『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第2楽章 主題2 】

 派手なことは何もできない時期なれど、クリスマスだけは特別だ。王宮にも各家にも美しい飾りつけがなされ、街は久しぶりに賑わいを取り戻した。大聖堂でのミサのあと5人は侯爵家に集まり、ルージュの客間でささやかな宴をひらいた。
「さぁさぁ殿下、ぐっとあけて下さいぐっと!」
 ヴェエルが言うとヒロは嫌な顔をし、
「おめ、やめろっつったべ? その呼び方。」
「だってしょうがないじゃんよ王太子なんだから。いいからほら、飲んで飲んで。」
 ヒロはワイングラスをあけ、ヴェエルの方に差し出した。
「しかしお前が国王になったら、うちら大変だろうな。」
 ルージュが真顔で言ったのでジョーヌは笑った。
「ほんとほんと。どんな法律作るか判ったもんじゃないよね。」
「だからまだだってそんなの、何十年も先の話だろうがよ。王太子なんておいらガラじゃねぇよ。」
「まぁねぇ。王子様にしちゃガラが悪いよねぇ。」
「ンだとこの野郎。」
 ヒロはヴェエルにヘッドロックを見舞い、3人は声をあげて笑った。
 そんな楽しい宴の場にノックの音が響いた。
「失礼致します」
 やって来たのはサヨリーヌである。
「お、さよぽんさよぽん! お前も来いよほら! な、ここ座んなここ。」
 ヒロは自分とルージュの間のソファーをポンポン叩いたが、
「いえあの、実は…。」
「ンだよ遠慮すんなって。」
「申し訳ございません、ジュペール伯爵に、急ぎのお使者様が見えられまして…。」
 それを聞いてルージュは顔をしかめた。
「おい、誰も取り次ぐなって言ったろ?」
「ですが若君、外務大臣じきじきのお使者様を、当家が勝手に門前払いする訳には…。」
「いいよ、会おう。」
 2人を遮ってロゼは立ち上がった。
「俺抜きでやってて。話聞いたらすぐ戻ってくるから。」
 ロゼは上着のボタンを留めてサヨリーヌに聞いた。
「使者はどこに?」
「は、ご案内致します、どうぞ。」
 2人は出ていった。
「大変だねぇ伯爵は。ロゼってさ、最近あんま笑わないもんね。」
 ローストチキンを噛み切りヴェエルは言った。
「そういうお前はどうなんだよ、城壁工事。」
 ルージュが聞くと、
「終わったじゃーん! 見てないのぉ? 俺と、俺の愛するマッチョたちの作品をぉ。」
「見たけどよ、あれでほんと大丈夫なのか? 体当たりしたら崩れんじゃねぇ?」
「失敬なっ!! 屋上で象が飼えんだぞっ!」
「おま、どこの回しもんだよ…。」
 シルバーも話も忙しい座にほどなく戻ってきたロゼは、ドアを引き中には入らず、
「ルージュ、ちょっと。」
 小声で彼を呼んだ。
「ンだよ。使者は帰ったのか?」
「ああ。」
「んじゃ来いよ。早くしねぇとヴェエルがみんな食っちまうぞ?」
「いいからちょっと。」
「何だよ…。」
 振り向いてロゼの表情を見、ルージュは黙って立ち上がった。ロゼは蒼白だった。
「おい、どしたんだよ。」
 ドアを締め歩き出しながら彼は尋ねた。ロゼはふところから1枚の親書を出しルージュに手渡した。
「悪い知らせだ。今から君の父上に会いにいく。君にも一緒に来てもらおうと思って。」
「悪い知らせ?」
 ルージュは紙を広げた。読み進むうち彼の顔からも、スッと血の気が引いた。
「暴動だ。よりによって今の時期に…。」
 ロゼが舌打ちするのは珍しかった。ルージュは顔を上げ、
「な、バーム地方って、今頃根雪になってんじゃねぇか? 暴動なんて起こしてる場合じゃねぇだろ。」
「いや、今年は雪が少ないんだ。いつもならとても通れないような街道が、馬車でも行けるって話だからね。雪の女神も気紛れらしい。」
 2人は玄関に着いた。馬と明かりと外套を用意させ、彼らは小雪舞う夜道に駆け出た。
 
「何だこんな時間に。せっかく今夜はお前のママンとしっとりしようと思ってたのに…。」
 夜着の上にガウンを羽織り侯爵は客間に現れたが、
「申し訳ございません。火急の用むきでしたので使者もたてずにお伺いしました。」
 姿勢を正し礼をするロゼを見て、
「おお、これは失礼した。伯爵がおいでなのにこのような格好で。」
「いえ、お気遣いなく。無礼な時間に押しかけたのは私の方ですから。」
「―――挨拶はいいからこれ見ろよ。」
 間にルージュは割り込んで、親書を父親の鼻先に突き出した。ロゼが説明した。
「バーム地方で暴動です。最近このような事件は全くと言っていいほどありませんでしたが、時期が時期だけに、至急鎮圧すべきではないかと。」
「ふむ。」
 椅子の上で苛々しているルージュとは対照的に、侯爵はまるで村相撲の開催通知でも受けとったかのような平静さで読み終え、言った。
「確かにおっしゃる通りですな。この規模なら放っておいても自然鎮火するでしょうが、時期が悪い。さっそくに兵を送りましょう。」
「お願いいたします。」
 ロゼは頭を下げた。
 2人は気づかなかったが、侯爵の心中は表情とは裏腹であった。バーム地方と知った途端、ただごとでないと彼は悟っていた。御前試合でルージュを殺そうとしたエフゲイアの間者は、バーム地方の農家の息子になりすまして出場したのだ。バーム地方は北の国境を越える街道沿いに位置するが、まさかこの地がエフゲイアの間者の巣窟になっているとしたら…。その懸念を顔には出さず、侯爵はルージュに言った。
「聞いた通りだレオン。」
「あ?」
「1個師団の出動を許す。この暴動はお前が鎮めてこい。」
「バーム地方…。」
 何かをじっと考えていたロゼが、そこでつぶやき顔を上げた。
「侯爵。間者を放って下さい。」
「ん?」
 侯爵とルージュは彼を見た。ロゼは早口になって言った。
「バーム地方には武器工場が多い。すぐそばにマンフレッド鉱山があるからです。この時期にあの土地で暴動が、しかも何の前ぶれもなく起きるというのは、どう考えても不自然ではないですか。おそらく裏でエフゲイアが糸を引いている…。何ですぐに気がつかなかったんだろう。」
 侯爵はロゼを見た。参謀としてのロゼの資質は疑いようがないと、彼は改めて思った。
「だとしたら伯爵、あなたはどうなさる。我々はどうするべきですかな」
 侯爵の問いに、ロゼは少し頭を整理して、
「まず、バーム地方と周辺の街に間者を放ち、情報収集に全力を注ぎます。その上で一刻も早く、しかも徹底的に暴動を鎮圧します。エフゲイアが竦むくらいに、事後処理まで容赦なく行います。1個師団では少ないかも知れません。背後にいるエフゲイアの反応によっては、予想外の戦闘になる可能性もあります。」
「うむ。」
 侯爵は深々とうなずいたあと、ルージュの方を見て言った。
「司令官。出動命令を下す。今夜のうちに出動の準備をし、あす未明、第3第4騎甲師団全軍を率いて出立しろ。お前の軍隊だ。いい足慣らしにもなるだろう。同時に、北方警備隊を現地に集結させるよう俺が指示を出しておくから、お前は彼らに謁見してこの3隊で事に当たれ。間者たちはただちに北に向かわせる。判ったな。」
「ああ。」
 平素のまま応えたルージュに、
「返答せぃ司令官!!」
 侯爵は怒鳴った。ルージュは立ち上がり礼をした。
「御意、元帥閣下。」
「よし。雪中ご苦労。武運を祈る。―――お前の初陣だ。しっかりやれレオン。」
 
「出陣!?」
 客間で話を聞いたヒロたちは声を揃えて言った。さすがにルージュも興奮の口調で、
「ああ。だから悪いな、今夜はこれで切り上げ。今からすぐ本営行って支度しなきゃなんねぇんだ。」
「すっげー…。いよいよ軍隊連れて戦地に行くんだぁ! かぁっけぇルージュぅ!」
 ヴェエルは単純に感動し、ジョーヌも目を輝かせたが、1人ヒロだけは黙っていた。ロゼは考えをめぐらせ、
「戦況によっては支援部隊が必要になるね。少し遅れるけど、ルージュ、俺も途中の陣まで行くよ。幸い通り道にはうちの領地がある。古い城だけど使っていいよ。」
「マジいいのか? んじゃな、そこを後方部隊の駐屯地にしていいか。第4から1隊だけ残して備えにすっから。お前はそこで策を練って、情報のとりまとめもやってくれ。」
「判った。戦況が変わったらすぐ伝令飛ばして。」
「おお、頼むぞ。」
「ねぇねぇ俺にも手伝えることないぃ?」
 ヴェエルは言ったが、
「ねぇよ。ただの暴動だ、別に戦さじゃねんだから。」
 するとジョーヌが、
「でも兵糧は?ルージュ。言ってくれればいくらでも出すよ。工場フル稼働させるから。」
「ああそうだな、とりあえず10日分もありゃいいか、ロゼ。」
「うん、そうだね。あとはまた必要になったら俺の方で連絡するよ。」
「おっけ、まかして。」
 うなずくジョーヌの脇からヴェエルが、
「じゃさ、じゃさジョーヌ! それ運ぶ時俺に言ってよ! うちのマッチョ軍団出動させるから。」
「うん判った、そうしよう。」
「よっしゃぁ!」
 興奮気味の4人に、そこで突然ヒロは言った。
「…おいらも行く!」
「あぁ?」
 4人は驚き、すぐに呆れ顔になった。
「馬鹿、何言い出すんだよ。常識で考えろ、お前は王太子なんだぞ。」
「常識なんかどうでもいい。おいらも行く。連れてって。」
「…。」
 ルージュとロゼは顔を見合わせ、
「だからなぁヒロ。」
 やれやれといった顔でルージュは言った。
「いいか? いくらただの暴動だっつっても、向こうは武装してんの。剣のお稽古とは訳が違うんだぞ。お前に何かあったらな、この国はどうなんだよ。第一お前がついて来たって何の役にも立たねぇだろ。お前の護衛のために1小隊割かなきゃなんねんだよ。ま、はっきし言って超迷惑。頼むからやめて。な。」
 ルージュはわざときつい言葉を使ってヒロに諦めさせようとしたが、ヒロは思いがけないことを言った。
「バーム地方のすぐ近くに、マンフレッドって鉱山があんだろ。…実はおいら、ここに来る前はそこで働いてたんだ。」
 ルージュたちは黙った。ヒロがいたのは北の方の田舎町だとは聞いていたが、それがマンフレッドだとは知らされていなかったのだ。ヒロは独白めいて言った。
「おいらを拾って面倒みてくれた人たちが住んでんだよ。貧乏だけど明るくて、すっげいい人たちなんだ。そのすぐそばで暴動だなんて、もしもみんなに何かあったら…。」
 ぎゅっ、とヒロはブラウスの胸を掴んだ。布を通して十字架の硬い感触があった。
「大丈夫だよ。」
 ガラリと明るい声でロゼは言った。
「暴動があったのは鉱山を挟んで反対側の地方で、マンフレッドの街に何かあった訳じゃない。暴動っていったって小さな規模だし、ただ時期が悪いから、侯爵も見過ごせないと思ってるだけさ。…ねぇルージュ。」
「ああ、うん、そうそう。それにほら、実際の戦さの前に俺に度胸つけさせようってんだろあの親父は。」
「ああそうかもね。いわば予行演習?」
「言えたな。」
 2人の即興芝居をヒロは信じたのか信じていないのか、上目づかいにじっと見上げて、それ以上の無理は言わなかった。
「悪い、んじゃ俺、行くわ。」
 剣を持ちルージュは立ち上がった。
「ロゼ、あとはよろしくな。」
「うん判った。」
 部屋を出ようとドアを開けた時、
「ルージュ!」
 呼ばれて彼は振り返った。4人は直立して彼を見ていた。代表してロゼが言った。
「武運、祈ってるよ。」
「…おう。」
 ルージュはうなずき笑い返した。ドアはバタンと閉まった。服の上から十字架を手で押さえて、ヒロがそっと目を閉じるのをロゼは見た。
 
「サヨリーヌ!」
 大股に自室に入るとルージュは上着を脱ぎながら呼んだ。すぐに彼女はやって来た。
「聞いたろ。夜が明けたら出陣する。スガーリ呼べ。それと俺の支度頼む。」
「はい、ただちに。」
 侍女たちにサヨリーヌは的確な指示を出し、それからルージュの身支度を手伝った。背後からブラウスを着せかける彼女の指が、震えているのにルージュは気づいた。
「どした。」
 サヨリーヌはぴくっ、と手を止めたが、すぐに、
「いいえ、何でもございません。」
 落ち着いた口調で応えた。ルージュは笑った。
「大丈夫だって。戦さとかじゃなくて、ただの暴動なんだからよ。いい足慣らしだから行ってこいってあのクソ親父…。何が『返答せい司令官!』だよ。」
 口真似をして笑わせようとし、
「だから心配すんな。すぐ帰ってくっから。な。」
 肩越しに振り返る彼の目を、サヨリーヌは直視できなかった。暴動だろうと戦さだろうと、危険な場所であるのは同じ。ルージュの身を心配せずにいられる訳がないではないか。
「くれぐれもお気をつけ下さいませ…。」
 泣き出しそうな自分を叱り、サヨリーヌは言った。
「若君のお体は、もう若君独りのものではございません。」
「判ってるって。口癖だなお前。」
「いいえ。今までとは意味が違います。」
「どう違うんだよ。」
「若君は近い将来、コンスタンシア姫を奥方にお迎えになって、侯爵家の安泰を守らねばならないお立場でいらっしゃいます。お美しい姫君とのこれからのお幸せのために、どうか御身おいとい下さいませ。」
 ルージュは応えなかった。衿を直しボタンをとめ、サッシュを結び革ベルトを絞めてそこに剣を差しながら、
「…のか。」
 何かルージュは言ったが、彼女には聞き取れなかった。はい?と聞き返すと彼は、一呼吸おいて繰り返した。
「お前、本気でそう思ってんのか。」
 意味をはかりかねてサヨリーヌは黙った。ルージュは彼女を残し、部屋を出て行った。
 廊下にはスガーリが立っていた。鎖帷子(くさりかたびら)を着こんだ彼の体はいつもより一回り大きく見えた。歩きながらルージュは彼に聞いた。
「出動準備は。夜明けには発てるか。」
「はい。今頃はシュワルツたちが練兵場で兵士に喝を入れているところでございましょう。」
「そうか。」
 ルージュは革手袋をはめ、マントの衿元を確かめた。
「どうぞこれを、若君。」
 そこでスガーリが差し出したものを彼は見た。家紋の鷹を宝石で形どったその短剣は嫡男のみが持てる後継者の証である。ルージュは一瞬なぜという顔でスガーリを見たが、すぐに理由を知って懐に収めた。
 玄関には侍従たちがずらりと並んでいた。戦さではないので正式の儀式はないが、実質上これはルージュの初陣で、送る者にも送られる者にも、定められたしきたりがあるのだ。凛と通る声でスガーリは告げた。
「若君ご出陣! 心してお送りせよ!」
 全員が深く腰を屈める中、玄関前にシェーラザードが引いてこられた。海岸での訓練治療を無事終えて、ルージュの愛馬は城に戻ってきていた。
 スガーリはその場にひざまずき面(おもて)を伏せた。ルージュは懐に手を入れて全員を見渡した。彼の目が探していたのはサヨリーヌの姿だった。彼女はまだ部屋にいるのかと、そう思った時足音がした。息をきらせて走ってきたのはサヨリーヌその人であった。
「ここへ、サヨリーヌ。」
 ルージュは呼び、左手で短剣を取り出した。出陣する主(あるじ)に留守を託されるのは正妻の役目であるが、ルージュには妻はいない。その場合は城の誰かが代理を勤めねばならず、彼はその役にサヨリーヌを選んだのだ。ルージュの意図を知って、サヨリーヌは彼の前に歩み出、作法通りに裾を広げ深く礼をした。ルージュは短剣を差し出し、言った。
「城を頼む。俺の留守中はお前がここの主だ。」
「心得ました。」
 サヨリーヌは両手でそれを…ルージュの形代(かたしろ)を受け取った。
 彼はくるりと背をむけた。スガーリは立ち上がりあとに続いた。ルージュはシェーラザードに乗り、
「行ってくる。」
 短く告げて手綱をさばいた。胸に剣を抱いたままサヨリーヌは彼を見送った。もしもルージュに何かあったら、この剣で胸を突いて後を追う。彼女はそう決心した。
 
 ベッドには入ったものの寝つくことができず、ヒロは寝返りをうち続けていた。目を閉じると瞼の裏にはマンフレッドの街並みが浮かび、懐かしい人々の微笑みがその上に重なった。溜息をついてヒロは仰向けになった。部屋の中が薄明るいのはベランダに積もった雪のせいに違いない。夜明け前、空気が最も冷えるこの時間に、ルージュはどうしているのだろうと彼は思った。人の息も馬の息も白く凍りそうな冬の朝、民の幸せと国の平穏を守るために懸命になっているルージュや兵士たちを思うと、ヒロは自分だけがこうしていていいのかという、強い疑問を抱いた。
 柔らかなベッドをヒロは下り、冷たい床を素足で歩いて窓のカーテンをめくった。雪はもうやんでいて東の空は白み始めていた。ヒロにはありありと見えた。今しもルージュは馬上で剣を抜き高々と掲げ、全軍に出動命令を下した。
 ぶるっ、と寒さに襲われて、ヒロは薄い夜着の袖をこすった。急ぎベッドに戻ろうと思い羽根布団に手をかけたところで、彼はふと動きを止めた。次の瞬間ヒロは羽根布団の下の毛布を力いっぱい引き抜き、外套のように体に巻きつけ、足音がしないよう裸足のままでそっと部屋を出た。
 廊下の10メートルほど先には見張りの兵士の背中が見えたが、反対方向には誰もいなかった。ヒロはそちらに走った。普段は使われていない客間ばかりのその棟を、彼は駆け抜けた。つきあたりの階段は塔への上り道だ。ひと気がなくて気味の悪い階段を、ネズミたちを逃げ惑わせながら彼は登っていった。
 登りきったところに木の扉があり、押し開けるといきなり空だった。うわ、とヒロは壁にすがりつき、風にはためく毛布のへりを衿元におしこんだ。壁に両手を触れさせて首を伸ばすと、このあたりで最も高い場所にいる彼の視界を遮るものは何もなかった。城の回りは粗い林で、その外側には民家があった。畑も草原もうっすらと雪でおおわれ、白い大地の真ん中に1本くっきりと横たわっているのは北へ向かう街道である。軍はあそこを通るのかと思った時ちょうど、地鳴りにも似た蹄の音が聞こえてきた。幾千の馬の駆ける音であった。
「ルージュ…。」
 ヒロはつぶやいた。さほど視力のよくない彼にも、先頭を走る騎馬姿がルージュのものであることは判った。亜麻色の髪を風になぶらせ、彼は疾走していた。北へ。遠い町へ。禍事がじわりと触手を伸ばしている、黒く厚い雪雲の中へ。
 寒さで色を失った唇を、ヒロは強く噛んだ。
「神様…。」
 彼はいつしか祈っていた。
「もしもどこかにいらっしゃるなら、どうかあいつを守って下さい。こんなに無力なおいらの代わりに、あいつを、ルージュを、守ってやって下さい…。」
 

第2楽章主題3に続く
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