『五重奏曲(クインテット)』
 

【 第3楽章 主題2 】

「もうほとんど傷口はふさがっております。若干痕は残りますでしょうが、後遺症の心配はございませんな。」
 ルージュの包帯を取り替え終えてサミュエルは言った。
「本当によろしゅうございました。我慢して安静になさっていた甲斐がございましたね若君。」
 サヨリーヌはルージュの肩に部屋着を着せかけて言う。サミュエルはうなずいて、
「やはり普段からお体を鍛えていらっしゃるだけのことはある、若君はしっかりした基礎体力をお持ちです。それは武人にとって何より必要なもの。やがてはお父上をしのぐ、立派な元帥におなりになることでしょう。」
「褒めすぎだっつの。」
 ルージュは衿を合わせ、クッションに凭れる。
 サミュエルは道具を片づけながら、
「まぁ、お若いお体はお動きになりたくてうずうずしてらっしゃることでしょうが、もう3日間だけ、今までのようにご安静になすって下さい。3日過ぎましたらばもう、お起きになって大丈夫でございます。よろしいですな。」
「ああ。」
「では私はこれにて。サヨリーヌ、あとはまかせたぞ。」
「ありがとうございました父上。」
「うん。」
 父を送って彼女は部屋に戻る。ルージュは大人しく窓の外を見ている。
「ショコラでもお持ちしますか? それとも何か果物などお召し上がりに…。」
「そうだな、もうじきヒロの奴が来んだろ。あいつが食いたいもん用意してやってくれよ。」
「かしこまりました。ではそれまで、おぐしをお梳き致しましょう。」
 サヨリーヌはブラシを持ってルージュの髪をとかす。
「あの試合以来若君は、何だか大人になられましたね。」
「そうか?」
「はい。今まででしたら、もう治ったから起きるんだと駄々をこねられたに違いありません。」
 ルージュはクスッと笑う。
「早ぇとこ遊び行きてぇのは今も変わんねぇよ。でも早くこの怪我治さねぇとな。やんなきゃなんねぇことが、この先、山のようにあんだから。」
「若君もいよいよ司令官でございますね。」
「ああ。お行儀のいい第1第2と違って、第3第4騎甲師団は曲者揃いで有名だかんな。元帥の息子だってだけじゃ俺の言うことなんか聞かねぇよ。どう料理してやるか今から考えてる。」
「さようですわね。お父上のご期待に添えるよう、ご存分にお働き下さいませ。」
「んな、お前に言われるまでもねぇよ。」
 サヨリーヌが微笑んだ時、執事がヒロの来訪を告げる。通せ、と言うと間もなく、
「いぇ〜いルージュぅ〜! 寂しかったかぁ〜!?」
 紙の風船や造花、何か食べ物らしきものを両手に抱えてヒロが入ってくる。
「まぁまぁまぁ、また色々お持ちになって若様ったら…。」
 町の子供のような格好にサヨリーヌは苦笑する。ヒロは椅子を引き寄せて座り、
「あのなあのな! これ!! 屋台に出てたんだけど、東洋のIKAMESHIとかっつぅ食いもん! もー、すっげうめぇの。食ってみ食ってみ。あ、さよぽん悪い、お茶入れてくれっかなぁ。」
「ま、あの、若様それは…。」
 見たこともない食べ物にサヨリーヌは不安になる。侯爵が警備隊を3倍に増やしたとはいえ、敵国の間者がまだどこに潜んでいるか判らないのだ。不審なものは一切ルージュの口に入れないよう彼女は心を砕いていた。がヒロは、
「だあいじょぶだって。判ってるよ、ルージュに何かあったら大変だもんな。だからここ来るまでにおいら、たっぷり毒味してきたから。」
「お、お毒味などと若様!!」
 ヒロはつくづく自分の立場が判っていないとサヨリーヌは思う。ヒロは包みをガサガサ開いて、ん、とルージュにIKAMESHIを渡す。
「ほら食ってみ? あ、汁が垂れっから気ぃつけてな。」
「食ってみって…なんだよこの歯形はよ。」
「だからおいらが毒味したんだって。…おいさよぽん何やってんだよぉ、茶ァいれろつったべ?」
「あ、失礼致しました、ただ今。」
 彼女は急いで下がる。
「変わった味だな。」
 IKAMESHIをかじってルージュは言う。
「だろー。お前みたくいっつもいいもん食ってっと最初は馴染まねぇか知んねぇけど、でもクセになるぜぇ。おいら感動したもん。ヴェエルなんか気に入っちゃってよぉ、5本も食ってんの!」
 ケラケラとヒロは笑い、そっと背後を窺う。
「な。そいでどうすんだよ明日。」
 見合わす顔は共犯者同士のものだ。
「行くに決まってんじゃん。何のために今日まで大人しくテキの目を欺いてきたと思ってんだよ。」
「よっしゃそう来なくちゃあ!! んで? おいらが用意すんのは…。」
「お前が用意すんのは、馬車。それと全体の連絡係頼むな。」
「おお任しとけぇ。お前んとこのちゅみって奴もすっかりその気になってっからよ。」
「ッたく何でうちの下働きを、お前が手なずけてあんだよ。」
「まぁそんなのはいいから、段取り確認しとこうぜ。まずお前が、今日は眠いからって早寝して、おいらはちゅみに手引きさしてこの城ん中もぐりこんどいて…」
 2人はヒソヒソ打ち合わせする。最終日の仮装舞踏会には、何があっても行きたいルージュであった。
 
 祭りの最終日、ヒロはいつものようにルージュを見舞い、日没と同時に帰っていく。が実際は馬車に乗ったと見せかけて、ヒロは庭の植え込みをつたい下働きの部屋の窓を叩く。
「ちゅみ!! おい開けろよ早く!」
 チュミリエンヌはガラガラと戸をあける。満面悪戯っ子のヒロが、よいしょと窓枠を乗り越えて入ってくる。
「どう、首尾は!」
「もう万全でございます。早速これにお着替え下さいませ。」
 自分とお揃いの白麻の服を彼女はヒロに渡し、見張りのため廊下に出る。喜々として彼は着替え、
「これでどうだ?」
 ドアを開けて顔を出す。
「若様…。」
 チュミリエンヌは驚く。しゃべりさえしなければヒロは、誰がどこから見ても女の子だ。
「似合うだろー。おいらこういうのが似合うんだよな。」
 当人も気に入っている。
「んで何やんの。皿洗い? 昔、町長んちでよくやったかんな。うまいぜぇおいら皿洗い。」
「いえいえいえ、そのようなことはなさってはいけません。そのお姿はあくまでも念のためでございます。私はこれから調理場へ仕事に参りますので、お迎えにあがるまではこちらに隠れていて下さいまし。よろしいですね。」
「うん判った。」
 チュミリエンヌは行ってしまい、ヒロは退屈する。最初は我慢していたが、少しくらいならいいだろうと廊下に出たが最後、
「へー、綺麗な城だなぁ…。」
 彼は探検家の気分になって散策を始める。公爵家は棟こそ違え1つの建物の中にヒロも両親も住んでいるが、ルージュと両親は完全に別の城で暮らしている。つまりルージュは16歳にしてこの城の主なのだ。
 あちこちキョロキョロしながら歩き回っていたヒロだったが、
「そこの下働き! 何をさぼっているのです!」
 とうとう誰かに咎められた。見るとワインレッドの服を着た女官が彼を睨んでいる。まさか正体を明かす訳にいかず、ヒロは腰を屈める。
「おや、新入りね? ならば仕方がないわ。早く持ち場にお戻り。サヨリーヌ様には内緒にしておいてあげるから。さっき洗濯物が溜ってるって怒ってらっしゃったわよ。さっさとなさい。いいわね。」
「は、はい…。」
 わざと細い声を出してヒロは答え、何となく厨房らしきところへ行って何となく隣の部屋へ行った。
「お、ここだここだ。洗濯もんが積んであら。」
 彼は作業を始める。
 
 ルージュのための食事を作り終え、チュミリエンヌは急いで部屋に戻る。
「ヒロ様! お待たせいたしました、これでお料理が下がってくればあとは…あら?」
 部屋には誰もいない。
「もう、どちらへ行かれたんですか!!」
 チュミリエンヌは探す。すると洗濯部屋で水音と妙な歌声がする。まさか、と思い行ってみると、
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒロ様!!!」
「よぉ。」
 彼は鼻の頭にシャボンの泡を乗せて振り向く。
「何をなさっておいでです! そんな、そんなもったいないっ!!」
「いいからいいから。好きなんだよおいら、洗濯。ボーッと待ってたってつまんねぇしよ。待ってろ、もうちっとで洗い上がっかんな。」
 ヒロはごしごし布をこする。確かに上手いとチュミリエンヌは感心する。
「若様ぁ…。」
「ん?」
「若様って、変な方…。」
「そっかぁ? そっかな。ほらどけよ、水かかんぞ。」
 ざぁ、と桶の水を捨てて彼は井戸に歩いていく。
 
 早めの夕食を終えるとルージュはサヨリーヌに、今夜は早く寝たいから誰も部屋に入れるなと言う。判りましたと彼女は答え、燭台の明かりを消して出ていく。暗い部屋のベッドの中でルージュは待つ。すると窓ガラスがコンコンと叩かれた。来た!と彼は飛び起き、部屋着を羽織ってカーテンを開く。
「おっせーよ!」
「わりわり! 洗濯物干すのに手間どっちまってよ。ほら、ちゅみ、上がれっか?」
 ヒロは手すりに片足をかけチュミリエンヌの手首を引き上げてやる。もちろん彼はもうスカート姿ではない。
「恐れ入ります若様!」
 2人は部屋に上がりこむ。
 これほどルージュのそばに寄るのは初めてであるから、チュミリエンヌはさすがに緊張して、反射的に床に膝まづき顔を伏せる。その様子にヒロは、
「おめ、何やってんだよ、時間がねんだから早くしろよ! …あ、ルージュ。こいつがちゅみ、な。今回おいらを城に入れる手引きしてくれた。」
「だから何でお前がうちの侍女を俺に紹介すんだよ。」
「まぁまぁいいじゃねぇかよ。ほらちゅみ、早く衣装出せ衣装。」
「はいっ。」
 チュミリエンヌは背負ってきた布包みを急いでおろす。
「こちらにご用意致しました。どうぞ。」
「サンキュ!」
 ルージュは服を確かめると、くるりと背中を向けただけでバサッと部屋着を脱ぐ。月明かりに浮かび上がる後ろ姿のオールヌードに、チュミリエンヌは本当に気絶しかけた。
「よし、行こうぜ!」
 着替え終えるとルージュは言う。
「よっしゃ、急ごう!」
 ヒロは窓に駆けより、身を乗り出して呼びかける。
「おーい! くまっぱ! 下りんぞ!」
「くまっぱ?」
 ルージュはまた不審そうにする。ヒロは手すりをまたぎ、結んであるロープをつたってするすると下りていく。チュミリエンヌが続く。
「誰がいんだよ…。」
 ルージュは下を見る。誰か男が立っている。その横でヒロは気ぜわしく手招く。
「早く来いよ! 大丈夫だってこいつが肩車してくれっから!」
 首をかしげながらルージュはロープにつかまる。完治はしていない左肩をかばいつつ足を下ろすと、
「失礼します、若!」
 下からすぐに誰かが支えてくれた。
「あにじゃ! もっとしっかり! ああもうふらつかないで下さいまし!」
 チュミリエンヌが言うとクマパッシュはひそひそと、
「お前、知らないぞサヨリーヌ殿に大目玉くらっても! せっしゃは責任とってやらんからな!」
 ルージュは無事に着地する。
「さ、こちらへ!」
 あたりを見回し人影がないことを確かめ、チュミリエンヌは2人を侍従用の通用門に案内する。ここには門番もいない。
「ではお気をつけて。」
 兄妹は門の内にとどまる。ヒロは礼を言う。
「ありがとな、ちゅみ。くまっぱ。」
「いいえとんでもございません。」
「こいつにさ、次のボーナス、うんとはずんでもらえよ。な、ルージュ。」
「ああ判った判った。んじゃ行ってくっかんな。バレねぇように上手く戻れよ。」
 ルージュはウィンクし、ヒロと一緒に走っていく。
 
 道の角に馬車を停め御者席で居眠りしていたハッツネンは、2人の足音を聞きすかさず目を覚ます。我ながら才能だと思う。
「待たせたな!」
 腰までの短いマントを翻して馬車に乗り込むヒロに、ハッツネンはまた見とれるが、
「参りますよ、よろしゅうございますね。」
 気を取り直して馬にムチを当てる。
「肩、だいじょぶか?」
 車中でヒロは聞く。長いマントの上からルージュは無意識に左腕を押さえていたが、
「何ともねぇって。傷なんかとっくにふさがってんだよ。」
「でも無理はすんなよ。具合悪くなったらすぐおいらに言え。判ったな。」
「自分の心配してろよお前は。」
 2人を乗せた馬車は、会場である王家の離宮へと進んでいく。
 
 窓べに立ちカーテン越しに、道をゆく馬車の群れを眺めていたロゼは、
「伯爵は、今夜の舞踏会にはお出にならないんですかな?」
 ルージュの父、アレスフォルボア侯爵に尋ねられて我に返る。王宮の1室で2人は、エフゲイアに対する今後の策を練る作業をしていた。回りには書記官や執務官が詰めていて、あちこちに手紙を書いたり使者を送る準備をしたりしている。
「今はそれどころじゃないでしょう。」
 ロゼは資料を手に侯爵の向かいに座る。侯爵は笑い、
「伯爵はまだそんなにお若い。美しいものや楽しいことに対して、もっともっと貪欲でらっしゃるべきですよ。」
「それよりも、僕にはやるべきことがあります。」
 書類に目を落とすロゼは、侯爵の親友であった亡き前伯爵にそっくりだ。ロゼは言う。
「ルナ王女のお輿入れは、やはり早めるべきでしょうね。ロワナ国の太政大臣からもそのように言ってきています。モリィ皇太子の同意は得ているとのことですし、できればこの秋…遅くとも雪のくる前には。」
 羽根ペンにインクを付け、ロゼはカリカリと文字を書き始める。侯爵は腕を組む。
「15歳ですか…。」
「は?」
「いや、ルナ王女。それに伯爵も。」
「そうですけど?」
「立派なものだ。私が15の時なんていったら、武術しか能がなかったな。もちろん今でもそうですけどね。」
「何をおっしゃってるんです。」
 ロゼは苦笑し手を止める。
「武人としての侯爵のお力がどれほどのものか、僕はよく父に聞かされました。」
 そこでロゼはニヤッと思い出し笑いをし、
「そういえば侯爵と僕の父は、昔同じ女性を争ったりしたこともあるそうですね。」
「うんうん、そんなこともありました。懐かしいですなぁ。我が青春の輝き。」
 うなずいていた侯爵はひょいと話題を変える。
「そういえば伯爵。あなたもそろそろ、ご縁談などあってもおかしくない。いかがなんですかそのあたりは。あなたもお父上に似て、女性を見る目はかなり厳しいとお見うけしますが。」
「そんな、やめて下さいよ。」
 目を伏せロゼは笑う。侯爵は机に身を乗り出し声までひそめ、
「いやいやほんとの話。そのへんはいかがなんですか。」
「参ったな…。」
 国家の大事を前にしてアレスフォルボア侯爵とジュペール伯爵が、今ここでこのような話をしていようとは誰も思うまいと、ロゼは苦笑する。
 けれども侯爵はニコニコと誘い出し笑いをやめない。仕方なくロゼは言う。
「僕にはまだ、結婚なんて考えられませんね。」
「ほうほう?」
「侯爵もご存じの通りこの国では、爵位を嗣ぐには正室を迎えていることが条件です。でも僕は、両親が亡くなった時に、特例として、伯爵家を嗣ぐことを陛下に許して頂きました。その際、僕にもしもの時は姉のところから養子を取ると、約書を提出してあるんです。」
「姉上の。」
「ええ。幸い姉は嫁ぎ先で子供に恵まれ、すでに3男2女の母になっています。僕が子供を作らなくても、この3人の甥のうち誰か1人を養子に迎えれば、ジュペール伯爵家は安泰なんですよ。」
「しかし奥方はお迎えになった方がいいでしょう。」
 椅子に背を戻して侯爵は言うが、ロゼは首を振る。
「僕は、結婚というものに否定的なのかも知れません。血族間の争いを、今までいろいろ見てきました。正妻と愛人。嫡子と庶子。長男と次男。それらの間で起きる醜い争いから、僕は正直離れていたいんです。他人の争いでさえむごいのに、血族の場合はまして…」
 ロゼはハッと口をつぐむ。侯爵の顔から笑いが消えていた。
「失礼しました。配慮の足りないことを申しました。」
 すぐにロゼは謝る。艶福家の侯爵はルージュの母親である正室の他に3人の側室を持っており、皆それぞれに子供がいる。ロゼの言葉は聞きようによっては当てこすりとも取れる。が侯爵はすぐ笑顔に戻る。
「いやいやおっしゃる通りです。」
「申し訳ございません。」
 立ち上がってまで頭を下げるロゼに、侯爵は微笑み、言う。
「やはり舞踏会へはおいでなさい伯爵。ここは私1人で大丈夫です。うちの愚息は怪我人ですが、公爵家の坊主…じゃなかった若様も、今宵はお見えになるでしょう。あなたはこの数日間というもの、ずっとここへ詰めきりだった。お若い身には残酷なことです。さ、早くお出かけ下さい。ご遠慮は無用、まだまだ先は長いですぞ。」
 ロゼは迷ったが、
「ありがとうございます。侯爵のお気づかい、それでは有り難く受けさせて頂きます。」
「そうなさい。また明日の9時にこちらで。」
「失礼します。」
 一礼し部屋を出る彼の足どりは、やはり軽やかだった。
 王宮からの早馬を受けたヒナツェリアは、ロゼの指示通りに祭りの衣装を整えて使者に持たせる。こんなこともあろうかと支度は整えておいたから、ロゼのもとにそれらが届くのは驚くほど早かった。
 
「おお、賑わってる賑わってる! すげー! 派手ー!!」
 離宮に着き馬車を下りてすぐ、ヒロははしゃぎ始める。広間には何万の蝋燭が、テラスや庭には松明があかあかとともされていて、仮面をつけた大勢の人々が笑いさざめいている。中には舞台衣装かと思うほど華やかなドレスや、奇抜な扮装の人もいた。
「おいおい何だあれぇ! 着ぐるみぃ? な、行ってみよ行ってみよ!」
 ヒロはルージュの袖をぐいぐい引っぱる。
「こら待て。待てって。お前、素顔で行ってどうすんだよ。仮面つけろ仮面。ちゃんと。」
「あ、そっか。」
 ヒロはゴソゴソとポケットをまさぐる。仮面といってももちろんかぶりものではなく、隠すのは額と目の回りだけである。
 ヒロはルージュを見上げて言う。
「だけどこんなんつけたってさ、お前、変わんねぇよな。第一その髪の毛。それ見りゃ誰だって、イッパツでルージュだって判んぜ?」
「いいんだよ判ったって。要はこれ付けてるってことで、『誰だか判りませんよ〜』って申し合わせになんだからお互い。」
「あぁそっか! なんだそういうことかぁ。」
「今頃判ったのかよ…。ほら、行くぞ。」
「あ、待って待って。」
 2人は肩を並べて広間に入っていく。
 広間ではアトラクションとして吟遊詩人の歌劇や奇術師のショウなどがあり、やがて大編成の楽団が舞踏曲を奏で始める。料理の数々に舌づつみを打っているヒロにルージュはつきあっていたが、ダンスが佳境に入るともうじっとしていられなくなった。広間の一隅に集まっている美女、らしき数人がしきりに流し目を送ってきているのに気づき、ルージュはそちらへ誘われる。
 ヒロは相変わらず、
「うめー! この肉、焼き方の加減が絶妙! な、な、ルージュこれ食っ…あれ?」
 姿を消した彼にヒロはキョロキョロするが、
「いた…。」
 見つけたルージュは踊りの輪の中で、これみよがしに胸のあいたドレスの女と、『まさに是れ極楽』といった表情でステップを踏んでいた。
「あいつ、女の趣味悪くねぇか?」
 ヒロは首をかしげ、肉を噛み切る。
 ふと見るとテーブルの向こうにジョーヌとヴェエルがいた。
「よぉ! 何だ、お前らも来てたんだぁ!」
 近づいて声をかけると、
「やぁ。」
「あ、いたのヒロ。」
 2人の返事はそれだけだった。
「何だよぉ、どしたんだよ2人とも。食わねぇの? 腹でもこわしてんのか?」
 だが2人はヒロなど眼中になく、
「な、あの子あの子。あれいいよあれ。」
「そうかなぁ…。俺としてはあっちの、白いドレスの子の方が誘いやすいと思うけどな。」
「んじゃそうする?」
 ヒソヒソニヤニヤ言い交わして、女たちの方へ行ってしまう。
「ンだよぉぉ…。」
 ヒロはふくれる。こんなの全然面白くない、と彼は思った。
 その時入口のところに急ぎ足でロゼがやってきた。
「あ、ロゼー!」
 ヒロは手を振り駆け寄る。
「ああ、ヒロ。やっぱ来てたんだ。」
「おお。実はルージュも一緒なんだけどよぉ。」
「え、ルージュも? だって怪我は?」
「もう平気なんだって。この舞踏会だけはのがせないつって。」
「そっか。あいつらしいな。」
「ほら、あそこで踊ってんべ?」
 ヒロは顎で示す。
「もぉ、さっきから相手とっかえひっかえしてよぉ…。あれでもう5人めくらいじゃねぇか?」
 ロゼはルージュの方を見、笑う。
「全くあいつらしいよな。ほんと、おっぱい星人なんだから…。」
「え? なに? なにじんだって?」
「え? いや何でもない。ところでヒロは踊んないの?」
「踊んねぇよ。嫌いなんだっておいら。」
「ふーん。」
 唇をとがらすようにうなずいたロゼは、フロアにいる誰かに気づいたらしく、あ、と言ってからヒロの肩をぽんと叩いた。
「ごめん。俺ちょっと、急ぐから。またね。また、あとで。」
「え? おい、なに、ロゼぇ!」
 置いていかれたヒロは呆然とする。ロゼは、長椅子に座って広間を見渡していた身分高そうな貴婦人たちの中に歩み入り、彼女らの手をとっては次々とキスする。
「なにアイツ…。あれで15かよ…。」
 広間の反対側ではジョーヌが娘と踊っており、ヴェエルは複数の若い女たちに囲まれおどけて笑いをとっていた。さらにルージュはいつの間にか姿まで消していた。
「どこにシケこんだんだよあいつ!!」
 あぶれたヒロはムッとしてテーブルに戻り、片端からやけ食いを始める。
 
「いい匂いじゃん。何つけてる?」
 踊りながらルージュは腕の中の女に聞いた。女は妖艶に笑う。
「インドから送られてきた香水ですわ。媚薬と同じはたらきがありますのよ。」
「媚薬? そんなんつけてちゃ、やばいでしょ…。ただでさえこんな、魅力的な人なのに。」
「ま、お上手ですことね。」
「ほんとだよ。どうしよ俺、我慢できなくなったら。」
「我慢なんて、なさらなければよろしいのですわ。不自然なことですもの。」
「不自然か。そうだよな。」
「そうですとも。あなたの望むままに、お好きなようになさって。」
 ラッキー、と心でVサインを出し、ルージュは女を抱き寄せる。女も両腕を彼の首に回したが、
「いっっ!!」
 思わずルージュは声を上げる。左肩に激痛が走ったのだ。
「どうなさいました?」
 女は真顔で聞いたが、ルージュは彼女の体を押しやった。
「ごめん、何でも…」
 ない、と言おうとした声が続かない。女はオロオロし出す。騒がれると困ると彼は思い、
「わり。ほんとごめん。また、あとで。ごめん。」
 片手で拝みつつその場を離れた。情けなく痛がる姿など、女には見せたくないルージュなのだ。
 
 ルージュは広間に続くバルコニーに出る。窓は開け放たれているので音楽はよく聞こえるが、薄闇に人影はまばらだ。彼は手すりに凭れて痛みが引くのを待つ。
「ちっきしょ…。」
 あと3日は安静にしていろと言ったサミュエルの言葉が頭をよぎる。傷はふさがったのだから大丈夫だと思ったが、これでは何もできないと彼は舌打ちする。
 ようやく痛みが去り、ルージュはふぅと溜息をつく。先程までついそこの、長く伸びた枝影でそめそめと囁きあっていた男女は、足音をひそめて馬車の方へ下りていった。向こうの隅の暗がりでは、どうやら誰か抱擁しあっているようだ。ルージュは空を仰ぐなり。薄くかかっていた雲が切れ、冴々とした月が顔を覗ける。
(月の女神のおでまし、か…。)
 ルージュは思い、ふと視線を感じて下界を見る。
 バルコニーに立っていた彫刻の女神像が、動いたのかと彼は一瞬驚く。が彫像の影から現れたのは、女神によく似た衣装をつけた一人の女性だった。ドレスの裾は幾重にも重ねられた紗の布で、それがクリーム色に見えるのは、布そのものの色というより月光の色かも知れない。緩く結んだ銀のサッシュと、結いあげずに下ろした栗色の髪が夜風にさらさら靡いている。もちろん仮面をつけているので顔は判らないが、彼女から漂ってくる気配は、広間にいるどの女も持たない”高貴さ”であった。
 無言で凝視しているルージュの前に来ると、彼女は左手を差しのべた。見つめたまま彼はその手を取り、膝まづいて口づけた。曲は切なげなワルツに変わった。ルージュは女の背を軽く抱き、踊り始めた。彼女は右手を彼の肩には置かなかった。まるでそこには深い傷があると知っているかのようだった。言葉なく2人は踊り、月だけがそれを見ていた。
 
 身分がら舞踏会になど出ることはできず、王太子ハインリヒ(市川染五郎さん)は書斎で1人、読書をしていた。御前試合でのルージュの相手は敵国の間者であったことを、彼は父王に聞かされていた。祭りが終わったらすぐに五色の御旗の各家を召集し、今後の政策を決めると王は言った。自分もそれに参加しようと彼は考えていた。
 王太子は25歳、ルージュたちとは何度か一緒に狩りをしたことがある。ヒロとはまだ1回しか話をしたことはなかったが、公爵夫人は国王の姪、つまり王太子の従姉弟であるから、彼はヒロに対して近しい感情を抱いており、病弱な弟アルベルトよりむしろヒロの方が、相談相手になりそうだと思っていた。
 はっ、として王太子は書庫のドアを見る。何か音がしたように思ったからだ。呼ぶまで誰も来るなと命じてあったが、書庫には秘密の地下道に通じる通路がある。そのことは王家の人間の他はごく一部の大貴族しか知らない。まさか極秘の使者でも来たのかと、王太子は椅子を立ちドアに近づく。
 真鍮のノブを回すと、樫の大扉はきしみながら開いた。黴くさい紙の匂いがする。
「誰だ。誰かいるのか?」
 暗闇に尋ねても返事はない。空耳だと彼は思い、扉を閉めようとした時だった。銀色に光る刃が、彼の視界を斜めに斬り裂いた。
 
「君…名前は?」
 女の指先を通して伝わってくる熱い高鳴りに耐えかねて、ルージュはついに尋ねる。彼女は悲しげに顔を伏せる。聞いてはいけないことを聞いた、そんな気がルージュにはしたが、1言聞いてしまったら2言聞くも同じことだ。
「教えてくれよ。な。君は、どこの姫君なの。」
 女はきつく目を閉じ、首を振ってルージュの胸を押す。
「待てよ。」
 ルージュは止めるが、女は彼の腕をほどいて走り去ろうとする。すると広間の方で何やら慌ただしい足音がする。
「いらっしゃったか!?」
「いや、こっちにお姿はない!」
「お前たちはむこうを探せ! 今あの方のお身に何かあったら、我々全員、縛り首だぞ!!」
 何事かと思ったスキに女は逃げていく。
「ンだよ…。」
 いささか憮然としてルージュはつぶやく。ちょうど月も雲に隠れる。
 月とともに現れ、また去っていった女。まるで月の女神そのものだと彼は思う。
「月の女神…?」
 ルージュはドキリとする。その女神の名を持つのは、第1王女ルナ内親王殿下。
「いや、まさかな。まさか…。」
 思いつきを彼は否定する。と、そこへ今度は、
「あっ! いたいたっ、ルージュ!!」
 ものすごい形相でヴェエルがやって来た。
「ンだよ今度はお前かよ。」
「いいから来てよ大変なんだよ!!」
「馬鹿、いてぇだろ! ちっと落ち着け。何慌ててんだよ。」
「ヒロが大変なんだよぉ!!」
「ヒロが?」
 うんうんうんとヴェエルはうなずく。
「切れた。」
「はぁ?」
「ヒロが完全に、切れた!!」
 
 ルージュとヴェエルは広間に駆け戻る。ヒロは楽団の指揮者からタクトを奪いとり、楽団員に何やら怒鳴っていた。
「一体どうしたんだよ。」
 ルージュに問われ、1人オロオロしていたジョーヌは答える。
「よく判んないんだけど、俺らが全然相手してやらなかったのが頭にきたらしくて、いきなり『つまんねぇっ!!』て暴れ出して…」
「ッたくしょうがねぇな…。」
 ルージュは言い、
「な、ヴェエル。お前、すぐロゼ呼んでこい。」
「え? なに、ロゼ?」
「そう。あれなだめんのはうちら4人総がかりじゃなきゃ無理だろ。だから早く呼んでこい。」
「呼んでこいって…どこにいんだよぉ!」
「いいからそのへんの庭ぐるーっと走り回って、ヒロが大変だからすぐ来いって怒鳴ってこい。おら早く!!」
 ルージュに背中を突き飛ばされ、ヴェエルはバルコニーから庭に駆けおりる。
「ロゼ―――っ!」
 よく判らないまま言われた通りに、彼は全速力で走る。
「ヒロが大変だよぉ!! すぐ広間に来てーっ!!」
 
「だぁから。もっとこう、面白ぇ曲はねぇのかよ面白ぇ曲! アップテンポで! ドラマチックで!! 心がワクワクするような、そぉゆぅ曲だよっ!!」
 ヒロに詰め寄られ、白髪の指揮者は目を白黒させていたが、
「で、ではポロネーズなどはいかがでしょうか。」
「マヨネーズぅ? そら食いもんだろ!」
「いえ、ポロネーズで…。こう、こういった感じの。」
 短い演奏にヒロはぶるぶる首を振る。
「だぁめ! バツ! つまんねぇ! もっともっと、楽しい曲っ!」
「何やろうってんだ、あいつ…。」
 ルージュはつぶやく。そこへロゼが息をはずませて走ってくる。
「何があったの。ヒロがどうしたって?」
 尋ねる彼にジョーヌは、
「もう! どこ行ってたんだよロゼ!」
「いやちょっとね、取り込み中で…。」
 ロゼは濁すがルージュは言う。
「お前、口にベッタリ赤いもん付いてんぞ。」
「え?」
 ロゼは手の甲で唇をぬぐい、移った紅を見て、
「ああ、この色はクレンジングで洗わなきゃ落ちないな。いいよ、気にしないで。」
「……」
 3人は顔を見合わす。彼の髪が乱れているのも、風を切ったからだけではなさそうだ。
「俺のことはいいよ、で、何してんのヒロは。」
 ロゼは言い、3人は楽団の方を見る。
 ヒロの大きな目に睨みつけられた指揮者は、仕舞いに真剣に考え始め、やがてぽんと手を打つ。
「ではマーチはいかがでしょうか。こういった軽快な…。」
 彼の腕の動きに合わせて、楽団はメロディーを奏でる。ヒロはぱっと目をあく。
「これ! そうだよこれこれ! ンだよ、やりゃあ出来んじゃんかよ爺さんよぉ。」
「恐れ入ります。」
「よっしゃ、これなら合うな。なるべく速く弾けよ。いいな!」
 タクトを指揮者に返してヒロはフロアの中央に出る。参加者全員、何が起きるのか判らず呆然としている。
 ニヤ、とヒロは笑う。鉱山の街では祭りのスターだった彼は、その時の楽しさを忘れてはいなかったのだ。ヒロは両手を広げ、不敵に全員を見回す。
「Ladies and gentlemen!」
「なに?」
 さすがのルージュも面食らったところへ、ヒロは声を張り上げる。
「This is、 my、 ‘Show-Time’〜!!」
「なっ、何考えてんだあいつ!」
 踊り始めるヒロにルージュたちは慌てる。いくら身分を隠した無礼講の仮装舞踏会とはいえ、公爵家ご嫡男が見せ物まがいに客の注目を集めるなど、前代未聞であった。
「おーい! ルージュっ!!」
 しかしヒロは彼を呼ぶ。
「ロゼ! ジョーヌ! ヴェエル! お前らも来いよ!」
「来いって…。」
「教えてやっから来い! 祭りってのはな、こうやって盛り上がるもんなんだよ!!」
 アップテンポなマーチに合わせて、ヒロが踊っているのは見たこともないダンスだ。広間にいた全員が、最初はポカンと口を開けて眺めていたが、皆、段々リズムをとり始める。ルージュはマントの留め金をはずす。
「行こう。」
「へ!?」
 ルージュはそばの椅子にマントを放り投げ、
「うちらも行こうぜ。今日で祭りは終わりなんだからよ。前代未聞か。面白ぇじゃん。おら、行くぜっ!」
 ルージュは走り、ヒロの横に立つ。
「ルージュ!!」
 ヒロの笑顔も輝いた。
「な、どう踊んだよ。足、足。どう動かすか教えろヒロ!」
「いいかぁよーく見てろよ。まずこっちっかたから、ツーステップ、ツーステップ、右、左、ツーステップ…」
 武術で鍛えているルージュは非常にカンがよく、振り移しはあっという間に完了する。遅れてやってきた3人も何とか覚えた時には、客たち全員が手拍子していた。
「これだよぉぉ!!」
 ヒロは嬉しそうに嬉しそうに笑う。
「これが祭りなんだよ。身分とかそんなん関係ねぇんだよ。おいらたちこんな風にやってこうぜ。な。こうやって5人で、何でもやってこうぜぇ!!」
 
 手拍子はいつまでもやまず、5人を中心に人々の心は1つになった。しかし会場の誰1人とて知り得なかったが、この夜は彼らの祭りの、本当に最後であった。長い歴史を誇る聖ローマ祭は、この年を限りに2度と、行われることはなかったのである。
 禍事(まがごと)が近づいていた。黒々とした影は彼ら5人の足元にも、ひたひたと忍び寄っていた。
 

第2部に続く
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