『五重奏曲(クインテット)』
 

【 第3楽章 主題1 】

 国中の教会が打ち鳴らす鐘を合図に、のべ10日にわたる大祭典、聖ローマ祭が始まった。
 僧侶も貴族も民たちも思い思いの装いを凝らして、さまざまな催しに出かけていく。城下のあちこちには市が立ち、各地の名産物や珍しい工芸品が飛ぶように売れる。旅芸人の芝居小屋では笑い声がはじけ、人々は夜も昼も区別なく酒を飲んで、大ローマ帝国の繁栄をしのび、豊かなこの国の恵みを享受する。
 
 祭りの3日目、いよいよ国王・王妃ご臨席の御前試合が行われる。全国の予選を勝ち抜いてきた勇者たちは、2日間の決勝戦でさらに数を絞られていき、最後に残ったただ1人が、この日ルージュと戦うのだ。試合開始は太陽が中天にかかる時刻だが、最高の栄誉を与えられる勝者を一目見ようと、民たちの中には前の晩から門の外に並ぶ者までいた。
 
 厳粛なる習わしに従って、ルージュは夜明けとともにローマ神殿へ赴く。神殿奥の”神の泉”で身を浄め、巫女たちの手によって彼は古代ローマの将軍を模した戦いの衣装を着せられる。実際の戦さには鉄の帷子(かたびら)と甲冑をつけるが、御前試合は一種の儀式でもあるから、鉄ではなく緋色の胴着である。
 脚には純金の膝当てをつけ腕にも揃いの長い腕輪を、最後に羽根飾りのついた兜をかぶってルージュは立ち上がる。遠き神々の世に、神軍を率いて天空を翔けた軍神アレスさながらの姿である。
 祭壇の前にルージュは膝まづく。長い白髭の大司教が、仙人めいた神々しさを漂わせながら下りてくる。この神殿で7日7晩の祈りを捧げられたアレスフォルボア家の宝剣を、大司教はルージュの頭上にかざす。
「共に栄え来し、我らが佳き国の勇者よ。そなたに神のご加護があらんことを。この剣(つるぎ)に宿りし神が、そなたを勝利に導かんことを。」
 大聖堂の鐘に送られ、宝剣を下げてルージュは神殿を出る。純白の神馬の轡(くつわ)を取るのはスガーリである。前に7名、後ろに7名の兵士たちに守られて、ルージュを乗せた馬はゆっくりとコロシアムに向かう。先頭の兵が掲げるのは、緋色地に金の双頭の鷹、アレスフォルボア家の大旗だ。沿道のそこここには民たちが集まっていて、
「あれが侯爵家の若君だよ。これから御前試合に行かれるんだ。」
 などと囁き交わしている。身を浄めてのち試合が終わるまで、ルージュは誰とも口をきいてはいけない。唇を引き結んだ彼の横顔を見て、地にひれ伏す民までいる。
 スガーリは鋭い目をあたりに配っていた。怪しいそぶりの者はいないか、不審な集団がうごめいていないか。ルージュがこの国を護るなら、そのルージュを護るのが彼の役割であった。北からの毒蛾が災いを投げてこないよう、スガーリは全神経を研ぎ澄ませ、ルージュの側を離れなかった。
 
 ルージュを城から送り出したあと、サヨリーヌは大忙しだ。祭りの間はどの家も門を開け放ち、訪れる者全てに分け隔てなく酒を振る舞うのが決まりである。なれど彼女は今年、ルージュの希望を入れて試合を見にいくことになっていた。留守中の細かなことは他の侍従に指示していかなければならないが、以前から休みを希望していた者が多くて、人手が足りないのだ。
「あとは私が致しますサヨリーヌ様。どうぞお支度をなさいませ。」
 ボルケリアが言ってくれたので彼女は自室に下がる。ルージュの雄姿を見るのが楽しみでないはずはなく、この日のためにサヨリーヌは衣装もあつらえていた。顔を洗い化粧をし髪を整えていると、
「あの、サヨリーヌ様…。」
 困惑しきった表情で執事の一人がやってくる。
「どうしたのですか?」
 尋ねると執事は声をひそめ、
「実は、ルワーノ様がお友達を連れておいでになりまして…。」
「ルワーノ様が?」
 サヨリーヌは眉を寄せる。執事も同様の顔で、
「皆様酔っておいでのご様子。若君はお留守ですからと申し上げたのですが、まさか侯爵のご長男を私どもが門前払いにする訳には…。」
 2人は顔を見合わせる。嫌がらせなのは明らかだった。
「判りました。」
 サヨリーヌは言う。
「仕方ありません。礼にかなったおもてなしをしてお帰り頂きましょう。」
「しかしサヨリーヌ様、お時間の方は。」
「まだ大丈夫です。」
 彼女は部屋を出る。
 
 客間からは男たちの下品な高笑いが聞こえていた。意を決してサヨリーヌは、失礼致しますと中に入る。赤い顔をした男が3人、ソファーに寝そべって下卑た話に興じている。
「よぉぉサヨリーヌ。久しぶりだな。」
 言ったのはルワーノ…ルージュの腹違いの兄だ。
「あいにく若君は御前試合に行かれておりまして。」
 サヨリーヌが言うと彼は鼻で笑う。
「そんなこたぁ判ってる。国中の人間が知ってるわな。本日アレスフォルボア家のご嫡男は、名誉あるお役目を果たしておいでですってな。」
 ルワーノの口調に籠るのは弟への嫉妬なり。彼は卑屈に笑って言う。
「もっとも、あいつが生まれるのがもう2年遅けりゃ、爵位継承権は俺のもんだったんだがな。父上様のご正室が嫡男をご出産なさったおかげで、妾腹(しょうふく)の俺は一瞬にして後継ぎの地位を追われ、ただの庶子に転落。真面目に生きてんのが馬鹿馬鹿しくもなるぜ。そう思うだろサヨリーヌ。え?」
 彼女には黙っているしかなかった。ルワーノの無念も判らぬではないが、ルージュを恨むのはお門違いである。彼はグラスをサヨリーヌの方に突き出す。
「つっ立ってないで酌くらいしろよ。ご嫡男は召使いにどういう躾けをしてらっしゃるんだ。あぁ?」
「失礼致しました。」
 サヨリーヌは床に膝をつき、瓶を取ってルワーノのグラスにつぐ。
「相変わらずいい体してるなお前。」
 サヨリーヌの胸元をじろじろ見ながらルワーノは言う。
「こんないい女が夜も昼もお側にいるのに、ご嫡男はお手をおつけにもなりませんか。もったいない話だ。豚に真珠とはこのことだな。」
 彼の言葉に友人たちも、サヨリーヌの全身をねめまわす。
「お前、幾つになった。確か俺と同い年だったか。熟れ盛りで一番美味しい時だ。このままずっと、あのお行儀のいいご嫡男にお仕えして、女の花をみすみす枯らす気か?」
 ルワーノはサヨリーヌの手を握り、怠惰な暮らしで緩んだ指で無遠慮に撫で回す。庶子とはいえルワーノはれっきとした侯爵の息子であるから、振り払うことは彼女には出来ない。
「どうだサヨリーヌ、お前さえよければいつでも俺の側室にしてやるぞ。あんなガキのお世話はいい加減にやめて、俺のところで贅沢三昧しろ。」
 彼女はキッと目を上げる。
「いいえ、私はルージュ様の侍女でございます。たとえ何が起ころうとも、お側を離れる気はございません。」
「ひょぉぉぉ。」
 奇声を発してルワーノは笑う。
「大した心がけだ。だがあいつももうじき正室を貰う。奥方様がご嫁下になったんじゃあ、今までのようなお世話は必要なくなると思うがな。」
 えっ、とサヨリーヌは耳を疑う。
「い、今…何と仰せになりました。ルージュ様がご正室を?」
「何だ、知らなかったのか?」
 面白そうにルワーノは言う。
「父上様から奴に直接話があったはずだぞ。マイストブルク王国の第3王女、コンスタンシア様とのご縁談だ。相手はまだ13歳ということだが、侯爵位を嗣ぎ元帥の地位に就くには、ご正室を持つことが絶対条件だ。アレスフォルボア家のご嫡男ともなりゃ、身分、家柄、財産と3拍子揃った奥様でなければ、お迎えすることはできないからな。」
 そんなルワーノの言葉も、サヨリーヌの耳には入らなかった。いつかこの日が来ることは判っていたが、ルージュの縁談、という言葉は、予想よりずっと強いショックを彼女の心に与えていた。
「もっとこっちへ来いよ。」
 ルワーノはサヨリーヌの手を引き寄せ肩を掴む。酒臭い息に彼女はゾッとする。
「悪いことは言わないから俺の城へ来い。ん?」
「お放し下さいませ、ご無体でございます。」
 サヨリーヌは必死で顔をそむける。
「いつまでも強情を張るつもりか? ならばまずはお前の体に、Yesと言わせてやるからな。」
 ルワーノの手が衿にかかる。逃げようとする彼女を男たちは面白がって押さえつける。よもや、と恐怖が走り、サヨリーヌは心で叫ぶ。
(ルージュ様…!!)
 その時であった。ヒュン、と何かが宙を切って飛び、ルワーノの手を鋭くかすめた。うわっ、と驚いて彼が手をゆるめた隙に、サヨリーヌは逃れ出る。
「誰だ!」
 男たちは扉の方を見る。そこに立っていたのはシェフ姿のボルケリアだった。
「ようこそいらっしゃいました。」
 恭しく彼女は礼をし、すたすたと壁ぎわに歩んで、そこにささったフライ返しを抜き取る。
「昨今の調理道具は、どうもおのれの分をわきまえぬようでございますね。このフライ返しはルワーノ様に大変なご無礼をはたらきましたので、私が罰を与えたいと思います。」
 面食らっているルワーノの前で、ボルケリアはフライ返しを飴の如くへし曲げて見せる。男たちはゾッとする。彼女は涼しい顔で、
「お詫びに私どもが腕をふるいました料理の品々を、是非お召し上がり頂きたいと存じます。」
 ボルケリアがパンパンと手を叩くと、ワゴンを押した料理係がゾロゾロ現れ、テーブルの上はたちまちに豪華な料理で埋めつくされる。
「ありがとう、助かりました。」
 廊下に出てサヨリーヌは言う。ボルケリアは笑って首を振り、
「お安い御用です。殿方の嫉妬は時に女より陰惨でやっかいなもの。相手になる必要などございません。」
 2人は部屋の様子を伺う。ルワーノたちは舌鼓を打って料理を食べている。ボルケリアは言う。
「あの中には眠り薬をしこんでございます。皆様じきお休みになられることでしょう。あとのことはどうかご心配なく。さ、早くお出かけなされませ。」
 サヨリーヌは玄関に急ぐ。そこでは馬車が彼女を待っている。乗ろうとすると扉があいて、
「早く早くサヨリーヌ様! 試合が始まってしまいます!!」
 顔を出したのはチュミリエンヌだ。
「なぜそなたがここにいるのです!」
「わたくしアミダで見事当たったのでございます。お早く!」
 サヨリーヌはムッとした顔で、しかし時間がないから仕方なく、チュミリエンヌの隣に座る。
「出して、早く!!」
 チュミリエンヌは御者に言い、馬車は走り始める。
 
 コロシアムは超満員である。入りきれなかった群衆を兵士たちが静めているところへサヨリーヌたちは到着する。殺気だった雰囲気に2人は躊躇するが、たまたま入口で警備をしていたのは侯爵に仕えているクマパッシュだった。
「チュミ!!」
「あにじゃ!」
「お前、遅かったじゃないか何をやってたんだ! もうじき両陛下がお席にお着きになるぞ、さ、早くこっちから!」
 兄は2人を通路に入れてやる。
細い石の通路をどこまでもまっすぐ行こうとするチュミリエンヌに、
「こちらです!」
 サヨリーヌは言い、脇の階段を昇っていく。彼女の席はサミュエルが取ってくれているはずで、国王の桟敷に近い特別席なのだ。
「こ、こんなところにわたくしのような者が着かせて頂いてよろしいのですか?」
 チュミリエンヌはおじけづくが、
「今さら何を言うのです。そなたも侯爵家侍従の一人、仕方ありません。」
「ありがとうございますサヨリーヌ様!!」
「いいからお急ぎ。」
「はい!」
 既に着座している人たちの前を2人は腰を屈めて通り抜ける。気づいたサミュエルは娘を手招く。
「父上。」
 サヨリーヌは微笑み、隣に座る。賢いチュミリエンヌはきちんと末席に下がる。
「遅くなりまして申し訳ございませんでした。出ぎわにお客様が見えられてしまって。」
 ハンカチで額を押さえながらサヨリーヌは、父の向こう隣に、慣れぬ青年が座っていることに気づく。
「あの、父上、そちらは…。」
「あ、ああ。こちらはな、宮中で書記官をなさっているクリストフ・フォン・ブレンデル君だ。」
 生真面目に会釈してくる青年にサヨリーヌはピンと来た。サミュエルはこの場所を娘とクリストフの見合いの場に選んだのだ。苗字にフォンが付くからにはブレンデル家は上流貴族だ。サヨリーヌの家は古くからの貴族ではあるが、国王の謁見は許されない末端貴族に過ぎない。侯爵家の引きがあるからこそまあまあの暮らしが出来るが、そうでなければかなり質素にせざるを得ない家柄であった。
「何をお考えなのですか父上!」
 サヨリーヌは小声で父を非難するが、彼は、
「まぁそう固く考えるな。会うだけだ今日は会うだけ。な。」
「そうはおっしゃいますが…。」
 親子喧嘩になりそうだったところにファンファーレが響く。国王・王妃・王太子、それにこの試合の勝者を祝福する女神に扮した、ルナ王女のご着座である。
 万雷の拍手の中、国王たちは席に着く。玉座の回りはぐるりと、槍を持った兵士が固めている。その中には元帥の大勲章を下げたアレスフォルボア侯爵、ルージュの父の姿もある。
 ルナ王女は純白の薄絹をまとい、髪には宝石をちりばめたダイアデムをつけている。手にしているのはローリエの勺と花冠だ。この試合に勝った勇者は、王女(いや女神と呼ぶべきか)の手からそれらを渡され、祝福のキスを額に受けるのだ。今年15歳のルナ王女は、3年前、ルージュが初めて父侯爵に代わってこの試合に出た時から、密かに彼に恋していた。
 王女は試合場を見下ろす。広々とした円形の地面は小石一つなく整備されている。やがて古来より伝わる日時計が、太陽が中天にかかったことを示す短い影を落とす。再びファンファーレが響き、西の入場門から、黒い馬に乗った優勝者が現れる。大観衆は拍手で迎える。
「どうやら今年の挑戦者は、かなり腕が立つらしいぞ。」
 勝ち抜き戦の優勝者をそんな風に呼んで、サミュエルは言う。サヨリーヌは男を観察する。まるで茶色い肉塊のような大男だ。キトンから覗く腕も脚も獣めいた体毛に包まれていて、目深にかぶった見慣れぬ形の兜は、男の顔をすっかり隠している。
 続いて、うわぁあーっと大歓声が上がる。東の入場門から、緋色の胴着のルージュが姿を見せたのだ。彼を乗せているのは愛馬シェーラザード、手にした盾には侯爵家の紋が彫り込まれている。
「ルージュ様…。」
 サヨリーヌの胸は高鳴る。こんなに凛々しい彼を見るのは彼女も初めてであった。
「頑張れルージュ―――!!」
 一際大きな声援は、興奮して両腕を突き上げているヴェエルのものだ。隣にはロゼとジョーヌもいる。ヒロは両親とともに玉座のすぐ下で、大きな目をさらに大きく見開いてルージュの晴れ姿を見つめている。
 ルージュと男は玉座の正面に馬を進めて向かい合い、剣を抜く。不正をせぬことを誓いあうために、両者は一度剣を交差させる。カツン…と固い音がサヨリーヌの耳にも届いた。2人はすぐに離れ、所定の位置に下がる。
 試合開始の命は国王が出す。王が右手をサッと横に伸ばすと、大弓につがえられた巨大な鏑矢(かぶらや)が、うなりながら天に放たれる。だっ、と男の馬が走り出し、ルージュに向かって突進してくる。
 突き出された剣をルージュは峰ではねかえした。が男の怪力に彼の腕は痺れた。返す刃で男はルージュの脇腹を狙った。盾で防いでルージュは手綱を引き側面に回ろうとした。だが男は隙を見せず、大刀を風車(ふうしゃ)の如くぶるんぶるんと振った。攻め口を見つけなくてはならない。ルージュは柄を握り直した。
 
(あの男、何者だ…!)
 男の腕に真っ先に気づいたのは侯爵であった。彼は傍らの兵士に聞いた。
「あれは隊の者ではないな。素性は? どこの、何という者だ?」
「は、届け書きによればバーナ地方の農家の次男にございます。」
「なに、平民か?」
「はいそのようで。」
 侯爵は言葉を切った。ただの力自慢の男ではないと彼は確信していた。侯爵は2人の男を見やった。腕はほぼ互角だが体重差がありすぎる。こういう場合時間がたてばたつほど、徹底的にルージュに不利になる。
(油断するなよ、レオン…!)
 冷たい汗が侯爵の背中を流れた。
 
 右、左、右とルージュは目にも止まらぬ突きを繰り出したが、男の盾は正確に次の剣先を読み、苦もなく防いでしまう。くそっ、と薙ぎ払ったルージュの剣を男は真上にはね上げた。
 あっ、とバランスを失ったところに突き出された刃を、彼はすんでのところで躱した。カカッ、と馬を下がらせ体勢を直そうとしたが、その間も与えずに男は斬りかかってきた。盾でなくルージュは鍔元で受けた。火花が散った。男は離れずギリギリと押し込んできた。ルージュは歯を食いしばって耐え、全身をバネにして男を突き放した。ほっ、と息をついたわずかな隙に、男の剣がギラリと光った。
 観衆は悲鳴を上げた。男の剣先がルージュの頬をかすめ、鮮血が飛び散るのが見えたからだ。ヒロたち4人は思わず腰を浮かせた。がルージュは落馬せずにこらえ、グイと手綱を引いて男の左横に回った。
 この盾が邪魔なのだと彼は気づいていた。分厚い板に押されて十分な矯(た)めを込められない。ルージュは剣先を下げて男を誘い込んだ。胴をガラあきにして斬りこませ、逆をついて盾を叩き落とす作戦である。大胆にもルージュは盾を馬体よりも下におろした。並みの度胸では出来ないことだ。男の脚が馬の腹を蹴った。彼の策に、はまったかに思えた。
(よぉっしゃ、来やがれっ!!)
 ルージュは腰を沈め身構えたがしかし、男は全てを読んでいた。剣は彼の正面でなく、右の手元を突いてきた。斬り込みに使うつもりだったそこを、ルージュは防御していなかった。ルージュが男の狙いに気づいたのは、胴に向かってくるはずの剣先が目の前で逸れた瞬間だった。
 シェーラザードが前足を振り上げいなないた。紙1枚の差で刃は、ルージュの手ではなく馬体を斬り裂いていた。同時に手綱もたち切られ、これでは馬の制御がきかない。男は剣をゆるめなかった。下肢だけで馬を操るルージュに容赦なく斬りつけてきた。腹、胸、喉元、額。徐々に急所に近づいてくる剣には、奇妙な余裕さえ感じられた。
(こいつ、俺を嬲(なぶ)る気か…!?)
 頬の血をぬぐうことも出来ず、ルージュの剣は完全に防御に落ちた。男は馬体をぶつけて来た。愛馬の息が荒くなっている。
(シエラ、たのむ、引くなシエラ!)
 自分の代わりに傷ついた彼女に、ルージュは心で呼びかけた。が馬に気を取られている間はなかった。盾の隙から突き出された剣が、彼の左足の金細工の膝当てをむしり取った。衝撃にうめきかけてルージュは唇を噛みしめた。駄目だ、どこかで攻撃に転じなくては、このままずるずると追いつめられてしまう。
 男の剣が頭上に舞った。額の前でルージュは受けた。次は喉にきた。剣の峰で弾いて防ぐ。さらに左肩。身をよじって躱す。その間に彼が突き出した剣は、ことごとく男の盾に止められた。ルージュは焦り始めた。男の動きは尋常ではなかった。ただものではないと彼は気づいた。男の体を甲冑よりも厚く覆っているのは、もはや闘志を越えた憎悪…いや、これは殺気だとルージュは悟った。
(殺気!?)
 折れんばかりの突きを剣身で受けてルージュは思い出した。この気配。この黒い空気。これはあの夜ヒロといた公爵家の中庭で、射かけられた時の気配と同じだ。
(まさかこの男…!)
 ルージュのこめかみを汗が伝った。兜の目廂(まびさし)の奥で男の暗い瞳が、ニヤリと残忍に歪んだのを彼は見た。
(あの時の賊はこいつだ。狙ってたのはヒロじゃない。こいつは俺を殺す気なんだ!!)
 
(レオン…!!)
 振り上げた男の剣に串刺しにされる息子の幻影に、うっ、と侯爵が目を閉じた時、うわぁぁぁ―――っ!とどよめきが上がった。男の刃は虚しく宙を斬った。寸前でルージュは身を躍らせ、地上に下り立っていたのだ。
 実戦とは違ってこの試合は、剣を落とすかあるいは相手に降参した方が負けである。と同時に条件を対等にするため、どちらかが馬を下りたらもう片方も、盾を捨てたらもう一方も、全て同じようにしなくてはならない。ただしあくまでも相手より先に、自分でそうした場合のみだ。この決まりに従わなかったならば卑怯者として即刻退場、最悪の場合は1万観衆を不正の証人として、国王命令により処刑される。
(これしきで俺を殺れると思うのが、甘ぇんだよ。)
 はぁはぁと息をはずませて、しかしルージュは不敵に笑った。瞳に宿る闘志はぎらぎらと、不死鳥にも似て燃え上がっていた。
 ルージュは剣の峰でシェーラザードの尻を打ち、馬を遠ざけてから盾も投げ捨てた。剣1本だけの、捨て身の勝負を彼は選んだ。馬を下りて向かい合うと、改めて、男の腕も腿も彼の倍近くあることが判る。ルージュは剣を構え直した。ふぅ…と息を整えて、彼は家紋の鷹さながらに、真正面から男に斬り込んだ。
 
「スガーリ!!」
 玉座の護衛を兵にまかせて、侯爵は通路に駆け込んだ。
「閣下!」
 膝まづく連隊長も顔面蒼白であった。
「試合が終わったらすぐ、あの男を捕らえよ。農家の次男というのはおそらく偽りだ。あれほどの腕、ただ者であろうはずがない。」
「ではもしや閣下、あの者は北からの…。」
「ああその可能性は高いな。この試合でレオンを殺すか、二度と立てない体にするかしても、明らかな悪意があったと観衆と国王に悟られなければ、何の罪にも問われない。アレスフォルボアの名は地に落ち、奴らにとっては一石二鳥だ。聖ローマ祭の御前試合を、まさかこのように利用するとはな…。」
 侯爵は歯がみしたが、すぐ冷静な口調になり、
「あの男、捕らえても殺すでないぞ。いかな拷問にかけてでも毒蛾の企みを吐かせねばならん。」
「しかし、閣下…」
「何だ。」
「お手打ちを覚悟で申し上げます。陛下に申し上げてこの試合、すぐさま中止になされては…。」
「いや、それは出来ん。」
「閣下!」
「あとはレオンの腕次第だ。神聖なるこの試合を、レオンの身を守るために中止にする訳にはいかん。」
「しかし閣下、奴が若君のお命を狙っていることは明らかでございます。明らかな不正が認められればこの試合は…。」
「不正、という訳ではなかろう。」
「閣下…。」
「もしレオンが負けたとしても、それがあいつの実力だ。同時にレオンを後嗣に定めた、俺の目が甘かったということになる。」
「しかし、しかしそれでは若君が…!」
「血迷ったかスガーリ!!」
 侯爵は彼を怒鳴りつけた。
「元帥を嗣ぐということは、この国の生死を分ける地位に就くということだ。たかが間者の1人くらい、倒せなくてどうするか。」
 2人の耳にかすかに、観衆の悲鳴が聞こえてきた。勝負はついたのか、どちらかが斬られたのか、石の通路からでは知りようもなかった。
「あとはただ、レオンを信じるだけだ。」
 侯爵は言い、目を閉じた。傍らでスガーリも、無言で深く首(こうべ)を垂れた。
 
 ガッ、と交差した剣はギリギリとこすれ合い、パッと離れてまた火花を散らした。男の剣先を薙ぎ払って胸元を突いたルージュを、躱して男は横殴りに剣を回した。飛び下がって防いだルージュの剣にまともにぶち当たった反動で、ぐらっと男の体が乱れた。
 その隙をルージュは逃さなかった。きらり、と剣を水平に寝かせ両手で支えて脚を踏み出し、全体重を突き込むダブル・パッサード。初剣を外されても次の突きを、まずよけきれない実戦の技だ。試合では使ったことのない必殺の突きを、ついにルージュは男に仕掛けた。
 ぐさっ、と剣先が刺さる手応えがあった。ぎゃっ!と叫んで男は飛び下がった。よし!とルージュはさらに突き込んだ―――のが、早すぎた。男は逆上した。素手でルージュの剣を鷲づかみにした。だらだらだらっと流れた血にルージュが思わずハッとした時、男は彼の心臓目がけて奇声とともに剣を突き出した。
 躱しきれるものではなかった。
「うわっ!!」
 とっさに身をひねったのが奇跡的に早かった。刃はルージュの、心臓ではなく左肩を斜めに斬り上げていた。白い絹が血しぶきに染まった。ルージュの剣を男は離さなかった。再び振り上げられた刃に袈裟掛けにされる前に、彼は男の手首を掴んだ。丸太のような腕だ。猛獣めいて唸りながら男は手首を回した。傷ついた左腕に激痛が走り、ルージュは顔をしかめた。その耳元で男は言った。
「ジゴク、ニ、オチロ…。」
 何、と顔を見たルージュを男は渾身の力で突き飛ばした。彼は巨体にはねとばされ、ドゥと地面に転がされた。
「うわぁっルージュ!!」
「ルージュ―――っ!!」
 ヒロたちは一斉に立ちあがった。観衆は息を飲んだ。男は頭上高くに舞いあげた刃をルージュの眉間に振りおろした。太陽に目を射られてルージュは瞼を閉じた。この位置なら頭骨をぶち割れる。彼は一瞬、死を覚悟した。
 しかしルージュは自分でも意識せぬうち、両手の間に剣を真横に差し渡していた。無想剣に近かった。男の刃は彼の剣と十文字型になって打ち止められた。
 はっ、とルージュは目をあいた。男の口が醜く歪んでいた。この一撃に男も全てを賭けたのだ。その賭けが外れた。今だ!とルージュは豹の如く身をしなわせ立ち上がった。
 1万観衆の視界の中でルージュは、十分に狙いを定めた剣を、左下から右上へ大きく大きくはね上げた。
 キィィ…ンと鋭い音が響いた。男の剣は地面に刺さった。はずみで男も仰向けに転がった。その喉元にルージュは切っ先を当てた。少しでも首を動かせばグサリといく。ルージュも男も、全身で息をしていた。しん…と静まりかえっていた観衆の中で、
「やったぜルージュ―――っ!!」
 真っ先にヒロが叫んだ。それが合図だったかのように、
「ルージュ様万歳!」
「聖ローマ祭、万歳!!」
 1万人が歓喜の悲鳴を上げた。祝福と称賛のウェイブがルージュを包んだ。だが彼は姿勢を変えず、倒れた男を見下ろしていた。左手の指先からはボタボタと、赤い血が地面に滴っていた。
 やがて兵士たちが駆け寄ってきた。ルージュは剣を引いた。兵士たちは男の腕をとって立ち上がらせた。
「若君、血が…!」
 スガーリは言った。しかしルージュは息を弾ませたまま、どことも知れぬ虚空を見てつぶやいた。
「大丈夫、かすり傷だ。」
 兵士たちは男をルージュの前に膝まづかせた。勝者への儀式であった。男は覚悟を決めているのか、されるがままになっていた。殺意に気づかなかった観衆は、男の健闘にも惜しみない拍手を贈った。
 男は兵士たちに前後を囲まれ、試合場を出ていった。ようやくルージュは兜を脱いだ。ばさり、と振る亜麻色の髪が、まばゆい太陽に煌いた。左腕から滴る血をそのままに、彼は大きく両手を広げ、観客席に艶然と微笑んでみせた。
 金色の鷹がそこにいる。この国を守る軍神の姿で。観客は総立ちだった。国王と王妃も拍手していた。
「やったぁ! ルージュぅ! やったよぉぉ!!」
 ヒロは興奮して泣いていた。
「すっげーよ、さっすがルージュ! かっけーかっけー! もぉ最高!!」
 ヴェエルは座席の上に立ち上がり、ぴょんぴょん飛び跳ねながら拍手した。
「サヨリーヌ様ぁ!!」
 バタバタと駆け寄ってくるなり、チュミリエンヌはひしとサヨリーヌに抱きついた。
「ル、ル、ル、ルージュ様…! わたくし、わたくし死ねますわ。あの方のためなら死んでみせます。ルージュ様、あああっ、ルージュ様ぁぁぁ!!」
 チュミリエンヌはしゃくり上げていた。何を言っているか自分でも判らないだろう。その背中を撫でてやりながら、サヨリーヌはサミュエルに言った。
「父上、申し訳ございません。ブレンデル様とのお話は、なかったことにして下さいませ。」
「なかった、ってお前…。」
 しかしサミュエルはそこで黙った。今のルージュを見てしまったら、そしてその側近くに仕えているのなら、生涯を彼につくすことで終えようと彼女が思うのも、当然すぎることだったからだ。
 
 試合場から引きたてられ通路に入ったところで、観念したかに見えた男はいきなり側の兵士を突き転がして逃げようとした。
「貴様、何者だ!!」
 スガーリは剣を抜き正面に回る。兵士たちも一斉に抜きつれる。男はぐるりと回りを見、ふところからおもむろに何か取り出す。さっと緊張したスガーリたちに男は、
「ミナ、ホロボサレル、ガ、イイ!!」
 そう叫んで袋の中身を口に含む。
「いかんっ、死なすな!!」
 スガーリは怒鳴り兵士が駆け寄るが、即効性の猛毒らしく男は胸をかきむしってこときれる。
「ふざけやがって!!」
 兵士の1人が男の死体を蹴る。
「よせ。」
 スガーリは制し、傍らにしゃがんで男の兜を脱がす。明らかに異国人の顔だ。
「これはかなり北の骨相ですな…。」
 兵士は言う。やはり侯爵の言った通り“北からの毒蛾”…エフゲイアの間者に違いないとスガーリは思う。
「死体を布にくるんで兵舎へ運べ。観衆に気づかれてはならん。それから正規の出場者であった農家の次男というのが、今どうしているかただちに調べよ。」
 スガーリの命令通りに、兵士は男を運んでいく。
 会場では今しも表彰式が行われようとしていた。中央に花で飾った祭壇がしつらえられ、応急手当てを終えたルージュが再び姿を見せると、観衆は狂喜し歓声を上げた。左腕に巻かれた包帯と強い酒で消毒しただけの頬傷が痛々しいが、彼はそんな怪我など忘れたかの如く、晴れやかな笑みをたたえている。
 祭壇上に神官とルナ王女が登る。神官は朗々と告げる。
「聖ローマ祭の輝かしき栄誉と祝福を、神に代わりて今そなたに授ける。勇者レオンハルト・メルベイエ・フォン・アレスフォルボア。王女の前へ歩み出よ。」
 ルージュは壇に登って、ルナ王女の前に膝まづく。王女は瞳を輝かせ、彼の頭にローリエの冠をかぶせる。亜麻色の髪が指に触れた時、彼女は電流が全身を駆け抜けた気がした。ルージュは顔を上げ王女を見る。蕩けそうな思いで彼女は、その額に口づける。
 喝采がコロシアムを包んだ。ルージュは立ち上がって観客に幾度も礼をする。客席で拍手していたサヨリーヌは、その時彼の包帯にじわじわと赤い色が浮き上がってくるのに気づいた。笑ってはいるがルージュは、おそらく激痛に耐えているのだろう。
「父上。お力を貸して下さいまし。さ、早く。」
「な、何だ何だ。」
「ルージュ様のお手当てをしなくてはなりません。急いで!」
 サヨリーヌはサミュエルの腕を取って席を立つ。サミュエルには医術の心得があるのだ。通路に入ったところで彼女はクマパッシュを見つけ、ルージュの控室に案内させる。
「もっとお湯をわかして。それにお酒と包帯をこっちに持ってきなさい。早く。」
 真新しいドレスの袖をまくり上げ、サヨリーヌはきびきびと指示を下す。
「表彰式はまだ終わらないのですか。連隊長に言って、ルージュ様をすぐにこちらへお連れしなさい。」
「いやそうはおっしゃいましてもサヨリーヌ様、観客たちが拍手をやめないのです。場内はルージュ・コールの嵐で…。」
「だからこそ早く誰かがお連れ申さなければ、あの方はご無理をし通します。体中の血が流れ出てしまっても、決して弱音をお吐きにならない。全く、ご自分の体を鉄か何かだと思ってらっしゃるのか…。」
 心配の余り愚痴をこぼしかけたサヨリーヌは、石段を下りてくる足音を聞いて立ち上がる。スガーリに支えられて歩いているルージュの包帯にもう白いところはなく、額には脂汗がにじんでいる。彼女は飛んでいく。
「ルージュ様! すぐに父がお手当て致します。さぁ早くこちらへ。」
「いいよ、かすり傷だつってんだろ…。」
「かすり傷がこんなに出血しますか! 大人しく言うことを聞いて下さいませ!」
 スガーリは彼を椅子に座らせる。膝まづいていたサミュエルは、早速包帯をほどき始める。
「失礼致します若君。まず消毒をいたしますので、多少痛むと思いますがご辛抱下さい。」
 薬に浸した布をサミュエルは傷口に押し当てる。
「いっ…!!」
 ルージュの体はビクッと跳ねる。
「少しの間ですご辛抱下さい。化膿したら取り返しがつきません!」
 サミュエルは蝋燭の火で針をあぶり、傷口を縫合する。サヨリーヌは椅子の後ろに立ちージュの頭を抱いて、頬の傷を消毒してやる。こちらは本当にかすり傷で血も止まっているが、この美しい顔に痕を残すなどとんでもないことだった。
「さぁ、これでよろしいでしょう。よくご辛抱なさいました。」
 丁寧に巻いた包帯の端をきつく結び、サミュエルは言う。ルージュは目を閉じ眉をしかめている。
「お城に戻られたら2〜3日はご安静になさって下さい。その後もしばらく激しい動きは控えて頂いて。よろしいですな。」
「よろしいですね若君。」
「んな親子して言うんじゃねぇよ。大丈夫だって傷口さえ塞がりゃ。」
 ルージュは言い手首を動かしたが、すぐに「いっ!!」と縮み上がる。
「あああご無理はいけません。あと1センチ深かったら動脈に至り、お命が危のうございました。それほどのお怪我です、甘く見てはなりません。」
「大袈裟なんだよお前は。平気…あいてっ…。」
「若君!」
 サヨリーヌが顔を覗きこんだ時、サミュエルはハッとする。
「閣下。」
 ルージュとサヨリーヌも石段の方を見る。やって来たのは侯爵だった。その後ろにいるもう1人の名をルージュはつぶやいた。
「ロゼ…。」
 元帥のおいでに一同は膝まづくが、
「ああ、かしこまるなかしこまるな。皆、世話をかけたな。だがちょっとレオンと話があるんだ。悪いがはずしてくれ。」
「今、でございますか?」
 サヨリーヌは聞く。どんな話か判らないが、ルージュの体が心配であった。しかしサミュエルは娘を叱り、スガーリたちとともに出ていく。部屋には誰もいなくなる。
「怪我は大丈夫?」
 ロゼはルージュに歩みより、尋ねる。
「ああ。包帯が大袈裟なだけ。たいした傷じゃねぇよ。」
「そう。それならよかったけど。」
 ホッとした様子のロゼにルージュは、
「んで? 何でお前がうちの親父と一緒にこんなとこ来んだよ。」
「それは俺から話そう。」
 侯爵が言ったので、ロゼは一礼して1歩下がる。侯爵はルージュに微笑みかける。
「その前に、ご苦労だったなレオン。太刀筋の違う相手とやるのはいい経験になったろう。」
 ルージュはじろりと父を見る。
「なに呑気なこと言ってんだよ。あいつが誰だか判ってんのか?」
「…ほう?」
 侯爵は興味深げに笑う。ロゼもルージュを見る。
「あの男は、最初っから俺のこと殺す気だった。ヒロんちの庭で射かけてきたのって、あいつなんだよ。俺、てっきりヒロが狙われたんだと思ったけど、そうじゃなかった。」
 彼は左腕を撫でる。侯爵は言う。
「そうか。お前にもそれは判ったか。」
「にも、って…」
 ルージュは目を剥き、
「じゃあ、親父はとっくに…。」
「ああ知っていた。正体はついさっきまで判らなかったがな。奴の狙いがお前だってことは、このジュペール伯爵も気づいてらっしゃったぞ。」
「はくしゃ…」
 ルージュは交互に2人を見る。ロゼは言う。
「黙っててごめん。でも侯爵でさえ君には伏せてるのに、俺とヒロが話しちゃう訳にもいかないと思って…。」
「ヒロぉぉ!?」
 ルージュは驚いた声を出す。
「ああ。公爵家の坊主…いやなに、若様も気づかれていたようだ。まぁこのあたりは話せば長くなるからな、あとでご本人に聞いてもらうとして―――」
「ふざけんなよ…。馬鹿みてぇじゃん俺…。」
 ルージュは舌打ちし、
(てめ、アトで覚えとけよ!)
 と口の動きでロゼに言う。ロゼは肩をすくめる。侯爵は続ける。
「で、あの男の正体だが、エフゲイアの間者だった。試合場を出てすぐ自害したそうだ。勝っても負けてもその覚悟だったに違いない。敵ながらあっぱれというところだな。」
「褒めてどうすんだよ。」
 ルージュは言い、すぐに、
「エフゲイアって…あれだよな、うちの隣の、そのまた北の国…。」
「ああそうだ、エフゲイア公国。昔、じいさんによく聞かされたもんだよ。ここしばらく大人しかったあの国が、また何やら蠢き始めたらしい。ことの初めに聖ローマ祭を狙ってきた、これは奴らの挑戦状だ。もし今日お前が負けてたら、大変なことになってたぞ。」
 ルージュは父を見上げる。
「とにかく早くその傷を治せ。いつになるかは判らんが、必ずひと戦さ起きるだろう。半年後か3年後か…。ともあれ手を打つのは早いほどいい。傷が治ったらお前には第3・第4騎甲師団の司令官を命ずる。及び北方警備隊の総合指揮官の任に就け。判ったなレオン。」
 ルージュは無言でいた。前々から隊を指揮させろと父に言い続けてきた彼だったが、一度に大隊を3つも、しかも軍の中枢たる部隊を任せると言われれば、いささかとまどう話であった。
「間違うな。戦さが近いからじゃあないぞ。今年の試合にお前が勝ったらやらせるつもりでいた。お前の次の誕生日に神殿前の大練兵場で閲兵式を行い、正式発表する。今からそのつもりでいろ。いいな。」
「おめでとうルージュ。いよいよ司令官だね。」
 喜んだのはロゼの方が先だった。ルージュは曖昧に笑って、父の顔をじっと見る。侯爵は深くうなずいて、
「さてと、じゃあ俺は行くからな。お前は城に戻って休め。俺は陛下にお会いして、色々奏上しなくちゃならん。」
「僕もお供します、侯爵。」
「そうですか、そうして頂けると幸いです。参りましょう。」
「はい。」
 歩き出しながらロゼはルージュの方を見、
「じゃあね、お大事に。明日にでもヒロたちと見舞いに行くよ。」
「来んなよ…。」
 ルージュは言うが、侯爵たちは深刻な顔で会話しつつ行ってしまう。
「まずは伯爵。当座の国交対策と、今後の軍の強化策を早急に練らねばなりませんでしょうな。」
「ええ。それから辺境警備の見直しと近隣諸国との同盟強化が優先事項です。ああ同盟国には僕から、親書を。」
「お願いします。」
 そんな2人の背中をルージュは見送る。
 彼らとほとんど入れ違いに、階段を駆け下りてきたのはサヨリーヌだ。続いてスガーリもやって来る。彼女はルージュの右腕に触れ、
「お父上とのお話はお済みになったのですか? もしやお傷に障るようなことが…」
「ねぇって。いちいち心配すんなようざってぇ。」
 彼女は短く溜息をつき、
「憎まれ口はご健在のご様子、私もホッといたしました。」
 芝居がかって頭を下げ、
「馬車のご用意が整いました。お体にひびかぬよう、ゆるりと参りましょう。さ、スガーリ。」
「では若君、御免。」
 彼は礼をし、両腕にルージュを抱き上げる。
「なっ、何だよっ! おい!」
 ルージュは慌てるが、
「お静かに若君! 昔の小さなお体ならともかく、もし取り落としでもしたら…」
「打ち首に致しますよ。」
 サヨリーヌはじろりと彼を睨む。
「はっ。」
「はっじゃねぇ! 下ろせよっ、みっともねぇだろっ! おい! ヒトをガキ扱いすんなっ! 放せ! 下ろせスガーリ!!」
「我儘をおっしゃってはなりません若君!!」
 つい今まで満場の拍手を浴びていた雄姿からは想像もつかない格好で、ルージュは強引に馬車へ運ばれ、座席に寝かされた。
 
 侯爵に選んでもらった剣を邪魔そうに腰に下げて、ヒロはジョーヌとヴェエルと一緒に、ルージュを探していた。勝利のお祝いを言おうと思ったのに彼の姿はどこにもなく、兵たちの動きが何となく慌ただしい。
「なんかあったのかな。」
 ヴェエルが言うとジョーヌは、
「さぁ…。でもさっき、ルージュ怪我しただろ、まさかその傷が深くて…。」
「馬鹿! エンギでもねーこと言うんじゃねぇよ!!」
 ヒロの剣幕にジョーヌは驚くが、そばからヴェエルが庇う。
「いや、別に死んじゃったとか言うんじゃなくてさ、もう城に戻ったのかもって言いたいんだよコイツは。なぁ。」
 ヒロは厳しい顔でつぶやく。
「あいつ、無理するタチだかんな。ッたく大丈夫なのかよ…。それにこんな大事な時にロゼの奴どこ行ってんだ。」
「何かさっき青い顔してどっか飛んでったけどね。」
「自分が具合悪くなっちゃったんじゃないの。」
「ありえる。」
 ジョーヌとヴェエルは笑う。とそこでヒロは、何かの包みを抱えて通路をウロウロしている1人の娘を見つける。
「あーっ!!」
 指さすと彼女はこちらを見た。チュミリエンヌであった。
「おめ、ルージュんとこの侍女だろぉ! おいらのお披露目ん時手伝いに来てた!」
 慌てて膝まづいて彼女は言う。
「は、はい。下働きのチュミリエンヌと申します。」
「な、ルージュは? あいつさっき怪我したろ。どんな様子だ?」
 ヒロは彼女の前に膝立ちになって聞く。切れ長の大きな目が不安と心配で苛立っている。何て綺麗なお顔立ちだろう、と改めて感心しながらチュミリエンヌは、
「はい、兄の話では、ルージュ様はお怪我の手当てをなさった後、連隊長たちとお城にお戻りになられました。」
「そっか、戻ったんだ。」
 ヒロはホッとし、だがすぐに、
「んで怪我の具合は。会場にいっ時は元気そうだったけど、あいつのこったから多分やせ我慢してんべ。」
「はい…。」
 チュミリエンヌの声が震えたのにヒロは気づく。
「どした。そんなひどいのか。」
「これをご覧下さいませ。」
 チュミリエンヌは包みをほどく。控の間に残されていたルージュの衣装だ。男の剣に引き裂かれた白い布には、赤黒い血の塊がべったりとしみついていた。
 ふらぁ、とヒロの体は後ろに倒れかけた。
「とっとっとっ!!」
 間一髪でヴェエルが抱えた。
「しまえよ早く! コイツ貧血起こしてるじゃねーかよ!」
「申し訳ございません!!」
「おい、ヒロ! ヒ〜ロ! 大丈夫か、んん?」
 ヴェエルはぺちぺちと頬を叩く。ヒロは目をあける。
「大丈夫かよおい。ルージュの心配どこの騒ぎじゃないじゃん。」
 ヴェエルは苦笑するが、ヒロはすっくと立ち上がる。
「行こう。」
「へ? どこへ?」
 ジョーヌは首をかしげる。
「ルージュんちだよ。おめ、ハンパじゃねーべあいつの怪我!!」
「そりゃそうだけど、かえって迷惑じゃない? 多分寝てると思うよ。」
「そうだよ、今日はよしたがいいよ。」
 2人は交互に反対したが、
「いや、行く。」
 ヒロはもう歩き出していた。
「おい、ヒロ!」
 2人は彼を追う。
 ヒロは数歩で立ち止まって振り返り、
「おい、ちゅみとかいう奴。お前道案内しろ。馬車はうちのでいいから。」
「はっ!?」
 彼女は驚くが、
「寝てんならそれでもいい。ルージュが無事だってこと、おいら自分の目で確かめてぇんだ。」
「ヒロ様…。」
「だからさっさとついて来い。お前の上司にはおいらが謝ってやっから。」
 くるっときびすを返してヒロは再び歩き出す。チュミリエンヌは追っていく。
 御者席で居眠りしていたハッツネンは、バタバタという足音に目を覚ます。先頭にヒロ、続いてはジョーヌとヴェエル、最後に白麻の縦縞のスカートをたくし上げて見慣れぬ娘が走ってくる。ヒロは自分で馬車の扉をあけ、足をかけながら娘に言った。
「わりぃけどお前、御者台に乗って。そいでそいつに道教えて。頼むな!」
「判りました!」
 何事だとハッツネンがキョロキョロしているうちに、3人の男たちは馬車の中へ、娘は失礼しますと言って隣に腰を下ろした。
「初めまして、侯爵家侍従のチュミリエンヌと申します。まずは大通りを西に直進して下さい。」
「はぁ?」
 ハッツネンは娘を見、
「あの、これってどういうこと。うちの若様はどこ行かれるんです。勝手なことをするとアマモーラ様に…。」
 そこでヒロは窓から顔をのぞける。
「何やってんだよ。早く出せっつーのほら!」
「いえ若様、あの…」
「いいから出せ! アマモっちにはおいらが叱られてやっから! 出さねぇとおめー、手打ちにすんぞ!!」
 ヒロは剣の柄に手をかけたが、
「あれっ?」
 どうした訳か引っかかってしまい、抜けない。ジョーヌたちはニヤニヤ笑いヒロは焦るが、ハッツネンは黙って手綱を取る。
「アレスフォルボア侯爵家でよろしいのですね。少々揺れますが近道がございます。この私に知らぬ道などございません。Go!」
 はしっ、とムチを当てると馬たちは走り出した。あまりのスピードに4人は、馬車の柱から手を離せなかった。
 
 座席に横たえられたルージュは、馬車が城に着いても目を開けなかった。サヨリーヌはドキリとするが、彼は眠っていた。抱き上げられても正体はなく、スガーリは彼をそっと部屋に運ぶ。
 ベッドの脇にサヨリーヌは座り、ルージュの額に触れてみる。熱が出ていれば化膿の恐れがあるが、平熱であった。彼女は深く溜息をつく。この方の身に何かあったら、自分は必ず後を追うだろうと、サヨリーヌは改めて思う。そこへノックの音がする。廊下にはボルケリアが立っていた。
「どうしました?」
 尋ねると彼女は、
「実は若君にお客様が見えられまして。」
「お客様?」
 サヨリーヌは露骨に眉を寄せ、
「どなたであろうと、今若君にお会わせすることは出来ません。そう申してお帰り頂いて下さい。」
「いえそれが、ご身分のあるお方ゆえ簡単には…。」
「どなたであろうと、です。まさか国王陛下ではありますまい?」
「ほぼそれに近いお方なのです。」
「近い?」
「シュテインバッハ公爵家の若様でございます。」
 サヨリーヌは黙る。格式からいって確かに、拒める筋ではない。が彼女は、
「私からお話ししてお引き取り頂きます。若君はお怪我をなさって今お眠りになっているのです。いくら公爵家ご嫡男でも、聞けることと聞けないことがございますからね。で、若様はどちらに?」
「とりあえず客間にお通し致しました。」
 サヨリーヌは出ていく。家柄をかさに着てどんな我儘息子かと思う。
「失礼申し上げます。」
 客間に足を踏み入れると、サヨリーヌはスカートの裾を広げ深く腰を屈めて礼をする。そのままの姿勢で彼女は言う。
「お初にお目にかかります、ヒロ・リーベンスヴェルト様。当家へようこそおいで下さいました。私、サヨリーヌと申します。以降どうぞお見知りおきを―――」
 言葉を終えないうちに彼女は、たたたっ、と小走りに近づいてくる足音を聞き、同時にぎゅっと腕を掴まれた。
「な、ルージュはっ!? ルージュの怪我は!?」
 ヒロは目をうるませて彼女の顔を覗き込んだ。
「ひどいの? なぁ。そんなひどいの? さっき試合場で見たら、あいつの服、血でべとべとじゃねぇかよぉ。無事なのかよあいつ。無事なら会わしてくれよぉ。なぁ頼む。どうかこの通り!」
 ヒロはぺたんと床に座って両手を組み合わせる。驚いたのはサヨリーヌだった。高慢ちきで嫌な男かと思っていたなりが、実際のヒロは信じられないほど華奢で、気取りなどどこにもなかった。
「わ、若様。どうかお立ち下さいませ。」
 土下座もしかねない雰囲気の彼をサヨリーヌは逆になだめる。
「邪魔、しねぇから。ドアの隙間からそーっと見るだけでいいから。あいつの顔見してくれよ。無事だって判ったら、おいらすぐ帰っから。約束する。あ、お礼に台所の片づけでもお便所掃除でも、何でもやっからぁ!!」
 ルージュとはまた異質の美貌で懸命に訴えるヒロに、サヨリーヌは心を動かされた。彼女はうなずき、言う。
「判りました。こちらでございます、どうぞ。」
「えっ!! いいのっ!?」
 叫んだのはジョーヌとヴェエル。公爵家のアマモーラも伯爵家のヒナツェリアもしっかり者で有名だが、それに輪をかけてサヨリーヌは手強いと言われている。その彼女をヒロは簡単に籠絡した。2人にとってはまさに驚天動地だった。
「あ、お前らはここで待ってろよ。」
 立ち上がるとヒロは、ケロリと別人のように言う。
「んな何人もでゾロゾロ行ったんじゃ、こちらのお宅にご迷惑だ。代表しておいらが行ってくる。それが家と家の礼儀ってもんだろ。」
「なっ、何だとぉ〜!? んじゃ俺たちゃ付き添いかい!」
 ヴェエルは言うがヒロは、返事もせずにサヨリーヌと部屋を出ていく。
「うっわ〜…信じらんね! アイツ悪魔入ってるよぉ!!」
「ほんっと判んないよねヒロって。」
 2人は呆然とするが、ボルケリアが気をきかせて菓子を運んで来る。もちろん眠り薬など入っていない。2人はブツブツ言いながらもそれを食べ始める。
 
 カチャリ、とノブを回しサヨリーヌはドアを引く。
「どうぞ。」
「え、おいら、中入っていいの?」
 ヒロは小声で聞き、抜き足差し足でベッドに近づく。天蓋のついた大きなベッドの、真っ白いシーツの間に亜麻色の髪が見える。胸がゆっくり上下しているので、彼が眠っていることはすぐに判った。
「ルージュ…。」
 ヒロはベッドの脇に膝をつく。
「よかった、無事だったんだな…。」
 ヒロはぐすっ、と洟をすすって、
「心配したんだぞぉ。おいら、ほんっと心配したんだから。お前に何かあったら、おいらどうすりゃいいんだよ。ロゼもジョーヌもヴェエルもいるけど、でもお前いなかったら駄目じゃんかよぉ。あんな試合で無理することねえって。お前のこと大切に思ってる人間に、あんま心配かけんじゃねぇよ。」
 ルージュの肩を覆っている包帯を、ヒロは辛そうに見つめる。
「痛かったんだろ? ごめんな。いつかおいらが楽にしてやるなんて言っといて、おいら何もできねぇや。どうすればお前の力になれんだよ。お前に無理さしたくねぇよ。少しでいいから代わってやりてぇのに。ルージュぅ。ごめんな。ごめんな…。」
 ヒロはシーツに顔を伏せる。すると、
「…悪いと思ったら人のベッドで洟拭くのやめろ。」
 ルージュの声だった。ヒロはガバッと飛び起きる。
 片目を開いてルージュはヒロを見、すぐにクスクス笑い出す。
「おめ、何だよ起きてんなら起きてるって言えよ!!」
 照れも加わってヒロは怒るが、
「だってよ、耳元でブツブツブツブツ、しかもそのうちひっくひっく言い出されて、誰だって目覚ますだろ。死人じゃねんだから。」
「それにしたってよ、人が悪いっつんだよそういうの…。」
 ヒロはブラウスの袖でごしごし顔をこする。
「そんな、心配したんだ。」
 ルージュはヒロをからかう。
「ひょっとして俺がイッちゃったかと思った? 『まさかルージュとは、もう、もう2度と会えないの!?』とかさ、ヒロイン気取っちゃったんだ。」
「何でおいらがヒロインなんだよ!」
「だってお前、泣き顔女の子みてぇだし。」
「馬鹿にすんなっ!!」
 ボスッ、とヒロはベッドを叩く。クッションが弾み、ルージュは瞼を引きつらす。
「あ、わり!!」
 ヒロは慌てる。
「痛かった? 悪い。ごめんな。だいじょぶか?」
 ルージュは黙ってしまう。ヒロは自分のせいかと思い、
「えー、どうしよー!! な、誰か呼ぶ? 医者は? ウチのヤブでよければ来さそうか? おいルージュぅ、ごめん、そんな痛かったか?」
「いや…。」
 ルージュは天蓋を見上げて言う。
「痛ぇより、怖かった。殺される、って思った時、俺マジで怖かったんだ。」
「ルージュ…。」
「思い出すとさ、ほら…今でも鳥肌たつんだぜ。あの男ハンパじゃなかった。今生きてんのが、俺自分で不思議だもん。アタマかち割られて死ぬかと思った。」
 今度はヒロが黙ってしまったが、ルージュは枕の上で顔をこちらに向け、言った。
「お前さ、俺が狙われてるっていつ判った。」
「…え?」
「ロゼに聞いたよ。お前とっくに気づいてたんだってな。あん時狙われたのは自分じゃなくて俺だってこと。」
 ヒロは目をキョロキョロと動かし、
「いや…話せば、長ぇんだけどよ。」
 どのへんから説明すべきかヒロは迷ったが、ルージュはあっさり言う。
「別にいいよ。試合があるからとか何とか気使ったんだろ。ッたく余計なことしやがってよ。」
「…ごめん。」
 ヒロはぺこりと頭を下げる。ルージュは笑い、けれどもすぐに真剣な顔になる。
「マジでそのうち、ひと戦さ始まるかも知んねぇな。親父とロゼが国王のとこ行って、色々相談してんだろ。」
「戦さ…?」
 つぶやいてヒロは、父と侯爵が話していたことやロゼに聞いた内容を思い出す。
「エフゲイアか…。いよいよ動き出したんだ…。」
 ぽつりと言ったヒロにルージュは驚く。
「おま、何でそこまで知ってんの。」
「ん、ロゼに教わった。」
「ロゼかよ…。あの野郎俺だけつんぼ桟敷に置きやがって。ちっきしょ、治ったらタダじゃおかねぇかんな。」
 ルージュは舌打ちする。ヒロは何か思い出した様子で、
「んじゃ、んじゃお前よぉ、祭りの最後の仮装舞踏会、出れねぇの?」
「あ?」
「仮装舞踏会。5人で何かやろうって、だから考えとけってロゼが言ってたぜ? でもその怪我じゃなぁ…。もう1週間後だもんな。」
「何言ってんだよ。出んに決まってんだろ?」
「え、うそ、まじぃ?」
「お前こんな怪我はな、日常茶飯事。1日2日大人しくしてりゃすぐ治んだよ。」
「いや〜…1日2日じゃ無理じゃねぇの? 第一動かすと痛ぇべ?」
「治るって。心配すんなよ。お前は今年が初めてだから知んねぇだろうけど、毎年この仮装舞踏会が一番盛り上がんだかんな。企画ありの変装ありの、正体隠してお目当ての彼氏彼女をげっちゅ〜。燃えるぜぇぇ! これを逃してなるかっつーの。お前だって女に興味あんだろ?」
「いや…おいらはちょっと、そういうのは…。」
「ンだとぉ? まさかお前ってコッチ系?」
「ちげーよ!! 人前で堂々と誘ったりすんの、おいら嫌いなだけだよ!」
「はー…。」
 ルージュはまじまじとヒロを見る。
「信じらんね。身分だの何だの言われなくて済む年に1度の大チャンスなのによ。ロゼなんてあいつ、やることすげーぜ?」
「いいの。おいらはそういうのに興味ねぇの。」
 ヒロは立ち上がる。
「まぁお前の顔見れて安心したし、おいら帰るわ。あんまいつまでもしゃべってて、怪我に障っといけねぇしな。またさ、明日来てやるよ。」
「来なくていいつーの。じき治っから。」
「強がんな強がんな。んじゃな、お大事。ママのおっぱいでも飲んで、いい子にして休めよ。」
「うっせ!!」
ヒロは外に出る。控えていたサヨリーヌが頭を下げる。ヒロも丁寧にお辞儀して言う。
「おいらがこんなこと頼むのも変かも知んないけど、あいつのことよろしく頼みます。」
「恐れ入ります、若様。」
 彼女は深く腰を屈め、
「当家若君ご誕生の折から、私はお側にお仕えいたす幸せに浴しております。これからもこの命に代えて、若君をお護りする所存にございます。」
 ヒロは微笑み、うなずく。
「ルージュは幸せだな。大切に思ってくれる人がたくさんたくさん側にいて。」
 
 ジョーヌとヴェエルを連れて帰っていくヒロの馬車を、サヨリーヌは執事とともに城門まで見送りに出る。
「お美しい若様ですなぁ…」
 執事は驚嘆している。サヨリーヌもそれには同感だ。この国でアレスフォルボア侯爵家より上位の貴族は唯一シュテインバッハ公爵家で、両家侍従の間には、決して対立ではないが微妙な競争心があったのは事実である。だがこの先そんなものは全く意味がなくなるであろうと、サヨリーヌは確信した。
(不思議なおかただわ、ヒロ様…。)
 頼もしい、とは正反対のあの華奢な体には、なぜか人を引きつける魅力的な魂が宿っている。きっと誰もが彼を愛さずにはいられないだろう。そういう人間がトップに立った時、人の輪は大きく強くなる。権力に強制されずに結びついた絆は、弓や剣では切れないものなのだ。ヒロとルージュの2人が手を取り合ったならば、たとえどんな嵐が襲ってこようとも、乗り越えて行けるに違いないと彼女は思う。
 
 翌日もその翌日も、祭りの行事は滞りなく進んでいく。ロゼには王立大学学長としての仕事の他に侯爵と協力しあいながらの国交対応もあって忙しく、ヒロは昼間はもっぱらジョーヌとヴェエルと過ごし、日暮れ時になるとさまざまな見舞いを携えてルージュのもとを訪れた。どこの芝居小屋が面白かったとか、何邸のもてなしが美味かったとかの他愛ない話を、ヒロは嬉しそうに語る。ベッドでルージュも吹き出したり切り返したり、そんな2人を見るのはサヨリーヌにとっても、ひどく楽しいことであった。
 

第3楽章・主題2に続く
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