『五重奏曲(クインテット)』
〜第2部〜

【 第3楽章 主題1 】

 人目を避けるためヒロは直接公爵家へは帰らず、ジョーヌ、ヴェエルとともにいったん伯爵家を訪れた。出迎えたヒナツェリアがそこで見たものは、
「さ、姫君。お足元にお気をつけ下さい。」
 フランス人形のような美少女に恭しく手を差しのべて、馬から下ろしてやっているロゼの姿であった。信じられない光景に卒倒しかけた彼女は、
「よーぉ、ひなっつぅ! わり、今日も手ぶらだわおいら。ごめん、また今度何か持ってきてやっかんな。」
 地に足がつくなりスカートをたくし上げたヒロの声を聞いて目を丸くした。ロゼはおかしくてたまらないらしく、口元に拳を当てて笑いをかみころしていたが、
「客間にお茶と…何か軽いものを用意して。寒いから暖まるものがいいな。」
 そう命じて3人と一緒に奥へ入っていった。
「でもルージュ、ほんっとカッコよかったね。」
 ソファーに身をはずませてヴェエルは言った。隣に腰を下ろしながらジョーヌも同意した。
「そうだね。体つきもさぁ、なんか1回り大きくなった感じしない?」
「うんうん、“男”になったっていうかね。戦さに行って、敵に勝ってさぁ、そいで凱旋してきたんだもんね。かっけー。この国の守護神だよね。」
 ヴェエルたちの会話を聞きつつヒロは、重たいかつらをズルリと脱いで膝に置き、ポリポリと頭を掻いた。やがて焼きたてのマフィンとお茶と運んできたヒナツェリアが下がると、ヒロはぽつりと言った。
「ルージュ、変わった…。」
「え?」
 聞き返したのはロゼだった。ヒロはうつむいたまま、
「何かあいつ、すっげ悲しそうだった。顔は笑ってんだけど、行く前とはどっか違う。何つーか、うまく言えねぇんだけどさ…。」
 ロゼはカップを置いた。都に足を踏み入れた瞬間のルージュを見て、ロゼも同じことを感じていたのだ。大貴族の気品と自由闊達な放埒さを身に備え、自信に満ちあふれた輝きを燦然と放っていたルージュに、命の向こう側を見てしまった悲しみは、しんとした鋼(はがね)の強さを与えていた。わずか数日のうちにルージュの心は、少年の衣(ころも)を脱ぎ捨てていた。そしてヒロはそのことを、鋭く感じ取ったのであった。
 
 城に帰ってからもヒロは、ずっとルージュのことを考えていた。変装用のドレスを脱いで部屋着に着替える間も、夕食までのひとときを書斎で過ごす時間も、食事中も入浴中もベッドに入った後も、かつてない深みを増したルージュの瞳が、ヒロの脳裏を去らなかった。
 翌日になってもその思いは同じだった。すっかり定位置となった書斎の机で本をひろげ、読むだけでは整理できない内容を紙に書き写しつつ、ヒロは時おり頬杖をついては窓の外を眺め、ペンに付いた白い羽根を幾度も溜息で揺らした。
 午後になるとヒロは、いささか疲れた目と右手と頭を休めるべく、中庭に面したサンルームに入った。ガラス張りの室内は太陽の熱をたっぷりと吸い込んで暖かく、昼間は上着なしでもいられるほどだった。長椅子の上に両足を伸ばし、背もたれに肘をかけてヒロがぼんやりしていると、
「こちらにおいででしたか若様。」
 アマモーラがためらいがちに声をかけてきた。ヒロは視界の隅で彼女を認めたが、何も言わずにそのままの姿勢でいた。
「昨日お帰りになってからずっと、沈んだご様子でいらっしゃいますね。何か気がかりなことがおありになるのではございませんか?」
 尋ねられてもやはりヒロは無言だった。その横顔をアマモーラは見つめた。軽く眉を寄せ何か思いつめた様子の彼は、地を覆う悲しみに胸を痛めている大天使さながらに見えた。
 何も聞くまい、と彼女は思い一礼して立ち去ろうとしたが、
「…アマモーラ。」
 その背中に投げられたのは、珍しく真剣に自分の名を呼ぶヒロの声だった。はい、と振り返って彼女はドキリとした。ヒロの表情は穏やかだったが、穏やかさの底に何か、悲愴に張りつめたものがあったのだ。彼はアマモーラを正面で見て言った。
「おいらが…この先国王になったとしても、お前はずっと、おいらの教育係なのか?」
 彼の目をアマモーラも見た。ヒロが真に何を言いたいのか、彼女は咄嗟には判らなかった。
「…もちろんでございます、若様。」
 しかしアマモーラはそう答え、さらに言葉を足した。
「但しそれは若様が、お望みになるならでございます。わたくしは公爵家の侍従。王家にお仕えする立場ではございませぬ。けれどももし若様が、わたくしにそうあれとお命じになりますならば、たとえ神と王家に背く結果になりましょうとも、地の果てまでお供する覚悟にございます。」
 アマモーラは深く腰を屈めた。自然とそうさせるものを、今のヒロは持っていた。ヒロもまた普段なら、彼女のこんな台詞を大袈裟だの背中が痒くなるのと茶化しにかかるところだろうが、
「そっか。」
 大人びた表情で静かに微笑むと、すっ、と体を起こして言った。
「父上は今どちらに?」
「は…」
 アマモーラは記憶をたぐり、
「確か本日はお出かけのご予定はおありになりませんので、奥方様とご一緒に、お部屋にいらっしゃるのではないかと。」
「うん。」
 ヒロはうなずき、命じた。
「父上と母上にお話ししたいことがある。今からヒロがそちらに伺うと、そう申し上げてくれ。いいな。」
「かしこまりました。」
 下がりながらアマモーラは考えた。いったいどんな話を、ヒロは両親にしようというのだろう。立ち昇りかけた不安を押さえ、彼女は胸の内につぶやいた。
(たとえ何をご決心なさろうと、若様のお心が私の意志。ためらうことなど何もないのだわ。どうかお心のままになさいませ。私はどこまでもお供致します。)
 
 ヒロは衣服を改めて、両親の居間に向かった。腰には侯爵に選んでもらった剣を下げ、胸にはスターサファイアのブローチをつけた。略式ではあるが、嫡男としての礼に叶った衣装だった。ノックしたドアは女官によって開かれた。片足を引き左手を胸に当てて礼をするヒロを、両親はこぼれんばかりの微笑みで迎えた。
「どうした、そんなに改まって。それでは私たちまで緊張しそうになるではないか。なぁフランソワーズ。大人になったなこの子も。」
 父公爵は笑ったが、母は不安の面持ちになり、
「どうしたのですヒロ。格式ばったことがあんなに嫌いだったあなたが、なぜ突然そのような…。」
「お人払いをお願い致します、父上。」
 最初にヒロはそう言った。公爵は微笑みを消し、夫人と顔を見合わせたが、
「下がれ。」
 すぐに女官たちに命じた。彼女たちは音もなく部屋を出ていった。
「まぁ座りなさい。ゆっくりと話を聞こう。」
「はい。」
 一礼してヒロは、両親の向かいの椅子に腰を下ろした。2人の視線が自分に注がれた。
「実は、王宮に上がろうと思うんです。」
 いきなり結論を言ったヒロに、夫人は驚きを隠せなかったが、公爵は静かに彼を見たまま尋ねた。
「どうしてそう思うのだ。急にか。それとも以前から考えていたのか?」
 ヒロは少し考え、
「そうしようと思ったのはさっきです。でも、いつまでもこうしてはいられないだろうと、それは前から思っていました。」
「うむ。」
 公爵は腕を組んだ。ヒロは一言ずつ区切るようにして語り始めた。
「昨日、ルージュが戦さから帰って来ました。みんなは大歓迎してたけど、あいつはちっとも嬉そうじゃなかった。何か、すごくつらいことが…多分、それは戦場で人を殺したことが、ルージュの気持ちに重たくのしかかってるんだと思うんです。まるで恐ろしい悪魔みたいに。2度と消えない、傷口となって…。」
 その傷を自分も受けたかのように、ヒロは顔をしかめた。言葉ない両親に、彼はさらに続けた。
「あいつがそんな思いしてるのに、おいらが…いえ、私が、のんびりとみんなに守られて、病人のふりしてちゃいけないと思うんです。父上や母上が心配して下さるのは、それはとてもよく判ります。ありがたいと思っています。でも、ルージュが、それにロゼやジョーヌやヴェエルたちが、この国を守るために必死になってるのに、おいらだけこんな、ボーッとしてちゃいけない。国王陛下について政(まつりごと)の勉強をして、この国はこれからどうすればいいのか、考えなきゃいけないんだと思います。それが…おいらの、いえ私の、やるべきことなんじゃないのか。ルージュを見てて、そう思ったんです。」
「判った。」
 浅い溜息をついたあとで、父公爵はそう答えた。夫人はうろたえ、
「そんな、あなた、それではこの子の身が…。」
 すがりつかんばかりに言ったが、公爵は片手で妻をなだめ、ヒロの方に向き直って言った。
「お前がよく考えた上でそうしたいと言うのなら、私たちに止めることはできない。私たちの息子である前に、お前はもう王太子なのだ。やがてはこの国を背負い導く、国家の主(あるじ)になる身なのだからな。」
「はい。」
 小さくはっきりと、ヒロはうなずいた。遠くを見つめている4人の真剣な顔が、すうっと頭の中をよぎった。
「それでは明日にでも陛下にその旨申し上げ、しかるべき時期をご相談申し上げることにしよう。病ゆえ王宮を下がっていた王太子が、正式に位に就くのだ。とり行う儀式もあるし、今日の明日のという訳にはいかん。日取りが決まるまでお前は、この城でやり残したことがないよう、心して毎日を過ごしなさい。判っているとは思うが、王宮での暮らしはここほど自由ではないぞ。」
 最後は笑いを含んだ父の言葉に、
「はい。」
 ヒロも笑い返した。話を終えた彼は立ち上がって、
「ありがとうございました。失礼致します。」
 再び深く礼をしたあと部屋を出ていった。
「あなた。」
 ドアが閉まるなり夫人は詰問の口調で呼びかけた。覚悟していた公爵は、
「まぁまぁそう目をつり上げるな。ヒロの目は、あれはつくづくお前似なんだな。」
「何を呑気なことを…。あなたはあの子が可愛くないのですか。前(さき)の王太子殿下をおいたわしい目に合わせた犯人は、まだ名前さえ上がっていないではありませんか! そこへ今度あの子が位に就いたら…ああ神よ、いったいどういうことになるか…!」
 涙をこぼした夫人の肩を、
「落ち着きなさいフランソワーズ。」
 公爵は両手で支えた。
「そう不安がることはない。誰の仕業かはアレス侯が、夜を日に継いで捜査中だ。警備兵も倍に増やされているし、その中でまた同じようなことは、起きようはずもないと私は信じているのだ。」
「『はずもない』とはあまりにも不確かなお考えです。何かあってからでは取り返しがつきません。あの子の身を、刃が、毒薬が、悪魔の手先が襲うのです。そんなことになったらわたくしは、もうこの世に生きてはいられません…!」
 はらはらと涙を落とし、夫人はハンカチを口に押し当てた。公爵は妻を抱きよせた。
「大丈夫だ。あの子にリーベンスヴェルトと名付けたのは、フランソワーズ、お前ではないか。その名の通りあの子は、人からも神からも愛されている。14年も行方が知れず、一度は死んだと諦めた子が、遠い町の見知らぬ手に抱き上げられ養われていたのだ。口は悪いし態度は粗野だが、ヒロは人の痛みが判る子に育ってくれた。目には見えない心の涙を、あの子は感じ取ることができるのだ。そんなあの子を、この世の誰が愛さずにいられようか。お前こそがそれを信じずにどうするというのだ。ん?」
 涙に濡れた顔を夫人は上げた。安心しろ、というように公爵はうなずいた。彼の胸にももちろん不安はあったが、誰に強いられるでもなく「正しい考え」に行き着いた息子が、公爵には誇らしくもあった。
 
「若様! 若様ーっ!」
 サイトーの叫び声を後ろに蹴って、ヒロの馬は城門を走り出た。ヒロは手綱を両手でしっかりと掴み、シルバーアローと名付けた純白の馬を全力疾走させた。強い風が頬を打ち髪をなぶり、上着の裾を靡かせた。心持ち目を細めて、彼は大通りの中央を駆け抜けた。自らを病気と偽り人目を忍んでいた時間が、蹄の1音ごとに打ち砕かれていった。
「おいらはここだ。もう逃げも隠れもしねぇぞ。この命が欲しけりゃかかってこい悪魔ども。おいらは負けない。絶対負けない…。」
 祈るように彼はつぶやいた。道はいつしか高台に出た。ヒロは馬を止めた。民の暮らす家々の屋根が、眼下(まなした)に累々と続いていた。
 
 翌日、ヒロとの約束通りに公爵が王宮を訪れている間に、夫人は自室で手紙をしたためていた。
 彼女は現国王ゲオルグU世の長姉の一人娘、つまり国王の姪である。実の叔父への手紙に彼女は、折入ってお話ししたいことがある故、どうか極秘で時間を取ってくれるよう記すと、嫁下の際に与えられた花押(かおう)を押して封をした。
 夫は懸命に力づけてくれたが、彼女の母心は静まらなかった。ヒロの身を守るために王家は何をなすべきか、彼女は叔父に直接会って頼む決意をしていた。もちろんそんな直訴めいた真似は元来許されることではないのだが、王家の血筋はこんな時にこそ活かすべきで、少々強引なのは判りきった上での、母としての決心だった。
 夫人はガラスの鈴を鳴らし、女官に従騎士を呼ぶよう命じた。少女時代から自分付きであった信頼できるその腹心に、彼女は声をひそめて言った。
「この手紙を、なるべく人目につかないよう陛下のお手に届けて下さい。王宮の西門の門番にこの指輪を見せれば通してくれます。シュテインバッハ公爵夫人ではなく、元内親王フランソワーズ・アルディーナの使いとして参ったと、叔父上に申し上げて下さい。いいですね。」
「かしこまりました。」
 騎士は下がっていった。ふう、と溜息をついて夫人は窓越しに庭を眺めやった。止んでいた雪がまた降りだしていた。
 
 チュミリエンヌは、ルージュの部屋から下げてきた大型の銀盆を厨房の洗い場に置いて、はぁ、と溜息をついた。その大きさに気づいたボルケリアは彼女のそばにやってきて、手元を見下ろし言った。
「まぁ…またこんなに残されて…。」
「はい。どうにか召し上がって下さるのはスープと、それにフルーツを少しだけで、お肉やお魚には一切お口をつけて下さいません。戦さから戻られて以来、もう毎日こんなご様子では、今にお体が参ってしまいます。」
 チュミリエンヌは唇を噛んだ。今度はボルケリアが溜息をついた。
「お疲れのせいと思っていたけれど、何日もこれではねぇ…。どこもお怪我はなすっていないそうだけど、顔色もお悪いしお痩せになったし、いちどお医者様にかかられた方がいいのではないかしら。」
 チュミリエンヌは泣きそうな顔で、
「サヨリーヌ様も若君にそうお勧めになったらしいのです。でもそうしたらひどく不機嫌になられて、1日お口をきいて下さらなかったとか。」
「まぁそうなの。まぁ若君のご機嫌斜めにはサヨリーヌ様は慣れていらっしゃるでしょうけど、それにしても心配だわ。このままでは必ずお具合が悪くなられるでしょう。誰か若君のご心中をよくご存じな方がいらっしゃらないかしら。チュミリエンヌ、あなたに心当たりはないの?」
「心当たり…。」
 チュミリエンヌは記憶を早送りにした。ルージュのことを一番よく知っているのはサヨリーヌであろうが、彼女以外の誰かとなると…。そこでチュミリエンヌはハッと思いついた。ルージュの親友といえば公爵家のヒロだが、彼に戦場でのことを聞いても判るはずはない。けれども“あの男”なら、ルージュとともに戦場へ行った彼なら、そこで何があったのか全部知っているはずだ。
「ボルケリア様、明日1日私にお休みを下さい。私、聞きに行ってきます。」
 彼女は言った。出過ぎた真似だと叱られようとも、主人の健康に気を配るのは侍従の役目であって、下働きには下働きにしか出来ないこともあるはずである。チュミリエンヌは部屋に戻ると、洗ったばかりの服とコートを明日のために準備した。
 
 ヒロが王宮に上がる日も、公爵夫人が国王に会える日も決まらぬまま数日が過ぎた。日に日にルージュは無口になっていった。隊の本部へも行かず王宮での会議にも出席せず、朝から礼拝堂に籠っていたかと思うと、突如憑かれたように剣の稽古を始め、ふと姿を消すや明け方まで戻らなかったりもした。サヨリーヌはスガーリに相談したが、彼はしばらく放っておけとしか言ってくれず、心配の余り彼女は、自分も食事をとれなくなってしまった。
 夜、ルージュは夢を見た。
 ごうごうと風の吹く荒野を、彼は馬で駆けていた。あたりは暗く視界がきかず、もう少し行けば明るい丘の上へ出られるとは判っていたが、道はいつまでも尽きなかった。後ろから誰かが追ってきていた。1人2人ではないたくさんの足音が、馬に乗っているルージュよりもはるかに速く背後に迫ってきた。振り切ろうとすると突然沼があらわれ、汚泥に足を絡めとられて馬は動けなくなった。彼は必死で鞭を振るったが、ヌッと伸びてきた手に横から髪を掴まれた。額の割れた亡霊だった。
(離せ…!!)
 叫んだつもりが声が出なかった。手に、足に亡霊たちは呻きながらすがりついてきた。蒼白のゼルも、眼窩を黒ずませたフリッツの母親もいた。抜こうとした腰の剣は柄も刃もドロドロに溶けていた。
『来いよ、こっちへ…。』
 亡霊たちは合唱した。
『俺たちの地獄へお前も来いよ…。愛し合おう、ここで俺たちと。』
 ぴちゃっ、と生ぬるい液が額に頬にかかった。恐怖でルージュは顔をひきつらせた。
(嫌だ、嫌だ助けてくれ誰か!)
 彼は夢中で身をよじった。亡霊の笑い顔が目の前にあった。
(やめろ、離せ、俺に触るな、離せ―――!!)
「ルージュ様!」
 はっ、と彼は目をあいた。見慣れた自分の部屋だった。肩を揺さぶっていたのはサヨリーヌであった。
「お気が、つかれましたかルージュ様。」
 安堵の吐息とともに彼女は言った。ルージュは額に手の甲を当てた。汗が全身に吹き出しており、心臓は跳ね、息さえ荒く苦しかった。
「ひどくうなされておいででした。また強いお酒を召し上がったのですね。」
 言われて彼は思い出した。寝る前にしたたか酒をあおりつけ、朦朧とした頭で服のまま、ベッドに這い入ったのだった。
「お薬を、お持ちいたしましょうか?」
 サヨリーヌは尋ねたが、
「いい。構うな。いいから下がれ。」
 ルージュは背を向けた。彼女の困惑はひりひりと伝わってきたが、ルージュはそれを無視した。
 やがてサヨリーヌは、音もないひそやかな溜息を残して部屋を出ていった。独りきりの闇の底でルージュは仰向けになった。鼓動はまだ高く、彼は両手で顔を覆った。
(情けねぇ…!!)
 彼は歯ぎしりした。この世に戦さはつきもので、敵兵を倒すのは殺人とは違う。しかも先に仕掛けてきたのは敵の方。1歩間違えば自分も殺されていた。全て仕方のないことなのだ。頭ではそう納得したはずなのに、心は癒されなかった。食事の皿に盛られた肉を見ると、ムッと血の匂いが甦ってきて吐き気がした。そんな女々しい自分の心に、ルージュはやり場のない怒りを覚えた。
 指の間から、彼は天井を見た。灯火の全くない部屋がぼんやりと明るいのは、厚い天鵞絨のカーテンのわずかな隙間をすり抜けてくる淡い光のせいだった。ルージュはベッドを下り、ベランダに通じる窓辺に歩み寄って小さくカーテンをめくった。夕方まで降り続いていた雪はやみ、純白の世界を銀色の月がこうこうと照らし出していた。いっさいの汚れを寄せつけぬ、身を切るばかりに清冽な冷気。無垢なる神の泉。全ての罪を赦すもの…。過ちも偽りも呪われた血の匂いも、この光に打たれれば洗い落とせるかも知れない。その思いが胸の内にこみあげ、ルージュはマントを掴んで廊下に走り出た。
 雪を踏みしめる主人の足音を聞き分け、シェーラザードは耳を立てた。重い扉がゴトゴトとあいて、シルエットになったルージュが中に入ってきた。彼は馬房の柵をはずし愛馬の体を撫でた。ハミをかける間も省き、ルージュは彼女を引き出した。2つの息がともに白くなった。鬣(たてがみ)を掴み勢いをつけて、彼は裸馬(はだかうま)にまたがった。
 月下にたゆとう雪の海に人影のあろうはずもなく、音のない街をシェーラザードは駆けた。風花がきりきりと渦を巻き、肌を突き刺す針と化してルージュの頬をいたぶった。
 街を抜けると視界は開け、あたりはただ白一色の茫漠たる世界になった。ルージュは息を吸い込み両手を広げ、うわぁぁ――…!と大声を上げた。荒野は木霊すら返さなかった。うわぁぁ――…!ともう1度、ルージュは天に叫んだ。もしもこの身に罪があるなら、透明な氷の矢をもって今すぐ胸を貫いてくれ。赦されるというのなら、免罪の印の焼きごてをこの額に押し付けてくれ。三たび叫んだその時に、雪に足をとられたかシェーラザードの体がグラッと左によれた。手を離していたルージュはその反動にひとたまりもなく、前のめりに落馬した。が、そこは雪の吹きだまりで、衝撃はほとんどなかった。ルージュは身を起こした。雪の中に自分の手だけが、うっすらと赤みを帯びていた。
 ルージュは両手を顔の前にかざした。皮膚の下には最初から呪いの色が流れている。それはおそらく人間の原罪。何かを殺さねば生きられない、命というものの原罪であろう。彼は雪だまりに両手を突っ込み、水を浴びるようにそれを掬って顔に叩きつけた。体温が雪を水滴に変えた。鼻から顎から睫毛から、ぽたぽたと雫がしたたった。
 その時、何かふわりと暖かいものを、ルージュは体の横に感じた。動きを止めて彼は、ゆっくりとそちらを見た。ブルル…と鼻を鳴らして、シェーラザードが顔を近づけていた。黒くて丸い2つの瞳が、心配そうに彼を見ていた。
「シエラ…。」
 彼は馬の顔をそっと撫でた。彼女は頬をすり寄せてきた。ルージュは目を閉じた。
「お前、俺が好きかシエラ…。」
 冷えきった肌につたう涙は驚くほど熱かった。
「俺が人殺しでも、好きか…。」
 彼女の息は暖かかった。硬い氷が溶けるように、ルージュの目からとめどなく涙が溢れ出した。
 だが次の瞬間、シェーラザードの体にぴくりと緊張が走るのをルージュは感じた。反射的に彼も顔を上げた。シェーラザードの耳はある方向に向けられていた。ルージュは耳を澄ました。寒さに凍えかけた耳朶はやがて、蹄の音と車輪の音…馬車の走る音をとらえた。
(こんな時間に…?)
 ルージュは暗闇に目をこらした。ふらふらと宙を漂っている風花が、時折思い出したように右へ左へと靡き散る、その向こうに小さく揺れるカンテラの明かりが見えてきた。ルージュがいるのは大地の上の街道、その馬車が走っているのは、今や雪の海である麦畑を隔てた100メートルほど西の細道だった。この街道の先にはとなり街があるが、あの道の先には森と沼しかない。ブルル…と鼻を鳴らしたシェーラザードに、しっ!とルージュは指を立てた。
 視力のいい彼には判った。屋根飾りに特徴のある、その馬車は公爵家のものであった。御者席の左右でカンテラが大きく揺れていた。ずいぶんスピードを出しているようだ。ルージュは立ち上がった。涙はぴたりと止まっていた。訓練された武人はみな、危機や異変に対しての鋭い直感力をそなえている。その馬車を包むただならぬ何かに、ルージュの全身が反応していた。
 彼は愛馬に飛び乗った。まさかヒロの身に何かあったのか、その思いが彼を急(せ)かした。鞍もあぶみも手綱もない馬を全力疾走させるのは難しい。振り落とされずに操るだけで至難の技、さすがのルージュもシェーラザードでなければ、並み足にするのさえ無理だったろう。
(急いでくれシエラ!)
 鬣(たてがみ)を掴んだ手に、ルージュは祈るように力をこめた。
 
 公爵夫人のもとに王家からの使者が着いたのは夕刻のことだった。使者は夫人が人払いした部屋で彼女だけに告げた。
「国王陛下は今宵、星の時刻に、陛下の私室にてフランソワーズ様にご引見なさるとの由にございます。王家の習いにはないこと故、くれぐれもご内密においで下さいまし。護衛のために王宮警備の兵士を差し向けますので。」
 夫人は浅く息を吐いて、
「判りました。必ず伺うと叔父上にお伝え下さい。」
「かしこまりました。では星の時刻に。」
「お役目大儀でした。」
 使者は下がっていった。
 夫人は立ち上がり窓の外を見やった。とりあえず橋は掛かった。あとは自分がこれを渡って、この国の最高権力者である叔父に、最愛の息子のことを頼んでくればいい。2人の王太子を襲った悲劇がヒロには決して降りかからぬよう、できる限りの策を講じてもらえばいい。王家と公爵家が協力しあえば、ヒロを守る輪は二重になるであろう。
(でも、何なのだろうこの不安は…。)
 夫人の胸は重苦しいものに満たされた。この先に大きな不幸が待ち構えているような気持ちを、どうしてもぬぐうことができなかった。夕食までのわずかな時間、夫人は独り礼拝堂に籠って過ごした。
 
 公爵家を辞した使者は、王宮への帰路に林を抜ける小道を選んだ。日が落ちるまでに王宮に着くべく、彼は馬に鞭を入れた。丈高い針葉樹があたりを包み人の気配を遮ったその時、彼の馬は何かに脚をとられもんどり打って前にのめった。使者の体は宙に浮き、硬い雪道に叩きつけられた。すぐには起き上がれない彼の回りに、
「急げ。こいつを小屋に連れていって吐かせるんだ。」
「誰も見てないな。」
「大丈夫。さぁ早くしろ。」
 数人の男が駆け寄ってきて、彼を縛りあげ猿ぐつわを噛ませ、林の奥に引きずっていった。
 
 その夜公爵は、風邪気味だと言って早く寝室に引きとった。夫人は彼が眠るのを待って身支度をし、腹心の侍女を1人だけ従え、従騎士が手綱をとる小型馬車に乗り城の裏門から外へ出た。
 鎧兜の騎馬兵が3人、どこからともなく集まってきた。従騎士は彼らの風体を見た。間違いなく王宮警備兵の武装姿だった。従騎士は3人に目礼し、馬首を王宮の方角に向けた。1騎が先導し2騎は後尾に回った。空には明るい月があった。車輪をきしませて馬車は走り始めた。
 道を行きながら従騎士は、3人の兵士たちに徐々に不審を抱き始めた。もちろん見た目は警備兵なのだが、辺りを憚るような目配りのしかたに奇妙な暗さを感じるのだ。従騎士は腰の剣を確かめた。が次の瞬間、彼は背中に強い衝撃を感じ、何事、と思うや自分の体が大刀に貫かれたことを知った。血に濡れた切っ先が胸元でぎらりと光っていた。御者席に乗り移ってきた兵士の腕を力なく掴んだのが、彼の最期であった。
 別の兵士が従騎士の死体を馬に引きずり上げ、近くの川に捨てにいった。前を行く兵士は振り返って笑い、御者席の兵士は馬車の速度を上げた。
「ずいぶん揺れますね、奥様。」
 不安げに侍女は言い、風が入らぬよう閉めきっていた小窓をあけた。
「まぁひどく暗いこと。ここはどのへんかしら。もうそろそろ王宮に着いてもいい頃合いなのに。」
「これ、童(わらわ)ではあるまいし、そんなに首を出しては不作法ですよ。」
 公爵夫人は注意したが、
「奥様!」
 振り向いた侍女は顔色を変えていた。
「道が違います。この馬車は王宮に向かっておりません!」
「何ですって?」
 夫人は青ざめた。
 気丈な侍女は窓をいっぱいにあけ、助手席に、
「どうしたのです。どこへ行こうというのですか! 王宮は―――」
 彼女はそこで絶句した。手綱を取っているのは従騎士ではなく、護衛に付いていたはずの警備兵であった。
「誰ですかそなたは!」
 悲鳴に似た声で侍女は聞いた。警備兵はのっそりと振り向き、言い放った。
「うるせぇんだよ。今ここで殺されたくなかったら静かにしてな。」
 
 裸馬で、ルージュは公爵家の馬車を追った。体を支えているのは両膝だけで、そこはもう痺れて感覚がなくなっていた。馬車は木立の中に入っていった。ルージュは右の掌でシェーラザードの脇腹を叩いた。雪に光る轍の跡に彼は、身をよじって助けを求める誰かの叫び声を聞いた気がした。カンテラの揺らぎが小さくなった。まさかあの疎林の中に停まる気なのかと、ルージュはいぶかしんだ。そこは侯爵家の狩り場の入口であったからだ。
 停止した馬車の中で、公爵夫人は短剣を抜き逆手に持って胸の前に構えた。侍女は全身で夫人をかばうべく、扉に正対し息を詰めた。ガラリと乱暴に降り口の戸があき、立っていた兵士の1人が顎をしゃくった。侍女は、
「控えなさい無礼者! シュテインバッハ公爵夫人に何の遺恨あってこのような真似をするのです!」
 声を震わせて言ったが、ぬっと馬車内に差し込まれた丸太のような腕が、彼女の肩をがっしり掴んで外に引きずり出した。
 馬車は3人の兵士の他に、馬に乗った数人の男たちに取り巻かれていた。皆仮面をつけていて顔は判らなかった。
「そんなもの脅しにもなりませんよ、シュテインバッハの奥様。」
 1人の兵士が言った。流暢ではあったが語尾の発音は不自然で、この国の人間でないことはすぐに知れた。
「ご子息の命が惜しければ、あなたは我々に従うしかないのです。とにかく馬車を下りてください。」
 さぁ、と兵士は促した。夫人は剣を握りしめ、
「ヒロに何をする気なのですか。そなたたちはまさか、前王太子殿下をおいたわしい目に会わせた一味…。」
「いいから下りろ。息子がどうなってもいいのか?」
 兵士は口調を恫喝に変えた。
「奥様!」
 馬車からおり立った夫人に侍女は駆け寄ろうとしたが、背後から兵士に羽交い締めにされた。
「ああほらじっとしてな。すぐに殺しゃあしねぇから。」
 下卑た笑いがそれに続き、侍女は全身から血の気が引くのを感じた。男たちは公爵夫人を取りまいて笑いながら何か話していたが、それは彼らの母国語だったので意味は判らなかった。しかし男たちが漂わせている淫靡なものは、言葉がなくとも気配で感じられた。
『これがあのガキの母親か。』
『若くはないが美人だな。』
『確か、もとはこの国の王女様だろ? 身分高い女を姦(や)るのは気分がいいぜ。』
『ああ。どうせ殺すんだ。その前にせいぜい嬲(なぶ)らせて頂こう。}
「な…何をするつもりですか。」
 じりっ、と近よってくる男たちに思わず夫人は退いたが、後ろにも兵士は立っていた。
「奥様に何をするの! 下がりなさい! お下がり!」
 侍女は叫んだが、
『お下がり、だとよ。』
 男たちはニヤニヤ笑った。
「さあ来い。お前も一緒に可愛がってやる。死ぬ前にいい気持ちになりてぇだろ?」
「やめて! …誰か! 誰か来てぇっ!」
「呼んだって誰も来やしねぇよ。じたばたすると縛り上げるぞ。」
 だがその時であった。誰かが、しっ!と指を立てた。かすかに蹄の音がした。
「馬…?」
 皆そちらを見た。枝の間からさしこむ月明かりが照らしたのは、馬上のルージュが靡かせている緋色のマントであった。
『人が来るぞ!』
 兵士の1人が言った。続いて別の誰かが、
『まずい、あれは元帥の息子だ!』
 男たちの間にサッと緊張が走った。ルージュの意思に反して、戦場での彼の戦いぶりは鬼神さながらの激しさであったと、雷名は諸国にひろまり始めていたのだ。
『ここで我々の正体を知られる訳にはいかん! 引くぞ! 女2人は連れていけ!』
 彼らは退却しかけたが中の1人は何を思ったか、剣を抜いて向かっていこうとした。慌てたのは他の男たちだった。
「おい! 何を考えてるんだ。ここでしくじったら水の泡だろう!」
 腕を掴まれた男は抵抗し、
「離せ! こんなチャンスはまたとないんだ! この人数だったらあいつを殺(や)れる。なぜ俺を止めるんだ!」
「だめだ私怨はあとにしろ。俺たちの計画には毛ほどの狂いもあってはならん! 元帥の息子を殺る機はまだ熟していないのだ!」
 2人がやりあっているうちにルージュの馬はぐんぐんこちらへ近づいてきた。隙を見て侍女は男の手をふりほどき、
「助けて―――っ!」
 ルージュに向かって甲高い悲鳴を放った。
「きさま!」
 兵士は剣を抜き、彼女の背中に振り下ろした。
「ベルタ!」
 公爵夫人は彼女の名を叫んだ。が、それと同時に夫人の胸にもドスッと短剣が打ち込まれた。
「悪く思うなよ奥方様よ。」
 刺した兵士は耳元で言った。
「いずれあんたの亭主も他の貴族も国王陛下も、全員同じ地獄に送ってやるよ。先に行って待ってな。一思いに殺してやるんだ、ありがたく思え。」
 ぎりぎりと刃をねじこんでおいて、兵士は短剣を抜き取った。吹き出す鮮血が雪を深紅に染め、夫人は地面に仰向けに倒れた。
『引けっ!』
 男たちは馬に鞭を当てた。
 それはルージュの目の前わずか20メートル先で、展開された惨劇であった。彼は馬から飛び降りた。まさか、と抱き起こした瀕死の女性は、
「公爵夫人っ! お気を、お気を確かに!」
 彼女の肩を揺さぶって、ルージュは流れ出ている血の量に愕然とした。助かるはずのない場所であった。彼の腕の中で夫人はもう目を閉じていたが、
「ヒロを…。ルージュ…。私のヒロを頼みましたよ…。」
 最後の力をふりしぼって言い、かくりと首を倒した。
 
 夜明けと同時に、悲しい知らせは公爵家に届いた。急ぎ清められた夫人の亡骸に付き添ったのはルージュであった。ひとまず自室に横たえられた遺体のそばで彼は深く頭を垂れ、遺族を…夫の公爵と、それにヒロを迎えた。
「はは、う、え…。」
 蒼白の唇を震わせて、ヒロは寝台に歩み寄った。ヒロによく似た公爵夫人の瞳は二度と開かぬ瞼に覆われ、もの言わぬ唇はまるで微笑んでいるかのように、まだかすかに柔らかさを残していた。
「嘘だ…。おいら…。母上…おいらはまだ…。」
 ヒロはふらりと両膝を折り、枕の横に両手をかけた。ルージュは見た。ヒロは両目を見開いたまま表情を凍りつかせ、だが雨粒さながらの涙をぽろぽろぽろと零していた。
「なんで…? なんで母上がこんな…。狙われるのはおいらでよかった…おいらでよかったのに…。判んねぇ…。なんで母上が殺されなきゃなんねぇんだ…。判んねぇよ、おいらには何も判んねぇよ…。」
 ヒロの表情は少しずつ崩れ始め、声はついに嗚咽と化した。
「母上…! 何か言って下さい母上! おいら、おいらまだ何も親孝行してねぇのに…!」
 遺体にとりすがるヒロの姿に、ルージュは本当に血が出るほど唇を噛みしめた。
「済まない、ヒロ…。俺があと少し、少しだけ早く気づいてれば間に合ったかも知れないのに…。」
 ヒロは応えず泣き続けた。普段ならおそらく「お前のせいじゃねぇよ」と否定したであろうが、今の彼には無理であった。公爵はじっと涙をこらえていたが、
「さぁ、ヒロ。母上を綺麗にしてあげよう。な。辛いだろうが、もう…。」
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だぁ!」
 離れようとしない彼に、父も無理強いはしなかった。地獄を見る思いでルージュは頭を下げ続けていた。逃げてはいけない、ヒロの慟哭から目をそらしてはいけない。彼はそう自分に命じていた。
 泣き続け呼び続けたヒロはやがて、父に促されバジーラに連れられて部屋を出て行った。公爵は妻の髪を撫で静かに額に口づけると、侍従に葬儀の準備を命じ、亡骸を白布で覆わせた。その間もルージュは頭を下げたままで、1度も顔を上げなかった。
「もうよい、レオンハルト。」
 公爵は言った。
「突然の出来事ではあったが、そなたが自分を責めることなど少しもない。それよりも犯人を早く…いや、これは父君に申し上げることにしよう。少し時間をおいて落ち着いたら、またヒロを見舞ってやってくれ。大儀だった。」
「はい、閣下…。」
 さらに深く礼をした彼の前を、公爵は立ち去っていった。
 すると目を真っ赤にしたアマモーラが、ハンカチで口元を押さえてやってきた。
「あの、若君。実はお話が。」
「何だ。」
 ルージュは彼女を見た。アマモーラは泣いたあとの掠れた声で、
「奥方様のお供をしておりました侍女は、深手を負いながらも何とか命をとりとめまして、その者が是非とも若君のお耳に入れたいことがあると申すのでございますが…。」
「俺に?」
 聞き返したルージュは胸さわぎを覚え、
「判った。すぐ会おう。どこにいるんだその侍女は。」
「部屋で伏せっておりますが、若君のおいでになるような場所では…。」
「いいから案内しろ。早く。」
「かしこまりました、ではこちらへ。」
 アマモーラは歩き出した。
 ルージュは侍女の部屋へ行った。彼女も賊に斬りつけられてはいたが、傷はあと数センチのところで動脈をはずれていたのだ。お人払いを、との願いに応えルージュはアマモーラたちを下がらせると、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
「大丈夫だ、ここには俺とお前しかいない。話してくれ。何なんだ、俺に聞かせたいことっていうのは。」
「はい…。」
 痛みに耐えて侍女は話し始めた。
「奥方様に遅れて生きるなど私には思いもよらぬこと、すぐにでもお後を追うべきところ、これだけは若君のお耳に入れなくてはと生き永らえた次第にございます。」
「うん。」
「実は奥方様は夕べ、内密に陛下にお会いするため王宮へ向かっておられまして、―――」
 侍女はルージュに夕べのことを説明した。遣わされてきた王宮警備兵、待ち構えていた異国の男たち。彼らは自分たちを殺す前に辱めるつもりでいたこと、そして何より重要なのは、
「男たちの話は外国の言葉で私には聞き取れませんでしたが、時おり自国語が混じっておりましたのは、一味の中にこの国の者がいたからに相違ございません。若君の蹄の音を聞きつけ男たちは逃げようと致しましたが、1人だけ剣を抜いた者がおりました。若君に向かっていこうとしたのでございます。男たちはその者を止めました。その時に交わされた会話が、この国の言葉だったのでございます。」
「何だと…?」
 ルージュは顔色を変えた。息を荒くして侍女は続けた。
「剣を抜いた男は、これはチャンスなのだと申しました。この人数なら勝てるのになぜ止めるのだと。でも男たちは譲りませんでした。私怨はあとにしろと言って。」
「『私怨はあとにしろ』…。確かにそう言ったのか。」
「はい。間違いございません。」
「…。」
 ルージュは黙り、親指の爪を噛んだ。幾多の戦さに携わってきた以上、侯爵家に恨みを持つ者は多いはずだ。だがその中の誰か1人となると、すぐには思い浮かばなかった。侍女は涙を流しながら言った。
「若君、私はこのことを決して口外いたしません。ですから早く一味を捕らえて、奥方様の祈りであったヒロ様のお身の安全を、どうかどうかお守り下さいまし。」
「約束しよう。」
 ルージュはうなずいた。
「よく話してくれた。多分重要な手がかりになる。公爵夫人の後を追うなどと言わずに、お前もヒロを守ってやってくれ。」
 
 公爵家からの帰り道でルージュは、馬をこちらに走らせてくる黒いマントの少年がロゼであることに気づいて手綱を緩めた。
「ルージュ!」
 ロゼも馬を止めると、
「会えてよかった。今、君に会いに城を訪ねたら公爵家へ行ってるって聞いたから…。」
「ああちょうど帰るとこ。」
「ならよかった。ちょっとね、話があって。」
「俺もある。じゃあUターンさしちゃうけど、うち来るか?」
「…いや。」
 ロゼは視線をはずした。おや、とルージュは思ったが、おそらく人に聞かれてはまずい話なのだろうと思い直して、
「んじゃお前んちにすっか。別にどっちだっていいだろ。」
 だがロゼの提案は、
「少し、走らない? 最近遠乗りにも行ってないし、久しぶりにさ。」
「おい外で話す気か? んな、さびーだろ吹きっさらしじゃ。…おいロゼ、ロゼ!」
 彼はもう走り出していた。
 林を抜けた高台の、町はずれの丘の上でロゼは馬を止めた。ルージュは、枝から落ちてきた雪で白くなった髪をバサリと振りつつ、
「なに遠出さしてんだよ…。」
 ロゼの黒馬の隣にシェーラザードを並べた。
「ごめんね走らせて。夕べは寝てないんだろう?」
 てっきり自分に話しかけているのかと思ったが、ロゼが見ていたのはシェーラザードだった。ルージュはムッとした顔をして、
「話って何だよ。お前が言い出したんだから先に言え。」
「うん…。」
 ロゼはためらうように手綱をもてあそび、少し間をおいたあとで、
「公爵夫人のことなんだけどね。」
「ああ。だろうと思った。」
「今回のことも、例の一味…御前試合で君を狙い、王太子たちを殺した奴らの仕業だと考えていいと思う。でもそうすると、1つとんでもない疑問がわいてくるんだ。」
 ルージュはロゼを見つめた。先日の暴動の裏にエフゲイアがいることをいち早く見抜いたこの軍師が、その頭の中にどんな推理を巡らせているのか、知りたいとルージュは思った。
 また少し言葉を切ってから、ロゼは一息に言った。
「御前試合も聖ローマ祭もルナ王女のお輿入れも、全て公式行事だった。調べようと思えば簡単に調べられる。でも奴らはどうして、公爵家の動きまで知っている? 国の予定ならともかく夫人の私的な行動まで、事前に察知するなんてどうしてできるんだ。犯人がエフゲイアと通じている我が国の人間だと仮定しても、よほど身分のある者じゃないと無理だろう。しかも、さっき大臣に聞いたけど、奴らは王宮の警備兵を装っていたんだって? ただの内通者にこれは絶対不可能だよ。とすると犯人像はかなり絞られてくるんだ。…つまり。」
 ロゼは目を上げた。2人の視線が宙で絡んだ。
「1つ。公爵家にも王宮にも出入りできて、面識のある身分高い人間。2つ。軍の内情にかなり詳しく、衣装装備を自由に調達できる人間…。」
 言葉にしない全てのことを、ロゼの瞳は告げていた。ルージュもまた同じものを返した。彼に伝わったことを確信してか、ロゼは再び目を伏せた。2人はともに黙った。
 ルージュの胸は早鐘を打っていた。犯人は恐るべきことに、アレスフォルボア家に近い人間なのではないか…ロゼはそう言いたいのだと、彼は悟っていた。しかしロゼも知らない重要なことを、ルージュは侍女から聞かされていた。彼はロゼの描いた犯人像に、その条件をつけ加えていった。
(俺に私怨を持っている者…。1人で、しかも丸腰であの場所に行った俺に、今なら勝てる、チャンスだと言った者…。)
 聞いてはならない1つの答えを、鼓動はルージュに囁こうとしていた。まさかそんなと打ち消すそばから犯人の影は輪郭を濃くし、疑問は全て肯定されて、ルージュの体は小刻みに震え始めた。
「どうしたの。」
 不審げにロゼは聞き、
「まさか心当たりがあるんじゃあ…。」
 言い終わるのを待たずにルージュは馬首を翻した。
「ルージュ!」
 叫ぶロゼを残して彼は駆けた。目指すのは侯爵家本邸だった。父に会わねばならなかった。
 
 執務室で侯爵は、1枚の書類を机に広げ何かをじっと考えこんでいた。そこへ聞こえてきた慌ただしい足音がルージュのものだと判った時、侯爵は書類を―――国王に提出する爵位継承の許可願を、引き出しにしまいこんだ。ノックの音が響いた。
「入れ。」
 応えるとドアがあき、ただならぬ形相でルージュが入ってきた。
「何だ騒々しい。子供ではあるまいしバタバタ走ってくるな。」
 侯爵は言ったがルージュは黙っていた。大抵は何か悪態をつく息子であるのに、いぶかしく思って侯爵は顔を上げた。
「何だ。何かあったのか。」
 鋭い目になって侯爵が問うと、
「親父…。」
 ルージュは机に両手をついて顔を突き出した。
「公爵夫人と一緒だった侍女は助かった。そいつが俺に教えてくれた。公爵夫人を殺した奴は、俺に恨みを持ってる奴だ。」
「ん?」
 眉を寄せ侯爵はルージュの目を覗き返した。
「それだけじゃない。ロゼが解いた。内通者はただの貴族じゃなくて、公爵家にも王宮にも出入りできる奴。それから警備兵に化けられた通り、軍の物資に簡単に手つけられる奴。…これって、いんじゃねぇか親父。うちに、1人だけ。この条件全部クリアできる奴が…。」
 ルージュの目の前で侯爵は、見る見る顔色を変えた。ガタン、と椅子を蹴って立ち上がりいきなりルージュの軍服の衿を掴んだかと思うと、ズルリと手を離し背中を向け、窓に歩みよってカーテンを握りしめた。父がこれほど動揺し我を失う姿を、ルージュは生まれて初めて見た。
「レオン…。」
 呼ぶというよりは呻くように言って、
「口外するな。このことは口が裂けても決して口外するな。全ては俺に預けろ。お前は何も知らなくていい。忘れろ。いいな。2度とこのことは思い出すな、判ったなレオン!」
「親父…。」
 ドサリと椅子に腰を落とし、侯爵は両手で顔中を撫で回した。
「もういい。行け。浮足立つなよ。伯爵にも言うな。お前は何もしなくていい。これは俺の仕事だ。邪魔したらただではおかん…。」
 取り戻したかに見える冷静は、決して本物ではなかった。たやすくそれが見てとれることに、ルージュはむしろうろたえた。不安そうな息子に侯爵は気づいたか、
「大丈夫だ。俺にまかせておけ。お前ごときに心配されるほど、俺は老いぼれちゃおらん。判ったらさっさと行け。そんな赤ん坊みたいな顔して、ママンのおっぱいが恋しいか?」
 ムッとしたいつもの顔になり、ルージュは部屋を出ていった。足音が遠ざかったあと、侯爵はスガーリを呼んだ。
 
 何時間かぶりにルージュは自室に帰りついた。誰も来るなと言いつけておいて、彼はソファーに倒れこんだ。綿のような疲れが全身に襲いかかってきて、目を閉じた彼はそのまま眠りに落ちた。サヨリーヌが毛布を掛けてくれたのにも気づかず、ルージュは眠り続けた。
 目覚めたのは夕暮れであったが、一瞬今がいつか判らずに、ルージュは部屋を見回した。長い夢を見ていたような気がし、本当に夢だったらどんなにいいだろうと思ったルージュに、やはりそれはまぎれもなく現実だったのだと知らしめたのは、彼が目覚めるのを客間で待ち焦がれていた公爵家執事・サイトーであった。サイトーは涙ながらに、
「ヒロ様がお部屋から出てきて下さいません。ドアにも窓にも鍵をかけてしまわれ、何をなすっているのかも…。まさかとは思いますが滅多なことをなさったりせぬかと、皆困り果てております。」
「判った。すぐ行く。」
 ルージュは応え、部屋を出た。
 
 公爵家の城は、葬儀を待てずに弔問に訪れた者や、馳せ参じた大使などで上を下への大騒ぎになっていたが、ヒロの部屋の前には侍従たちが半泣きで集まり、口々に彼を呼び立ててドアを叩いていた。
「ルージュ様!」
 真っ先にアマモーラが気づき、続いて全員が腰を屈めた。
「ヒロは。中にいんのか。」
 乱れた髪をかき上げてルージュは聞いた。
「はい。朝からずっとお籠りになって物音ひとつおたてになりません。」
 ルージュはドアに触れた。侍従たちは数歩下がり彼を見守った。
「ヒロ、俺だ。ここ開けろ。な。せめて返事しろ。おい、ヒロ!」
 ドンドンとノックしても反応はなく、真鍮のドアノブはびくとも動かなかった。
 装飾絵の施された扉をルージュは見上げた。立派な1枚板ではあるが、本陣として籠城にも耐えうる造りの侯爵邸とは比べものにならない薄さだった。
「危ねぇからもちっと下がれ。あ、修理代はあとでうちに請求しろ。」
 マントをはずしてアマモーラに渡し、ルージュはふぅと息を吐くと、かけ声とともにドアを蹴破った。パラパラと木くずが散る中を、
「ヒロ…。」
 ルージュは暗い部屋に入っていった。窓を覆ったカーテンが月明かりを透かして、ベッドの上に座っているヒロのシルエットを浮かび上がらせていた。
 ひとまずほっとした様子の侍従たちを、ルージュは手ぶりで下がらせて、
「おい、独りで何やってんだよ。火も入れねぇから部屋が冷えきってんじゃねぇか。」
 ことさらでない口調で言いながら、ベッドに近づいていった。
 ヒロは顔を上げなかった。薄青い光に淡く照らされた横顔から、涙が滴り落ちるのが判った。
「あーあーあー、靴のまんまで布団に乗っかって。そんなに泣いてっとお前、今に目ン玉腐っちまうぞ。」
「…い。」
「あ? 何?」
「腐ったっていい…。おいらなんか、生きてたってしょうがねぇんだ…。」
「馬鹿、何言ってんだよ。」
 ルージュはヒロの肩に手を置いた。
「母上が死んだのはおいらのせいなんだ…。」
 思いがけないことをヒロは言い出した。
「おいらが急に、王宮に上がるなんて言ったから。もしもそんなこと考えないで、ずっとここにいるって言えば母上は…。」
 幼子のように、ヒロは手の甲で瞼をぬぐった。
「いやそれはちげーだろ。」
 ルージュは言ったが、ヒロはぶるぶると首を振り、
「嫌だ…。なんかおいら、もう自分が嫌だ。おいらの大事な人は、みんなみんないつの間にか、おいらの前からいなくなっちまうんだ…。市長も、カイも、今度は母上も…。おいらなんか独りでいればいいんだ。どっかに消えちまえばいいんだよぉ! そんならもう、誰もいなくならない。いっそ死んじまった方がいいんだ…!」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!」
 ルージュはヒロの肩を揺さぶった。
「お前がそんなこと言ってたんじゃ、公爵夫人が悲しむだろ。え? お前のお袋はお前を守るために、お前が立派な国王になるために頑張ったんじゃねぇか。悲しいのは判っけど、死んだ方がいいなんて言うな。独りじゃない。お前はぜってー独りじゃねぇだろ! お前と俺と、ロゼとジョーヌとヴェエルと! 5人が力合わせなかったら、この国は滅茶苦茶にされちまうだろ!」
「ルージュぅ…。」
 泣き腫らした目でヒロは彼を見た。ルージュはヒロの肩を掴んだ両手に力をこめ、
「一緒だろ。いっつも。あ? そうだろ? ヒロ。俺たちは1人も欠けちゃいけねんだ。誰もお前を独りにして、いなくなんかならねぇから!」
「ルー…」
 ヒロは肩を掴まれたまま、ルージュの胸に額を押しあて声を詰まらせた。
 ルージュは腰の剣を確かめた。何かが胸の中で答えを出していた。誰かを殺さなければ誰かを守れない、それが人間の業(ごう)だというのなら、その中で俺は生きてやる。命ある限り戦いぬいて、ヒロを、王家を、この国を守りぬいてやる。負けはしない、どんなことが起きても。全ての罪は俺が背負って、最後は地獄に墜ちればいい…。
 ヒロが泣きやむまでルージュは、魔王に戦いを挑むかの如く、暗い虚空を睨み据えていた。
 

第3楽章主題2へ続く
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