正装したロゼの立ち姿を真正面に見ることができた。
「ああ、何てお美しい…。何て素敵な御方なの…。」
「本当に夢のようねぇ…。先月お城に戻られた公爵家の若様も大天使のようにお美しい方だそうだけれど…。」
「いいえ、私たちの伯爵様よりお美しい方なんてこの世にいらっしゃらないわ。」
「ほんとだス。いらっしゃるはずがないだス。」
「長くてまっすぐなおみ脚に、あの指の細いお手が…ああっ、たまらないわっ!」
「しーっ、声が大きいわよあなた! 女官長に気づかれたらどうするの!」
 彼女らは人さし指を口の前に立てつつ、互いに顔を見合わせた。そこで誰かがつぶやいた。
「でも、私たちには遠い御方ねぇ…。」
 ロゼの姿は車中に消えた。大勢の上臈たちに見送られ、馬車は走り始めた。

 誰かが何げなく言った一言、『私たちには遠い御方』という言葉が下働きたちの心を沈ませた。皆は言葉なくそれぞれの場所へ散り、マレーネは狭い自室に戻った。
 下働きたちの寝起きには2〜3人ごとに1室が与えられていたが、彼女と同室の者は勤務中で、部屋にはマレーネ1人であった。粗末なベッドにマレーネは仰向けになった。
(遠い御方、だスねぇ確かに…。思い続けても届かない方だスよねぇ…。)
 はーっと溜息をついて寝返りをうった時、ノックの音がしてドアがあいた。やって来たのは門番だった。
「おい。いま飛脚が来てあんたにこれを持ってきたよ。マレーネ宛てだって言われたから預かったけど、何だいこれでも字なのかい。」
 ほら、と手渡された封筒に書いてあったのは、
「おおー! こりゃ漢字っつうもんだスよあんた! 実家からの手紙だス! なつかスィだスねー!」
 マレーネはビリビリと封を切った。

 中の文は何年ぶりかで見る縦書きだった。興味深げにのぞきこんでいた門番は、形象文字にしか見えない東洋の字に飽きてすぐに出ていってしまった。書きよこしたのはマレーネの母だった。きょうだいや親戚や友人隣人のことなどを細かく述べた文には、最後になって本題が述べられていた。それはマレーネの縁談についてであった。
 父の友人である大地主が、次男坊の嫁を探している。歳の頃も近いし、どうだろうかと向こうが持ちかけてきた話である。条件は最高だし何より本人の人柄がいい。お前ももういい歳なのだし、いい加減にうちへ帰ってきて結婚したらどうだ。お父さんも体が弱ってきて、事あるごとに孫の顔が見たいと言っている…云々。

 同封された肖像画をマレーネは広げてみた。可もなく不可もない、実に似顔絵の描きづらそうな男が笑っていた。ただ確かに人柄はよさそうな、包容力のありそうな男であった。
 母はさらにこう綴っていた。
『若いうちは何でもやりたい事をしなさいと、遠い異国にあなたを送り出しました。でもねアキコ。ものには潮時というものがあるのよ。引き際を間違えると女は惨めです。潮時には色々なものが自然とその方向へ流れます。それに逆らわずに、しっかりと将来を見極めて下さいね。』

「…。」
 マレーネは手紙をたたみ、再びベッドに寝転んだ。右にごろり、左にごろりとしながら溜息をつき、彼女はぶつぶつつぶやいた。
「潮時、ちゅわれてもなぁ…。いつがそうなのかなんて判んないだスよねぇ…。」
 両手の甲をマレーネは顔の正面にかざしてみた。荒れているのは仕方ないとしても、若さの持つ輝くような張りと艶は年々彼女の肌を去っており、“将来”の2文字にも希望よりはむしろ、不安と惰性と諦めと守りの意識とを、持つようになっている自分がいた。

 交代の時間がきて持ち場についても、マレーネは事あるごとに溜息を漏らした。皿を洗いながら、ジャガイモの皮を剥きながら、ダスターの山を干しながら、うつろな目を虚空に向けている彼女に、
「どうしたの。珍しく静かね。」
 声をかけてきたのは中堅侍女のトモーモであった。
 伯爵家の侍女には大きく3つの階級がある。ヒナツェリアを筆頭に、ロゼの側近く仕える上臈たち。ロゼに言葉を貰うことはできないが、屋敷の中の庶務を担当する中堅たち。その下の下働きは屋敷内のごく一部にしか出入りを認められず、居室に踏み入るなどは言語道断の行為であった。そんな下働きたちに命令を伝えるのは主に中堅侍女の役割であるのだが、角が取れたトモーモの人柄は、多くの下働きたちの信頼を得ていた。

「あなたがそんなだと気持ちが悪いわ。何かあったの?」
 トモーモはダスター干しに手を貸しながら聞いた。マレーネは作業を再開しつつ、
「嫌だスな、いつもわだスはそんなにうるさいだスか?」
「うるさくはないけど、静かではないわよね。元気のモトみたいな人だものあなたは。」
「褒められてるだスかけなされてるだスか…。」
「ほらまたそうやって溜息なんかついて。具合が悪いんだったらもうお上がりなさい? 女官長には内緒にしておいてあげるから。」
「いや具合は悪くないだス。」
「判った、じゃあおなかがすいたんでしょう。」
「違うだスよっ!」

 声を荒げてしまったマレーネは、すぐにハッと気づいて謝った。いいのよ、とトモーモは微笑み、それから黙って手を動かした。沈黙に促される気がして、マレーネはぽつりと言った。
「ちょっと…判らなくなってしまったんだス。」
「判らない? 何が?」
「人生とか夢とか将来とか、そういうことだス。実は実家から手紙が来ただスよ。」
「まぁそうなの。よかったじゃない。」
「よかったんだスが、そこに縁談のことが書いてあって。」
「誰の?」
「…そりゃわだスのに決まってるだスが。」
「ああそうね、失礼。それで?」
「母親がねぇ、いろいろと言ってきただスよ。それを読んで考えこんだだス。人間の幸せって何なんだスかって。」
「そうだったの…。」

 トモーモはいたわり深い目でうなずいた。聞き上手な女だった。マレーネは話し続けた。
「結婚して、子供を持って、穏やかな家庭を築くのが女の幸せなんだスかねぇ…。わだスも小娘の頃にはそんなものくそくらえと思って、遥か海の彼方のこの国に来ただス。嵐で難破しかけた外国船が、神奈川の港に入ってきただスよ。わだスは港で働いてただス。それで船長に頼んで乗せてもらって。」
「ああ、それでベルリア国に着いたのね。」
「そうだス。そこうやってこのお城へ来たんだス。」

「素敵な冒険家ねぇ、あなたは…。」
 感心するトモーモにマレーネは苦笑いした。
「いやいや若かっただス。無鉄砲なだけだス。」
「そうね、無鉄砲は当たってるわね。」
「だからそうやってすぐさま肯定しないでよだス。」
「ああごめんなさい。それで何なの、あなたは今迷っているの?」
「迷ってるっちゅうか、どうするべきだスかねぇ…。」
「そういう時は素直な心で、自分自身に問いかけるのが一番よ。」
 トモーモは姉のように微笑み、
「あなたの望みは何なのかしら。あなたの夢。あなたの目標。もしかしたら今のあなたは、それを見失ってしまったのかも知れないわね。」
「見失った、だスか…。」

 思い当たるふしがあるのか言葉を切ったマレーネに、トモーモはアドバイスを続けた。
「もしも見失ってしまったのだとしたら、道を変えてみた方がいいかも知れないわよ。がむしゃらに現在の道を行くことだけが、賢い方法ではないわ。」
「…。」
「意地を張ったり見栄を張ったり、そういうのが一番よくないと思う。」
「かも知れないだスな…。周囲に必要以上に気を使ったりするのも、場合によっては善し悪しだスか。」
「そうですとも。新しい道があなたの前に、今、拓けたのかも知れないじゃないの。勇気を持って踏み出すべきよ。」
「やってみねば人間、判らないだスよね。」
「その通り。まずはその人に直接会ってみることだわ。」
「だスよなぁ…。」
「悩んで迷ってうじうじしていても何も変わらないのよマレーネ。踏み出しなさい、次のステップ。」
「トモーモ様…。」

 瞳をうるませているマレーネの手を、トモーモはしっかりと握った。が、だから祖国にお帰りなさいとトモーモが言おうとした寸前、マレーネは天に両拳を突き上げてこう叫んだ。
「よっしゃあ決めただス! わだスは初志を貫くだスっ! 艱難辛苦が雨アラレと降り注ごうとも、愛するお方にこの気持ちを伝え、是が非でも想いを遂げるだスっ! あんな女官長ごときに誰が負けるもんだスか! ガンバ・マレーネ全速前進!! 目指すは伯爵夫人だス!!」


 思えばマレーネはこの時代に地球の裏側から船に乗って、遠い異国へやってきた女である。その行動力は並外れたものだった。一夜のうちに彼女は目標の早期達成のための行動計画を作り上げ、まずは城の内部の造りを把握することから実行し始めた。庭掃除に当たっては竹箒をかついで裏庭から中庭までぐるり一周し、窓の位置と方位からロゼの居室はあのあたりと見当をつけた。
 天敵ヒナツェリアの控の間は、ロゼの居間がある南の棟の一番手前にあった。つまりなんぴとたりともその前を通らずんば彼の部屋には近づけないようになっているのだが、
(ふふん、甘いだスな。)
 マレーネは自分で書いた手書きの見取り図を前にニヤリと笑った。

(伯爵様のおベッドにたどりつくためには、廊下しか通り道がないと思うのは誤りだス。この世の中には天井裏というものがあるだス。そしてその天井裏を掃除するのは下働きの役目だス。天の心は我が上にあるだス。女官長がぐうぐう眠っている時を見定めて、わらわは行動開始するだス!)

 マレーネはさらに掃除に精を出した。他の者が嫌がるような汚れ場所や、見落としがちな狭い場所などをせっせせっせと掃除した。下働きたちは皆、偉いわねぇだとか一体どうしちゃったのだとかの噂はしても、まさか彼女が掃除にまぎれてロゼの寝室への秘密の通路を着々と確保しているとは思わなかった。

「最近ずいぶんと竈(かまど)の火の回りが早いのですね。」
 ある日、城内定期チェックのため調理場に降りてきたヒナツェリアは言った。
「通気口が古くなったせいか風通しが悪くなっていたのを、職人を雇って直させようと思っていた矢先に…。誰か下男に指示でもしたのですか?」
 尋ねられた女官の1人は答えた。
「そういえば先日、下働きがここにもぐって何やらいたしておりましたが、修理をしたのだとすると褒めてやるべき事柄ですわね。」
「下働きが、ですか…。」
 ヒナツェリアは何かを思う表情になって言葉を切った。


 1週間かけて天井裏の侵入路を確保し、月のない夜を待ってマレーネは行動を開始した。
 長いスカートでは無理なので無断拝借した下男の服を着込み、東洋風にほっかむりをした。衣装は動きやすければいい。ロゼの寝室の天井についてしまえば、服などはただの邪魔な布きれだったから。

 マレーネはまず暖炉にもぐりこんで煙突内をよじ登った。今の季節は火を入れないから出来る技であった。途中に1個所、調理場の竈とこの煙突が交わるところがあって、そこからはさすがに熱い空気が(だがこの夜中に調理はしていないのでしょせんは余熱にすぎない)昇ってきていた。額に滴る汗を、マレーネは手の甲でぬぐった。

 屋根の上に出た。彼女は四つんばいになってかなりの距離を進み、やがて天井裏に通じる小窓に辿り着いた。鍵は中からはずしてある。音をたてないようにそれをあけ、よっ、と身を滑り込ませると、低めの中腰で何とか歩けるくらいの通路が細長く続いていた。カチカチと火打ち石を打って、マレーネは手持ちの燭台に火を灯した。チュウと鳴いたネズミにしっ!と指を立て、彼女は目的地へ向かって歩き始めた。

 ロゼの寝室の天井まであと10メートル、の地点にさしかかった時であった。クッ、と何かが足首に引っかかった。お?と思った次の瞬間、マレーネの心臓は跳びはねた。

 鼻先20センチのところに真横から、ズバッ!と音をたてて長槍が突き出された。1本や2本ではなかった。将棋倒しのように手前から奥へ、右左右左右左右!と刃が空(くう)を貫いた。さらに天井からは短剣の逆剣山が、日光江戸村の忍者屋敷の如く戸板返しであらわれた。
「そこな曲者! もう逃げられません観念おし!」
 響いた声はヒナツェリアのものだった。どうしてあやつがここへ、と思ったマレーネは傍らに口をあけている奇妙な管に気づいた。
「こっこれは伝声管だスな! しまった謀られただス! 逃げねばだスっ!」

 マレーネは昆虫を思わせる動きで通路を戻り、小窓から外に出ようとしてハッとした。テキはおそらく手の者を従えて中庭に出ているに違いない。そこへ姿を見せでもしたら、たちまち薙刀の餌食になる。悔しいがあの薙刀さばきには、さしもの自分もかなわない。
 くっ、と唇を噛んだマレーネは、ええいままよ、と意を決してそのまま屋根裏の通路を這い進んだ。この先にはもぐったことはなかった。しかし彼女の見当ではどこかに降り口があるはずだった。おめおめと天敵に捕らまえられるよりは、わずかな可能性を信じて活路を求めてこその冒険家マレーネである…!と踏み出した足がガクンと抵抗を失った。
 しまった!と思った時は遅く、彼女の体は垂直落下した。一瞬全てを諦めて南無阿弥陀仏を唱えた背中は、ぶわさっとクッションに埋まって3回跳ね返った。

「な、な、何だスかっ!?」
 トランポリン状態でマレーネはじたばたした。そこは誰かの部屋の中で、彼女が落ちたのはベッドの上だった。腹ばいで落ち着きぜいぜいと息をしずめ、恐る恐るあたりを見回してみると、
「およ?」
 壁には後世でいうところのポスターが貼られ、
「こ…これはまた何と美しい伯爵様の絵姿…。となるとここは女官長の部屋で、これがウワサの“写るンです”だスかっ!?」
 このベッドから女官長は、夜な夜なこれを見つめて眠りについているのかと思うと、
「おのれェ…。カッパらってやるだスかなこれ…。」
 しかし今はそれどころではない、とマレーネはすぐに思い直した。曲者を捕らえるためにヒナツェリアが外に出ているこの隙を逃す訳にはいかない。マレーネは窓をまたぎ越し、ポーチ柱をよじ降りた。


 翌日、下働きは全員薙刀道場に集まるようにとの女官長命令を受け、マレーネは同僚たちとともにその場所に赴いた。
 皆、何の話があるのだろうとざわめいていたが、マレーネには予想がついた。やがて立ち現れたヒナツェリアは、一同をゆっくりと見回しつつ口を開いた。
「昨夜、何者かがお屋敷内に侵入し、よからぬ企みを為そうといたしました。幸い、事に至る前にわたくしが気づきましたゆえ、ほうほうの体(てい)で逃げ出したようですか。」
 全員に語りかける口調ではあったが、ヒナツェリアはただ1人、この自分を牽制しているのだということがマレーネにはよく判った。

(何と言われようとも顔を見られた訳ではないだス。証拠は何もないだスよ。)
 空とぼけてマレーネは聞き流した。ヒナツェリアは声を大にして言った。
「今回は初めてなのでわたくしも大目に見てあげますが、もし、またもこのような無礼をしでかすのであれば、その際には徹底した追及と完膚なきまでの叱責を与えます。皆、そのつもりでおるように。いいですね!」
 一同は平伏し、マレーネもそれにならった。

「それではもう1つ別なことを伝えます。」
 まだまだ安心はできないといった表情なれども、声のトーンは少し落としてヒナツェリアは言った。
「来週末、弓月(ゆみづき)の晩に、当伯爵家主催の音楽会がこの城で開かれます。準備で忙しくなりますが、皆よく指示を守って立ち働くよう命じます。また当日は高貴なお客様が大勢おみえになりますので、間違っても失礼のないよう、各自、心しておきなさい。私どもの失敗はそのまま、主催者であらせられるルイーズ様のお名を汚すことになります。そんなことは断じてあってはなりません。躾を守り、礼にしたがって行動なさい。以上です。」


「音楽会だスかぁ〜! 楽しみだスな〜!」
 持ち場へ戻りながらマレーネは同僚に言った。彼女らも口を揃えて、
「そうねぇ。私たちは遠くで聞き耳を立てるしかないけど、でも飾りたてたお馬車が次々ご門を入ってきて、お城じゅうが華やかになるわ。たとえ下働きであっても、私たちは立派にこの伯爵家にお仕えしているのだと思うと、誇らしさで胸がいっぱいになるの。」
「そうだスよねぇ。」
「何せジュペール伯爵家の音楽会に招かれるのが、楽士たちにとっては一流の証なんですもの。」
「そりゃあ皆さん、リキも入るってもんだスなぁ。」
「演奏が終わったあとは、音楽堂から大広間に会場を移しての晩餐会と舞踏会。伯爵様のファーストダンスとラストダンスは、いったいどなたがお相手をなさるのかしらね。」
「夢のようだスなぁぁ…。伯爵様とのダンスだスかぁ…。」

「でもマレーネ、あなた広間を覗きに行ったりしちゃだめよ。」
「えっ! 何で判っただスかっ!」
「そんなことをしたら女官長に即刻クビにされるわよ。いいえ下手をしたら薙刀でバッサリとやられるかも知れない。さっきも言ってたじゃない、高貴なお客様がみえる、私たちの失敗はそのまま伯爵様のお名を汚すんだって。」
「ああ、言ってただスな。高貴なお客様というとどのへんが来るんだっただスか?」
「まず筆頭はアレスフォルボア侯爵家の若君ルージュ様だけど…もしかしたら今回は、シュテインバッハの若様がおいでになるんじゃないかしら。」
「ああそうだわねぇ。おいで下さるかも知れないわね。となるとひょっとして若様には、初の社交界お目見えってこと?」
「だわねぇ…。それが我が伯爵家の音楽界だなんて、何て光栄なことかしら。これは女官長もはりきるはずよ。」

「何だスか、誰だスそのなんとかバッハさんちゅうのは。」
「なんとかじゃないの、シュテインバッハ公爵家。王家に次ぐお家柄の、我が国第1位の貴族よ。その次がアレスフォルボア侯爵家で、ジュペール伯爵家は第3位。公爵様も侯爵様も、ご身分柄ご当主夫妻はおいでになれないけど、若様たちなら許されますからね。」
「何だかメンド臭いだスな貴族ってゆうのも。好きなように外出もできないだスね。」
「でもやっぱりご身分が高いのは素晴らしいことだわ。」
「そうよそうよ。ましてや皆様、ご身分にふさわしいお美しさでらっしゃるし。」
「伯爵様はどんなご衣装をお召しになるのかしら。ああ…遠くからちらりとでもかまわない、お見上げしたいわねぇ…。」


 音楽会が近づくにつれて伯爵家侍従たちは、睡眠時間も削る大忙しとなった。公式行事という訳ではない私的な催しだったが、毎年春と秋に1回ずつ、先々代から途切れることなく開催されているものだけに、『ジュペール伯爵家の音楽会』といえば社交界の認知度は極めて高く、王家主催の音楽会よりもむしろ高雅な印象すら持たれていた。招待客は約150人と少なめであることも、希少価値を高める効果があった。無論それは狙ってのことではなく、大貴族の居城としては決して広くないこの館に、通常の体制で迎え入れられる客数はそれが限度であるのだった。

 当日は仲春の名にふさわしく、うららかに晴れわたる空であった。楽士楽団は準備のため朝から音楽堂に詰めきりとなり、午後になると招待客たちの馬車が続々と到着した。
 演奏会が始まるまでの時間を、客たちは庭のあちこちに設けられた小テーブルで飾り菓子とローズティーを楽しんだ。建物こそこじんまりしているが伯爵家の敷地は広大で、木立のそこここに白亜のあずまやや噴水があり、咲き乱れる花々や鳴き交わす鳥たちも、客の目と耳を大いに喜ばせた。

 身支度を済ませたロゼのもとに侍従がやって来た。
「申し上げます。ただ今、アレスフォルボア侯爵家の若君様がおみえになりました。」
「ああ、判った今行く。」
 立ち上がり部屋を出るロゼを、ヒナツェリアは腰を屈めて見送った。急ぎ階段を下りて玄関に向かうと、愛馬の手綱を侍従に預けてルージュが入ってくるところだった。
「やぁ。来てくれて嬉しいよルージュ。」
「よぉロゼ。相変わらずのご盛況で、大変だな。」
「まぁね。でももう年中行事になってるから。ところで今日は1人?」
「ああ。朝イチで公爵の使者が来て、テキは腹痛(はらいた)と発熱でご欠席だと。伯爵様にくれぐれもお詫びをってご伝言だ。ッたく見え見えの仮病使いやがって。少しガツンとやってやんねぇと駄目かも知んねぇなあのガキ。」

「仮病か。それは困ったね。公爵家の嫡男ともあろうものが、いつまでも人前に出られないようじゃ問題だよ。聖ローマ祭前にお披露目も控えてるんだろう?」
「ああ。俺にはよろしく面倒見てくれとか言っといて、やっと戻ってきた一人息子の我儘には公爵も甘い甘い。」
「まぁそれも仕方ないけどね。14年ぶりの再会じゃあ。世話係を仰せつかった君が一番大変なんだろうけど、まぁ頑張って。」
「誰が世話係だよ…。」
 フン、と鼻を鳴らしたルージュはそこでがらりと口調を変え、ロゼの肩先を掴んだ。

「な、あれ誰だよあれ。今馬車から降りてきたあの赤いドレスの女!」
「あああの人? 彼女はマダム・ヴェルデル。外務大臣の姪にあたる方だ。」
「ンだよ人妻かよ。んじゃあれは。あっちの緑と白の…」
「あの方はマダム・ガレーシュ。先代のマイストブルク大使の奥様だよ。大使は去年国に戻ったけど、彼女はこちらの別荘に今もお住まいで…」
 ルージュはジロリとロゼを見た。
「ッたくこの年上キラーが。何の音楽会なんだか、全員お前に奏でてほしくて来てんじゃねぇの?」
「へぇ、君には珍しく風情のあることを言うね。よかったら庭に出ない? お茶を用意させるよ。」
「はぐらかすんじゃねぇよこのスケベ伯爵。このあったけぇのに黒の礼服着こみやがって。」
 親しく笑いあいながら歩く2人の貴公子に、女たちはあちこちから熱い視線を投げた。


 音楽会は時間通りに始まった。最前列の椅子でロゼは優雅に足を組み目をとじて、肘掛けに軽く肘を突き指先を形よく頬にふれさせ、微笑みつつ楽の音を堪能した。
 下働きたちは、音楽会のあとの晩餐の準備に息もつけない大わらわだったが、水を汲みに、また薪を取りに外へ出た時だけは、遠く聞こえるその調べにうっとりと耳を傾けた。


 万雷の拍手のなか音楽会は終了し、客たちは中広間に席を移した。山海の珍味と秘蔵の酒を惜しげもなく供する晩餐会は豪華この上なく、ロゼは主催者として各テーブルを回り、粋で雅びな会話を投げかけ、時には手ずから酌をした。
 夜の帳が濃くなった。伯爵家大広間には何千もの蝋燭が灯され、あでやかに舞踏会が始まった。上臈たちは会場での酒や軽食の給仕を、中堅侍女たちは控の間での世話役と庶務一切を担当し、下働きたちは調理場や洗い場で、汗をぬぐう間もないほどの作業量をこなしていた。

 そんな中、マレーネは要領よく持ち場を離れた。戦場のような騒ぎ故に誰もそのことに気づかず、警備役の武装した侍従も、中庭に入っていく彼女の姿を見ても何か用事があるのだろうとしか思わず、特に咎めはしなかった。
 篝火の間を縫ってマレーネは奥に進み、こうこうと明かりの漏れる大広間の窓の下に立ち止まって首をそらした。
「よし、ここだス。」
 彼女は靴を脱ぎ、ふくらんだエプロンの下から、先端に石製の矢じりのついた長い投げ縄を取り出した。ぺっ、と手に唾をしてヒュンヒュンヒュンと縄を回し、
「とうっ!」
 気合一声、右手を離れた縄は夜空高くに消えた。

 マレーネは左手に残った縄の一端を手繰った。強い手応えがあった。体重をかけてぐいぐい引いても、ぴぃんと張り詰めた縄はびくとも緩まなかった。
「では行くだスよっ。」
 あらかじめ茂みに隠してあった草の兜をかぶり、彼女は肩を回して手首をぶらぶらさせ、2〜3度膝の屈伸をしてからもう一度手のひらに唾をつけた。ゴシゴシとこすりあわせ、ふぅ、と短く息をつき、マレーネは縄上りを開始した。

 顔の前の両手を30センチ上へ、足首と腕に力を入れて体を上へ、足の位置を上へ、また手を上へ…を延々繰り返して、マレーネは大広間の窓にたどりついた。すぐ右にはバルコニーの張り出しがあったが、舞踏会のさなか、暗闇しか見えないそんな場所に出てくる人がいるとは思えなかった。となるとそれは逆に、身を隠すに好都合ないい物陰になってくれた。
 マレーネは浅い窓枠に指先を掛けて身を引き寄せ、外壁の、ほんのわずかの爪先がかりに体重を分担させて、目から上だけをのぞかせきょろきょろと室内を窺った。

 そこはまさに別世界であった。子供の頃絵本で見た外国(とつくに)の王宮そのものだった。灯火に煌く水晶のシャンデリア、磨きたてられた大理石の床、装飾絵と金細工と鏡が織りなす騙し絵めいた周囲の壁。それらが構成する空間にさざめくのは、極楽鳥もかくやの貴族貴婦人たち…。しかしマレーネの目は一瞬にして、その中にあって一際の光を放つロゼの姿をとらえた。胸元に銀の糸で細かな刺繍をほどこした黒絹の上着に、さざ波を思わせるフリルをつけた純白のブラウスがくっきりと映えていた。
 彼は踊っていた。曲は華麗なワルツであった。そして、彼の腕と背に白い指をおき見つめあって微笑んでいるのは、薄紫のドレスを着てプラチナブロンドを柔らかく結い上げた、雪水仙の風情を宿すひとりの貴婦人であった。

 まばたきも忘れて見入っていたマレーネの視界は、突如、ローズピンクの天鵞絨とエメラルドグリーンのシルクに閉ざされた。窓の向こう、室内で言えば窓際のそこにもたれて、2人の貴婦人が会話を始めたからであった。
(くそっ、その尻をどけるだスおばちゃん! 伯爵様が見えないだスよ〜!)
 スッポンのように首を伸ばしたマレーネの耳に、女たちの話す言葉が聞こえてきた。どうやらロゼのことらしい。ん?とマレーネは聞き耳を立てた。

「本当に、溜息の出るようなお姿ですわねぇ、ジュペール伯爵様…。先ほどの音楽会の演奏に先立ってのご挨拶でも、舞台上でこうお辞儀をなすった時に交差させたおみ脚が、まぁ何てお美しかった事。胸もとに当てたお手の形も、ふるいつきたくなるほどのお美しさでしたわね。」
「でもお美しいといえば…ごらんなさいまし、伯爵様のお腕の中を。」
「レティシア様ね。」
「ご主人が亡くなられてから早いものでもう1年。なのに最近では以前にもまして瑞々しいほどお綺麗になられて。」
「あれはやっぱり、伯爵様のご愛情の為せる技なのですかしら?」
「さぁ…噂は噂ですけれどもね。本当にそういったご関係でらっしゃるなら、人前でこうも堂々と円舞曲などお踊りになるものかしら。」
「いいえ、そこはあなた、国家の頭脳と謳われるジュペール伯爵ですもの。裏の裏をかいて何げなくふるまってらっしゃるとも考えられません事?」
「知能犯でらっしゃるのねぇ。そこがまたたまらない魅力ですけれど。」
「何にせよ噂話としては最高ですわよね。名門ファンデベルグ家の美しき未亡人と、伝統と格式を誇るジュペール伯爵家の若きご当主。あのまま絵にしたいほどの舞い姿ですわね。」
「いいえわたくしだって負けませんことよ。今宵は何があっても伯爵様と、ただ1曲でいい、踊って頂きますわ。」
「ご武運、お祈り申し上げます。」

 さわさわと扇をそよがせながらのそんな囁き声も、真後ろにいるに等しいマレーネにはすっかり聞き取ることができた。ふむぅ、と彼女は息だけでうなった。
(あのオナゴはレティシアとゆうだスな。名門貴族の未亡人だスか。何ともドラマチックな、男ゴコロをそそるシチュエーションだス。しかし、だからといって伯爵様をベッドに誘い込むとは許せないだスね。ッとに、わだスというものがありながら。)
 大憤慨のマレーネはその時、
「おい。何やってんだお前そんなとこで。」
 ベランダから不意にかけられた男の声に仰天した。窓から漏れる薄明かりの逆光の中に、長髪のシルエットが浮かんでいた。


 賑わう大広間にあってルージュは、正直、貴婦人たちを持て余していた。人間が世に生きる最大の目的と楽しみは、健全なる性行為であるとの信念を持つ彼だったが、それでも人妻だけは守備範囲外なのであった。
 いつぞや男同士のくつろいだ席で、ルージュはロゼに言った。
「俺は新品主義なんだよな。他人の持ちもん、使い回す気にはなれねぇよ。」
 するとロゼはこう応じた。
「なるほどね。それが君の趣味ってことか。まぁそういうのは理屈じゃないからね。それはそれで判るけど…でもね、使いこまれたなめし革の味わいも、なかなかいいものだよ。」


 ルージュは何杯目かのグラスを手に、ひそかな溜息をついた。彼の回りをぐるりと取りまく女たちの、胸元を広くあけた豪華なドレスは確かに目の保養ではあったけれど、マダムの称号を聞いたとたんにぴたりと止まるルージュの食指であった。もちろんこの場に招かれた女性の全てが既婚者という訳ではなかったが、いかに高貴とはいえ人妻の大胆さは若い娘の比ではなく、しなを作り流し目を送り次々アプローチしてくる彼女らに邪魔されて、これはと思ったうら若き淑女に、ルージュは近づく間もなかった。
 さらに悪いことに彼女らの身分はきわめて高く、適当に無視することも嫌な顔をすることも、肩から掛けた紅色のサッシュ――侯爵家嫡男の証――によって、彼には許されなかったのである。

 心の入らぬ愛想笑いでグラスばかり重ねていたルージュは、いささか酔いの回り始めた自分を知った。会話の途切れをうまくとらえて、ルージュは人の輪を離れた。さすがに追ってくる者はいなかった。彼は部屋を出るふりをして衝立の後ろに回り込んだ。そこにバルコニーへの出口があることは知っていた。古いがよく手入れされた伯爵家の城、そのドアは軋みもせずにひらいて彼を送り出してくれた。
 香水とは違う自然の花の香りを乗せた夜風が、いつくしむようにルージュを包んだ。彼は髪をかきあげながらバルコニーの端まで歩み、手すりにもたれて伸びをしたところで気づいた。窓の下で何かが動いた。蝙蝠…いやそれにしては大きすぎる。反射的に腰の剣に手をかけ、彼は目をこらした。次第に輪郭をはっきりさせたその正体は、出来損ねの草冠のようなものを頭に乗せ、スカートの上にエプロンをした痩せ気味の女であった。


 ギクリとそちらを見た拍子に、マレーネの爪先がズルッと滑った。わっ!とバランスが崩れ、窓枠から外れた片手は大きく空を切った。ルージュは駆け寄った。武術で鍛え上げた瞬発力であった。ぱしっ、と彼女の右手首を掴み、
「馬鹿! 死にてぇのかこのタコ!」
 罵りつつも手すりで体を支え、
「いいか、せーのでこっちに来いよ。離すんじゃねぇぞ。いいな。…せーのっ、ほらっ!」
 マレーネはバルコニーに引き上げられた。足を縮めるタイミングがわずかにずれて、向こう脛を嫌というほど手すりにぶつけた。
「あうちっ!」
 生意気にも英語で痛がり、彼女はしゃがみこんだ。

 脛を撫でさすっているマレーネを見下ろして、ルージュは安堵の溜息をついた。
「ッたく何やってたんだよ、あんなとこにひっついて。ノゾキもいいけどな、命綱つけろ命綱。この高さから落っこったらいくら芝生でも大怪我すんぞ。いや頭からいきゃ、一発でくたばんだろな。…おい聞いてんのかよ。」
「いやぁ〜…チョーびびっただス…!」
 足の次には心臓のあたりをこすってぜいぜい言っている女の様子にとりあえず安心したルージュには、彼女の風体をしげしげと観察する余裕が生まれていた。女の呼吸も静まったあたりで彼は尋ねた。
「お前、ここの侍女なのか。」
「えっ? 何だスか?」
「ここの侍女なのかって聞いてんだよ。それともどっかから忍び込んだのか?」
「いやいや滅相もないだス! わだスはここの下働きだス!」

「ふーん。それがなんであんなとこに、虫みたいにひっついてたんだよ。」
「虫はひどいだスな。せめて蝶と言ってくれだス。」
 ぷっとルージュは吹き出した。
「面白ぇなお前。じゃあ蝶々さん、どうしてあんなところに張りついていたんですか?」
「それはまぁその…。わだスら下働きはお屋敷のお部屋には上がれないだスから、伯爵様のお姿を一目拝見しようと…。」
「ロゼが見たかったのか。」
「ロゼ? ああ伯爵様の愛称だスな。美しい響きだス…。うっとりするだス…。」
「へぇ。お前もあいつに惚れてんのか。」
「いえ惚れているだなどと! そんなお下品な言葉は使わないどくれだス!」
 マレーネはガバと立ち上がった。
「お慕い申し上げておりますだス…。心の底からだス…。」
「それでこんなもん被って、よじ登ってきたって訳か。」
 歪んだ草兜をひょいと取り上げ、ルージュは軽く曲げた人差指でマレーネの顎を掬い上げた。
「へぇ、喋んなきゃけっこう美人だなお前。名前は何ていうんだ。」
 悪戯っぽい光を湛えたアレキサンドライトの瞳に、マレーネはドキリと息を止めた。

「いんや、それはお答えできないだスっ!」
 ぱしっとルージュの手を払ってマレーネは顔をそむけた。
「名前とはこの世で一番短い“呪”だスっ。みだりに名乗ることはできないだス!」
 必死の形相の彼女に、ルージュはクスクス笑った。とりすました貴婦人たちよりも面白い相手を見つけたとばかり、
「へぇぇ、この俺にそういうこと言うのか。」
 必殺・物憂げな髪の毛かき上げに誘惑視線を加え、彼はマレーネをからかいにかかった。マレーネはぶんぶん首を振った。
「あ、あ、あなた様が侯爵家の若君だってことは知ってるだス。だどもっ! あなた様がいかにお美しく魅力的であっても、わだスのカラダは伯爵様にしか反応しないだス! それが桃毒の特徴だス!」
「ふーん。俺には反応しないって訳か。ほんとかな。じゃあ1回試してみるってのはどう。」
「やめて下さいだスっ!」
 手首を掴もうとしたルージュの手を、マレーネは再び払いのけた。

「ご無体をなさるならわだスはここで舌を噛むだス! 誰がなんと言おうともこの心と体と真心の全ては我が敬愛する伯爵様おひとりのものダスにそれ以外の殿方のお手を受けたりしたら女として地獄に落ちてあぶらかだぶら…痛っ!」
 マレーネは突如口を押さえ、
「ホ…ホントに舌噛んだだス…。」
 ルージュは吹き出し、はっはっはと大笑いした。
「いやーお前みたいなのがいたら、毎日ぜってー退屈しねぇだろな。チョー面白ぇじゃん。も、サイコーだよお前。」
「何だスか、わだスは珍しい動物だスか!?」
「あ、そんな感じもすんな。ってうそうそ冗談冗談。からかってごめん。謝るよ。」
「いいえどういたしましてだス。こちらこそ失礼しまスただス。」
「いやいやどうも。」
 2人は揃って頭を下げた。

「ところでどうやって戻んだよお前。中入る訳いかねぇんだろ?」
「いかないだス。女官長に絞め殺されるだス。」
「じゃあまたあの縄伝って降りるしかねぇぞ。」
「まぁ元からそのつもりだス。手伝ってくれるだスか?」
「手伝うって…そりゃまぁ…。」
「じゃあまずはあの縄を、ちょいとこっちへ手繰り寄せてくれだス。」
「…はい。」
 ルージュは手すりから思いきり身を乗り出して、屋根からぶらんと垂れ下がっているそれを掴んだ。

「はいおおきに、だス。」
 ルージュの手から縄を受け取り、マレーネはそれを両手でしっかりと掴んでおいてどっこいしょと手すりをまたいだ。
「おい、ちょ…ちょっと待てって。」
 うろたえるが如く腕をそよがせるルージュに、
「何だスか?」
 手すりに馬乗りの姿勢でマレーネは聞いた。
「な。お前、それ危なくねぇか。この先がどう留まってんのか知んねぇけど、もし外れたらアウトだろ。」
「だからこの下んとこをあなたさんが持っててくれだス。」
「これをぉ?」
「そうだス。ぶらんこみたいに揺れるとまずいだスから、空中でわだスの姿勢が落ち着くまでちゃんと持っててくれだスよ。いいだスな。」
「…はぁ、判りました…。」
「では行くだスかね。よぅく呼吸を整えて…。」
 すーはーすーはーしていたマレーネは、
「ちょっと待てよ。」
 笑いを含んだルージュの声を聞き、彼の方を向いた。すると、
「ほら。」
 耳の上に赤い花水木の一枝がスッと差し込まれた。バルコニーから手の届く位置に枝を伸ばしていたそれを、ルージュは手折ってやったのだった。

「よく似合うな。黙ってじっとしてると。」
「…何だスと?」
「ああもう喋んなって。人が来ないうちに早く行け。ここ持ってりゃいいんだな?」
「そうだス。タイミングを合わせるだスよ。では行くだス。さらば。」
 よっ、と手すりを蹴ってマレーネは1本の縄に体重を預けた。ルージュはその縄がゆっくりと垂直になるように手元で加減してやって、やがてそっと離した。するするとマレーネは降りていき、無事に両足で着地した。

 ふっ、と息を吐いてマレーネはバルコニーを見上げた。ルージュが手を振っていた。ぺこっとお辞儀をしておいて、彼女は歩き始めた。
「けったいな若君だスな。何を考えていなさるだスかね。それとも何も考えていないだスかな。そっちの方がありえるだスな。おお痛いだス。」
 少し皮のむけた指を口に入れた時、彼女の耳から花水木が落ちた。おっと、と拾い上げた小枝をマレーネはくるくる回し、
「これは今夜のキネンに押し花にして、赤組に自慢してやるだス。」
 唇にくわえカルメンの気分で、腰を振りながら歩いていった。


 夜もとっぷりと更けた時刻、ようやく片づけを終えたマレーネは、とりあえず洗面器に浮かせておいた花水木を空き瓶に差しかえて枕元に置いた。すぐに押し花にするのは惜しい美しさだったからである。頬杖をつき、指先で花弁(に見える部分)をちょいちょい撫でながら彼女は思った。
(伯爵様は、今頃ぐっすりとお休みになっているだスかねぇ…。昼間からのご接待でさぞやお疲れに違いないだスし、あらためて寝酒でもお召し上がりになって、夢の中を漂っていらっさるだスねぇ…。)
 はぁぁぁーっ、とついた溜息が指の擦りむけにしみた。
(おぅおぅ白魚のようなわだスの指が、けっこうあちこち剥けちまっただスね。やはり麻縄ではきつかっただスな。今度トライする時は植物の蔓系で…)
 そう思った瞬間マレーネは、あっ!と声を上げた。

「やばいだス! あの縄をそのまんまにしちまっただス! 明日になったら誰かが見つけて大騒ぎになるだスよっ!」
 始末しなければ、と彼女は部屋を走り出た。草木も眠る闇の刻、あたりに人影は全くなかった。スカートを膝上までたくし上げ、はぁはぁと荒い息でマレーネは先程の場所にたどりついたが、
「あり? ありありあり?」
 遠い篝火の光を頼りにどこをどう探してみても、縄どころか糸1本も見つけることはできなかった。彼女は腕を組み首をひねった。
「はて面妖な…。あの太縄は蛇と化して自ら去っていっただスか、さもなければまさか…。」
 考えられるのはただ1つ、このままではまずかろうと気づいたルージュが、密かに片づけてくれたのではないかということだった。

「信じられないだス! なんて面倒見のいい若君だスか! ほっほぉぉ、これはこれは見直しただスねぇぇ…。でもまさかあのお姿で屋根に登ったとは考えにくいだスから、きっとあれだスな、剣か何かでブツッと切ってくれただスな。短くなっていればそれだけ、風でどこぞへ飛ばされる可能性が高くなるだス。ほっ。これで一安心だス。」
 では部屋へ戻ろうと歩き始めたマレーネは、木々の向こう、篝火のそばのあずまやのあたりで何かが動いた気がして足を止めた。すわ盗賊かと身を屈め、人を呼びに行こうかと思った彼女は、幾度か目を細め細めして、思い当たる背格好に行き着いた。
「…あれはひょっとして、女官長…だスか…?」

 ごくりと固い唾を飲み、マレーネは幹から幹をたどってあずまやに近づいていった。細かな葉をつける欅(けやき)の若木に囲まれたそこは小広間ほどの空間で、足元一面に芝桜の咲いた、さながら妖精たちの舞踏会場であった。ヒナツェリアはそこで独り、ワルツのステップを踏んでいた。いつもは引っ詰めにしている髪を肩におろし、黒ぶちの眼鏡も外しているので、むしろ近くで見た方が誰だか判らなかったかも知れない。

 ヒナツェリアの腕は、見えない誰かの背を抱いていた。宙の一点にぴたり高さを保っている右手を、包みこみ支えているのが誰であるかは、マレーネにも痛いほど判った。マレーネと違ってヒナツェリアはあの大広間の中にはいられたけれども、彼女はただ石像のように壁ぎわに控えていただけで、自分ではない他の女と踊るロゼを、目の当たりにしていたに違いない。着飾った何人もの貴婦人たちの手に、ロゼはくちづけを贈ったであろう。彼の腕の中である者は微笑み、ある者は耳元に囁いただろう。ヒナツェリアはそれを見ていたのだ。叫びたい心を押し殺して。

(この人も、わだスと同じ気持ちなんだスな…。)
 マレーネの視界は滲んだ。今ヒナツェリアの浮かべている微笑みは、切なげで悲しげで、堪らなかった。これほどまでに想いながらなぜ、彼を求めることができないのか。愛していると言ってはならないのか…。ぐすっと洟をすすり上げ、しかしマレーネはあることに気づいた。
(待てよだス? なにゆえに女官長は今、こげなところで下手なダンスを踊っているだスか? 伯爵様がお部屋におわするならば、門番よろしく防護壁を緩める訳がないだス…。では今宵、伯爵様はどこにいらはるだス。お出かけにはなっていないだスよね。お泊まりのお客様も多いだスし、門を閉めたのはけっこう早い時間だっただスし…。)

 悩む間もなくマレーネの頭にひらめくものがあった。それは窓の外で聞いた貴婦人たちの噂話、美しき未亡人レティシアの姿だった。プラチナブロンドの髪に菫色のドレスで、あの女はロゼと踊っていた。肩においた手、強く絡めた指、女なら誰でも見抜ける秘め事の気配を、マレーネはむらむらと思い出した。
(うんにゃ、許せねぇだスっ!)
 彼女は大股に1歩進み出て、
「女官長! ちと話があるだスっ!!」
 呼びかけつつずんずん歩み寄った。ヒナツェリアの大きくない目が驚愕に見開かれた。

「今から伯爵の元へ行くだス! きちんと心を告げるだスよ!」
「な、な、な、何を言い出すのですかマレーネ。気でも違ったのですかっ!?」
「気なんか違ってないだスっ! 好きなら好きときっちり言うだス! こんなとこでぶほぶほ踊ってたって何も変わりゃあしないだスよ!!」
「お放しなさい無礼な! そなたの言っていることは滅茶苦茶です! 人にはそれぞれ“分(ぶ)”というものがあります。それを踏み越えた見苦しいふるまいは、女として最も恥ずべきことです!」
「“ぶ”だスとっ!? けーっしゃらくせぇ! “ぶ”なんてモンはちくわにくっついてダシ汁の中にぷかぷか浮いてりゃいいだス!」
「ああもう何を言っているのですか! そなたにこんなところを見られたのはわたくしの一生の不覚。追って沙汰しますから部屋にお戻りなさい!」

「うんにゃっ、戻らねぇだス!」
 マレーネは、踵を返しかけたヒナツェリアの腕をグイと掴んだ。
「今頃伯爵はわだスらの心も知らずに、あの図々しい未亡人としけこんでるだスっ!」
「し、しけこんでいるだなどとそなたはそういう失礼な言葉を…」
「それもこれも伯爵が、わだスらの気持ちをはっきりと知らないからだス! それは言わない方も悪いだスよ! 案内するだス女官長! あの女はどの部屋に泊まってるだス! 何だったら薙刀持って乗り込んで、かばねを前に向けて討ち死にだス!」
「お待ちなさいっ!」
「いんや待たねぇだス! ええい止めるなお宮! 来年の今月今夜のこの月を、俺の涙できっと曇らせてみせる…!」
「寛一さん!! …って何をやらすのですかっ!! ここでそなたと侍女漫才をやってどうするのですっ!」

「いやぁなかなかやるだスな女官長。元演劇部だっただスっけ?」
「お黙りなさいっ! わたくしの目の黒いうちは、ルイーズ様に対するそのような無礼は断じて許しませぬよ!」
「ンンなことゆって女官長ー! 自分ひとりだけ告白して抜け駆けようと思ってるんじゃないだスかぁー!? うわーっやること汚ぇだス!」
「お黙りお黙りお黙りっ! ええいここに薙刀がありさえすればお前の首など、一振りでかっ斬ってやるものを! いいですかマレーネよくお聞き! わたくしはわが君ルイーズ様のおんためなら喜んで命を捨てる覚悟ですが、だからといって自分の醜い欲望をルイーズ様にぶつけるつもりはありません! 身近にお仕えしているとあの方の尊いご身分を忘れがちになりますが、この伯爵家はわが国に生を受けた全貴族たちの中で、第3位という高いお家柄なのです。文化学問芸術を司るそのジュペール伯爵家の、あの方は第26代ご当主でいらっしゃるのですよ! それほどの御方にお仕えできるというだけで、かけまくもかしこくも畏れ多いことなのです。ルイーズ様がお幸せであれば、わたくしもそれで幸せです。それ以上何を望んだことも、また望むつもりもありません。わたくしの命はルイーズ様のためにあるのですから…。」

 悲壮な眼差しでヒナツェリアは虚空を見た。しかしマレーネはきっぱりと首を振った。
「嫌だス。そういう自己陶酔の精神論はわだスには鼻持ちならん屁理屈に聞こえるだス。確かに伯爵様のお幸せは何よりも願わねばならんだスが、わだスはわだスも幸せでねば嫌だス。さもなくば意味がないだスっ!」
「そなたはまだそのようなことを…! 解雇です解雇です即刻解雇ですっ!」
「ふっ、何をちょこざいな。事前通告なき不当解雇は労働基準局に訴えるだスよっ!」
「ではこれが事前通告です! 3か月以内に出ていきなさい!」
「ああ出ていったるだス。その代わりその3月間はわだスの邪魔をするなだスよ。万一この想い遂げられなんだら、潔く神奈川に帰ってやるだス!」

 そのまま乱闘となった2人であったが、勝負のつかないうち夜が明けた。ヒナツェリアはマレーネに、首を洗って待っておいでと言い残して部屋に戻った。マレーネも徹夜明けのまま持ち場に戻り、縦横斜めにひっかき傷のついた顔で火吹き竹を吹いた。

『想いは遂げてみせるプロジェクト』第2弾をマレーネは発動した。前回彼女が調べ上げたのは伯爵家の城のつくりだったが、今回のポイントはロゼの外出スケジュールであった。あの晩以来、城内にはヒナツェリアの目が一段と光っており、滅多なことをして尻尾を掴まれたら薙刀の贄となるのは判りきっていた。勝負は城外、しかもロゼが1人に近い時…。となると彼がどこかへ出かけた帰り道を張るのが有効であった。

 しかし一介の下働きに、ジュペール伯爵の公私の予定を直接知ることは不可能だった。マレーネは考え、そしてひらめいた。
「洗濯屋だス! お衣装を誂えるほどの催しではなく、専門家に頼んでお上着を整える程度の、ご外出を狙うだスよっ! これは名案、さっそく実行に移すだス!」

 マレーネは買い出し当番の日を待った。いくらヒナツェリアに見張られていても、彼女は市場まではついてこない。大きな籠を幾つもぶら下げ同僚2人とともに市場へ向かったマレーネは、
「ちと用事があるだス。このメモにある買い物はわだスが責任もってして帰るだスから、ちっと寄り道させてだス。その代わりあんたらはサボッてていいだスよ。ここだけの秘密にするだス。」
 なかなかの知能犯である。同僚は大喜びで遊びに行ってしまい、マレーネは1人になることができた。彼女はふところから地図を書いた紙を取り出した。
「『クリーニング店フリーデル』…こっちだスな。」

 たどりついたその店は、構えも大きく繁盛していて店先まで活気に溢れていた。看板にはポップ調子の文字で、『クリーニング店フリーデル』と記されており、その下には 『どれすから猿股まで、心のこもった親切仕上げ!』のキャッチコピーが併記されていた。もう少しこじんまりとした、さも“大貴族様御用達”然とした敷居の高さを想像していたマレーネは驚いた。
「ふわぁ〜…。こりゃあ大したもんだス。洗濯屋といってもバカにならないだスな。皺のついた服なんぞには袖を通さないっちゅう話のうちの伯爵様が、ご満足なさるだけの仕上げをする店だスからねぇ。ウデは確かに違いないだスが、ハテどうやって話を聞き出すだスか、ここが思案のしどころだス。」

 少しの間考えて、マレーネは裏手に回った。当然そちらに客の姿はなく、戸口からは従業員たちが入れ代わり立ち代わり出入りしていた。よし、と肩をぐるぐる回し、呼吸を整えたのちマレーネは、
「あ、あ、痛ったったったったったぁっ!」
 腹のあたりを抱えてうずくまった。たちどころに店員は気づき、
「もし、どうしました!」
 バタバタと2〜3人が駆け寄ってきた。
「じ、持病の癪が…。ああっ、苦しい…!」
 迫真の演技であった。大胆な行動に似合わぬ華奢な体つきと、パワフルな性格とはかけ離れた清楚な第一印象に助けられ、マレーネはまんまと店員たちの同情をかうことに成功した。彼らはこの哀れな病人を中で休ませた方がいいと判断し、店の奥の休憩所に運びこんでくれた。

 急ごしらえの寝台に横たわって、マレーネがしめしめとほくそ笑んでいると、
「お加減はいかがですか?」
 見るからに人のよさそうな、優しげな老女がやってきて言った。一緒についてきた店員が紹介した。
「ここのおかみのマリネさんです。」
「ああ…」
 マレーネが身を起こそうとすると、
「あ、いいのよご無理なさらないで。ゆっくりとお休み下さいね。」
「ありがとうございます。でもおかげで随分と楽になりました…。」

 語尾がだスだスしないよう注意して、マレーネはしとやかに胸などさすってみせた。おかみさんは心配げに、
「お顔の色はよくなってきたのですね。よかったわ。何かおもゆのようなものでも召し上がってみますか?」
「いいえいいえ、お気持ちだけ頂戴いたします。もう痛みも引きましたし…。」
「そう。それはよかったわ。ご様子からして町にお買い物にいらっしゃったのかしら。お一人でお見えになったの?」
「はい。おっしゃる通りです。」
「じゃあ帰りが心配だわねぇ。お住まいはどちらなのかしら。何でしたらうちの店の若い者に送らせますよ。それとも使いに走らせて、お迎えをお呼びになる?」
 親身になって心配してくれる老女に、マレーネは段々と本気で恐縮しだした。長居はせずに引き上げようと、
「いいえ、もう本当に、何とお礼を言っていいのか。お優しいお気使いに感謝するだ…いえ、感謝いたします。」
 ベッドの上で深々と頭を下げ、実は、と本題に触れた。

「私はジュペール伯爵家のおんもとで侍女を勤めさせて頂いています。今日は市場へ買い物に来て、それから、こちらのお店にお願いしてあるお品を引き取って参れと、上司に指示されていまして…。」
「あら。」
 おかみさんは姿勢と表情を改めた。
「伯爵家の侍女様でらっしゃるのですか。それは失礼を致しました。いつも並みならぬご愛顧を頂戴して、ありがとうございます。」
 丁寧にお辞儀され、マレーネはさらに慌てた。
「いえいえそんな、わだスに敬語なんか使わないでくれだス!…でございますわよ。ただ使いに来ただけなんです。確か、なるべく急いで仕上げて頂けるよう、お願いした品があると思うんですが…。」
 これはマレーネのカマ、というか大胆な作戦であった。ええ、とおかみさんは即座にうなずいた。
「伺っておりますわ。週明け早々にお召しになるのでそれまでにお城へ届けるよう、ご依頼を賜っておりました。明日にでもお持ちするつもりでしたのよ。お待ち下さいませ。すぐに持って参ります。」
 おかみさんは部屋を出ていった。

「こちらの3点でございますね。」
 おかみさんが戻ってきた時、マレーネは寝台を下りて靴を履いていた。おかみさんは両手で捧げ持ってきた衣装たちを、ふわりとマレーネに手渡した。
 純白のブラウスは淡雪さながらの柔らかさで、胸元には見事なフリルとタックがついていた。紺色の上着にはところどころ黒曜石と瑪瑙のビーズが縫いつけられており、透かし織りの黒のマントは、羽織っても重さは全くないだろうほどの、蜻蛉(かげろう)の羽さながらの薄絹であった。ロゼの肌を、彼の身を包むそれらを、マレーネは淫する気分で撫でた。おかみさんも溜息をつき、
「さすがは高雅をもって知られるジュペール伯爵様、素晴らしいご趣味でいらっしゃいますね。これほど豪華で上品な刺繍は、名人でなければ施せません。私どもも細心の注意をもって仕上げさせて頂きました。」
「ありがとうございます…。」
 マレーネは最敬礼した。

「では、こちらの受取証にサインをお願いできますかしら。それと…お疑い申す訳ではないのですけれど、何せこれほどの高級なお衣装。念のために、あなた様が伯爵家の侍女様であらせられるおしるしを、何でも結構でございます、拝見させて頂きとうございます。」
 物腰は穏やかそのものだったが、さすがは一軒のおかみ、筋の通った話であった。ペンと受取証を前に、マレーネはこれに我が名を記してもいいものか一瞬迷った。来週早々、ロゼがこれらを着て出かけるよりも前に、マレーネという名の下働きがこの店に来たと女官長の耳に入りでもしたら…。しかし彼女が身分を証明できる唯一のものは、採用時に支給される名入りのスカーフであり、そこには薔薇色の糸ではっきりと、マレーネ・ロザリンド・ヤツキの縫い取りがあった。
 仕方ない、と彼女はそれを提示した。別にこの衣装をこれから売りさばこうというのではなく、伯爵家に戻りトモーモに渡すだけなのだから、何らトラブルが起こるはずもない。受領書などは単なる形式にすぎないのだ。彼女は本名を記入し、おかみさんに重ねて礼を言って店の外に出た。


 珍しく週末に休みを取ったチュミリエンヌは、ボルケリアの許可を得ておすそ分けしてもらったワインや果物をどっさり抱えて実家に帰った。お店の皆で食べてと言うと母マリネは喜び、接客を抜け奥の部屋へ娘を誘(いざな)って、お茶を入れてくれた。母娘は久しぶりで水入らずに語り合った。
 チュミリエンヌのカップが空になったのに気づいて母はお代わりを入れてやろうとしたが、チュミリエンヌはポットに手を伸ばし、
「いいですよ、ははじゃ。自分でいれます。」
 そう言って母の分も熱い茶を入れ直した。ありがとう、とカップを受け取ったマリネは、
「おや、お前その手はどうしたの。」
 娘の小指に巻かれた包帯を見て言った。

「ああこれですか? ちょっと金物に引っかけて。大した傷じゃないんですけど、ほら、私は水仕事をするんで結んであるだけ。」
「そうなの。小さな怪我も馬鹿にしちゃ駄目よ。人間は体が資本。患って辛いのは自分なんだからね。」
 ふぅふぅと茶を吹き冷まし、マリネはふと思い出した顔になった。
「そういえばこの間ね、お前と同じお仕事の女の人が、うちの前で具合が悪くなってねぇ。少し休んでいったばかりだよ。」
「同じ仕事の人? 侯爵家の侍従が誰か来たんです?」
「いやお前のとこじゃなくて、ジュペール伯爵様の侍女だそうだよ。」
「伯爵家の…。」
「うん。たまたまお預かりしていたお衣装があってね、それを取りに見えた時に、お具合が悪くなったみたいだよ。」
「ふーん…。」
 茶をすすり、チュミリエンヌは考えた。具合が悪くなるにしても、どうも偶然すぎる気がした。

「その人はどんな人でしたか、ははじゃ。間違いなく伯爵家の侍女だったの?」
「そうだよ。薔薇の家紋入りのスカーフを持ってらっしゃったから間違いない。ほっそりして色の白い、綺麗な女の人だったね。でも一瞬だけ、何だか訛りみたいなのがあった気がしたけど。」
「訛り?」
 チュミリエンヌはハッとした。先日伯爵家の音楽会に招かれたルージュが、訛りのある面白い侍女にあっさりと振られたという話は、侯爵家の侍女たちの間にすっかり広まっていたのだ。

「じゃあその訛りのある侍女が、伯爵様のお衣装を引き取っていったのね。他に何か言っていませんでしたか、ははじゃ。何でもいいです、思い当たることは…。」
「ちょっとちょっと嫌だねぇ、刑事ドラマの目撃者みたいじゃないか。」
 マリネは苦笑し、備忘録をめくるように、
「別に何も言ってなかったけどねぇ…。見事な刺繍ですねって話と、週明けにお召しになるらしいって話と…」
「それだ。それを聞き出したかったのね。」
 チュミリエンヌはポンと膝を打ったなり。母は妙な顔をして、
「いったい何なの。まさかあの人にはお衣装を渡さない方がよかったの?」
「ううん、そこまではないですけど。でも少し気になることがあって。」
「気になることって…」
「大丈夫、大したことじゃありません。ははじゃに落ち度はありませんからご安心下さい。私、ちょっと出かけてきますね。すぐに戻ります。」

 チュミリエンヌが向かった先は伯爵家だった。彼女は別に伯爵家と親しい訳ではなく、女官長ヒナツェリアに恩義がある訳でもなかったが、その訛りのある侍女に対しては腹立ちを押さえられなかった。あの素晴らしく魅力的なルージュの、光り輝くオーラにクラッともしない女は許せない。そういう鈍感な生き物が棲息しているから、世に過ちの種は尽きないのだ。チュミリエンヌは鼻息も荒く伯爵家の裏門をノックし、女官長に取り次いでくれるよう頼んだ。


 週明けの夕刻、マレーネは予め届け出ていた通り、医者に行くと偽って城を出た。ロゼの馬車は昼過ぎから車庫になかった。マレーネは門前に伸びる1本道を進み、やがて現れた三差路を左折した。
 彼女が洗濯屋から受け取ってきたあの衣装は、豪華ではあったが礼装ではなく、雅びな遊び心に満ちたものであった。そういう洒落た装いでロゼが訪れる場所は、おそらくどこかの園遊会かお茶会、さして気の張らない催しに違いなかった。だとすれば帰りは夕刻ないし浅い夜、ちょうどこの時刻であると思われた。

(伯爵様のお馬車は、間違いなくこの道を通られるはずだス。お城も近いし、すぐそこが曲がり角だスからスピードも落としているはずだス。馬車の影が見えたら道に出て行って御者に合図して、ここで停まってもらうだス。この想いを伯爵様に告げる手段はもうそれしかないだスから…。)
 ショールの衿を押さえている手に力を込め、マレーネはこの賭けの成功を祈った。

 道の脇には粗い木立があった。ここに潜んで馬車を待とう、とマレーネは草むらに足を踏み入れた。黄昏の林に佇んで、恋しいひとを待つ女。嗚呼何とロマンティックな…と自己陶酔に入りかけたマレーネは、
「そなた、こんなところで何をしているのです。」
 正面の幹の裏からヌッと出てきたヒナツェリアの姿に、思わず後ろに飛びのいた。
「じょっ、女官長! あんたこそ何をしてるだスかこんなところで!」
「それはわたくしが先に聞いたこと。答えなさいマレーネ。事と次第によってはただでは済ましませんよ。」
 バサッ、と魔法使いのようなマントを肩に跳ね上げて、ヒナツェリアは長さ1mほどの棒を勢いよく斜めに振り上げた。一瞬にしてその棒は薙刀の長さになった。

 マレーネは歯噛みした。
「おンのれぇ、そんなボク生き棒みたいな武器をフトコロに隠し持って、わだスのアトをつけて来だスねっ! 3か月間は邪魔をするなと言っただスにっ!!」
「ふっ。盗賊ではあるまいし、あとなどつけてはいませんよ。そなたはどうやら、侯爵家の侍女たちを敵に回したようですねぇ。」
「侯爵家の…? なんでだスか! ははぁんさてはあの花水木に嫉妬しただスなっ! くわーっ料簡が狭いだス!」
「さぁ理由など知りません。でもわたくしにとってはもっけの幸い。我が君ルイーズ様の公私のご予定をこそこそ嗅ぎ回り、お帰りを待ち伏せするなどは無礼千万。侍従心得不覚悟ということで懲戒免職の対象になります。懲戒免職は即刻、罷免! ただちにこの場と伯爵家を立ち去りなさい! さもなくば斬って捨てます!」

 ヒュン、と鼻先に突き出されたヒナツェリアの薙刀を、マレーネはぱしっと手の甲で払い、ショールを脱ぎすべらせてからスッと腰を沈めた。
「とうとう雌雄を決する日が来たようだスね女官長…。」
「はぁ?」
「見せたくはなかっただスが、こうなれば仕方ないだス。東洋の秘技・蟷螂拳に、果たして女官長の薙刀はかなうだスかな?」
「ほっほぅ、面白い。相手になるというのですか。そなたがその気ならわたくしも本気を出しますよ。」
「ああ望むところだス。」
 じりっ、と2人は距離を縮め、互いの間合いを計った。太陽は雲の峰に身を隠し始めていた。

 最初に仕掛けたのはヒナツェリアだった。はぁっ!と気合も鮮やかに入れられた突きをマレーネは躱し、きぇぇぃ!と甲高い掛け声とともに連続回し蹴りを繰り出した。右、左と薙刀を回しヒナツェリアは攻撃をよけた。マレーネが息をついた一瞬を見逃さず薙刀はその足元を狙った。うりゃぁっ!と飛び上がり突き出す拳、かろうじて柄で受けるヒナツェリア。立て続けのキック、弧を描く薙刀。斜めに空を切る銀色の閃光。マレーネはよけ柄に手を伸ばす。がしっと掴んでくるその甲にヒナツェリアの空手が決まる。うっとうめくマレーネ、不敵に笑うヒナツェリア。くっ、と薙刀を平青眼(ひらせいがん)に持ち直し敵の喉元一点に視線を注ぎ、
「マレーネ、覚悟ぉっ!」
「―――させるかぁっ!」
 ヒナツェリアの刃、マレーネの拳、紙1枚ですれちがってバランスを崩し、柄の尻が予想外に跳ね上がりマレーネの後頭部をガンと直撃。
「痛いっ!!」

 ごろごろごろーっと転がったマレーネはヒナツェリアの脚にかじりつき、
「あんたーっ! 本気で殴るこたぁないだろうだスよこのへっぽこひなつ!」
「きゃーっ!」
 勢いをくらって倒れた手は薙刀をこぼち落とすやマレーネの髪を鷲掴み、
「離しなさいこのキュウリの雌蕊! ええぃお離しっ!」
「なんの離すもんだスか! 噛ってやるだスぅー! がりがりがりっ!」
「痛い痛い痛いっ! どうしてこのわたくしがそなたに噛られなければならないのですかっ! たぁぁっ!」
「いだいっ! ムネを蹴るなだスこの少女のようなムネを! 腫れ上がったらどうしてくれるだス!」
「はんっ! 少しくらい腫れてそなたは人並です!」
「ぬわぁぁんだスとぉぉっ!? ひ、ひとが一番気にしていることをぉぉっ! 自分が少しくらい乳がでかいからって許さんだスっ!!」
「ふんっ! 悔しかったら胸に谷間を作ってご覧!」
「しどい! きぃぃーっ!」

 組んずほぐれつ掴み合い、2人はいつしか自分たちの体が道に転げ出ていることにも気づかなかったが、その時、
「…野犬かと思ったら女官長じゃないか。何をしているのこんなところで。」
 頭上に聞こえたロゼの声に全身を硬直させた。そこには馬車が停まっていて、窓から彼が顔を出していた。

「は、伯爵!」
 ヒナツェリアはマレーネを突き飛ばし、ばっと立ち上がってスカートを直した。
「どうしたの。何か人間的なトラブルでもあった?」
「いえ、いえその、何でもございません。」
「何でもなくてそんな格好にはならないだろう。…ちょっとここを開けてくれるかな。」
 ロゼは御者に命じた。道に半身を起こした姿勢で、マレーネはまばたきもせずにその様子を見つめた。

 御者は機敏に地面へ降り立ち、両手で恭しく扉をあけた。ロゼは身を屈めて戸口をくぐり、しかし外に出ては来ず、椅子代わりにそこに腰を下ろした。御者は彼の足元に天鵞絨張りの踏み台を置いた。ロゼは優雅に脚を組み、片足だけを台に乗せた。さらに御者はロゼの肩から流れ落ちているマントのドレープを、手品師のような手つきで整えた。曲げた方の膝にロゼは肘を預け、指先を軽く頬に添えた。純白のブラウスの衿元と袖口はゆったりとしどけなく開いており、その風情は黒い薄絹の上に据えられたギリシャの石膏象さながらであった。

「少々、ご酒をお過ごしでらっしゃいますね、伯爵。」
 美神の後光に動きを封じられたマレーネの耳に、ヒナツェリアの言葉が聞こえた。うん、とロゼは自分の唇に触れ、
「ご婦人がたにすっかり飲まされちゃってね。でも気分はいいよ。ふわふわしていてとても気持ちがいいんだ。多分、天使に抱かれるというのはこういう感じなんだろうな。」
 ふふ、と思い出し笑いをし、ちらりとマレーネの方を見た。マレーネの背骨を電流が貫いた。ロゼはヒナツェリアに視線を戻し、尋ねた。
「…で、君はここで何をしていたんだい? あそこにいるのは誰。友達じゃあなさそうだけど。」
「いいえ友達などでは。」
 ヒナツェリアも横目で彼女を見たが、まさか伯爵を争って女2人で決闘しておりましたとも言えまい、さりげない表情を繕って、
「お耳に入れるほどの者ではございません。お忘れ下さい。」
 何だスとっ!?とマレーネは思い、機械仕掛けの人形のように首を横に振りつつ、彼の方に這い寄った。

「いいえ、いいえ、伯爵様…! わだスは、わだスはお城の下働きですだス…!」
 ようやく振り絞った彼女の声に、ロゼは小さく、ヒナツェリアは目をむいて驚いた。さらにマレーネは、
「今宵はどうしても、伯爵様に申し上げたいことがござりるに、ご無礼とは知りつつつこちらで帰りを、お待、待、待、―――」
「聞き苦しい! お黙り!」
 ぴしゃりとヒナツェリアは言った。ロゼの前ゆえ声は小さかったが、語調は十分厳しかった。
「立場をわきまえてお控えなさい。ジュペール伯爵の御前(おんまえ)ですよ! お下がり!」

 怒りと絶望の目でマレーネがヒナツェリアを見た時、
「いや構わないよ。」
 言ったのは何とロゼだった。
「伯爵…。」
 咎めるようにヒナツェリアは言ったが、
「こんなに気持ちのいい夕暮れなんだ。今夜は特別。いいだろう?女官長。何か話があるというなら、聞くよ。君は何か、僕に言いたいことがあるのかい?」
 微笑んで小首をかしげ、ロゼはマレーネを見た。初めてはっきりと見てくれた。マレーネの体は小刻みに震え、ガチガチと歯の鳴る音が彼にまで聞こえてしまいそうだった。

「わ、わ、わ、わ、わだスは……」
「うん?」
「わだスは、マ、マ、マレ、マレ…」
「稀?」
「う、うんにゃ、ママママ、マレ…マレマレ…ああああっ口が回らないだスっ…!」
 彼女は我が頬をぺしぺし叩いた。涙が勝手に出てきた。
「ガンバ・マレーネだの一見清楚だのと好きなことを言われているだスが、こういう時に思い知るだス、わだスは純な乙女座だス…! 神経は細いだスし寝つきは悪いだスし、間違ってもショートパンツいっちょで掛け布団ぶっ飛ばしてぐぅぐぅ寝るような真似はできないだスし、ましてや赤坂で冷やしたぬきを食ったり、高級ガムテープをばっくれてカッパらってくるような恥知らずな真似―――」
「そのネタはいい加減にくどいっ!」
 息声でヒナツェリアは言った。ロゼはおかしそうに笑った。

「何だか2人ともいいコンビだね。本当は仲がいいんじゃないの?」
 言われた2人は同時にきっぱり、
「「いいえっ!!」」
 右左右!と首を振った。くっくっとロゼは喉を鳴らし、いたずらっぽい表情になってマレーネに笑いかけた。話の先を促されているのだと彼女は判り、少しだけ心がほぐれた気がした。すぅぅ…と大きく深呼吸し、マレーネは話し出した。
「わだクスは、悩んでおりまスただス。」
「悩んでいた?」
「はい。この世における幸福の意味についてでございまス。」
「へぇ。それはまた大きなテーマだね。」
「女にとって…いいえ多分殿方にとっても、幸せというのは果たして何であるのかと。自らの想いと重ならぬ恋は、決して実を結ばぬあだ花ではないのかと。それを知りつつ人生を描くのは、もしかスたら単なる自己満足にすぎないのではないかと思っておりましただス。」
「嘘をおっしゃい…。」
 ヒナツェリアは苦々しい顔でつぶやいた。マレーネは無視して続けた。

「人を恋う気持ちに、理由も筋道もありませんだス。それは十分に判っていることだスが、現実の、日常の、人生の話となるとまた違ってくるだス。世の中には妥協も我慢も、逃げ時も引き時もあるだス。それを見誤ったら、やはり人生は惨めなものだスか。親の心配も知人の忠告も聞くことなく我が道を行こうとするのは、これはエゴっちゅうもんだスか。決してかなわぬ想いと知りつつ、それに殉じるのは愚かだスか。いいやそもそも殉じようだなんて、そのこと自体が無理だスか。常識とは世を生きるための最良の師範に他ならないだスか。恋とは幻影の別名で、胸やけのする砂糖菓子だスか。わだスは国に帰るべきだスか。こんな問いかけは無意味だスか…!」

 初めは面白そうに聞いていたロゼの目が、徐々に真剣になるのをヒナツェリアは見ていた。マレーネは頬を涙で濡らし、両の指は大地に食い込んでいた。やがて微笑みがロゼに戻った。気品高いその唇に、彼は言葉を上らせた。
「つまり、君が恋する人というのは、この僕だね。…そうだろう?」
 ストレートもストレート、定規を当てて真横に線を引いたような直球に、マレーネは目を伏せることもできず、こくっと大きくうなずいた。

「だったら、答えは簡単だ。」
 ロゼは再び、若枝に似た指を頬に添わせた。
「君は、僕のそばにいるべきだ。もちろん、それは特別な意味においてじゃないよ。恋しい相手のそばにいることが、女性を最も美しくする。美しい女性ほどこの世を豊かに彩ってくれるものはない。僕のそばにいることで君が今よりもっともっと美しくなれるのなら、それはこの世界にとっても実に有意義なことだ。
人生で一番大切なのは、…言いかえれば一番強いものはね、地位でも財産でも名誉でもない、豊かな心なんだ。常識を、僕は不要だとは思わない。でもね、それしかない生き方をするくらいなら、持たない方がずっといいと思う。自分の心を信じて我が道を行く。素晴らしいじゃないか。まぁもちろん? そういう生き方には障害も多いだろう。敵も、ライバルも、大勢攻めてくるだろう。だけど、女性は競ってこそ美しい。安泰を怠惰で麻痺させて、緊張を忘れ緩んでしまったような女性が僕は一番哀しいね。君は、そういう哀しい女にはなりたくないだろう?」
「はいっ。」

 深く大きく、毅然とした顔でマレーネはうなずき答えた。ヒナツェリアの反応は目に入らなかった。それでいい、というふうにロゼもうなずき、
「気づいていなかったのかな。君は、最初から自分で答えを出していたね。君はさっき、『私は悩んで“いた”』と言った。“いる”ではなくて“いた”と。だからもう迷う必要なんてない。これからも君は、あの城で僕に仕えてくれ。女官長と一緒に。…いいよね、僕の女官長?」
「は…。」
 他ならぬロゼにこう出られてしまっては、ヒナツェリアに反論はできなかった。彼女はただ頭を下げた。ロゼはゆったりと2人の女を見回し、
「じゃ、城に戻るよ。僕は先に行く。…出して。」
 けろりと口調を変えて、車内に姿を消した。御者は女たちを一瞥だにせずパタンと扉を閉ざし、台を片づけ自分の位置に戻って馬の背に軽くムチを当てた。轍を残し、馬車は走り去った。

 にぃぃぃぃぃーっ、と満面の笑みを浮かべてマレーネは背後を振り返った。バッタを噛み潰したような顔をしているヒナツェリアの手をガシッと握って、
「聞いただスか聞いただスか女官長っ! これからも僕のそばで仕えろと伯爵様は言ってくれただスねっ! 解雇なんてありえないだスっ! これからもよろしくだス〜!」
 握りしめた手を上下にがくがく振られるのを、ヒナツェリアはぶんと振り払った。マレーネはかまわずに、
「いやぁぁぁ〜…お近くでお見あげ申すと本当に息が止まるほどのお美しさだス…! あの頬に添えられたほっそりしたお指、ちょっとつんとしたあのお口元…ああああっ幸せだスっ! 伯爵様のおん元でわだスは、もっともっと綺麗になってやるだスよっ! ふんむっ!」

 鼻息荒くガッツポーズを決めた彼女にヒナツェリアは言った。
「あまりいい気になるのではありませんよ。伯爵はそなたに、あの城で『仕えろ』とおっしゃっただけで、それ以上の意味は何もこめていらっしゃらないのですからね。そなたらしい勘違いをして暴走することのないよう、わたくしが管理を―――」
「ぬわぁぁぁにが管理だスかっ! 競うだスよ競うだスよ女官長! うんにゃ女官長の椅子は、いつの日かこのわだスが必ず奪いとってやるだスっ!!」
「なっ、何を無礼なっ! 伯爵家女官長の地位をなめるのではありません!」
「へっへっへっへっへっ。今に見ていろだスひなつバッタ!! あんたはわだスのライバルだス〜!!」


 マレーネは城に駆け戻り、しゃきしゃきと仕事を始めた。同僚たちは一瞬首をかしげたが、
「はいはいはいっその皿こっちに貸してだスっ! 洗うモンは他にないだスかっ!?」
 あまりのてきぱきぶりに苦笑して、つられるように皆の作業効率が上がった。

 トモーモはそんな彼女に近づいて尋ねた。
「どうしたの。よっぽどいいことがあったのね。ここしばらくあなたを悩ませていた問題が解決した?」
「はいっ解決しただスっ!」
 マレーネはドンと胸を叩き、
「わだスは決めただス。これからも自分の人生を、自分の足と心とで歩いていきますだスっ! それがわだスの人生の選択だス! もう迷うことはないだスよっ!」
 鼻歌というよりは独唱に近い歌声で、マレーネは動き続けた。トモーモはクスッと笑って離れていった。



 翌日、いつもの薙刀稽古場には一際大きなマレーネの気合が響き渡った。正面にいるのはヒナツェリアだった。こののちこの2人はライバルとしてまた心を同じくする友として、ロゼのそばで咲き競う花となっていくのだが、本人たちの間に友情意識は全くなかったと思われる。
「行くだスよっ女官長! はあっ!」
「まだまだっ! 脇が甘ーいっ!」
「とぁーっ!!」

< 完 >

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