『五重奏曲(クインテット)』
 

【 第2楽章 主題2 】

 シュテインバッハ公爵家の門前に連なる馬車の行列は、付近の民がわざわざ見物に出て来たほどの豪華さだった。
 まぶしい初夏の光を受けて、貴賓たちの馬車は次々と城に入っていく。公爵家ただ一人の息子、ヒロ・リーベンスヴェルトのお披露目に集まった客は、王家よりの使者を含めて2千人余り、もてなす侍従たちには当然、休む暇などあるはずがない。
 
 主催者である公爵夫妻のもとへは、小姓たちが入れ代わり立ち代わりやってきて、招待客1人1人の到着を告げる。高貴な客にはそれなりの接待がいる。対処し指示するのはみなサイトーの役目だ。目を回しかけている彼にアマモーラは、
「しゃんとなすって下さいまし、しゃんと!! 私どもがしっかりしなくては公爵家の威信にかかわります!!」
 キッ、と睨みつけて言うが、実は彼女も焦っている。例によってヒロが行方不明なのだ。
 
 ヒロは厨房にいた。見たこともない料理の数々に彼は目を見張り、
「うっわ、これ何これ。うっまそ〜!!」
 こっちの皿からパクリ、あっちの皿からペロリとつまみ食いに精を出している。
「もっと何かねぇかな…。あ、でもバレっとやべぇか。」
 彼はテーブルの下にチョロッと潜りこむ。まるでブロンドの小ネズミだ。
 戦場のような調理場ではツッキーノがパニック状態になっている。その合間をぬってヒロは、
「何だこれ。…すっぺー! 駄目こんなの出しちゃ。あ、こりゃきっと砂糖が足んねぇんだな。よし混ぜといてやろ。」
 などと余計なことをして回るが、すばしっこいので誰にも気づかれない。
しかし生クリームを指ですくって嬉しそうに舐めているところを、
「若様―――っ!!」
 とうとうツッキーノに見つかる。
「やっべー!!」
 あたふたと退散しながらフルーツタルトを1切れ掠め取っていく彼に、侯爵家から手伝いに来ているチュミリエンヌは、
「あれがここの若様なの…?」とびっくりする。
 
 大理石の階段を昇り鏡の廊下を抜け、ヒロはタルトを頬ばりながら歩いていく。御座所近くには衛士たちが直立しているが、ヒロは、
「よ、ご苦労さん。」
 と軽く手を上げて通り抜ける。クリームのついた指をちゅっぱちゅっぱしゃぶっている彼を、
「ヒロ。」
 と呼ぶ声がする。振り返って彼はハッとする。そこには公爵夫人(野際陽子さん)が立っていた。
「あ…。は、ははうえ。」
 ヒロはさすがにうろたえて腰の後ろで手を拭く。
「まぁまぁこんななりをして。おぐしもボサボサ。何をしてきたの?」
 母は歩みより前に屈んで、
「顔にクリームがついていますよ。本当に困った子ね。」
 微笑みつつハンカチでぬぐってやる。ハンカチからもドレスからも、とてもいい匂いがする。
「ちょうどよかったわ。こちらへいらっしゃい。」
 促されたのは母の自室だ。侍女たちを全て下がらせ、母はヒロを長椅子にかけさせる。どうにも落ち着かずキョロキョロしている彼に、
「ご覧なさい。」
 と彼女は赤ん坊の服を見せる。
「そなたが昔着ていたものです。この城を連れ去られる前に。こんなに小さかったというのに、よく無事に育ってくれましたね…。」
 慈しみの目で彼女はヒロを見つめる。
「ずっとそなたを探したけれど、もしやもう生きていないのではないかと、幾度絶望しかけたか知れません。侯爵家のルージュ、伯爵家のロゼ…。宮中で彼らを見かけ、まぶしいほどに生い立っていくのを見るにつけ、誰にも言えないことですが、妬ましく思ったりもしました。今日、こうして我が手でそなたのお披露目ができる。誰よりも喜んでいるのはわたくしですよ、ヒロ。」
「ははうえ…。」
 涙を浮かべている母の姿に、ヒロはふとロゼを思いやる。ああ、あいつはこの日を知らないんだなと思うと、歳よりはるかに大人びている彼が、何だかとても偉く思えた。
「このお披露目が済んだら、そなたはもう名実ともに、立派な公爵家嫡男です。ルージュ・ロゼ・ジョーヌ・ヴェエル。この国の未来を担う若者たちとともに、王家を支え民を護る『五色の御旗』の一員として、精一杯尽くすのですよ。」
「はい、母上。」
 ヒロは素直にうなずく。
「おいら…いえ、私は、あいつら、じゃない彼らについていくのが精一杯で、まだまだ半人前だけど、でも、国中のみんなが幸せになれるように、あいつらと一緒に頑張ります。」
 それを聞いて母は嬉しそうに微笑み、しかし次には一転して、厳しく真剣な顔になる。
「ひとつだけ、そなたに教えておかなければならないことがあります。たとえ公爵家といえども、みだりに口には出来ない事柄。わたくしがこれを申すのは、おそらく今日が最後でしょう。だからよくお聞きなさい、ヒロ。」
「…は、はい。」
 ヒロは母の目を覗きこむ。母は言う。
「国王陛下には、王子様がお2人いらっしゃいます。現王太子のハインリヒ殿下、弟君のアルベルト殿下。しかしこの弟君は生まれつきお体が弱くて、あまり人前にはお出になれません。他はみな王女様で、陛下ご自身にもご兄弟はいらっしゃいません。」
 母は一旦言葉を切り、一言ずつを押し出すように話す。
「王太子ハインリヒ殿下は人望もあり立派な方ですが、もし、もしこの方のお身に何かあった場合には、次の王太子はアルベルト殿下。そして、それに次ぐ第3位の王位継承権を持つのは…」
 ただならぬ母の表情に、彼はごくりと生唾を飲む。一層声をひそめて、母はついに告げる。
「ヒロ・リーベンスヴェルト・フォン・シュテインバッハ。…そう、それはあなたなのですよ。」
 
 2万本の蝋燭に照らし出された大広間は、オリンポスの神殿もかくやという七色の煌きに満ちていた。装いをこらした貴婦人たちのドレスは水晶のシャンデリアにあでやかに栄え、楽士たちの奏でる調べはときに優雅にときに華麗に響いて、祝うべきこの宵を豊かに荘厳に彩っている。
「よ〜ぉジョーヌ。」
 大広間に入ってすぐ、ヴェエルは彼を見つけ声をかける。
「やあヴェエル。元気そうだね。」
「元気そうだねって、昨日も会ったじゃねぇかよ、何言ってんだ。」
「いや社交辞令だから気にしないで。」
「どうせ言うならもっと面白いこと言えよ〜!!」
 しばしじゃれあったあと、2人は広間を見回す。
「すっげぇ人数だよね。さすが公爵家。1人息子のお披露目に、金に糸目はつけません、てか〜?豪勢豪勢。」
 ヴェエルが言うと嫌味に聞こえないのは、本当に嫌味ではないからだ。
「見ろよこの料理と酒! まさに山海の珍味ってやつだよ。いっやー…、こたえられませんねー!!」
「おいおいまだ食うなって。公爵ご夫妻にご挨拶してからだよ。」
「だってまだ始まってねぇじゃん。今のうちに食っちゃお食っちゃお。」
「駄目だよ、よせってこら。」
 ヴェエルの腕を引いた時、ジョーヌは「あ。」と何かに気づく。
「なになに? どした?」
 つられてヴェエルもそちらを見る。広間の中央あたりに一際華やかな、貴婦人たちの群れが2つある。
「くわ〜、ルージュだよ…。」
「あっちはロゼだよ…。」
 女性たちに取りまかれて、二大巨頭が権勢を競っている。女たちの平均年令はロゼの方が若干高そうだが、人数は双方いい勝負である。紺色の地に銀の糸で薔薇色の真珠を縫いとった衣装はロゼ、白地に金の刺繍をほどこした正礼装の士官服はルージュだ。
「まさにハーレムだよな。2人ともまだフリーだから、皆さん売り込みに必死だね。」
 ジョーヌが言うとヴェエルは、
「んな、俺らだってフリーだろぉ! 何負けてんだよぅ!」
「いや俺はああいうのは、ちょっと苦手で…」
「んなこと言ってっとぉ! 誰とも交尾できねーうちにジジィになっちまうぞぉ!」
「何だよそれ…」
 そんなジョーヌたちの声に気づいて、ハーレムの主は女の群れを抜けてくる。宮廷を始めとした社交界には、彼らに対する暗黙のルールがある。4人(今夜がお披露目であるヒロはまだ含まれない。今夜以降これは“5人”となるだろう)が集まっている時は、どんな女も話しかけるのを遠慮しなくてはならない。なので女たちは誰もついて来られず、うらめしげに2人を見送る。
「よぉ。」
 ルージュは左胸にルビーのブローチを光らせてジョーヌたちのところへやってくる。もう一方のロゼは、
「やぁ、いい夜だね。」
 と相も変わらず歳に似合わぬ気障な挨拶をする。
「ヒロの奴、今頃ドキドキしてんだろうな。」
 想像つく、といった顔でルージュは笑う。
「ちゃんと挨拶できるといいけどね。」
 ロゼは心配そうだ。
「大丈夫だよ、あんなに練習したんだ。」
 ジョーヌが言う横から、
「あいつも子供じゃないんだからさ、んな甘やかしちゃだめだよ。」
 とヴェエルが皆を笑わせる。
 その時大広間に、高らかなファンファーレが鳴り響く。客たちは一段高くなった公爵たちの座を注視する。式司役の侍従が声を張り上げ告げる。
「お待たせ致しました。ただいま、シュテインバッハ公爵ご夫妻並びに、ヒロ・リーベンスヴェルト様、お出ましにございます。」
 ざわめきは音楽にかき消される。礼装した執事たちに先導されて、どっしりしたマントを引いた公爵(夏八木勲さん)と、長い裾を侍女に捧げ持たれた公爵夫人が現れ、2人に続いてロイヤルブルーの衣装の、ヒロが壇上に登る。
「共に栄え来し我らが佳き国の皆様方。」
 公爵は祝いごとの際の決まり言葉で話し始める。
「本日は我が嫡男ヒロのために当家に集うて頂き、心より御礼申し上げる。いまだ若輩者にて心足りぬことも多いであろうが、どうかよき導きと尊きご助力とを、賜らんことを切に願うものである。いずれ我が身が年老い、敬愛する国王陛下のため力尽くすこと叶わなくなった折には、必ずやこの嫡男に、全ての地位と財産とを、委ねるであろうことをここに宣誓する。」
 父の言葉はなおも続き、ヒロは壇上で目を伏せ、厳しい表情を崩さない。ついこの間まで見せていた居心地悪そうな落ち着きのなさが、影をひそめていることにルージュは気づく。何か自覚を促すようなことがあったかなと思った時、ヒロは父に手を取られ皆の前に1歩進み出る。
「ヒロ・リーベンスヴェルトです。」
 見違えるような堂々とした態度で彼は名乗る。
「以降よろしくお見知りおきの上、お引き回しを賜りますよう、謹んでご挨拶申し上げます。」
 右足を引き胸に手を当て、深く礼をする姿もぴしりと決まっている。集まった客たちはヒロの美貌に驚愕するとともに、小柄な体から漂ってくる貫禄は、すでに公爵家嫡男としての資格十分であると納得する。
 割れんばかりの拍手を贈られ、ようやくヒロは少し笑う。
 
 儀式にあたる催しはかくして滞りなく済み、客たちは食事や談笑を始める。が公爵夫妻とヒロは壇上の椅子に座ったまま、引き続き客たちの祝いの言葉を受けている。ヒロも、次々目の前に現れては膝まづく客たちに、にこやかに言葉をかけている。
「お披露目ってさー、気分いいんだけどこれが辛いんだよなー!」
 去年経験したばかりのヴェエルは言う。
「しかし見事な変わり方だなヒロも。」
 感心してロゼは言う。ヴェエルは肉料理にかぶりつきながら、
「やれば出来んだよやれば。てゆーか俺たちの仕込みがよかったんじゃないの。」
「かもな。」
 ロゼはナプキンで丁寧に指をぬぐい、
「じゃあ俺も、お役目果たして来るかな。」
「お役目って…ああ、そうだよなジュペール伯爵。王立大学を代表しての、祝辞奏上の立ち会いか。」
 シャンパンを口に運びルージュは言う。ロゼはきりっと衿を整え、じゃあねと壇の方に歩いていく。
「いよっ学長先生!! かぁっけ〜!!」
 ヴェエルは冷やかし、3皿めの肉にとりかかる。
 客たちの個別挨拶も終わりに近づいた頃をみはからい、ルージュはジョーヌとヴェエルを連れて公爵一家に祝いを述べにいく。間近で見るとヒロはさすがにげっそりと疲れた様子だ。公爵夫人はルージュに、
「これからもヒロをよろしくお願いしますよ。」
 と言う。公爵も頼もしげに、
「以前も申した通り手加減無用だ。武術も少し教えてやってくれ。」と言う。
「心いたします、閣下。」
 ニヤッと笑ってルージュはヒロを見る。きらびやかな宝石で飾り立てられた彼は、声に出さずに、
(ルージュ、ルージュ!)と呼ぶ。
(何だよ)と応えると、ヒロは親指でクィクィとバルコニーの方を指す。
(おっけ)とルージュが言ってやると、ヒロはホッとした顔をする。
 
 壇上を辞し、ルージュはタイミングをはかってそっと、控の間からバルコニーに出る。ジョーヌとヴェエルもついてくる。ロゼはお役目がら学生たちと一緒にいなくてはならない。少しするとあたりをキョロキョロはばかりつつ、ヒロがやって来る。
「いやー…参った参った参った。もーやだ。おいらもーやだぞ!!」
 服が汚れるのもかまわず彼は、バルコニーにべったり座りこむ。
「なぁ、お前らちゃんと食った?」
 3人を見回しヒロは聞く。
「そぉりゃ食ったさぁ! 思う存分食ったよぉ!!」
 ヴェエルはポンポンと腹を叩く。うらめしそうに横目で見るヒロにジョーヌは、
「そっか、ヒロってずっとあそこに座ったっきりで、何も食べてないんだよね。」
 と気づく。我が意を得たりと彼はウンウンうなずき、
「途中でさぁ、腹鳴りそうになっちってよ、やっべー、って我慢してたら何かキモチ悪くなってきて…。なー、何か食うもん持ってきて。頼む。な、この通り。」
 さっきまでの落ち着きはどこへやら、ヒロは両手をこすり合わせて3人を拝む。
「しょうがねぇな。んじゃ何か取ってきてやれよ。」
 苦笑してルージュはジョーヌに言う。
「判った。待ってて。」
 ジョーヌとヴェエルは中に入っていく。2人きりになると、ルージュはバルコニーの手すりに肘でもたれ、聞く。
「なぁヒロ。お前、何かあったのか?」
「…何かって?」
 ヒロの問い返しが一呼吸遅れたのを聞き逃すルージュではない。
「いや、なんかさ。お前、感じ変わったから。」
「そうかぁ?」
 ヒロは立ち上がってルージュの隣に並び、
「だってお前らにさ、色々教わったべ? それでどっこも変わってねぇんじゃ、お前らのタチバがアレかと思って。そ、だからつまりはお前らのためなんだよ。」
「うっわ〜身の程知らず! 普通それ、言うか?」
 ルージュは言い、2人は笑う。
 やがてバルコニーにはジョーヌとヴェエルが戻ってくる。
「ほら、山ほど調達してきてやったよ。」
 2人は両手に、よくもまぁこんなにと思うくらいの料理を乗せた大皿を持っている。
「うっわ、うまそ〜!!」
 ヒロは満面に笑みを浮かべ、子羊の腿肉ローストにかぶりつく。
「おい、んな急いで食わなくたって誰も取りゃしねって。」
 ルージュは呆れ、こりゃ客の前で食わせなくて正解だわと思う。
 大皿4枚の料理をぺろりと平らげ、ヒロは、
「いや〜食った食った!」
 と満足そうだ。
「そんなに細いのによく食うねぇ…。」
 あいた皿を重ねてジョーヌはむしろ感動の面持ちである。
「な、お前ら先に広間戻ってろ。」
 思いついてルージュは言う。
「4人とも姿くらましてたんじゃ目立つだろ。もし公爵とかがこいつ探してたら、何とかうまいこと言って適当にごまかしとけ。」
「うん判った。」
 ジョーヌはうなずき、
「でも一休みしたら戻ってきなよ。」
 そう言い残してヴェエルと一緒に中に入る。
一休みといってもそのバルコニーは、人通りのある控の間とはカーテンを1枚隔てただけである。ヒロは、誰かに見つかると面倒だと思い、ちょいちょいとルージュを手招いて、滅多に人の来ない中庭に面した回廊へと階段を下りていく。
 植え込みと木立ちが人目を遮るその庭は、昼間ならなかなか風情があるが、今はまばらな篝火だけがかろうじて辺りを照らし出す、逢引にこそふさわしい秘密めいた場所になっている。
「へぇ、この城にもこんなとこがあったんだ。」
 ルージュは興味深そうだ。
「な! ここなら誰も来ねーだろ?」
 ヒロは低い手すりに腰かけて笑う。
「そうだな。…だけどお前と2人じゃなぁ。どうせならこの上に集まってる可愛いレディとさ、人目を避けて忍び会いとか…チッキショー、してみてぇ〜!!」
 ルージュが言うとヒロは、
「そんなんヒトんちでやんなっつの。自分とこでやれ自分とこで。」
 よっ、と身軽に手すりの上に立ち上がり、両手を広げて綱渡りのように歩き出す。
「おい落っこちんなよ。」
 ルージュは言う。落ちたにしても高さはたったの70センチ程で、下は芝生だから大したことはない。ヒロはヤジロベエになりながら言う。
「おいらさぁ、お前に謝んなきゃなんねぇんだよ。」
「謝るって何を。」
 ルージュが聞くと、
「うん。ほらいつかさ、エスコートの練習ん時。お前は侯爵家の若君だから何も判んねんだっつったべ、おいら。」
「…そうだっけ?」
「あれさぁ。も1回改めて取り消すわ。おいら何も知んなかったけど、ロゼに聞いて初めて判った。御前試合でお前、大変なんだってな。」
「え?」
 問い返してからルージュは、
「ッたく何言ったんだよロゼの奴…。」
 とつぶやく。ヒロは1歩踏み出しては「おっとっと」とふらつき、彼に背中を向けて言う。
「お前は負けることを許されない男なんだって、あいつ言ってた。そのせいでますます期待されて、何だか痛々しいってさ。」
「マジかよ…。」
 ルージュは眉をしかめる。当たっているかどうかはさておき、こういう評価をされるのが彼は最も苦手なのだ。がヒロは肩越しにルージュを振り向き、ニヤッと笑う。
「だから、おいらが勝ってやるよ。」
「なに?」
 意外なセリフにルージュは面食らう。ヒロはさらに言う。
「いつかおいらが、お前に勝ってやる。まぁ、剣じゃ無理かも知んねぇから、何かもっと…でけぇことでさ。お前独りがいつまでも勝ち続けなくて済むように、おいらがお前のこと楽にしてやるよ。」
 笑いかける目に潜むのは、いまだかつてルージュが誰の中にも見なかった強い光であった。この時2人はともに、“好敵手”という名の生涯の友を得たのだが、もちろん彼もヒロもまだ、そうとははっきり気づかなかった。
 その瞬間。
 はっ、と闇に目を走らせてルージュは剣の柄に手をかける。何事が起こったのか理解する間もないうちに、ヒロは彼に突き飛ばされる。
「なっ…!!」
 怒ろうと顔を上げたヒロに、
「伏せてろ!!」
 ルージュは叫び、闇の奥から放たれた矢を剣で叩き落とす。
「ル、ル、ルージュぅ!!」
「動くな!! 頭かかえてじっとしてろ!!」
 ヒュンヒュンと風を切る音にヒロは震え上がり、言われた通りに丸くなる。
「何者だ!!」
 切れ目なく射かけられる矢を打ち払いつつルージュは怒鳴る。
「ここをシュテインバッハ家と知っての狼藉か!! 卑怯者でなければ姿を見せろ!!」
 ぴたり、と矢の雨がやむ。ルージュは構えを崩さず闇を睨みつける。辺りを満たしていた緊張感が、引き潮となって消えるのをルージュは感じる。彼は剣を下ろす。ヒロもこわごわ首を伸ばす。
「ル、ルージュぅぅぅ…。」
 かすれた声でヒロは呼ぶ。野生の豹にも似た視線を四方に走らせていた彼は、
「ああ、大丈夫か。」
 と剣をおさめ手を差しのべる。
「よぉ、何だよ今の…。」
 ヒロは震えている。
「知るかよ。あんな卑怯な不意打ち、まともな奴じゃねぇだろ。」
 ルージュの顔も青ざめている。
「しかも1人2人じゃなかった。どっから入ってきやがった。今夜の警備は万全にしたはずなのに。」
 ルージュは舌打ちする。ヒロはもしかしてと思う。
「まさか、おいらを…狙ったの、か、な。」
 母の部屋で聞かされた王位継承権の話をヒロは思い出す。よくは判らないながらもあの話は、この国での自分の立場が思っていたよりはるかに重いことを彼に悟らせた。それが自覚となって、ヒロは大広間であのように落ち着いた態度を取れたのだが、ルージュはまだそこまで知らないから、ヒロを不安がらせまいと、
「いや、そうじゃねぇだろ。」と否定する。
「こういう大きな催しとかあると、窃盗団の奴らが狙ってくんだよ。第一お前が目的なら、真っ先にお前狙ってくんだろ。お前そこで丸くなってたのに、矢なんか1本も飛んでこなかったじゃねぇかよ。」
「…何だよその言い方はよぉ。頭抱えてろってお前が言ったから…」
「ああもうそんなんどうでもいいから!!」
 ルージュは声を荒げる。
「とにかく戻ろう。他の奴らにはまだ何も言うなよ。」
「言うな、って…」
 無茶だという顔をするヒロにルージュは言う。
「賊がまぎれこんだなんて、お前いま客に知れてみろ。パニックになんに決まってんだろが。公爵には後で俺から話す。お前は何もなかった顔して客の相手してろ。」
「でもよ…。」
 まだ不安そうなヒロに、
「いや、大丈夫だから。」
 ルージュは強く言う。
「俺を信じろよ。この国の警備はうちの仕事なんだ。妙なもんが入りこまないように周り固めっから。な。お前がおどおどビクビクしたら客が変に思うだろ。こっから先は俺にまかせろ。いいな。」
「ルージュぅ…。」
「さ、んじゃ戻んぞ。」
 油断なく辺りに目を配りつつ、ルージュはヒロを抱えるように階段を昇ってバルコニーへ急ぐ。
大広間にヒロを放り込むと、ルージュは長い廊下を全速力で走る。
「何でこんなに広いんだよこの城は!!」
 たまたま正面玄関にはサイトーがいた。
「これはルージュ様、どちらへ…。」
「あとで話す!!」
 城の外へ出るとルージュは初めて、大声を出してスガーリを呼ぶ。
 駆け寄って膝まづく連隊長をルージュはいきなり、
「警備隊は何してんだよ!!」と叱責する。
「賊がまぎれこんでる。ヒロと中庭にいて、いきなり射かけられたんだからな!!」
 聞いたスガーリは顔色を変える。ルージュは詳しく様子を話し、
「正体は判んねぇけど、ヒロは自分が狙われたと思ってる。窃盗団か、じゃなきゃ公爵家に恨みを持ってる奴か…。とにかく今夜何か起きないように、すぐ警備兵を増やせ。まだ城の中にいる可能性もあっから、俺は今からそっちを探す。誰か足の速いのを2〜3人…。」
「いえ、それはおやめ下さい若君。」
 スガーリは止める。
「今宵は公爵家のお祝いの席にございます。父君侯爵閣下の名代としてご出席の若君には、何よりもまず公爵家への礼をつくすという大事なお役目がございます。警備と捜査は我らにおまかせ下さい。」
「任せらんねぇから言ってんだろ!!」
 やはりカンが立っているのかルージュは怒鳴る。
「現にお前らの目を盗んで賊がまぎれ込んでんだよ!」
 しかしスガーリはガンとして聞かない。
「そのお叱りはあとで。今宵の若君は武人としてではなく、侯爵家ご嫡男としてこの城をご訪問されております。よもやとは思いますが、賊どもの狙いがヒロ様であったとすれば、お守りになれるのは若君しかおられますまい?」
ルージュはグッと言葉に詰まる。スガーリに押し切られた証拠だ。
「どうぞ、お戻り下さい若君。これよりただちに警備にあたります。…御免!!」
 スガーリは彼の前を辞す。
だがスガーリの胸には全く別の不安が渦巻いていた。賊とはただの曲者ではなく、侯爵に聞かされた“北よりの穢れた毒蛾”…他国の密偵であるやも知れない。とすれば彼らの狙いは、ヒロではなくルージュである。軍を指揮するアレスフォルボア家の後嗣がどの程度の男なのか試し、あわよくば亡き者にしたいと思っているに違いなかった。
 
 広間に戻ったルージュの元に、ジョーヌとヴェエルが駆け寄ってくる。
「どこ行ってたんだよぉ、心配したぜぇ?」
「ああ、悪い。」
 ルージュはヒロを探すが姿が見えない。ジョーヌは言う。
「ヒロね、具合悪くなって部屋に戻った。せっかくダンスの練習したのにさ、役に立たないじゃん、全く…。」
「あんなガツガツ食うからだってぇ。すきっ腹にいきなり羊と鴨とエスカルゴなんか食ったら、気持ち悪くなるに決まってるよ。」
「そっか。」
 ルージュはひとまずホッとする。自室なら誰か付いているはずだし、まずは一番安全な場所だ。
 大広間にはワルツが流れ出す。
「あ、ダンスが始まる。」
 ヴェエルは気づく。貴婦人たちの目が彼らを見て妖しく輝いている。
「あれ? 踊んないの? ルージュ。」
 行こうとしてジョーヌは足を止める。
「ん…ああ、ちょっとな。いいからお前らは踊ってこいよ。」
「へー、ルージュがパスするなんて珍し〜! よっしゃチャンスだチャンス!」
 2人はフロアへ出ていく。
 ルージュはワイングラスを取って窓のそばに行き、外をすかし見る。先ほどよりも松明が増え、兵士たちの持つ弓と槍が灯影に時おりキラッと光る。これだけ厳重にすればまさか何も起きないだろうと、彼はゴクリとワインを飲み下す。
 しかしルージュは落ち着かなかった。試合ではいつも勝利をおさめ、太陽神アポロンの化身とまで呼ばれたことのある彼だったが、中庭でさっき感じたのは、生まれて初めてその身に浴びる“殺気”というものであった。
「誰だよ…。」
 ルージュはガラスに拳を押しつける。気づくのがもう少し遅かったなら、あの矢に喉を貫かれていた。
松明を凝視していた彼は、ポンと背後から肩を叩かれ思わず息を飲む。振り向くと、
「何だよ、どうしたんだ。」
 笑いながらロゼが立っていた。
「ンだよお前か…。」
 ほっ、と溜息をつくルージュにロゼは、
「ヒロの奴、頑張った方だよな。緊張がほどけてグッタリきたんだろ。」
 誘い出し笑いを向けるが、ルージュは乗ってこない。おやっと思ったロゼに彼は、
「な、お前も聞いてるよな。昔ヒロをさらった奴らって、一網打尽になったんだろ?」
「ああそういう話だね。」
 答えるロゼにルージュは聞く。
「でも残党がいる可能性って、ほんっとにねぇのかな。」
「残党? いやそれはないんじゃないの? だってルージュのお父さんが、まるで戦争みたいに軍隊を総動員して、首領も一族も全員つかまえたって、俺はそういう風に聞いてるけど。」
 ロゼはルージュの顔を見、
「なに。ひょっとして…さっき何かあったの。」
「…あった。」
 ロゼには隠す必要もない。ルージュは手短に中庭でのことを説明する。
「残党がいたとすれば、ヒロに復讐とかしようとしたって不思議はねぇだろ。邪魔な俺をまず片づけて、それからもう一度ヒロを…」
「ちょっと待って。」
 ロゼは止める。
「ね。逆にルージュを狙ったとは考えらんないかな。」
「俺をぉ?」
「そう。だって首領を捕まえたのは公爵じゃなくて元帥、ルージュのお父さんなんだから…」
 そう話しつつロゼは、ふと、えもいえぬ不安を感じる。なぜ自分がそれを感じたのかよくは判らなかったが、公爵家への復讐などという単純なことではなくて、もっと大きな禍事が近づいているような予感だった。
「あした、親父によく聞いてみるわ。」
 窓の外を見てルージュは言う。
「そうだね、それがいいよ。」
 ロゼは賛成し、彼の横顔を見やる。瞳に映りこむ松明の火は、昔から“戦いの予兆”と呼ばれている不吉な赤い星によく似ていた。
 
 愛馬シェーラザードにムチをあて、ルージュは父の城へ急いでいた。戦さの折には本陣にもなり得る城であるから、門の前は急な昇り坂だ。苦にもせずそこを駆け上がると、槍を持った兵士の立つ門が見えてくる。速度をゆるめず近づいてくる馬に、兵は一瞬身構えるが、誰であるかを知るとサッと槍を引いた。砂埃を蹴たててルージュは走り抜ける。
「これは若君、いかがなされました。」
 驚いて出迎えたサミュエルにルージュは聞く。
「親父、いるか。」
「閣下はただ今お支度中にございます。」
「支度?」
「はい、シュテインバッハ公爵家をご訪問なさると…。」
「丁度いい。火急の用だ、通せ。」
「いやしかし…。」
「いいからどけ!」
 ルージュは強引にサミュエルを押しのけ、ずんずんと歩き出す。
侯爵の部屋の前で、ルージュは立ち止まりノックしようとする。すると中から、何やら女の切なげな声がする。
「まただよ…。」
 舌打ちしてルージュは一呼吸おき、乱暴にドアを叩く。
「誰だ。」
 驚いたような父の声に、
「俺。あんたの息子。つってもソッチのじゃねぇけどな。」
 慌てる気配があってそれから、頬を赤らめた若い女官がドアを開けた。美人である。ルージュは部屋に入る。
「何だ、使いもよこさずに。」
 侯爵は渋面を作っているがルージュは無視して椅子に座り、
「公爵んとこ行くんだって?」
「ああ。…そういえばスガーリに聞いたぞ。夕べ何者かに射かけられたそうだな。」
「ああ。」
「その件か、お前の用は。」
「ああ。ちょっと気になることがあってさ。」
「何だ、言ってみろ。」
 ルージュは夕べロゼと話したことを父に尋ねる。だが父は、
「残党はいない。一味は、可哀相だが赤ん坊に至るまですべてを捕らえ処刑した。昨日の賊は、あれは全く別の輩だ。」
「なんでそう言い切れんだよ。」
 ルージュは聞く。
「城に戻ってきたばっかのヒロに恨み持つ奴なんていねぇだろ。公爵に何かしようっつんなら、警備が厳しくなるって判りきってんのに、わざわざあの晩忍び込む訳ねぇし…。」
 あれこれ推理を並べるルージュの話を侯爵は聞き流していたが、
「ロゼの奴はさ、ヒロじゃなく俺が狙われたのかもなんて馬鹿なこと言い出すしよ、ッたく何も判っちゃいねぇよなあいつ。」
「伯爵が?」
 父は真顔になる。さすがは明晰をもって知られるジュペール伯爵だと、彼は密かに感心する。
「ま、とにかくこの件には、お前はこれ以上係わるな。あとは俺にまかせとけばいい。判ったなレオン。」
「係わるなって…」
 不服そうなルージュに父は言う。
「そういえば、こないだの話。あれ、ちゃんと考えたか。」
「あれって?」
「おいおいとぼけるんじゃないよ。こっちの意向を早く伝えにゃならん。相手様に失礼だろう。」
 応えずにルージュは立ち上がる。
「おい、人の質問にはちゃんと答えてから帰れ。」
 父は言うがルージュは、
「御前試合が終わってからでいいだろ。それまでは余計なこと考えんなって、そっちが言ったんだからよ。」
「そうだ。余計なことは考えるな。公爵家のこともな。今のお前はそれどころじゃないはずだ。」
 ルージュはバタンとドアを閉め出ていく。侯爵は浅く溜息をつく。
 
 その頃公爵家では、ヒロが父親に剣を選んで貰っていた。父の部屋にはずらりと当代の名工の手になる剣が並べられ、父は楽しそうにその説明をしつつヒロに言う。
「公爵家の人間は直接戦さに出ることは許されないんだが、男である以上はやはり、武術は身につけなきゃならん。これでも私は、それなりに腕は立ったんだぞ。まぁあの侯爵にだけは、どうしてもかなわなかったが。」
「侯爵って、ルージュのお父さんですか。」
「そうだ。もっとも奴は戦さが本職だから、勝って当然といえば当然だがな。あのルージュは将来、父親を凌ぐだろうという噂だ。お前もせいぜい鍛えてもらいなさい。」
「こぇ〜…。あ、いえ、はい頑張ります。」
 よしよし、と父がヒロの肩を叩いた時、侍女が来る。
「申し上げます。ただいま、アレスフォルボア侯爵がお見えになりました。」
「おおそうか。構わない、こちらへお通しするように。」
「かしこまりました。」
 夕べの件だなとヒロにはピンと来た。
 ルージュの父に会うのは初めてなりから、ヒロは興味がある。さぞや細身の美男子であろうと思いきや、
「失礼いたします。」
 入ってきたのはルージュとは全然似ていない男だった。
「お初に御意得ます若君。愚息がいつもお世話になりまして。」
 ニヤ、と笑う雰囲気は、しかしルージュと同じだ。あいつは顔は母親似、性格は父親似なんだろうなとヒロは思う。
「お、すごい剣だな。これはみんなお前のか。」
 侯爵は親しげな口調でヒロの父に言う。公爵も笑って、
「実はな、今日お前が来たら頼もうと思っていたんだ。この子に合う剣を選んでやってくれないか。」
「若に?」
「ああ。剣を見る目は、俺より確かだろうアレス侯。」
「まぁな。どれどれ…若様がお持ちになるんなら…。」
 侯爵は何本かを手に取り、鞘を抜いて子細に調べる。鋭いその目は本物の武人のものだ。
「これが、よろしいでしょう。」
 1本を侯爵はヒロに差し出す。
「初めは少し重く感じるかも知れませんが、下げているうちに慣れてきますよ。さ。」
 ヒロは受け取り、しげしげと見る。公爵は首をかしげ、
「細工は見事だが…少し細すぎないか?」
「いやこれくらいが丁度いい。実戦に使うには華奢かも知れんが、護身用だろう? だったら扱いが軽い方が役に立つよ。」
「そうか。」
 公爵は納得し、ヒロに言う。
「ではそれが、これからお前の身を守る剣だ。手入れの仕方もルージュに教わって、全部自分でやりなさい。」
「…はい。」
 大事そうに両手で持って、ヒロはうなずく。公爵は言う。
「ではお前は下がっていなさい。私はこれからアレス侯と大事な話がある。お前はアマモーラに付いて、午後の読書をするように。いいね。」
 話というのを聞きたかったが、ヒロは一礼して部屋を出る。
 しかし彼はどうしても立ち去りがたくて廊下をウロウロする。あの時自分とルージュを襲ったのが何者なのか、気にするなといっても無理な話だ。
「そうだ…。」
 ヒロの目がキラッと光る。彼はそっと父の居間の隣室に忍びこむ。境の壁に扉があることを思い出したのだ。
 抜き足差し足でヒロは扉に近づき、片目をつぶって鍵穴を覗く。父と侯爵が向かい合って何か話している。ヒロは扉に耳をつける。会話はかすかに聞こえる。
 侯爵は言う。
「実はな、昨夜の若様のお披露目に賊が侵入していたそうだ。若様とうちのレオンが一緒にいるところに、急に矢を射かけてきたらしい。」
「何だと。」
 公爵は顔色を変えるが、
「ああ、若様に口止めしたのはレオンの奴だ。だから若様を叱るなよ。連隊長がただちに警備を強化したんで、その後は何も起きなかったろ。」
「……」
 腕を組んで公爵は黙りこむ。
「ッきしょ…。何言ってんだかよく聞こえねぇよ…。」
 ヒロはイライラして耳を押しつける。侯爵は続ける。
「こちらの若様は、どうやら自分が狙われたと思っておられるようだ。無理もない話だが、まず、それはないと思っていいだろう。お前もよく知っているように、残党は俺がこの手で一人残らず始末した。処刑の丘で磔にした中には赤ん坊もいたから、いくら何でも残酷だとずいぶん非難されたっけな。」
 侯爵は自嘲気味に笑う。が公爵は思いつめた顔で口を開く。
「それはもう言うな。お前は俺の代わりに何もかもしてくれただけだ。今でも感謝している。ヒロが戻ってきてくれたのも、つきつめればお前のおかげかも知れん。」
「おいおいそう出られると気持ちが悪いな。本題はそんなことじゃないんだ。」
「まさか…」
 公爵は眉間を険しくする。
「噂は本当なのか。エフゲイアが動き出したという―――」
「しっ!!」
 侯爵は指を立てる。ギクリとする公爵を無視し、彼はくるっと壁の方を向いて呼びかける。
「つまり、そういうことですよ若様。狙われたのはあなたじゃない。ご安心なさい。」
 ヒロの心臓は止まりかけた。公爵も目をむいて立ち上がる。逃げる間もあらばこそ、駆けよって扉をあけた父に彼は見つかってしまう。
「ヒロ!お、お前はこんなところに…!!」
「ごっごっごっごめんなさい!! おいら、夕べのことがどうしても気になって…!! 盗み聞きなんかしてすいませんでした!」
 床に額をこすりつけるヒロに公爵は溜息をつき、侯爵は笑いながらとりなす。
「まぁいいじゃないか。さぞや不安でらっしゃったに違いない。射かけられたご本人なんだ。ねぇ若様。」
「すいません!」
 もう一度謝るヒロに公爵は言う。
「…いいから早く下がりなさい。」
「失礼いたしますっ!!」
 ヒロはそそくさと逃げ出す。
「焦ったぁぁ…。」
 廊下でヒロは胸を押さえる。侯爵はさすがに武人だけあって気配にはことのほか敏感なのだ。するとそこへアマモーラがやって来る。
「どちらにいらっしゃいました若様。読書のお時間でございますよ。」
 彼女はヒロを勉強部屋に連れていく。
 机に座らせた彼の前にアマモーラは本を積み上げる。
「こんなに読むのぉ!?」
 嫌そうなヒロに彼女は厳しく、そうですと言う。本当は優しいアマモーラだが、真に彼の将来を考えて憎まれ役をかっているのだ。ソファーに腰を下ろそうとした彼女にヒロは言う。
「よぉ、ちゃんと読むからさぁ、独りにしてくんねぇかなぁ。気が散んだよ、じっと見てられっと…。」
「判りました。では次の間におります。」
 彼女は下がっていく。
 独りになったヒロは、先ほどのことを思い出す。父が何か言おうとしたのを、侯爵は慌てて遮った。自分が隠れていることを知っていてそうしたのだから、聞かせないためなのは明らかである。
「エフゲイア、って言ってたよな…。エフゲイア、エフゲイア…。確かどっかで聞いたことが…。」
 ヒロはハッとする。仕事を終えた鉱山の男たちは酒を飲みながらよく昔話をしていたが、80歳になる老人がそこで、こんなことを言った。
「エフゲイアって国は昔っから、儂らの国が憎くて憎くて仕方ないんだ。今は大人しくしているが、何を考えてるか判ったもんじゃないぞ。これは儂のカンだが、奴らはまた騒ぎ始める。ここんとこ流れ者が増えとるだろう。あれはみんなエフゲイアの間者さ。戦をしかける機会を探してるんだよ。」
 同時にヒロは、街の収穫祭にやって来て皆と仲良くなったジプシーたちのことも思い出す。あんたの踊り、あたしは好きだよとヒロを褒めてくれた女(木の実ナナさん)が、町長に聞かせた話だ。
「このあたりの街に得体の知れない奴らが増えてるだろ。言っとくけどあれはあたしらの仲間じゃないよ。あたしらは生粋のジプシーだからね、ヤバい話には決して手を出さないのさ。だけどあいつらは武器を集めてる。夜の間に街道を北へ向かって、どこかへ運んでるみたいだよ。ここの鉱山の石は質がいい。あいつらそれを狙ってるんだ。奴らに石を渡しちゃ駄目だよ。きっと何かよくないことを、しでかすつもりに違いないから。」
「まさかこないだの奴らって…。」
 ヒロはゾッとする。
「エフゲイアの、間者…?」
 ヒロは本の山の中から地図帳を抜き出して広げる。海に面した広い国土を持つ自国の北には、西にロワナ国、その東にマイストブルク王国という小国が並んでいて、両国を越えた向こう側は茫漠たる平原を持つ『エフゲイア公国』である。ヒロは思う。
「なんでこの国がおいらのこと狙ったり、す…」
 彼は息を飲む。侯爵についさっき言われた、狙われたのはあなたではないと。とすればあのとき一緒にいたのは―――
「狙われたのはルージュじゃんかよ!!」
 こうしてはいられない、とヒロは立ち上がり、再びハッとする。
「あいつは今、大変な時期なんだっけ…。負ける訳にいかない御前試合を控えてるんだ…。」
 言わない方がいい、いや言ってやった方がいい。自分の中で入り乱れる2つの意見を収拾できず、ヒロは部屋の中をぐるぐる歩き回る。
そこで彼はポンと手を叩く。
「こういう時はロゼだよ!」
 ヒロは地図帳とノートを抱え部屋を出る。がすぐに、
「若様! どちらへ行かれます!!」
 廊下でアマモーラに追いつかれる。
「いていていて…放せよ! サボリじゃねぇよロゼんとこ。読んでも判んねぇからあいつに教わりに行くんだよ!!」
 疑わしそうな彼女にヒロは「ほら。」と勉強道具を見せる。
「夕方までには帰るよ。ほんと、勉強しに行くんだって。あいつ頭いいもんよ。お前、いい加減信用しろよおいらのこと。」
「…判りました。」
 アマモーラは折れ、
「けれどいきなりのご訪問は伯爵家に対して失礼でございます。まずはお使者を立てられまして…」
「いらねぇよそんなもん。友達に勉強教わりに行くのに伯爵家もお使者もねぇつーの。」
「いいえなりません。急ぎ使者を立てます。」
「ああもう好きにしろ! とにかくおいらは行くかんな!!」
 ヒロは彼女を振り切って歩き始める。
 
 公爵との話を終えた侯爵は、控の間で待っていたサミュエルを連れて城へ戻る馬上にいた。と、公爵家の方から走ってきた早馬が猛スピードで2人を追い越して行く。何だろうと思っているとすぐにまた、小型の馬車が駆け抜けていく。呆れ顔で見送りサミュエルは言う。
「シュテインバッハ家の馬車ですな。えらく急いでいるようですが。」
 侯爵は笑って、
「公爵の坊やだろう。あの方角からすると、行き先はジュペール伯爵のところか。」
「伯爵家に…。」
「ああ。何やら鉄砲玉みたいな坊主だな。はてさて、どんな公爵になられることか。」
「侍従たちの苦労が、忍ばれますなぁ…。」
 
 ロゼは広い書斎の大きな机に向かって羽ペンを動かし、学生たちの討論会の原稿を最終チェックしていた。ノックの音に彼は「どうぞ。」と応える。
「失礼致します。お仕事中に申し訳ございません。」
 入ってきたのはヒナツェリアだ。ロゼは手を止めずに、
「いいよ。急ぎなんだろう。何。」
「ただ今公爵家よりお使者が参られまして、ヒロ様が伯爵をご訪問なさりたいと…。」
「ヒロが?」
 顔を上げたところにちょうど、
「ロゼー!! どこだよロゼぇ!」
 調子はずれなハスキーボイスが響く。
 ヒナツェリアはあわてて廊下に飛び出していく。案内も待たずに何と無礼な、と憤慨する彼女にヒロは、
「おぉいたいたひなっつぅ。久しぶりじゃん。元気だったかぁ? 悪い、今日はおいら、手ぶら。差し入れ期待して飛んできたのに、ごめんな。」
「き、期待だなどと、さ、さ、さ、さような…」
「よぉおロゼ。忙しいとこ悪いな。」
 ヒロはヒナツェリアをひょいと躱してスタスタと書斎に入っていく。
「何だよ。どうした急に。」
 嫌な顔もせずにロゼは迎える。ずらりと並んだ本を背に繻子張りの椅子に座り樫の机に向かっているロゼは、いつにも増して賢そうに見え、ヒロはやはり来てよかったと思う。
「あのさ、ちょっと教えて欲しいことがあんだけど。」
「何。」
 ロゼはペンを置き、部屋の隅で憮然としているヒナツェリアにお茶の支度を命ずる。
「あ、どうかおかまいなく。」
 ヒロはぺこりと頭を下げるが、ヒナツェリアはムッとした顔で出ていく。
「…で、何。」
 ロゼは話を促す。実は、とヒロは説明する。夕べルージュと中庭で何者かに襲われかけたこと、王位継承権のこと、今しがた父親と侯爵が話していた内容、以前自分が街で聞いた話などなど…。全てを打ち明けられたロゼは、ふぅん、と腕を組んでじっと考えこむ。
「これさぁ、あいつに話した方がいいのかな。狙われたのはおいらじゃない、ルージュなんだって。」
 ヒロは言うがロゼは、
「いや、今は話さない方がいい。彼のお父さんでさえ時期をはかってるくらいなんだから。」
「そっか。やっぱそうだよな。大事な試合があんだもんなあいつ。」
 相談してよかったとヒロは思い、ヒナツェリアの持ってきたお茶を飲む。少し心が落ち着いた。
 ロゼはヒロに地図帳を開いて見せる。
「いいか、ここがエフゲイア公国。この国は国土の大部分が乾燥地帯で、しかも冬になれば氷に閉ざされてしまう土地が多いんだ。狩猟をしながら各地を放浪していた騎馬民族がある時この地に定住するようになって、だんだんと勢力を広げて王国を作り、近隣の小国を戦さで征服して、強大な軍事国家になっていった…それが今のエフゲイア公国さ。」
 真剣に聞いているヒロにロゼは説明を続ける。
「今からおよそ150年前、エフゲイアの大公になったジョルジオ二世は、いよいよ我が国に侵略の手を伸ばしてきたんだ。この国には暖かい海と豊かな農地がある。それに良質の鉱山もだ。ジョルジオ二世は5年間に渡ってこの国に大軍を送り込んできた。受けて立ったのが当時の国王…名君とうたわれたゲオルグT世と、元帥アレスフォルボア侯爵だよ。」
「アレスフォルボア…って、ルージュのご先祖?」
「そう。確か今の侯爵のひいお爺さんじゃないかな。ともかく彼が中心となって、この熾烈な戦さを勝ち抜いたんだ。さすがのジョルジオもとうとう侵略を諦めて、北へ帰っていったって訳。」
「ふぅぅん…。」
 ヒロは感心する。ロゼはお茶を一口飲んで唇を潤す。
「この戦さで疲弊したのはむしろエフゲイアの方かな。国内の治安が乱れ反乱があい次いだ。ジョルジオ二世の圧政に耐えかねていた民の不満が、一気に噴出したんだ。中でも比較的豊かだった土地の領主は、独立を求めて我が国に救いを求めてきた。ゲオルグT世はもちろんこれを支援し、新たに2つの国が生まれた。それがこの…」
 ロゼは地図を指で示す。
「ロワナ国とマイストブルク王国だよ。この両国はどっちも、元はエフゲイアの一部だったんだ。」
「へぇぇ〜…。」
「つまり我が国の支援なくしては、この小国は成り立っていかない。王族同士や大貴族間の婚姻は必須事項だね。現にロワナ国の皇太子モリィと我が国の第1王女ルナ様は、生まれた時からの婚約者さ。王女のお輿入れは来年の秋の予定だ。」
「生まれた時からぁ!?」
 ヒロは頓狂な声を出す。
「じゃあなに、王女様は、会ったこともねー男と結婚すんの!?」
「ああ。」
「うっそ、信じらんね!! おめ、人間には相性ってモンがあんだろ? ンな、よりによって自分のでーっきれーなタイプだったら、そのあとの人生地獄じゃねぇかよ!」
「かも知れないな。…でもね。」
 ロゼは静かに言う。
「誰だって望む通りには生きられないよ。君や俺は偶然にも大貴族の嫡子として生まれたけど、貧しい平民の家に生まれる子もいれば、盗賊の一味として生まれる子もいる。溢れるほどの才能に恵まれていても、家が貧しいばかりに学校へ行けない子供はたくさんいるよ。大学には奨学金の制度もあるけど、貧しい者たち全員を救う訳にはいかない。人間はそれぞれ、生まれ落ちたその場所で精一杯生きるしかないんじゃないかな。」
 返す言葉はヒロにはなかった。ロゼは淡々と語る。
「会ったこともない王子に嫁ぐルナ様は、確かにお可哀相だけどもね。でも世の中には、弟たちのために売春宿に売られる娘だっているんだ。王族には王族の義務があるんだよ、仕方がないだろう。」
 ヒロは黙ってしまう。ロゼは言う。
「…なんかさ、俺っていっつも君にこんな話してない? 何か講釈じじいみたいで嫌だな。君の方が年上なんだよ?」
「だってお前のがアタマいんだからしょーがねぇじゃねぇかよ。」
 ヒロは言い、溜息をついて、
「その場所で精一杯に、か…。確かにおいらたちには、それしかねぇのかも知んねぇな。」
 ロゼはお茶を飲みほして、カチャリとカップを置く。
「ところでエフゲイアの件だけど。」
「おお、それだそれ。おいらそれを相談に来たんだよ。」
 ヒロは身を乗り出す。
 ロゼは言う。
「君とルージュに射かけてきたのがエフゲイアの間者だとすれば、狙いは確かにルージュだろうな。近い将来元帥の地位に就く彼の腕を、実際に試してみたんだよ。」
「なるほどな。そんなら全部辻褄が合うよな。」
「ああ。」
 さらに声をひそめてロゼは続ける。
「侯爵が君に聞かせまいとしたってことは、騒ぎを大きくしたくないのと、ルージュの耳に入れたくないからだと思うんだ。だからこの件については、とにかく聖ローマ祭が終わるまで待とう。試合が終わればルージュも気持ちに余裕が出るだろうし、そうしたらまずあいつに話そうよ。」
「そうだな、それがいいよな。」
「君が鉱山の街で聞いた話も、ルージュから侯爵に話してもらった方がいい。間者たちの動きが活発化してるって判れば、早速に侯爵が何か手を打つに違いないさ。この国にも情報網はあるんだから。」
「うん。」
 ヒロはうなずき、言う。
「今ルージュに負担はかけらんねぇもんな。昨日の夜あいつ、真っ先においらを庇ってくれたんだ。殺されかけたのは自分なのに、おいらのこと心配してんだよ。おいらだって少しは、あいつの力になりてぇもの。」
 
 食事していけよというロゼの誘いを、アマモーラに叱られるからと辞して、ヒロは馬車に乗り城へ向かう。黄昏の城下を急ぎ足で行き交う民たちを、彼は窓から眺める。
 ふと見ると道端に、ぼろぼろな服を着た物乞いの親子が座っている。あ、と思ううち馬車は通り過ぎてしまい、次にヒロは頭に籠を乗せた花売りの娘を見る。花はほとんど売れていないらしく、彼女は声を枯らして呼びかけている。ヒロの胸はキリキリと痛む。このまま夜になってしまったら、あの子はどうするんだろうと思う。病気の親が待っているのかも、おなかをすかせたきょうだいが泣いているのかも知れない。
 耳の底に甦ってきたロゼの言葉をヒロは繰り返す。
「人間はそれぞれ生まれ落ちたその場所で、精一杯生きるしかない…。」
 彼は衿のボタンを1つ外して、カイの十字架を引き出す。
「ほんとに、そうなのかな。それしか無理なのかな。おいらには何も出来ないのかな。みんなが幸せになるなんてことは、神様にも無理な話なのかな…。」
 十字架を握りしめてヒロは空を見る。ひときわ大きな宵の明星が、届かぬ夢のように輝いていた。
 

第3楽章に続く
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