『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第2楽章 主題3 】

 例年であれば根雪に覆われ歩くこともままならない街道が、今年はたやすく通過できたため、ルージュの軍はたちまちにバーム地方に着いた。中心都市であるハルスの町に入るときには戦闘態勢を組んだが、ルージュやスガーリが拍子抜けしたほど、町は静まり返っていた。町の中央に位置する広場にルージュはとりあえず陣を敷き、状況を説明させるためスガーリに町長と主任司祭を呼びにいかせた。
 野戦用の大型テントの中でルージュが彼らを待っていると、
「御免よ。」
 入口の幌布をバサッとめくってシュワルツが入ってきた。
「どうもキナ臭いぜこの町は。そう思わねぇか司令官。」
 ルージュの見ていた地図を横から覗きこんで彼は言った。
「ああ。暴動があったにしちゃ静かすぎるな。」
 ルージュも同意したが、
「静か、ってんじゃねぇんだよ。なんか無理矢理押し込めたような、奇妙な息苦しさがあるんだ。ほら、沸騰する前の、煮えたぎった湯みてぇなよ。」
 ルージュはシュワルツを見た。シュワルツはズイと顔を突き出した。
「偵察許可、出せよ。うちの隊の腕きき2〜3人連れて、あっちこっち調べてくる。町ん中と、それから周りもな。キツネが出るかイタチが出るか、楽しみに待っててくれ。」
「判った。」
 ルージュはうなずき、言葉を足した。
「けど夜までには戻れ。何か出ても深追いすんな。キツネやイタチとは限んねぇぞ。」
「ああ。腹が減ったら戻ってくるよ。」
 ニヤッと笑ってシュワルツは出ていった。ルージュは再び地図に目を落とした。
 ほどなくスガーリが帰ってきた。1人でテントに入ってきた彼を、ご苦労、とねぎらってからルージュは尋ねた。
「町長はどうした。それに主任司祭は?」
「は、それが、実は表に…。」
 煮えきらない返事に、ルージュは腰の剣を確かめ外に出た。
 ルージュの視界に入って来たのは、縄を打たれて座っている痩せた中年の男と、どこか虚ろな目をして彼を囲んでいる数人の町民であった。スガーリは説明した。
「実はこの男が暴動の首謀者であるとのことなのですが…。」
 やはり歯切れの悪い口ぶりは、スガーリにとっても信じられない話だからであろう。ルージュは町民の顔を1人ずつ見たが、誰も視線を合わせずにこそこそとうつむいてしまった。
「暴動の理由は今年の凶作により税が払えないことで、この男は仲間をそそのかして町長の家に押し入り、クーデターを起こそうと計画していたところ、誰かの密告ですぐに都に通報されてしまい、今日ここに来た我々の軍に驚いて、逃げようとしたところを取り押さえられた由にございますが…どうもその…。」
 スガーリはしきりに首をかしげた。
 ルージュは1歩歩み出た。正座して深く頭を垂れている男よりも、町民たちの方がビクリとして2歩ばかり後ろに下がった。
「顔上げろ。名前は。」
 ルージュは男に言った。男は消えそうな声で答えた。
「はい、百姓のヤコブでございます。」
「ヤコブか。家族はいるのか。」
「病気の妻と、娘が2人…。けれど家族には全く関係のないこと、儂1人で企てたことにございます。」
 ルージュは男の前に屈み、
「俺の目、見て言ってみろ。本当にお前が首謀者なのか。」
 男は顔を上げた。悲しそうな目だとルージュは思った。
「町長は誰だ。この中にいるんだろ。」
 立ち上がって彼は聞いた。後ろにいた数人の中からおずおずと1人が進み出た。
「お前か。」
「はい、お役人様のお許しを得てこの町の町長をしておりますグラハムと申します。」
「グラハム。お前の家にこのヤコブが押し入ったというのは本当か。」
「はい。百姓仲間数人と、鋤や鍬で家族を脅し、幼い息子を人質に納屋に立てこもりました。ご存じの通りこのあたりは土地がやせておりまして、天候が少しでも不順になればろくな作物はとれません。ヤコブはそれを苦にして…」
「―――お前の家に押し入ったというのか。」
「はい。」
 胴震いしているグラハムを見て、ルージュは口元だけで笑った。
「な。1つ聞くけどな。」
「は…。」
「それのどこが暴動なんだよ。都に使いを出して鎮圧要請するほどのことか? グラハム、お前、被害妄想の気でもあんじゃねぇのか。」
「そそそそうではございません!」
 町長はガバと土下座した。
「確かにそれだけならただの強盗でございますが、納屋に立てこもったこの男は、仲間とクーデターの相談を始めたのでございます。『今の国王の圧政と重税にはもう我慢できない、町長と家族全員を人質にこの町を占拠して、武器を集め、少ない雪を好機に都へ攻め上るのだ』と。私どもはそれを聞いて仰天しまして、これは一刻も早く都へお知らせ申し、ヤコブと仲間を捕らえて頂かねばと…。」
「で、結局こうやって自分たちで、立派に捕らえられたって訳な。」
「いえ、そ…。」
「じゃあわざわざ遠いとっから進軍してきた俺らは何なんだよ。てめぇら軍隊おちょくってんのか?」
「め、滅相も…!!」
「軍への不敬罪は反逆罪の次に重い。強制労働の後で国外追放だ。判ってんなグラハム。」
「ふ、不敬罪だなどと、そのような大それたことは決して…!」
 町長は地面に額をこすりつけた。
「確かに私ども、少々見苦しく浮足だったのは事実かも知れませぬが、それよりも罪はまず、このヤコブの上にあるのではございませんか! クーデターがこの男の妄想であったならなおのこと、こやつは我々を騙し人心を不安に陥れ、結果的に軍隊さえ愚弄したのでございます。私どもをお責めになるのは筋違い。そうではありませんか隊長様!」
 町長は必死の形相で言った。ルージュは再びヤコブを見た。彼は目を固く閉じていた。スラリとルージュは剣を抜いた。町長は瞠目した。てっきりヤコブを斬ると思ったその刃はしかし、
「下手な嘘つくんじゃねぇよ。」
 ぴたりと町長の頬に押しつけられた。
「そんな口先の小細工で、俺を騙せると思ってんのか。軍隊とか元帥とかいうもんはな、綺麗ごとじゃやってけねぇんだよ。うちの本邸には地下牢がある。拷問道具一式揃ってんぞ。何がいい。火責めか水責めか、じゃなきゃ水車にくくりつけて、鉄の針の上で回してやっか?」
 チャッ、と刃を立てた時、ルージュとスガーリは異様な水音に気づいた。町長はぶざまにも失禁していた。呆れはてたルージュは剣を引いた。
 その時であった。後ろ手に縛り上げられたヤコブが、ルージュの剣目がけて体当たりした。刃は彼の顔と胸を浅く斬り、咄嗟のことによろけたルージュをスガーリが抱きかかえた。
「貴様、何をする!」
 スガーリはヤコブを蹴倒した。貧相な体はころころと石畳の上を転がった。
「よせ。」
 ルージュは止め、亀のようにもがいているヤコブを兵士に命じて起こしてやった。ヤコブは体を2つ折りにし、ルージュの爪先に頭をつけて言った。
「全ては儂の罪、儂の企てでございます。どうかこの儂を処刑して下さい。儂がやったと言っとるんです、これ以上確かなものがどこにあるとおっしゃる!!」
 ルージュはヤコブを見つめた。ヤコブはフンと笑った。
「あんたさんみたいな若僧に殺されんのは正直こっちも悔しいんだ。まだ世の中の右も左も判らんくせに、貴族だってだけで高い地位に就いてでかい顔しくさる。この国の将来もたかが知れてるってもんだ!」
 ヤコブの罵りに兵士は血相を変え、
「貴様!」
 殴りつけようとした腕を、やはりルージュは止めた。
「連れていけ。」
 ルージュは兵士に命じた。ヤコブは縄を引かれていった。その後ろ姿を見ているルージュに、
「では私どもはこれにて。あの男のお裁きをひとつよろしくお願い致します。」
 グラハムは言い、突っ立っていた数人とともにそそくさと退散していった。スガーリはルージュを見た。彼がうなずいたのを見て、スガーリは足早にその場を去った。彼らのあとをつけ監視するよう、間者に命じにいったのだ。
「司令官。」
 いつしかルージュの背後にはヴォルフガングが来ていた。
「あの男…ヤコブをどうします。間違いなく何か隠していますよ。締め上げて吐かせますか。」
「いや、いい。」
 ルージュは即座に言った。
「シュワルツが戻るのを待つ。それまで全員、準戦闘態勢で待機させとけ。」
「判りました。」
 
 ギィ、と軋む扉をあけてシュワルツは酒場に入った。中にはだれもおらずガランとしていた。
「ずいぶんと不用心な店だな。おーい。店主はいねぇのか!」
 奥に呼びかけても応えはなかった。
「何なんだよこの町は。まさかもうじき腐海に沈むんじゃねぇだろな。」
 シュワルツは外に出た。そのあたりの商店を同じように調べていた2人の兵士、ゼルとユルゲンも、
「本当に人っ子一人いませんな。」
「疫病でも流行ってるんですかね。」
「冗談やめろよ、そんな話はどっからも聞いてねぇ。」
「だけどこりゃどう見たって普通じゃねぇですよ。」
「ああ。間違いなく何かあったな。」
 口々に言い合いうなずきあった。
「そのへんの民家もあたってみっか。」
 シュワルツは言い、商店の裏の路地に入って、
「おーい、ごめんよ、おーい!」
 人の気配のする1軒のドアをドンドンと叩いた。ややしばしあって足音が聞こえ、扉の上部の覗き窓が開いた。男の両目にシュワルツは笑いかけ、
「ちょっとここ開けてくんねぇか。怪しいもんじゃない、都から来た正規軍だから安心しろ。聞きたいことがあるだけ―――」
「帰ってくれ。」
「はぁ?」
「軍隊なんぞに用はない、ウロウロされんのは迷惑だ。」
「おいおいそれはねぇだろぉ? こっちゃ要請受けてわざわざ来てやったんだろが。」
「知らん。帰ってくれ。」
「おいちょっと親父。ここ開けろって。おい。」
「頼むから帰ってくれ! あんたたちにいられちゃ困るんだ!!」
 小さな窓はバシンと閉められ、中から錠前を下ろす音がした。
「何だよ…。」
 シュワルツも兵士たちも憮然とした。
「どうも変だなぁ…。」
 彼らはゆっくりと通りに戻った。1匹の野良犬がうろついていたが、
「犬に聞いても判んねぇわな。」
 3人は馬を柱に繋いで、酒場の店先の木の階段にやれやれと腰をおろした。その時だった。
「あのぅ…。」
 どこかで小さな声がした。
「何だ?」
 3人はきょろきょろした。どうも下の方から聞こえてきた気がしてシュワルツは縁の下を覗いた。もそもそと影が動いた。顔も服も泥だらけの5歳くらいの男の子であった。
「何だおめぇ。」
 シュワルツが聞くと子供は怯えた顔で言った。
「あの、おじさんたちは、都から来た軍隊の人?」
「違うだろバカ。お兄さんたちだろ。」
「…。」
「何でそんなとこに隠れてんだよ。ほら、ぶったりしねぇから上がってこい。」
 少しの間黙って考えていた男の子は、やがて縁の下を這い出てシュワルツの隣に座った。ゼルとユルゲンも彼を見た。
「何て名前だ坊主。おめぇ1人か。」
 シュワルツが尋ねると、
「…フリッツ。」
「フリッツか。いい名前じゃねぇか。」
 笑いかけてシュワルツは、彼が手足のあちこちを擦りむいているのに気づいた。
「おいお前怪我してんぞ。どっかで転んだか?」
 軍服のベルトに下げた小さな革袋を、シュワルツは外した。それは軍の兵士全員が身につけているもので、中には応急手当用の薬と包帯が入っている。
「ちょっとしみっけどな、男だ、我慢できんな。」
 シュワルツは傷を手当てしてやった。その手元をじっと見ていたフリッツは、急にぽろぽろ涙をこぼした。
「おいおい泣くんじゃねぇよ、我慢しろっつうにこれくらい。」
 フリッツは首を振った。痛くて泣いているのではなかった。
「助けて…。」
「ああ?」
「かぁちゃんと妹を助けて、おじちゃん…。」
「だからお兄ちゃんだっつうに、物覚えの悪いガキだな。」
 フリッツは手の甲で涙をぬぐい、しゃくり上げながら懸命に言った。
「変な男たちが来て、町長のグラハムさんをみんなの前で殺したんだ。それで、人質だっていって、かぁちゃんたちを連れてっちゃった…。」
「…おい。」
 シュワルツは顔色を変えた。ゼルたちも身を乗り出した。
「変な男ってどんなんだ。大勢で来たのか。おい泣くのは後にしろフリッツ。ちゃんと話せ。いつのことだそれ。」
 フリッツの話を整理すると、事件のあらましは次のようなことだった。
 この前の日曜日、馬に乗った兵士たちが500人ばかりやって来て、武器をつきつけ町民全員を広場に集め、逆らう者は子供でも構わず斬り殺した。そうやってあっという間に町を占拠した兵士たちは、衆目の中で町長を処刑したあと、人質だと言って女と子供を残らずどこかへ連れ去った。ところがたまたまフリッツは、その日父親に悪戯を叱られて自宅の納屋にとじこめられていたため、子供たちの中でただ1人、連れ去られずに済んだ。
 フリッツの父は若い頃伝令兵をしていた。彼はこの騒ぎを暴動と判断し、兵士たちの目を盗んでかつての部下に会い、書状を託して都へ遣わせた。がそのことはたちまち兵士たちの耳に入り、彼は捕らえられ嬲り殺されてしまった。1人残されたフリッツは、兵士たちが踏み込んできた家を間一髪で逃げ出し、一晩をこの縁の下で震えながら過ごしたという。
「そうか。偉かったな坊主。よく話してくれた。」
 シュワルツはフリッツを抱きしめて、よしよしと肩を撫でてやった。
「だけどもう安心していいぞ。そいつらはお兄ちゃんたちが追っ払ってやるから。」
「ほんとに?」
「ああ本当だ。だって俺たちは都から来た正規軍だぞ。そんな寄せ集めの暴動野郎より強いに決まってんだろが。こてんぱんにやっつけて、かぁちゃんたちもすぐに助けてやるよ。」
「うん。」
 ようやくフリッツは泣きやんだ。
「だから、もう1つだけ教えてくれフリッツ。」
 シュワルツは彼の小さな肩を掴んで正面を向かせた。利口そうな目をしていた。
「いいかよーく思い出せ。今までにそいつらを見たことあっか?」
 フリッツは首を横に振った。
「じゃあ、何を着てどんなかっこをしてた?」
「…。」
 じっと考えこんでフリッツは、
「見たことない奴らだけど、でもみんな黒っぽい革の服で、ここのとこにぶわぶわの毛皮つけてる奴もいたよ。」
「みんな?」
 シュワルツは復唱した。揃いの服であるならば、どこかの軍隊かも知れない。
「毛皮ってことは北の方の奴らですな。」
 腕を組んでユルゲンは言った。横からゼルも、
「盗っ人や山賊の集団とも違いますね。奴らに500人も指揮できるはずがないし。」
 シュワルツは少し考え、
「で、そいつらは今どこにいる。人質取られてっから抵抗はできねぇにしても、ここまで静かなのは変だろう。どっかにアジトみてぇな場所があるはずだ。」
 するとフリッツは言った。
「昨日まではいっぱいいた。剣を抜いてそのへん歩いてて、外に出てきた人間をすぐ殺すんだ。でも、いつの間にかいなくなっちゃった。いなくなってすぐにお兄ちゃんたちの軍が来たんだよ。」
「…そうか。」
 シュワルツはハタと膝を打った。
「読めたぞ。そいつらは都に伝令が走ったのは知ってても、まさか俺らがここまでの大人数で来るとは思ってなかったんだな。それで泡食って逃げ出した……いや待てよ。人質はまだ戻ってねぇ。とすれば奴らは、遠くに逃げちゃいねぇのか。本隊をどっかこの近くに移して、少人数の監視兵が、どっからか街の様子を見張っている…。」
 シュワルツがつぶやき終えたまさにその時、ヒュン!と空気の裂ける音がしたかと思うと、長く太い弩(おおゆみ)の矢が、ドスッとフリッツの背中を貫いた。
「お、おいっ!」
 勢いではね飛ばされたフリッツの小さな体をシュワルツは抱え起こした。鮮血に濡れた銀色の矢が、左胸の上で光っていた。
「くそったれがぁぁ!!」
 シュワルツの顔面に朱がさした。彼は剣を抜いて立ち上がった。
「てめぇ、どこにいやがる!」
 彼はがなった。ユルゲンが叫んだ。
「隊長、あれを!」
 指さした屋根の上に光るものがあった。
「野郎、逃がすかぁっ!」
 シュワルツは身を躍らせ、馬の手綱を取りながら、
「ゼル! お前は隊に戻って司令官に知らせろ! ユルゲンは残りの一味を誘いだせ、いいな!」
 馬はいななき走り出した。
 2人の部下は一瞬顔を見合わせたが、
「こうしちゃあいらんねぇ。行くぞ!」
「おお!」
 ユルゲンは街の中へ馬首を向けた。ゼルは上着を脱ぎ、倒れている小さな勇者に掛けてやった。本隊に知らせ1中隊をここに配備し、監視兵の動きを封じれば、住人たちも外に出られるであろう。彼は馬に股がった。ムチを当て加速し、鞍から腰を浮かせたところで、
「ぎゃっ!」
 彼は叫び落馬した。左の後ろ肩に深々と、フリッツと同じ矢がささっていた。
 道に転がり、ぴくりとも動かないゼルのそばに黒い革服の兵士が近づいてきた。彼は懐から短剣を出した。念のためにとどめをさそうと思ったに違いない。だがそこへバタバタと足音が聞こえ、その兵士は振り返った。やってきたのは彼と同じ黒服の男だった。
「アリオーサ!」
 声はそう言った。ゼルを射た兵士は短剣をしまい、男とともに走り去っていった。ゼルは低くうめき、無理矢理顔を上げた。アリオーサ。それはエフゲイアの言葉で「集合しろ」の意味だった。
 
 テントの中、椅子の背に凭れて腕を組み、ルージュは目を閉じていた。
「御免。」
 外でスガーリの声がした。続いてバサリと幌布がまくれた。ルージュは聞いた。
「シュワルツは。まだ戻んねぇのか。」
「はい、いまだ。それよりも司令官、ただ今先駆けが参りまして、ほどなく北方警備隊の兵士2000がこちらへ到着の由。すぐに閲兵式のご準備をなさって下さい。」
「んなもんあとでいいだろ。こんな訳の判んねぇ街で、呑気に式なんぞやってる場合じゃねぇよ。」
「いえ、そうは参りません若君。北方警備隊にとっては初のご拝謁でございます。これは軍礼。規範の基本を欠く訳には参りません。さ、どうぞお支度を。」
 渋々とルージュは立ち上がった。
 都からやって来た第3第4騎甲師団は総勢4000。これに北方警備隊を合わせた合計6000の大隊を、ルージュは馬上で閲兵した。警備隊長は野武士然とした60がらみの男で、父侯爵によく仕える武将であった。母親似のルージュに父の面影は薄いのだが、隊長は一目で彼の資質を見抜いたか、気合の入った最敬礼を幾度もルージュに捧げてよこした。
 だが戦さは数では決まらないことを、ルージュは父やスガーリから教えられて知っていた。凡将ならば驕りさえ招くだろうほどの大軍を前にしても、ルージュの心はざわついていた。彼の視線がたびたび投げられるのは、シュワルツが向かったはずの道の彼方にだった。ルージュは虚空に問うた。
(何してんだよシュワルツ。まさか戻ってこれないような何かがあったんじゃねぇだろな…。)
 冬の太陽はふらふらと、もう傾き始めていた。
 
「ごちそうさまでした。」
 カチャリと小さな音をたててヒロはシルバーを置いた。明るい灯火に照らされた公爵家の食堂である。真っ白いクロスのかかったテーブルには、ヒロと両親が向かっていた。
「もういいのですか? ヒロ。」
 公爵夫人は心配そうに聞いた。彼はうつむいた。夫人は痛々しげに、
「お具合がよくないなら我慢することなどありませんよ。お部屋にお戻りなさい。」
「はい。」
 ヒロはナプキンを軽く畳んで皿の脇に置き、椅子を立った。
「それでは失礼致します。お休みなさい。」
 両親を残して部屋を出たヒロが向かったのは、自室ではなく書斎だった。扉をあけるとジュヌビエーブが深く礼をして迎えた。アマモーラの姿もあった。
「揃った?」
 ヒロの問いにジュヌビエーブは答えた。
「はい、仰せの通りあちらにご用意致しました。」
「ありがとう。」
 彼は部屋の奥へ進んだ。長椅子の前の小テーブルには、ぶ厚い本が何冊も積み上げられていた。
 この国の過去を学び将来を知るためにはどんな勉強をすればいいかと、先日彼はロゼに尋ねた。するとロゼはわずかに目を見張ったあと嬉しそうに微笑んで、サラサラとペンを走らせこれらの書名を記してくれたのだ。
「よし…。」
 ふぅ、と息を吐いて椅子に座り『国家論入門』を手に取った時、ヒロはアマモーラが近づいてくるのに気づいた。
「ンだよぉ。気が散るから見んなっつの。」
 ついいつもの癖で眉を寄せた彼に、
「これを、若様。」
 アマモーラはふかふかの膝掛けを差し出した。
「書物に火は大敵ゆえ書斎には暖炉がございません。お風邪などお召しになりませんよう。極度なご無理もなりませんよ。」
 ヒロは両手で受け取るとすぐ、
「わり、やなこと言っちゃったなおいら。ごめん。」
 小さく頭を下げてからそれを膝に広げた。
「お、あったけ〜! すっげいいじゃんこれ。ありがとな。」
「いいえ恐れ入ります。」
 アマモーラは礼をし、邪魔にならぬよう下がっていった。
 ヒロはページをめくった。決して易しい本ではないが、入門書だけあって言い回しに工夫がされており、それほど難解ではなかった。ぶつぶつと読み上げつつ彼は文章を追った。ルージュが帰ってくるまでにこれらを全部読破する。それが、ヒロが自分に課した厳しい課題だった。
 
 時間は少し戻って、夕刻のハルスの町。
 暮れ落ちる前にルージュは兵士たちに食事をとらせた。乾パンなどの兵糧とはいえ6000人分を運ぶのは大変だったが、ヴェエルが荷駄専用にと20人もの人夫を差し向けてくれた。彼らは工事で鍛えた肉体にものを言わせ、ジョーヌの作った潤沢な兵糧を、ここまで運んで来たのである。
 テントの中では、ルージュを囲んで隊長たちが、軍議を兼ねて食事をしていた。ルージュの傍らにはスガーリが控えていたが、シュワルツの席だけはぽっかりとあいていた。
 この街には間違いなく何かある、というのは全員の一致した意見だったが、対策については諸説紛々であった。
「明日にでも各隊を分散して周辺の街々に遣わし、不審な事件がなかったかどうか調べるべきでございましょう。」
「いや、手っとり早いのはここの住民どもに話をきくことだと存じます。何か隠しているとしたらそれは軍事執行妨害、立派な罪になると脅せば奴らも口を割るのではないですか。」
「だがそんな犯罪者のような扱いをするのはどうか。見たところ即座に何か起きるという訳でもないようですし、ひとまず1隊をここに残して帰還することも検討した方がいいのでは。」
「うむ、確かにこんな大所帯でいつまでも留まっていては、労力と食料の無駄でございましょうな。」
 そんなさまざまな意見を聞いているのかいないのか、ルージュは黙って干し肉を食いちぎった。
 その時テントの外が急に騒がしくなった。何事かと出ていったスガーリはすぐに、
「司令官! ゼルとユルゲンが戻って参りました!」
「なにっ!?」
 椅子を蹴って外に出たルージュに、隊長たちも続いた。ゼルはユルゲンの肩にほとんど担がれるようにしており、彼の紺色の軍服はぐっしょりと血で濡れていた。
「どうした!」
 ルージュが駆け寄るとユルゲンは、
「エフゲイアの監視兵にやられたそうです。この街にいるのは暴徒ではなく、エフゲイアの軍隊です!」
 ざわっ、と隊長たちに衝撃が走った。
 ゼルは気絶しかけていたが、地面に下ろされるとルージュを見上げて必死に言った。
「日曜日以来この街はエフゲイアの監視下にあります。女子供を全員人質に取られて、男たちは抵抗のすべを奪われております。我々があまりに大軍であったため、奴らは急遽近くに身を隠したものと思われます。その数はおよそ500…。」
「判った。で、シュワルツはどうした。まさか…。」
 ルージュの頭を最悪の事態がかすめたが、
「隊長は、我々に情報提供してくれた子供を無残にも射殺した監視兵を追っていかれました。私は隊長のご命令通り、司令官に知らせるべく馬を駆っておりましたが、…」
「判った。判ったもういい、喋るな!」
 今にも息絶えそうなゼルをルージュは遮った。スガーリが軍医と看護兵を連れてきた。彼らはゼルを担架に乗せ運んでいった。
 拳を握り立ち尽くすルージュに、第4騎甲師団の第1連隊長が進言した。
「司令官、事態がただの暴動ではなくエフゲイアが絡んでいるとなれば、これは一刻の猶予もなりません。ただちに1中隊を偵察部隊として出動させてはいかがでしょうか。」
 ルージュは振り向き、
「無理だろ。人質どうすんだよ。へたに討って出て皆殺しにされたら、取り返しがつかねぇだろが。」
「しかしエフゲイアの軍に猶予を与えては、これから先どれほどのことが…!」
 ぎゅっと唇を噛んだルージュに、
「それは我らにおまかせ下さらぬか。」
 言ったのは北方警備隊長、ガルーデルであった。
「恐れながら我々の隊は、この土地を知りつくしております。都からおいでの皆様よりも、また敵の軍よりも。人質救出についてはどうか、我々に全任賜りますよう、司令。」
「よし。」
 ルージュは即答した。
「人質の発見および救出に関する全権を、警備隊長に一任する。」
「御意、司令官。」
 ガルーデルはルージュに敬礼すると、
「北方警備隊全員に告ぐ! 緊急出動準備! 急げ!」
 命じつつその場を離れていった。
「では司令官、我々もただちに出撃準備を。」
 ようやく出番だという面持ちで第1連隊長は言ったが、
「あとの者は準戦闘態勢のまま待機。人質の保護ができ次第、全軍出撃する。」
 ルージュのその答えに連隊長は、
「お言葉を返すようですが司令、それでは余りに悠長! 先ほどのゼルの報告では敵兵はわずか500。我々だけで今ここに4000おります。力の差は歴然、一気に周囲に散ればたちどころに…!」
「うるせぇ!」
 ルージュは怒鳴った。
「つべこべ言うんじゃねぇ! 命令だ、待機してろ!」
 言い捨てて彼はテントに入っていった。
 憮然としている第1連隊長にスガーリは言った。
「司令官の命令が聞こえなかったか。人質が救出されるまで待機だ。」
「しかし…!」
「黙れ!」
 スガーリは一喝した。
「戦場において司令官命令に背いたものはただちに絞殺刑だ。忘れるな!」
 2人の男は一瞬睨みあったが、第1連隊長はすぐに背を向け歩き去っていった。ルージュのテントをスガーリは見た。ルージュが悩んでいるのは彼にはよく判ったが、これは司令官としての試練、手をかしてはいけないことだった。
 テントに入るとルージュは、腹立ちまぎれにそのあたりの椅子を蹴倒したが、じきにそれどころではないと気づいて、ガサガサと地図を広げた。
(どこだ。人質、それにエフゲイアの本隊。隠れるとしたらどこだ。あのガルーデルの爺ぃ、本当に人質発見できんだろうな。)
 地図のあちこちに苛々と目をさまよわせるものの、頭の中が膨張したようになって、ルージュには何の考えも浮かばなかった。グシャリ、と彼は地図を握りしめた。
(こんな時ロゼがいてくれたら…!)
 丸めた地図でルージュはバシッとテーブルを叩いた。
 テーブルに両手をつきうなだれたルージュの耳に、ふと、いつかロゼの言っていた言葉が甦った。
『何か問題につきあたったら、どうすればいいかばかり考えるんじゃなくて、一体それはなぜなのかを考えてみるといいよ。一見後ろに戻ってるみたいな気がするけどね。遠回りでも正しい道が見えてくるから。』
 ルージュは顔を上げつぶやいた。
「なぜ…。そういえばエフゲイアは、なんで人質なんかとったんだ?」
 彼は考えをめぐらせた。
 人質を取るということは、相手に何かを強制したいからである。では何を強制したいのか。食料なら強奪すればいい。捕虜にしたいなら連れ去ればいい。わざわざ大きな危険を侵してまで、エフゲイアはこの地で何かをしたがっている。しかもおそらくは町の男たちを使って。丸めてしまった地図をルージュは再び広げた。
(この街の人間たちは、普段何をして生活してんだ?)
 丁寧に皺を伸ばし土地の様子を見ると、
(広場、教会、あとは畑と荒れ地…。そうか土地がやせてるってさっき町長が言ってたな。じゃあロクな作物はとれねぇだろ。他に生活を支える手段は…)
 ハッ、とルージュは目をとめた。街はずれにあるこの広い敷地は、
「武器工場か…!!」
 ルージュは天を仰いだ。すべての辻褄がこれで合った。戦さには大量の武器が必要だが、武器庫を襲って武器を奪ったのではエフゲイアの仕業とすぐに判ってしまう。そこで彼らは暴動を装って女子供を人質に取り、町の男たちを強制労働させ武器を作らせるつもりだったに違いない。
「スガーリ!!」
 ルージュは大声で呼んだ。すぐに彼はやってきた。
「奴らの狙いは武器だ。それもこの武器工場!」
 ルージュは拳で地図を叩いた。そうかという顔をしたスガーリに彼は続けた。
「いや、多分ここだけじゃねぇぞ。この辺りには武器工場が多いんだろ? 近場の町全部、エフゲイアは同じ手で押さえるつもりかも知んねぇな。」
 先ほどまでの淀んだ霧が、ルージュの中で嘘のように晴れていた。力のこもった目を彼は地図上に走らせ、
「例えばこの町だ。ルチア。隣のペルド。もっと北へいって、ザーラ、ゴドック、バリーシュ、マンフレッド。」
 ルージュの手がぴたりと止まったことにスガーリは珍しく気づかなかった。彼は興奮気味に、
「確かに…。ご慧眼でございます司令官! ただちにこれらの町々に偵察部隊を向かわせます。人質救出の報が入り次第、全軍を出動させましょう。」
「…ああ。頼む。」
「御意!」
 スガーリは出ていった。ルージュは地図を凝視したままでいた。マンフレッド。その地名が思い出させるのは、クリスマスの晩のヒロの言葉だった。
『実はおいら、ここに来る前はそこで働いてたんだ。』
『そのすぐそばで暴動だなんて、もしもみんなに何かあったら…。』
「大丈夫だ。」
 ルージュは低く言った。
「安心しろ、ヒロ。お前の故郷には、何があってもこの俺が指1本触れさせねぇから。」
 
 その頃、ラルクハーレン男爵家では、マスミーナがヴェエルを探して城の中を歩き回っていた。夕食の時間が近くなると、彼はいつも厨房にやって来てはまだかまだかと催促するのに、今日に限って姿が見えない。どうしたことかとマスミーナはひどく心配になったのであった。
 室内を探し終え、彼女は庭に出てみた。西の地平近くは透き通るようなオレンジ色の空で、その光の帯を追いつめるが如く、濃紺の闇が迫っていた。風の冷たさに思わず首をすくめたマスミーナの耳に、トントンと金槌の音が聞こえてきた。庭の隅の小屋かららしい。彼女はそちらに向かった。
 小屋の中は3本の百目蝋燭にあかあかと照らされていて、マスミーナはすぐにヴェエルの姿を見つけることができた。彼の前には1台の大型荷車があった。声をかけようとした彼女がふと黙ったのは、額に汗を浮かべたヴェエルの横顔の真剣さゆえであった。しかし視線に気づいたか、唐突にヴェエルは振り向いた。戸口に立っているのが誰かを知ると、
「改良してんだ。もっとさ、軽くなんないかなと思って。」
 前置きもなく彼は説明を始めた。
「こないだルージュんとこに兵糧運ぶんで荷車使ったんだけど、頑丈なのはいいけどどうも重すぎんだよなー。いっぱい積むんだからその分こいつが軽ければさ、引く馬も人間もそんだけ楽だろ? でも車輪は大きい方がスピードが出せる。だから土台の部分を違う木にしてみた、これがその試作品第1号よ。あした親父に見せて、んでもっといろいろ改良すんの。」
 ポンポンとヴェエルは車輪を叩いた。が、
「おいおいなにぃ。何泣いてんのよマスミっちぃ。これって別に見るものの心を悲しくさせる作品じゃないだろぉ!?」
 笑いながらもうろたえを含んだその口調に、マスミーナは慌ててエプロンで涙をぬぐった。
「いいえ、あの腕白小僧だったヴェエル様が…お城中の時計を分解して父上に叱られていらっしゃったヴェエル様が、いつの間にこんなに立派になられたのかと思うと…!」
「立派って、ただ荷車作っただけじゃんよぉ! プラモデル作んのと変わんねってぇ!」
「いえこの時代にまだプラスチックはございませんヴェエル様。」
「あ、そっか。」
「ともあれ私は感無量でございます。父上の後を継がれるにふさわしい立派なお方にお育ちに…」
 そこまで言ってマスミーナはぶはっ!と息を吐いた。削ったあとの木くずを一掴み、ヴェエルに投げつけられたからだった。彼の笑い声が遠ざかりながら言った。
「ハラ減ったぁ! めしメシ飯〜!」
 
 一睡もせずに朝を迎えたルージュの元へ朗報が届いたのは、もう日も高く昇った頃であった。砂煙を蹴たてて疾走してきた早馬は、ガルーデルからの使者だった。
「本日早朝ザーラの森にてエフゲイアと思われる小隊を発見、続いて人質たちの捕らわれていた小屋を発見いたしました。ただちに奇襲攻撃をかけ敵を討ち滅ぼし、残る人質は全員救出致しました!!」
「やったか!」
 ルージュは立ち上がり、スガーリに命じて即、隊長たちを集めさせた。そこへ続々と偵察兵たちも駆け戻り、
「申し上げます! ルチアの町にエフゲイア兵を発見、その数およそ300!」
「ペルドの林の中に200人ほどのエフゲイアの1隊が潜んでおります!」
「ゴドック村にて村民たちとエフゲイア軍がにらみ合いになっております。もう猶予はなりません、ただちに出動を!」
「…よし。」
 ルージュは大きくうなずいた。
 すると、その時であった。
「おーい!! おーい!」
 遠くから男の声がして、蹄の音とともに陣に駆け込んできたのは、
「シュワルツ!」
「悪い、遅くなったな司令官!」
 ひらりと馬を下りる彼に、
「馬鹿野郎! 何してやがった今まで!」
 思わずルージュは怒鳴った。
「面目ねぇ! 夕べ一晩じゅう道に迷っちまってよ。暗ぇは寒いはで凍死すっかと思ったぜ。いやそんなこたどうでもいい。この町にいんのはエフゲイアなんだよ司令!」
 唾を飛ばして話すシュワルツにルージュは、そんなことはとっくに判っていると言おうとしたが、
「この先の荒れ地を抜けてずっと行った先に小さな村があった。それをまた越えると丘陵地帯。そこに奴ら、陣を敷いてやがった! 数にして千はいねぇだろうが、800はいたな。騎馬隊だ。」
「何!?」
 ルージュも隊長たちも気色ばんだ。それは居場所の判らなかったエフゲイアの本隊である。
「よぅし、でかしたぞシュワルツ! タイミング上々、これで一気に攻められる!」
 彼はスガーリに地図を持ってこさせ、それをパシンと叩きながら、
「いいか、全軍一斉に出撃すんぞ。ルチアとペルドは第4騎甲師団、ゴドック村には第3騎甲師団の第2連隊が当たれ。判ったか。」
「御意!」
「それから伝令。お前はすぐガルーデルんとこに戻って、北方警備隊はエフゲイアの奴らの、本国への退路を断てと伝えろ。バリーシュから先へは1歩も入れんな。マンフレッドの手前で奴らの動きを止める。いいな。」
「御意!」
 さらにルージュは指示を続けた。
「そして、エフゲイア本隊。こいつらは俺と、第3騎甲師団の第1連隊で叩きつぶす。奴らは人質を取ったことで多分安心してるはずだ。その隙を突く。…シュワルツ!」
「おう!」
「敵の陣は丘陵地帯だつってたな。」
「ああ。ちっぽけな丘だが、あのあたりじゃ一番高いとこに構えてやがる。見晴らしはいいし、騎馬隊にドッと駆け下りて来られたらちょっとした大波だ、侮れねぇぞ。」
 しかしルージュはフンと鼻を鳴らし、
「んじゃ、同じ手使わしてもらうか。兵の数は俺が700、シュワルツが300だ。」
「あぁ?」
 よく判らないといった顔のシュワルツと、他の隊長たちをルージュはゆっくり見回して言った。
「いいか。俺は700の手勢を連れて真正面から敵陣を目指す。これだけの数で行きゃ、まさか囮だとは思わねぇだろ。奴らはぜってー丘を下りてくる。そうやって平地に誘い出したところで、後ろからシュワルツたち300がなだれをうって襲いかかる。これなら奴らもひとたまりもねぇだろ。」
「なるほどな。面白ぇじゃねぇか。なかなかやるな司令。」
 ニヤリと笑ったシュワルツを、
「口がすぎるぞ連隊長。」
 スガーリがたしなめた。それから彼はルージュの方を向き、
「しかし司令官おん自らが囮になられるのはいかがなものでしょうか。本来司令官には、ここ本陣に留まって頂かなくては全体の指揮が…。」
「んじゃ本陣はお前にまかすわ。」
 サラリとルージュは言ってのけ、闘志を漲らせた目で一同に命じた。
「全軍、出動準備! 騎乗して整列しろ!!」
「御意!」
 北方警備隊に先を越され、出動の命令を今か今かと待っていた兵士たちは、まさに水を得た魚の如く、たちまち広場に整列した。戛戛(かつかつ)と蹄を響かせて、ルージュを乗せたシェーラザードは彼らの前に進み出た。シュワルツが、ヴォルフガングが、それぞれの隊の先頭で彼を見守っていた。スラリ、とルージュは剣を抜いた。銀色の刀身に陽光がはね返り、あたかももう1つの太陽がルージュの頭上に宿ったかのようであった。凛と通る声で彼は号令した。
「第3第4騎甲師団、出動する!! 敵はエフゲイア! 全軍、進めっ!」
 隊は四方に散った。ルージュたちは一路エフゲイア本陣を目指した。敵の目的がつかめずにじりじりと過ごした時間は、結果的に貴重な休養を、兵と馬とにとらせていた。ただの1騎も遅れることなく彼らは駆けた。先頭を行く緋色の軍服はルージュ、その左右には、アレスフォルボア家の深紅の大旗を持った2人の信号兵が続いた。
 村をぬけたあたりでルージュは振り向き大声で言った。
「ここでいったん分かれんぞシュワルツ!」
「おお! 骨は拾ってやっから安心しろ!」
「うっせぇ! てめぇこそ首ったま取られて亡霊になんじゃねぇぞ!」
「何つうことを言いやがる…。」
 ぼやきつつシュワルツは笑った。隊は走りながら二手に分かれた。
 シュワルツは馬に鞭を入れ、腕をぐるぐる回して『遅れるな』のサインを背後の兵たちに送った。彼ら300人は丘の向こう側へ、敵の目につかないよう大回りしてたどり着かなければならない。到着が遅れればルージュの作戦は失敗、侯爵家嫡男の首は間違いなく、敵将の手に渡るだろう。
(あのお坊ちゃんを死なせる訳にゃいかねぇ。あいつぁひょっとすると元帥以上の器だぜ。)
 シュワルツは手綱を握る指に力をこめた。
 うねうねとなだらかな隆起が布に寄った皺のように続く丘陵地帯は、夏ならば多分一面の牧草地と思われるが、今は茫漠と枯れ果てた寒々しい荒野であった。あと1つ丘を越せば敵本陣という位置でルージュは隊を止め、シュワルツ隊が丘の向こうへ回り込む時間の調整も兼ねて、1騎の物見を放った。
 真冬の空は皮肉なほどうららかに晴れており、織り目のしっかりした羅紗服はルージュの体をじっとりと汗ばませていた。彼は目を閉じた。どくんどくんと心臓の音がひどく大きく聞こえた。
『戦さには”絶対”はない。』
 鼓動の波の底から、父侯爵の声が聞こえてきた。
『勝敗を決めるのは神でもなければ運命でもない。ただ己れのみだ。驕ってはならん。恐れてはならん。全て一切を自分に賭けろ。信じるのではない、賭けるのだ。』
 ふぅ、とルージュが長い息を吐いた時、
「司令官!」
 物見兵が戻ってきた。ルージュは目をあいた。
「間違いありません、次の丘には蟻塚にたかる蟻の如くエフゲイア兵がひしめいております。そこここに長槍の切っ先が光り、馬どものいななきも聞こえてまいりました。」
「こっちに気づいた様子は?」
「ございません。」
 きっぱりと答えた兵士の言葉にうなずくと、ルージュは馬首を隊の方に向けた。
「よし、陣形を整えろ! 弩(おおゆみ)隊は前に開き装甲兵は左右へ! 錐形(くさびがた)陣形で丘の中腹まで攻めのぼり、敵が討って出ると同時に反転し退却、丘の裾で三日月陣形を取る。シュワルツ隊が敵背後を突くと同時に敵兵を包み込んで一気に撃滅する。いいな!」
「御意!」
「よっしゃ…。」
 ルージュは剣の柄を握った手の中にフッと息をふきかけて、
「行くぞ! 俺に続け遅れんじゃねぇぞ!!」
 短いムチを受けシェーラザードは走り出した。700の兵が閧の声を上げてその後ろに続いた。
「馬鹿、早ぇ!」
 かすかに聞こえる突貫の声にシュワルツは慌てた。丘のふもとで陣を立て直す予定が、これでは間に合わない。
「能力は認めるが、まだまだ経験が足んねぇよあのお坊ちゃんは!」
 手綱をゆるめずにシュワルツは剣を抜き、兵士たちに怒鳴った。
「いいか馬を止めんな! このまま駆け上がって、その勢いで駆け下りる! 雑魚は片っ端から斬り捨てろ! 1人も逃がすんじゃねぇ!!」
「了解!」
「行くぞ! 斬り込め!」
 うわぁぁっ、と声を上げて300の兵も突き進んだ。こちら側の警備はないに等しく、たちまち彼らは頂上に至った。
「司令!」
 開けた視界から下を見下ろし、シュワルツは真っ先にルージュを見つけた。数騎の兵に囲まれて彼は剣を奮っていた。エフゲイアの反撃は多分思ったよりも早く、ふもとで陣形を変えきらぬうちに、追いつかれたに違いない。
「馬鹿野郎、気負いやがって!」
 シュワルツは舌打ちし背後の兵士たちに、
「一気に斬り崩すぞ! 全騎、続けーっ!!」
 腹に響く大声で喝を入れ、転げ落ちんばかりに駆け下りた。
 ルージュの緋色の軍服を敵将たちが見逃すはずはなかった。同じ取るなら指揮官の首、しかも元帥の息子のものなら名を揚げる大きなチャンスである。彼の若さと身の細さを敵は一瞬侮ったが、若鹿に見えた青年が実は若獅子であったことを、思い知らされるのはすぐだった。払っても払っても斬りかかってくる敵兵に、
「ざけんじゃねぇてめぇら!!」
 ルージュは髪を振り乱して叫び、ついに刃を振り立てた。
 1人の敵兵の腕は剣を握ったまま宙に飛び、次の1人は斬られるでもなく馬から蹴落とされた。そこへまた1人が、さらに1人が左右から斬りかかってきた。馬上でルージュは身を屈めた。耳元をかすめた刃が回りきる前に、彼の切っ先が敵の喉を貫いた。抜き取ると血しぶきが空(くう)を舞い、返す刀がもう1人の首を泥人形のように地に転がした。
 ずずっ、と敵が退くのがルージュには判った。返り血を滴らせた彼の美貌は凄絶で、まさに鬼神の名がふさわしかった。
「ンだよどうした! かかってこいよおらぁ!」
 ルージュは怒鳴り突進した。よけることもできずに2人の敵が斬られ、中央にいた1人はかろうじて唾元で彼の突きをかわした。だがそれもつかの間、ルージュは馬体を当てて距離を取るや、気合とともに正面で剣を振り上げた。恐怖にひきつった敵の顔が彼の網膜に焼きついた。その額が2つに割れた時、背後で兵の声がした。
「司令官! シュワルツたちです!」
 ハッ、とルージュは我に返った。
「うぉりゃああ―――!」
 地鳴りと怒声の一かたまりに背後をつかれるとエフゲイアは、あっという間に崩れたった。シュワルツ隊が合流してからものの半時で、敵は完全降伏した。
 嵐の去った戦さ場の真ん中で、ルージュは立ち尽くした。兵士たちは敵に次々と縄を打ち、地で呻いている瀕死の者にはとどめを刺していった。走れる馬は戦利品だが、そうでないものは捨ておかれた。抱え起こされた半死の敵の1人は抵抗したため串刺しにされた。馬上からルージュはそれらを見ていた。無傷の自分が悪魔に思えた。
「おいおい何て顔してんだ。」
 そんな彼の前にシュワルツは、1枚の布を差し出した。
「早く拭かねぇからほら、血がこびりついて化けもんみたいになってるぜ。」
 ルージュは黙ってそれを受け取り、ごしごしと乱暴に顔をぬぐった。
「怪我がなくて何よりだよ。まぁ結果オーライだからいいけどな、あんたの突撃命令、ありゃちょっと早すぎだろ。1歩間違ったら今頃は、あんたのその綺麗な顔を敵将に鑑賞さすとこだったぜ。」
 ずけずけとシュワルツは言ったが、ルージュはそれでも黙っていた。
「連隊長! 捕虜の確保終了いたしました!」
 やがて兵士が知らせに来た。シュワルツは手綱を引いた。
「よっしゃ、ご苦労! 隊伍を整えろ、本陣に帰んぞ!」
 彼は馬を歩ませ始めたが、ルージュが動こうとしないので、
「どしたい。気が抜けちまったか? 戻ろうぜほら。多分あっちこっちから勝利の知らせが集まってんだろ。あんたがいつまでもこんなとこにいてどうすんだよ。」
「…ああ。」
 ようやくルージュは言葉を発し、シェーラザードの脇腹を脚で押した。
 200を優に越える捕虜を連れて帰陣したルージュを待っていたのは、各地からの勝利の報だけではなかった。軍医たちの必死の看護も虚しく、隊の留守中にゼルは息を引き取っていた。スガーリにそのことを聞いたルージュは、シュワルツとともにテントの中に入った。粗末なベッドに横たえられたゼルの体は、すでに死後硬直していた。
「血という血がほとんど流れ出てしまっておりました。」
 軍医は痛ましげに言った。
「ここまで生きて帰ってきただけで、もう奇跡でございます。連隊長のご命令通り、事態を司令官にお伝えしようと、必死で命を保っていたのでございましょう。最後はほとんど苦しまず、眠るように神に召されました。」
「ゼル…。」
 ベッドの脇に歩みよって、シュワルツはボロボロと涙をこぼした。
「よくやってくれた。お前のおかげで、俺たちは勝てたようなもんだぞ? 感謝してる。感謝してるよゼル。」
 物言わぬ冷たい頬を武骨な指で撫で、シュワルツは嗚咽を隠さなかった。普段は勇猛なシュワルツのその姿に看護兵たちも貰い泣きし、あとからやってきたユルゲンは、ゼルの足にうち伏して号泣した。ルージュは光景を見下ろしていた。冷酷と言っていいほどの無表情で、しかし両拳を強く握りしめて。
「失礼致します。」
 そこへやって来たのはスガーリだった。彼は遺体に一礼すると、小声でルージュに言った。
「司令官、処刑の準備を致します。裁きの場は広場中央に設けました。何卒お出ましのほどを。」
「…処刑?」
 眉を寄せて彼は聞き返した。スガーリは淡々と言った。
「はい。敵兵の処刑でございます。礼にかなった宣戦布告の使者もなく、条約を無視して国境を越え、わが国の民に恐怖と苦痛を与えたエフゲイアに対しては、毅然たる意志を示さねばなりません。また敵兵が目の前で処刑されることで民は安堵し、我々軍隊への信頼、ひいては王家、国王陛下への信頼がいよいよ増すのでございます。軍の強固さは国家安泰の礎(いしずえ)。それを証明なさるのが、アレスフォルボア侯爵家のご使命でもございます。」
 さぁ、とスガーリはルージュを促し、入口の帆布をまくった。ぎりっ、とルージュは唇を噛みしめ、一瞬目を閉じて背中を伸ばすと、大股に外へ出た。
 彼らの勝利を聞きつけたか、町民たちはぽつぽつと広場を遠巻きにし始めていた。広場の中央には長槍を持った兵士がずらりと並び、午後の風に翻る大旗の下にルージュの席は用意されていた。彼が座るとスガーリは、兵士及び町民たちに聞こえるよう大声で、裁きの開始を告げた。
 石畳の上に引き出されたのは、生き残ったエフゲイア軍の隊長たちであった。縄打たれた彼ら7人は、兵士たちの手でルージュの前に膝まづかされた。彼らがどんな立場であるかを順に述べたあと、スガーリは滔滔(とうとう)と言った。
「この者たちは自らの兵士に命じて我が国の民たちを迫害せんとし、また幾多の民の生命を奪った。これらの罪は断じて許されるべきではなく、神と、我が軍総司令官殿の名において、ただちに処刑するものとする!」
 兵士と町民たちは、うわぁ――!と怒声とも歓声ともつかぬ雄たけびを上げ、拍手がそれに続いた。ルージュは7人の顔を見た。全てを覚悟しているのか、抵抗しようとする者は1人もいなかった。
 と、中の1人が顔を上げた。ルージュと視線が出会った。まだ若い、ひょっとすると彼と同じくらいの年齢の男だった。美しいすみれ色の瞳には、静かな怒りと諦めと、悲しみの色があった。ルージュは慄然とした。今から彼は殺される。神とアレスフォルボアの名において。思わず腰を浮かせかけたルージュを、
「若君!」
 右腕でスガーリはとどめた。広場には彼らの身長ほどの高さの、太い杭が7本打たれた。スガーリはルージュの腕を強く押さえたままでいた。その体が細かく震えているのを、スガーリの手は感じた。
 ルージュの頭と心の中に、いくつもの声がこだました。ある声はかく告げた。これは戦さだ、負けた者が死ぬのは当たり前のことだ。侯爵家の男は皆この掟の中で生きてきた。俺の親父もその親父も、そのまた親父もそうしてきたのだ。
 別の声が叫んだ。こいつらにも家族がいる。両親が恋人が友人がいる。異国の地でこいつらが死んだら、家族はどんなに嘆くだろう。
 いやそれは味方も同じこと。ゼルは死んだ。こいつらに殺された。彼には生まれたばかりの子供がいた。力弱い妻と子を残して、彼は殺されてしまったのだ。
 こいつらはゼルを殺したくて殺したのではない。敵だから殺した。敵兵は殺せと命じられたから。だとすれば命じたのは誰だ。国王だ。司令官だ。彼らに人殺しをしろと命じたのは―――
―――命じようとしている。今。俺が。敵だから殺せと命じようとしている。殺すなと言えばこいつらは死なない。俺には救える。殺さなくて済む。敵だからといって殺しあうことに、いったいどんな意味があるというのだ。
「早くやっちまえ!!」
 怒声にルージュはハッとした。町民たちの輪は先ほどよりもぐっと内側にせばまっていた。人数も驚くほどに増え、彼らは目をつり上げて敵兵たちを罵っていた。
 7人は上半身の衣服を引き裂かれ、ぐるぐると杭に縛りつけられていた。槍を持った兵士たちが杭の左右に1人ずつ立ち、敵の喉と胸に刃を押し当てルージュの命令を待っていた。
「司令官。」
 スガーリが低く言った。
「何を恐れておいでです。司令官の迷いを兵士に見せてはなりません。ご命令を! これは、定められた国の掟でございます!」
 ルージュはごくりと唾を飲んだ。自分に額を叩き割られた敵兵の顔が、わっと脳裏に大映しになった。生暖かい血の匂いと骨の砕ける振動。あれは悪魔だ、あの時俺は悪魔だった。
『神ともにいませば行く道を守り…』
 神などいない。殺したのは俺だ。俺はここにいる7人だけじゃなく、敵味方無数の人間の2つとない命を、この手で、この声で、この心で奪ったのだ………
「―――突けえっ!!」
 ルージュは叫んだ。同時に胸のうちで何かが砕ける音がした。刃が7人の体に埋もれた。血しぶきが視界を覆いつくした。
 
 テントの中で、ルージュは1人テーブルにうち伏していた。あたりがしんと静かなのは、そっとしておくようスガーリが兵士たちに命じたからであった。
 処刑された7人の遺骸の処理は町民たちに任された。おそらく当分はあのままさらしものにされ、カラスたちの恰好の餌食になるだろう。捕虜となった一般兵士たちは今こで殺しはしないが、例にならって北方警備隊の管理下におかれ、本国には戻れず強制労働に就かされて、いずれ多くの者が命を落とすことに変わりはなかった。
 亜麻色の髪をテーブルに散らして、ルージュは死んだように動かなかったが、その唇がぶつぶつとつぶやいていたのは、子供の頃神父に教わった祈りの言葉だった。
「神の愛はとこしえにて常に我が上にあり…。神の愛はとこしえにて常に我が上にあり…。神の愛はとこしえにて…。とこしえにて、常に、我が上になど……」
「御免よ。」
 バサリと入口の帆布がまくれてシュワルツの声がした。スガーリの制止を無視し、彼はここへやってきたのだった。ルージュはつぶやくのを止めた。
「ゼルのことなんだけどな。」
 いつも通りの口調でシュワルツは言った。それは彼なりのルージュへの思いやりでもあった。
「この戦さで死んだのは奴だけじゃねぇが、でもあいつの働きは立派だったろ。即死しても不思議はねぇ傷を負いながら、あんたに知らせようと戻って来たんだ。そこんとこを汲んであいつに、特別功労賞を出してやっちゃくんねぇかな。そうすりゃ残された女房子供も、ちったぁ救われんだろ。」
 ルージュはゆっくり体を起こした。憔悴した顔に一筋の髪がぱらりと乱れかかって、これは女から見たらたまらん風情だろうなと、シュワルツは妙なところで納得した。
「判った。」
 ルージュはうなずき、テントの隅の衣装箱を目で示した。
「功労賞の勲章は今ここに1個持ってきてっけど、都に着いてからにすっか? それともすぐに着けてやるか…どっちでもいい、お前にまかす。」
「え、ここにあんのか。」
 意外そうに言ったシュワルツは、続いて何かを考える顔になり、
「…だったらよ。もう1つ頼みがあるんだ。」
「ンだよ一遍に言えよ。」
 ルージュはだるそうに髪をかきあげた。珍しく上目づかいにシュワルツは言った。
「ちょっと一緒に来てくんねぇか。弔ってやりてぇ奴がいるんだ。」
 
 昼間はあれほど晴れていた空は、暮れ出すとともに急速に雲におおわれ、冷たい風が吹き始めた。けれども人質となっていた女子供が無事家に帰ったので、町なかには久しぶりに灯りと人影が戻っていた。
「お、そこだそこだ。」
 酒場の主人に書かせた地図を手にシュワルツは言った。馬2頭が通るには狭いほどの路地の奥に、しきりに人が出入りしている家があった。
「ああ、もう葬式やってんだな…。」
 家の前で2人は馬を下り、ルージュはマントをはずした。中から女たちの泣き声が聞こえる、そこはフリッツの家であった。
 シュワルツはドアをノックした。顔を出したのは穏やかそうな初老の男だった。軍服姿の2人を見て彼は急いで扉を開けた。
「邪魔すんぞ。」
 シュワルツは中に入った。ルージュも続いた。天井がつかえそうな狭い部屋の壁ぎわに急ごしらえの祭壇があり、白と青の花に包まれて、天使のようなフリッツの遺体が横たわっていた。台にすがって号泣している中年の女はおそらく母親、その足元に座り込んで泣きじゃくっている2人の小さな女の子は、フリッツの妹たちであろう。
「あの、あなた様がたは…。」
 いぶかしげに男は尋ねた。実は、とシュワルツは、フリッツの死んだ時の様子を男に説明し始めた。道すがらいきさつを聞かされていたルージュは、黙って母親の背中を見つめていた。
「そうでしたか。あの子の亡骸に軍服がかかっていたので不思議に思っておりました。それでわざわざおいで頂いたとは、ありがたいことでございます。」
 泣いている母親の兄でフリッツの伯父だというその男は、丁寧にシュワルツに礼をした。シュワルツも深く頭を下げ、
「今回の我々の勝利は、いわばフリッツ君がもたらしてくれたと言えます。そこで我が軍の司令官から、特に勇敢な兵士だけに贈られる特別功労賞をフリッツ君にと…。」
「おお、それは何と光栄な。これでフリッツも、またフリッツの父も浮かばれることでございましょう。」
 男は涙をぬぐった。ルージュは、手にした天鵞絨(びろうど)の小箱から純金にルビーを嵌めこんだ勲章を取り出し、
「失礼。」
 男に一礼して低い祭壇に歩みより、フリッツの胸にそれを置こうと腕を伸ばした。
 だが、その時だった。
「触らないどくれ!!」
 悪鬼の形相になった母親がフリッツに覆いかぶさった。驚いて手を止めたルージュに女は罵声を浴びせた。
「何しに来たんだよ! あんたたちのせいでこの子は死んだんだ。あんたたちに殺されたんだ!! 顔も見たくないよとっとと帰っとくれ!」
「馬鹿、何を言うか!」
 青くなって男は止めた。
「間違うんじゃない。フリッツを殺したのは敵の軍隊だ。この方たちはそいつらを追い払って下さって、フリッツをお褒め下さろうというんだよ!」
 がくがくと肩を揺すられながら、女は激しく首を振った。
「違う違うこいつらのせいだ! 兵隊なんてみんなおんなじだよ! 軍隊が勝手に戦争なんかするからこの子は殺されちまったんじゃないか! 返しとくれ! あたしの子供を返しとくれよ! 汚らわしいこの人殺しども!!」
 ビクッ、と雷に打たれたようにルージュの肩が跳ねた。女は彼を睨みつけ、
「こんなもん誰がいるか! 持って帰れ畜生!」
 彼の手から奪いとった勲章をそのままルージュに投げつけた。ビシッと彼の額に当たり勲章は床に転がった。
「やめんかこの馬鹿!」
 男は彼女を突き飛ばし、ルージュの前に土下座した。
「ご無礼をお許し下さい! 妹は息子と亭主を同時に失ったショックで精神を病んでおります。愚かな女の哀れな嘆きとおぼしめして、どうかご勘弁を…!」
「…もういい。」
 短くルージュは言った。男は勲章を拾い上げてそれを拝む仕草をし、
「ありがたき幸せにございます司令官様! フリッツも喜んでおりましょう…!」
 必死で場を取り繕った。ルージュはきびすを返した。呆然としていたシュワルツは慌てて後を追った。
「司令官! 待てっておい!」
 町はずれで彼の馬はルージュに追いついた。シェーラザードの歩みが遅くなった。シュワルツは苦笑した。
「悪かったな。あんな母親だとは思わなかったからよ。まぁ気持ちは判らんでもないが、あんたに八つ当たったってなぁ、しょうがね―――」
 そこで彼は笑いを消した。雲間から覗いた月に照らされて、光るものがはふり落ちるのが見えたからだった。
「司令…。」
 シュワルツは絶句した。ルージュの頬は濡れていた。
 シュワルツはうろたえた。ルージュの涙を見るのは初めてであった。新しい司令官として赴任して来た時、兵士たちにあれだけ暴行されても悲鳴ひとつ上げなかったこの男が、肩をふるわせ声を噛み殺して、とめどなく涙を流していた。
 なすすべもなく見つめるシュワルツのあまりの沈黙の長さに、
「ンだよ…。」
 ルージュの方が先に言い、
「痛ぇ…。」
 手の甲を額に押し当てた。シュワルツはハッとした。重い金の勲章がぶつかったところから少し血が流れていた。
「ああ、…そりゃ、うんうんそこは痛ぇよな。」
 彼は腰の袋から薬を出そうとしたが、
「いい。走るぞ。先に行く!」
 ルージュはシェーラザードに鞭を入れ、あっという間に駆け去ってしまった。
 白く大きな溜息をついて、シュワルツは独り空を見た。雲の波間に溺れかけた月が、懸命に顔を覗けようとしていた。
 静かに、だが力強く、シュワルツはこの時決意した。俺の命と魂は、あの司令官に預けてやる。俺より先に死なせはしない。命の重さとはかなさを知り、力を持つことの恐ろしさを肌と心で感じ取れる男。俺はああいう男に会いたかった。だから小つまらない貴族野郎を、今まで何人も叩き出してきた。レオンハルト・メルベイエ・フォン・アレスフォルボア。俺が認めるただ1人の主君。
 シュワルツは鞭を奮った。馬はいななき、走り始めた。
 
 翌朝ルージュたちは陣を引き払い、凱旋の途についた。町はずれまでは町民たちが見送ってくれた。手を振る者、声援を送る者に、兵士たちもそうした。皆が笑顔だったが、ただ1人ルージュだけはニコリともしなかった。
「浮かぬお顔ですな。」
 心配になったか、スガーリがさりげなく馬を近づけてきた。
「お疲れとは存じますが、もっと誇らかになさいませ。沿道の民たちが皆司令官をお見上げ申します。そのような暗いお顔をなすっていたのでは…」
「ヤコブはどうした。」
 遮って彼は聞いた。スガーリは答えた。
「は、ご報告が遅れまして申し訳ございません。夕べのうちに戒めを解き、兵士をつけて家まで送らせました。」
「そうか。」
 さらにスガーリは説明した。ヤコブは数年前に家族を連れてこの町へ移り住んできた男で、古くからの町民たちに遠慮をしつつ、細々と畑仕事をして生活していた。エフゲイアは町を占領したものの、都からやってきたルージュたち正規軍の数に驚き、一刻も早く彼らを追い返せ、さもないと人質を皆殺しにすると町民たちを脅した。町民たちは知恵を絞り、暴動の偽の主犯を仕立て上げようと考えた。そして一方的に選ばれたのが“よそ者”のヤコブだったのだ。女房と娘は町ぐるみで面倒を見てやるという条件を飲んで、彼はその役を承知したのであった。
「全く、馬鹿な芝居を打ってくれたものです。いくら人質を取られたからとはいえ、一言我々に耳うちすれば、もう少し早く解決いたしましたものを。」
 苦笑するスガーリにルージュは言った。
「貴族も軍隊も、それだけ信用されてねぇってことだろ。彼らにしてみりゃ軍隊なんて、迷惑なだけかも知んねぇな。」
「何をおっしゃいます。」
 即座にスガーリは否定した。
「先程までの彼らの歓送ぶりをお忘れですか。老いも若きも満面の笑みで、我々に手を振っておりました。彼らは十分に感謝しております。我々と、それから司令官に。」
「…。」
 黙ってしまったルージュに、スガーリは微笑んで言った。
「このたびの戦さで若君は、さまざまなものをご覧になり、いろいろなことをお知りになられました。お辛い点もおありでしたでしょうが、ご立派でしたぞ。」
 ちらりとルージュは彼を見た。スガーリはゆっくりとうなずいたが、
「俺が判ったことはたった1つだ。」
 独白めいてルージュは言った。
「アレスフォルボアの旗。これは血の色だったんだな。」
 今度はスガーリが黙った。ルージュはシェーラザードに鞭を当て、スガーリを置いて走り出した。
 
 都に戻る街道を進むルージュたちは、そこここで民衆からの歓呼と熱い声援を受けたが、そのあまりの盛大さにやがてルージュはピンときた。これはロゼの“仕掛け”であろう。スガーリは本陣からロゼにあてて戦況を逐一報告しており、勝利の報も真っ先に彼に早馬で知らせていた。ロゼは兵士や部下たちに命じて、都だけでなく沿道の町や村にも、ルージュの勝利を触れ回らせたに違いない。風評は時に幾万の軍隊に優る。人心を鼓舞するための、ロゼの周到なる策であった。
 民衆の熱気は都が近づくにつれてさらにさらに高まっていった。彼らの中に知った顔を見つけて駆けよる兵士などもいたが、隊列を少々乱そうと、凱旋の場合は許される。都を取りまく長大な城壁(ヴェエルが指揮して工事したもの)が見えてきたあたりからは、危ないから下がれと怒鳴る兵士の声さえかき消されるほどの、万歳の声がルージュたちを押し包んだ。馬たちがたてる土埃にまみれながら、隊のすぐ横を走る子供たちもいた。ルージュはそれでも笑わなかった。大旗を掲げた兵士を左右に従えて、彼は先頭を歩んでいた。
 隊は城壁をくぐった。わああーっと大歓声が上がった。万歳、万歳の渦の中にひとつ、
「ル――ジュ――っ!」
 馬鹿でかいヴェエルの声が響いた。ハッとしてルージュはそちらを見た。馬上で手をふるヴェエルがいた。手綱を引いて駆け寄るルージュの口元には、自然と微笑みがひろがっていた。エフゲイアの陣に斬り込んで以来、初めて戻った笑顔であった。ヴェエルの後ろではジョーヌがニコニコ笑っていて、その脇にはロゼもいた。よぉ、と片手を上げようとしたルージュの前にその時、ロゼの背後にいた白い馬がカカッと走り出てきた。操っているのは薔薇色のドレスの姫君…と思いきや、
「お帰りぃ、ルージュぅ!!」
 両腕をガバと彼の首に巻きつけて言った声は、ハスキーな男のものだった。
「おま、まさか、ヒロ!?」
 ルージュは驚き名を呼んだが、抱きつかれた勢いでグラリとバランスを崩した。ロゼたちは慌てて2人を支えた。それでもヒロは腕をほどかず、
「無事でよかったなぁ! 心配してたんだぜぇ?おいら。ルージュぅ。お帰りぃルージュ!」
 言いながら体を左右に揺すって、語尾をかすかにうるませた。
「判った判った、判ったから離れろ。苦しいっつぅにおいっ!」
 ルージュは笑いながらヒロを引き離した。大きな目でヒロは一瞬ルージュをじっと見つめたが、
「いやさぁ、今おいら病人だべ? 変装しなきゃ外に出らんねぇのよ。そしたらウチの奴らがよ、揃ってバカばっかだからよぉ。こんならぜってーバレねぇつって、化粧までされちったよほら。」
 ロゼはクスクスと思い出し笑いをし、
「大変だったよね、盛り上がっちゃってね。ドレス選ぶだけで一悶着。またこのかつらがよく似合うから…。」
「んでも綺麗だべおいら。な、な、な!」
 ヒロは芝居がかったポーズを作ってコミカルにまばたきをしてみせた。ルージュは苦笑していたがジョーヌは、
「確かに綺麗だよねヒロは。今日最初に会った時、俺、まさかロゼが婚約者でも連れて来たのかと思ったもん。」
「まぁ確かにね。」
 名うての面食いとして知られるロゼは大きくうなずき、
「これでもし本物の女の子だったら、すぐにでもジュペール伯爵夫人にしてあげるんだけどね。」
 それを聞いてヴェエルは吹き出した。
「してあげるって、ロゼってなんでそんなに俺様なんだよぉ!」
「ほんとだよ。やめろよ気持ち悪ぃな。」
 ヒロは大袈裟に顔をしかめた。4人は声を揃えて笑った。その様子を見ていたスガーリも、ようやく安堵の笑みを見せた。
 
 ルージュはそのまま王宮に参じ、国王に戦果を報告した。スガーリは侯爵の元を訪れ、戦さのことやルージュのことを、細かく彼に述べた。
「ご苦労だった、スガーリ。」
 聞き終わると侯爵は、深いいたわりの目で言った。
「レオンの至らぬ点を、お前は十分に補佐してくれた。元帥としてではなくレオンの父親として、心から感謝する。」
「もったいのうございます閣下。」
 スガーリは深く頭を下げた。
「私が思っておりました通り、戦さに対して若君は天賦の才をお持ちでいらっしゃいます。が同時に今回のことで、生死の葛藤や敵味方の矛盾をも強くお感じになったご様子。お若いお身に、いささか傷ましくもございましたが―――」
「それでいい。」
 重い声で侯爵は言った。
「我が嫡男として避けては通れぬ、また避けてはならん道だ。迷い、嘆き、苦しむことなくして人の上に立ってはいかん。この先もレオンは血の涙を流しながら、戦場を駆けることになろう。」
「は…。」
「哀れだが、それがあいつの定めだ。この侯爵家に生まれてしまったからにはな。」
 壁に掛けられた緋色の旗を侯爵は見た。ルージュが言った通り、それはまさに血の色であった。強大なる武力と権力と、天を背負うばかりの責務。全てがルージュに委ねられる日は、実はもう目の前まで迫っていた。
 

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