『五重奏曲(クインテット)』
 

【 第2楽章 主題1 】

 聖ローマ祭は5人の住む国の、最大の祭である。開催は毎年だが6年に1度「大祭」があって、今年はちょうどそれに当たっている。ゆえに国中が大わらわなところへ持ってきて、さらに公爵家主催の舞踏会もあるから、五色の御旗の各家は上を下への大騒ぎになっている。
 ヴェエルの家・ラルクハーレン男爵家は、近隣諸国から祝いの品を携えてやってくる王族や大使、及び祭を見に集まる領民たちのため、夜を昼に継いでの街道補修工事に忙殺されている。
 ヴェエルも父男爵(西田敏行さん)とともに諸肌脱ぎになり、人夫たちに混じって工事を進めている。もちろん彼にとってこれは、いかに大勢の人間を指揮するかという、勉強兼実地訓練の場でもある。
 ジョーヌの家・ヘルムート子爵家は、小麦粉生産工場(但しマニュファクチュア)の監督のため徹夜続き。
 現子爵(田村正和さん)は王宮に詰めきりだから、城の中のことはジョーヌに責任がある。祭に饗される大量の食物を滞りなく供出するのが、子爵家代々の役割であり誇りでもあるのだ。
 
 ロゼの家は王立大学の主催をつとめている。学長に就任するのは代々のジュペール伯爵だ。
 祭には学生たちの催しも多く、国王の御前での弁論大会などもある。それらを監督するのは伯爵家の仕事。現学長のロゼは忠実な侍従長(田山涼成さん)とともに書斎に籠り、この名誉ある職務を着々とこなしていく。
 さてロゼには別の仕事もある。公爵家のお披露目の場において、大学の学生たちからシュテインバッハの若様へ、祝いの辞を述べる儀式が予定されている。
 その事前打ち合わせのため、ロゼは公爵家を訪れる。主催者側の実質責任者である第一執事のサイトーは、不眠不休の働きでもう体力の限界に来ているが、祭が済んだら長期休暇をとることにして、薬を飲み飲み頑張っている。
 
「大変なご様子ですね。」
 打ち合わせを終えてロゼはサイトーに言う。目の下に隈をつくった彼は、
「いやいや、ヒロ様が無事お戻りになってこの催しを開くことが、当家長年の宿願でございました。これしきで参ってはいられません。」
 と応える。なるほどなとロゼは納得し、尋ねる。
「ところで…もしお許し頂けるならば、若様にお目通り致したいのですがよろしいでしょうか。」
「ああ、どうぞお会いになって差し上げて下さい。」
 快諾されてロゼは正直意外だった。
「え、本当によろしいんですか? お支度がお忙しいからと、そうおっしゃるに違いないと思っておりました。」
「いやいや、ヒロ様もここ数日というものよく我慢して下さいました。お披露目まであと3日。ご学友でもある伯爵と、うちとけてお話などなさりたいことでしょう。」
 サイトーはパンパンと手を打ち鳴らし、侍女を呼ぶ。
「これ。若様は今どちらにおられる。」
「それが…」
 侍女は困って口ごもる。
「何、どうしたのだ。早く答えよ。」
「私どもも今若様を探しております。仮縫いの最中にお姿を消してしまわれまして…。お城の中にいらっしゃることは確かなのですが。」
 ロゼとサイトーは顔を見合わす。サイトーは頭痛がするらしくこめかみを指で押さえる。実はロゼには心当たりがある。彼は言う。
「サイトー殿、ご迷惑はおかけいたしませんので、私にもお城の中を少し探させて頂けますか?」
 
 書庫と書斎を区切る天鵞絨のカーテンがモゾモゾッと動いて、合わせ目からヒョイッと人間の顔が覗く。もちろんヒロだ。キョロキョロ油断なく辺りを見回し、人影がないのを確かめると彼はこちら側に出てくる。
「あーやれやれどっこいしょ…。」
 若いくせに年寄りのようなことを言って、ヒロはコロンとソファーに寝そべる。
「冗談じゃねぇよなぁ…。」
 ハーッと溜息をついて彼はつぶやく。
「朝から何着仮縫いすりゃ気が済むんだよ。あっち向けのこっち向けの、しまいにゃ針でつっつかれるしよぉ。おりゃマネキンじゃねっつーの。」
 着ているブラウスはフランス王家から贈られたポアン・タングルテールという超極上のレースだが、そんなものに何の頓着もなくヒロはクッションを抱えてゴロゴロする。もちろんレースはクシャクシャだ。ナーガレットが見たら卒倒するに違いない。
「ちょっと休憩。お昼寝しよ。」
 ヒロはソファーで目を閉じる。いつもならすぐに眠れるのだが、仮縫いで人形のようにじっとしていたせいで肩が凝っている。枕にしたクッションが何となく落ち着かずモソモソし、ヒロは寝返りを繰り返す…が、やがてむくっと起き上がってクッションをボスッと殴る。と、書庫の影でクスクス笑う声が聞こえた。
 ヒロの耳はピクリと反応する。
「誰だよ!!」とそちらを見ると、
「やぁ。」とロゼが姿を現す。
「なんでお前がこんなとこいんの!?」
 ヒロは目を丸くするが、
「やっぱここにいたな。多分そうじゃないかと思ったんだ。」
 ロゼは床に落ちたクッションを拾ってヒロの隣に腰を下ろす。
「おめ、なんで勝手にヒトんち入ってくんだよ!」
「勝手にってことはないよ。言ってみれば君のお披露目の準備だ。」
「…そっか。ごめん。」
 ぺこっと謝るヒロを見てロゼは笑う。
「すごいブラウス着てるな。礼装用?」
「なんで判んの。」
「いや、だってそんなレース、いくら公爵家でも普段着にはしないだろ。」
「お前ってさ、何でも知ってんのな。第一なんでおいらがここにいるって判ったんだよ。城の奴らだって来ねぇのに。」
「嫌だなこないだ言ってたじゃないか、いつも書斎に隠れて昼寝するって…」
「そうだっけ。」
「そうだよ。じゃなきゃ人んち探し回ったりしないよ。」
 へへ、と笑うヒロにロゼは言う。
「いよいよ3日後だな。」
「うん。」
「祝われる人間が一番大変だと思うけど、しっかりやれよ。」
「判ってるよ。そのためにお前らに色々教わったんじゃねーか。」
「ダンスのステップは練習した?」
「したした。もうカンペキだって。おいら街にいた頃から踊りは得意だったからよ。ンな気取ったモンじゃねぇけどな。」
「ああそしたらそれ、祭の最後の夜に踊るといいよ。1晩だけの無礼講だから、少々のことなら問題にならない。」
「ほんとほんと? マジぃ?」
 ヒロは目を輝かす。ロゼは微笑み、
「ああ。ヴェエルたちも喜ぶだろ。」
「そっかぁ。いやおいらホントはさ、こんな堅ッ苦しいのってでぇきれーなんだ。もっと楽しくさ、パーッとやりてぇのにな。ほら親とか王様とか、そんなん抜きでさ!」
「まぁな…。」
 ロゼの笑顔がふと寂しげに見えたので、ヒロはあれっと思う。
「どした? おいら何か悪いこと言ったかな。」
「いや、ごめん。俺の方こそ、ちょっと昔のこと思い出して。」
「昔?」
「ああ。」
「そういやお前らのことって、おいら案外聞いてねぇんだよな。なぁなぁお前ってどんな風に育ったの。いつ伯爵嗣いだんだ?」
 ニコニコと聞いてくるヒロの笑顔につられ、ロゼは自分の話をし出す。
 ロゼの両親は彼が12歳の冬に馬車の事故で亡くなった。ロゼには姉が1人いるが、既に遠い国の王族に嫁いでいた。ロゼは次の春に「お披露目」つまり社交界デビューを控えていたが、それを飛ばしていきなり「叙爵の儀」を受けることになってしまった。だからロゼは、普通はヒロのように親が主催してくれる「お披露目」というものを一度も経験したことがないのだ。
「王妃様のサロンなんていってもさ。」
 ロゼは遠い目で言う。
「みんな年上ばっかりで、そんなに楽しくなんかないよ。この歳で伯爵だからって、珍しがられてるだけかもな。人の顔色見たりお世辞言ったり、時々嫌になることもあるさ。」
「……」
 返事がないので彼はヒロを見る。何とヒロは涙ぐんでいる。
「おいおい何も泣くことないだろ。そんな大層な話じゃないよ。」
 ヒロは袖口でぐすっと洟を拭く。うわ、とロゼは思うがヒロは気にせず言う。
「そっか…。お前も苦労してんだ。」
「いや苦労ってことはないけど、それなりにね。」
「おいらさぁ、お前らみたいな大貴族の子供って、何の苦労もなくチヤホヤされて生きてきたんだとばっか思ってたけど、んなことねぇんだな。」
「大貴族って、君が言うと変だよ。」
「だっておいら平民育ちだものぉ。」
「そりゃまそうだけど。」
「人間なんてみんな、おんなじなのかもな…」
 ぼそっと言うヒロにロゼは、
「そうだな。俺たちだけじゃない。ルージュだってそうさ。」
「ルージュ…。お、そういやここんとこあいつにも会ってねぇな。どうしてんだろあいつ。」
「ああ、彼は今大変だよ。」
 そう言ってロゼは説明する。
「聖ローマ祭の3日めに、最大の催しとして御前試合があるんだ。1万人が入れるコロシアム(野外円形競技場)で、国王一家ご臨席の騎馬試合。ルージュはそれに出るからね。」
「へーっ! 騎馬試合ってぇとアレだろ? こう剣持って盾持って、カブトとかつけて戦うの。へぇぇあいつそんなんに出るんだぁ。そぉりゃかっけーだろぉなぁ! よ〜し、おいらも見に行こ。応援すんだ応援!!」
 楽しそうなヒロに、ロゼは言う。
「彼が出るのは単に競技としてじゃないよ。この御前試合では、士官学校の生徒や各地の腕自慢たちが集まって勝ち抜き戦をして、最後に残った1人がルージュと戦うんだ。侯爵家嫡男、つまりは次期元帥であるレオンハルト様とね。」
「え…。じゃあそれって、負けたらあいつの恥…」
「まぁ恥っていうかね、…この国の軍隊が最強であることを示して領民を安心させるのがそもそもの目的だから、勝つことがルージュの役割だっていうのは、言えてるかも知れないな。軍隊を統括するアレスフォルボア家の、それが掟なんだよ。」
 ヒロは悲壮な顔で言う。
「…国中から集まってきた、んで勝ち抜き戦に勝ってきた、いっちゃん強い奴とやんだろ!? こんな筋肉ムキムキの、バケモノみてーな奴だっていんだろ!?」
「ああ。」
「そんなんとあの細っこいルージュがやって、勝てんのかよあいつぅ!」
「…勝つんだよそれが。」
 静かにロゼは言う。ヒロは真剣な目で彼を見る。ロゼは繰り返す。
「勝つんだ、あいつは。いつもいつもいつも。勝って勝ち続けて、時々見てて痛々しくなるよ。神はいったい、いつまで勝ち続けたら彼を自由にしたもうのか、ってね。
負けることが許されない奴。ルージュはそういう奴なんだ。
きっと今頃は傷だらけになって、剣の稽古をしてるよ。誰も来ないとこで、独りきりでね。そうして平然と1万人の前に現れ、たやすいことのように勝ってみせる。だから彼の汗と涙を知らない人間は、軍神の申し子だの国の守り神だのと無責任にルージュを讃え、過酷なまでにさらなる期待を、彼の肩に背負わせるのさ…。」
 ぐしゅっ、とヒロはまた袖で洟を拭く。
「おいら…あいつに謝んなきゃな…。何の苦労も知らねぇなんて、ひでぇこと言っちまった…。」
「平気だよ。」
 ロゼはヒロの肩を叩いて言う。
「苦労してるなんて、誰かに言われるのが彼は一番嫌いだよ。大変は大変かも知れないけど、その代わり、1万人の拍手は彼だけのものだ。ルージュは案外、大変だなんてこれっぽっちも思ってないのかも知れない。」
「んなことねぇよぉ。」
 ヒロは首を振る。
「だってあいつ優しいもん。スカしてて気取ってて女好きだけど、あいつってすごく優しいぜぇ? 苦労してなきゃ人間、優しくなんてなれねんだよ。ルージュはきっと、誰もいないとこで泣いてんだよ…。」
 自分の言葉に誘われたかヒロはポロポロ泣きだす。これ以上洟を拭いたらさすがにレースがガビガビになるなと、ロゼは慌ててハンカチを渡し、さらに話題も変える。
「な、な、それより…さっき言った最終日の夜だけど、仮装舞踏会があるんだ。俺らで何か変わったことやんないか。」
「変わったこと?」
 ヒロはハンカチでビーッと洟をかんで、それを「ん。」とロゼに返してよこす。
「あ、ああ。その…俺ら5人で、何かさ。去年まではヴェエルも社交界デビューしてなかったし、3人じゃ大したこともできなかったんだ。ま、まだ時間はあるから、何か考えとけよ。な。」

 
 離れの中庭でルージュは、木の杭を敵に見立てたパッサード(突き)を1000回繰り返していた。剣の柄には重しをつけてあるので右腕にはもう感覚がなくなり、息が切れて目がかすみだした。滴る汗に濡れた額に、乱れた髪が貼りついている。
「997、998、999、…1000!」
 数え終わって彼は剣を杖のように地面に刺し、ずるずると膝をついて倒れる。大の字になってハァハァいっていると側の木立ちから、
「まだまだだ、レオン!!」
 と声が飛んでくる。
「親父…。」
 ルージュは半身を起こす。彼をレオンと呼ぶのは父侯爵しかいない。ふらっと現れた彼(緒形拳さん)は農夫のように粗末な格好をしている。草を踏んでルージュに近づき、
「なんだ、どうした。だいぶへばってるなぁ。そんなことじゃあ今年の試合は、誰かに持ってかれちゃうかも知れないな〜!!」
 人を食った風貌だがこの侯爵は、百戦錬磨の猛将として諸国に雷鳴を轟かせている。
 ルージュは髪を振って立ち上がる。
「からかいに来たのかよ。」
「まぁちょっとな。近くまで来たもんだから。どうだ今夜は一緒にメシでも食うか。ママンにもそう言っておく。あとでこっちの城に来いよ。な。待ってるからな。」
「…ああ。」
 侯爵はルージュに背を向けて歩み去ろうとし…た次の瞬間、
「喝――――っ!!」
 ものすごい気合とともにルージュの剣がつば元から叩き折られる。侯爵は短剣を顔の前に構えているだけだ。
「…俺が敵だったら、今頃お前は死体になってるぞ。剣を抜いたら一瞬たりとも油断するな。戦さ場では誰も、守っちゃくれん。」
 言い残して今度こそ彼は歩いて行く。ルージュはその背を見つめる。
 
「梔子の〜♪ 白い花〜♪」
 鼻歌を歌っていた侯爵は、歩調も緩めずに頭上に言いかける。
「忍びか。何だ。悪い知らせか?」
 するとガサガサッ、と枝が鳴って、くの一が草の上に膝まづく。
「は、少なくとも幸せなお気持ちにはなれぬ話かと存じます。」
「…そうか。」
「聖ローマ祭、それに公爵家主催の大舞踏会と催し事が続きます。このような折には自然、国内の曲者のみならず異国からの禍事(まがごと)も忍び込みがちにて…」
「さようなことは最初から判っておる。だからこそお前たちに影の警備を固めるよう命じたのだ。」
「は、かしこまってございます。」
「何が紛れ込んでいる。」
 侯爵はくの一に尋ねる。
「鼠か。夜鷹か。それとも…悪魔か。」
「これは風聞にございますが、北方からの穢(けが)れた毒蛾が、わが国の賑わいに乗じて偵察部隊を送り込んだ由、今すぐにどうということもございますまいが、災いは早めに取り除くのが肝要かと。」
「北からの毒蛾か。動き出したか。」
「はい。」
「ふむ…。」
 侯爵は腕を組む。
「まぁ、奴らも馬鹿ではない。ただちに騒ぎを起こすような真似はすまいが、こちらの力を試す意味で何やら悪戯を仕掛けてくる可能性はある。街道筋の警備を強化するよう、第1第2の騎甲師団に伝えよ。」
「は、かしこまりました。」
「それからスガーリに、レオンの身の回りを十分固めるよう申しおけ。ただしレオン本人の耳には入れるな。余計な気を散らして試合がおろそかになっては困る。あいつもまだ、そこまでの負荷には耐えられまい。」
「御意、閣下。」
「よし、では行け。」
音もなく、くの一は姿を消す。侯爵は後ろを振り返り、木立の間に息子の背をすかし見てつぶやく。
「平和な時代というのは、決して長くは続かないものだ。哀れだがやはりお前の手は、血に染まっていくのだろうな、レオン…。」
 強くなれ、と侯爵は思う。強くなる以外に自分を護るすべはない、それが武人の定めなのだ。
 
 久しぶりに両親と食事をして自分の城に戻ってきたルージュは、出迎えたサヨリーヌにショコラが飲みたいと言う。彼女は厨房に伝えてからルージュの部屋へ行き、着替えを手伝ってやる。
「父上様母上様には、ご健勝であらせられましたか?」
 亜麻色の髪をブラッシングしながら聞くと、ルージュは椅子の背に首をあずけて言う。
「ああ。あのクソ親父、当分くたばんねぇな。」
「またそのような憎まれ口を。」
「そういやお前のオヤジに会ったぞ。」
「まぁ、父にですか。侯爵閣下にきちんと、お仕えしておりましたか?」
「ああ。サヨリーヌはきちんとお仕えしておりますか、つってた。」
「んまぁ…。」
 彼女は苦笑する。サヨリーヌの父サミュエルは侯爵の側近で、狩りやチェスや、その他あまり感心しない遊びなども共にする仲だ。
「聖ローマ祭が終わって、秋になったら、俺も17か…。」
「そうですわね。」
「1年なんてすぐだよな。」
「まことに早うございます。」
「お前もババァになる訳だ。」
「若君っ。」
「いてっ。」
「そのような憎まれ口ばかりおっしゃっておられると、今にそのお美しいお口が曲がってしまいますよ。」
「昔っからお前そう言うのな。何か科学的根拠あんの?」
「根拠は存じませんが、ずっとそのように言い伝えられております。」
「言い伝えか…。」
 黙ってしまったルージュを彼女が愛しい想いで見つめていると、彼は突然目をあいて言う。
「いずれは俺も戦さで、人、殺すのかな。」
「えっ…」
 思わずサヨリーヌは手を止める。ルージュは続ける。
「親父も、その親父も、そうやって戦ってきたんだよな。この国を守るために。国王の軍隊を預かる、この家の男はみんな…。」
「さようでございますとも。」
 一瞬だけ感じた不吉なものを打ち消して、サヨリーヌは力強く言う。
「この国に暮らす幾万の民を、若君はお守りになるのでございます。民たちが安んじて暮らすためには、強い力が必要でございます。異国の侵略に脅えずに済むよう、この国が一層、富み栄えるよう…。」
「誰かを殺して、か?」
 ちらり、と鋭い目でルージュに見られ、サヨリーヌは何も言えなくなる。が彼はすぐに、
「わり。どうかしてんな俺。何言ってんだろ。」と笑う。
 するとちょうどそこにノックの音がする。サヨリーヌが出ていくと、銀盆を捧げ持ってチュミリエンヌが立っている。
「ルージュ様にショコラをお持ちしました。」
 サヨリーヌに手渡しながら部屋の中を覗こうとするチュミリエンヌに、
「ご苦労。もうよい、早くお下がり。」
 そう言ってサヨリーヌはドアを閉める。
「ちっ!」と指を鳴らしチュミリエンヌは戻っていく。
 ショコラを飲みながらルージュは言う。
「親父んとこも今夜は、何かバタバタしてたな。今年は大祭だから、警備とかいろいろ大変らしいわ。」
「さようでございましょう。いつの日か父上様の代わりが立派に勤まりますように、若君ももっともっとご精進なさらなくては。」
「冗談じゃねえって。」
 サヨリーヌの梳いた髪をつややかに光らせてルージュは笑う。
「俺が元帥になったら、面倒臭ぇ小ぜりあいなんかピタッとなくしてみせっかんな。善き行いには報奨を。悪しき行いには刑罰を。国家安泰の基本だろ。善き方はヒロの奴にまかして、悪しき方には俺が目ェ光らせるさ。」
「それよりもまず若君には、御前試合という大役がございます。」
 サヨリーヌは両手を膝に揃えて言う。
「若君の雄姿を拝見したいがために、宿下がりの希望者が多くて困っております。お留守の城が手薄にならないよう、私も力を尽くしますが。」
「あれ?」
 ルージュはカップを置いて身を起こす。
「何だよお前見に来ねぇの? 大事な俺の晴れ姿を。確か去年も来なかったろ。」
「参りたいのは山々でございますが、お勤めがございます。」
「ンだよ張り合いねぇなぁ。来いよ応援ー。なぁ、サヨぉ。」
 ルージュはふざけて駄々をこねる。
「お前が来てくんねーとさ、俺、きっとメタメタに負けちまうわ。落馬してヒィヒィ泣いて、助けてくれって転げ回んの。んで、コイツは侯爵家の名を汚したってんで、爵位継承権も剥奪…」
「伺います!」
 サヨリーヌはぴしゃりと言う。ルージュは口をつぐむ。
「今夜の若君は、ひどくお疲れのご様子です。」
 溜息をついて彼女は言う。飲み終えたカップを受け取って、
「さ、もうお休みあそばしませ。おん腕を少し、おさすり致しましょう。」
 ルージュは自分の右手を押さえる。何も言わなかったがサヨリーヌには、彼の腕の痛みが判っていた。
「…ああ。頼む。」
「心得ました。」
 ベッドに横たわったルージュの肩と腕を、サヨリーヌは優しく揉んでやる。
 彼はすぐに寝息をたて始める。裸の肩をシーツで覆い、サヨリーヌは窓の外の月を見上げる。
 侯爵家とて安泰ではないことを、彼女はよく知っている。ルージュが何か失態をせぬかと、鵜の目鷹の目で見ている親族すらいるのだ。侯爵の嫡男は彼1人なれども、身内の権力争いは大貴族の宿命である。
(どうか若君をお護り下さいませ…。)
 この世の全ての神々に向けて、サヨリーヌは手を組み祈る。
 同じ頃ヒロは寝室の窓から、同じように月を見上げていた。手に持っているのは街を出る時、仲良しだった少女カイがくれた十字架だ。ヒロは十字架に語りかける。
「おいら、何とか頑張ってんぞ。友達も出来たし、いろんなこと覚えた。最初は嫌だったけど、ここもなかなか面白ぇや。食いもんはうめぇし、いいもん着れるしな。ちっと堅苦しいのが玉に傷だけどよ、何でも全部、思い通りにはなんねぇよな。」
 鉱山の煙と町長の家、納屋にいた犬と鶏、カイや仲間たちの笑顔を、ヒロは懐かしく思い出す。
「今頃みんなどうしてっかなぁ。遠いから祭りには来らんねぇだろな。いつかまた会いてぇな。」
 涙ぐみかけてヒロはへへっと笑い、
「あん時みんなで踊った踊り、ルージュたちにも教えてやんだ。あいつらなら馬鹿にしたりしない。身分なんて、んなもん関係ねぇよ。いつかおいらが偉くなったら、きっとそういう国にするんだ。」
 

第2楽章 主題2へ続く
6番楽屋に戻る