『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第2楽章 主題1 】

 兵士たちのルージュへの心酔は、初めの反発が大きかった分、加速度的に強まっていった。
 ルージュは滅多に司令官席には座らず、食事も兵舎で皆と同じものを食べ、同じオカ場所へ行って女と遊び、カードの勝ち負けで1兵卒と本気の取っ組み合いをしたりした。またルージュの剣の腕は誰しもが無条件に認めざるを得ず、しまいにはルージュと剣を合わせるだけで光栄だという意識が彼らの中に浸透した。
 
 父侯爵はある日、スガーリを伴って密かに視察に来、練兵場での訓練の合間に兵士たちと笑い興じるルージュを見た。
「なかなかいい顔で笑ってるな。馴染むのにだいぶ苦労したらしいが、この隊を指揮できればあいつも一人前だ。」
 満足そうに微笑む侯爵に、
「御意、閣下。」
 スガーリは万感の思いで応えた。片手で抱き上げられるほど小さな頃から、彼はルージュに武術を教えてきた。だからルージュのカンのよさと度胸のよさをスガーリは誰よりも知っていた。けれど司令官にはもう1つ、人の心を束ねる力が必要なのだ。そしてルージュにはその力も、立派にそなわっていたのである。
「親馬鹿かも知れんが…」
 侯爵はぽつりと言った。
「俺はいい後継ぎを持った。なぁスガーリ。そうは思わんか。」
「お言葉の通りにございます閣下。若君は素晴らしいご嫡男でいらっしゃいます。」
 侯爵は小さくうなずいて、
「行くぞ。」
 馬の腹を蹴り、練兵場をあとにした。
 
 秋も深まり、ルージュの17歳の誕生日がやって来た。かねてから侯爵が決めていた通り、この日をもって彼は正式に、陸軍第3第4騎甲師団司令官、かつ北方警備隊総合指揮官の任に就いた。
 閲兵式はローマ神殿前の大練兵場で行われ、そこには8000人の兵士たちが礼装して立ち並び、壇上には元帥アレスフォルボア侯爵、貴賓席には五色の御旗の各当主と嫡男たちが列席した。通常であれば一般の民衆にも見学が許されるのだが、今は王太子の喪中であるから、華やかな催しは一切行われなかった。されども、足並みを揃えて行進する大軍の威容は目を見張るばかりで、馬上で緋色のマントを翻すルージュの雄姿に、ヒロは感動し溜息をついた。
「すっげぇよなぁ…。今は第3第4だけでも、いずれはルージュがこの軍隊全部指揮すんだろ?」
 ジョーヌはうなずいた。
「そうだよ。ていうか騎甲師団だけじゃない、陸軍も海軍もみんな、軍隊って軍隊をルージュが統括するんだ。」
 そばからヴェエルも、
「かっけーよねぇルージュ! なんかさ、いつも一緒にふざけたりしてっけど、こうして見っと別人だもんね。」
「言えてる。」
「ルージュがいればさ、なんか、大丈夫かなって気になっちゃうよねぇ。」
 ヒロたち3人とは少し離れた、当主たちの席にロゼは座っていた。ジュペール伯爵家は学問を司る家だが、戦さに当たっては代々、侯爵家の軍師兼参謀として知略の面を担ってきた。ロゼは自分も能う限りの力をもって、ルージュを補佐してやらねばと決意を新たにしていた。
 
 同じ時刻、川岸にある古い城の塔の中に、数人の男たちが集まっていた。石でできた狭い部屋は陰湿に暗く、明かり取りの小窓から差し込む光だけでは彼らの顔までは見えなかった。
「そろそろ新王太子アルベルトを消すぞ。」
 低い声で1人が言った。他の声が応じた。
「ちと早くねぇか。もう少し様子を見て…」
「何の様子を見るっていうんだ。早くはない。むしろ遅いくらいだと俺は思う。」
「だが段取りはついてるのか?」
「ああ万全だ。まさか王宮の侍女の中に間者が潜んでいるとは、誰も気づいていまい。その女がアルベルトの食事にずっと昔から砒素を混ぜていたということもな。」
 男たちは残忍に笑った。
「新王太子はそれでいいとして…次は誰をやる。アルベルトが死んだら、次の王太子は誰だ。」
「ヒロっていう公爵家のガキだよ。昔どっかにさらわれた…」
「ああ、あのクソガキか。じゃあ王太子の次はあれを消すか。」
 男たちは互いを見渡したが、
「いや、あれは殺さん。」
 頬髭のあるリーダー格の男が言った。一同はその男を見た。
「あのガキは生かしておいて利用する。この国全土を制圧したあと、我らエフゲイアの傀儡(かいらい)の王とするのに丁度いい。」
「成程…。いきなり我々が政(まつりごと)の前面に出ていくよりも、その方が領民支配には都合がいいって訳か。さすがだな。」
「そうだ。」
 頬髭の男は唇を歪めて笑った。
「アルベルトを殺せば嫌でも、公爵家のガキへの注目が増す。次期国王はこいつなんだと領民に認めさせておけば、傀儡の王座に就けた後も、我々の期待に十分応えてくれるだろう。」
「ああ。そういうことになるな。」
 男たちはうなずきあった。
「だが問題はアレスフォルボアだ。」
 頬髭の男は笑いを消して言った。他の男たちも黙った。
「元帥の人望ばかりか、その息子が今や軍の兵士だけでなく民衆の間でもカリスマ的な影響力を持ちつつある。これ以上力を増さないうちに、始末したいところだが…。」
「ああ。あの祭りの試合で殺っちまえなかったのが、かえすがえすも惜しかったな。」
 しきりに舌打ちする男に、中の1人が身を乗り出して言った。
「頼む、あのガキだけは俺にやらせてくれ。」
「おいおい、またか。」
 男たちは失笑した。
「確かにあんたが適任なのは判るが、あんたの腕で奴にかなう訳がないじゃないか。他の者とは違って、あんたに失敗されたら言い逃れがきかない。全ての計画が水の泡になるんだぞ。」
「それは判ってる。だけどな!」
 男は拳でテーブルを叩いた。
「あのガキは俺のこの手で、生きたまま八つ裂きにしてやりたい。じゃなけりゃ半殺しにして木の枝に吊して、カラスの餌食にしてやるさ。」
 ギラギラと目を光らせる彼に、頬髭の男は言った。
「まぁそう先走るな。元帥の嫡男を血祭りに上げるのは、我らの宣戦布告の時だ。長槍に突き刺した若君様の生首を、我らが軍の先頭に立てて攻め入る。首を落とすのはあんたに任せるから、いたぶるなり何なり好きにしろ。どうだ、それならいいだろう。」
 まだ少し不満げではあったが、しかし男は黙った。
 最後に頬髭の男は言った。
「王太子アルベルトを殺るのは、ルナ王女の婚礼式典の最中だ。何か祝い事があるたびに、王家の人間が死んでいく。しかもどこかに内通者がいると、はっきり判る死に方でな。こんなにいい撹乱はない。奴らがおたおたしているうちに、1日も早く戦闘準備を完了する。いいな。」
 
 司令官としてのルージュの最初の任務は、ルナ王女の婚礼式典に関する警備と護衛の全般であった。動員するのは父侯爵が指揮官を兼務している王宮警備の近衛連隊と、スガーリが指揮する侯爵家直轄連隊、それに第3騎甲師団の3隊である。
 婚礼式典は1週間に渡って行われる。式典の間の近衛指揮権は侯爵からルージュに委譲され、全軍で最も礼に厳しいとされる近衛兵は、血統正しきルージュには無条件で従った。ゆえに統括は楽だったが、初の大仕事ゆえ彼は何度も王宮に足を運び、式の予定や招待客についてなど、担当の執務官と念入りに打ち合わせをした。そのためルージュは自然と王宮内の政務担当者たちと親しくなり、生きた人脈地図を自分で書き広げていくことができた。実はこれも父侯爵の目論見通りであったのだが。
 式典の開催がいよいよ明日に迫った日の昼下がり、王宮内の執務官事務室で、会場の見取り図を前に最終的な警備配置の確認を行っていたルージュのもとへ、1人の侍童(ペイジ)がやってきた。
「国王陛下のご命令をお伝えします。」
 小さな使者はルージュに告げた。
「侯爵家若君に是非お願いしたき議があります故、急ぎご祗候頂きたい、との由にございます。」
「陛下が?」
 ルージュはペンを置いた。侍童はルージュに礼をとった。
「陛下の御座所(おましどころ)へご案内申し上げます。どうぞこちらへおいで下さいませ。」
 侍童に導かれてルージュは、王宮の奥深く、国王一家の私室へ足を踏み入れた。この場所を許されるのはもちろん初めてのことで、さすがのルージュも緊張した。侍童はドアをノックした。
「侯爵家若君をご案内致しました。」
 すると扉は音もなく開き、老女官が視線でルージュを促した。彼は中に入り、作法通りにひざまづいて右手を心臓の上に当て、深く頭を下げて名乗った。
「国王陛下にはご機嫌麗しく。アレスフォルボア侯爵家のレオンハルトにございます。」
「うむ。」
 威厳に満ちた声はゲオルグU世のものだった。
「構わぬ、レオンハルト。近う寄って頭(こうべ)を上げよ。」
「は。」
 ルージュは国王のすぐ前へ膝行し、ゆっくりと顔を上げた。長椅子にもたれた国王と、その脇の椅子につつましく腰を下ろしたルナ王女の姿もあった。
「任務大義な折に呼び立てて済まなかった。実はそなたに内密な頼みごとがあっての。手数をかけるのは重々承知の上で、是非とも聞き入れて貰いたい。」
「何なりとお心のままに、陛下。」
 国王の目を見てルージュが応えると、
「実はの…」
 ゲオルグU世はちらりと娘を顧みて言った。
「知っての通りルナは明日より婚礼の式典に臨み、8日後にはロワナ国へ嫁ぐ身だ。王女のつとめとは言えルナはまだ、見ての通りの世慣れぬ少女。私も人の親として不憫でならぬ。」
「は…。」
 一体何をせよと言うのかと、ルージュは次の言葉を待った。
「ついては娘の最後の願いを聞き届けることにした。生まれ落ちてより今日の日までルナは、神殿と大聖堂と王家の離宮以外の地へ参ったことがない。二度と戻れぬ祖国の風光を、瞼にとどめておきたいとこう申すのだ。思えばそれも無理からぬこと。そこでそなたに力を貸して欲しい。これよりこの我儘な王女の、護衛をしてやってはくれぬか。」
「護衛…でございますか。」
 ルージュは思わず繰り返した。エフゲイアの間者に内通者と、父侯爵を初め全軍が神経を尖らせている今、王女のお忍びは余りにも危険な行為であった。反対すべきか迷って、ルージュはルナ王女を見た。王女も彼を見つめていた。何かを必死で訴えるまなざしだった。
「かしこまりました。」
 ルージュは決意した。
「急なことゆえ一隊を揃えるのは難しゅうございますが、少人数の方がむしろ目立たず安全かと存じます。王家の馬車を使うことはできませんので、我が侯爵家のものでご辛抱下さい。」
「そうか、聞いてくれるか。」
 国王は喜びをあらわにし、立ち上がってルージュに歩み寄った。
「どうかくれぐれも内密に頼む。感謝するぞレオンハルト。」
「いえ、勿体のうございます陛下。」
 国王の衣装の裾を手に取ってルージュは口づけ、
「ご用意が整いましたら使者を参らせます。内親王殿下には何卒、お支度のほどを。」
 言いおいて彼は立ち上がり、部屋を出た。
 
 ルージュはスガーリを呼んで事の次第を話し、馬車1台に屈強の兵士4名を揃えて王女を待った。やがて普段は使わない抜け道の戸口から、粗末な木綿のマントをすっぽり被ったルナ王女が、侍女に手をとられて現れた。
「さ、お早く。」
 スガーリは2人を馬車に乗せた。ルージュは馬上で辺りを窺い、御者に小さく合図した。左右をルージュとスガーリが固め、前後を2人ずつの兵士に守られて、明るい午後の日差しの中、馬車は走り始めた。
 街なかの喧騒を離れると、ルージュは危険の少ない場所を選んで、時おり馬車を停め王女に景色を楽しませてやった。見はらしのいい丘の上。魚獲りをする子供たちを見下ろせる河原。風もかぐわしい緑の草原。そして最後にやってきたのは、林を抜けた西にある湖のほとりであった。
 王女に付いて馬車の中にいるのは、以前王女の苦悩を知ってともに涙した侍女であった。想いを胸深くにおさめて嫁ぐつもりでいたルナを、それではいけないと力づけ、励ましたのは他ならぬ彼女だった。ずっとタイミングをはかっていた彼女は、今がその時と見定め、ルージュをそっと手招いた。
「レオンハルト殿。お耳を。」
「何か?」
 不都合でもあったかと耳を寄せた彼に侍女は、
「殿下が、馬車を下りて外に出たいと仰せです。なれど内親王殿下のおみ足を、泥で汚すのも憚られること。そこでいかがでしょう、その馬の背に殿下をお乗せ申し上げるというのは。」
「殿下を?」
 ルージュは驚き、あたりを見た。ここは王家の狩り場に近く、林の中には監視小屋もあるから、まず曲者は入り込めない安全な場所には違いない。とは言え王女を馬に乗せるなど手打ち覚悟の暴挙であるが、それを言うなら初めから無謀な今回のお忍びなのだ。
「よろしいでしょう。」
 どうせなら心ゆくまで満足させてやろうと思い、ルージュは承知した。侍女は馬車の扉を開け、自分のマントを脱いで地面に敷いた。
「さ、殿下。」
 先に下りて差しのべた彼女の手に指先を預け、ルナは馬車を下りた。
「どうぞ、殿下。」
 馬の傍らにスガーリが膝まづき、台の代わりをつとめようとした。
「ありがとう…。」
 長い裾をつまみ足をかけようとした時、
「失礼。」
 ルージュは腕を伸ばしてルナの両脇をすくい上げた。苦もなく馬上に抱き上げられ、彼女の胸は甘く疼いた。
「お苦しかったらすぐにおっしゃって下さい。いいですね。」
 ルージュは馬を歩ませ始めた。
 夢の中を漂うが如くに、ルナ王女はルージュの両腕に守られ馬の背に揺られていた。このまま時が止まって永遠にこうしていられたらと思うと、彼女の頬にはやはり涙がこぼれた。
「殿下?」
 ルージュはすぐそれに気づいた。
「どうなさいました。何かご気分でも?」
「いいえ。」
 きっぱりとルナは言った。
「ごめんなさい、何でもないのです。どうか気にしないで。」
「いや気にするなと仰られましても…」
 ルージュは不安そうだった。ルナはマントの胸元を留めているブローチの金具に手をかけた。
「少し、暑いのです。失礼させて頂いてよろしいですか?」
 肩からはらりとマントを落とした王女の、まとっている衣装を見てルージュは息を飲んだ。聖ローマ祭の仮装舞踏会の夜、あらわれた月の女神と同じであった。
「あれは…あの時の方は、まさか…。」
 驚きを隠せないルージュにルナは首を振った。あの夜と同じ栗色の髪が、肩の上で柔らかく揺れた。
「お願いです、それ以上はおっしゃらないで下さい。あの時、わたくしは王女ではありませんでした。ただの娘としてあなたと踊った、あの夢だけでわたくしは満足です。この先、仮にこの身に何があろうとも、あなたとの思い出を胸に、誇りをもってわたくしは生きていきます。この国の王女として為すべき勤めを、立派に果たすつもりです。剣を持ち馬を駆って戦場に出るのがあなたの戦さなら、これはわたくしの戦いです。あなたとともにわたくしは戦います。共に栄え来し、我らが佳き国のために。この国の全ての民の、幸せを守るために。」
「殿下…。」
 ルージュはルナを見つめた。わずか15歳の少女でありながら、まぎれもなく彼女は、悲しいほどに“王女”であった。ルージュはルナの手を取って、その甲に唇を押し当てた。
「どうかお心安らかに。たとえ異国の地の果てであろうとも、殿下のお身は私がお守り致します。私にとってただ一人の、最高の王女のために。」
「ルージュ…。」
 ルナは彼の胸に顔をうずめた。ルージュは左手で手綱を握り、右手で彼女の肩を抱いてやった。太陽は地平に沈もうとしていた。2人の影は細く長く伸び、湖面を渡るさざ波とともに揺れた。
 
 翌日から1週間に渡って、華やかな婚礼の式典が行われた。大聖堂での寿詞(よごと)奏上、王家墓所への王女の墓参、浄めの祓(はらえ)と丸1日の断食など、厳粛なる催しが続く中、ルージュはわずかな仮眠だけをとって、休みなく王女の護衛をつとめた。
 不審な者は蟻の子1匹通すなというルージュの命令通りに兵士たちの警備は万全だった。滞りなく式典は済み、8日目の朝になった。王女のお輿入れの行列が、いよいよロワナ国へ出発する日である。
 
 公爵家では朝から、ヒロの身支度で大変であった。王宮前に参列して王女の旅立ちを見送るのは一種のしきたりであったが、今回ルージュは、馬車による祗候を一切禁止した。もちろん反対もあったが彼は押し切った。式典の最中よりも行列の際が危険であり、誰が乗っているのか判らない馬車が沿道を埋めたのでは警備上問題があるとの理由だった。結果、ヒロも馬に乗って参列することになり、侍従たちは公爵家嫡男にふさわしい衣装をと、頭を悩ませた次第であった。
「お支度はまだできませんか? 毎回毎回お約束のように、何をそう手間取るのです。」
 例によってアマモーラは気が気でなかったが、そこへ執事長のサイトーが彼女を呼びにきた。
「ただ今伯爵家よりお使者が参りまして、若様をお迎えにジュペール伯爵が程なくご到着の由にございます。」
「判りました、今参ります。」
 アマモーラは玄関へ急いだ。ヒロの部屋からはご多分に漏れず賑やかな声がしていた。
「ああもう、何だっていいっつんだよ靴なんか!」
「いいえそうは参りません若様! 恐れ多くも騎上の若様を民たちが拝謁するのでございます。何とおっしゃられようとここは、気品と威厳を兼ね備えたシュテインバッハ公爵家にふさわしい…」
「うっせーうっせーうっせー!!」
 アマモーラとサイトーは玄関でロゼを待った。やがて蹄の音が段々大きくなって、ローズピンクの腹当てを付けた黒馬にまたがり、紺色のマントを靡かせてロゼがやってきた。
「乗れたんですな…。」
 つぶやいたサイトーの腕を、アマモーラは肘で突いた。ロゼはひらりと地上に降り立ち、
「わざわざのお出迎えいたみいります。リヒャルト・ルイーズ・フォン・ジュペール。若様をお迎えに上がりました。」
 そこへ廊下の方からヒロの声がした。
「だからそんなビラビラのマントなんか着ることねぇべ? 邪魔くせえだろダチョウの羽飾りなんかよ!」
「いいえ若様、昼間とはいえそろそろ風が冷とうございます。行列を待つ間にお体が冷えましては…」
「んなガキ扱いすんじゃねぇよっ!! …おお、ロゼ。」
 苦笑している彼のいでたちをヒロは見た。膝までの丈のマントを左肩だけ後ろに流し、革の手袋に乗馬用のブーツという姿は、男の彼から見てもなかなか魅力的だった。ヒロはナーガレットを振り向いた。
「やっぱおいらもマント着る。」
 ロゼは小さく吹き出して、
「そうしなよ。天気はいいけど少し風がある。まぁその羽飾りはね、確かに大袈裟だからはずした方がいいかも知れないけど。」
 ロゼの言葉に従ってナーガレットは渋々飾りを取り、真っ白いマントをヒロに着せかけた。
「似合うよ。」
 ロゼが褒めるとヒロは嬉しそうに、
「そっか? おいらってカッコいい?」
「ああ、いいいい。最高だよ。じゃあ行くぞ。ジョーヌたちが先に行って、場所とりして待ってる。」
 ロゼは再び馬に乗った。従者がヒロの馬を引いてきた。大人しそうな白馬だった。
「大丈夫? 一人で乗れる?」
「おめ、バカにすんなよ。」
 ムッとした顔でヒロはあぶみに足をかけた。お世辞にも軽々とではなかったが、彼は無事馬の背にまたがった。
「んじゃな。行ってくんぞ。」
 従者たちに言いおいてヒロは手綱をさばいた。ロゼは彼の方を心配そうに見ながら半歩前を進んだ。アマモーラたちは礼をして見送った。
「大丈夫でしょうか若様は…。」
 ナーガレットは羽飾りを握りしめて言った。サイトーは両手を後ろに組んで、
「まぁ、うちの厩にあれより歳とった馬はいませんからな。決して暴れませんし速くは走れませんし、心配はいりませんでしょう。」
 
「すっげ、気持ちい〜!!」
 並足で白馬を駆けさせ、ヒロは嬉しそうだった。ロゼは彼を振り向き振り向き、気づいたことを注意してやった。
「ね、もう少し手綱緩めて。それじゃ馬がきついよ。」
「お、そっかわりわり。痛かったら言えよ、馬。」
 マンツーマンの乗馬レッスンと変わらないやりとりをしつつ、2人はジョーヌとヴェエルが待つ王宮前の目抜き通りにたどり着いた。沿道には数メートルおきに兵士が配され、行列の通り道と、集まった貴族や民衆たちとを画然と隔てていた。
 ヴェエルは弾んだ声で言った。
「さっきね、先達ってことで騎馬兵の1隊が出てったよ。そのあとに王女についてロワナ国に行く侍女たちの馬車が通った。すっげ豪華に飾り立ててあってさ、俺なんかびっくりしちゃったよ。」
「そう。」
 ロゼは500メートルほど離れた王宮正門の方を見やり、
「お輿入れの行列は、他国に対する一種のデモンストレーションだからね。ロワナ国だけじゃなく、マイストブルクやそれにエフゲイアにも、我が国の国力を見せつけるいい機会ってことさ。」
「ふーん…。」
 ヒロたち3人は揃って感心した。
「先達の1隊が出発したなら、次は王女の馬車が来るはずだよ。もちろん前後を護衛の中隊が固める。その先頭は近衛連隊長だから、多分ルージュだね。」
「あいつかぁ。まぁたかっけーんだろなぁ。」
 ヒロが言った時、兵士たちの身にサーッと波のような緊張が走った。
「ん、いよいよお出ましかな。」
 ロゼは言い、馬を下りた。ジョーヌもヴェエルも、回りの貴族たちも一斉にそのようした。
「え? え? 何?」
 ヒロはキョロキョロしたが、王女に対し下馬は当然と気づき、慌てて飛び降りた。
「来たぞ、殿下の行列だ!」
 近くで誰かが言った。皆が王宮の方に背伸びをした。ヒロはピョンピョン跳びはねた。
「ンだよぉ、見えねぇよぉ。な、ロゼロゼ。ちっとおいら肩車して。」
「肩車って、そんなことしたらルージュに斬り捨てられるだろ!」
「だって見えねってばよぉ。」
 やがて群衆の頭の向こうに、王家の紋である飛竜の旗が翻るのが見えた。行列が正面に来ると皆深く腰を屈めるから、その分視界がきくようになった。
「ああやっぱ先頭はルージュだね。」
 爪先立ってヴェエルが解説し、
「やっぱりそう。」
 ロゼが相槌を打った。
「うん。羽根のついた帽子に…あれぇ。」
「何、どした?」
「なんか軍服が赤いよ。礼装って白じゃないの?」
「赤?」
 ロゼは首を伸ばし、ハッとした。
「戦闘服だ…。」
「ええ?」
「あれは近衛の戦闘服だよ。緋色の羅紗(らしゃ)に金色のモール。儀式用の礼装じゃなくて、戦さの時の衣装だ。」
 ロゼは短く息を吐き、
「お輿入れの行列に戦闘服とは、前代未聞だな…。多分これもルージュの意見か。」
「え、それってどういうこと?」
 ジョーヌの質問にロゼは答えた。
「他国の間者や密偵に対する、ルージュの意思表示だよこれは。奴らは群衆に混じって、この行列をどこかで見てるはずだ。そいつらにルージュは『手出ししたら容赦はしない』って示してるんだよ。あの赤い戦闘服でね。」
「なるほどねぇ…。判ってた? ヒロ。」
 呼びかけてヴェエルは、
「あれ? ヒロは? 今までここにいたよね?」
 あたりを見回して1回転した。
「なに、いないの?」
「うそ…。」
 年老いた白馬は手綱をたらんとぶら下げて、じっと道の方を見ていた。
 
 ヒロは泳ぐように群衆をかきわけ、ようやく兵士のすぐ後ろにたどりついた。ちょうどその時、目の前を王家の旗が通過した。ヒロは身を屈め兵士の脇から顔を出した。
「ルージュ!」
 小声で彼は呼んだ。馬上のルージュは驚いて声の主を見た。
「馬鹿…。」
 思わずルージュはつぶやいた。ヒロは彼が自分に気づいたと知ると、Vサインではあきたらずに百面相までして見せた。
「何考えてんだあいつ。」
 苦笑して目をそらそうとした瞬間、ルージュはギクリとヒロを振り向いた。彼の動きがあまりに急だったので、ヒロも驚いた顔をした。
(何だ、今の…。)
 ルージュは心の中で言った。ふざけて笑っているヒロの顔が、彼には一瞬、極度の不安に歪んで見えたのだ。泣きだす寸前の怯えた表情で、幻のヒロはルージュを呼んでいた。馬鹿馬鹿しい、とルージュは打ち消した。このところろくに寝ていないから、神経が疲れきっているのだと思った。
(いや…。)
 しかしルージュはもう1度ヒロを振り返った。大きな目をして彼は、不思議そうに首をかしげていた。
「伍長!」
 行列の反対側にルージュは声をかけた。カカッ、と馬を歩ませて伍長が近づいてきた。
「伝令を出せ。今通り過ぎたところにロゼ…いやジュペール伯爵がいる。俺から伯爵に、くれぐれもヒロを頼むと伝えてくれ。あいつの身辺から目を離すな。必要があればうちの親父に言って、第4騎甲師団の1小隊を動かせと、それを伯爵に伝えろ。いいな。」
「判りました。」
「よし、行け。」
 伍長の馬は隊列を離れ、走っていった。ルージュは前方の空を見、この予感が当たらぬことを祈った。
 
 丸1昼夜の行進を終えて、ルージュと王女たちはロワナ国との国境に到着した。
 国境線はなだらかな丘の頂で、そこには両国共有のいわば大使館があった。ルナとモリィ皇太子の結婚式は3日後に王宮内の大聖堂で挙行されるのだが、モリィは今日この館でルナ王女を出迎え、ここから先の行列を守るのは、ルージュたちではなくロワナ国の近衛連隊になるのだった。ルージュは通常の白の正礼装に着替え、大使とともにルナ王女の最後の謁見に臨んだ。
「長きにわたっての護衛、心から感謝します。」
 膝まづき礼をしているルージュと大使にルナはおごそかに告げた。その瞳が涙で濡れているのをルージュは知った。
「お役目、大義でした。帰途つつがなきよう、お祈りいたします。」
「勿体のうございます殿下。」
 儀礼通りの言葉を返したあと、彼女を見つめてルージュは言った。
「麗しき月の女神に、どうか幸多きことを。」
 大使とルージュは下がっていき、重い扉が閉ざされた。ルナの頬を涙が1筋つたい落ちた。
(さようならルージュ…。二度とは会えぬ、わたくしの恋人…。)
 しかし悲しみに浸る間さえ、王女には許されていなかった。音もなく現れたロワナ国の侍従たちが、席を立てと彼女を促した。
「大広間にて皇太子殿下がお待ちです。どうぞおいでを、プリンセス・ルナ。」
「判りました。」
 涙を押し殺し、彼女は立ち上がった。能面のように無表情な侍従たちに導かれて、ルナは大広間に歩み入った。扉の向こうに大勢の視線が待ち構えていた。しかし彼女の1歩めを励ますが如く、
「ようこそ我がロワナ国へ!」
 明るく若々しい声が響いた。
 ビクリとルナは立ち止まった。豪華な彫刻と水晶のシャンデリアに飾られた広間の玉座に、今しも立ち上がった青年がいた。ルナは目を疑った。満面に笑みを湛えて近づいてくる青年は、背の高い、秋空のように澄んだ瞳の持ち主であった。
「ここであなたを待っていました。初めまして、僕の花嫁さん。」
 彼はルナの手を取り口づけた。目を伏せると長い睫毛が影を落として、まるで眠っているように見えた。
「え…。それではあなたが、モリィ皇太子殿下?」
 ルナはとまどった。国家間の同盟を保証するために、拒むことも出来ず嫁がされた相手。それがこんなにも若くて美しい、お伽話の王子様さながらの人だとは…。だがモリィは爽やかな声で言った。
「そう。僕が皇太子。父様のあとを嗣いで国王になる。そうしたら君は王妃。何だか物語みたいで面白いよね。」
 あはは、とモリィは軽快に笑った。
「難しく考えることないよ。不安になることもない。街角で猟師の息子と花売り娘が出会うみたいに、僕たちは
こで出会った。運命なんてそんなもんさ。」
「まぁ…。」
 ルナもクスッと笑った。
「ほんと言うとね。」
 モリィはルナの両手を自分の胸に押しつけて言った。
「政略結婚なんて嫌だった。知らない女と一緒になるなんて冗談じゃないと思ったよ。皇太子になんか生まれるもんじゃない。ずっとそう思ってた。だけど今は違うよ。僕は初めて、自分の身分と運命を神様に感謝したい。こんなに素敵な人を奥さんにできるなんて、僕が皇太子だからだもんね。」
「殿下…。」
 ルナの心に暖かいものが満ちた。この人となら幸せになれるかも知れないと、彼女は生まれて初めて思った。同じことをモリィも言った。
「幸せになろうよ僕たち。これから死ぬまで一緒にいるんだから。子供もたくさん作ろう。王子と王女と、そうだな3ダースくらいさ。」
「いえ殿下、それは…。」
「ん?」
「ご容赦下さいませ。だって産むのはわたくしでございますよ?」
「そっか。失敬。」
 2人の会話を聞いていた者たちが、回りでドッと笑った。モリィはルナの肩を抱き、一同を見渡して言った。
「という訳でみんな! この人が僕の奥さんになります。若い僕たちを応援して下さい!」
 モリィの言葉に皆は拍手した。ロワナ国とは思いがけず陽気な国民性かも知れなかった。
「ね、早く僕たちの城へ行こうよ。」
 拍手の中モリィは囁いた。
「どうせここじゃあ落ちつかなくて、ゆっくり休めないだろ。父様も母様も君に会いたがってる。君の部屋の調度は母様が考えてくれたんだよ。中庭には君のための花壇と噴水も造ったんだ。気に入ってくれるといいけど。」
「参りますわ。」
 ルナは即答した。
「わたくしたちのお城。早く見とうございます。」
 
 予定を繰り上げて王宮へ出立するルナを、ルージュたちは丘の上の国境線から見送った。午後の陽に煌く祖国の旗を、ルナは馬車の窓から見やった。ひときわ大きな旗のもとのシルエットは、ルージュのものに違いない。ルナはもう一度、別れを告げた。
(さようなら、わたくしの国。これからわたくしはロワナ国で、新しい人生を生きていきます。ありがとうルージュ。どうかお幸せに…。)
 
 ルナを乗せた馬車は、ロワナ国の兵士たちに守られてルージュの視界から去って行った。王女の婚礼式典に関する彼の任務は、この瞬間全て終了した。ふう、と天を仰いで長息したルージュに、ロワナ国側の大使が言った。
「ご苦労様でございました司令官殿。これを縁にどうか今後とも、おつきあい下さいませ。」
「ああ、こちらこそ。」
 ルージュは会釈した。大使はさらに言った。
「当初のご予定では当地ご出発は明朝でございましたゆえ、御国兵士の皆様がたを歓迎申し上げるお支度を、実は私ども整えてしまいましてな。内親王殿下をお守りしながらの長旅、皆様さぞやお疲れでしょう。どうか今宵は私どもの心尽くしを受けていっては下さいませぬか。」
 馬上でルージュは考えた。彼はこのあとすぐ帰途につくつもりだったのだが、元々今夜はここに1泊する予定でいたのと、兵士たちが疲れているだろうとの大使の言葉に、歓迎を受ける気になった。
「ではお言葉に甘えさせて頂きます。」
 ルージュはヴォルフガングを呼び、
「皆、ご苦労だった。今夜は大使殿のお心尽くしを頂戴し、出発は明日の朝とする旨、全軍に伝えろ。」
 
 ルージュたちの隊は館の回りに野営し、ロワナ国大使の用意した酒と料理で、大いに鋭気を養った。司令官と各隊長には館でのもてなしをと大使は言ってくれたが、ルージュはそれは断り、兵士たちの車座に加わった。
 夜も更けた頃テントを張って、彼は独りその中に身を横たえた。晩秋ゆえ夜は冷える。うとうとと寝入りかけたルージュは、ふわりとすきま風を感じて目をあけた。テントの中に忍び込んできた人影があった。彼は枕元の剣を掴み、曲者の動きを窺った。
 暗闇の中、息を殺しているルージュのそばに曲者は這い寄ってきた。彼はゴクリと唾を飲んで、曲者が毛布に手をかけた瞬間、
「動くな!」
 跳ね起きて剣を抜いた。喉元に切っ先を突きつけられ、曲者は声もなかった。ルージュは剣で曲者の腕を押した。
「そこに火打ち石と油がある。明かりつけろ。命が惜しかったらもたもたすんな。」
 影は手さぐりでそれらを見つけ、言われた通りに火をつけた。ルージュは驚愕した。灯火が照らし出した青ざめた顔は、若い女のものであった。
「ご無礼をお許し下さいませ…。」
 女はルージュの前に手をついた。
「大使殿のご指示で参りました。司令官殿のお伽(とぎ)を務めるようにと…。」
「伽…?」
 ルージュは剣を引いた。女といえど油断は出来ない。間者である可能性も高く、安易に気を許す訳にはいかないのだ。ルージュは女の全身を見定めた。黒いマントに包まれた肌の色までは判らなかったが、波打つ金髪に空色の瞳、花のような唇の美女であった。
「それだけで信じろっつうのか。」
 言葉では警戒しつつも、彼の声は掠れていた。女はルージュを見上げた。
「お前が間者じゃない証拠。大使に言われて来たって言うなら、その証拠見してみろよ。」
 言われて女は困った顔をし、だがすぐにスッと立ち上がった。反射的にルージュは剣を握りしめた。女は黒いマントと、その下にまとっていた薄物を脱いだ。はらりと落ちた布の上で、全裸の女は言った。
「どうか、ご存分にお調べ下さいませ。私はこの体の他に何も持ってはおりませぬ。」
 淡い火影に照らされた女の体は十分な艶と厚みを持ち、若く健康なルージュの肉体に、どう消しようもない欲望の炎を燃え広がらせていた。
「…来い。」
 短く彼は命じ、女の手首を強く引いた。ルージュは女に体を重ね、甘い果肉をむさぼった。
 
 東の空が白んだ頃、ルージュたちの陣に1人の騎馬兵が土埃を蹴立てて駆けこんできた。
「伝令ーっ! 伝令ーっ! 司令官殿はおられるか――っ!!」
 その声にルージュは目を覚ました。テントの厚い布を通してあたりは薄明るく、女の姿はどこにもなかった。彼が寝床に半身を起こした時、
「失礼します司令官殿!」
 入口の布がバッとめくれて兵士が顔を出した。
「何だよ…。」
 腰から下だけ毛布で覆い、眠そうに目をしばたたいている彼に、兵士は一息に告げた。
「どうかお驚きになりませんよう。昨日の夕刻、王太子アルベルト殿下がおかくれあそばしました!」
 ルージュは両目をあいた。兵士はさらに言った。
「殿下は夕のお食事のあといつものように侍医の処方したお薬を飲まれ、そのままお休みになろうとしたところ、突然血を吐かれ人事不省のご病状に陥り、必死の看護もむなしく、二度とお目をおあけになりませんでした…!!」
 兵士は歯ぎしりし嗚咽を漏らした。みなは聞かずにルージュは軍服を掴み跳ね起きた。
「シュワルツ! シュワルツはいるか!」
 着ながらルージュは大声で呼んだ。
「どしたい司令官!」
 すぐに彼は飛んできた。
「全軍に出立の準備をさせろ! 整い次第帰還する。俺は伍長と先に行くから、あとの全員はお前が連れて戻ってこい。いいな!!」
「おう、まかしとけ!」
 シュワルツは走っていった。ルージュは剣を腰にさし、
「馬ひけぇっ!!」
 そう怒鳴って行こうとしたが、膝まづいたまま背中を震わせている伝令に気づき声をかけた。
「お前はここで少し休んで、隊の後について戻ってこい。夜通し駆け続けてくれたんだな。礼を言う。」
「はっ…!」
「帰還する! 馬はどうしたっ!!」
 マントを留める間ももどかしく、彼は手近な1頭に乗った。あたふたとやってきた伍長に、
「俺に続け。遅れんじゃねぇぞ!」
 言い終えた時ルージュの馬はもう走り出していた。
 ムチを当て腹を蹴り、ルージュは馬を疾走させた。街道の要所要所には軍の駐在所があるから、そこに着くたび馬を変えれば夜には都に着くはずだ。乗りつぶすつもりでルージュは駆けた。昨夜のうちに発っておけばと心は後悔で一杯だったが、伝令によれば王太子逝去は夕刻、どのみち間に合いはしなかった。
「誰だよ…。」
 髪を風になぶらせてルージュはつぶやいた。
「誰が王太子を殺ったんだよ!」
 あの伝令は王宮の警備兵で、王太子のそば近く仕えていた者だ。彼は男泣きに泣いていた。生まれついての虚弱体質とはいえ、王太子は決して急死するような病気ではなかった。突如血を吐いたなら、毒を盛られたに違いない。
「どけぇ―――っ!!」
 前を走っていた辻馬車を、速度もゆるめず彼は追い越した。ぱっと視界がひらけた時、ルージュは空耳を聞いた。自分の名を呼ぶ声であった。
「ヒロ!」
 彼は呼び返した。王宮前の大通りで手を振るヒロを見た時に、訳もなく感じた不安をルージュは思い出した。王太子アルベルトが死ねば、次の王位継承権者はヒロに他ならない。ハインリヒは斬り殺され、続いてアルベルトが毒殺された。次はヒロがどんな目に合うのか…浮かびかけたものをルージュは激しく打ち消した。
「今帰る、待ってろよヒロ。俺が着くまで待ってろ。頼むロゼ、あいつから目を放すなよ…!!」
 さながら赤い疾風のように、ルージュは街々を駆け抜けた。
 
 侍女の案内ももどかしく、ロゼはヒロの自室に急いだ。ドアを開けさせ中に入ると同時に、
「ロゼぇ!」
 主人に再会した迷い猫さながらヒロは彼に抱きついてきた。
「何がなんだかおいら判んねぇよぉ! 王宮からの使いだのナントカせんげがどうだの、おいらいったいどうなんだよぉ〜!」
「落ち着けよヒロ! 大丈夫だから。今はみんな混乱してるだけで、事態がつかめればちゃんと順序だてて事が進むから。」
「やだやだやだぁ! おいら王宮になんか行きたくない〜!」
「ああ判った判った。行かなくていいから、とにかく座って。ね。じきにルージュも帰ってくるから。」
 抱きかかえるようにして長椅子に座らせ、ロゼはその前に屈んだ。ヒロは青ざめ震えていた。
「伝令が、もうルージュのとこに向かってるから。このことを知ればあいつは、それこそペガサスに乗ってでも帰ってくる。だから落ち着いて。ね。」
 だがヒロは怯えた顔でロゼを見、
「なぁ…。おいら、どうなんの。第1位王位継承権者って、つまり王太子のことだろ。おいら今まで2番めだった…。でも上がいなくなったら順番に繰り上がってって…。んで、やっぱ、次はおいらが…。」
 ロゼは返答に詰まりかけたが、
「だから、それも今すぐにって訳じゃない。国王陛下は立派にご存命なんだ。ずっとずっと先の話だよ。」
 ロゼはヒロの肩を掴み、力づけるように揺すった。がヒロは顔をしかめ掌で口元を押さえた。
「ヒロ? ヒロ、どした?」
 慌ててロゼは覗きこんだ。
「き…きぼぢばる"い"…。」
「何!?」
 ロゼは身を引きかけて、
「吐くなよ。頼む、ここで吐くなよっ! ―――たれか! たれかあるか!」
 大声で人を呼んだ。
 
 その頃アマモーラとバジーラは、揃って公爵夫人の私室に呼ばれていた。王太子逝去の報を受け、ヒロの身を最も案じたのはこの母君であった。王家の一員である彼女は、王位を護るためにシュテインバッハ公爵家に課せられた血の掟を誰よりもよく知っていた。この世に生きている限り、ヒロは王位継承をまぬがれない。神が命じるヒロの運命は、将来リーベンスヴェルトT世として国王になることだったのだ。
 しかし公爵夫人の胸には、何をもっても譲れない強い思いがあった。彼女は2人の女官を腹心と信じ、低い声で言った。
「あの子を今、この城から出してはなりません。王家と我が公爵家の定めを打ち切ることはできないにしても、いま王宮に上げたなら、あの子はどんな目に合うか…。決して行かせてはならないのです。どこに内通者が潜んでいるかも判らない禍々しい王宮になど!」
 女官たちは深く頭を下げ同じ思いを表した。
「アマモーラ。バジーラ。そなたたちは知恵の限りを絞って、あの子をこの城にとどめる方法を考えなさい。あの子は病に伏しているのです。命にかかわるようなものではなく、でも環境が変わったら思わぬ症状が出るかも知れない。そういう病名を考えなさい。そして王宮に届け出るのです。完治するまであの子を他へ移すことは不可能であると。…そしてバジーラ。」
 公爵夫人に名を呼ばれ彼女は一層身を低くした。
「病名を偽ることは、医師としてしてはならぬ事。それはわたくしにも判っています。けれどこれはあの子の命にかかわる、公爵家の一大事。責任は全てわたくしがとります。いいですね。」
「もちろんでございます奥方様。私とて思いは同じ、命に代えて若様をお守りするのが侍医の務めにございます。」
「それを聞いて安心しました。2人とも、よろしくお願いしますよ。」
「失礼致します!」
 そこへやって来たのはサイトーであった。
「バジーラ殿! ジュペール伯爵がお呼びです。若様のお具合が悪くなられた様子。どうか至急おいで下さい!」
「まぁ何ということ…! 早く、早く行きなさい!」
 真っ先に公爵夫人が言った。2人は礼をして廊下に走り出た。広い城ゆえヒロの部屋は遠い。女たちは邪魔なスカートをたくし上げて急いだ。
 
「若様っ!」
 あとさきに連なって部屋に飛び込むと、ヒロはロゼの胸にもたれて必死に嘔吐をこらえていた。背中をさすってやっていたロゼは2人を見ると言った。
「早くベッドの用意を。苦しそうだ、何とか手当てしてやってくれ。」
「は、ただ今すぐに! さぁ若様こちらへ。」
 2人は両側からヒロを支え、隣の寝室に連れていった。ほっ、と息をついたロゼの元にまたサイトーがやって来た。
「伯爵、王家のお使者殿から、即刻業務にお戻りをと矢の催促にございます。若様のことは、あとは我々が。ですからどうかご心配なく、お仕事にお戻り下さい。」
 しかしその言葉も終わらないうち、
「ロゼぇ…。帰っちゃやだぁ…。ロゼ〜…。」
 消え入りそうなヒロの声が隣室から聞こえてきた。
「ルージュが戻るまで、待つように言って下さい。」
 ロゼはソファーから立ち上がった。
「こんな状態でヒロを放っておけない。そんなことをしたら僕はルージュに刺し殺されますよ。大丈夫、王宮にはアレス侯もいらっしゃるし、今騒ぎ立てない方がいいんだ。僕はルージュを待ちます。多分夜にはここに着くでしょう。」
 サイトーを残してロゼは寝室に入った。天蓋つきのベッドの羽根布団の中に、ブラウスの胸をひらいてヒロがうずもれていた。
「少しは楽になった?」
 かたわらに立ってロゼは聞いた。ヒロは弱々しく首を横に振った。ロゼは薬を煎じているバジーラをそっと省みた。彼女は短く溜息をつき小声で彼に言った。
「何も召し上がって下さらないのに、吐くものなどございません。だからなおさらお苦しいのです。」
「そう。それはよくないな…。」
 ロゼはつぶやき、ヒロの耳に口を寄せて言った。
「ヒロ、何か食べようか。俺もつきあうから。そうしないと元気になれないよ。」
「いんねー…。なんも食いたくね…。」
「駄目だよ。いい子だから何かおなかに入れよう。ね。」
 ロゼはアマモーラの方を見て、
「何か…そうだな、喉ごしのいいスープか何かがいい。2人分、用意して下さい。」
「かしこまりました。」
 アマモーラは厨房へ急ぎ、ヒロの大好きな卵スープと、バター入りのホットラム酒を作らせた。彼女はそれらを部屋に運び、ロゼのための小テーブルを整えて、ベッドに起きたヒロの背中にはクッションを当てがってやった。
「美味しいよ、ほら。」
 ロゼに促されてヒロも、ようやくスプーンを手に取った。
 大人しくスープをすすり始めたヒロを見て、ロゼは思った。たとえ即位は先であっても、2〜3日中にはヒロに対し親王宣下(しんのうせんげ)が下されるはずだ。国家安泰のため王太子の席は空白にしておく訳にはいかず、それにはまず公爵家のヒロを王族にする必要がある。小柄で華奢で金髪のこの少年は、何と数奇な運命を背負って生まれてきたことだろう。幼くして賊にさらわれ、みなしごとして貧しい平民の中に育ち、ようやく親元に帰ってくるや1年たたずに王太子となり、命を狙われかねない立場に立たされてしまったのだ。
「…ンだよ。」
 視線に気づいてヒロはロゼを見た。ロゼはハッと我に返った。
「あ…ああごめんごめん。いや、顔色がね、少しよくなったなと思って。」
 ヒロは黙って皿に目を戻し、スプーンを動かし続けた。何気なく窓の外を見てロゼは気づいた。
「雨だ…。」
「え?」
 ヒロもベッドの横を見た。ガラスを流れる雨の筋の向こうには、枯葉さえすっかり奪われた木々が灰色の空の下に立ちつくしていた。ヒロはポツリと言った。
「ルージュ、寒いだろな…。」
 
 急に降りだした氷雨にも、ルージュは手綱をゆるめなかった。片手でマントの前釦を留めた時、彼は轡を伝う泡に気づいた。馬は白目を剥き始めていた。あと10分はもたないだろう。チッ、と舌打ちしたもののルージュはすぐに、
「わり。よく走ってくれたな。」
 馬の首をポンと叩いて、駐在所への側道に入った。
 
 日没からさらに2時間、危険な夜道をルージュは駆け通した。都の入口の民家から借りた馬で、彼は公爵家の門をくぐった。松明はもう燃え尽きていた。やって来たのがルージュと知ると侍従たちは、ずぶ濡れで息を切らしている彼が何も言わないうちに、板のように重くなったマントを取り、こちらへと奥に促した。
「ヒロは。」
 大股に進みながらルージュは聞いた。
「は、ジュペール伯爵がずっとついていて下さいました故、だいぶご気分も落ち着かれました。」
「そうか。」
 侍従は彼をヒロの部屋に通した。
「ルージュ。」
 彼に気づきロゼは立ち上がった。
「お帰り。ずいぶん早かったね。」
「ああ。可哀相だけど馬3頭乗りつぶした。」
 ルージュのかきあげる髪がぐっしょりと濡れているのに気づいて、アマモーラは絹のタオルを持ってきた。
「どうぞ、ルージュ様。それとお上着を…。」
「ああ、失礼するぞ。」
 緋羅紗の軍服を彼は脱ぎ、白いブラウスの衿ボタンをあけた。
「ヒロはどうしてる。寝てんのか?」
 髪を拭きながらルージュは聞いた。
「ああ。さっきまで待ってたんだけどね。薬が効いたらしい。今はぐっすり。」
「そっか。」
 どちらからともなく、2人はヒロの寝室に入った。そばについていたバジーラは一礼して下がった。
 うつ伏せで顔だけこちらに向けているヒロを安堵の表情で見下ろし、ルージュは言った。
「心配したほど顔色悪くねぇな。呑気な顔して寝てんじゃん。」
「いや最初は大変だったんだよ。寝ない食べないでみんなを困らせたらしい。」
「お前が来てくれたんで安心したんだろ。」
「いや、ルージュがこっちに向かってるって判って落ち着いたんだよ。君が濡れるのを心配してた。」
 ルージュはクスッと笑い、しかしすぐに表情を改め言った。
「今度も内通者か。」
「ああ。」
 溜息まじりにロゼは答えた。
「残念だけどそうらしい。ヘルムート子爵が今、王太子殿下の食事を調べてるよ。幸いというか、殿下が残された料理は捨てられてなかったんだ。子爵の城で、多分ジョーヌも手伝ってるんじゃないかな。」
 
 ロゼの予想は正しかった。子爵家には小麦の品種改良をするための実験室があり、そこではジョーヌと子爵が、料理の一品ずつを数種の薬品に漬けて分析していた。
「どうですか父上。」
 ジョーヌは聞いた。
「ああ、これが最後だ。これでもし色が変わったら…。」
 白手袋をした子爵はフラスコの中にスープの粉を入れた。ジョーヌは目を見張った。溶液は見る見る変色した。子爵はうめくように言った。
「砒素だ…。」
 
 アマモーラとバジーラは5種類の病名を考えてヒロを病人に仕立て上げ、おかげでヒロは王宮に居を移すのだけはまぬがれることができた。本来なら許される措置ではないが、事態が事態だけに国王も、薄々真実を察知したに違いなかった。公爵家に身をおいたままヒロは国王の養子となり、今後正式の場では王太子リーベンスヴェルトと名乗ることになった。病人であるから元気な姿を人目にさらす訳にはいかず、外出はなるべく控え、やむを得ない時は変装して馬車に乗るなど、ヒロの身の回りはひどく不便になってしまった。
 
 数日後、王宮内の廊下でルージュはロゼに会った。ルージュは軍備の強化に関する御前会議のため、ロゼは大臣たちと外交策について打ち合わせるためであった。
「痩せたねルージュ。」
 書類を抱え直してロゼが言うと、
「お前も目の下、隈できてんぞ。」
「ああ、昨日も寝てない。」
「俺もだ。」
 2人は窓にもたれた。
「春までが勝負だね…。」
 独白めいてロゼは言った。
「エフゲイアは雪国だからね。冬の間は戦さどころじゃない。行軍中に凍死者が出るよ。仕掛けてくるとしたら雪解けのあとだ。それまでに全てを整えないと…。」
「そうだな。」
 ルージュの言葉は短かった。ロゼは窓の方を向いた。
「俺たちみんな子供の頃から、冬は大嫌いだったのにね。寒くて憂鬱で、どこにも遊びに行けなくて。早く春にならないかなって、暖炉の前で言い合ったじゃない。」
「ああ、お前とかヴェエルの誕生日にな。」
「なのに今年は、1日も長く冬が続いてくれるように祈ってる。雪の女神と結婚したい気分だよ。」
 はぁ、と溜息をついたロゼは、何かに気づいてルージュの肩を叩いた。
「ンだよ。」
 首をひねりルージュも外を見た。
「雪だよ。」
「初雪か…。」
 2人は天を仰いだ。心の不安を映したような空から、ひらひらと冬の使者が舞い降りていた。
 

第2楽章 主題2に続く
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