『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第1楽章 主題2 】

 その日の夕刻、ヒロは馬車で侯爵家に向かった。夕食前に剣の稽古を、と言うと両親は無条件で外出させてくれた。もちろんヒロは稽古などする気はなく、ルージュと話をしたくて出かけていくのである。新任司令官としてどんなことをしているのか聞き、大変そうならハッパをかけてやろうと、ヒロは思っていた。
「んちゃ〜。さよぽん、元気かぁ?」
 ぴょん、と馬車を下り、出迎えてくれたサヨリーヌにヒロは手を振った。彼女は深く礼をした。ヒロは持ってきた包みを差し出し、
「これね、フランスの従姉弟から送ってきたサカナの酢漬け。よく判んねぇけど、なんか貴重品みてぇよ。うちの親がルージュに、新任司令官殿への陣中見舞いも兼ねて持ってってやれって。古くなると味が落ちっから、なるべく早めに食えってさ。ん。」
「お心づかい感謝いたします若様。」
「んな、いいっていいって。ところでルージュは? この時間ならもう帰ってきてんだろ?」
「それが、まだ…」
「まだぁ? 何ハリキってんだよあいつ。残業手当てでも稼ぐ気か?」
 ヒロは大袈裟に顔をしかめて見せ、が、すぐにふわっと笑った。
「ま、司令官になったんだもんなあいつ。気合入れて頑張ってんだろな。」
「は…。」
 サヨリーヌは煮えきらない答えかたをしたが、ヒロは言った。
「な、さよぽん。おいら、ちっとここで待たしてもらっていいかな。あいつの顔見て『頑張れよ』つったら帰っから。」
「はぁ…。」
 曖昧に笑うサヨリーヌを、ヒロは不審に思った。
「どした? 何か心配ごとでもあんの?」
「いえ…。」
 今夜ルージュがどんな様子で帰ってくるか、彼女は不安だったのだ。けれどもヒロをこれ以上、玄関先に立たせておく訳にはいかなかった。
「かしこまりました。では客間へどうぞ。」
 背筋を伸ばして彼女は言った。
「おそらくはもうそろそろ、帰宅すると思いますので…。」
「そっか。」
 2人は階段を昇り始めた。そこへ先駆けの轡の音が響いた。
「申し上げます、ただ今、若君ご帰城であらせられます!」
「お、ナイスタイミン〜! さよぽんほら、お出迎えお出迎え!」
 たったったっ、とヒロは階段を下りていった。サヨリーヌは慌ててあとを追った。馬車が横づけされ扉が開いた。下りてきたのはスガーリだった。ヒロは彼に笑いかけた。ハッとしたスガーリは、一礼だけして馬車の中に半身を入れた。
「若君、公爵家の若様がお見えになっていますぞ!」
「…ヒロ、が…?」
 くぐもったルージュの声がした。
「よろしいのですか。お会いになれますか?」
「んな、しょうがねぇだろ…。いいよあいつなら。」
「さようですか。では、どうぞ。」
 スガーリはルージュの腕を肩に担いだ。よろめきながらルージュは下りた。
「お帰りなさいあなたぁ。待ってたのよぉぉ!」
 ヒロはふざけて言ったが、
「ル…」
 次には絶句した。ルージュの顔はものの見事に紫色に腫れ上がっていた。
「どっどっどっどっどしたのルージュ!! そ、そ、そ、その顔…お、おイワさんかと思ったぜぇっ!!」
「よぉ…」
 ニヤリと笑うと冗談ともかく化け物のようだった。
「若君!」
 サヨリーヌも駆け寄って、
「さ、早く…早くお手当てを!」
 スガーリとともにルージュを抱きかかえ、階段を登っていった。ヒロは呆然と見送った。
「何やってきたのあいつ…。」
 立ち尽くしていた彼は次の瞬間、居あわせた侍従たちが驚いたほどの素早さで身をひるがえした。
 
「ボル――っ!」
 彼が駆け込んだのは厨房だった。こんなところに来るはずのない高貴な客人に、一同はあわてふためいたが、
「まぁまぁ若様若様! ご身分をお考え下さいまし、このような場所においでになるなどと…。」
 濡れた手を拭き拭き出てきたボルケリアの腕を掴み、
「いいからちょっと! ちょっと、こっち来て!」
 ヒロは彼女を廊下に連れていった。
「な、ルージュは、ルージュは何をやってんだよ。今、顔こぉんなに腫らして帰ってきたぜぇ? あいつ、確かに腕はたつけど、はっきし言ってあの顔が最終兵器ってとこあんべ? それなのにその切り札がよぉ、もぉ、ぐっちゃぐちゃのボロボロんなってて…。」
「んまぁ…。」
 ボルケリアは痛そうに顔をしかめ、
「では昨日だけではなかったんですね。おいたわしい。本当に若君は無茶をなさるから…。」
「昨日?」
 その言葉をヒロは聞きとがめた。
「昨日って…確かあいつの着任日だろ? てことはまさか、あいつ、部下のイジメに合ってんのか!?」
「イジメ…って若様、その言い方は…。」
 いや正しいなとボルケリアは思い直した。家柄と美貌が逆にハンデとなって、兵士たちにいらぬ反感を抱かせているに違いなかった。
「そっか…。」
 しょんぼりとうなだれて、ヒロは背中を向けた。
「若様? 若様どちらへ?」
「帰る。」
 ぽつんと言って、彼は歩き去った。
 
 公爵家に戻り、両親と夕食を済ませたヒロは、たっぷりとひだをとった青い部屋着の裾を引いて、そっと書斎のドアをあけた。燭台の灯りが揺れたのでジュヌビエーブはそちらを見た。
「ま、若様…。」
 驚いて彼女は腰を屈めた。
「あ、何でもない。ちょっと調べもんがあるだけだから、気にしないで仕事、続けてていいよ。」
 ヒロは言い、書架の方へ行った。ここへは読書の時間に嫌々やって来るか、またはアマモーラの目を盗んで昼寝に来るだけの彼が、独りでしかもこんな時間に、どうしたのだろうとジュヌビエーブはいぶかしんだ。
 管理ノートをつけながら彼女は、そっとヒロの様子を窺った。彼は書架を見上げ1冊に目をとめ、よいしょ、と背伸びしてそれを抜き取り、降ってきた埃を顔の前で払って、パラパラとページをめくった。
「これだ…。」
 つぶやきを彼女は耳にした。ヒロはその1冊を持って、月明かりの差し込む窓べのソファーに座り、熱心に読み始めた。
 ヒロの邪魔になるまいと、音をたてないよう書き物を続けていたジュヌビエーブに彼は声をかけた。
「な、わりぃ。何か書くもんある? それと…蝋燭1本立ててくんねぇかな。」
「あ、申し訳ございません、気づきませんでご無礼を…。」
 ジュヌビエーブは大急ぎでそれらを揃え、ヒロの前の小テーブルに置いた。
「サンキュ。あとはいいや。ご苦労さん。」
 彼はすぐ続きを読み始めた。下がる時彼女はちらりとページを見た。蔵書の全てを把握してる彼女には、その本が『軍隊組織と法規集』だと判った。なぜそんなものをと首をかしげ、ジュヌビエーブは席に戻った。ヒロはややしばらくカリカリとペンを走らせていたが、やがて本を書架に戻し、
「邪魔したな。」
 メモを手に持ち、出ていった。
 
 翌日、公爵家を出て最初の四つ角にさしかかったところでヒロは、馬車の窓から顔を出し御者席のハッツネンに命じた。
「おい。停めろ。ちょっと行くとこあっから。」
「は?」
 言われた通り路肩に停め、ハッハネンは振り向いた。
「どちらへ行かれるんですか。教会の神父様のところでは?」
「んなの口実に決まってんだろ。お前もいいかげんおいらの行動パターン読めよ。」
 彼は扉をあけ外に出たかと思うと、そのままどっこいしょと御者席に上がってきた。
「あのな、済まねぇけどな、ちょっと、ここ行って。」
 ヒロは夕べ書斎で書いたメモをハッツネンに手渡した。
「ここって…何ですかこれは。」
 ハッツネンはその紙を上下左右に回して。
「見りゃ判んだろ地図だよ地図。その、ばってん付けたとこ行って。」
「…。」
 ハッツネンは人さし指の関節を噛み、
「あの、若様…なぜこんなところにダムがあるのでございますか。」
「ダムぅ?」
 ヒロは覗きこんだ。
「ああそりゃ橋だよ橋。あんだろこの先にちっちぇー川が。」
「橋…。ではこの墓場マークは…。」
「馬鹿、墓じゃねぇよ学校だよぉ! おま、教習所で何習ったのぉ!」
 ハッツネンは溜息をついた。
「どちらへ行かれるのですか。場所をきっちりおっしゃって下さいまし。何度も申し上げております通り、私めに判らぬ道などございません。」
 手綱を構えてハッツネンは言った。ヒロは上目づかいに彼女を見、
「陸軍のぉ、練兵場。第3第4騎甲師団の兵舎と本部があっとこ…。」
「判りました。お急ぎですか?」
「まぁ…ぼちぼち?」
「では大通りを飛ばします。シートベルト、して下さいましたね? 参りますよ。ハイッ!!」
 
 シュワルツたちは今朝も食堂で雑談に興じていた。例によって長い爪楊枝をくわえたシュワルツは、
「いのしか、蝶っ! ほぅれ頂きだぁ。」
 兵士数人とカードをやって小遣い銭をせしめていた。やがて中の1人が言った。
「まさか今日は来ねぇでしょうねあのガキ。」
 別の男が笑った。
「来るわきゃねぇだろ。あれだけ丁寧に仕上げたんだからよ。」
「丁寧にって、何だよお前そのツラは。あんなガキにパンチもらいやがって。」
 吐き捨てるようにシュワルツが言うと、
「面目ねぇ。」
 男は首をすくめた。するとそこで、
「なぁ、連隊長よぉ。」
 隣のテーブルでヒソヒソ話していた1人がシュワルツを呼んだ。
「あのよぉ…いくら何でもちょっと、やりすぎじゃねぇのか? ほら今までの司令官とは違って、あのガキゃあ一応、元帥の息子だろぉ?」
 それを聞いたシュワルツはいきなり、男の胸ぐらを掴んで言った。
「どうしたよおめぇ…。いつからそんな腐ったこと言うようになった、ああ?」
 しかし同じ意見の者はまだいるらしく、
「いや、あいつさ、見かけより骨あると思わねぇか?」
「そうなんだよな。髪の毛チャラチャラした大貴族の甘々ご嫡男だと思ってたら、昨日間近で睨まれたとき、俺ゾッとしたんだよなぁ。すんげぇ眼してやがんだあいつ。なんかほんとに、鷹みてぇな…。」
 ダン!とシュワルツはテーブルを叩いた。一同はシンとした。
 そこへただならぬ顔で、ヴォルフガングがやって来た。気配に気づいてシュワルツは振り向き、
「何だ。なにビビったツラしてやがんだよ。まさかあのクソガキが、来たなんて言うんじゃねぇだろな。」
「それが…」
 ヴォルフガングはシュワルツの肩を掴んだ。
「来たんだよ。昨日と同じように、今、練兵場に立ってる。」
 
「ああ、見えて参りましたね。あちらが陸軍練兵場でございます。」
 ハッツネンが指さした方をヒロは見た。道の脇に高い煉瓦塀が連なっていた。剣を下げた兵士が2人立っているあたりがおそらくは正門であろう。馬車を近づけるハッツネンにヒロは、
「おいおい前で停まんなよ。ぐるーっと裏に回れ。」
「は? ご訪問なさるのではないんですか?」
「ちげーよ。裏から様子見っだけ。」
「様子とは…」
「いいから、どっか人目に付かねぇとこで停めろ。」
 ガラガラと轍をきざみ、馬車は塀の回りをぐるりと走った。門という門に兵士が立っているのは、ここが武器庫も兼ねているからである。ヒロはイライラし始めた。
「なぁどっかねぇのかよ、どっか、こん中覗ける場所はよぉ。」
「それは無理でございますよ若様。ここは軍の中枢とも言うべき建物なんですから…。」
 馬車は塀の角を曲がった。敷地内に植えられた木の枝が、塀を越えて道に張り出していた。
「停めろ。」
 ヒロは言った。
「ここならちったあごまかせんべ。そこの枝んとこに、なるべく塀に寄せて停めろ。」
 ハッツネンは命令通りにした。あたりに人影がないことを確認して、ヒロは馬車の屋根によじ登った。
「わっ若様あぶのうございます!」
 オロオロするハッツネンに構わず、彼は屋根の上で背伸びをし、何とか塀に手をかけた。
「何見てんだよ、はっつ! 早くお前もここ上がって、おいらの尻押さなきゃダメだろほら!」
「し、尻押さなきゃって…」
 目を剥くハッツネンをヒロははたはた手招いた。仕方なく彼女は鞭を置き、じたばたと屋根に這い上がった。
「いっか? いっせ〜の“せ”で押せよ。1発勝負だかんな。失敗は許されない。判ったか。」
「わ、判ったかって若様…。」
「ほら早く! なに手袋はずしてんだよ、いいって尻くらい遠慮しねぇで。いっか? いくかんな。いっせーのっ、せっ!!」
 グイッ、とハッツネンはヒロの尻を押し上げた。理想的なタイミングであった。ヒロは両腕を突っ張って、塀の上に半身を持ち上げた。
「よっしゃっ! ナイスだ、はっつ!」
 成功を喜んだヒロは、眼下に見える広い練兵場で繰り広げられている光景に、思わず息を飲んだ。
「おい…まさかルージュかよあれ!!」
 そこでは軍服姿の男たちが40〜50人、罵声とも歓声ともつかない大声を上げており、彼らの輪の中でルージュは、立ち上がれずに膝を折って激しく咳こんでいた。
 
「なぁ、もういい加減にしましょうやお坊っちゃん。」
 のっそりとルージュに近づき、傍らにしゃがんだのはシュワルツだった。
「俺たちゃ別に、好き好んでいつまでもこんなことしてる訳じゃねぇ。あんたが歓迎されたりねぇって言うから、つきあってやってるんですぜ。だからあんたがゲームオーバーだって言えば、俺たちゃもうそこでやめますよ。悪いこた言わねぇから早く降参して、僕にはとてもつとまりまちぇんって、お優しいパパに泣きつきなさいよ。」
 うめきながらルージュは顔を上げ、シュワルツを睨みつけた。ふふんと笑ったシュワルツの顔に、彼は血の混じった唾を吐いた。
「あんまりナメたこと言うんじゃねぇよ。ゲームオーバーすんのはそっちだろ。」
 手の甲でシュワルツは顔をぬぐい、
「まだ判ってらっしゃらねぇんじゃしょうがねぇ。ここらで本気の1発、たんまり味わって頂きますかね。」
 シュワルツは兵士に言った。
「おい、そいつ、羽交い締めにしてそこに立たせろ。」
 ひときわ大柄な男がルージュをひきずり上げ、両腕を後ろに回させて肘の部分を抱え込んだ。
「なぁ若さんよぉ、意地張ってないで降参した方がいいぜ。シュワルツの鉄拳くらったら、あんた鼻の骨、完全に折れるよ。」
 シュワルツはニヤリと笑った。
「覚悟はいいなお坊ちゃん。」
 彼が右腕を振りあげた、まさにその時であった。
「やめろ―――っ!!」
 練兵場にヒロの声が響いた。驚いて全員がそちらを見た。青い服の小柄な少年が、塀の上からひらり身を躍らせた。
「てめぇらやること汚ぇんだよ!!」
 輪の中央に飛び込んで、ヒロはルージュの前に立ちはだかった。
「誰だおめぇ…。」
 どこかで見た顔だなとシュワルツは眉を寄せた。
「んなこたどうだっていいだろ! 大の男がよってたかってたった1人を痛めつけて、てめてらみてぇのを卑怯者っつうんだよ!!」
「ヒロ…。」
 ルージュは腕を抱えられたまま目を見張った。
「おま、何しにこんなとこ来たんだよ! お前の出る幕じゃねぇだろ!」
 ヒロはルージュの方を向き、泣きそうな顔をした。
「んなこと言うなよぉ。お前がこんな目に合ってんの、放っとけっていうのか? そんなのおいらできねぇよ。ぜってー嫌だよそんなのぉ!」
「んな、馬鹿言ってんじゃねぇ! お前に怪我でもさしたら、公爵―――」
 ルージュの言葉の途中でヒロは、彼を押さえている大男の腕にグイッと手をかけた。
「ほら、放せよ。やんならこいつと1対1でやれ。んな抵抗できねぇようにしといて殴るなんて、まともな男のすることじゃねぇだろ。」
「何だとぉ? くぉら!!」
 兵士はぎょろりと目を動かし、片手でヒロの衿を掴んだ。
「やめろ! そいつには手出すな。おい、よせ、ヒロ!」
 ルージュは必死で止めたが、ヒロは顔色一つ変えず、
「おいおい、おいらとやんなら、先にそいつ放せよ。気は進まねぇけど相手になってやっから。」
「お前がかぁ?」
 兵士はせせら笑った。
「どこのどなた様だか知らねぇが、ケガしたくなきゃすっこんでやがれチビ!!」
「あー。」
 ヒロは獅子の子のように笑った。
「人が気にしてっことをよぉ。ずいぶんはっきりと言ってくれるじゃねぇか…。」
「ああ? 何をブツブツ言ってやがんだこの、チ―――」
 言い終わる前に男は股間にヒロの膝蹴りをくらい、ぐぅと言って顔から地面に突っ込んだ。いったい何が起きたのか、シュワルツたちには一瞬判らなかった。
 ヒロは笑いながら一同を眺め、腰を沈めて身構えた。
「悪いけどな、おいら喧嘩で敗けたことねぇんだよ。鉱山の街ではワイルド・キャットと呼ばれてた。お前らが束んなってかかって来たって、そうそう簡単にゃあやられねぇかんな。」
「やめろヒロ! な。頼むからやめろ!」
 止めるルージュの手をヒロは振り払った。シュワルツはニヤリと笑った。
「面白ぇ。お坊ちゃまのお友達ですか。助っ人にしちゃ物足りねぇが、先にそっちが手ェ出したんだぜ。お返しは存分にさせて頂きますよ。…おい、てめぇら!」
 シュワルツは顎をしゃくった。兵士たちはじりじりと輪を縮めた。ヒロはさらに腰を沈めたが、
「あ、たんま。ちょっと待って。1分。」
 手のひらで彼らを止め、ぷちぷちと胸のボタンをはずした。
「汚して帰っとアマモっちがうっせぇかんな…。」
 上着とブラウスを脱いで、ルージュ同様ヒロも半裸になった。遠巻きにしていた大人しそうな兵士にヒロは近寄り、
「わり。これ、どっかそのへん掛けといて。」
「ざけてんのかてめぇ!!」
 シュワルツは怒鳴った。ヒロは戻ってきて、
「おお、わりわり、タイム終了な。いいぞかかってきて。」
「なめた真似しやがって…。かまうこっちゃねぇ、まとめて畳んじまぇ!!」
 兵士たちはどっと飛びかかった。
「下がってろルージュ!」
 信じられない身軽さでヒロは拳をかわし踵をかわし、スキを見てはパンチを見舞った。
「馬鹿! お前だけにやらせとけっか!!」
 背中合わせでルージュも怒鳴り、男の顔面にキックをぶち込んだ。
 
 ハッツネンは何度も落ちそうになりながら、ようやく馬車から塀によじ登った。見ると練兵場にはもうもうたる土ぼこりが立っていた。
「うっわ…。」
 彼女は目を白黒させた。小柄で華奢で美少女のようなヒロの大立ち回りは、バネといい切れといい草原の肉食獣さながらで、ハッツネンは思わず拳を握りしめた。
「頑張れ若様っ! そこだっ!! 右フック! ガードガード!! ストレートいけっ!! よっしゃ決まったぁ!!」
 
 初めのうちは笑って腕組みしていたシュワルツの顔色が、徐々に変わり始めた。信じられないことだがヒロの強さは桁外れで、下手をしたら兵士全員を倒しかねないと思えた。つい先程までは気絶しかけていたルージュも、それに乗じたか勢いを取り戻して、相手の急所に正確にパンチを打ち込んだ。兵舎からは他の穏健派兵士たちも、何事だと次々集まってきた。
 しかしヒロの奮闘にも限界があった。多勢に無勢はいかんともしがたく、幾度もダメージをくらい鼻血を出し、とうとう彼はガクリと膝をついた。
「ヒ、ロ…。」
 ルージュは四つん這いで彼に近づき、肩に手をかけた。
「ルージュぅ…。」
 その手を上から握って、
「ごめん…。さすがのおいらも…もう駄目…。」
「馬鹿野郎…。」
 2人は互いの背中に凭れかかり、血だらけの顔でハァハァ息をした。
「それで終わりか。」
 シュワルツは口元を歪め、笑った。
「手間かけさせやがって。さぁお前ら、今度こそ仕上げ…あら?」
 シュワルツは辺りを見回した。2人に殴りかかった兵士たちは皆、大の字になって地面に転がっていた。
「何だよっお前ら! ぜ…全滅かよ!! おいっ! おいヴォルフ!」
 ヴォルフガングの脇腹をシュワルツは爪先でつついた。彼はのっそり半身を起こし、
「ゲームオーバーだよ、連隊長。」
 鼻血をぬぐって苦笑した。
「大したもんだよこいつら…。俺は納得したよ。口先だけの世間知らずじゃあない。やるとなったらやる奴だ。」
「ンだとぉ?」
 シュワルツは気色ばみ、彼の胸ぐらを掴んだ。その時だった。
「…おい。」
 切れた唇でルージュは呼んだ。ヴォルフガングの衿を掴んだままでシュワルツは振り向いた。
「いい加減にしろよお前。俺のいったいどこが気にくわねんだよ。思うことあんだったら聞いてやっから、その口できっぱり言ってみろ。」
 ルージュはシュワルツを睨みつけ、シュワルツも睨み返した。2人はしばらく動かなかったが、やがてシュワルツはルージュの前にドカッとあぐらをかいた。
「俺はな。」
 シュワルツは言った。
「あんたみたいに全てに恵まれた、いいとこのお坊ちゃんが大嫌ぇなんだよ。地位。家柄。財産。3拍子揃ったとこにもってきて、そんなスカした、人形みてぇなツラしやがって。」
 ルージュは言い返した。
「んな、この顔は俺のせいじゃねぇだろ。文句あんなら俺のお袋に言え。美人なんだ。」
 きっ、とシュワルツはルージュを見た。
「それだけじゃねぇよ。あんた、何だって思い通りになんだろ。欲しいもの、欲しい地位、欲しい女。何でもかんでも思うまま手に入れられんだろうが!! ふざけんなよ。俺たちなんてな、どう逆立ちしたって司令官になんかなれねぇんだよ!」
 吐き捨てるシュワルツに、
「…そいつは違うな。」
 応えたのはヒロだった。痛む首を回して彼の方を向き、
「お前らはさ、確かに司令官にはなれねぇかも知んねぇけど、でも軍隊が嫌になったら、いつだって出ていけんだろ? 入隊時に試験はあるけど脱退時には特に規定はない。違うか?」
 ぐっとシュワルツは黙った。
「だけどこいつはな。嫌んなったからって、侯爵の息子やめる訳にいかねぇんだよ。元帥の仕事、放り出して逃げる訳にいかねぇんだ。どんなに重たい責任でも、背負わなきゃなんねぇんだよ。なぁ判るか? お前そんな風に考えたことねぇだろ。」
 シュワルツは無言のままだった。ヒロは続けた。
「女だってそうさ。この国の奴らが安心して暮らせるように、そのためにこいつ、会ったこともない女と結婚すんだぜ? どんなガマガエルが嫁に来ようと、そいつとSexしなきゃなんねぇんだぜ?」
「…やめろよ縁起でもねぇ。」
 ルージュはボソッと言った。
「だからそれがどうしたよ!」
 シュワルツは激しく頭を振った。
「雲の上の暮らしが出来んならなぁ! んなもんいつだって変わってやるよ! 恵まれてんだよお前らは! いいとこ住んでいいもん着て、毎日うまいもん食ってんだろうよ畜生!!」
「…ちょっと待て。」
 ルージュは身を乗り出した。
「な、シュワルツ。お前…まさかそんなんが羨ましいのか。」
 彼の顔を覗きこんでルージュは聞いた。シュワルツは拗ねたように顔をそむけた。大きな図体をしてこの男は、もしかしたら邪気のない単純な熱血漢かも知れない。ニッ、とルージュは笑い、ヴォルフガングに言った。
「おい、第3連隊長。伍長に言ってうちに使い出せ。日没までに最高のディナーを4000人分用意して持って来い。俺がそう言ったってサヨリーヌに伝えろ。判ったな。」
「は、はいっ!」
 反射的にヴォルフガングは敬礼し、足をひきずって走っていった。
 
 知らせを受けたサヨリーヌは、初め何が何だか判らなかった。が、やって来た使いは軍の伝令で、ルージュは今、兵士たちの心を掴もうと必死になっているはずだ。いきさつを彼女は、じきに理解した。けれどもサヨリーヌに相談されたボルケリアは、
「い、いくら何でも無理でございますよ!」
 蒼白になってそう言った。
「そんな、4000人分のディナーなど、今日言って今日、用意できるはずがないではありませんか! 日没まであと5時間はございません。第一材料をどうするおつもりです!」
「無理は承知です。でもそこを何とかなりませんか。ルージュ様のご指示なのです。」
「そうは申されましても…。」
 ボルケリアは呻吟し、
「ご本邸の厨房にお願いして、あとはどこかのお家(いえ)にご協力を賜るしかございません。当家だけでは不可能でございます。」
「判りました。」
 サヨリーヌはうなずいた。
「仕方ありません。ジュペール伯爵家にお願いしてみましょう。」
 
 緋色の腹当ての早馬が、門をくぐり駆け込んでくるのをヒナツェリアは見た。ロゼ宛てだろうと思い出迎えて、彼女は使者の言上に驚いた。
「侯爵家侍従サヨリーヌより、御伯爵家女官長ヒナツェリア様へのお文にございます。」
 手渡された書面をヒナツェリアは読み、うなずいた。
「委細、承知致しました。」
 さらに彼女は、使者に次のように言づけた。
「当家のみならず、シュテインバッハ公爵家、並びにヘルムート子爵家、ラルクハーレン男爵家にもお願いしてみます。なれどサヨリーヌ様にはご心配なきよう。全て私どもの責任においてご依頼申し上げますと、かようにお伝え下さいませ。」
 
 使者が帰るとヒナツェリアは早速厨房に行き、城にあるありったけの食料でなるべく豪華な食事を作るよう料理長に指示し、それから自室に急いだ。
 机を開けて彼女は3通の封筒を取り出した。実はヒナツェリアはロゼから1つの任務を託されていた。その任務とは、五色の御旗の各侍従たちの間に、緻密な情報網を張り巡らすことであった。各家の結びつきを末端部分まで強化する―――それがロゼの考えた、鉄壁の防御策なのだった。
 ヒナツェリアはロゼの考えを受けて、今我々が一丸となることがいかに重要であるか訴える文章を、美しい筆跡で手紙にしたためていた。いつこれを送るべきかタイミングをはかっていた彼女にとって、サヨリーヌからの依頼は、まさに渡りに船だった。
 
 ヒナツェリアは早馬を仕立て、使者3人に手紙を託した。公爵家ではアマモーラが、子爵家では首席侍女のドーラが、男爵家ではヴェエルの乳母マスミーナが、その手紙を受け取って奮い立ち、5つの家の台所は、にわかにフル回転し始めた。
 
「あいっ、て…。」
 司令官室のソファーの上で、ルージュは伍長に傷の手当てをさせていた。傷口を伍長はおっかなびっくりぬぐうから、かえってしみて痛いのだ。
「おま、もうちっとマシな手当て出来ねぇのかよっ!」
「も、も、申し訳ございません…。えーとあと、あとはこちらが…あ、痛いっ!!」
「おめぇが痛がんなっ!」
 そんな2人のそばでヒロは、ルージュと同じ上半身裸で、自分の顔の傷を手当てしていた。消毒薬の入った洗面器に手鏡を立てかけ、彼は眉をしかめつつガーゼを傷に押しあてた。
「いてぇっ!!」
 ルージュは大声を上げた。伍長が傷の真上で包帯をギュッと結んだからだ。
「おいおい大丈夫かぁ?」
 ヒロは笑ってふりむき、
「それにしてもさ、お前ボロボロじゃん。素手でやったら多分おいらのが強ぇよな。あ? ルージュぅ。おいらのが、つ・ぇ・ぇ・よなっ!!」
 ケラケラ笑う彼にルージュは小声で、うるせ、と言った。ヒロはVサインを出した。胸も背中も傷だらけのルージュに比べ、ヒロの怪我は顔と肩だけであった。
「確かに、こちらの若君もお強ぅございました。」
 ニコニコ笑って伍長は言い、そこでヒロの肩の傷に気づいた。傷口にははまだ泥がついていた。
「おお、これはいけませんな。お待ち下さい、ただ今お手当てを…」
「えー?」
 ヒロは自分の肩を見た。
「ああ、いいいいこんなの。舐めときゃ治る。」
「いえそうおっしゃらずに、ちょいちょいっと消毒だけ…。」
 ガーゼを手にヒロに近づいて、伍長はギクッと足を止めた。白く細い彼の左肩には、何か小さな紋様が彫られていた。それが何であるか判った時、伍長の顔色が変わった。
「あ、あなた様は、あなた様はもしや…。」
 ちょうどそこへドンドンとノックの音がして、
「失礼しまぁす。」
 入ってきたのは洗面器を持ったヴォルフガングだった。
「伍長、ほら、新しい消毒薬…」
 言いかけて彼は黙った。伍長がいきなりひざまづいたのに驚いたためだった。
「え? 何…。」
 きょろきょろと目を動かして、ヴォルフガングはソファーの方を見た。ルージュはわざと芝居がかって言った。
「やっと判ったか。そ。そちらにいらっしゃるのは、シュテインバッハ公爵家のご嫡男にして第2位王位継承権者、ヒロ・リーベンスヴェルト殿だよ。」
「シュ、シュテ…。こここ公爵家の…」
 しどろもどろの伍長の横にヴォルフガングも膝をついた。彼は先程その手でヒロの顔を2発殴っていた。ひと昔前なら間違いなく逆さ吊りの刑になるだろう。
「いいってそんなの。いちいちよ…。」
 ヒロは嫌な顔をした。ルージュはニヤニヤ笑っている。
「おいらが勝手に喧嘩したんだからよ。公爵とか王位とか、んなの関係ねえって。」
「そ、それではこの件はご内密に…」
 かすれた声で伍長は言ったが、
「そっちこそ誰にも言うんじゃねぇぞ。こんなとこでお前らとケンカしたなんて知れたら、アマモっちに何されっか判んねぇかんな。」
「は? あまもっちとは…。」
「いやこっちのこと。気にすんな。そんなことよりおいらの手当て。してくれんだったら早くしてくれよ。」
「はっ! たっ、ただちにっ!!」
 壊れものに触れるように、伍長は傷口にガーゼを当てた。
「おい。おい、第3連隊長。」
 ルージュは、呆然と膝をついたままのヴォルフガングを呼んだ。
「なに鳩が豆鉄砲くらったような顔してんだよ。宴会場の用意は出来てんのか?」
「はっ!」
 ヴォルフガングは立ち上がり、敬礼した。
「ただ今見て参ります!!」
 あの反抗はどこへやら、彼は小走りに部屋を出ていった。
「だけどよルージュ。4000人分の食事なんて、ほんと大丈夫なのか? あんな大見栄切っちまってよ、出来ませんでしたじゃすまねぇべ?」
 ヒロは言った。ルージュは替えのブラウスをバサリとはたき袖を通した。
「ああ。間に合うだろ。」
 ブラウスの上に士官服を着、彼はボタンを留めながらつぶやいた。
「サヨリーヌなら、何とかしてくれる…。」
 ヒロはチラリと彼を見た。ルージュは目をそらし、髪を大きくかきあげた。
 
「そちらの煮込みはまだ上がりませんかっ!? 何をもたもたしているのです!!」
 侯爵家の厨房ではボルケリアが半狂乱で指揮を取っていた。大竈(かまど)では炎がパチパチとはぜ、いたるところで白い湯気が上がり、それらの熱と人いきれで厨房は文字通り戦場と化していた。練兵場までは馬車で運ぶから、盛りつけは現地でやるしかない。総動員された下働きたちは、ずらり横付けされた長距離用大型馬車の中に、ありったけの食器を次々と運びこんでいった。
「はいっ急いで急いで! ああそのスープ皿は向こうの馬車へ! シルバーは籠にまとめてそっちの馬車!」
 現場を仕切っているのはクマパッシュだった。
「サヨリーヌ様! 積み終えた馬車から出発させてよろしいですね!?」
 彼は声を張り上げた。銀盆に肉の塊を乗せて運んできたサヨリーヌは、
「そうして下さい! それぞれの車に下働きを1人ずつ乗せて、先にあちらで待機しているようにと!」
「判りました!!」
 そこへ蹄の音も高らかに1頭の早馬が駆けてきた。
「くぉらーっ!! 食いもんのとこで埃たてるなぁっ!!」
 クマパッシュは怒鳴った。
「失敬!」
 乗ってきた従者は謝り、ひらりと地面に飛び降りた。馬には青い腹当てがつけられていた。ハッとしてサヨリーヌは駆け寄った。従者は帽子を取り礼をした。
「シュテインバッハ公爵家の者です。当家侍従アマモーラに申しつかりましたもの、御門の外にお持ちいたしました。」
「まぁ…。」
 サヨリーヌは積み込み中の馬車の脇をすりぬけ、門の方を見やった。金色の屋根飾りをきらめかせて、公爵家の馬車がずらり列をなしていた。そこへまた1頭の早馬が、続いて1頭、さらにもう1頭がやって来た。
「ジュペール伯爵家より、ご依頼の品々をお持ちしました!」
「同じくヘルムート子爵家侍従にございます!」
「ラルクハーレン男爵家の者にございます!!」
 1個師団にも相当するだろう馬車の群れに、サヨリーヌは胸を熱くした。
「ありがとう。心から感謝致します。ありがとう。」
 頭を下げる彼女の背後には、いつしかボルケリアが来ていた。
「サヨリーヌ様、こちらも全て整いました。大至急馬車に積み込みます。日没までには十分間に合いますよ。」
「ありがとう…!」
 サヨリーヌは礼を言い、視線でクマパッシュを促した。
「さあっ積み込め、早く!!」
 彼は侍従たちを大きく手招いた。サヨリーヌはつぶやいた。
「今参りますルージュ様、待っていて下さいませね…!」
 
 ヒロとルージュは司令官室にいた。ルージュは自席である司令官のデスクに向かって、肘をつき口の前で両手を組み合わせ、じっと目を閉じていた。ヒロはその机に腰かけて足をぶらぶらさせ、時おり首を伸ばしては窓の外を見て溜息をついた。
「落ち着けよヒロ。」
 ルージュは言った。
「お前が苛々したってどうにかなるもんじゃねぇだろ。第一お前、いつまでここにいんだよ。」
「いつまでって…お前一人放っとけっかよ。」
「んなガキじゃねぇんだから、とっとと帰れよ。別に用はねぇんだろ。」
「お前そゆこと言うなよ。可愛くねぇなぁ。ヒトが心配してやってんだから、好意は素直に受けろよ。」
「嘘つけ、単に腹減ってるくせに。」
「あ、判った?」
 ヒロは笑い自分の腹を撫でた。その時、ルージュはハッと目をあいた。
「…来た。」
「え?」
「あの車輪はうちの馬車だ。」
 ヒロは驚き、
「いや、何の音もしねぇぜ? 今のはおいらの腹が鳴った―――」
 ルージュは立ち上がり窓に駆け寄った。ヒロもついて来て、そして目を見張った。ルージュの言った通り、真正面の門をくぐって数台の馬車が、緋色の腹当ての馬に引かれて走ってきた。
「見ろよ。」
 ヒロの肩をルージュは掴んだ。門の外はゆるやかな坂で、その先は1本道だが、そこには数え切れないほどの馬車が群がって、この練兵場を目指していた。
「な、やけに数が多くねぇか? お前んちってあんなに馬車あんの?」
 目を細めてヒロは言った。彼はルージュほど視力がよくないので見えなかったのだが、ルージュはもう気づいていた。やって来る馬車は侯爵家のものだけではなかった。公爵家の青、伯爵家のローズピンク、子爵家の黄、男爵家の緑と、馬印はそれぞれに染め分けられていた。
 先頭の馬車が建物の入り口で停まると、兵士たちもバラバラ駆け寄ってきた。真っ先に馬車を下りたのはチュミリエンヌだ。食器の山を抱え下ろしながら、
「ねぇちょっと! 見てないで手つだってよ!!」
 彼女は兵士たちに言った。最高の食事が全員にふるまわれるらしい、と聞いたはものの半信半疑だった兵士たちは、それが本当であると判って狂喜した。
「よっしゃ! おいお前、手のあいてる奴ら全員呼んでこい!」
「合点承知!」
 馬車は次々停まり、食器や料理がどんどん下ろされたが、訓練された兵士たちは抜群のフットワークで、それらを室内に運びこんでいった。
「おいその机こっちに持ってこい! それとそれをくっつけて、ああガタつかねぇよう足の下に何かかませろ!」
「な、皿はここに並べちゃっていいのか!?」
「ああ待て待て、そこじゃない、こっちだこっちだ!」
 わぁわぁと大騒ぎになりながら、兵舎内の大食堂は見る見るうちに宴会場に整えられていった。シュワルツは壁の前でじっとそれを見守った。皆、嬉しそうに作業をしていた。
「ちっきしょう…。あのガキ、食いもんで釣るなんざやることが汚ねぇ。」
 不満を垂れても誰一人、耳を傾けはしなかった。
 ヒロとルージュは司令官室を出て階段を駆け下りた。大食堂では既に盛り付けにかかっていた。
「すげ…」
 戸口でヒロは目を見張った。侍従たちと兵士たちは一丸となって、てきぱき体を動かしていた。ヒロはルージュの横顔を見上げた。
「おい、間に合ったよルージュぅ。すげぇよさよぽん、やってくれたじゃん。」
 さすがのルージュも言葉はなかった。侍従たちの中で忙しく手を動かしているサヨリーヌを、一点ルージュは見つめた。視線に気づいて彼女は微笑み、深く頭を下げた。ニッ、とルージュも笑った。ヒロはあることを思いついてそっと部屋を出た。
 廊下でヒロは伍長に出くわした。
「いやいやいや、こりゃあすごいことになりそうですなぁ。」
 呑気に驚いている彼の袖をヒロはぐいっと引いた。
「おいへっぽこ伍長。おめー閑人だろ? ちょっとおいら手伝え。」
「は? 手伝うって何を…。」
「いいから、山ほどちり紙持ってこいちり紙。色のついた、なるべく綺麗なやつな。」
 
 大食堂には兵士たちがひしめきあふれ、入りきれない者たちは、
「入れ替え制だ入れ替え制!」
 などと怒鳴って廊下に列をなした。
「はいっ騒がないで下さい皆さん!!」
 ここでも仕切るのはクマパッシュだった。
「慌てなくても大丈夫です、料理は人数分たっぷり用意してあります! とっておきのワインも1人2杯分はありますから、慌てるナントカにならないよう落ち着いてお待ち下さい!」
 兵士たちは拍手した。先に来ていた者たちは取り皿とシルバーを手に舌なめずりし、「どうぞ」の声を今か今かと待っていた。
「どいたどいたどいた!」
 そこへ駆けこんできたのはヒロだった。彼は両手に紙の花と紙の鎖を抱えていた。後ろでは伍長が、やはり同じ飾りをうず高く抱きかかえていた。
「なんだよヒロ、どこ行ってたんだお前。」
 ルージュは言ったが、ヒロはゴトゴトと椅子を引き寄せてその上に立ち、入り口の壁に紙の花を飾り始めた。
「おい、おめーらぼんやり見てんじゃねぇよ。」
 側につっ立っている兵士に彼は鎖を渡した。
「むこっかしからそっちにずーっと、これ貼っつけてくれ。んで止めたところにこの花をくっつける。判るな? 判ったらすぐやって。」
「ッとにあいつの考えそうなことだな。丸っきりお遊技教室じゃねぇかよ。」
 ルージュは苦笑したがヒロは夢中だった。飾りつけがちょうど済んだ時、ボルケリアが宣言した。
「さあっお待たせ致しました皆さん! どうぞお取り下さい!」
 わっ、と兵士たちは料理に群がった。
「うんまそ〜!!」
 彼らに混じってヒロも、大皿に盛られた料理にキョロキョロと目移りしていた。一般の兵士たちは彼のことを、身なりからどこかの貴族だとは判るがまさか公爵家の嫡男とは思わず、
「あ、あんたそれな、もっとたっぷりソースかけたが美味いぜ。ほらこれこれ。こっちの茶色いの。」
 などと親しく話しかけた。またヒロも何ら気取りなく、
「え、これ? これかけんのね?」
 言う通りにしては、
「うんめー!! ほんとだぁ、かけた方がうめー!」
「だろぉ!」
 すっかり彼らと友達になってしまった。ルージュは椅子にも座らず料理も食べず(本当は口の中が切れていて固形物は食べられない)ワイングラスを手に食堂内を眺めていた。人の波を隔てて真正面の壁ぎわには、忿懣やる方ない風情のシュワルツの姿があった。
 シュワルツは左肩を壁にもたれさせて腕組みをし、ルージュをじっと見つめていた。食欲とは人間の本能的な欲求で、それをたっぷりと満たしてやることは、相手の忠誠心を高める効果があるはずである。そこまで計算しているのかどうか、彼の視界の中でルージュは、手柄顔もせずにむしろひっそりと、独り壁ぎわに立っていた。時おり舌先で頬を尖らせては痛そうに手の甲を押し当てるさまを、凝視していたシュワルツの前にズイッと皿が差し出された。驚いて彼は皿を見た。
「よぉ。」
 そこにいたのはヒロだった。目元口元を赤く腫らして、ヒロはニヤリと笑った。
「ほら、せっかくなんだから食えよ。うめぇぞぉこの肉。焼き加減も抜群。」
 しかしシュワルツはフンと目をそらした。ヒロは皿を下げずに、
「ンだよ、さっきは食いてぇつったべ? だからこれだけ用意したのによ、ちったぁ素直になれよシュワルツ。あ、シュワちゃんて呼んでいい?」
 彼はじろりとヒロを睨んだ。ヒロは知らん顔で、
「酒もあるぞほら。極上のワインだって。おいらにゃ判んねぇけど、確かにうめぇし。ほら遠慮しねぇで飲めって。な。」
 顔の前に差し出されたワイングラスをシュワルツはひったくった。中身が少しこぼれた。シュワルツは大股に歩き出した。
 ざわっ、とどよめきが走ったのに気づいてルージュは顔を上げた。兵士たちの波を割って近づいてくるのはシュワルツの大柄な体だった。何事が始まるのかと一同は、兵士たちも侍従たちも静まりかえった。ルージュの表情も緊張した。彼の前2メートルほどの位置で、シュワルツはぴたりと立ち止まった。
 2人は数秒間睨みあっていたが、先に口を開いたのはルージュだった。
「そういやお前からの歓迎は、まだ貰ってねぇよな。」
「ああ。」
 うっすらと笑ってシュワルツは言った。サヨリーヌは顔色を変えた。その両肩をボルケリアは掴んだ。ルージュの声は落ち着いていた。
「お前が最後か。」
「ああ。」
「今ここでやる気か。」
「ああ。」
「…判った。」
 飲みかけのグラスをルージュは、そばにいた侍従に渡した。シュワルツは1歩近づいた。ルージュは特に身構えもせず、両腕をだらりと下ろしていた。
 グラスを持った右手をシュワルツは真っすぐに伸ばした。ルージュの眉間を打ち抜くが如くであった。全員がかたずを呑んだ。シュワルツは真正面でルージュを見、次の瞬間、ふっ…と柔らかく笑った。手にしたグラスを口に運び、彼は一息で飲み干した。軍服の袖で口元をぬぐい、グラスを頭越しに背後へ放り投げた、のをキャッチしたのはヴォルフガングだった。
「俺からの歓迎の品だ。受け取ってくれ。」
 シュワルツはふところに手を入れ、何かを取り出した。
 きらり、と赤く光ったものにルージュは目を疑った。シュワルツが持っていたのは、着任した日にルージュが自分ではずした司令官章であった。シュワルツはさらに1歩近づき、ルージュの軍服の胸ぐらをグイと掴んで、そこにそれを留めつけた。
「よく似合うぜ。」
 指先でチャラリと弾ませて、シュワルツはニヤリと笑いかけ、すぐに2歩下がって直立不動の姿勢をとり敬礼した。
「陸軍、第3ならびに第4騎甲師団は、司令官殿のご着任を心より歓迎いたします!!」
 静まりかえっていた室内に、1つの拍手が響いた。叩いていたのはヒロだった。一同は1人また1人と彼に合わせて、やがて大喝采がルージュとシュワルツを包んだ。ルージュは着任後初めて心から笑い、シュワルツを抱擁したあと彼の肩を抱いて皆の方を向いた。
「ありがとう。みんな、これからもよろしく頼む!!」
 
「…おい。」
 夕食のテーブルに着いたアレスフォルボア侯爵は、水差しを持って控えているサミュエルに尋ねた。
「なんで今夜はこれだけなんだ。」
 彼の前には野菜の尻尾がひっそりと浮いたすまし汁のようなスープと、干からびた乾パンが侘しく並んでいた。
 

第2楽章に続く
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