『五重奏曲(クインテット)』
〜第3部〜

【 第3楽章 主題3 】

 事後処理の指揮は、全てロゼがとった。まずはエフゲイア全軍を武装解除させ、司令官以上の者はエフゲイア領の北端にある銅山へ送った。大公一家は宮殿内の離れに、親族は離宮に幽閉したあと、議会の代表たちを召集してロゼは、正式な国交条約を両国の間に締結した。
 敗れた敵国には厳しい血の粛清を与えるべきだという意見もあったが、ロゼは肯(がえ)んじなかった。ヒロがそれを望まないことを彼はよく知っていたからである。エフゲイアの議会はこの温情的な対処に感謝し、議席の4分の1に当たる数だけ、我が国の議員を受け入れよとの命令にもすんなりと従った。
 
 ルイダの最期については少し触れておこう。
 ヒロが駆け去ったあとロゼとシュワルツの背後には、ヴォルフガング率いる同盟軍がずらりと壁をなした。向かい合う一隊はルイダとエフゲイア兵。しばし睨みあったのちに両軍どちらからともなく、1人ずつが前に出た。ルイダとシュワルツだった。2人はじりじりと距離を縮め、雌雄を決する太刀を交えた。腕は全く互角であった。ルイダの剣がシュワルツの肩を、シュワルツの剣がルイダの二の腕を、かすめ、斬りつけ、また離れた。
 両軍が固唾を飲んで見守る中、勝利はシュワルツに輝いた。利き腕側の肩から血を流しつつ彼が突き出した一撃に脇腹を刺され、ルイダは剣を落とした。
 ルイダの傷は深かったが、決して致命傷ではなかった。勝負さえつけば殺す気はなかったので、シュワルツは剣を鞘に収めた。その時、地にうずくまっていたルイダがいきなり顔を上げ、懐からぎらりと光る短剣を取り出した。はっとして飛びのいたシュワルツにではなく、ルイダは自らの胸に深々と切っ先を埋めた。
『エフゲイアに栄光あれ…。』
 最後の言葉を残して彼は息絶えた。
「馬鹿が…。」
 シュワルツは唇を噛んだ。
「自害なんてこれっぽっちも、カッコよかぁないんだよ…!」
 
 ルージュが最初に目を覚ましたのは、国へ帰る船の中であった。全身に添え木され包帯を巻かれ、身動きもできない状態で彼はベッドに横たわっていたが、
「だいじょぶか? ルージュ…。」
 激痛にしかめた瞼をようやく開いた時、視界いっぱいに大写しになったのは心配そうなヒロの顔だった。ルージュが口を動かすと、
「ああしゃべんなしゃべんな。なんも言わなくていいから。この船はロゼの姉ちゃんの国のだ。お前の傷に響かないようにゆっくりゆっくり進んでっかんな。」
 幼子に語り聞かすようにヒロは言った。彼の後ろに誰かいるのに気づいてルージュは目を動かした。怯えに似たその表情に、ヒロはルージュの心の疲弊を知った。彼はルージュの手を握った。
「心配すんな。うちのヤブだよ。ヴォルフガングたちと一緒に来たんだ。お前の怪我全部調べて、手当てしてくれたのこいつだから。んな。」
 ヒロは振り返りバジーラに笑いかけた。はい、と彼女は礼をしてベッドの脇にやってきた。
「ご無事で何よりでございます、閣下。お怪我は決して軽いものではございませんが、時間をかければ必ず完治するものばかり。日ごろから鍛えていらっしゃったお体ゆえ、体力さえ戻れば回復は早うございましょう。」
「な、安心したろ?」
 ヒロはもう片方の手も添えて、包帯の先に覗くルージュの指を包んだ。
「おいらだったらさ、ここまでもたずにぜってー死んでたって、こいつ言いやがんだぜ。失敬な奴だよなー。おいらは繊細なんだよ。お前みたいな体力の化物とは違って。」
 くすっ、とようやくルージュは笑った。ヒロの笑顔も輝いた。こいつは生きているのだと、生きて自分のそばに戻ってきてくれたのだと、そんな実感が胸に溢れてヒロの頬を伝った。
「泣いてんじゃねぇよ、馬鹿…。」
 ルージュは言った。えへへ、とヒロは泣き笑いした。
 
 何度めかにルージュが目覚めた時、船は港に錨を下ろしていた。ベッドのクッションごと担架に移されたルージュのそばを、ヒロは離れなかった。
「こっから先は馬車しかねぇから、どうしても揺れるんだよな。一応一番揺れの少ない大型のやつ用意さしたけど、キツくなったら言えよ。すぐにどっかで休憩さしてやっからな。」
「んな、重病人扱いすんじゃねぇよ。平気だっつの。」
「怪我人がでけぇ口たたくんじゃねぇの。」
 言いながらヒロは嬉しかった。わずかの間にルージュの体は、こんな会話ができるほどに回復している。陸に上がれば食料の調達は容易であるから、もっと栄養価が高くて消化のいいものを食べさせてやれるだろう。
「早く元気になれよルージュ。」
 馬車の中で、彼の羽根布団の衿元を直しつつヒロは言った。
「元通りに元気になったら、おいら、お前をぶん殴んなきゃなんねぇんだからな。そのためにここまで苦労して、お前を助けに行ったんだからよ。」
「ンだよ勘弁しろよ…。殴られに戻ってきたのかよ俺は。」
「あと、これからのこともな。国のこととか将来のこととか、お前と、それからロゼと、相談して決めようと思ってる。」
「そういやロゼは都で待ってんのか?」
「違う違う。あいつもおいらと一緒にお前助けに行ったの。でもエフゲの後始末があっから残ってもらった。当分戻ってこれねぇだろな。まぁちょうどお前の怪我が治る頃になんじゃねぇか?」
「うっそ、信じらんねぇ。そういうのって普通、国王がやんじゃねぇの。」
「馬鹿、そんな難しいことおいらに出来る訳ねぇべ?」
「ねぇべって…。」
「適材適所、適材適所。あいつに全権委任した。」
 ルージュは呆れたように溜息をついた。ヒロははっと気づいて、
「わり。しゃべりすぎたな。疲れさすなってヤブに言われてたんだ。少し寝な寝な。おいら、ずっとここにいてやるから。」
「いいようってーしー。どっか行ってろよ。」
「はいはい、ぐずるんじゃないの。あ、子守歌歌ってやろっか。」
「やめろ。傷が開く…。」
 軽口を叩きつつもルージュはすぐに寝入った。ヒロはそっと小窓をあけた。道端の草むらに黄色い花が見えた。季節はすっかり春になっていた。
 夕暮れ前、一行はとある集落に宿を借りた。村長の家の一室がルージュのために空けられた。もちろんヒロにも隣室が用意されたが、彼はそれを断ってジプシーたちの野営に加わりたいと言った。ところがジョアンナはそこで思いがけないことを言った。
「あたしらはここで別れるよ。さっきの街道に戻って東にいくと大きな町があるだろう。できれば夜のうちに着きたいんだ。だからすぐに出発するよ。見ての通り、もう支度はできてる。」
「ちょっ、ちょっと待った。」
 ヒロは慌てた。
「んな、ここまで来てそんなこと言うなよぉ。別に急いで行かなきゃなんねぇ訳じゃないだろ? 都まで一緒に行こうよ。そうしないとロクなお礼も…」
「礼なんざいらないよ。」
 ジョアンナはきっぱりと言った。
「あたしらはジプシーさ。法律にも権力にも財産にも、悪いけど興味はないんだ。風のむくまま気の向くまま世界中旅をして、そこで出会った人たちとの思い出がね、あたしらの全てなんだよ。」
 彼女は不敵に笑った。
「あんたと過ごせて、楽しかったよプチ。まぁちょっと大変だったけどね。でも戦さは終わったし元帥も助かったし、万々歳じゃないか。都に帰ったらあんたにはまた、国王としての仕事が待ってんだろ? あたしらにも仕事があるんだよ。東の町へ行って、そこで一稼ぎしてくるさ。」
「そっか…。」
 少し寂しげに笑い、ヒロはジョアンナを見つめた。男顔負けの度胸と行動力を持ちながら、母のように姉のように優しい女。彼女はヒロを抱きしめた。
「あんたはいい男だよプチ。最高にいい男だ。あたしが保証するんだから自信をお持ち。またいつか、どっかで会おうよね。」
「そうだな。」
 ヒロも彼女の背を撫でた。
「今度はゆっくり酒でも飲もうな。いろんなとこ行くんだろうけど、体にだけは気をつけろよ。」
「あんたもね。」
 片頬に1つ口づけて、ジョアンナはヒロを離した。
「じゃあね。…ほら、行くよジェファー。」
 馬車のそばに立っていた少女にジョアンナは声をかけた。するとジェファーは小走りにヒロに近づき、
「あの、あの、これを…」
 泣きだしそうな顔をして何かを差し出した。見るとそれは革と糸を縒り合わせて作った、剣の下げ緒であった。
「私が、作ったんです。どうかこれを伯爵様にお渡し下さい…。」
「ロゼに?」
 聞き返しつつヒロは受け取った。粗末な物ではあったが細工は細かく凝っていて、想いは届かぬと知りながら編んだジェファーの気持ちが、ヒロの胸に痛いほど伝わってきた。
「判った。必ず渡してやるからな。」
 下げ緒をぎゅっと握ってうなずくと、ジェファーは体を2つ折りにしてお辞儀をした。
「元気でな。」
 ヒロはその肩を軽く叩いた。こくりと首を振ったあと、ジェファーは馬車に走っていった。乗り口で待っていたジョアンナは最後にヒロにウィンクし、ばさりと幌を下ろした。車輪は軋み、回り始めた。
 うつむいて泣いているジェファーの肩をジョアンナは抱いてやった。馬車が遠ざかり見えなくなるまで、ヒロは彼らを見送った。

 ルージュの傷にひびかぬよう休み休みの行程だったため、ヒロたちが都に帰還したのは1週間後であった。
 港から放った早駆けの使者はとっくに都に到着しており、戦勝の報はあっという間に町じゅうに知れ渡った。街道には凱旋を祝う人々が溢れ、歓呼と喝采が馬車を迎えた。国王陛下万歳、リーベンスヴェルトT世万歳と群衆は繰り返し、国王の義務だぞとルージュに言われたヒロが顔を出すと、皆は狂喜し、ちぎれんばかりに手を振った。
 馬車が真っ先に向かったのは本陣でも離宮でもなく、かつて若君だった頃にルージュの住んでいた侯爵家の城だった。本邸はあとかたもなく全焼したがこちらはボヤ程度で済んでおり、ルージュの母も侍従たちも、今では住みかをこの城に移していた。
 玄関前に停止した馬車に、駆け寄ってきたのはサヨリーヌだった。自分で扉をあけてヒロは下りた。
「よ、さよぽん。」
 ニヤッと笑うヒロの前に彼女は膝を折ろうとしたが、
「ああああ、そんなんいいから。ほら、連れて帰ってきてやったぞ。お前の一番大事な奴を。」
 ヒロは親指で背後を指し示した。馬車に従ってきた兵士4人が、車内に身を入れ担架に乗せてルージュを運び出したところだった。
「ルージュ、様…!」
 サヨリーヌの視界はたちまち涙にかすんだ。額には包帯が巻かれ頬にはガーゼが止めてあったが、誰よりも愛しいアレキサンドライトの瞳が、微笑をたたえて自分を見ていた。彼女は担架にすがりついた。
「ただいま。心配かけたな。ちゃんと帰ってきたから。安心しろ。な。」
 すずやかに透明なこの声、この声、夢の中に幾度も響いたルージュの声…。サヨリーヌはもう言葉を知らなかった。人前で号泣するなどと信じられない行為を、止める心さえ押し流されていた。彼女の耳元にルージュは囁いた。
「これからはずっと、お前のそばにいるから。お前と一緒に、ずっといるから。」
「ルージュ様…ルージュ様…!」
 ひとしきり泣いて彼女はようやく、いつまでもこうしていては彼が城内に入れないことに気づいた。急いでハンカチを取り出し顔に押し当てて、
「大変、失礼致しました。ルージュ様のお部屋は元通りに整えてございます。どうぞ中へ…。」
 目を伏せて促すと、担架を持った兵士たちは歩き始めた。ついていこうとしてサヨリーヌはハッと立ち止まった。まだヒロに礼を言っていなかった。
 振り向くと、ヒロの笑顔と出会った。馬車の戸口に背中を預け、腕を組み脚を軽く交差させた立ち姿の彼が、その時サヨリーヌにはひどく大きな男に見えた。
「ありがとうございました、陛下…。」
 彼女は膝まづいた。また新たな涙が流れ出した。
「よかったな。」
 慈しみに満ちた声でヒロは言った。
「ルージュはさ、全身ぐるんぐるんに包帯巻かれてっけど、あれは馬車でほら、揺れたりなんかするんで大袈裟に巻いてるだけだから。命にかかわるような怪我はどこにもねぇってよ。安心したべ? ほらそんないつまでもしゃがみこんでないで、早く行ってやんな。」
 ポン、と彼女の肩を1つ叩いて、ヒロは馬車に乗った。サヨリーヌは膝まづいたまま深く頭を垂れ、若く偉大な国王の馬車を心をこめて見送った。
 そのあとヒロは本陣へ行って留守部隊をねぎらい、最後に離宮に着いた。そこは仮の王宮であり、父公爵が政務を代行している場でもあった。
 馬車が城門をくぐると同時に、玄関までずらりと並んだ兵士たちが一斉に剣を掲げた。国王を迎える正規の儀式であった。馬車が停まると天鵞絨の踏台が置かれ、降り立ったヒロの前で臣下の礼をとっていたのは、父・シュテインバッハ公爵だった。
「お帰りなさいませ、陛下。ご戦勝まことにおめでとうございます。」
 公爵の言葉に続いて一同が、おめでとうございますと唱和した。今までのヒロであればすぐ、よして下さいよと居心地悪そうにしたであろうが、
「ただいま戻りました。」
 おごそかに彼は言った。
「留守中の政務、ご苦労でした。みなの忠誠に感謝します。」
「もったいのうございます。」
 さらに深く礼をする公爵に、ヒロは手を差しのべた。
「お立ち下さい公爵。さぁ。」
 公爵はその指を、続いて彼の顔を見上げた。わずかの間に見違えるほどの威厳を宿した、息子の姿があった。
 促されるまま立ち上がり、公爵は正面でヒロの目を見た。髪の色も瞳の色もヒロは母親譲りだった。ヒロの背後に公爵は一瞬、一人息子を誇らしげに見つめる亡き妻の幻を見た。
「ただいま戻りました、父上…。」
 わずかにうるませた瞳に言葉以上の思いをこめてヒロは言った。公爵の声も震えた。
「うん。無事で、何よりだった…。」
「父上も、ご無事で…。」
「当たり前だ。陛下が頑張っているというのに私がひとり先に逝けるか。」
「父上…!」
 ヒロは公爵に抱きついた。公爵はその背を撫でてやった。同じ血のぬくもりがヒロの体を包んだ。
 離宮の中に、ヒロの私室は用意されていた。本来であればすぐ議会を召集して戦勝報告をし、祝宴を行うのが通例であったが、父公爵の優しい気づかいによって全ては日を改めて行うことになり、早々にヒロは開放された。
 部屋へと向かいながら彼は、剣を取りマントを脱ぎ上着のボタンをはずした。ドアをあけてくれた児侍(ペイジ)に下がっていいと告げ、ヒロは室内に入った。すると、
「ヒロ様…!」
「お帰りなさいませ、ヒロ様…!」
 待ち構えて出迎えたのは、
「アマモっち! 久しぶりじゃんかよぉ。ジュヌビ! ちゃんと本の管理しててくれたかぁ? ナーガレット! あいかわらずボーッとしてたんだろ、おめー!」
「ヒロ様…!」
 3人は崩れるように彼の足元に膝を折った。
「おいおいお前らまで泣くなよぉ。なんでそう辛気くさくなっかな。おいら大活躍してきたんだぜ。んで、無事に帰ってきたんだから。もっとさ、こう、パーッと! な? パーッと明るく迎えてくれよぉ! ほら泣かないのぉ。な〜? はい立って立って! 全員、きりーつ! なに転んでんだよナーガレット。はいっそれではぁ、おいらの戦勝を祝って万歳三唱! せーのっ!」
 万歳、万歳と繰り返しつつ彼女らは泣き、また笑った。内輪での祝事が済むとヒロはゆったり湯につかり、好物ばかりの料理を食べワインを飲み、香りのいいシーツにくるまった。何か月ぶりかで彼は、夢も見ずに眠った。
 
 ルージュの怪我は都に帰ってから劇的に回復した。もとより基礎体力がある上にバジーラの的確な治療と、それにサヨリーヌの細やかな看護が加わり、彼は日1日と健康を取り戻していった。以前、聖ローマ祭の御前試合でルージュが深手を負った時には、まだ公爵家嫡男だったヒロが毎日見舞いに来たものだったが、さすがに今ではそれはできず、ルージュのもとにもたらされるのは使者の伝言と、肉や果物や珍しい花などの品々であった。
 ヒロが予想した通り、ルージュがベッドを下りて歩けるようになったちょうどその頃、エフゲイアからロゼが帰国した。季節は春のさなかというのに相変わらず黒絹の衣装の彼は、痩せてはいたが顔色はそれほど悪くなかった。
 玉座の下に膝まづいたロゼの帰還の辞が終わるのを待たず、ヒロは立ち上がり歩み寄った。
「お帰り、ロゼ。」
 長いマントの裾を床に流し、ヒロは屈んでロゼを抱きしめた。
「陛下…。」
 群臣の見つめる中なのでロゼは少し困った様子をしたが、王者の威厳をいくら宿してもこれだけは変わらず、ヒロは衆目など気にせずに強引にロゼを立ち上がらせた。
「戦さの後処理、大変だったよな。ありがとう。報告はあとでゆっくり聞く。とにかく城に帰って休め。な。」
 ポンポンと両腕を叩かれて、
「いえ、陛下、お言葉は光栄なれどそういう訳には…」
「いいから。」
 だがヒロは譲らなかった。
「その代わり明日の昼に、またここに来てくれ。おいらとお前と、それからルージュと、3人だけで相談したいことがある。」
 ヒロは軽く背後を振り返った。視線の先をロゼは見た。玉座の脇の椅子から不自由そうに立ち上がり、
「よ。」
 ルージュはニヤリと笑った。
「元帥…!」
 ロゼは思わず駆け寄った。ルージュの頬にはまだやつれが残っていた。杖こそ突いていなかったが、踏み締めると痛むのであろう、左足の踵は浮いていた。それも当然、この日はルージュの帰国後初めての外出であった。
「馬鹿、座ってろっつったべ?」
 ヒロも飛んできて肩を支えようとしたのを、
「いらねぇよ。」
 ルージュはぐいと外し、まっすぐに背を伸ばしてロゼを見た。
「無事で何よりだったな総参謀長。」
「元帥こそ…。ずいぶん元気そうで、安心したよ。」
「俺がこうやってここにいれんのは、お前のおかげでもあるんだよな。」
 ルージュはロゼの手を両手で握り、
「礼を言う。ありがとう。」
「俺に礼なんか言うことない。君を救ったのは陛下だよ。陛下は命懸けで、君と、この国とを救ったんだ。」
 ロゼの言葉は今のこの場を十分に意識してはいたが、同時に偽らざる本心でもあった。2人の視線を受けたヒロは、
「よせって。」
 照れた顔になり目をそらした。
 群臣たちの間に広がった暖かな微笑を感じ取って、スガーリは唱和を促した。
「御代に栄えあれ! リーベンスヴェルト1世陛下、万歳!」
 家臣たちは声を揃え、万歳、万歳と繰り返した。ロゼは万感の思いで彼らを見回し、最後にヒロの横顔を見た。ふとロゼは笑みを消した。ヒロの表情に不可思議な翳が…いや、翳というほど暗くはなく、また哀れみとも少し違う、寂しさのような怖れのような、あるいは決意のようなものが、はっきりと浮かんでいたからであった。
 明日の午後再度祗候することを約束して、ロゼは帰路についた。戦功高きジュペール伯爵の馬車とあって、道端のあちこちで手を振る民にロゼはしばらくの間応えていたが、やがて森にさしかかったあたりで彼は窓を閉め、座席にもたれて溜息をついた。
 都の主だった屋敷のうち唯一火災をまぬがれたのが伯爵邸だというのは伝え聞いていた。しかしその感動と安堵感を噛みしめるのも後回しになるほど、ロゼは今さっきのヒロの表情が気にかかっていた。
(ヒロは、何か考えてる。)
 目を閉じ腕を組み、車輪の揺れに体をまかせつつロゼは確信した。
(何かとても大きなことだ。だからこそ日を改めて落ち着いて話したかったんだ。でもそれは何だろう。今の彼にあれほど深い、えもいえない目をさせるとは…。)
 ふう、ともう1つ息を吐き、そこでロゼはハッと目をあいた。
『なんだよ国王って…。』
 記憶の中でヒロの声がした。
『元帥ってなんだ。立場ってなんだよ。そんなもんに縛られて自由に生きらんねぇような国だったら、おいら国王なんかたった今やめてやるよ! 立場だの身分だの、昔誰かが決めただけだろ。そんなもんとっ払っちまえばいいだろが!』
 まさか…とロゼはつぶやいた。
「あいつ、この国を根元から変えるつもりなんじゃないだろうな。」
 突如浮かんだ直感をロゼは否定できなかった。否定するどころか輪郭はますます濃く太くなって、確かな形を帯び始めた。戦争などとは比べものにならない大変革――王政の撤廃と共和制への移行――を、ヒロは決意しているのかも知れない。権力構造と価値観が根底から覆るその革命行為は、どんな国王をも震え上がらせるものだ。だからこそ共和制を説く書物は古来より禁書とされ、時には権力者によって焼き捨てられることも多かった。古今東西の王者が何よりも怖れたその思想を、ヒロはすすんで取り入れようというのだろうか。許された権力を財産を名誉をみな捨て去り、全く新しい自由の国を、身を挺して作り出そうというのだろうか…。
「停めろ!」
 ロゼは窓をあけ、護衛兵に命じた。
「城に使いを出して、帰りは夜になると伝えてくれ。このまま王立大学の図書館へ行く。急げ!」
 指示を受けて御者は手綱を引いた。馬車は来た道を戻り始めた。亡き父が保管していた蔵書の中に、共和制思想の本があったことをロゼは思い出したのだ。
 
 翌日ヒロとルージュとロゼは、離宮内の国王の私室でテーブルを囲み向かい合った。侍従が飲み物を運んでいる間、ヒロはジロリとロゼを見て言った。
「お前、夕べ帰ったの夜中なんだってな。」
「そうなのか?」
 驚いてルージュも聞いた。ん?と曖昧に応じるロゼにヒロは、
「ひなっつぅが心配して使いよこしたんだよ。もしかして具合でも悪くなったんじゃないかって。こっちはそんなん全然聞いてねぇから、間の抜けた返事しかできなくてよ。どこ行ってたんだよお前。しけこむにしてもタチわりぃぜ?」
 脇からルージュも、
「そりゃちょっとまじぃだろ。とにかく一旦は帰んねぇと。あーらら、可哀相になぁ女官長。せっかくわが君のお帰りをクビ長くして待ってたっていうのに。」
 片や不機嫌、片や面白そうに言う2人に、
「そんなんじゃないよ。」
 ロゼはあっさり否定したが、
「ッたくよ、おいらだったらキレてんぜ? ずっと戦場に行ってて心配してた相手が、やっと帰ってきたと思ったら行方不明なんてよぉ。」
「行方不明は大袈裟だよ。ちょっとね、どうしても昨日のうちに調べておきたいことがあったんだ。」
 ちらりとロゼはヒロを見て、
「王立大学のさ、図書館でね。これから君がしようとしてる話に、多分必要なんじゃないかと思って。」
 ふっとヒロは口をつぐみ、なぜ判ったという顔でロゼを見た。ロゼは紅茶をつぎおえた侍従に、
「ありがとう。ここはもういいから、陛下が呼ぶまで誰も中に入れないように。いいね。」
「かしこまりました伯爵様。」
 侍従は礼をし、下がっていった。
「何だよ、話ってのは何。」
 2人を交互に見比べながらルージュは言った。ロゼは指先に視線を落とし、黙った。君から話せというヒロへの合図だった。意味なく衿元に手をやって、ヒロは軽く咳払いした。
「実は…今回の戦さが始まる前から、おいらはずっとあることを考えてたんだ。いや、もっと前からかな。マンフレッドからこの都に帰ってきた時…その頃から、これはおかしいんじゃないかと考えてたことがあるんだ。」
 一言一言をはっきりと、自分に言い聞かすように語るヒロに、ロゼは昨日の自分の予感が正しかったことを知った。
「結論から言う。おいらは王位を下りる。」
「何?」
 ルージュは聞き返したが、
「てゆうか国王をいなくする。」
「お前…」
「いいから聞いてくれ。1つの国の全てのことを、ただ国王だけが決めるってのはへんじゃないか。この国には素晴らしい奴らがいっぱいいるんだ。そいつらの意見や考えを、もっともっと取り入れるべきだと思う。都だけじゃない、マンフレッドの町にも、自分の欲得や利益は後回しにして、みんなのこと考えようとしてる奴は山ほどいるんだ。でも、そいつらは平民で貴族じゃない。せいぜい町の集会の場で意見を言えるだけで、正式な議員にはなれねぇんだ。なぁ、おかしくねぇかこういうの。おかしいだろロゼ。」
「…。」
 身を乗り出して問われても、ロゼには即答できなかった。ヒロの意見には、もう何回も何回も考えては訂正し訂正しては塗り直し、そうやってまとめ上げられた証である静謐さが宿っていた。ヒロは述べ続けた。
「この戦さで、大勢の兵士が死んだ。彼らは果たして、なぜ自分が戦さに行くのか判ってて行ったんだろうか。おいらはそうじゃないような気がする。ほとんどの奴は徴兵されたから軍隊に入って、国王に命令されたから戦った。戦いの意味も自分の意志も、確かめる方法さえなく死んでいった。その罪を、おいらは忘れない。一生忘れることはできない。」
 目を伏せたヒロの横顔にルージュは、エベ高地に陣を張っていたエフゲイア軍を全滅させた時の彼を思い出した。大きなその目を見開いて、あの時ヒロはぼろぼろ泣いていた。
「間違わないでくれよ。おいらは、罪から逃げたい訳じゃない。この世から戦さはそう簡単にはなくならないだろうし、王様をいなくしたからって解決しない問題もあることも判ってる。罪を承知で手を汚すのも国王の仕事だと思う。…だけど、人生を選ぶ権利は1人1人にあるんだ。誰かに決められていいことじゃない。たとえそれが国王だろうと、ほんの一握りの人間たちで作られた、国の法律であろうとな。」
 ひとくぎり語り終え、ヒロはカップを口に運んだ。ふうっと浅い溜息をついて今度はロゼが言った。
「リスクは、判ってるんだね。」
 その目をヒロは見た。親友であり戦友であり、最も信頼する同志の1人でもあるロゼが、賛成してくれるか反対するか…ヒロにとって一番の不安はそれだったのだが、
「言っただろう。俺は君を信じるよ、ヒロ。」
 決意を示す厳しい目は一瞬だけで、ロゼはすぐ穏やかな眼差しに戻った。
「君の意見はとても正しい。ただしあくまでも理想としてね。いざ実現するとなると、問題点は雨あられのように襲いかかってくるだろう。いま君が言った通り、共和制にしたからって解決しない問題はあるし、逆に新たな歪みを産む可能性だってある。王政だろうと共和制だろうと、必ず欠点はあるんだ。みんながみんな100%幸せに暮らせる理想郷なんてものは、おとぎの世界にしかありえないよ。」
 カチャリとヒロはカップを置いた。何か言おうとするのをロゼは微笑みで遮った。
「でも、今のままでは何も変わらないのは確かなんだ。旧態依然の身分制度に、古くさいしきたりによって硬直化した法律。実力ではなく家柄が、斬新な発想よりも伝統が、幅をきかせているこの国だ。思えばこれは恐るべきことで、どこかで誰かが改めなきゃいけない。エフゲイアに勝ったからって安穏としてると、今度はどこに足元をすくわれるか判らないよ。その時になって慌てても遅すぎる。脱皮できない蛇は死ぬんだ。人間も国家も同じことさ。君がいいたいのはこういうことだろう、ヒロ。」
「ロゼ…。」
 感極まった表情でヒロはうなずいた。ロゼは言葉を継いだ。
「もしかしたら今は、いい時期かも知れないね。戦勝の知らせで国中が明るい。戦さの間はつらかったけど、今や民の心は希望に満ちているだろう。不幸や絶望の中での変革は社会不安を巻き起こす。でも希望の中で変わっていくなら、そんなに怖くはないはずだ。新しい時代が来る。地位や身分にとらわれず、皆で自由に意見を述べあい、果てしない理想に向かって歩いていける時代が。その第1歩を君は、自ら踏み出そうというんだね。」
 ヒロの情熱が乗り移ったかのようにロゼの口調は熱かったが、それまで黙って聞いていたルージュがようやく口を開いた。
「俺は、お前がアタマ下りる必要はねぇと思うけどな。」
 揃ってこちらを見る2人に、
「制度変えんのには俺も賛成だよ。古臭ぇもんはこの際、全部とっぱらっちまった方がいいと思う。だけど、アタマはやっぱお前だろ。どんな場合だってまとめ役は必要なんだし、こう…何ていうかな…俺はロゼみたくこう、スラスラッと言葉にできねぇんだけど…つまりお前まで下りちゃったんじゃ、なんか逆に不安っつーか、頼りどころがなくなんじゃねぇか?」
「もちろんそうだね。」
 ロゼは大きく肯定し、
「だから国民投票をすればいいんだよ。いやすぐには無理だけどね。半年後か1年後か…それまでは暫定の政府で組織と制度の改革を進めて、最終的には全国民の決裁に任せるんだ。民が自分たちの意志でヒロ・リーベンスヴェルトを主導者に選んだなら、その時こそ君は胸を張って王座に…いや王座じゃないな。何という呼び名になるかは判らないけど、ルージュのいうこの国のアタマの座につけばいい。」
「アタマの座か。」
 クスッとルージュは笑って、
「そういう事か。だったらいいんじゃねぇか? お前が上なら俺はそれでいいよ。」
 さらりと言い切った彼にロゼは、
「でも国民がヒロじゃ駄目だって言ったら、それはもうそこまでなんだよ?」
「いや言わねぇだろ。」
「言わねぇだろって…。」
「言うんじゃねーかぁ?」
 カカカと笑ったのはヒロだった。
「まぁとにかくやってみんべ。いろいろ大変だと思うけど、頼むなロゼ。」
「頼むなって、一番大変なのは君なんだよ。判ってる?」
「そう言われてもなぁ、組織と制度の改革なんて、おいら全然判んねぇかんな。」
「ちょっとちょっと勘弁してよ。そんな無責任な…。ねぇ何とか言ってやってよルージュ。」
「なんとかー!」
「…そうじゃないって…。」
 ロゼは頭を抱えた。ヒロはおかしそうに、
「ふんじゃおいらも何かやってやろうか? おいらに手伝えることある? またハンコでも磨くか?」
「…そうだ。」
 ロゼはハッと顔を上げた。
「ね、印璽はどうなってる。国書用の新しい印璽。同盟国に援助の礼状を出さなきゃならないのに、それがないと何も作れないよ。」
「ああ、今ヴェエルに彫らしてら。そろそろ出来上がる頃じゃねぇかな。」
「じゃあ行ってみねぇ?」
 突如ルージュは提案した。今から?とロゼは言い、ヒロは、
「だってお前まだ馬乗れねぇだろ。」
 すでに腰を浮かしかけているルージュを心配顔で見たが、
「だからここへも馬車で来てるっつの。お前ら馬でいいじゃん。俺は馬車で行くから。なぁ行こうぜぇ。久しぶりだろ3人して出かけるのなんて。」
「…そうだよな!」
 ヒロはきらきら光る目で昔と全く同じ笑い方をし、
「行くべ行くべ! ほらロゼさっさと来いよ。そんないつまでもお茶すすってんじゃないのぉ。早くいらっしゃい?」
「ちょっと待ってよ、本当に?」
 ロゼが躊躇しているうちにルージュはそっとドアをあけ、
「よし、誰もいねぇぞ。」
「マジマジ? なんかドキドキすんなぁ!」
「いいか音たてんなよ。そーっとそーっと玄関までな。」
「おしゃっ!」
 2人は出ていってしまい、ロゼも続くしかなかった。
 仮とはいえここは王宮であるから、3人はもちろん衛兵に見つかった。ヒロはしーっと指を立て、
「お忍びお忍び。元帥と伯爵と一緒。心配すんなすぐ帰ってくっから。大臣どもには言うんじゃねぇぞ。バラしたらボーナスやんねぇかんな。」
 ロゼは呆れ顔で苦笑して、
「ほんとに何を言ってるんだよ…。急に子供に戻っちゃって。」
 それから衛兵の方を向き、
「大丈夫だ、僕がついて行くから。公爵にだけはこっそり耳うちしておいてくれ。夕方にはならずに戻る。」
「御意、伯爵。」
 物判りのいい顔で兵士は敬礼した。
 
 ヴェエルの城には偶然にもジョーヌが来ていた。木屑に鉄屑、砂まで散らばった工作室で印璽を彫っているヴェエルの手元を、ジョーヌは興味深げに見守っていた。するとそこへマスミーナがやって来て、
「若様若様! ただ今陛下と侯爵閣下、それにジュペール伯爵がおそろいでおみえになりました!」
「え? なに、スリートップが揃い踏み?」
「はい、さようでございます。どうぞすぐにお召し替えを…」
「いいよあいつらなら気取んなくて。ここに呼んでよ。」
「まさか…陛下をこんな雑然としたお部屋にお呼びする訳には…」
「平気だって、そういうの気にする国王じゃないから。てゆーか多分もう、そのへんに来てんじゃないの?」
「…よく判ったな。」
 真後ろで聞こえたハスキーボイスにマスミーナは飛び上がった。
「よーおヴェエル。ハンコ彫れたかぁ?」
 足の踏み場もない部屋に、ヒロはひょいひょい入ってきた。ルージュとロゼもテーブルに近づいた。
「出来たよぉ。ちょうど今仕上げてたとこ。」
「どれ見してみな。へぇ綺麗じゃんかぁ。」
「ほらこれが国王のでね、こっちがロゼのでしょ。んでこれが外務大臣のやつ。」
「器用だよなお前なー! こんな飾りまで彫ってくれたんだ。見てみろよルージュこれ。ほらロゼもロゼも。」
 ヒロの指に挟まれた印璽は大理石で、丁寧な細工の施された見事なものだった。ヴェエルは胸を張った。
「これだったらさ、多分100年ぐらいはもつから。すり減ったらまた削ってやるよ。」
 ニコニコ笑うヴェエルの肩にヒロはそっと手を置いた。
「いや…多分1年ぐらいたったら、また新しい印璽を彫ってもらうことになると思う。」
「え? 何、どういうこと?」
 ヴェエルがきょとんとすると、
「お前ら2人にも、話しておかなきゃならないな。今、おいらとルージュとロゼで、この国の将来について相談してきたんだ。」
「将来って…どしたの、なんだよいきなり。」
 ヴェエルは3人を見回して、それからジョーヌと顔を見合わせた。
「いいから座れ。みんな座って。お前らの意見も聞きたいから。」
 2人は半信半疑で腰を下ろし、ヒロと、それからロゼの話を黙って聞いた。
「つまり、主権を国民に与えるってことだね。」
 しばしの沈黙ののち言ったのはジョーヌだった。
「俺は賛成だな。そうするべきだと思うよ。エフゲイアにも勝ったしこれからは、この国もけっこう大きくなるだろ。そうしたらもう一握りの人間の判断だけじゃ、狂うこともあって怖いかも知れないね。地方の農民の意見も聞かずに税率を決めるのは間違ってるよ。もっと、その土地に密着した政治をしなきゃだめだ。」
 予想外に明確な意志を示すジョーヌにロゼが驚く間もなく、ヴェエルも、
「これからは地方分権の時代だろうね。中央集権は今現在でギリギリっしょ。制度も部品も完全に壊れる前に取り替えないと大事故になるしさ。やるなら早い方がいいよ。」
「お前ら…。」
 ヒロも意外そうに2人を見た。
「本当に、判ってるのか。」
 念を押すようにヒロは言った。
「この制度が決まれば身分はなくなる。貴族はいなくなって、お前らも、子爵でも男爵家嫡男でもなくなるんだぞ。住んでるとこ以外の領地も多分なくなって、食うために自分で稼がなきゃならない――」
「今だって稼いでるようなもんじゃん。」
 ケロリとヴェエルは言った。
「うちは国家の修理屋だよ? 屋根に穴があけば飛んでって直すし、ドブの蓋が割れても直しに行く。それで報酬貰えんだったら、逆にありがたいくらいよ俺。」
「うちだってそうだよ。」
 ジョーヌの笑顔にも屈託はなかった。
「父上がいつも言ってた。倉庫の小麦は子爵家のものではない、あれは国民から預かっているにすぎないんだって。うちの役目は食料庫の番人だよ。貴族とか、そういうのは関係ない。」
 きっぱりとジョーヌは首を振った。
「この国を、新しい国にするんだろ。」
 ヴェエルの声は弾んだ。
「何かさ、こう、大胆で斬新で、大人でも子供でもアイデアがあったら、わーって出せるようなのがいいよね。こういうの作りたーい! わーっ! あんなのも作りたーい! わーっ!て。」
「いやそんなにうまくはいかないと思うけど…。」
 小声で反論するロゼを無視し、
「今ね、俺、鳥みたいに空飛ぶ機械作ろうと思って設計図書いてんの。すごいでしょ。もし実現したら隣の国まで空飛んで行けるようになんだぜ。そういうアイデア持ってる奴をさ、国中から集めて学校作ろうよ。すげーことになるかも知んないよ。」
「うん、面白そうだなそれな。」
 ヒロは乗り気になって先を促した。身ぶり手ぶりを加えて説明するヴェエルにロゼが苦笑いするのを見て、ルージュは、
「これさぁロゼ。やっぱお前が一番大変かもな。」
 彼の肩に肘を乗せ、くふっと笑ってウィンクした。
「何だかホッとしたよ。」
 うち興じた話の山が自然に平らかになった時、静かな微笑みを浮かべてヒロは言った。
「みんなにこの話をするの、おいら正直言って不安だったんだ。全員に反対されたらどうしよう、引っこみつかねぇよなぁ…って思ってた。でもそんなことなかったな。おいらよりみんなの方がずっと専門的で、真剣に考えてくれてたんだな。」
「そんなことないよ。」
 ジョーヌは否定した。
「ヒロも俺らも、みんな同じこと感じてたんだよ。このまま勝利に安住しちゃいけないって、…もしかしたら他にもそう思ってる人、案外多いかも知れないよ。」
「そうだな。みんな、この国のことを考えてるんだな。」
「当たり前だよ。だって俺たちの国なんだから。」
 うん、とうなずく互いの表情に、5人は深い信頼と友愛とを改めて確かめ合った。
「まだまだ、うちらはこれからだよな。」
 ばさっと髪を振ってルージュは言った。
「どこまで行けっか判んねぇけど、ま、このメンツなら何とかなんだろ。急がずゆっくり、確実に行こうぜ。」
「賛成。」
 テーブルの真ん中にヴェエルはドンと手を置いた。その上にジョーヌが重ねた。
「今年は豊作だよ。新しい小麦の出来がすごくいいんだ。秋には国中においしいパンを配れるよ。」
「楽しみだな。」
 ロゼも手を伸ばした。その甲をルージュはぴしゃっと叩いた。
「領主初夜権だけ復活させねぇ?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。」
 最後にヒロが手を置いた。
「頑張ろうな。」
「ぜってー諦めんじゃねぇぞ。」
「ああもちろんさ。」
「みんなでやれば大丈夫だよ。」
「よっしゃーっ! 張り切っていこうぜぃ!」
 おぅ!と5人は声を揃えた。いま5つの魂は誓った。手をとりあい、命ある限り、果てしない理想に向かって歩き続けていくことを。
 
 日没間近な太陽が淡い光を投げる城の前に、ルージュの馬車は停まった。建物の中からサヨリーヌが駆け出てきた。
「ルージュ様!」
 降り口の段を踏みしめる時はさすがによろめく彼のもとへ彼女は飛んできて
「まだまだご無理はなりませんのに、こんな長時間のお出かけとは…。ご気分はいかがでございます。どこか痛んだり苦しかったりは…」
「ねえよ。大丈夫、どこも何ともねぇから。」
「本当でございますね。意地など張ってはいらっしゃいませんね。」
「ねぇっつの。安心しろ、お前に嘘はつかねぇから。」
「ならばようございますが。」
 人目を離れたルージュの歩き方は、やはりかすかに左足が浮いていた。時間をかければ完治すると医者は保証していたが、それでもサヨリーヌは痛々しくて、ルージュの体を支えるようにぴったりと寄り添って歩いた。
「新しい時代が来るぞ。」
 瞳に力強い光を宿し、ルージュはサヨリーヌに言った。
「古臭ぇもんは何もかんも捨てる。意味のない制度は根こそぎぶっ壊す。身分も家柄もどうだっていい。そういう国を、これから作っていく。自由と、希望と、未来で出来た国だ。」
「自由…。」
 サヨリーヌはつぶやいた。身分も家柄も関係なく、自由に恋のできる国。愛する人に愛していると、大声で言えるそんな国。耐えがたいほどの動悸に突き動かされて、サヨリーヌはルージュを見上げた。ルージュも彼女を見て笑った。その笑顔は彼女が今まで見たことのない、男としての彼の表情であった。
 まばゆい目まいに襲われて崩れ落ちそうな彼女の耳に、ルージュの囁きが聞こえた。
「花嫁衣装、好きなの選べよ。」
「…はい…?」
 サヨリーヌの声はかすれた。唇に自由はもうなかった。
 
 帰り着いたロゼの書斎に、ヒナツェリアは食事前の茶を運んだ。春の夕暮れの柔らかな光の中、窓辺に佇んでいる彼の姿にひそかな溜息をつきつつ、彼女はティーカップに褐色の液体を注いだ。
「民主制か…。険しい道だな…。」
 ぽつりと彼が漏らした声をヒナツェリアは敏感に聞きとめた。
「民主制とは、ずいぶんと重大なお話でございますね。もしや陛下のお考えというのは、それだったのでございますか。」
「ああ。」
 ロゼは窓に背をむけて、机の椅子を引き腰を下ろした。ヒナツェリアはカップを置いた。
「どんな思想も国家体制も、理想なくしては確立しない。理想なき制度は単なる欲望の手段だ。ヒロの掲げる理想は正しいし、歩んでいく価値もあるけど、実践するのは並大抵のことじゃないからね。俺にとってはこれからまた、眠れない夜が続きそうだよ。」
「まぁ…。」
 ヒナツェリアは眉を寄せた。戦さは終わり国中が勝利に酔っているこんな時でも、このおかたの心を憂愁の薄雲が去ることはない…。彼女の胸は切なく痛んだ。
 ヒナツェリアの紅茶を一口飲んで、ロゼは自分の心を整理するように語り続けた。
「絶対王政と身分制度にも利点はある。それは秩序の判りやすさなんだ。血縁ほど判りやすくて絶対的な秩序はないからね。民主制の怖さはこの『絶対的な判りやすさ』と、代々受け継がれる『家の誇り』を捨て去ることにあるんだよ。理想なき制度が悪であるように、誇りなき指導者は暴君にも劣る。自由と平等を支える秩序は、絶対ではなく相対的に作られなければならない。そのために必要なのは、1にも2にも教育なんだ。民主制の礎(いしずえ)は教育だ。何が正しくて何が正しくないのか、守るべき理想は何なのかを、血ではなく教育によってしっかり国民に教えなければ、民主制は愚かな主権者を戴いてしまう。税制より議会制より、まずはこの国の教育体制を根本から見直す必要があるだろうな。」
「心から、お敬い申し上げます、わが君。」
 ヒナツェリアは深く膝を沈めて礼をした。
「かくも誇り高くご立派な御方にお仕え申し上げられること、私にとりましては至上の幸福と存じます。微力ながらこの命に代えて、お手伝いさせて頂きとうございます。」
「うん。」
 ロゼはゆったりと微笑んだ。
「これからも君には助けてもらわなきゃならないね。新しい時代にはもう身分や性別は関係なくなる。女性にも大学の扉を開いて、自由に職業に就けるようにしたい。もちろん恋愛も結婚も自由だ。」
「まぁ…。」
「できれば君には、女性たちの先頭に立ってもらいたいな、僕の女官長。新しい時代は女性の時代かも知れないよ。」
「まぁ、伯爵…。」
 思わず彼女は頬を染めた。
 恋愛も、結婚も自由。君には女性の先頭に立って欲しい。そう言われるだけでも嬉しいのに、今彼は間違いなく「僕の女官長」と言った。まさか、まさか新しい時代の象徴として、想いを貫けと彼は示唆しているのではなかろうか。ヒナツェリアの手は震え、瞳は熱を帯びて潤んだ。
「どうしたの?ヒナツェリア。顔が赤いよ?」
 ロゼは小さく首をかしげ、これ以上は望みようのない甘やかな声で言った。
「更年期かな…。」
 
 夕食のあとヒロは、父公爵の部屋を訪れて決意を語った。伝統と礼節を何よりも重んじるこの公爵家当主には、当然強い反対をされるだろうと覚悟の上であったが、彼は一瞬だけどこかが痛むように眉を震わせると、
「お前が決めたことに、私は反対しない。迷わずにその道を進みなさい。」
 父親にふさわしい毅然とした表情になって言った。その様子にヒロはふと、あの日、公爵家でのお披露目の際に、居並ぶ王侯貴族たちを前に堂々と立っていた父の姿を思い出した。公爵は静かに続けた。
「お前はもう、まごうことなきこの国の主(あるじ)だ。私に教えられることは何もない。私は譲り葉になってお前を守ろう。年老いた臣たちの処遇は私に任せなさい。私なら彼らを説得できるから。」
「父上…。」
 ヒロの心は軋んだ。正しいと信じて決意した民主制への移行は、父が今まで大切にしてきたものを――代々受け継いできた、誉れ高きシュテインバッハ公爵の名を、過去という名の暗い墓場に葬らせる行為であった。枝を伸ばし木を育て、自らの季節を終えて静かに散り落ちる譲り葉の思い。枝を離れるその瞬間まで、残る木の未来を案じつつ。
「父上のお心、決して無駄にはしません。」
 はふり落ちる涙をぬぐおうともせず、ヒロは言った。
「前(さきの)陛下や父上や、これまでこの国を作ってきた人たちの心を、決して見失うことなく、よりよい未来を築いていきたいと思います。どうかこれからも見守っていて下さい。僕の父上はたった1人、父上だけなんですから…。」
「判った。」
 公爵の目にも涙があった。彼は息子の肩を撫で、親指で涙をぬぐってやった。ぐすっとヒロは洟をすすって、
「あと…もう1つお願いがあるんですけど。」
「何だ。」
「もう少し、落ち着いてからの話なんですけど、父上に、会ってほしい子がいるんです。」
「…ん?」
 とまどったように公爵は聞き返した。ヒロは濡れた瞼で照れ笑いした。公爵の顔にも見る見る笑顔がひろがった。
「そうか。お前、そういう子がいたのか。」
「はい。」
「どんな子だ。私の知っている娘か?」
「いえ、多分ご存じないと思います。マンフレッドにいる時からつきあってた子なんで…。」
「そうかそうか。どんな子なんだ。母上よりも美人か?」
「いやー…母上には負けると思いますけど…。すごく元気で明るくて、口はちょっと悪いんですけど、ほんとはすごく優しい子です。カイっていって、マンフレッドを出る時に、この十字架おいらにくれて…。」
 衿の中からヒロが取り出したそれを見、公爵は初めて、なぜヒロがその十字架を肌身離さずにいたのか知った。
「そうか。大切な人なんだな。」
「はい。こっちに来てからもずっと、彼女のことが忘れられませんでした。」
「そうか。迎えに行くのか?」
「はい。もう少し落ち着いたら行ってきます。もうごちゃごちゃは言わせません。また何か文句言うようだったら、横抱きにしてかっさらってきます。」
「いや、そんなに強引に出てはいかん。女心は微妙なものだ。押せば逃げる。引けば向こうから追ってくる。このかけひきが恋愛の妙でな。」
「…父上?」
 ヒロと公爵は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。
「早く会いたいな、お前の恋人に。私は昔から娘を持ってみたかったんだ。その夢がかなえられるのか。今から楽しみだよ。」
 父は微笑み、ヒロも笑った。1つの時代の終わりはそのまま、新しい時代の始まりとなる。公爵はそれを確信し、ヒロを深く抱擁した。
 その夜、ヒロは寝室の窓をあけて月を見た。おぼろに霞む濃紺の空に、カイやジョアンナ、市長とマイヤーとマンフレッドの男たち、それから大切な4人の仲間、ルージュ、ロゼ、ジョーヌ、ヴェエルの笑顔が次々と浮かび上がった。
 夜がきて、朝がきて、夏が訪れまた冬になる。月日は巡り繰り返し、いつか期(お)わるそれまでの刻を、知るすべもない明日に向かって、人はみな生きていく。なぜこの世に生を受けたか、それがこの星の愛だというのなら、生きるとはこの星との約束を、果たすことに他ならない。
 窓枠に肘をついて、ヒロは手を組み祈った。この国を、この世界を、能う限りに愛して生きよう。命と心を遠い未来へ繋ぐため。大いなる約束を果たすために。……
 
 そして、はるか月日は巡った。
 
 今、かつて離宮のあった高台は緑豊かな公園となっている。長い年月の間に世界は幾度も揺れ動き、世代は代わり国は遷ろい、衰えまた興(お)き、栄えた。
 しかし彼らの物語は歴史の波間に沈むことなく、記憶を語り継ぐ者のたちの手でさまざまな書物に記された。昔むかし、この国に5人の青年たちがいた。彼らの生きざまは多くのひとたちに愛され、誰が建てたのか高台の公園には、5人の彫刻が残されていた。彼らを知る者の手によるのか、物語を愛した者の手によるのか、研究者たちは諸説を述べても真実はいまだ謎であった。今の世人にただ1つ判るのは、その彫刻は永の年月風雨にさらされ度々破損したはずなのに、誰かが必ずそれを修理し、次の世代へ伝えてきたということだけだった。
 5人の像の足元には、それぞれの名前と愛すべきエピソードが流麗な文字で刻まれていた。
 中央に立つ華奢な肢体の青年が、偉大にして最後の国王、ヒロ・リーベンスヴェルト。彼の笑顔は太陽のように輝き、あまねく人々に愛されたと伝えられている。彫刻の彼はその伝説通りに笑いながら、4人を軽く振り向いて、正面の地平を指さしていた。
 ヒロの向かって左横に腰を下ろした長髪の青年は、無敗の元帥レオンハルト・メルベイエ、通称ルージュ。雷名高き剣の名手の像は不思議と剣を帯びてはおらず、それは伝記にある通り、国の命運を分けた戦さのあと彼は生涯剣を抜かなかったと、そのことを示していると言われている。
 ルージュの後ろに立ち、書物を開いてペンを持っているのが、国家の頭脳と謳われた英才、ジュペール伯爵リヒャルト・ルイーズ、通称ロゼ。王政から共和制への移行の中心的役割を果たした人物で、義務教育の制度を作り、私財を投げうって貧しい学生を援助したと伝えられる彼の名を取って、この国の教育者に与えられる最高の栄誉は“ジュペール賞”と呼ばれている。
 ルージュの向かい、ヒロの右横で微笑む像はヨーゼフ・グロサリア、通称ジョーヌ。農民とともに生涯をかけて小麦の栽培と改良に尽くし、その後の歴史の中でこの国は何度も凶作に襲われたが、国民を何とか飢えさせずに済んだのは、彼と彼の父が作った優れた小麦の力であった。
 ロゼの右でヒロの肩に手を置いている長身の像は、カール・ツェルンベルク、通称ヴェエル。彼はその天才的な感性で素晴らしい建造物を幾つも造り、彼の作品と伝えられる石造りの橋は、その美しさによって“建設界の奇跡”と呼ばれ、今でも全世界から大勢の観光客を集めている。
 また5人の像の後ろには1枚の大きな石板があって、そこには彼らの両親および、末永い友情を築いたといわれる隣国の皇太子モリィと、妻のルナのレリーフが彫り込まれていた。アレスフォルボア侯爵の名前の下には、誰かが哀れに思ったのであろう、ルージュの兄で謀反人として死んだ、ルワーノの名もひっそりとあった。
 さらにそれだけではなく像の台座には、彼らを愛し彼らに仕え、同じ時代をともに生きた何人もの名前と略歴とが刻まれていた。
 ヒロに仕えた公爵家の侍従たち。サイトー、アマモーラ、バジーラ、シオリィ、ナーガレット、ジュヌビエーブ、ハッツネン、ツッキーノ、シベール。
 ルージュに仕えた侯爵家の侍従たち。スガーリ、チュミリエンヌ、ユッシーナ、ボルケリア、ティーエーヌ、クマパッシュ、ティーナ。幼い時からルージュの乳母子としてそばにおり、やがて彼の妻となったと伝えられるサヨリーヌ。その父親のサミュエル。
 ルージュの部下の兵士たち。初代警察長官シュワルツ。彼はチュミリエンヌと結婚し多くの子供たちの父親となった。警察学校校長ヴォルフガング。のちに知事となった伍長。忘れてはならないルージュの愛馬シェーラザードは、ロゼの愛馬オルフェウスに嫁いで穏やかな生涯を終えたとされる。
 ロゼに仕えた伯爵家の侍従たちについては、不思議なことがあった。どんな理由によるのかは不明だが、ロゼの没後伯爵家がどうなったのかは一切記録に残っていないのだ。しかし国内にジュペールを名乗る家がある以上、彼の代で血が絶えたとは考えにくく、ロゼの妻が誰だったのかは今でも歴史の謎であった。ある学者は彼のそばで一生を終えたと信じられている女官長ヒナツェリアであると言い、ある小説家は下働きのマレーネを妻に擬した物語を書いた。もしくは彼は生涯独身のままで、ベルリア国に嫁いだ姉のもとから養子を取ったとの説もあった。美しい貴婦人たちとジュペール伯爵の間には数々の恋物語が伝えられていて、今も女性読者たちの胸を熱くし、切ない夢を見させているのだ。
 ジョーヌに仕えた子爵家の侍従は、ドーラとイト・マーナの名前が残り、ヴェエルに仕えた男爵家の侍従にはマスミーナの名があった。彼ら彼女らの物語は5人の伝説とともに残り、心踊る歌や詩文やなつかしく暖かい短編小説などが、どこかの誰かによって作り出され、手から手へ心から心へと伝えられていた。
 
 いま、春立つ日の太陽はヒロの指さす地平から昇る。この星を照らす大いなる光が、今日もまた彼ら5人と、彼らを愛した者たちの上に降り注ぐ。時は流れ命の輪廻は愛や悲しみや笑顔や涙を縒りあわせた糸さながらに脈々と波打って、5人の伝説は、人の世のある限り永遠に、

――――美しい五重奏曲を奏で続けている。

< 完 >

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