『五重奏曲(クインテット)』
 

【 第1楽章 主題1 】

シュテインバッハ公爵家にようやく生まれた嫡男は、ヒロと名付けられた。大勢の召使にかしずかれ天使のように愛されていた彼が2つになったある晩、公爵家に賊が押し入り、ヒロを人質にして逃げた。父公爵は軍隊を総動員して賊を追ったが、首領及び一味を一網打尽にしたのに、首領の女房とヒロの2人だけはとうとう見つからなかった。
それから14年、ヒロを見つけるまで戻ってはならぬと命じられた執事(斎藤洋介さん)は、国内はおろか近隣諸国までをも回って、公爵家ご嫡男を探している。

その国の王家は「五色の御旗(みはた)」と呼ばれる家臣団に護られている。
その筆頭が、青地に銀色の獅子の旗、シュテインバッハ公爵家。
続いて、緋色地に金色の双頭の鷹の旗はアレスフォルボア侯爵家。
ピンクの地に宝刀とペンと薔薇の家紋はジュペール伯爵家。
黄色地に石の塔と麦穂の紋はヘルムート子爵家。
緑地に一角獣のシルエットはラルクハーレン男爵家。
五色の御旗の各家にはそれぞれ歳の近い子息がおり、彼らは宮中の人気者である。皆、各自の家の色をもじったニックネームで呼ばれていて、武芸・学問・芸術全般を、ともに競いあいながら身につけている。
ある日、侯爵家嫡男のルージュ(16歳)が、行方不明の公爵家のヒロの話題を持ち出す。もちろん2歳でさらわれた彼と会ったことはないが、いつか戻ってきたらヒロは必ず、このメンバーに入るはずだ。
 
ルージュは剣の名手で、御前試合でも負けたことはない。いずれ家を継ぐと同時にルージュは、王家の軍隊を全て指揮する元帥の地位を約束されている。アレスフォルボア侯爵家の領地はほとんどが海沿いであるから、彼は泳ぎも得意だ。陸軍の兵士も海軍の兵士も、いずれ自分たちの長となるルージュを非常に誇りに思っている。
ジュペール伯爵家のロゼは15歳だが、亡き父にかわって既に爵位を継いでいる。が実際は忠実な家臣(田山涼成さん)が、ロゼが政務の重圧に耐えられるようになる日まで、所謂摂政の立場で統括している。4人の中でロゼは一番学問が出来る。詩を作ったり楽器を弾いたりも上手であるから、王妃様のサロンにさえ列席することを許されている。いちおうもうレッキとした伯爵であるゆえ、それも可能なのである。
ヘルムート子爵家は代々、いわば農林大臣の御役についているから、嫡男のジョーヌ(14歳)は植物に詳しい。新しい小麦の改良をしつつ家畜の飼育などもすすんでやっている。意外な特技として料理が上手い。この国の食料庫を預かる家の跡取りにふさわしい大らかな人柄が、民たちにも慕われ、愛されている。
ラルクハーレン男爵家のヴェエルはまだ12歳だが、体は大きく大人びていて人づきあいも上手い。侍女たちに悪戯をして怒られたりもするが、愛嬌のある笑顔には国王陛下も勝てない。男爵家は建設大臣の家柄で、ヴェエルはものづくりが好き。古い時計を分解してぜんまいを取り出し、見事なオモチャを作ったりしては大人を驚かせている。
 
その4人がヒロのウワサをするが、つまりはどんな奴なのか皆目判らない。しかしルージュは自分の城に出入りしている密偵の1人から、どうやら最近、執事が何か重要な手がかりを掴んだようだと教わる。
王位継承権さえ持っているシュテインバッハ公爵家の嫡男、ヒロ。いったいどんな奴なんだろうと、剣の稽古の時も舞踏会で姫君たちと踊っている時も、ルージュは気になって仕方なかった。
 
さて執事は、諸国を流れあるいているジプシーたちの一団から、国境の鉱山の町に不思議な少年がいるという噂を聞き、その地に赴く。
多分16歳くらいだろうその少年はみなしごだが、町では知らぬ人のない人気者で、踊りが上手くて話好き、しかも驚くほどの美貌だという。
執事はそのジプシー女(木の実ナナさん)に、公爵ご夫妻のお若い頃の肖像画を見せたのだ。女は目を丸くして、その少年と公爵夫人(肖像画のみ中居2役)は生き写しだと証言した。
鉱山の町に着いてすぐ、執事は少年の居所を尋ねた。
昔、行き倒れの女にしっかり抱かれていた彼を、不憫に思った町長(森本レオさん)が拾ってずっと面倒を見てきた。
町長の屋敷の納屋で少年は暮らしている。執事は町長に訳を話して少年に会わせてもらう。少年がもしシュテインバッハ家の嫡男なら、家訓により生まれてすぐ家紋の獅子の彫り物を左肩にされているはずだ。そういえば町長はそんな印を見たことがある気がして、あわてて執事を納屋に案内する。
執事は少年を見て驚く。身なりは貧しく顔も汚れているが、ジプシー女の言った通り、まさに公爵夫人とウリふたつ。
左肩の入墨を確かめさせろと執事が言うと、少年は嫌がって納屋中逃げ回る。なんの騒ぎだと近所の人も集まってくる。
執事と町長が2人がかりで少年を押さえつけて、ボロシャツを無理矢理脱がすと、そこにはシュテインバッハ家の紋である獅子の印が、はっきりとしるされていた。
執事は「お探しいたしました若君、よくぞ、よくぞご無事で…!」と涙を流し、町長の家族や近所の住人も彼の身分を知って仰天し、一斉に地にひれ伏してしまう。彼は大きな目をキョロキョロさせてつぶやいた。
「何…。このおいらが…公爵家の跡取り…?」
 
ヒロはこの街を出たくない。ずっとここにいさせてくれと町長に泣いて頼むが、聞き入れられるはずはなかった。執事の手によってヒロは豪華な衣装を着せられ、馬車に乗せられる。人気者だった彼を町中の住人が見送ってくれた。仲のよかった少女に貰った、彼女の宝物の十字架を胸に下げて、ヒロは馬車の窓からいつまでも手を振り、ポロポロ泣く。
 
公爵家のご嫡男が戻ってくるというニュースは宮廷中を駆け巡り、ルージュは興味津々。
数日後、彼は公爵閣下じきじきに城へ呼び出される。白地に金糸の刺繍の正装で祗候し、公爵夫妻(夏八木勲さん・野際陽子さん)の前にひざまづくと、夫妻は
「紹介しよう。私たちの1人息子だ。」と言って彼にヒロを会わす。
「いきさつは知っていようが、何分にも数奇な育ち方をした子だ。今後そなたからこの子にいろいろなことを教えてやって欲しい。生まれ月がそなたより少し早いだけで、同い歳だ。手加減は無用、全てそなたに…いや、そなた『たち』に任せる。」
ルージュはヒロを見る。彼はぶすっと不貞腐れて足をぶらぶらさせている。
「判りました。」と応えると夫妻は部屋を出ていく。2人きりになってから彼はヒロに手を差し出し、
「アレスフォルボア侯爵家の、ルージュ…でいいや。よろしくな。」と笑いかけるが、ヒロはチラリと彼を見ただけでフンと目をそらす。
 
ルージュはヒロをバルコニーへ連れていく。そこにはロゼ・ジョーヌ・ヴェエルの3人が来ている。
1人ずつ紹介されてもヒロは、口もきかずにうつむいている。怖いもの知らずのヴェエルが笑って、
「俺より年上なのに、なにコイツ、ちっけ〜!」とポンポン頭を叩くと、ヒロはいきなり殴りかかる。
3人は慌てて止め、ルージュが当て身をくらわすとヒロはあっさり気絶する。芝生の上に彼を寝かせて、4人はやれやれと溜息をつく。
「こいつが本当に公爵家のあととりなのかよ…。」
「子供の頃にさらわれたんじゃ、しょうがないよ。ずっと鉱山で働いてたんだろ。」
「生活環境が激変したせいで、神経質になってるんだな。」
「気長に面倒みるしかねぇだろ。公爵にもそう頼まれた。」
ルージュは小枝をポキンと折って口にくわえ、ニヤッと笑う。
「ただし、手加減はご無用だと。まぁ俺たちでびしびし鍛えて差し上げましょ?」
 
5人の日課はほぼ決まっていて、それぞれの城を順番に訪れては、皆で専門の教師にさまざまなことを教わる。ヒロは嫌でたまらないが、公爵夫妻の厳命と泣き落としにより渋々従っている。もちろん彼には判らないことばかりだ。
ルージュの城では乗馬・剣・弓・兵法などを習うのだが、ヒロは、馬には前後逆向きにまたがるし、剣はたて続けに5本折るし、弓はとんでもない方へ飛ばして危うくロゼを射殺しそうになる。兵法については講義だが、言葉の意味からしてちんぷんかんぷん。ただ(意外なことに)ヒロは読み書きは出来る。町長に教えて貰っていた。
ロゼの城で教わるのは学問。歴史・文学・外国語・芸術、加えて楽器の演奏である。これらもヒロは全然駄目。ジョーヌの城では気象と天文学と医術の基本を、ジョーヌの父つまり現在のヘルムート子爵(田村正和さん)が教えてくれる。ヴェエルの城ではこの国及び世界の地理と建築学を習う。1週間のうちあとの2日は狩りや遠乗りに行き、もう1日は舞踏会だ。
1か月が過ぎてもヒロは誰ともうちとけず、ろくに口さえきかない。
 
ある日ジョーヌの城で子牛が生まれ、彼らはそれを見に行く。まだ1人で馬に乗れないヒロを、ルージュは自分の後ろに乗せてやる。牛小屋は城の外の下屋敷にあって、ジョーヌは下男に混じって敷き藁を交換してやっている。今までずっと納屋で暮らしていたヒロはそういうのは得意であるから、いきなりジョーヌの手から藁を取り、「ちげーよ、貸してみ?」と言ってテキパキ世話を始める。
「頑張ったな。偉いぞ。」と母牛をねぎらう笑顔はまるで天使のようで、4人は思わず見つめてしまう。
「こいつ、ひょっとして寂しいんじゃねぇか…?」ルージュはふと思った。
 
その晩は嵐になった。寝室で熟睡中のルージュをサヨリーヌが起こしに来る。
「…ンだよ、寝こみ襲うならもっと早い時間に来いよ。」とブツブツ言う彼の裸の肩にガウンを着せかけながらサヨリーヌは言う。「ただ今公爵家より火急の極秘のお使者です。若君にお会いしたいと。」
寝惚けまなこだった彼は次の瞬間飛び起きる。ずぶ濡れの使者は告げる。ヒロが城を抜け出して行方不明になっているのだ。
 
ルージュはヒロを探しに行こうと決意する。公爵家の使者に
「お前はこのことをすぐにロゼとジョーヌとヴェエルに知らせろ。」と命じ、サヨリーヌに着替えを持ってこさせる。その夜、衛士の詰所には偶然スガーリ連隊長がいた。ルージュは彼だけを連れて、雷鳴とどろく横なぐりの雨の中、マントをひるがえして馬を飛ばす。
馬上で彼は考える。ヒロは馬に乗れないからそんなに遠くには行っていない。しかもこの国の地理をまだよく知らないはずで、そんな彼が向かうとしたら…。
その時、向こうから蹄の音がして、「ルージュ!」と駆け寄ってきたのはロゼ。従者も連れずに飛んできたのだ。
2人はヒロの行き先を推理するが、ルージュはハッと気づく。
「多分ジョーヌの下屋敷だ。あいつが笑ったのは子牛を見た時だけだから、行きたいとすればそこしかない。」
今になってルージュには、ヒロの寂しさが判った気がする。
スガーリを含む3人は再び馬を走らせるが、そこでロゼが言う。
「でもルージュ、ジョーヌの城は街はずれで川を一つ越さなきゃならない。あの川は大雨がふると増水するんだ。危険じゃないのか?」
いつも冷静なロゼらしい判断だがルージュは、「ンなこと言ってる場合かよ!」と馬足を緩めない。
雨はますます激しくなり、天を裂くような稲妻がルージュの緋色のマントを闇の中に浮かび上がらせる。
 
街はずれの川は普段はせいぜい膝上までの深さで幅も5メートル程度だが、ロゼの言った通り、上流の地形の関係で雨が降るとすぐに増水し、犠牲者を出すので以前から問題になっていた。
その川のほとりにたどりついた3人(ルージュ・ロゼ・スガーリ)は、向こう岸で松明を振っているジョーヌとヴェエルを見つける。
「いたかー!?」
「こっちにはいないよー!」
叫びあう声すら雷鳴にかき消されそうだ。
ひときわ強い稲妻が暗闇を斜めに走る。ルージュは思わずマントで顔を覆おうとして、ハッと気づき目をこらす。視力のいい彼には、川べりに何か白いものが見えた。彼は命ずる。
「スガーリ、川の真上に照明弾を上げろ。」
「しかし若君この雨では…」
「低くていい。出来ないか。」
「…何とかやってみましょう。」
スガーリはマントの下から銃を出し弾をこめる。ズバッ、と打ち上げた弾は花火のように光って、パーッとあたりを照らし出す。
ルージュの目は正しかった。いきなりの閃光に驚いたヒロは水際にしゃがみこんでしまう。「ヒロ!」と呼ばれて彼はビクッとする。川の左右で彼らの松明が揺れている。雨と涙でびしょ濡れの顔でヒロは叫ぶ。
「来んなぁーっ! もう俺を放っといてくれよぉー!」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ!」とルージュは怒鳴り、マントを脱いでロゼの手に押しつけ馬から身を踊らす。増水しているその川には普段は砂利の河原があるが、今はヒロの立っている堤の足元まで水がきている。ルージュは濡れた草に足を滑らせながら堤の斜面を駆けおりるがヒロは
「それ以上近づいたらこっから飛び込むかんな!」と脅す。
「何考えてんだよ…」
ゆっくりと歩み寄りながらルージュは言う。
「何が不満なんだよ。お前が戻ってくんのをどれだけの人間が待ってたと思うんだよ。」
しかしヒロは嗚咽混じりに叫ぶ。
「違う、俺じゃなくたっていいんだ。公爵家を継げる奴なら誰だっていいんだよ! みんなでよってたかって『これからはこの家にふさわしいふるまいをしろ、お前は公爵家の後継ぎなんだ』としか言わねぇじゃねぇかよ! そんなのおいらには判んねぇよ…。もうなんもかんも嫌なんだよ、あの街に帰りてぇんだよ!」
「な、落ち着け。判った。判った、話は聞いてやるから。な。だからとにかくこっち来い。な?」
ルージュは両腕を差しのべて近づいていく。
「来んなよーっ!」とヒロは後ずさる。
その足がズルッと滑る。危ない、と飛びついてルージュはヒロの手を掴みもう片方の手で支えを探すが、濡れた草は無情にも彼の手を払いのけて、2人は濁流の中に落ちる。
「ルージュ!!」
「若君ーっ!!」
ロゼたち4人は堤を下流へ走る。スガーリは再び照明弾を上げる。川の中に2人の顔が浮き沈みする。いくら泳ぎが得意なルージュでも、片手にヒロを抱えている上に流れが早すぎて、何度も水を飲み溺れかける。
堤を馬で走りながらロゼは気づく。この先川は大きく蛇行していて、そのあたりは深い淵になっている。そこまで流されたらいかなルージュでも泳ぎきることは不可能だ。
「ジョーヌ! ヴェエル!!」とロゼは呼ぶ。
「ダイオウカズラの蔓を切れ! ロープを作ってルージュに投げろ!」
「判った!!」
2人は堤の脇の疎林に茂っている丈夫な蔓草を根から引き抜き、先端に太い鏑矢を結びつける。
「早くしろよヴェエル!」
「判ってるよっ!!」
2人は馬にムチを当てて先回りし、ヴェエルは2人引きの剛弓を引き絞る。
「南無三、届いてくれっ! ルージュ! 掴まれーっ!」
ヒュルルル――ッと風を切って鏑矢は川に飛び、ルージュの目の前に落ちる。
ジョーヌとヴェエルは渾身の力で踏ん張り、ヒロを抱えたルージュは堤に上がる。ヒロはぐったりしているが、ルージュはしばし四つん這いのままで激しく咳込む。
「大丈夫? ルージュ!」
「ああ…。ちょっと水飲んだけどな…。」
「ね、まさかコイツ死んじゃったんじゃ…」
「いや、すぐに気絶したから水もほとんど飲んでねぇだろ。」
ルージュがようやく起き上がったところにロゼとスガーリがやって来る。上流の橋を渡ってこちら岸に回ってきたのだ。
ロゼに渡されたマントで、ルージュはヒロの体を包み、抱き上げながらスガーリに、お前はすぐ公爵家に行ってヒロが無事だったと伝えろと命ずる。彼はルージュが心配だが、大丈夫だと言われて駆けていく。
 
このままではヒロの体が心配だ。ヴェエルが「確かこのへんに古い小屋がある。」と思い出し、皆そこへ向かう。ボロボロだがとりあえず風雨は凌げるその場所で、彼らは火を起こす。
意識のないヒロにルージュは「ちょっと手荒だけどな」と指をボキボキいわせ、背中に1発、喝を入れる。
無事息を吹き返したものの、体力を使い果たしたヒロは床から起き上がれない。
「ルージュ、お前その手…。」
気づいたのはロゼだ。蔓で切ったのか血が流れている。
「ああ、こんなもん舐めときゃ治る。」
「駄目だよ、それでなくても泥水に漬けてるんだ。破傷風にでもなったらどうする。」
ロゼが言うとジョーヌは「俺、薬草探して来る。そいつ用の強壮薬もね。」と言い、ヴェエルを連れて出ていく。ロゼはありあわせの道具で、薬草を煎じる支度をする。
 
翌朝は嘘のような快晴。鳥の声にヒロは目をさます。起き上がると口の中がとんでもなく苦い。
「うげげぇ…なんだよコレ!」
袖で口をゴシゴシぬぐって彼は思い出す。夕べ誰かにおさえつけられ鼻をつままれて、無理矢理何か飲まされた。こうして生きているからにはあれは多分薬だったのだ。
ヒロはあたりを見回す。すぐ隣にはルージュが、ほとんど裸で添い寝してくれている。ジョーヌとヴェエルは戸口を守るように壁にもたれてスースー眠っている。少し奥には、きちんとマントを敷いた上にロゼが丸くなっている。ヒロはポリポリと頭を掻いて、ルージュのマントにくるまったまま、皆を起こさないようにそーっと外に出る。
高台から景色を見渡してヒロは、ここは何て綺麗な国なんだろうと初めて思う。するといきなり背後から、
「この野郎、また逃げよったってそうはいかねぇぞっ!」とルージュに羽交い締めされる。
「おま、痛ぇよ離せよ! もう逃げねぇから離せ!」
振り払うとルージュは下着だけの姿でジロリとヒロを睨む。
「お前が助けてくれたんだよな…。」
手と脛に包帯をしているルージュに、ヒロはマントの中で小さくなって
「ありがとう。ごめん。」と頭を下げる。つい微笑みそうになってルージュは不機嫌顔を取り繕い、
「なんで逃げようなんてしたんだよ。」と聞く。
「うん…。」
ヒロは草の上に座る。ルージュも隣に並ぶ。
ヒロはルージュに話し始める。
「俺、ずっとみなしごだと思ってたんだけど、でも俺を拾って育ててくれた町長にいっつも聞かされてたんだ。俺の母ちゃんは道端で俺を抱いて死んでた。ぼろぼろの服着て、どっかで売ったらしくて髪の毛なんか丸坊主だったって。なのに俺は丸々と太って、すげぇ元気だったんだって。
つまり俺の母ちゃんは、自分はそんな苦しい思いをしても、俺にはひもじい思いさしてなかったんだよ。命がけで、守ってくれてたんだ。だから、町長はこう言った。
『どんな理由があったのかは判らないけど、お前はただのみなしごじゃない。そんな風に母親に愛されてたんだ。だから誇りを持て。お前は、みんなに愛される運命なんだ。』って…。」
ルージュはヒロがさらわれた時の話を両親に聞いて知っている。首領を捕らえてもとうとうヒロが見つからなかった理由が、ルージュには今判った。首領の女房はヒロを逃亡のための人質にしようとしたのではない。彼女はただただヒロが可愛くて、手放せなかったに違いない。
「それなのによ…」ヒロは涙声になって続ける。
「急に公爵の跡取りだとか言われて、城の奴らみんなで母ちゃんのこと悪く言うんだ。盗っ人だとか極悪人だとか。そんなん俺、許せなくてさ…。
でも誰も俺の話なんか聞いてくれねんだ。街での楽しかったこととか話そうとしても、誰も聞いてくんねぇんだよ。礼儀作法だの何だのうざってぇことばっかガミガミ言われて、友達気取りの奴らもみんなスカしてやがって、特にあのルージュっつう……」
ヒロはそこでしまったという顔になる。
ルージュは意地悪く「ルージュが…なに? どうしたって?」と尋ねる。ヒロは小声で答える。
「スカした奴だと思ってたけど…けっこういい奴かな〜って…なんかそんな気が…してきたかも知んね…。」
「へー。」
ルージュは流し目でヒロを見、とうとう吹き出してしまう。2人は初めて声を合わせて笑った。
「だけど、公爵…お前の本当の親もさ、必死でお前のこと探したんだぜ。」
ひとしきり笑ったあとルージュは言う。
「お前の誕生日が来るたんびに国中の教会に鐘鳴らさして、どうかヒロが生きていますようにって、公爵夫人なんか夜通し祈ってたんだ。そりゃ、礼儀だ何だうざってぇかも知んねぇけど、しょうがねんだよ。お前んとこはこの国で王家の次に身分の高い家だかんな。それなりのオツトメがさ、あるっつーか。権力と束縛は、ま、ある意味ギブアンドテイクでしょ。」
ヒロは目をパチクリさせて
「え、なに…ギブミーチョコレート?」
「お前さ、幾つよ…。」
ルージュが呆れかえった時、ジョーヌとヴェエルも起きてくる。
「元気になったじゃん、よかったね!」と言う2人にも、ヒロは礼を言う。5人の心がようやくひとつになった…と思いきや、
「あれ? ロゼは?」
4人は小屋に戻る。
ロゼは眉をしかめてガクガク震えている。
「おい、コイツすごい熱!」
「うっそ、やべぇのはそっちかよっ!」
ロゼを担いで4人は外に出る。ヒロはルージュの馬に、朦朧としているロゼはジョーヌの馬に乗せられて、それぞれ城へ戻る。
 
上半身裸の上に緋色のマントだけ羽織った姿で、ルージュはヒロを送り届ける。
公爵夫人は現国王の姪で深窓の貴婦人であるから滅多に人前に姿を見せないが、泣きながら階段を駆けおりてきて「ヒロ!」と呼び彼を抱きしめる。
「お願いだからもうどこへも行かないでおくれ。母を悲しませないでおくれ…!」
ヒロは少しとまどうが、ルージュに聞いた話を思い出してようやく素直になれた。
「うん、うん判った。もうこんなことはしない。母ちゃ…いや、母上のおそばにいます。」
父公爵の目にも光るものがある。
「そなたのお陰だ。感謝するぞルージュ。」
ルージュはひざまづいて一礼すると、バサリとマントを翻して城を出る。
 
侯爵家に帰りついたルージュは、目を真っ赤にしたサヨリーヌに迎えられる。
「若君! 何という格好をなさっておられるのですか!」
彼は知らん顔で「スガーリは?」と聞く。
「連隊長はこの私がきつく叱っておきました。まぁ彼がついていながら若君を何という目にお合わせするのか…。だいたいですね、この際だから言わせて頂きますよ。若君の体は若君おひとりのものではございません。この国の軍隊を束ねるアレスフォルボア家の…」
ルージュはくるっと振り返り、
「はいはいはい判ってます。俺の体は俺だけのものじゃありません。俺の全てはここにいるサヨリーヌ様のものですし。…風呂入んぞ!」
重いマントを、ぶわさっと彼女の頭に放り投げ、彼は大股に歩いていく。
浴室の準備もサヨリーヌの仕事だ。大型の猫足の浴槽にお湯を張ってシャボンを入れ、そこに薔薇の香油を加え最後に深紅の花びらを散らす。
白大理石の床のあちこちには、南国からの貢ぎ物であるメイデン・ヘアーという羊歯が柔らかな葉を茂らせている。
服を脱いでルージュは浴室に入ってくる。子供の頃から側にいるサヨリーヌに彼は今さら裸を隠したりしないが、もちろん彼女も躾正しき貴族の娘であるから、無礼な視線などは決して当てない。
ザブッ、と浴槽に漬かるとルージュは、両肘をヘリにかけ体を伸ばす。白い泡が薄く水面を覆っている。サヨリーヌは彼の髪と、続いて背中を洗ってやる。ルージュは気持ちよさそうにくた〜っとしている。…と、彼女は背後に不審な物音を聞く。
「何者!?」と立ち上がって音のした方の扉をあけるが、そこには誰もいない。
「くの一。」
彼女は低く呼ぶ。するとどこにいたのかくの一は、彼女の真後ろで、
「は、こちらに。サヨリーヌ様。」とひざまづく。
「いま曲者の気配を感じました。ただちにあたりを調べなさい。」
「判りました。」
しかしくの一は知っている。サヨリーヌがあけた扉の真裏には、チュミリエンヌとユッシーナ、それにフライ返しを持ったボルケリアまでもが、押し合いへしあいひそんでいた。
 
食事の後、ナプキンで口をぬぐいながらルージュは、外出の支度をしろとサヨリーヌに命じる。
「お戻りになってすぐだというのに、今度はどちらへ行かれます。」
「ん、ロゼんとこ。あいつ熱出してたから…様子見に行ってやんねぇとな。」
 
さてジョーヌに送られて城に帰りついたロゼは、ヒナツェリア女官長の手ですぐさまベッドに押し込まれる。
「いったい何があったのですか。公爵家の若様は?」と彼女はジョーヌに事の次第を聞く。ジョーヌは丁寧に教えてやる。
「ロゼの機転がなかったら、ヒロもルージュも危なかったんですよ。」と言われ、ヒナツェリアは、さすがは我が君だと誇らしく思う。
急ぎ呼ばれた医者は、一晩雨にうたれたせいで風邪の気(ふうじゃのけ)が取りついただけだと診断する。
「お体の暖まるものを召し上がって、1両日安静になすっていれば問題ございませんでしょう。この解熱剤を飲ませて差し上げて下さい。」
ヒナツェリアは早速消化のよい食事を作らせ、ロゼのベッドに運ぶ。とろんとした目を大義そうにあけて、
「あとでいいよ…」と言うロゼに彼女は、
「いいえなりませぬ伯爵。召し上がらなくてはお薬も頂けませんよ。」と強引に食べさせる。
 
午後の陽が傾き出す頃、ロゼの城に1台の馬車がやって来る。バラバラと駆け寄った門番たちは、馬のつけている紋を見てサッと左右に引く。青地に銀の獅子、シュテインバッハ公爵家の馬車だ。
侍従長と女官長を先頭に、召使たちは正面玄関で客人を出迎える。馬車を下りてきたのは華奢な少年。真っ白な羽根飾りのついた帽子を脱いで作法通り左脇に抱え、彼は名乗る。
「シュテインバッハ家の、ヒロ・リーベンスヴェルトです。ジュペール伯爵のお見舞いに伺いました。」
 
薬のせいでうつらうつらしていたロゼは、聞きなれたヒナツェリアの声と、若いが少しハスキーな、聞いたことのある声が何か言い争っているのを遠くに聞く。
「いいじゃねぇかよ顔見るくらいよぉ。まだあいつに礼言ってねんだよ。こいつ置いたらすぐ帰っからさ、んな、かてぇこと言うなよぉひなっつぅ。」
「ヒナツェリアでございます! 伯爵は今伏せっておるところでございます。お見舞いのお品は私どもにお預け下さいませ、後日必ず伯爵よりお礼の使者を…」
「ンなこと言って自分で飲む気だろぉ! たっけぇんだぞコレ!! おいらそんなクチグルマにゃダマされねーかんなっ!」
「…ヒロ。」
部屋の入り口でつかみあいになりかかっている2人を、ベッドに身を起こしてロゼは見る。
白い絹のタイツになめし革の靴、胸元と袖口には豪華な手織りのレースをつけて、裾は腰より少し下の青い胴着にフリンジ付きのサッシュという、どこから見ても立派な公爵家嫡男のいでたちをしているヒロに、ロゼはつい「孫にも衣装だな…」とつぶやいてしまった。
けれどよくよく考えてみれば、ヒロは2歳でさらわれるまでは公爵の城で育ったのだ。おのずと身についている侵し難い気品があって当然だ。…などと考えているロゼの前に、ヒロは、
「よぉー! よかったそんなに顔色悪くねーじゃん!!」
とニコニコ近づいてくる。そばにあった椅子を適当にズルズル引き寄せて座り、
「あ、そだ、これねこれね、見舞い。うちの親が伯爵に持ってってやれって。とっておきのワインだってさ。俺にゃよく判んねーけど、買ったら多分たっけぇと思うぞぉ。お前ってそういや伯爵様なんだよなー。偉ぇんじゃん。」
しゃべるとやはり平民育ちだ。
「ありがとう。素晴らしいワインだ。」
ロゼは受け取り枕元に置いて、ヒナツェリアにお茶の用意をするよう言いつける。
彼女が行ってしまうとヒロは小声で、
「なぁなぁあの女。ひなっつとかゆーの。なんかおっかねーな! お前いつもあんなんに監視されてんの?」と共犯者のように囁く。ロゼは笑って、
「うちの女官長だけど別に怖くはないよ。ああ見えて眼鏡はずすとけっこう美人なんだ。」
「うっそ、まじぃ?」
「ほんとほんと。」
「ふーん…。」
ヒロは部屋の中を見回す。
ロゼの城は大貴族にしては大きくないが、その代わり細部に至るまで、既に芸術と呼んでもいい最高の意匠が施されている。ロゼの部屋の家具什器は全て、骨董的価値のある年代物だ。
翡翠の彫刻のワゴンに乗せてヒナツェリアがお茶を運んで来ると、ヒロは彼女の顔を、鳥のように首を回してじ―――っと見つめる。本当に穴があきそうな気がしてロゼは、「ヒロ、ヒロ!」と袖を引っぱり、やめさせる。
「あ、うんめーコレ!!」
ベネチアン・ガラスのカップに注がれたマスカットの香りのするお茶を、ヒロは嬉しそうにすする。ロゼは聞く。
「ところでヒロは? 具合はもう大丈夫なの?」
「なに、俺? うん、もう全然へーきへーき。帰ったら腹減っちゃってよぉ、朝からメシ3杯食った。」
ロゼは気になっていたことを尋ねる。
「なぁ。それで公爵には何か言われた?」
「なんも。」
「ふーん…。」
「あ、たださ、お前んち着いたらこういう風に名乗れって、名前の言い方だけしつこく覚えさせられた。えーと何だっけかな俺の名前。シュテインバッハが苗字だろ、んで、ヒロなんとか。…あー何だっけなぁ。1回言ったら2度と言えねーよ。ハーゲンダッツじゃない…。何とかベント…」
「リーベンスヴェルト。」
「それっ!!」
ヒロはぽんと膝を叩き、
「お前アタマいいね! 俺が知んねーのにちゃんと覚えてんだ。」
「当たり前だろう、シュテインバッハ家のあととりの名前だ。」
ヒロは大きな目をくるくるっと動かして言う。
「…な。俺んちってさ、そんなすげぇの?」
何だコイツという顔をロゼはする。
「知らないのか? 『五色の御旗』の筆頭なんだぞ?」
「いやそれはアイツにも聞いたけどよ、ルージュにも。国王の次に身分が高いんだって。」
「そうだよその通りだ。今の王家に何かあったら、公爵家は王位を継げるんだからな。」
「ふーん。…な〜んかさぁ…めんどっちぃなそんなの。わっけ判んね。」
さも嫌そうに顔をしかめるヒロを、ロゼは感心半分・呆れ半分に見つめる。
そこへ再びヒナツェリアがやって来る。戸口で一礼して、
「ただ今アレスフォルボア家の若君がお見えになりました。」
「ルージュが?」
「あいつがぁ?」
ヒロも振り向いて部屋の入り口を見る。略正装のオレンジ色の上着を着て、片手には無造作にジャスミンの花束を持ったルージュが立っている。
「よーぉ! よく来たな、入れ入れ! って俺んちじゃねーけどよ。ほら、ここ座んなここ。」
ヒロは椅子をもうひとつ引きずってきて、
「あれぇ? なんかこれ足がゆるいぞ? 壊れかけてんじゃねぇか?」としゃがむ。
「こういうのは1回分解してツギした方が…」
と今にもバラしそうな彼をルージュは、
「やめろ馬鹿、触んな!」
と止める。何せローマ王朝時代の逸品。ガタが来ていて当然だ。
と、ヒロはすぐ花束に興味を移して、
「うっわ、すっげ花束ー! いい匂いー! ありがとな!!」
「いやお前にじゃねぇっつの。ほら。大したモンじゃねぇけど伯爵様好みだろ。」
ルージュはそれをロゼに渡し、少し離れたところにある繻子張りのソファーに座る。ロゼは目を閉じて深々と香りを楽しみ、ありがとうと礼を言う。
ヒナツェリアがルージュのためのお茶をいれに来る。ヒロは花束をわしっと掴んで、
「な、これさ。これ花瓶にいけてくれよ。早く水吸わしてやんねーと可哀相じゃん。あ、いま忙しっか。んじゃ俺やってやるわ。台所どこ台所。」
返事も待たずに花束を持って廊下に出ていくヒロを、ヒナツェリアは大慌てで追いかける。そんな2人を見てルージュとロゼは楽しそうに笑う。
 
「お待ちど〜! ほぉらこうすっと見事だぜぇ。」
ヒロは東洋渡りの古伊万里の花器に、ジャスミンを山盛りにいけて持ってくる。どうやらヒナツェリアをふりきったらしい。
「ここ置くか。な。そうすりゃよく見えんべ。」
ロゼのベッド脇の棚にそれを飾って、彼はニコニコと椅子に戻ってくる。
「ところでこいつの呼び名どうするよ。」
思い出したようにルージュは言う。
「呼び名?」
とヒロは問い返す。
「ああ。ほら俺らって一応、色の名で呼び合ってんじゃん。別に決まりって訳じゃねぇけど、本名はあんまり大っぴらにすんなっつうのはあっかんな。」
「何で。」
「いや、だから一応。」
「ふーん。…やぁっぱよく判んねんだよなそのへんがな。」
小首をかしげるヒロを横目で見てルージュは言う。
「ま、流れで行きゃお前は『ブルゥ』なんだけど。」
「ブルゥ? ブルゥぅ? ヤだよそんなのぉ。ヒロでいいよヒロでぇ。これ以上いろんな名前言われてもおいら覚えきんねって。」
ロゼはクスッと笑う。
「いいじゃん、彼はもう『ヒロ』だけで。」
「ンだよ珍しいな、格式にうるさいジュペール伯爵が。」
「いや確かに面倒臭いよ。今さらブルゥって感じでもないし、ヒロのままでいこう。」
「ん、それでいこう。それに決定。最っ高の案だわ。」
「てめぇが決定すんなよ。」
「だって自分の名前なんだから自分で決めて当たり前じゃねぇかよぉ。」
3人の言い合いは、やがて笑いにまぎれてしまう。
「だけどさぁ…」
ヒロはまた顔をしかめて言う。
「来月のさ、聖ローマ祭のちょっと前に、おいらのお披露目の舞踏会やるとかって親に言われてよぉ。だからそれまでに一通りの作法は覚えろって、そんなん無理だっつーの。なぁそう思うだろ?」
「いや無理だじゃ通んねーだろ。お披露目しない訳にもいかねぇし。」
「…やっぱそうかぁ?」
「たりめーだ馬鹿。」
ヒロは天井を仰いで、
「嫌だよぉ〜。ユーウツだよぉ〜。おいらそんなんやりたくねぇよぉ〜。」
と駄々をこねる。ルージュとロゼは顔を見合わせ、お互い同じことを考えていると知る。
「したらしょうがねぇから、俺らが特別授業してやるよ。」
「え?」
ヒロはくるんとルージュに向く。
「今も5人でそれぞれのウチ回っていろいろ教わってっけど、それだけじゃ来月に間に合わねぇだろ。しばらく狩りと遠乗りパスすりゃ時間は取れっから、会話と作法と踊りと、あと最低の護身術な。それだけ覚えときゃとりあえず何とかなんだろ。」
「え〜ぇぇぇ…」
「ンだよその嫌そうな顔はよ!!」
「だってよぉー、ヤだもんよぉ〜。」
ぶーぶー言いつつもヒロは最後に「よろしくお願いします」と2人に頭を下げる。
そして翌日からジョーヌとヴェエルも交えた4人の、『お披露目に向けたヒロへの特訓』が始まった。
 

( 第1楽章 主題2 へ続く )
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